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 1 君を守り、君を愛するその為に。

 なまぬるい空気に、肌がベタついた。思わず、きちんと着込んだスーツの襟に手を伸ばしかけ、カナダはいけない、と思いなおす。ボタンをひとつ、ふたつ開けた所で、この気持ち悪い湿度から逃げられるわけもないのだ。だらしなくなってしまうだけだし、これくらい我慢しなくては。それに、すぐまた会議だ。中々進まない議題に、気ばかりが滅入っての休憩時間。たった十五分間の休みだから、誰もがすこしばかり、急いていた。
 そんな中、カナダだけがのんびりと、廊下に立って外の景色を眺めている。背後では忙しく走り回る、全く休憩になっていないであろうたくさんの気配がするが、意識に引っかからない。普段ならば手伝いを申し出る所なのだが、そんな気持ちにもなれなかった。ざわめきが過ぎていく。外では窓に細く線を引く程度、雨が降っていた。その、薄い水の膜の向こうに日本庭園はある。職人の手によって整えられた、温かな緑。
 ただそこにあるだけで、優しさを分け与えてくれるような木ばかりが植えられていた。目や気持ちを安らがせながら、カナダはそっと時計に目を落とす。休憩時間の終わりまで、あと八分だ。まだ戻らなくていいかな、と考えて、カナダはそぅっと、そぅっと息を吐き出す。気持ちは和んでも、気分がどうしても上向かない。雨のせいだろうか。感傷的な気分になってしまって、自分では気持ちを持ち上げる事ができなかった。
 不意にカナダは、温かなミルクティーが飲みたいな、と思った。喉が渇いている訳でもないのに。それにまつわる優しい想い出を飲みこむように、体が、それを欲しがっていた。ほっこりと白い湯気が立つ、甘いミルクティー。火傷するなよ、と愛しげに笑いながら差し出される白いティーカップ。指がかじかむ寒い季節。暖炉で、薪のはぜる音が響く。大切な思い出だ。けれどそれは、遠くにある。今は、取り戻す事が出来ない。
「……カナダ、さん?」
 戸惑いがちにかけられた声に思い出から還り、カナダはきょとりと目を瞬かせて振り返った。カナダから数歩離れた場所に、立っていたのは黒髪に黒い瞳の華奢な青年だった。すっと伸びた背筋が揺るがぬものを感じさせる、極東の島国。日本だ。こんにちは、と淡く微笑んで頭を下げられるのに、カナダは慌てて背を正す。こんにちは、と慌てて返せば声が震えてしまって、落ち着きある笑い声がやわらかに空気を振るわせた。
「どうされました。お疲れですか?」
 ふんわりと柔らかに響き、意識を和ませてくれる声だった。そこではじめて、ぼんやりしている自分を気遣って声をかけてくれたのだと理解したカナダは、ぶんぶんと首を横に振って手を動かす。とんでもない、と思った。今回の会議場は日本で、そしてホストも同じく『日本』だ。会議中こそアメリカの傍で静かにしているものの、細部にまで気を配り、そして休憩時間もなんのそのと忙しく駆け回っていた、その筆頭なのである。
 ちがう、ちがう、と慌てのあまり言葉にならず、幼い仕草で否定するしかできないカナダに、日本はクスリと笑ってみせた。艶やかな花のように、綺麗で鮮やかな笑みだった。あ、と思わず動きを止めるカナダに、音もなく寄った日本は背伸びをして手を伸ばす。すこしだけ失礼します、との囁きに前後して、慣れない香りがカナダの鼻先をこすった。香(こう)と呼ばれる日本独自の花の香だと、気がつく前に頭が撫でられる。
 よし、よし、となんでもないこどもをあやすように撫でて、日本はカナダの目を覗き込んだ。淡い萌黄のような薄緑と、極寒の空に咲くオーロラの紫。その二種類の色彩がゆらゆらと揺れ、混じり合いながら保たれている、ごく珍しい瞳だった。それでも、浮かぶ感情はひとと同じもの。困惑を強く浮かべて瞬きをするのに、日本はふふ、と笑いながら問いかける。
