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 1 晴れの日だから

 目覚める前から、快晴であることが分かる。それくらい温かくて、綺麗な空気が部屋の中には満ちていた。息を吸い込むだけで、肺の中まで光に満たされて行く。すう、と息を吸い込んで幸福感に口元を緩ませ、マシューはゆっくりとまぶたを持ち上げた。メガネをかけていないからぼやけてしまう視界でも、金色に光る輝きの欠片はハッキリと見えた。窓から差し込む光は、まだ多く傾いていない。時計を見れば早朝だった。
 ふうわりと部屋を暖める光に眠気を刺激されながらもベットの上で上半身を起こして、枕元に置いておいたメガネをかける。とたんに焦点を結んだ視界に目を瞬かせながら、マシューはベットに座り込んだまま、窓の外を眺めた。遠く、大きな雲が二つだけ浮かんだ青空だった。大気を突き抜けて届く蒼に、気持ちまでもが浮かび上がってくる。晴れていて嬉しい、だなんて。それだけで喜ぶ幼さは、昔に置いて来た筈なのに。
 僕もまだ若いってことなのかなぁ、と肩を震わせて笑いながら呟き、マシューは壁にかけてやるカレンダーに目を向けた。今日の日付を見る。特に公的な行事もなく、仕事の締め切りでもない。平日でありながら、休日のような中途半端な一日だった。いつもならいっそ仕事に行こうかな、と思うくらいにやることのない日だ。冷蔵庫に食料はいっぱいに詰め込んであるし、庭の木も花も手入れをしたばかりで調子が良い。
 家の中はいつもきちんと整えているので大がかりな掃除も必要ではなく、模様替えという気分でもない。読む本を探しに図書館や本屋に出かけても良いが、こんなに良く晴れた日に、室内で読書をするのはもったいない気がした。もちろん、それがとびきりの贅沢だと感じる日もあるのだけれど。ふぁ、ともれてくるあくびを好きにさせながら、マシューはうーん、と首を傾げて考えた。やることがない。焦る気持ちにもならない。
 そして、二度寝する気にもならない。うーん、ともう一度逆に首を傾けて考えれば、視界の端でもぞりと白いもこもこが動く。その正体を知りながら視線を落とすと、ベットの中でもぞもぞと、クマ次郎さんが身動きをしていた。マシューが起き上がったので、クマ次郎さんにかかっていたシーツがなくなってしまったのだった。もちろんシーツがなくともクマ次郎さんは眠れるが、一緒に暮らしているので、どうも落ち着かないらしい。
 ナンダヨ、とやや不機嫌な声で呟くのにくすりと笑って、マシューはクマ次郎さんにごめんね、と言いながらシーツをかけ直してやる。自分はシーツをかぶらずに横に添い寝して、幼子にそうするようにぽんぽん、と体を撫でてやればクマ次郎さんは満更でもないらしい。子供扱イスルンジャネェヨ、ともごもご呟きながらもひたすら眠そうで、そしてすぐ、夢の国へと戻って行ってしまった。しばらく撫でてから、そっと手を引く。
 大好きだよ、と言ってぎゅうぎゅうに抱きしめたい気持ちもあるが、我慢してベットから立ち上がる。せっかく気持ちよく眠っているのだから、そんなことで起こすのは可哀想だった。抱きしめることは好きだった。体温と鼓動が近くて、気持ちが伝わりやすい気がする。撫でていたことでクマ次郎さんの体温がうつって温かい手のひらにキスを一つ送り、マシューはクーロゼットの扉を開けた。なにを着ようかな、としばらく考える。
 ここしばらく緊急の呼び出しもないので、スーツでなくとも良いだろう。空軍の軍服も気にいってはいるが、仕事がらみで出歩くでもない普通の日に着ていたいほど、それを好んでいる訳でもなかった。クーロゼットには若者が好んで着るであろうラフな服と、それよりもうすこしきっちりした印象のセミフォーマルな服。カジュアルなパーティーに着て行けそうなフォーマルな服も区分けされず、ごちゃごちゃになって入っていた。
