職人の手によって作られてから百年以上は優に経過しているであろう木製のちいさなチェストは、森の奥にひっそりと根を張る大樹と同じ気配がした。もしかしたら、かつては同じものであったのかも知れない。他愛ない想像をめぐらせながら、シーランドは色褪せてなお鮮やかに染まるチェストに彫られた赤い花の模様を、ぼんやりしながら見つめていた。窓を透かして降り注いでくる陽光が、室内の空気を暖めて揺れ動いている。
清潔に整えられた室内は、妖精の助けもあってか埃のひとつ、塵のひとつも落ちていない。そっと息を吸い込めば花瓶に活けられた花の香がほんのりと肺を満たし、甘く芳しい気配を振りまいて消えていく。アーサーが庭で育てている花を、マシューが朝露も消えぬ早朝に数本切り取り、芳香剤代わりに活けたのだった。今はどこでも芳香剤が売られているが、科学的な良い匂いより、ピーターはその庭の匂いが好きだった。
花の香り、水の匂い。土の香り、緑の葉の匂い。切り取られた命の、凛と背を伸ばして咲く気配。生きている、瑞々しい気配そのものを持つ生花が、ピーターはとても好きだった。ゆっくりと息を吸い込み、そして吐き出す。目を細めてうっとりと意識をまどろませたかったのだが、それができない理由があって、ピーターはもう一度、息を吐きだした。溜息だった。意識と視線を窓辺のチェストと、その上の花瓶から、体の前に戻す。
ピーターが座っていたのはゆったりとした椅子で、その前にはテーブルが置かれている。ティーテーブルではない。数人で食事をする為の、ごく標準的なテーブルだ。一枚の木を切り出して作ったという重厚な板はニスが塗られ、丁寧に磨きあげられている。その上には、繊細に編まれたテーブルクロスが敷かれていた。生成りのレース糸で編まれた大ぶりなモチーフは、ほぼ正確な円を描いてテーブルの上に横たわっていた。
イングリッシュブレックファストが似合いそうなそのクロスの上に、置かれていたのは全く違うものだった。ピーターは言葉にならない気持ちを持て余しながら、両手を伸ばして透明な硝子のグラスを両手で持ち上げる。カランと氷が涼やかに鳴るグラスの中に、満ちていたのはカフェオレだ。ティーオレではない。コーヒーの香りがごく微かに漂ってくる薄琥珀色の液体は、確かにカフェオレなのだった。ストローをぱく、と口にくわえる。
無言で吸い上げて飲み込めば、ピーターの好みに調節された、甘めの風味が広がって行く。ごくんと喉を鳴らして飲み込んで、ピーターははぁ、と溜息をついた。この家でコーヒー関連のものが出てくること自体が、一種の異常事態である。家主が不在であるのなら事情はまた違ってくるが、テーブルを挟んだ向かいにはアーサーがゆったりと腰かけているし、その傍らには常と変わらぬ微笑みを浮かべたマシューの姿もある。
二人は微笑みあいながら、ピーターが完全に聞かなかったことにした、とある問いかけの答えを待っていた。言葉が放たれてからかれこれ十分は経過しているのにも関わらず、二人には一向に諦める気配がない。片や沈黙すら手の中で転がし遊ぶ、外交の達人。片や、カナディアンタイムを体現するひとである。時間を引き延ばして忘れさせる、というピーターの作戦はそもそも立案から間違っているのだが、後には引けなかった。
早く忘れてなかったことにしてくれないですかね、とげっそりしながら目をすがめるピーターの視線の先を絡め取り、濃緑色の瞳があでやかに笑う。神秘を宿す、森の息吹色の瞳。抗えぬ魅惑的な輝きに、ピーターはぎくりと体を強張らせた。逃げられる気がしない。それでも抵抗して視線を引きはがし、ピーターは再び、目の前のテーブルに視線を不時着させた。
「……ピーター?」
