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 9 会議の夕べ

 アーサーは息を吸い込んだ。扉を閉じたマシューが振り返り、アーサーとアルフレッドを視界にとらえるその一瞬の空白を決して逃さず。幸福感に酔いしれてゆるむ口元もそのままに、誰より早く一歩を踏み出して唇から息を吸う。床と水平に掲げられていたままの両腕が、ばっと音を立てて開かれた。振り返ったマシューが見たのは、燦然と輝く緑の瞳。太古の森のきらめきそのものであり、神話と神秘を秘めた宝玉の色。
 呼ぶ名すら知らず、動揺と驚愕にマシューが口を開く。吸い込んだ息が形成しようとしていたのは、国名と人名、どちらの響きであったのか。場に残された者たちは永遠にその答えを知る機会を奪われ、そして、魔法使いの神秘が行使された。
「My name is a green bird」
 厳かな宣言だった。通常は省略しても魔法を行使するに影響のないアーサーの名が、ぞっとするほどの誇り高さで囁かれるだけで空気が張り詰める。飛び込んでくる者を柔らかく抱きとめるように広げられた両腕がそっと閉じられ、胸の前でエンジェルステッキを持った手が組み合わされた。伏せられた眼差しがステッキを愛しむように撫で、その先に立つマシューにひた、と合わされる。くす、と口元が笑みを吐き出した。
「It is a miracle that I do not begun.Magic without contract.The fairy knits his breath, and a mystery door is opened」
『私が行うのは仕掛けのない奇跡である。それは契約のない魔法そのもの。妖精は息をひそめ、神秘の扉が開かれる』
 夜の森を突風が抜けて行き、黒く闇に塗りつぶされた木の葉が大きく揺れ動くような音を立てて、アーサーの足元からごく細い緑の線が広がって行く。それは瞬く間に文様と魔法陣を描きだし、煌めきの欠片はアーサーの体にもまとわりついた。眩しさに細められた目と、足元から立ち上る光の欠片は全く同じ色をしている。宝石よりも鮮やかな緑。誰もが呼吸と瞬き以外の動きを忘れて、アーサーの姿を見ていた。
 アーサーは乱れた髪をぐいと手で整え、肩にまとわりつくように浮いていた光の欠片を指先で払う。肩の力を抜くようにすこし背を反らして大げさに深呼吸をすれば、その姿に誰もがアーサーの告げた『名』の意味を悟った。音もなく無数に舞い踊る光の欠片は、アーサーの背から大きく広がる翼のように集まっている。ブリタニアエンジェル化した時とは違う、実体のない半透明の光の翼が『green bird』の由来に違いない。
 震える指でカメラのシャッターを切りながら、菊はあることを思い出してピーターを見る。菊に作ってもらった『ピーターの魔法の杖』を持つ少年は、視線に応えて誇らしげに笑った。その通りですよ、とも言いたげに。ピーターが魔法を行使する際に名乗る一文には『I am a wing of a ”beautiful green bird”』とある。その、美しい鳥の翼。一部。それこそがピーターの操れる魔法の大元で、そして源でもあるのだろう。
 菊から視線を外したピーターは、うっとりとした視線をアーサーに向けていた。香とセーシェルも似たような表情で、恐れながら、敬いながら、どうしようもなく惹きつけられていた。それらの視線をものともせず笑い、アーサーは魔法を行使する最後の一文を唇に乗せる。視線は決して、マシューから離されないままだった。
「To my kingdom……Welcome」
『俺の世界に……ようこそ』
 うふふ、と耳元で妖精の笑い声が響き、突き放されたようにそれが遠くなる。言葉の通りに、アーサーの異能力が妖精の姿や影響までをも振り払い、遠ざけたからだった。普段ならば決してしないであろう『友人』たちへの振る舞いに、それを信じないと公言するアルフレッドでさえ、顔色を悪くして一歩退いた。アーサーはまぎれもなく本気で、この場に立っている。光の残滓を振り払い、アーサーはステッキを手から消す。