 たくさんの服が好き勝手に入っているからこそ、なおのことマシューの目を迷わせた。もしかして、一度クローゼットの中も整理整頓しなければいけないかも知れない。朝の着替え時間短縮の為にも。結局二十分かけて白地のシャツと黄色のパーカー、ジーンズを選びだしたマシューは、手早く着替えて寝室を出て行く。キッチンに向かう前に洗面台の前に立ち、顔を洗ってタオルで拭きながら、鏡を覗いて溜息をついた。
 ヒゲの生える早さや濃さというのは、体質や人種でも全く異なるという。ちょうど二十代になったばかりの外見を持つ青年として、マシューは洗面台の前に、きちんと剃刀とクリームを置いてあるのだが。悲しいくらいにそれは使われる頻度が低く、今日もインテリアの一部として終わりそうだった。つるつるのあごを手で撫でながら、マシューはまあいいんだけど、と自分を慰める為に呟く。そんな毎日剃るのも、きっと大変だし。
 それでも幼心に、フランシスが毎朝ヒゲを剃る姿には、男としてちょっとした憧れめいたものも覚えていたのだが。今は確実に毎日剃ってないんだろうなぁ、ぶしょうヒゲだし、と本人がおしゃれの一環だとしていることを完全無視で一人呟き、マシューはとぼとぼとキッチンに向かう。まずは居間の窓を開けて新鮮な空気を光を部屋に取りこみ、大きく伸びをしてから冷蔵庫の前に立つ。朝食のメニューは、ほぼ毎日同じだ。
 それでも一応、マシューは毎日、毎朝、なにを作ろうかなぁ、とは考えるのだ。これが会議の日で外に泊まっている時の外食であるなら、朝食はメニューを見て決めるので、わりとバリエーション豊富な光景が食卓に並ぶのだが。考えても結局、今日も同じものを食べたくなってしまった。仕方がないよねー、と誰に対するでもなく歌うように呟いてマシューは冷蔵庫を開け、卵をいくつかと牛乳、バターを取り出して閉めた。
 ボウルに卵を割り入れる仕草はフランシスそっくりで、一流の料理人のように手なれたものだった。鼻歌を歌いながら卵をほぐし、牛乳を入れて混ぜ、ホットケーキミックスを加える。片手で抱え込むように混ぜながら足で器用に収納の扉を開き、メイプルシュガーを取り出してひとさじ、ふたさじ入れて、こんなものかなぁ、とマシューは首を傾げた。その日の気分でも甘みの好みが変わるので、量は決めないことにしている。
 今日はもうひとさじ、メイプルシュガーをホットケーキのタネに加えた。フライパンを火にかけてパターをひとかけ放りこみ、弱火にした所でタネをオタマですくって流し込む。じっくり焼く間に小鍋を取り出して水を入れ、これも火にかけながらコンソメスープの元を放りこんだ。本当は砕いて入れるのだが、四角がゆるゆると溶けだし、ほろりと崩れて行くさまを見るのが好きなので、マシューはそのまま入れることにしている。
 冷蔵庫にあった使いかけの中途半端な野菜を全部切ってしまって、ちいさくしたそれらをスープの中に放り込む。そろそろかな、とホットケーキをひっくり返れば、ちょうど良い焼き具合で思わず口元が緩んだ。深く濃い焦げ茶色に焼けた表面はバターを吸って艶めき、なにより素晴らしく良い香りだ。スープは簡単に塩と胡椒で味を整えれば、野菜の甘みがとけこんだ優しい味となって、空腹で待つ口の中へふわりと広がる。
 ホットケーキの一枚目を皿に移して二枚目のタネをしき、スープマグを一つだけ先に取りだしてよそい、木のスプーンと一緒にテーブルへ置いておく。二枚目をひっくり返す頃にはクマ次郎さんが起きてきて、やや寝ぼけた顔で木のスプーンを器用に持ち、マシューのスープを口に運んでいた。二枚目を皿に移しながら、マシューはクマ次郎さんにおはよう、と言う。オハヨウ、ウマイ、と返されて、マシューは嬉しく微笑んだ。
