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 9 触れたい

 重たげに瞬きが繰り返されるそのさまを、マシューはじっと見つめていた。机に肘をついて凝視する、という無作法こそ犯さないものの、うっとりと、それでいて愛おしく視線が向けられている先を、分からない者はなかっただろう。閉会っ、おつかれさまなんだぞっ、と元気いっぱい本日の会議終了を叫び終えたアルフレッドが、やや呆れ顔で隣席のマシューに意識を戻して来る。ちょっと、と悪戯な指先がマシューの頬をつついた。
「マシュー。君、見過ぎ」
「えー。そんなに見てないよ。……ちょっと、突かないでったら。アル」
「君が会議中に発言してなくてぼーっとしてたら、まず確実にアーサーを見てるに決まってるじゃないか」
 個人としてはともかく、こと『国』として存在感の薄い『カナダ』が、会議中に発言しないことはそう珍しいことではない。意思を通さなければいけないところではハッキリとそれを表明するものの、大体の場合、会議の空気を吸いに来ましたくらいの発言率なのだ。会議の場をどうでも良いと思って参加している訳ではなさそうだが、いつでも発言はごく控えめで、マシューは一歩遠のいた所から、交わされる議論と言葉を聞いている。
 音楽を聴くように言葉に耳を傾けながら、いつだってマシューは、ぼんやりとした眼差しの先に想い人の姿を見つけ出しているのだった。カナダとイギリスの席が隣接することはごく稀で、たいがいが向い合せか、ごく自然に座っていれば目に入る所に位置している。だからこそなんの苦もなく、マシューはアーサーを見つめていることが出来るのだった。アーサーもそれを知っているので、時折仕草で甘く咎められるくらいで。
 ほんのわずか、恥ずかしそうに眉を寄せて。それでいて、会議に集中していない連邦の長女を叱りつけるようにやわらかく目を細めて。唇に人差し指をあて、あえかな笑みを乗せることで言葉に代える。愛の国を持ってして『砂糖菓子より甘い叱責』だと言わしめたその咎めを贈られた時だけ、マシューは視線を外しているのだった。アーサーも、いつものことなので一々気にしてはいないらしい。今も、暢気にあくびをしている。
 足早に会議室を出て帰路につく『国』が多い中で、アーサーはまだ立ち上がってすらいなかった。机に出していた筆記具などは片付けて鞄にしまったようだが、それだけで、背もたれに体を預けた姿はのんびりと時間を受け入れているようであり、疲れてもたれているようでもあった。後者の可能性を考えて、マシューは気にしていたに違いない。心配しすぎじゃないかい、と首を傾げるアルフレッドに、マシューはふわ、と笑う。
「心配はしてないよ。だってアーサーさんのことだもの」
「……ん?」
「え? だって相手はアーサーさんだよ? これがシェリか香だったら心配するけど、アーサーさんなら自己管理しっかりしてるし、特にそういう心配はしないけど……違った? そういうことじゃない?」
 一応、アルフレッドの意思は正確に伝わってはいるようだ。しかし二人の間には分かち合えていないものがあるようで、アルフレッドとマシューは、それぞれちぐはぐな想いを抱えたまま、左右対称に首を傾げてみせる。二人はなんとなく見つめ合い、なんとなく考え込み、それから同時にぽん、と手を打ち合わせた。ああ、と納得した頷きの仕草も同じもので、それでいて口を開いたのはマシューが先だった。違うよ、と声が響く。
「違うよ、アルったら。僕は別に、心配してアーサーさんを見てた訳じゃなくてね?」
「……じゃあなんで見て、いや言わなくて良い。分かったから言わないで良い!」
 反射的に問い返して、その瞬間に精神的な地雷だと気が付いたのだろう。ばっと両手を突き出してマシューの口を塞ぎ、アルフレッドは若干青白い顔でふるふると首を振った。そんな兄弟に、マシューはとても柔和な笑みを浮かべ、のんびりとした仕草で手を外してしまう。やだなあもう、と言わんばかりの表情は、かすかな照れさえ含んでいた。
「だってアーサーさん、綺麗じゃないか。瞳の色とか、仕草とか。言葉の発音とか。綺麗だから見てる訳じゃないけど、アーサーさんだから余計に見ちゃうっていうか、それだけなんだけど。……うーん。どうしたんだろうね? アル」