 ふー、と大きく息を吐く音が響いたのは、疲れたからだろう。耳が痛くなる程の張り詰めた空気はすでになく、だからこそアーサーが引き起こした現象の大きさを物語っていた。なんの混乱も影響もない様子で視線を持ち上げ、ふるりと頭を振ってから、アーサーは立ちつくすマシューを見据える。緑色の瞳に、やさしい色が灯った。
「よう、マシュー……待たせたな」
 アーサー、と動いた唇が悲鳴を堪えるように引きつり、マシューは己の口に手を押し当てた。眼前で繰り広げられた光景の理解は、あまりに簡単で混乱を招く。鼓動がおかしいくらいに早く鳴っていて、期待と不安で視界が滲み、ぐらりと揺れた。
「アーサー……?」
 苦しくあえぐような囁きに、応える声は笑みを滲んで優しげだ。マシュー、とただ名が呼び返されて、その声の響きで悟らざるを得ない。アーサーだった。マシューの恋したアーサーで、マシューの恋を知るアーサーだった。うん、と問いに上がった語尾が、扉に張り付いたままのマシューを招く。そんな所に居ないでこちらにおいで、とばかり差し出された手に、マシューはふらっと一歩足を踏み出して己の目を手で押さえる。
 鈍い痛みが、目の奥に走った。妖精との契約者の瞳が、不当な扱いにじくじくと熱を持って痛む。まだなのだ。目の前にある人は完全に近い精神で立っているけれども、それはあくまで影響を遠ざけただけのことで、解除されてはいないのだった。もしも、と考えてマシューの背筋が凍りつく。もしこの状況で『跳ねかえり』が来れば、それこそアーサーの精神はただでは済まない。針を刺したような痛みが、目の奥にあった。
 跳ね飛ばされた妖精が、怒っている。歩むのを止めて立ち止まったマシューに、アーサーは不愉快そうな帝王の瞳を向けた。求められたことに応えない不出来な臣下を睥睨する視線に、マシューはけれど柔らかに笑う。
「ダメなんだぞ!」
 しかし、マシューの唇が言葉を告げるよりもずっと早く、アルフレッドの一撃がこだました。へ、と気負いのない表情で瞬きをして、マシューはアーサーの隣に視線を移した。珍しくきちんと着込んだスーツにシワがつくのも構わない様子で、腰に手を当てて身を屈めたアルフレッドが、すこし距離を開けて立つマシューに向かい身を乗り出すように怒っていた。ぽこぽこ、ぽこぽこ怒っているアルフレッドに、マシューは首を傾げる。
「え、ええと。アルフレッド? なにが?」
 そんなことも分からないのか、と言わんばかりに眉を寄せる仕草は、すこし面白くなってしまうくらいアーサーと同じで。くす、と思わず笑いに気を緩めたマシューに、アルフレッドは容赦なく言葉を叩きつけた。
「逃げるなよ!」
 戦地においては味方を鼓舞し、会議においては誰もが無視できず聞きとめる若い稲妻のような声の響きで、アルフレッドは言い放つ。不服そうな顔つきで腕を組みながら、アーサーはことの成行きを見守っている。それを無言の求めだと解釈して、アルフレッドはぐっと言葉につまってしまったマシューに歩み寄った。大股で瞬く間に距離を詰め、アルフレッドは決して許さない強さで、同じ顔をした兄弟の腕を掴む。
 かつてはペールグリーンでしかなかった瞳が、紫の入り混じる不思議な色彩でアルフレッドを見つめ返す。なんで、どうして、と言いたげに揺れる瞳をしっかり合わせ、アルフレッドはだめだめ、と首を振る。
「マシュー。これは敵前逃亡だ。ヒーローとして許すわけにはいかないんだぞ」
「てっ……ち、違うよばかっ! 言うなら戦略的撤退だよ!」
「逃げるのは一緒じゃないかっ! いいかいマシュー、俺はもう君からもアーサーからも逃げないって決めたんだ。だから君のことも逃がさない。……なにが怖いのさマシュー。アーサーは俺を認めてくれたよ。俺が、アルフレッドだって認めてくれたんだ! ワオ! こんなにすごいことってあるかい!」