「どう、されました」
「日本さん、こそ」
 どうかしたんですか、と戸惑いがちに付け加えられた言葉に、日本はなんでもないことのようにホストですから、と告げた。
「会議で来て頂いているのは重々承知の上ですが、それでも日本に来て頂いている以上、その間は心健やかに過ごして欲しいと思います。……というのも、まあ、本当なのですけれど」
 ご兄弟そろって気分が優れないようですので、と苦笑いしながら囁かれて、カナダは思わず息を飲んだ。アメリカの体調が優れないのであれば、それはもうそのまま世界的な危機だからだ。慌てて駆けつけようとするものの、しかしアメリカの影響を直に感じてしまうのが常の日本が平然としていることに気がつき、カナダは走り出そうとした足を止める。不意に、窓の外の雨音が強く耳に忍び込んだ。外では、雨が降っている。
 精神的な息苦しさを感じながら口を開いて、カナダはそれは、と呟いた。それはつまり、国として体調が悪いのではなく。個人的な『マシュー』、もしくは『アルフレッド』が気鬱になっているだけなのか、と。日本は静かに頷いて、弱く息を吐き出した。窓を叩く雨の音に、消えてしまいそうな吐息。どこかのんびりと呆れながら、日本はまったく、と言葉を吐きだして行く。
「あのすっとこどっこいがどうしていようと、カナダさんが一緒になってぼんやりしていようと、私はわりとどうでもいいんですけれどねぇ……お二人で元気をなくされておりますと、我が心の萌えアイドル、イギリスさんにまで影響出るので」
「え……え、えええと」
「おや、すみません」
 にっこり笑ってぽすん、と音が立ちそうな可愛らしい仕草で口をふさがれても、カナダにとっては素晴らしいほど今更だった。この色んな意味での東洋の神秘が、かつての同盟国にして七つの海を支配していたカナダの育ての親を溺愛しているのは知っていたが、目が笑っていない微笑みを向けられることは想像していなかった。イギリスさんが勘違いして落ち込むだろうが元気出せすっとこどっこい、と目が語っている。
 怖い。ひたすら怖い。果てしなく怖い。チェーンソー付きのアメリカよりずっと怖い。思わず一歩足を引いて壁にぶつかりながら、カナダはめいぷるめいぷる、と呟いて首を横に振った。なにを否定したいのかよく分からなかったが、肯定したら死んでしまう気がした。精神的に。むしろ会議のホストという大役に地味にストレスを溜めこんでいたらしい今の日本なら、それくらいはやりかねないだろう。普段の日本は、もっと穏やかだ。
 たとえ思っていたとしても思考で留めおく暴言を、口に乗せているという時点でとてつもなく危うい。どうしよう、中国さんを呼んできて落ち着かせて貰った方がいいのかな、と思いつつ、カナダは大きく息を吸い込んだ。
「あめっ、りかが、元気ない理由は知らないよ。……それにイギリスさんは、僕が落ち込んでても」
「日本!」
 色のない空気を青く染め替えるように、はきと響く声だった。思わず、だろう。体を震わせたカナダに溜息をつきつつ、日本は微笑みを浮かべて振り返る。足音を立てずにゆっくり歩いてくるのは、今まさに名前が出たイギリスその人だった。暗い森を抜けて降り注いだ陽の光のような、サラサラの髪がわずかに揺れる。立ち止まって日本を見た瞳は、鮮やかな翠の瞳だ。初夏の湖面より、新緑より宝石より、なお鮮やかな。
「どうしたんだ? もうそろそろ、再開だぞ」
「そうだよっ。君がいなくちゃ始まらないじゃないかっ!」
 どこに隠れてたこのすっとこどっこい、という目で日本が睨んだのは、イギリスの背からにゅっと顔を出したアメリカだった。そこに日本が記憶していたような落ち込みの色はなく、すっかり元気になっている。イギリスと共に現れたことから考えても、短い休憩時間を共に過ごしたことが伺えた。恐らく励ましか、甘やかしに行っていたに違いないのだ、イギリスは。紅茶でも飲んできたのか、ふわりと、温かな花の香りが広がった。