 誰かに美味しいと思って食べられる御飯くらい、幸せなものはない。そういう点ではアーサーの御飯だってすてたものではないのだ、と思いながらマシューは二枚重ねのホットケーキと、焼き立てのもう一枚を持ってテーブルへ向かう。アーサーの御飯は味と見かけはともかくとして、愛情と食べる者を想う気持ちなら誰にも負けないくらい詰まっているのだ。だからこそピーターは毎日、文句を言いながらも食べているのだ。
 食事が美味しくて楽しいのは、共にある人と喜びを分かち合えるから、で。食べるものは、美味しいことに越したことはないが、本当はどんなものだって幸せに代えてくれるのだ。焼き立ての一枚をクマ次郎さんの前に置きながら、マシューは二枚重ねの方を自分の方に置き、椅子に腰かけて祈りの形に手を組みあわせた。食事前の祈りは簡単に、けれど気持ちを込めてすることにしている。ありがとう、の感謝の気持ち。
 よしじゃあ頂きます、とマシューが言うのを待っていたのだろう。祈りこそしないもののクマ次郎さんもイタダキマス、と言ってホットケーキにぺこりと頭を下げたのを見て、マシューは手を伸ばして頭を撫でてやった。ふわふわ、もこもこ、さわり心地を堪能してから手を離すと、毎朝のことなので文句を言うことも諦めたらしい。クマ次郎さんはものすごく仕方がなさそうな顔つきで、それでもマシューが満足げなのを確認していた。
 それからの食事はいつも穏やかな静けさで、会話はあまりないのが普通だった。一枚目を食べ終わったマシューがテレビを付けてニュースを眺めるのも、いつものことだ。国際情勢や国内情勢がめまぐるしく流れて行く画面を見つめながら、しかしマシューは普段にはない言葉をぽつりと落とす。クマ次郎さん、と呼びかける声は緊張に冷えているようでもあった。視線を画面に固定したまま、マシューは静かに呟いた。
「今日……おでかけ、しよっか」
 どこに、とマシューは告げなかった。それでもクマ次郎さんには何処へ行くかが分かったので、行き先を問うこともせずにこくりと頷く。目ではニュースの映像を追いつつも、頷いたことを確認したのだろう。ふわんとマシューを取り巻く空気が緩み、安堵したことを伝えてくる。それでも視線は、クマ次郎さんに戻って来ない。なにか恐れるように頑なに画面に向けられたまま、その横顔はすこし、青ざめて見えた。
「マシュー」
 繰り返して来た言葉だった。繰り返して来た、ことだった。だからと言って伝えないで良いこととも、伝わらないで良いこととも思わないので、クマ次郎さんはため息交じりに飼い主の名を呼ぶ。いつまで経っても仕方がないと、思いながらもそこは、言葉に出しはしなかった。
「行クケド、俺ハカエッテクルゾ。一緒ニ行キ、一緒ニカエル。オイテクルツモリナラ、俺ハイカナイ」
「置いてかないよ! クマ次郎さんはうちのコだもんっ。……でも、白くまさんと一緒の方が良いこともあるかなって」
「……俺ハ、『国』ト共ニ在ル生キ物ダ。オ前ト一緒ガ、一番嬉シイ」
 良イ天気ダカラ顔ヲ見ニ行ク、ソレダケダ、と言って、クマ次郎さんは椅子からぴょい、と飛び降りた。のそのそ歩いてマシューの足元まで行き、抱き上げようとしない飼い主を見上げて、ぽぷぽぷ、と太ももを手で叩いてやる。
「マシュー」
「……うん」
「オ前ハ、ジツニバカダナ」