 奇跡なんか起きなくても、ちゃんとアーサーは俺のことを見つけだしてくれたよ、とアルフレッドは笑った。キラキラに輝く声に、不意にマシューは思い出す。森でかくれんぼをした時のこと。雨上がりの木漏れ日が射す茂みに隠れて、そこから晴れ空を見上げた時の気持ち。足音が近づいてきて遠ざかって、戻ってきて、見つけだしてくれたアーサーに、アルフレッドは満面の笑みで飛びついたのだ。見つかっちゃった、と言って。
 待っていたよ。記憶の底で、ずっとずっと隠れて、見つけだしてくれるのを待っていたよ。待っていて、よかったよ。見つけだしてくれたんだよ。ありがとう。喜びが幾重にも奏でられる声に、マシューはすっと息を吸い込んでから微笑んだ。おめでとう、アルフ。誇らしげに告げられた言葉に、アルフレッドはうんっと勢いよく頷いた。うん、と何度も頷いて、そのうち嬉しくて我慢できなくなって、アルフレッドはマシューに抱きつく。
 普段なら持ちこたえられる動きなのだが、油断していたマシューは足を滑らせて尻もちをついてしまった。わ、わっと慌てた声をあげながら怪我をしないようにとクマ次郎さんを離せば、白クマは床の上でじゃれあう兄弟を呆れた視線で眺めやった後、馴染みのある傍観者たちの方に歩いて行く。マシューとしてはクマ次郎さんを追いかけたかったのだが、アルフレッドが許すわけもない。ぎゅうぅ、と腕の力が強くなる。
 僕は君の人形じゃないでしょう、と諦め交じりにたしなめても、アルフレッドはうん、と頷いてくふくふ笑うだけで聞き入れようとしなかった。全く、なにをこども返りしているのだか。短い金髪をくしゃくしゃとかきまわすように撫でてやりながら、マシューは嬉しかったの、と問いかけた。答えの分かりきった問いかけ。アルフレッドはぱっと顔をあげ、世界の暗雲を晴らす希望にさえなれそうな声で、当たり前じゃないか、と叫ぶ。
「だってこれでようやく、俺はマシューをアーサーに返せるんだ! 俺の大事な兄弟を、俺の大事な親に返せるんだぞっ。こんなに嬉しいことってあるかい! ないよ!」
「……アルフレッドは可愛いねえ」
 図体ばっかりこんなでっかくなったのにねえ、と冷静に考えて褒めてはいない呟きを発して頭を撫でてくるマシューの手を、アルフレッドは気持ちよさそうに受け入れて。はた、と気が付いて、その腕を掴み直した。真剣な視線が、双子へと向く。
「そうだ、マシュー。思い出したんだぞ!」
「忘れててもよかったんだよ?」
「ちょっとマシュー! どうしてアーサーなんだいっ、どうして俺じゃないんだいっ……? というか、俺、聞いてないんだぞ! いつからアーサーと付き合ってたんだい」
 あれ、そっちなんだ、と言いたげなマシューの表情に気が付かず、アルフレッドは兄弟の肩にぐりぐりと額を押しつけて甘えながら言い募った。ねえねえどうしてねえねえなんでどうしてどうしてどうしてっ、とだだっこそのままに問いかけられて、マシューは心底息を吐きながら、ごねるアルフレッドの頭をぽんぽん、と撫でる。
「教えてあげても良いけど、君、多分すごーく落ち込むよ?」
「ヒーローだから大丈夫なんだぞ!」
「……僕が告白したのは、君の独立戦争のあと。君が、僕の所に攻め込んで来た時、なんだけど」
 傷心で混乱してたのに勢いで言っちゃったというか、と。さらりと言い放たれて、肩に額を押しつけたまま、アルフレッドは動かなくなる。よしよし、と慰めるようにマシューはアルフレッドを撫でながら、なるべく視線を彷徨わせていた。付け込んだ自覚はあるので罪悪感の為と、そしてなにより、今視線をどこかに固定しようものなら、まず間違いなくアーサーと視線が合うからである。微笑んでいる気配がするから、怖かった。
 頭の片隅でまだ逃げる算段をしているマシューに抱きとめられながら、アルフレッドはもごもごと響かない声で問いかける。じゃあ付き合ったのは、と尋ねられて、マシューはもう仕方なく教えてやった。
「君が、戦争中に僕に会いに来たの覚えてる? その時」
「……俺はひとりで泣きそうだったのに、君たちはいったい、なにしてるんだい」