答えを促して微笑むアーサーの声はもちろん聞こえていたが、ピーターはぷるぷると首を振って『聞こえていない』ことをアピールする。聞きたくない、あるいは聞こえなかったからなにも答えない、と言いたげな幼子の仕草に、アーサーはくつりと喉を震わせて笑う。その笑みこそを守るように、ふわりと穏やかな意思が満ちる。その気配の主を、見ずともピーターは知っていた。英連邦の長女にして彼らの『長兄』、主君の恋人。
マシューは笑むばかりで口を挟まず、アーサーを諌めることもせず、ピーターからの言葉を待っていた。ピーターはふよりふよりと視線を泳がせながら、テーブルに並べられたランチメニューに本日の乱心を、改めて思い知る。完熟トマトととろけるチーズのホットサンドの隣には、薄切りのトーストで作られたBLTサンドが並べられていた。サンドイッチのつけあわせは皮つきのフライドポテトに、キツネ色に揚げられたオニオンリング。
ポテトとオニオンのディップソースはケチャップにマスタード、マヨネーズソースにチリソース、タルタルソース。まるきりジョーンズ家の食卓のようだが、まぎれもなくこれは、カークランド家のランチである。本日の料理人はマシュー・ウィリアムズ。アルフレッド・F・ジョーンズではなかった。アメリカン・スタイルのランチ。それも、アーサーが居る日に。ありえないことだが、それでもピーターは、ある確信を持ってマシューを信頼している。
英連邦の長女。彼らの長兄。アーサーの恋人であるひとは、例えなにがあろうとも、心を捧げたひとの意思に反することはしないのだ。その意思に背くことはあっても、裏切ることは決してない。つまりこのアメリカン・スタイルは、ある程度アーサーの許可を得た元で制作されたのである。そうでなければテーブルに並ぶ筈もないし、そもそもマシューは作らないだろう。ピーターは冷たいカフェオレをもうひとくち、飲んで喉を潤した。
とある休日の昼下がりである。ごく普通の休日である筈だった。大がかりな会議を控えている訳ではなく、通常の執務の合間に出来た休養日でもない。明日に備えて動かなければいけない用事もない。困ったくらいに平和な休日で、だからこそ乱心したのかも知れない、とピーターは停止しそうな思考を動かし、考えた。さもなければこんな異常事態、発生しようがないのである。カラン、と音を立ててグラスの中で氷が回る。
「……なにを言ったのか、聞こえなかったのですよー」
どうしても、どうしても、保護者と長兄に諦める気配が見られないので、仕方なくピーターはそう呟いてやった。ふてくされたような、それでいて恐る恐る響いた返答に、アーサーの唇に笑みが深まる。勝った、と言わんばかりだった。負けた、とピーターの気分が軽く落ち込む。そもそも勝ち目のない戦いではあったのだが、沈黙に耐えきれず、言葉を返してしまった時点で相手の手のひらの中なのである。負け戦の開始だった。
笑みを宿した森の瞳が、す、と麗しく細まる。聞こえなかったか、と滑らかな質感で響く声が、温められた空気を揺らした。
「だから、お前は好きな女の一人くらい、いないのかって聞いたんだよ」
どうしようもなく繰り返されてしまった言葉に、ピーターはなんだか泣きそうな気持ちで、保護者と視線を重ね合わせた。恨めしげに睨んでも、子猫が前足でてしてし叩くくらいにしか感じないのだろう。微笑ましい、と言わんばかりに笑みは愛しく深まるばかりで、ピーターは恥ずかしさに眼光を緩ませた。突っ込みどころはたくさんある。しかしあえて一つを選ぶとするならば、どうして『一人くらい』になるのか、とピーターは言いたい。
二人も同時に居たら、問題だと思うのだが。ちゅー、とストローでカフェオレを吸い上げるばかりのピーターに、アーサーは愛おしく微笑みながらも、わりと真剣な気配を漂わせて答えを待っている。ちら、と視線を動かしてみればマシューはやんわりと微笑むばかりで、助けを望めるべくもなかった。しかしそんなことは、『存在』として確立した時から分かっていたことだ。特にこういう時のマシューは、絶対にアーサーの味方である。