 ひとりで、寂しく庭を見つめていたカナダとは大違いだった。思わず日本が無言でカナダを見上げると、優しい面差しの青年はすこしばかり寂しそうな、穏やかな眼差しで兄弟と、かつての宗主国を見つめている。けれど日本と目があうと、すぐに明るく笑って見せた。華があるその笑みは、イギリスよりむしろ、フランスのそれに似ていた。さて戻るか、というイギリスの声にはっとして、日本は視線を時計へと落とした。あと一分。
 イギリスはすでに、アメリカに腕を引っ張られて数歩先を歩いていた。急いで後を追った日本は、しかし続く足音がないことが気がかりで振り返る。カナダは、遠ざかっていくイギリスの背をじっと見つめていた。泣き出しそうな、迷子になってしまったこどもの表情で。呼び止めようと持ち上げかけた手が、諦めたように戻されるのをみて、日本は耐え切れなくなってイギリスを呼び止めようとする。これは、こんなのは、あんまりだ。
 イギリスがなぜか、アメリカとカナダの見分けがつかないのは知っていた。もっとも、日本も日本で注意していないと名前を思い出せないので本当は怒る筋合いなどないのだが、それでも、アメリカとカナダは共にイギリスに育てられたと聞く。その後、アメリカは手を振り払って独立し、カナダは一国として認められながらも未だに英連邦だ。『英国の忠実なる長女』と呼ばれるほど、カナダはイギリスの傍に居続けているのに。
 こんなのは、あんまりだった。普段なら及ばない悔しさに感情が向いたのは、庭園に目をやるカナダの背を見ていたからだろう。待ってくださいイギリスさん、と日本が叫ぶより早く、本人がぴたりと足を止める。唐突な動きだった。そのまま進もうとしていたアメリカが、バランスを崩してたたらを踏んでしまうくらいには。思わず目を瞬かせる日本の前で、イギリスは不思議そうな顔をして振り返り、ちょっと首を傾げて薄く唇を開く。
 視線はまっすぐ日本を通り過ぎ、窓辺に立つカナダを認めていた。
「なに、してるんだ?」
 ざあぁっ、と雨の音がその瞬間、激しくなる。その場に響く音を全て消してしまいたがるかのように、雨の音がひどくなる。それでも日本の背後で、息を飲む音が響いた。喜びよりもそれは、恐怖に近いもので。ダメだ、というカナダの叫びより一瞬早く、すいと手を差し伸べたイギリスが甘く笑って囁いた。その求めが拒否されることなどないと信じる、絶対的な信頼の声だった。
「おいで、カナダ」
「っ、ダメだイギリスっ! 思い出しちゃダメだっ!」
「……え」
 必死に叫んだカナダが、手を伸ばしてイギリスに駆け寄る。その指先がイギリスに届くより早く、碧玉の瞳が困惑に曇った。なに、と呟いた唇が凍りつき、その場の誰もが、なにかに亀裂の入った音を聞く。それは、分厚い氷にヒビが入る音と酷似していた。イギリスの体が唐突に、ぐらりとかしぐ。咄嗟に抱きとめようとしたアメリカから奪い取るように、カナダは床に倒れ掛かったイギリスをその腕の中に抱き寄せ、抱きしめた。
 しかしカナダもバランスを崩していた為、イギリスを庇って膝をつき、廊下に鈍い音が響き渡る。物音に驚いたのだろう。会議場からいくつも顔が覗くが、カナダはそちらに注意も払わなかった。視線の向く先は固定されている。青白い顔で目を閉じてしまったイギリスを、泣きそうな顔で抱きしめている。イギリス、イギリス、と呼びかける言葉からは常にあるさん付けが抜け落ちていて、集まってきた者たちの困惑を強くして行った。
「……カナダ。イギリス?」