 世界のヒーローのものとは思えない、死にそうに落ち込んだ声だった。大丈夫なんじゃなかったの、と苦笑するマシューに、アルフレッドは知らないんだぞ、と唇を尖らせて顔をあげる。なんだいそれー、と悔しくて仕方がない声でアルフレッドは言う。
「マシューもアーサーも、ひどいんだぞ……ヒーローを退けものにするだなんて、ひどいんだぞ……」
「諦めろ『アメリカ合衆国』。国民の総意にて動く、『国』として生まれたのだから仕方がない」
 っつか退けものにしたくてした訳じゃねぇよ誤解を招く発言は慎めばか、と麗しい笑顔で荒れた言葉をさらりと吐き出し、アーサーは硬直する双子に向かってすぅ、と目を細めてみせた。
「で、もういいか? アルフレッド?」
「な……なな、なにがだいっ」
「それ、お前のじゃないから。俺のだから。渡せ、って言ってんだよ」
 俺の目の前でマシューに抱きついたままとは良い度胸だ褒めてやろう、と全く笑っていない瞳で口元だけを緩められ、ようやく状況認識を取り戻したアルフレッドの顔色が白くなる。血が引く音って本当にするんだ、とのんきに関心するマシューに、アルフレッドは大慌てで言った。
「そ、そうだよマシュー! 逃げるんだぞっ!」
「え? 君、さっきまで逃げるなとか言ってなかったっけ?」
「物理的には逃げちゃダメだけど、マシューの純潔は俺が守ってあげるんだからな……!」
 事態を理解できずに首を傾げるマシューとは対照的に、アルフレッドは兄弟を守るように立ち上がった。テメェ、と怒りに引きつった表情で、アーサーが聞き分けのない独立国に言い放つ。
「俺がマシューの純潔散らすような発言するんじゃない。ただちょっと、唇を奪うだけだ」
「なにがちょっとだい! セクハラ! それはセクシャルハラスメントなんだぞ!」
「……よく分からないけど、純潔散らすのはアーサーさんであって僕じゃないよね?」
 え、なんの話してるの、と純粋に不思議がって首を傾げながらも、発言はさすがに初期教育を愛の国フランスにされた『国』だった。果てしなく八つ当たりでしかないアーサーとアルフレッドの険しい視線に睨みつけられて、フランシスはお兄さんの責任じゃないけどごめんなさいだって怖いんだもんお前らっ、と涙声で叫ぶ。一秒で降伏したフランシスを何の役にも立たないゴミを見つめる視線で睨み、アーサーは舌打ちする。
「フランシスは後で俺の家の地下室に来い……!」
「母屋! せめて母屋にしてくださいアーサーさま! 地下室ってなにそれ怖い!」
「こらマシュー。どこ行こうとしてるんだい」
 アーサーの視線がフランシスに逃れた一瞬の隙に立ち上がろうとしたマシューは、しかしすぐ気が付いたアルフレッドによって止められる。身の危険が待ってる気がして、と視線を反らしながら言うマシューにその通りだけどさっ、と全面肯定しておきながら、アルフレッドはアーサーを指差した。人様を指で指し示すな礼儀知らず、と不機嫌極まりない言葉が発されるのを無視して、アルフレッドはびしりと言い放つ。
「よく考えてごらんよ、マシュー。君とちゃんと話す為だけにエンジェルステッキでアレコレしたあの人が、君が逃げたからと言って追わないわけがないじゃないか……それともマシュー、逃げ切れる自信があるのかい?」
「ああ、逃げたかったら逃げろよマシュー? 追うのも狩りの楽しみだ」
「考え直してマシュー! ねえ考え直しておくれよっ!」
 それは逃げる云々を置いておいて、あれを恋人にしておくのを、というアルフレッド渾身の叫びだった。あんな恋人怖いじゃないかいっ、と叫ぶアルフレッドに視線を彷徨わせた後で目を合わせ、マシューはふふ、と穏やかに微笑む。
「あのね、アルフレッド。確かにアーサーさんは、ちょっと怖いこともあるけど」
「ちょっと……?」
 程度を表す言葉に極めて懐疑的な呟きを発したアルフレッドに、英連邦の長女は笑顔で頷いた。
「怖くても綺麗で美人だから、アーサーさんは良いんだよ。怒ってる顔も素敵ってすごいよね」