 うん、ともう一度呟いて、マシューはクマ次郎さんを抱き上げてぎゅぅっと抱きしめた。腕がかすかに震えている。手はひんやりとして、すこし冷たい。それでも、マシューは泣かなくなった。顔を頬に擦り寄せれば、くすぐったさにだろう、瞳が細められる。ペールトーンの、グリーンの瞳。淡く輝くオーロラのようにかぶさっていた、不思議な紫の色彩は、もうどこにも見えず消えていた。その色が消えてから、二日目の朝。
 マシューの恋が戻って来て、二日目の朝のことだった。



 呼び鈴を押すか、古風に扉を叩くかで迷っていた所だったのだろう。扉を開けた所で身を強張らせて立っていたアーサーの姿にそう予想して、マシューはいらっしゃいませ、と声をかけた。なにを聞くにも、出迎えの言葉を送るのは重要だろう。ああ、と戸惑ったように、困ったように眉を寄せて立つアーサーの格好は、今日もセミフォーマルなものだった。落ち着いた色合いの白いシャツに、ネクタイとスーツは濃い藍色だ。
 仕事用とはまた違う革靴は丁寧に磨かれていて、汚れひとつ見当たらなかった。対してマシューの格好は、シャツに黄色いパーカーにジーンズである。特におかしい格好でもないが、磨き上げられた紳士のごとき人の前に立つと、少々気恥かしい。しかし、それは相手も同じだったようである。服装の差異に戸惑ったような気恥かしさで視線をうろつかせ、アーサーはやがて、ひとつの疑問を落ち着いた口調で表した。
「どこかに、出かける所だったのか?」
 マシューの動きやすそうな服装のみならず、パーカーのポケットに携帯電話と財布が入っているのを見た為の問いだった。悪い、出直す、と身をひるがえして早足に去ってしまおうとするアーサーの腕を捕まえて、マシューは振り返った瞳に柔らかく微笑みかけた。
「出かけますけれど、ちょうどよかった……アーサー」
「……えっと」
「今日は休暇なんですよね? これから仕事で、その前にちょっと寄った、とかではなく」
 仕事中と大差ないようなアーサーの格好だが、纏う空気は緊張のない日常のものだった。仕事に必要そうな書類や道具の入った鞄も見当たらないので、わざわざ訪ねて来てくれた、ということだろう。嬉しく思いながら確認すると、アーサーはややためらったあげくに、こくりと無言で頷いた。変に迷ったのは、それによってマシューの予定が変更されるのを嫌がってだろう。でも、となにか言おうとする唇に、指を伸ばす。
 ダメ、とばかり人差し指を押し当てて言葉を封じてから、マシューはお願いします、と囁いた。
「なら、今日の時間を僕にください」
「……誘い文句が上手くなった」
 何時の間にそんなこと覚えたんだ、と苦笑しながらマシューの指先にキスをして、アーサーはいいぞ、と頷いてやる。どこかへ出かけようとしてたならそれに付き合う、と続けられて、マシューは赤い顔をしながら手をひっこめた。なんでこんなに心臓に悪いことばかりするんだろう、このひと、とマシューは思っている。だからこそ、そっと視線が逸らされたすきにアーサーが深呼吸をしていたことなど、気が付きはしないだろう。
 恥ずかしいのは、きっと、お互いさまだった。ゆっくり時間をかけて気持ちを落ち着かせて、マシューはええと、とアーサーに向き合いなおす。じゃあ付き合ってください、と告げられた場所の名に、アーサーはいささか意外そうに目を瞬かせた。動物園の名前だった。



 マシューの家から、バスを乗り継いでで一時間。そこまで田舎ではなく、けれど郊外よりはもうすこし外れた場所に、その動物園は立っていた。大人の足でも歩いて半日はかかるであろう広大な敷地に、たくさんの動物が暮らしている。平日ではあるが小さい子連れの家族でにぎわっているので、人気のある場所だというのはすぐに知れた。入り口でチケットを二枚買って、マシューはクマ次郎さんを抱いたままで入園する。
