そしてふたりは、いつまでも、いつまでも、しあわせにくらしました。絵本のラスト一文を口に出して呟き、ピーターは満足げな笑みで息を吐きだした。ぱたり、と本を閉じると心地良い風が頬を撫でていき、高揚した気分をちょうど良く宥めてくれる。太陽の光のまぶしさに目を細めながら、ピーターは凝り固まった体をぐぐーっと伸ばしつつ、芝生の上に倒れこむ。背中から芝生に倒れて手足を伸ばせば、土の香りが鼻をくすぐった。
「ピーター。あんまり転がると、アーサーに怒られる」
「うー。じゃあ見つかる前に、カオル兄ちゃんがぱたぱたしてくださいですよー」
そうすれば大丈夫なのですよー、と笑って、ピーターは横になったままもぞもぞと動き、すぐ傍に座っていた香の膝に乗り上げた。ピーターが絵本を読んでいたように、香の手にも文庫本がある。よく晴れた絶好の青空だったから、室内よりも、外に出て文字を追いかけたくなったのだった。読みずらい体勢になってしまった香は、しかし溜息をついただけで膝の上からピーターを退かそうとしない。しおりを挟み、香も本を閉じてしまう。
かまってくれる気配を察したのか、ピーターはきゃぁと歓声をあげて体を持ち上げ、勢いよく香に抱きついた。香はなんとか抱きとめたものの体勢を崩し、先程のピーターと同じように背から芝生に倒れこんでしまう。幸い、土は柔らかい。体をひどく痛めることもなく仰向けに倒され、香は溜息をつきながらピーターの頭を撫でた。歳の離れた『弟』は機嫌の良い猫のように香の腹に顔を擦りつけ、きゃっきゃと歓声をあげて笑っている。
これは、もうどう頑張っても引きはがせない。仕方がないと苦笑しながらも湧き上がる愛おしさに負けて、香はピーターをぎゅぅと抱きしめた。高く響く笑い声が、晴天に響く。ぐりぐりと力任せにピーターとじゃれ合っていると、芝生を踏んで近付いて来る軽やかな足音が、香の注意を引きつけた。さく、と萌黄の草を踏みしめた靴はすぐ耳元で止まり、顔全体に柔らかな影が落とされる。ふと視線を持ち上げ、香は穏やかに微笑んだ。
「シェリ。どうした?」
「どうした、じゃないですよ。もー、カオルまで一緒になって芝生まみれで。眉毛に見つかったら怒られちゃうじゃないですか。……まあ、あの感じなら大丈夫そうな気もしますけど」
少女の手が伸ばされ、香の髪に編み込まれた枯れ草をつまみあげた。そよぐ風に枯れ草を流しながら、シェリは歩んで来た方を僅かに振り返る。視線を追いかけるように目を向けて、香もピーターも、少女の言葉に深々と納得した。ちょうど、アーサーの拳がフランシスに直撃した瞬間だった。フランシスは見事な放射線を描いて吹き飛ばされ、その光景を、呆れ顔で菊が眺めている。菊の手には、紅茶の満ちたティーカップ。
ティーカップがゆっくりと傾けられるばかりで、ソーサーに戻される気配もなかった。菊に、フランシスを助ける、という選択肢はないらしい。ほどほどになさってくださいね、程度の発言は響いたのだろう。きらめく笑顔でアーサーが頷き、逃げようとするフランシスに全力で駆け寄って行く。断末魔にしか聞こえない愛の国の悲鳴が響く中、大きなテーブルの端では、アルフレッドが涙目で切々と、マシューになにかを訴えていた。
遠慮もなにもなく、アルフレッドはアーサーを指差しているので、会話の内容は聞こえなくても分かってしまった。お願いだからアレを恋人にしておくとか考え直しておくれよマシュー、だ。万の言葉を重ねようとも、要約すればそういうことなのだろう。しかし香、シェリ、ピーターの『兄』にして英連邦の長女、アーサーの想い人であるマシューは、恋は盲目、を精神的に体現しているような存在なのである。穏やかな笑顔だった。