「マシュー……俺、ちょっと泣きそうなんだぞ」
「ねえアルフ。なんでアーサーさんなのか、って聞いたよね」
 仕方がない、とマシューは苦笑していた。教えてあげるからよく聞くんだよ、と言いながら立ち上がって、マシューはアルフレッドと視線を合わせる。不安げな視線を見つめ返し、マシューはアルフレッドの頬に手を添えた。二人の距離を近くして、マシューはくすくす笑いながら告げる。
「僕はね、アルフ。君が望むならなんだってしてあげる。どんな願いも叶えてあげるし、どんな望みも忘れないでいてあげる。ヒーロー、君が泣きたい時には抱きしめて、僕にも涙が見えないようにすればいい。……君が望むならなんだってするよ、アルフレッド。でも僕は、アーサーさんの為に、アーサーさんが望まないこともする。そういう風に気持ちが生まれて育って行った。気が付いたらもう愛しくて、恋をしてたんだ」
「……分からないんだぞ」
「アルフレッド、君、誰かに恋したことある? どきどきして、わくわくして、その気持ちがなんだかも分からなくて。考えて考えて、悩んで、考えて、どうしようもなく心が、これは恋だという答えに辿りつく。そういう気持ちが胸の中に生まれたことは、ある?」
 これが恋。これを恋と呼ばないなら、もうどんな気持ちも好きだと歌い出すことはしない。そんな気持ちを持ったことは、あるの。そっと言い聞かせるように囁かれて、アルフレッドは悩みながらも分からない、と言った。ある、とは思えない。ない、とも思えなかった。きっと育ち切れなかった気持ちならばあって、けれどまだそれを恋だと、どうしうようもなく認めてしまう風にはなっていなくて。分からない、とアルフレッドは言った。
 素直な反応に、マシューはふわりと微笑んだ。
「その気持ちが抱けるようになったら、きっと僕の言うことも分かるよ」
「なんだか、ずるいんだぞ……」
「君はどんな恋をするだろうね、アルフレッド。今言っても仕方がないけれど、幸せな恋であればいい、と思うよ」
 唇をそっとアルフレッドの眉間に押し当てて、マシューは穏やかな仕草で兄弟から身を離した。行ってきます、とでも言いたげな笑みで立つマシューをもうすこしだけ、と引きとめてアルフレッドはアーサーを振り返る。アーサーは今や、これ以上はどうにもならないであろう不機嫌顔で腕を組み、仲良くじゃれあう兄弟を見つめていた。終わったか、とばかり壮絶な睨みを向けられるのに引きながら、アルフレッドは問いかけた。
「アーサー、俺が誰だかもう一回!」
 これでちゃんとマシューを渡してあげるからっ、とどこか必死に言い募るアルフレッドに、アーサーはやや面倒くさそうな顔つきで腕組みを解き、それから甘やかす困り顔で唇を開く。アルフレッドはなんのためらいもなくマシューを踏み出させようとしているのであれば、応えるのがアーサーの役目だった。
「アルフレッド、だ。お前が、アルフレッド。アルフレッド・F・ジョーンズであり、アメリカ合衆国。俺が幼きを育て、俺から独立した、可愛げのない世界の超大国。……そうだな?」
「そうだよ! 俺が君のアルフレッドだ。じゃあ、こっちは? アーサー」
 にこにこ、三段重ねのアイスクリームを前にした時よりずっと嬉しそうな笑顔で頷き、アルフレッドはマシューをぴっと指差した。マシューは戸惑うように瞳を揺らし、恐る恐るアーサーを見つめてくる。真正面から見て、アーサーはさすがに意識が揺れるのを感じるが、呼吸でそれを振り払った。
「マシューだ」
 びく、とマシューの体が震えるのが見えた。大丈夫、と言い聞かせるように、アーサーは静かに手を差し出した。今度こそ、重ね合わせることを祈った。
「マシュー・ウィリアムズ。英連邦の忠実なる長女。カナダ。……意外と頑固で、どうしようもない、俺の恋人だ」
「アーサー……」
「困らせるな、マシュー。……マシュー、もういいだろう。怖がらないで、こっちへ。俺は大丈夫だから」