 どうしたんだい、と呼びかけたアメリカに、カナダは強い視線を向けた。歯を食いしばって睨みつける表情はとにかく必死で、いつもあるぼんやりとした穏やかな雰囲気とはかけ離れたものだ。戸惑いに息を飲むアメリカと対比すれば、双子のようにそっくりな兄弟の、常の表情が入れ替わってしまったようだった。カナダは誰にも渡したくない宝物のように意識のないイギリスを抱きしめ、アメリカに向かって君は悪くない、と呟く。
「独立は。君の意思でありながら、国民の意思でもあった。国は民の意識に逆らいきれない。それはイギリスも分かってるし、僕だってそれを責めたり怒ったりするわけじゃない。けど……けど、アメリカ。君はどうして、どうしてちゃんとイギリスに、国としてじゃない、僕たちを育ててくれたイギリスに、どうしてちゃんと言わなかったんだっ!」
「カナダ? ……なんの話だい?」
「どうしてイギリスに、ちゃんと好きって伝えてやらなかったんだっ!」
 興奮状態のカナダは、半ば人の話が聞けなくなっているのだろう。顔を赤くしてアメリカを怒鳴りつけ、イギリスを抱きしめて周囲を威嚇するように睨み付けていた。絶対の守護を、誓っているような態度だった。誰もが立ち止まり、一歩足を引き、困惑に視線を交わし合って動けない中で、すいと一人が歩み出る。雅な印象の靴音が響いた。はっと目を向ける日本にウインクしたのは、睨みあう二国の、もう一人の育ての親だった。
 やれやれ言わんばかりに肩をすくめ、フランスは優雅に進み出て行った。ぽんとばかりアメリカの肩に手を置いて宥め、フランスは向き合う兄弟の間に割り込むように体を滑り込ませた。素直に、アメリカは一歩だけ下がる。一歩だけだった。よしよし、と苦笑しながら、フランスはしゃがみ込んでカナダと目を合わせた。視線が、水平に交わる。興奮状態の幼子を落ち着かせるように、フランスはやんわり響く声で言い聞かせた。
「カナ。落ち着け。アメリカは知らないんだ」
「……フランス?」
「アメリカは黙ってろ後で説明してやるから。……カナ、カナ、カナダ。落ち着け。大丈夫だ。な?」
 ほら泣くなよ、と苦笑いして伸ばされたフランスの手は、カナダの頭を撫でる為のものだったのだろう。しかしカナダはフランスの人差し指を手でぎゅっと握り締めてしまい、すがるような目で沈黙するだけだった。フランスは大きく息を吐き出し、カナダと目を合わせて根気よく言い聞かせる。どことなく、慣れている風だった。
「カーナーダ。ほら、イギリスもこんな床に寝かせとくより、ベットの中で眠らせてやりたいだろ? 大丈夫だから。取らないから。な? カナ。良いコだから、イギリス渡しなさい。お前が……そうやってくっついてたら、いつまで経ってもイギリスは眠り姫のまんまだろ?」
「……イギリスは」
「大丈夫だ、解けてない。イギリスは眠った。起きたらまた、忘れてるよ。……そうだろ?」
 フランスの問いにカナダはしばらく黙って、そのあと幼い仕草で頷いた。それでも、強く抱きしめた腕は離れない。カナダは静かな表情でイギリスを見つめ、やがて微笑んで額にキスを落とした。思わずむっとするアメリカの頭を軽く叩いて押さえ、フランスはただカナダとイギリスを見守った。時折軽く音を立てながら額を、頬を、まぶたをついばむようにキスをして、カナダはようやくフランスとしっかり目を合わせる。
「僕が、運ぶ。……日本さん、医務室はどこに」
 呼びかけられた日本の反応は早かった。本来の医務室として用意している場所よりも静かな眠れる場所を、と思い、使っていない客間の位置を思い浮かべる。会議場が元迎賓館で、本当によかったと思いながら。
「突き当たりの角を右に曲がって、三番目の扉です」
「ありがとうございます、フランスさん。……僕も、すこし眠るから、後を」
「分かってるよ。Bonne nuit(おやすみ) カナ」
 パパに任せとけ、と笑うフランスに苦笑いを向けて、カナダはイギリスを抱いて立ち上がった。そしてそのまま、足早に去っていく。その背が見えなくなるまで見送って、フランスはさて、と肩をすくめて言い放った。