「言わなくて良いって言ったのに……俺には君がなんの同意を求めてるのか分からないし、それでいて説明して欲しくないし、もっというと理解したくもないから、マシューはさっさとアーサーの所に行っちゃえばいいと思うんだぞ……っ!」
 そろそろ、無言のプレッシャーも強くなって来たことだし。椅子にゆったりと腰かけてぼぅっとしているように見せかけて、アーサーの神経はアルフレッドとマシューに向けられっぱなしなのだった。マシューは持ち前の天然で気が付けていないようだったが、針のような気配を向けられているアルフレッドは、気が付かざるを得ないのである。そんなに威嚇しなくても、マシューをとったりしないのに。まったく、心配性なひとだった。
 ああ、もしかしてものすごくお似合いなのかもしれない、と内心でげっそりしながら、アルフレッドはマシューの腕を取ってひっぱり、椅子から立ち上がらせる。そのまま腕に鞄を押しつけるようにして持たせると、アルフレッドは兄弟を盾にするように、ぐいぐいとアーサーの元に押しやった。
「ほら、早く行きなよ。どうせこのまま帰っても、あと二時間か三時間、へたすると四時間は『ねえアル、アーサーさんどうしたんだと思う? やっぱり聞いてみた方が良かったかな』って言い続けるに違いないんだからさ。過去のデータから、君に反論は許されないんだぞ!」
「四時間も言ったことなんて……二回くらいしかないじゃないか。もー、アルったら」
「い・い・か・ら! はやく、行って、おくれよ!」
 獣のように敏捷に動くこともできるのに、普段のマシューは周囲が呆れてしまうくらいにマイペースでのんびりなのだった。今もなにを渋っているのかのたのたと動くのを、アルフレッドは癇癪を起こす一歩手前の声で送り出している。今一理解できない所で追い詰められているアルフレッドにのんびりと首を傾げ、マシューはふわりと視線を動かした。そうして戻すのが当たり前のように、椅子に座っているアーサーの姿を見つめる。
 ごく計算された不自然な自然さでアーサーの顔が持ち上がり、マシューの視線を優しげに出迎えた。にこ、と浮かべられた笑みは明らかにマシューを手招いていて、忠実なる長女はふわふわと花を漂わせ、こくんと大きく頷きを返す。
「呼ばれたから行くね、アル。じゃあ、会議おつかれさま。また明日ね」
「今ので呼ばれたって思えるのが実に君だよ……おつかれさま。なにかあったら」
 コツコツ、と指先で携帯電話を叩いて連絡を求めるアルフレッドに、マシューはくすくすと笑いながら身を屈めた。そっと額に触れて離れて行った挨拶のキスは兄弟に向けるものというより、あるいはごく幼い息子に対するようなそれで。ぷぅ、と頬を膨らませて抗議するアルフレッドに、マシューは歩んで行きながら手を振った。心配することなんかなにもないよ、と笑うマシューに、アルフレッドから追いかける言葉はない。
 そのまま順調にアーサーの元まで歩いて行ったマシューは、優しい微笑みの前で優美に膝を折った。片膝を床につけて椅子に座るアーサーと視線の高さを同じにすれば、翠玉の瞳が穏やかに揺れる。伸ばされた手の甲が、すぅっと頬を撫でて行く。感触がくすぐったいと、肩をすくめてマシューは笑った。
「……アーサーさん」
「ん」
「アーサーさん……。アーサー。どう、しました?」
 頬のまるい輪郭を辿るように、アーサーの手はマシューを撫でている。くすぐったさに笑いながら問いかけると、アーサーはマシューの髪を指にくるりと巻きながら、軽くひっぱって顔を近づけさせた。こつん、と額が重なる。満ち足りた吐息が、マシューの肌をかすかに湿らせた。
「マシュー」
「はい」
「……見てただろ。どした?」
 俺の、なにが気になったのか言ってみせろ、と。どこまでも甘く響く命令の言葉に、マシューはうっとりと目を細めて頷いた。アーサーに命じられることは、マシューにとっては喜びだ。それだけ強い意思で求められている、ということが心を熱っぽく溶かして行く。肌をこするように撫でている指先にすり寄って甘えながら、マシューはくすくす、と肩を震わせた。なんでもありません、と言葉を囁く。なんでもありませんけど、ただ。