ピーターは頬を膨らませて、ぶく、とストローから息を吹き込む。
「居ても、居なくても、良いじゃないですか。アーサーには関係のないことなのですよ」
「……まさか、居る、のか?」
どうしてその結論に至るのですかこのあんぽんたん。目を半眼にして呟かず、胸の中だけで言葉を響かせる。ぶくぶくと言葉の代わりに抜けていく息が、カフェオレの水面を激しく波立たせた。不安げに顔をゆがませるアーサーを見ていると罪悪感を刺激されないこともないが、まさか、という単語が気になって訂正してやる気にもなれない。まさかとはなんだ、まさかとは。ピーターとて『国』だ。外見通りの年齢ではないのである。
いくら『国』の精神年齢が外見に引きずられるものだとしても、それはそれ、これはこれだ。恋の一つくらい、した経験があってもおかしくはないのである。あいにくと、未だその感情を持ったことはないのだが。視線をうろつかせていたアーサーの手がエンジェルステッキを召喚しかける気配を察し、ピーターは溜息をつきながら唇を開いてやった。訂正するのも面倒くさかったが、このままだと、法的にめんどうくさいことになる。
「興味ないです。……今はまだ、そういうの興味ないのですよ」
いきなりどうしたのですか、と全力で溜息をつきながら訝しげに尋ねてくるピーターに、アーサーはほっと胸を撫で下ろしながら、冷めてしまったホットサンドに手を伸ばす。空腹を思い出したのだろう。アーサーが一口を食べるのを待ってマシューも手を伸ばし、もぐもぐと口を動かし始める。溶け緩む空気に安堵感を覚えながら待っていると、ゆっくりとした仕草なのに瞬く間に一つを食べ終え、アーサーがけろりとした声で言う。
「カオルとシェリが」
「分かりましたですよ。もう言わなくて良いですよ。説明不要なのですよ」
カオル・カークランドとシェリ・W・カークランド。人としての名に共にカークランド姓を持つ英連邦の二人を思い、ピーターは額に手を押し当てた。予定の変更がなければ二人は今日は、街に買い物に出かけている筈だった。同じ家から出発するのに別々に出かけて待ち合わせする、という実に意味の分からない行動で。要するにデートなのだが、それを『デート』だと思っていないのは、待ち合わせをした当人たちだけだろう。
もどかしい仲で時を過ごす二人に対し、アーサーはハラハラしているだけなのだった。落ち着いて見守るには、あまりにもどかしいのだろう。表面的には冷静に見えるので分かりにくいが、どうにかしてやりたくて仕方がないらしい。ピーターはストローから口を離し、呆れた表情をつくる。
「馬に蹴られて死んじゃいますですよ?」
「ユニコーンは俺のこと蹴ったりしねぇよ」
「馬はユニコーンだけじゃないのですよ」
その辺を脱走した競走馬が走り抜けていく可能性だってゼロではないじゃないですか、と視線を外にやるピーターに、アーサーとマシューの目も中庭を向く。穏やかなばかりの、いつも通りの庭だった。いや、ゼロだろ、と呟き、アーサーの視線が戻ってくる。落ち着きを取り戻していない様子にうんざりさえしながら、ピーターは嘆かわしく首を振る。
「まったく、もー、ですよ。後つけてかなかっただけ良いと思ってたら……」
「そんなことする訳ないだろう? 妖精さんに頼めば済む話だしな」
そんなこと、の意味するところがストーカー行為であったのなら、ためらいなく通報してやったものを。言葉が表していたのは『マシューが来ているのに、どうして傍を離れたり、意識を別の所に持って行かなければいけないんだ』で。それを英連邦の一員であり、また『英国の盾』であるからこそ正確に読み取ってしまったピーターは、なんだか泣きそうな気持ちでBLTサンドにかぶりつく。別に、偏愛に近いことくらいは知っていた。