「昔話でもしてやるか」
 会議続けるの無理だろう、と笑ったフランスの表情は、言葉にできない憂いに満ちていた。その憂いの理由を、場に居る誰も知らなかった。それとも会議してみる、と悪戯っぽく笑いかけられ、日本は無理でしょうね、と肩をすくめて微笑する。気の散る要因を持ったまま再開したとて、上手く運べないのは目に見えている。日本は集まった『国』に本日の会議はこれで終了であることを伝えると、立ちつくすアメリカに歩み寄った。
 気になってもそこまでの興味がない『国』たちが三々五々、散って行くざわめきの中で、アメリカの視線が日本を捕まえる。なんだい、と拗ね切った言葉の調子に、日本は思い切り苦笑して背伸びをした。そして先程カナダにしたように、アメリカの頭を撫でてやる。図体ばかりが大きなこどもだ、と心の底から日本は思った。アメリカは僅かに不満げな顔をしてみせたものの、日本の手を拒絶することなく、撫でられている。
 暴風が過ぎ去ってからりと晴れた日の朝の、吸い込まれそうな程に美しいブルー・アイがカナダの去った方角をしょんぼりと見つめた。おやおやと苦笑しながら、日本はそれでも追いかけて暴こうとはしないアルフレッドを褒めるようにぽんぽん、と撫で、見つめてくるフランスに苦笑する。フランスはなにも言わずに肩をすくめ、移動しようか、とだけ囁いた。これから長い昔話をするのに、立ったままでは格好がつかないだろう、と。
 日本は穏やかに笑って先導の為に足を踏み出し、フランスは興味を持って待っていた『国』たちを、ちょいちょいと手招いてその後を追った。どちらも、アメリカに声をかけることはしない。アメリカはぎゅぅと不満げに、悲しげに表情を歪め、やがて日本とフランスの後を追いかける。待っておくれよ、と明るく声をかけて走って行くさまに、後悔はなく。過去を振り返って悔やむことなど、ないようだった。アメリカは、常に前を向く。
 そのことがイギリスから独立した彼の誓いであり、己に課した強さだった。



 アメリカ独立戦争、と呼ばれる争いから、実に二十九年が経過していた。千八百十二年、六月のことである。爽やかに晴れた、これから訪れる夏の予感を感じさせる朝のことだった。日課となった朝の散歩から帰って来たカナダは、突然息苦しさを感じて胸をかき抱き、玄関の扉を背にして座り込んでしまう。なにかが起きた、と感じた。なにかカナダ本土に、とても良くないことが起きたのだ。苦しみは、異変のサインだった。
 カナダの姿は幼少期を終えて、少年から青年へと移り変わろうとしていた。精神的にもちょうど思春期で、複雑な時期だ。その為にカナダの家を世話をする者もなく、日に何度か食事を届けてくれる者が訪れるだけである。朝は散歩の間に朝食を準備してもらうのが常だったから、家の中にもう人の気配はない。痛みをこらえて立ち上がりながら、カナダは深呼吸をする。痛みのおかげで冷静になった頭が、官邸へ、と告げていた。
 この国の政治が執り行われる場所。この国の情報が、全て集約していく場所。そこに行けば、外交に関わる者たちが居る。『国』であるカナダが感覚的に受け止めてしまったが故に分からぬことを、彼らは言葉で、事実として教えてくれるだろう。行かなくちゃ、と立ち上がったもののふらついてしまうカナダを支えたのは、天井近くから舞い降りてきた淡いひかりだった。火の粉や、あるいは朝日の一瞬のきらめきに似たひかり。
 朝の明るい光のなか、太陽とはまた違う色合いで輝くひかりが、カナダの周りにいくつも浮かんでいる。ごめん、とカナダはそのうちひとつ、一番顔に近い位置に浮かんでいた妖精に手を伸ばした。指先にそっと口付けてくる妖精に、ごめんともう一度告げる。