「前髪が……すこし、伸びましたか? 瞬きするたびに、気になってるようなので」
「前髪? ……ああ、なんだ。前髪か」
 重たげな瞬きの理由を、アーサーは自覚していなかったようだった。きょとん、とした表情の後で一気に納得されたので、マシューは笑いながら頷いて、アーサーの髪に指先を伸ばした。金の雫をすくい上げるように、前髪にそっと、指先が触れる。
「切った方が良いかも知れません。目を悪くします」
「……めんどうくさい」
 アーサーの視線が空を泳ぎ、聞き取りにくい声でぼそりと呟かれる。瞬きに違和感があった理由こそ分かっていなかったものの、アーサーの前髪のみならず、全体的に髪が伸びてしまっているのは、どうやら本人も理解していたことのようだった。かっちりとした枠組みの中で動くことを好むアーサーは、妙な所でめんどうくさがりやで、もっと言えば自分に手間暇やお金をかけたがらない傾向にあった。嫌がっている節もある。
 恐らくは『国』としての幼少期になにか、己という存在を心から大事にできないことでもあったのだろう。それが連合王国としてまとまっている『兄』たちとの確執故であるのだと、マシューは薄々理解していた。口に出して聞いたことはない。それは断定しなくてもいいことで、あえて正確な理解を必要としないことだったからだ。物悲しく微笑んだマシューはアーサーの頬を手で包み、そっと引き寄せて額に口付けを落とした。
 情愛より深い、慈しみのキス。くすぐったそうに身をよじって笑うアーサーに、マシューは穏やかに微笑んだ。想いが、胸から溢れて行く。本当に、ほんとうに、大切に出来ないことはもう知っていた。だからその分、愛して、愛して大切にしていけばいいだけなのだ。アーサーができない分を、二人分、マシューが捧げて行けばいい。それだけのこと。満ちた二人分の気持ちが、いつかアーサーの心をそっと温めれば、もうそれで。
 いきなりどうした、と嬉しそうに笑うアーサーに、マシューはとろりと溶けるような声で囁いた。
「だいすき」
「ん、俺も」
「はい。……ん、だからね。えっと。めんどうくさいのは分かりましたから、じゃあ、誰かに切ってもらうのはどうですか? わざわざ髪を切りに行くのが手間なんでしょう? だから……フランシスさんとか」
 小さい頃は切って貰っていたんでしょう、と無邪気に告げるマシューの死角で、アーサーは逃亡しようとするフランシスを許さず、極上の笑顔で親指を床に振り下ろして見せた。テメェどんな黒歴史教えてやがるんだ死ね、氏ねじゃなくて死ね、と荒らぶる感情をマシューにだけは見せずに告げるアーサーに、フランシスは顔を両手で覆いながら、絨毯に直に座りこんだ。アルフレッドから、ごく穏やかな同情の視線が向けられる。
 あの二人の世界が二人だけでどうにかなってる間に逃げちゃえばよかったのに、とまなざしで告げる世界の超大国は、さすがに空気が読めずとも片割れの元養い子であり、片割れの兄弟だった。お前はなんで逃げてないの、とうっそうとしたフランシスの眼差しに、アルフレッドはふ、と空気が抜ける風船のような風情で笑う。
「俺が居なくなると、あの二人、なぜか気がつくんだよね……。マシューもアーサーも、知ってたけど、俺のことちょっと好きすぎると思うんだぞ……だから俺は二人が帰るまで室内待機を命じられたヒーローなのさ。褒めて。フランシス、褒めて」
「……よしよし。お兄さん、なんだか涙が出て来ちゃったよ」
 よろけながらも立ち上がったフランシスがアルフレッドをねぎらっていると、ようやく『そういえば会議室で、他にも『国』が居たんだった』という現状認識を取り戻したマシューが、あっと恥ずかしげに声をあげて赤面する。その反応だけはフランシスの知るマシューのもので可愛らしくも和むのに、そこまでのプロセスが可愛らしくもなんともなかった。それでも、マシューがアーサーを好きで好きで仕方がないのは前からのことだ。
 ちょっと二人きりの世界を作り出したことくらい許してあげちゃう、お兄さん愛の国だから、と涙を拭いながら、フランシスはなるべくアーサーから視線をそらしたままで口を開く。
「お兄さんはやってあげてもいいんだけどさ……アーサー、どうする?」
「断る」
「だよな……。マシュー、お前が切ってやんなさいよ」