幸せならそれで良いんですけどね、とげっそりしつつサンドイッチを飲みこんで、ピーターは頼んじゃダメですからね、と保護者に釘をさしておく。聞く気はなさそうだったが、それでも、言っておかなければやるかもしれないのが過保護な英連邦の宗主国なのである。分かってるよ、と言いながらも彷徨った視線がその証拠で、ピーターは空になったグラスをテーブルの上に戻した。
「……カオル兄ちゃんも、シェリ姉ちゃんも、それぞれ想う所があって今の状態なのです。放っておくのが一番なのですよ」
「……いっちょまえ」
くつ、と喉を震わせてアーサーが笑う。その様子を静かな気持ちで見つめながら、ピーターはだって、と唇を開く。
「僕は、誰かさんと誰かさんの様子を、ずーっと傍で見ていたですよ? 恋したことなくても、それくらいの気持ちにはなりますです」
悪かった、とか。そんなこと言ったら北欧に家出しますからね、と先手を打って小首を傾げ、ピーターはなんでもないことのように告げていく。空になったグラスを持ち上げ、口寂しいようにストローを噛んだ。
「つまるところ、二人とも、恋というものが怖いだけなのですよ。カオル兄ちゃんはもうすこし、違う感情も持ってる気がしますけれど、シェリ姉ちゃんは特にそうです。恋という、そのもののことが……二人には怖い、ものなのですよ」
別にアーサーとマシューにいちゃを見てたからそんな風になっちゃったんじゃないですよ、と穏やかな声音で言い聞かせ、ピーターは長くを生きる『国』としての穏やかな想い、柔らかな気持ちを声に乗せて囁く。
「ふたりのせいじゃ、ないのですよ」
二人の恋がごく普通に向き合って成就したものであっても、きっと、シェリお姉ちゃんは同じ道を選んでしまったでしょうし、それを見たカオルお兄ちゃんも同じ風にした筈です。そっと響く風の音のような、静かで温かな声で紡がれた言葉に、アーサーはぱちりと瞬きをしてああ、と息を吐きだした。なんとなく、理由を把握したようだった。しかし、感覚的な理解に言語が追いつかなかったのだろう。難しい顔をして、黙りこんでしまう。
片手を胸に押し当てて沈黙するアーサーを、マシューは口を挟まず静かに見守っていた。その横顔は答えを知っているもので、ピーターはそっと視線をそらす。アーサーも、マシューの表情に気が付いたのだろう。まっすぐな目をマシューに向けて、それからピーターを見て、シェリと恋人の間にある共通事項に言葉での理解を追いつかせ、悪態の見本のような舌打ちを響かせた。
「あのヒゲか……。フランシス」
「んもおお……アーサーはどーうして! そんなにフランシスのことが嫌いなんですかー」
「嫌いじゃねえよ。好きじゃないだけだ。あと殴って踏んで泣かせたいだけ」
まあ親愛表現の一種だろ、とさらりと告げるアーサーに、ピーターは心底呆れた顔つきで白い目になった。保護者が海を挟んだ隣国に対してどんな感情を抱いているのか、それを一々言葉にして問うのはあまりに今更で過去一度も行ったこともないのだが、相当歪んで絡まっておかしなことになっている、というのだけは知っている。そしてこんがらがった感情を解こうともせず、そのまま、アーサーもフランシスも受け入れている。
彼らは長くそうありすぎた。そしてこれからも、ひとのように時間に縛られる命ではないからこそ、長く生き続ける。だからこそ二人は関係の修復や改善を試みることもなく、なあなあのまま、なんとなく時を重ねているのだった。こんな大人にはならない、そしてこんな交友関係は築かない、と決意を新たにしながら溜息をつき、ピーターは肯定の為こくりと頷いてやった。フランシス。フランスの『国』。愛の国。なめらかに愛を歌うひと。