「ありがとう……イギリスに感謝しなきゃ」
 人の気配が煩わしいのは分かるけど、なにかあった時の為にな、と。本国から、特にカナダを可愛がってくれるだろう妖精たちを連れて来てくれた宗主国に、深い感謝を覚える。アメリカには嘆かわしい表情をされたが、余計なお世話だった。見えないなら見えないでいいが、イギリスを含めて妖精たちをバカにしないで貰いたかった。昔はあんな風ではなかった筈なのに、どうして溜息をつきながらカナダは、よ、と立ちなおす。
 体から痛みが消えていた。妖精たちの守護だろう。くすくす笑いながら頬にキスをしてくる妖精たちにありがとう、と感謝して、カナダは官邸へ向かおうとする。カナダの住んでいる家は住宅地からすこし離れていたが、官邸には近いという微妙な位置だから、全力で走れば二十分くらいでたどり着けるのだ。急いで扉を開けて駆け出そうとしたカナダは、しかし唐突に腕を掴まれて勢いを止める。転ばなかったのは、奇跡だった。
「カナダ」
 硬質に響く声。凛として空気を震わせる、美しい声。その囁きだけで、カナダには誰のものだか分かる。す、と頭に上っていた血が引いていく。思わず目を瞬かせれば、ごめんな驚かせて、と苦笑しながら腕を引かれ、背伸びをしながら抱き寄せられる。ぽん、と背中を撫でる手が暖かくて、優しかった。強張っていた心が、解けて行く。ぎゅぅ、と抱きつけば痛いよ、と笑い声が響いて現実だと知る。ここには存在しない筈なのに。
 それなのに今カナダを抱擁して落ち着かせてくれたのは、他ならぬイギリスそのひとだった。海を渡って来たのだろうか。空を機体が自由に飛び回る時代であっても、イギリスは好んで海路を利用した。かっちりとした軍服の上に羽織ったベージュ色のコートからは、潮のにおいがしている。顔を擦りつけて胸いっぱいに息を吸い込み、カナダは顔をあげた。問いかけの為に視線を合わせようとすると、すぐ、瞳が重ねられる。
 穏やかに受け止めてくれるその仕草が、カナダはとても好きだった。ふわ、と意図せず嬉しげな笑みを浮かべ、カナダは慎重な声で問いかける。
「イギリス。どうして……どうしたの?」
 フランスと戦争中なんじゃ、と問うカナダに、イギリスはまあな、と口ごもって視線をそらした。度重なる戦争で体調が思わしくないイギリスは、今日も顔色がよくなかった。僅かにこけた頬には赤みが差していたが、それが血の巡りによってそうなっているのか、身の内に巣食った炎が燃えるような熱がそうさせているのかの区別くらい、医学に長けていなくとも分かる。なによりイギリスの腕の中は、奇妙に生温く熱かった。
 休もう、休んで、と腕を引くカナダに連れられて家にはいりながら、イギリスは苦しそうな表情で沈黙していた。体調が悪いのとは違う、言い出しにくいことがある時の表情だった。慎重に言葉を選び、選びきれずに、それを告げなければいけないのに、それ以外の方法や単語を選んでいる最中の表情だ。恐らく、もう言わなければいけないことは決まっているのだろう。良いことではなく、悪い知らせであることは明白だった。
 それを知っているカナダは、イギリスをソファに座らせて顔を覗きこむ。視線は、また、すぐに重ねられた。大丈夫だよ、と告げる代わりにカナダは微笑む。大丈夫。あなたの言葉なら、なにもかもを受け止め、受け入れてみせるから。大丈夫、と繰り返し囁く代わり、そっと吐息をもらして、カナダはイギリスの名を呼んだ。
「イギリス……?」
 教えて、と甘くねだるように囁いて来るカナダの目を、イギリスは覗き込むように見つめていた。淡い、ペールグリーンの瞳だった。生えたばかりの草や葉のような、瑞々しく、柔らかな命と祈りに満ち溢れた色だった。英国の支配下におかれた『国』のうち、唯一、イギリスの瞳の色の欠片を、受け入れた瞳だった。元はフランス領であった『カナダ』の、その時の色をイギリスは知らない。覚えている間も、無かったからだ。