 取り付く島もない、一言の拒否だった。なにを当たり前のことを聞いているのだか、と呆れすら滲ませた態度はあくまでフランシスに向けられたもので、その徹底した使い分けっぷりがいっそ清々しく見事な程だ。アーサーは絶対に、マシューにそんな受け答えはしない。お前らどれだけお互いに好き合っちゃってんの、と苦笑しながら、フランシスはきょとん、と目を瞬かせるマシューに、ゆっくりと言葉を繰り返してみせた。
「お前が、アーサーの髪、切ってやりなさい。……ね? それでいいんだろ? アーサー」
「そうだな。それなら……うん。マシュー、この後の予定は?」
「ありません」
 そこで改めて切ってくれるかと問うことなく、予定を聞いてくるのがアーサーというひとである。マシューは心得ている表情で穏やかに言葉を返し、満足げな頷きを見せるアーサーに寄り添って立っていた。す、と白手袋に包まれたてのひらが差し出される。恭しく受け取って立ち上がらせれば、アーサーはご褒美、とばかり目を細めてマシューの肩に額を擦り付けた。
「俺の家に。……帰るぞ、マシュー」
「仰せのままに」
 行く、という言葉ではなく、帰る、と告げてくれたことがマシューには嬉しくて、ことりと頭を倒してアーサーの髪に頬を触れさせる。こら、重い、と笑いながら囁かれるのにごめんなさいと呟いて、マシューはそっと、アーサーの手を引いた。
「……帰り、ましょう」
 二人は、『国』だ。恋人同士のような言葉の触れ合いは、本当は適切なものではないのだろう。アーサーもそれを知っている。マシューも、それは分かっている。けれど言葉はささやかに甘く、二人の間で掠れて揺れて。優しく、胸に降り積もった。穏やかな空気を纏って出て行った二人を見送り、アルフレッドはようやく帰れるよー、と大きく伸びをしながら苦笑する。
「さあフランシス。ちょっと飲みに行くんだぞ!」
「お、珍しい。どうしたの、アル」
「そういう気分なんだよ。付き合ってくれるよね?」
 嫉妬ではない。ただすこし、悔しいだけ。ただすこし、寂しいだけ。あれはアルフレッドが手放してしまったもので、そしていつか暮らしていた日々と、夢の象徴のようなもの。世界が三人で完結していた日々の、残り香を、感じてしまっただけだった。帰る家があるって人間みたいだよね、と笑うアルフレッドの頭を撫でて、フランシスはそうだな、と囁いた。
「でも、ひとつ教えてやろう。お前、気が付いてないみたいだから」
「なんだい?」
「マシューもアーサーも、お前の家行くと普通に『ただいま』って言ってるし、来客には『いらっしゃい』で、お前が留守して帰ってくると『おかえりなさい。待ってたよ』だぞ?」
 アイツら地球上に『家』を三カ国持ってるからな、とニヤニヤ笑うフランシスに、数秒の沈黙を挟み、アルフレッドは耳まで真っ赤にしてうずくまった。気が付いていなかったというか、当たり前すぎて分かっていなかった自分を盛大に呪い殺したい。数秒前の発言は聞かなかったことにすべきなんだぞ、とうめくアルフレッドにはいはいと苦笑してやりながら、フランシスは続く青少年の二人への評価に、心から深く、しみじみ頷いた。
「まったく……はっずかしいひとたちだな!」
 会議室に残っていた全ての『国』が、それに全力で同意した。



 かつて大英帝国の名を冠していたひとは、海賊をしていたこともあるという。マシューは実際にはその姿を知らないが、彼の国の隣国やその時代を知る『国』たちが徹底して『見ない方が良い。知らない方が良い』というので、あえてねだることもなく今日まで来ている。マシューが一言『見てみたい』といえばアーサーのことだ、ブリタニアエンジェルの奇跡でその時代の自分を呼びだすなり、入れ替わるなりしてくれそうなので。
 あえて言わないのは、そういうことだった。本人も口には出さず、周囲も賛成しないことを、実現させようとはマシューは思わない。これがあるいはアルフレッドなら、好奇心と興味で願ってしまったかも知れないが、マシューは基本的に触れてはいけないものがあれば、そっとしておく性質なのだった。触れてはいけないからこそ、触れてみたい、という相反する気持ちを抱かなくもないが、それを沈めておくことなら得意だった。