 周囲の人から好奇の視線は向くものの、園を行きかうスタッフはクマ次郎さんとマシューの姿を見かけては笑顔で手を振ったり、軽く会釈をしている。よく来ているのかも知れない。そう思ってなんとなく話しかける気にもなれずに、アーサーはマシューとクマ次郎さんの姿を見ていた。出かける誘いをしておいて、マシューには気分が浮ついた様子が見られない。どちらかと言えば、沈みこまないように努めている様子だった。
 ふわふわした空気をまとうマシューにしては、ごく珍しい姿だ。ここ数十年を知らなくともアーサーがそう感じるのだから、アルフレッドやフランシスが見ればなお違和感は募っただろう。入園して奥に進んで行くでもなく、マシューはしばらくクマ次郎さんを抱っこしたまま、入り口付近に佇んでいた。遠くで、鳥の鳴き声がのどかに響く。それをきっかけに待っていたかのように、マシューはクマ次郎さんを地面に下ろした。
 しゃがみこんで視線を合わせ、マシューはいってらっしゃい、と囁く。
「夕方になったら、ここに戻っておいでね」
「ワカッタ。……アーサー、マシューヲ頼ンダ」
 突然水を向けられて、アーサーは戸惑ったように頷いた。クマ次郎さんは満足げに頷き、それから四つんばいになって園の奥へと向かって行く。途中で飼育員がクマ次郎さんに声をかけて、振り返ってマシューに一礼してから、どこかへと去って行った。それをぼんやり見送って、マシューは大きく溜息をつく。
「……マシュー?」
 大丈夫か、と呼びかければ、マシューはゆっくりとアーサーを振り返り、形だけでも頷いた。疲れているようでもあり、落ち込んでしまっているようでもあった。近づいて腕を広げれば、ごく素直にもたれかかってくる。抱きしめて背を撫でてやりながら、アーサーはマシューの名を呼んだ。
「マシュー……ここには、よく来るのか?」
「……うん」
 はい、ではなく。幼い頃にそうだったように、うん、と告げたマシューに、アーサーは思わず苦笑した。弱っているな、と思う。甘やかしてやることに決めて髪をすくように撫でてやれば、マシューは気持ちよさそうにアーサーの手のひらにすり寄って来た。もっと撫でて、と無言の求め。気がすむまで撫でてやることにしながら、アーサーはもう一つだけ問いかけた。
「俺は、一緒に来てよかったのか?」
「うん」
 ぎゅうぅ、と力いっぱい、マシューはアーサーを抱きしめる。息苦しさを覚えながらも好きにさせて、アーサーはそうか、と頷いた。その言葉があれば、もうそれでよかった。よしよし、と頭を撫で、額に口付けを送って慰めてやりながら、アーサーはゆるく苦笑して囁く。
「なあ、マシュー」
「はい……はい、アーサー」
 なんですか、と返される言葉はもう安定を始めていて、伏せられた視線はまっすぐにアーサーを見つめていた。もうすこし、甘えていてもいいのに。上手く一人立ちしすぎだな、と思いながら、くしゃくしゃと頭を撫でてやる。
「エスコートしてくれるか? Maple Honey.」
 俺はこれでもデートに誘われた気で居たんだが、と微笑むアーサーに、マシューはきょとりと目を瞬かせて。それからぶわっと赤くなり、その場にしゃがみ込んでしまった。マシューとしては本当に一日『付き合って』欲しかっただけで、そんなつもりはなかったのだろう。けれど振り返って考えれば恋人に告げた言葉は、十分にデートの申し込みとして成立するものだった。マシュー、とくすくす笑いながらアーサーが囁く。
 すこしだけ恨めしげな目をしゃがみ込んだまま向けて、マシューはそんなつもりじゃないって分かってたくせに、と呟いた。気が付かなかったな、とうそぶくアーサーの瞳はいたって楽しげで、からかって遊ぶ余裕さえ見え隠れしていた。ものすごく、意地悪だった。そして、どこまでも優しいひとだった。心に重たく落ちていた落ち込みの種は軽やかに花を咲かせていて、もう嬉しさと恥ずかしさで胸がいっぱいになっている。