どうせまた、そんな風に言わないでよ、ちょっと乱暴なところもあるけどアーサーさんは優しいんだよ、とでも言っているに違いない。マシューの『ちょっと』の尺度は世間一般のそれと大幅にずれがあり、そしてことアーサーに関しては言葉の意味を見失うくらい、幅が大きい傾向にあるのだった。英連邦は、それをよく知っていた。しかし、アルフレッドはまだ兄弟の感覚のずれに慣れないらしい。涙目で、まだなにか訴えている。
すこし前から、フランシスの声が聞こえなくなっていた。香がちらりと目を向けるとアーサーがそれはもうキレの良い見事な動きで、爪先の描く弧も美しい回し蹴りを、フランシスの背骨に叩きこんでいる所だった。今日はいったいなにをして折檻されているのかと思うが、なにがなくとも相手がフランシスというそれだけで暴行に走ったりもするのがアーサーである。理由:そこにフランシスが居たから、むしろフランシスだったから。
存在だけで万能の理由に仕立て上げられてしまうフランシスに、今日も逃げ場は残されていない。手を合わせてぺこりと頭を下げ、香はよいしょ、と声をあげて隣に座って来たシェリに視線を向けた。さすがに『セーシェル』であるからか、少女には晴れた青空の背景がよく似合う。ついぼんやり見つめてしまうと、シェリは不思議そうに、ちいさく首を傾げて来た。カオル、と花色の唇が名を呼ぶ。ん、と香は苦笑し、ゆるく首を振った。
「なんでもない。茶会は、もういいのか?」
「茶会っていうより、総合格闘技必殺技一覧みたいな状況になってますからね……。カオルこそ、本、読まなくてもいいんですか?」
「……読みにくいから」
苦笑して呟かれると、香の腹にぐるりと腕をまきつけ、ごろごろと甘えていたピーターが頬を膨らませて抗議する。ぷくーっと膨らんだ頬をぷにぷにと触り、香は嘘だよ、と笑いながら囁きを落とす。ちょうど集中も切れていた所だから、気にしなくて良い。嘘とも本当とも受け止められる声の響きに、ピーターはうっとりと目を細めて笑う。体温が温かくて、心が穏やかで、風が気持ちよくて、光が降り注いでいて明るくで、幸せだった。
その幸福感の前でなら、それが嘘でも、本当でも、構わない気がした。ざあぁ、と梢を歌わせて風が吹く。萌黄色の芝生に落ちた藍色の影が、宝石のように煌めいて揺れる。風に乗ってふわりと、温かな紅茶の香りが漂ってきた。目を閉じればすぐにでも、眠ってしまえそうな天気だった。空を見上げれば、雲はどこにもない。青く、高く、空気は乾いてどこまでも晴れ渡っている。ピーターはふと視線を持ち上げて、彼方を見た。
ちょうどアーサーが振り返り、マシューと視線を重ねた瞬間のことだった。マシューが己を見ていたことに僅かばかり驚くような顔つきになった後、アーサーは照れたようにはにかみ、すこし首を傾げて微笑みを浮かべる。唇が、ごく僅かに動いた。名を呼んだのだ、とピーターにはすぐに分かる。マシューが、本当に嬉しそうに笑ったからだ。それだけで、胸に涙がこみ上げてくるような圧倒的な幸福感で、そっと笑ったからだ。
マシューもまた、ピーターの居る場所までは届かないような声で、アーサーの名を呼んだのだろう。アーサーは肩を震わせて幸せそうに笑い、幸福感に目を輝かせる。あの二人は、恋をしている。互いに、本当に大切だと思っている。まなざしひとつで、ピーターにはそれが分かった。ふふふ、と耐えきれない笑いに唇を綻ばせ、ピーターはうっとりと目を伏せた。
「……あんな風な大人だったら、なってやっても良いのですよ」
梢を揺らして、木と風が歌う。妖精たちの囁きが、その中に溶けて混じる。輪唱のように重なって行く響きに耳を傾けながら、ピーターはあくびをして、穏やかな気持ちで目を閉じた。香とシェリは、くすくすと笑いあいながら幼子の眠りを見守る。甘やかな陽光が、芝生に三人の影を映す。乾いた風が吹き抜けていく。雨が降ることは、ないだろう。