 それに今の状態がいつまでも続く訳でもないから、と呟けば、マシューはハッとした顔になってアーサーと向き合った。コツ、と靴音が鳴る。一番最初の音だけ靴底がずれ、不愉快な音を奏でた足音は、二歩目からまるで別人のものだった。落ち着き払った、覚悟を決めた様子で、マシューはゆっくりとアーサーに歩み寄って行く。それをアルフレッドは満足げに眺めやり、やれやれ、と言わんばかりに扉に背を預けた。
 一歩ずつ、確かに自分の意思で距離を近くして。やがて至近距離で瞳を覗きこむようにして立ち止まり、マシューはごく自然な仕草でアーサーに対して膝を折る。片膝を折って頭をさげれば、アーサーの右の手がひらりと差し出された。押し戴くようにして指先ですくいあげてから、マシューは恭しくアーサーの指先に口付けた。五指の先端に唇をかすめさせて、それから手の甲に口付けを落とす。アーサーはくす、と笑った。
「マシュー?」
「はい」
「……俺に会えたのに、まだ触れるだけのキスなのか、お前は」
 くすくす、と笑ってアーサーは手の甲でマシューの頬を撫でる。くすぐったく肩をすくめながら、マシューは静かにアーサーの目を覗きこんでいた。この距離でしっかりとアーサーを見るのは、本当に久しぶりのことだった。溜息がもれて行く。もう、どうしても、離れたくなかった。アーサー、と立ち上がれば口付けられる距離で名を呼べば、うん、と問いかけに笑う声が囁いてくる。なんだ、マシュー、と優しい声が名を呼んだ。
 きゅぅ、と目を細めて見つめながら、マシューはアーサーに向かって手を伸ばす。
「……あなたに触れたい、です」
「どこに? 言えたら触れさせてやろう」
 さあ教えて、と笑みが溶け滲む緑の瞳こそ、マシューが恋したものだった。それが今、同じ気持ちを宿して見つめ返してくれている。幸せで息をつめてしないながら、マシューはなんとか口にした。
「……くちびる」
「スマートに言うと?」
「っ、キスさせてください!」
 ああもう、あなたからかってばかり、とぷぅと頬を膨らませるマシューに、アーサーは笑いながら唇を寄せた。はいはい、と幼子を宥めるのと同じ仕草で頬に口付けられて、それが離れていくのをマシューの手が押しとどめる。手を後頭部に回して、支えながらぐい、と引き寄せた。そっと、唇が重なる。ごく幼い、一度きりのキス。すぐに唇を離したマシューは、次の瞬間目の奥に尋常ではない痛みを感じ、強く目を閉じてしまう。
 時間にして、一秒か二秒。先程感じた警告のような痛みより遥かに強い激痛は、しかしそれだけですっと消えてしまった。は、と短く息を吐き出して目を開く。なにが起きたのか、よく分からなかった。視界もホワイト・アウトしてしまっていて、ぼんやりとしか物を移さない。瞬きをしたり、目を細めるとなんとなく見えるので一時的なものだろう。不安に思わなかったのは、頬を包み込むアーサーの手の温かさがあったからだ。
 慈しむようにマシューの頬を撫でる手は、くすくす、と堪え切れない幸福の笑みの気配も滲ませる。アーサーが笑っていた。だから悪いことは、なに一つある訳がないのだ。ゆっくり視界が色と像を取り戻し、やがて見ることのできたアーサーの笑顔に、マシューは静かに微笑んだ。
「……なにか良いことありました?」
「ああ、すごく。……ありがとな、マシュー。妖精の契約は、終わりだ」
「……え?」
 虚を突いてしまった表情で目を瞬かせるマシューに、アーサーは本人にだけ教えなかった解呪を囁き聞かせる。
「想いのこもった恋人のキスは、全ての契約を無効にし、魔法も呪いも退ける……いつか教えてやったろう?」
「……覚えてないです」
 ややむくれた声なのは、利用されたと感じたからだろう。知ってた、この人がこういうひとだって知ってたけど、と溜息をつくマシューに、アーサーはんー、と首を傾げて。それから頬に触れさせたままだった手を動かして、ぐい、とやや強引に視線を合わさせた。ぐき、とマシューの首が嫌な音を立てるが、アーサーは全く痛くないので、あえて無視して呼びかける。
「なあ、マシュー」
「……はい。なんですか」