 どうしようもなく、愛しいひと。言葉に出来そうになかったので、マシューは立ちあがってアーサーに腕を伸ばし、再び腕の中にその人を得た。ぎゅぅ、と抱きしめると温かさが伝わる。ありがとう、と自然に零れて行った言葉は、二度目を繰り返す前に、人差し指で遮られて。ごく軽く触れて離れて行った唇によって、永遠に封じられた。唇に手を当てながら、マシューはぼそりと呟く。
「アーサーのキス魔……」
「……もっとして欲しいなら分かりやすく言え?」
「エスコートですよね、アーサー! それじゃあ、あっちに行きましょう! 小動物に触れるコーナーがあるんですよ。うさぎとか、ミニぶたとか、モルモットとか」
 ここでyesのそぶりを見せようものなら、恐らくマシューは物理的に立ち上がれなくなる。二日前の『大人のキス』を思い出し、それを必死に回避すべく、マシューはアーサーの手を取って歩き出した。ついて行ってやりながら、アーサーはとてつもなく残念そうにちいさく舌打ちをしたのだが。前ばかり見ていたマシューに、聞こえるものではなかった。ただ手は繋がれていて、離されることなど考えないくらいの親密さで。
 まあいいかな、と思って握れば、同じくらいの強さで握り返して来たので。アーサーは、それで良いことにしてやった。



 座り込んだ膝の上で、ベージュ色の毛並みをしたうさぎが気持ちよさそうに寝入っていた。ぶすー、と可愛くないのに可愛らしく響く寝息が、アーサーの口元を緩ませて行く。うさぎはちいさな体を膨らませ、しぼませ、膨らませて一生懸命に呼吸をしているようだった。薄い毛皮の下で、人のものよりずっと早い鼓動が、人のそれよりすこし高い温度で流れている。よいしょ、と声がして、膝の上にもう一匹追加された。
 こちらは灰色の毛皮のうさぎで、耳が長く垂れ下っている。温和そうな顔立ちのうさぎだった。こら、と甘くしかるアーサーに、自身もうさぎを一匹抱きながら隣に腰を下ろしたマシューが大丈夫ですよ、と囁く。
「確かに、気の荒い動物ではありますけど。アーサーなら、二羽一緒でも抱っこ出来ます」
「根拠は」
「……お昼寝してるアーサーさんの傍に、うさぎ何羽置けるかな悪戯実験の映像を見たことがありまして」
 意味のない所に意味を打ち立てるっ、それも私の心意気ーっ、と握りこぶしで絶叫する菊を、アーサーは即座に想い浮かべた。そういえば、いつだったか、そんなことをされた気がしなくもない。起きたらうさぎまみれだったので、妖精のしわざかと思ってもう一回眠って、起きたらあとかたもなくなっていたので深くは気にしなかったのだが。菊もわりと、ろくでもない悪戯ばかりするのだった。害はないので可愛いものだが。
「うさぎさん、もちもちで眠っていたので、大丈夫かなって」
「……危ないから、人にはするなよ?」
 特に人間には、という意味を込めて注意すれば、マシューは分かっています、と囁いてアーサーの膝の上を見つめた。うさぎはやや緊張した様子で睨みあっていたが、それぞれにアーサーが手を伸ばし、優しく撫でてやると落ち着いてくる。おやすみ、と囁くのを理解したようだった。うさぎはアーサーの膝の上で、猫が数匹じゃれついて寝るのと同じように重なり合って眠り、やがてぷすー、と二種類の寝息が聞こえてくる。
 魔法みたいですね、と無邪気に笑うマシューに、アーサーは口元を綻ばせて笑う。
「魔法だからな」
「え?」
「……って言ったらどうする」