 フランスから幼子の手を受け取った瞬間、瞬きひとつ分の時を経て、カナダの瞳はこの色になったのだ。ペールグリーン。穏やかな性格を映し出したかのような乳白色。それでいて深く、静かな落ち着きすら持った瞳。瞳の色を変色させられた幼子は、恐慌をきたすことなく、まぶたの上から手で押さえ、はにかむ表情で呟いた。あなたの色が、届きましたね、と。それでいてふわりと広がる柔らかな金髪は、フランスのもの。
 フランスから受け継いだ柔らかな毛質は、色こそイギリスのものと酷似しているものの、全く違うものだった。定めように、運命ように。そののち、両国を愛す国民を内包する『国』として、はじめからカナダはあったのだった。その柔軟性と、それを支える精神の強さを、イギリスは誰よりよく知っていた。深呼吸を、ひとつ。真剣な色を帯びて見つめ返せば、やはりカナダは視線をそらすことなく、イギリスの意思を受け止めた。
 だからこそ、イギリスは一息に告げる。
「宣戦布告が来た」
 放たれた言葉に、カナダは強い胸のざわめきを感じた。ある程度は予想していた言葉だったが、それでも聞きたい言葉ではなかったからだ。ふ、と息を吐き出して胸に手をあてるカナダに、イギリスは優しい目をして微笑みかける。そしてイギリスは手を伸ばし、幼い頃よくそうしたようにカナダと手を重ねると、甲を指先で撫でた。安心していい、と言葉にせず伝える仕草だった。カナダは、だからこそ勇気を持って問いかける。
「……アメリカ?」
 何年も、もう何年も。アメリカが独立してから、カナダは隣国との一方的な話し合いの場に立っていた。アメリカはいつも陽気な笑顔でカナダを出迎え、そして熱心にイギリスからの独立、さもなくば一緒にアメリカになろうよ、という誘いを繰り返していたのだった。けれどカナダは、その申し出全てを拒否していた。カナダは『英領』カナダなのだ。国民の中に独立の意思がないとは言わないが、それでもカナダは『英領』だ。
 認めて欲しい気持ちはあろうとも、手を振り払うことはしなかった。しようとも、思わなかった。思い出の中も、今も、温かさと幸福をくれるぬくもりを、傷つけて痛めつけて離れていくなど、どうして出来るだろう。カナダの、震えさえしなかった問いかけに、イギリスの方が泣き出しそうな顔で頷く。ごめんな、と呟きが落ちた。
「ちくしょう、アイツ……なんでカナダにまで。そんなに俺が嫌いかよ、そんなに俺がっ!」
「イギリス」
「ごめん。ごめんな、カナダ。ヨーロッパで忙しくて、今お前んトコにすぐに兵は送れない。送れてもそう、多くは来られない……くしょう、ちくしょうっ! なんだよアイツ、なんで俺からカナダまでっ!」
 腕を伸ばし、強くカナダを抱きしめてくるイギリスに、カナダは意識を直に殴られたような悲しい気持ちになる。同時に、ものすごくアメリカを殴りたくなった。独立戦争の時、あの兄弟が考えられる最悪の方法で、イギリスの手を振り払ってしまったことは知っていた。カナダが決して、今もしようとは思わない痛みを与える強さで、イギリスの手を振り払ってしまったことを知っていた。どんなに痛かっただろう。苦しかっただろうか。
 イギリスも、アメリカも。どれ程の痛みと苦しみを味わったことだろうか。そしてアメリカはその辛さを誰とも分かち合うことなくたった一人で『独立国』として立ち上がり、イギリスは大英帝国の誇りと矜持故に膝を屈することを己に許さず、許されずに前を向き続けた。どちらも傷つきすぎて、どちらも、痛みを覚えているのは自分だけだと思いこんでしまっている。硬く閉じてしまった結び目を、カナダは知りつつ、解けないでいる。

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