 訪れた英国の『家』は執事やメイドたちのいる大きな屋敷で、その日当たりの良い中庭に椅子を出している。アーサーは切った髪の毛が服から入り込まないように首元に布をまきつけ、体にはシーツをかぶって背もたれに体を預けている。主の珍しい姿に、屋敷を管理する者たちは微笑ましい視線を向けただけで、あとは遠巻きに普段通りの仕事をしていた。妖精たちだけが時折、風にまぎれてやって来て、親しげに笑う。
 すこしだけ、楽しげに。すこしだけ、からかうように。それでいて、変化を愛しく喜ぶように。しゃきん、と刃を鳴らしてはさみをあやつりながら、マシューはじっとアーサーの顔を見つめた。まぶたを下ろしてすっかり目を閉じ、安らいだ呼吸を繰り返しているさまは安堵に満ちていた。眠っているのかとも思うが、そうでないことは口元に浮かべられた笑みを見れば明白で、マシューは胸の高鳴りに、ぎゅぅと拳を押し当てて息をつめた。
 きっとこのひとが、こんなに無防備に目を閉じて笑うのは、自分の前でだけなのだ。急所である頭を相手の手の中に預けて、刃を持っているというのにそれで傷付けられることもないと信頼しきって、肩を撫でていく風が気持ちいいと笑う。そんな風な姿を見せてくれるのは、きっと。
「……マシュー?」
 そろりと、アーサーの瞳が瞼の奥から覗く。どうした、と眠たげに問いかけられて、マシューはなんでもないと首を振った。本当に、なんでもないのだ。なんでもないことが、こんなにも愛おしいだけで。目を閉じていてくださいね、と囁いて前髪に鋏を入れれば、アーサーは不問にしておいてやるよ、と言わんばかりの微笑みでまぶたを下ろした。しゃきん、と鋏が動かされる。ごく僅かな音を立てて、前髪がシーツの上に散った。
「……なんか」
「はい」
 鋏を操るマシューの手つきは、慣れたものではない。ぎこちなく、けれど丁寧にゆっくりと整えられていくので、街中に出た方が散髪の時間は短かっただろう。こんなに穏やかな時間と引き換えに。
「昔の俺が今の俺見たら、腑抜けたなって嘲笑うと思うけど」
 笑う、ではなく。わざわざ嘲笑う、という辺り、アーサーも自分のことをよく分かっていた。一瞬、言葉につまって息を飲む音の後、マシューは静かにはい、とだけ呟く。髪の短さや全体的なバランスを見ようと、地肌を撫でながら指先が流れを整えて行く。その感触が、心地良い。
「負ける気がしない」
「……なにが、ですか」
「全部だよ。全部。……栄光も、強さも、過去のものだと笑わば笑え。事実だからな」
 囁いて、瞼を開く。これくらいかな、と首を傾げて考えていたマシューは、すぐに視線を合わせてにっこりと笑いかけて来た。指を伸ばして、アーサーはマシューの頬に触れる。ふんわりとした体温が、心地よかった。
「でも。お前を得ていない俺に負ける気は、しないってだけだ」
「どうして、です?」
「こんなに」
 風が吹き抜けて、切られた髪を吹き飛ばして行く。ばたばたと体に巻きつけたシーツが揺れて、音を立てた。大きな雲が、ふと光を遮る。ヴェールのような薄闇に包まれて、アーサーはそっと、カナダの頬を撫でた。
「穏やかな時間があることを、お前が教えてくれたからだ」
「……僕は、それを貴方から教わりましたけれど」
 おかしいですね、と目を細めて笑い、マシューはうっとりとアーサーの手にすり寄った。じりじりと、胸の中で焦げる音がする。息を吐きだして、マシューはアーサーに手を伸ばした。
「……どうしよう」
「なにがだ?」
 ぎゅぅ、と抱きしめられて。かすかな息苦しささえ愛おしく、アーサーは笑う。すりすりと肩に額を擦りつけて甘えながら、マシューは心底困った様子で、吐息に乗せて囁いた。
「なんだか……貴方に、いっぱい触りたい気分です……」
「……いや、そこは躊躇わず触って来いよ」
 俺はお前のなんだから好きにしていいって言ったろ、と呆れ交じりに首を傾げて、アーサーはマシューの鼻の頭に唇を寄せた。軽く口付けてから戯れに噛んでやると、いたいです、と恥ずかしさで死にそうな呟きが返ってくる。肩を震わせて笑うと、マシューは幸福で胸がいっぱいの溜息をついて。だいすきです、と囁いて、アーサーの耳に口付けた。

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