カオルとシェリ。二人が今の関係を『選んで』しまったのには、確かに彼の国の影響が大きかった。ピーターは詳しくを知らない。そのことに関してはマシューの方が詳しいだろうし、アーサーは実体験としてそれを見知っている筈だった。失われた恋について。失わせてしまった、恋について。それはフランシスの心の中に今も棲みつき、ひっそりと眠りにつきながら呼吸をしている。現在進行形の、失われた恋。聖女への思慕。
それを、フランシスに育てられたマシューは知っていた。そしてシェリも知っているだろう。彼らの幼少、一番初めに触れ合い、育てられた『国』は『フランス』であるし、彼らに愛の形を教えたのもフランシスだ。一番初めに触れた、愛のかたち。二人が知るそれは、フランシスのものだった。だからこそシェリは戸惑い、恐れ、目をそらしているのだろう。少女にとって『恋』は喪失の予感をはらむものであり、永遠に近い悲しみなのだ。
まして少女は、アーサーとマシューの恋のかたちを近くで見ていた。その二つだけが恋の形ではないと知っていても、己がそれに踏み込んでいくのを恐れてしまっても無理はない。カオルもまた保護者と兄の恋を見守っていたひとりであり、そして亜細亜であるが故、彼は耀と菊の恋のかたちも見知っていた。裏切りと痛み、破滅と再生。憎しみと情愛。果てしないような悲しみの終わりに、二人はようやく手を繋いで寄り添った。
いくつもの奇跡が星くずのように降り積もり、成就したであろうふたつの恋。ひとつでも選択を間違っていたら、アーサーとマシューは未だに瞳を重ねる事を許されず、菊と耀の手は離れたまま、繋がれることをしなかっただろう。カオルは、それを見ていた。
「……気軽に恋に落ちるには、厳しい環境だったな」
そういえば、と言わんばかりの表情で溜息をついたアーサーは、額を指先で強く押さえている。
「そうか。それで……未だにあの二人は、ああなのか」
「そうですよ」
誰がどう見ても姉弟、あるいは兄妹の間柄を逸脱した関係で、想いであるというのは明白なのに、二人だけが頑なにそう思っていてそれを外れないようにしているのですよ、と。呟いて、ピーターは溜息をついた。問題なのは、二人ともそれをある程度までは意識的に、それでいて大部分を無意識に行っている所だった。もっともカオルに関しては、『国』に許されている永遠に近い長さの時間が、最近は逆に邪魔をしているようだが。
時は流れる。想いは、育つ。見ないように目をそらしていても、じりじりと想いは育ってしまうのだ。カオルの、最近の迷走具合を見て居ればそれは明白で、ピーターは深々と溜息をついた。
「まあ……だから、とりあえず恋じゃなくても良いかな、とかそういう感じで落ち着いてしまっているのですよ。あの二人は。そして悪いことに、僕たちは『国』で、その上英連邦ですから。恋じゃなくても、そういう仲にならなくても。二人で一緒に居て同じ時間を過ごして、手を繋いで笑いながら歩くのにそれが理由にも、言い訳にもなるのですよ。英連邦だから。血が繋がっていなくても、家族だから」
「……そっか」
「そうですよ。それで、でも、勘違いしちゃダメなのですよ? アーサー」
絶対その顔は落ち込んでると思うので言っておきますけれど、とにっこり笑って。ピーターは困惑したように見返して来る保護者に、楽しい気持ちで囁きかけた。
「それでも、二人は今ちゃんと幸せなのです。今日だって笑って出かけたでしょう? ちゃーんと笑って帰ってくるに決まってるのですよ!」
その言葉が、終わるより早く家中に鍵の開く音が響く。妖精の、ちょっとした悪戯だろう。通常はそう大きな音である筈がないそれに背をびくつかせながらも勢いよく立ち上がり、ピーターは帰って来たですよっ、とキラキラの笑顔で走って行く。