「こら、拗ねるな。せっかく大人のキスでも教えてやろうと思ったのに。言っただろう? それとも、それも忘れたか?」
 今なら一生忘れられないような濃厚なので教えてやるよ、と言い放つアーサーの瞳は、悪戯っぽく輝いていた。恐らくマシューはこれからずっと、その気まぐれでわがままな輝きに振り回されるに違いない。それでも、もう、傍からは離れないのだ。当たり前のことを当たり前に確認して、マシューは仕方がないですね、と苦笑を浮かべてアーサーに顔を近づける。
「教えてください。知ってるけど」
「……どこで覚えて来た、不良」
 くくっと喉で笑いながら、アーサーはマシューに引き寄せられるままに顔を寄せてやる。どこか遠くで、アルフレッドの絶叫が響き渡った。直後にうるせぇよっ、とアーサーが怒鳴りつけてからキスが再開されたので、マシューはとうとう、あることを言わないままだった。あなたがすることなら、どんなことでも。一生忘れはしませんよ、と。



 会議室に、夕焼けの光が忍び込む。眩しげに目を細めて外を見つめながら、アーサーはいい加減行くか、と呟いた。唇を手で押さえたマシューがこくこくと頷き、兄弟の身の安全を守るように張り付いていたアルフレッドが、仕方がないと立ち上がる。フランシスと菊はいつの間にか居なくなっていて、英連邦の教育的にとても良くないと判断したので、彼らを送って先に帰ります、と置き手紙だけが机の上に残されていた。
 今夜中に、デジカメのデータとビデオカメラのデータはどうにかしなければいけないだろう。そう言えばバッチリ撮られてたな、と今更すぎることを思いながら、アーサーは仲良く手を繋いで会議室の扉を開けているマシューとアルフレッドを見つめた。夕焼けの色が、今日はやけに濃い。いつか流れた、血の色のようだった。思わず、なぜか足を踏み出すことも、声を出すこともできなくなったアーサーを、二人が振り返る。
「アーサー?」
 行こうよ、とばかり首を傾げたアルフレッドの傍らで、マシューがはい、とばかりに手を差し出して来る。その手を、なぜかアルフレットがぎゅぅ、と繋いでしまった。両手をアルフレッドと繋ぐ形で見つめ合い、マシューはあのね、と溜息をつく。
「アルフ。左手は君にあげるから、右手はアーサーさんと繋がせてよ」
「今日はもうアーサーのマシューはお終いなんだぞ! 今日はもうぜーんぶ俺のマシューなんだからなっ!」
「ふざけんな。二十四時間年中無休でマシューは俺のだ」
 過去の呪縛が綺麗に崩れて、アーサーの喉が声を発する。ふっと楽になった気持ちで一歩を踏み出して近寄って行けば、アルフレッドはやや怯えたようにアーサーを見返し、けれど満面の笑みを浮かべて言い放つ。
「アーサー、大好きだぞっ!」
「知ってるよ、アルフレッド。俺も好きだ」
 だからマシューの手は離そうな、と笑いながら告げるアーサーに、アルフレッドはこの上もなく良い笑顔で言い放った。
「やーなこった!」
 今こそ戦略的撤退なんだぞっ、と大爆笑を堪える一歩手前の表情で、アルフレッドはマシューを連れて走り出す。廊下に踊り出た二人を追いかけて、アーサーも走り出した。ちょっとっ、と笑いながら抗議しつつも一緒に逃げて、マシューは顔だけ振り返ってアーサーを呼ぶ。アーサー、アーサー、と笑いながら名を呼ばれて、なんだよ、と言い返した。マシューは幸せそうに、満面の笑みで頷く。
「アーサー! 愛しています」
「……俺もだ、マシュー」
 愛してる。囁きが空気に溶け、むぅっとした顔つきをしたアルフレッドの足が早くなる。二人の行き先はホテルのロビー。出入り口からちょうど、英連邦を送って帰って来たフランシスと菊が入ってくる。あの進行方向だと巻き込まれるんだろうなぁ、とアーサーの予想にたがわず、数秒後四人分の悲鳴と笑い声がロビーに響き渡った。夕陽が世界を照らし出している。これから世界は、夜を迎えることだろう。けれど、朝は来る。
 誰も、もうそれを疑わなかった。

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