 驚きにまあるく見開かれたマシューの目を覗きこむアーサーは、悪戯っぽい顔をしていた。本当のことにも思えるし、嘘をついて見破られるのを待っているようにも見えた。どっちですか、と問いかけるマシューに答えを告げず、アーサーは視線を空へと向ける。雲一つない快晴の空。乾いた風が吹き抜けて、すこしだけ喉を痛めていく。
「クマ次郎……さん、まで名前だっけ? ……なんで、動物園に連れてくるんだ?」
 運動させるなら近所の公園でもいいだろう、国立公園あるんだから、と告げるアーサーの口調はよどみなく流れ、何度も胸中で練習してから吐き出されたものだと分かった。気遣いばかり、上手な人だ。それに甘えてしまいながら、マシューはそっと目を伏せて呟く。天と地に分かれて、どうしても視線が合わなかった。
「……怒りません?」
「怒るような理由なのか?」
「クマ次郎さんには、怒られました……僕の気がすむように、今日も付き合ってくれてますけど」
 怖いんです、とマシューは言った。アーサーの視線を追いかけることもなく、隣に座りながら、同じものを見つめることもせずに。膝の上に抱き上げた白いうさぎが眠るのを見つめながら、恐ろしいほど綺麗な声で囁いていく。
「もし、クマ次郎さんがどこか……行っちゃったらどうしようって、時々怖くなるんです」
「……うん」
「いつか、そんな日が来てしまう気がして。だから……予行演習、というか。心の準備、でしょうか」
 居なくなっても、大丈夫なように。目の前から消えてしまっても、戻ってくるのだと、信じていられるように。その為の練習で、その為の準備。眠るように穏やかに目を伏せ、マシューは言った。
「いきなり、居なくなるのは……もう、嫌だから」
 あ、と。声をあげようとして、アーサーは言葉を飲み込んだ。そうなって行った気持ちの過程は、分からない。けれど原因なら、嫌になるくらい心当たりがあった。マシューの前から、大切なものが『いきなり居なくなった』のは三回にもおよぶ。一回目は、恐らくフランシス。フランス支配下からイギリスの支配下に移されるその時を、あらかじめ言い聞かせて置いたとは考えにくかった。二回目は、アルフレッド。マシューの兄弟。
 三人で過ごした幸せな時の終わりは、アルフレッドの独立が告げた。国内がざわめいていたとて、それは隣国のこと。そして未だ、マシューが成熟していなかった頃。突然だったと感じるには、十分だっただろう。そして三回目はアーサー。訪れた屋敷で、記憶ごと、思いごと全て代償に差し出して封じる覚悟をしてきた訳がなく、一瞬の決意、一瞬の決断だったからこそ。三回に渡って、傷は刻まれてしまったのだった。
 クマ次郎さんは、それを知っているに違いない。だからこそマシューの願いに付き合い、だからこそアーサーに頼んだのだ。頼んだ、とアーサーは言われた。ならばそれが、全てだ。過去は消せない。改竄することも叶わない。時間は一方向にしか流れない。だからこそアーサーは、いまここに居る。マシュー、と呼びかける。天に向けていた視線を、マシューへと戻す。地に伏せられていたマシューの視線が、ゆるく上がった。
 そして、アーサーと出会う。ゆるく微笑むマシューに、アーサーは手を差し出した。戸惑いがちに見返してくるのに、アーサーはハッキリとした声で言う。
「ゆっくりでいい。お前が俺を待ってくれた分だけ、俺も待つ」
「……アーサー?」
「もう、お前の前から居なくならない。……ゆっくりでいいから、信じてくれ」
 なにも、言葉では答えず。マシューはじっと、アーサーの手のひらを見つめていた。やがて戸惑い、怯えるようにしながらも、そろそろとマシューの手のひらが持ち上がり、重ねられて。指先が絡まり、誓いを受理するように口付けが落とされた。

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