「おみやげ! 楽しみなのですよー!」
あっと言う間に部屋を出ていってしまったのは、これ幸いと会話を打ち切りにしたい意味もあったのだろう。やれやれと苦笑したアーサーがマシューの髪の毛を指で巻いたりして遊んでいると、遊び疲れた様子のシェリが部屋に入ってくる。少女は保護者と兄の親密なじゃれあいに『またやってるー』と言わんばかりうんざりとした顔をすこしだけしたが、おかえり、と柔らかく囁いて来るアーサーに機嫌を回復させ、大きく頷いた。
「ただいまです!」
その笑顔が、あまりに輝いていて生気に満ちていて嬉しそうだったから、こそ。アーサーは思わず苦笑して、首を傾げながら問いかける。
「ma cherie」
「……oui?」
珍しいフランス語発音での呼びかけに、『セーシェル』は目をぱちぱちさせながら、流暢な発音で口癖だけを返した。アーサーはフランス語を話せない訳ではない。それは知っていた。ただ本当に、滅多なことがない限り口にしようとしないだけで。どうしたのか、と不思議がるシェリの視線がテーブルの上に止まり、そこに並べられたアメリカン・ランチを目にして大いに納得した表情になる。そうか、ただの乱心か、という顔つきだ。
反射的に怒鳴りつけたい気持ちと戦ってこめかみに指先を押し当てながら、アーサーは大きく息を吸い込んだ。
「楽しかったか?」
愛の名を持つ少女はぱちんと不思議そうな瞬きをし、それからはにかむ笑みで、くすぐったそうに頷いた。
「もちろんです! あ、で……おみやげなんですけど」
「……烏龍茶?」
小走りに近寄って来たシェリが恥ずかしそうに受け渡したのは、亜細亜の印象を見る者に与える、異国情緒漂った茶缶だった。くるりと缶を裏返して表示を見れば烏龍茶の表記があり、賞味期限と一緒に産地も書かれている。それをなんとなく目で読みながら不思議がるアーサーに、シェリはちょっと恥ずかしそうに視線をそらし、軽く唇を尖らせた。
「……カオルが選んでくれたんです」
「……よし、じゃ、美味しく淹れてやろうな」
それで、お前にもちゃんと美味しい淹れ方教えてやるよ。そう囁くアーサーに、シェリは本当に嬉しそうに頷いて。甘やかな喜びを、瞳にじわりと滲ませた。
ああもう、と叫ばんばかり顔に両手を押し当てて廊下にしゃがみこんでしまったカオルに、ピーターがかける言葉を持つとしたらたった一つだった。大丈夫ですか、だ。もちろん、耳まで真っ赤に染まって沈黙している様子が大丈夫であるとも思わないので、口に出したりはしないのだが。部屋の中からはアーサーの声と相槌を打つマシューの囁き、はしゃいだシェリの声が響いて来るが、二人が混じれるのはすこし先になるだろう。
不審がられる前には行かなければいけないが、カオルの赤みは引く気配を見せなかった。それはそうですよね、とピーターは思う。好きな女の子が、あんな風に喜びを表す様子を見て、冷静でいられる男などいない。
「……ピーター」
「うん。アーサーにもマシューにいちゃにも、言ってないですよ。男の約束でしたからね!」
嘘をついた覚えはない。ピーターはただ、本当を言わなかっただけだ。もうとっくに、恋をしているだなんて。もうとっくに、恋をしてしまっていて、それを必死にカオルが隠しているだけ、だなんて。自覚してしまった恋は広がるばかりで、落ち着いてくれるものではないのだった。深呼吸をして気持ちを落ち着かせるカオルの前にちょこ、としゃがみこみ、ピーターはにこにこと笑いながら言った。
「シェリ姉ちゃんにも、ないしょにしててあげますですよー。僕はカオル兄ちゃの味方ですからね」
「……ありがと的な」
ぐったりした様子で顔をあげ、カオルは静かに目を閉じる。そして祈りをささげるような表情で、左手の薬指に口唇を押し当てた。