乳白色の霧は、マシューの腰のあたりまで下りてきていた。雲の中を歩いていくような奇妙な浮遊感が意識にはあって、マシューは歩くことを遊ぶように感じながら、ロンドンの町を歩いていく。中心部から離れた、閑静な住宅地だった。パステルカラーで外壁が塗られた住宅は整然と並び、窓辺に鮮やかな赤い花が飾られている。濃い灰色のブロックが敷き詰められた道は、舗装されていてとても歩きやすかった。
ゴミも、石ころ一つさえ落ちていないのは、住人が朝に夕に掃除を心がけているからだろう。高級住宅地であるからこそのしっとりとした落ち着いた空気は、午後をわずかに過ぎた時刻であると言うのに、朝露の穏やかな落ち着きに満ち溢れていた。静まり返った空気には、足音よりもかすかな歌声が似合いそうだ。街路樹が、ざわりと風に揺れる。足元に落ちて来た濃緑の葉を避けて歩き、マシューは息を吸い込んだ。
ほのかに、薔薇の香りがする。アーサーの家まで、もうすこしだった。イギリス中に家を持つアーサーがロンドン郊外にかまえている屋敷には、多くの薔薇が植えられていた。おかげで近所の住人には『薔薇屋敷』だの『妖精の城』だの呼ばれているらしいが、どれも全く正しい、とマシューは思う。彼の家は薔薇の咲き乱れる、妖精の住処であるのだから。古い魔法の根付く神聖な場所が、そのまま彼の人の家なのだ。
前方から早足で歩いて来た青年にすれ違いざま会釈をし、マシューはふと歩みを止めた。不意の動きに動揺したように、霧がふわりと揺れ動く。見晴らしの悪い彼方を見据えるようにして、マシューはペールグリーンの瞳をすぅと細くした。なにか、聞こえたような気がした。悪いものではない。けれど、良いものではない音律。胸がざわりと落ち着きをなくして、マシューは大地を蹴り飛ばすように走り出していた。
ジャケットのフードが、肩にあたってばたばたと揺れた。仕事でスーツではなく、私用での訪れであったことをマシューはありがたく思う。走るのであればスーツより、長袖にジーンスのいでたちが一番動きやすかったからだ。息を弾ませながらアーサーの家、門の前まで辿りつき、マシューは忙しなく視線を走らせる。確証はなかった。それでも聞こえたのだから、どこかに『それ』は居る筈だった。焦る心を、深呼吸で沈める。
深い霧は温かく下りていたが、見通しの面では味方になってくれない。舌打ちをしたい気持ちになりながら探していると、視界の端に金色の光が灯る。妖精が放つ、導きの灯だった。澄み切った鈴の音に似た音は、空気を揺らさずマシューに届けられる。『呼び声』だった。幸福の先触れか、あるいは苦難の幕開けか。どちらにしても呼ばれたなら、応えなければいけないだろう。マシューはふらりと、光によって行く。
足音が、やけに響いた。金の光は霧の中をくるくると飛び回り、マシューの視線を導くように脚元へ下りてくる。すぅ、とそこだけ不思議に霧が晴れていく。現れたのは、編み籠だった。果物が盛られているような大きめの籠が、道端に無造作に置かれている。嫌な予感がした。しゃがみ込んで編み籠に顔を近づけると、中に入っている白く柔らかそうな布がもぞりと動く。大当たり、だ。溜息をつきながら、それに手を伸ばした。
布をそっと指先でつまみあげ、マシューは中を覗き込む。出会ったのは、まあるく見開かれた金色の瞳だった。深いオリーブ色の髪のすきまから、こちらをじぃっと見つめてくる。幼子だった。産まれたばかりではないが、一月か、二月くらいしか経っていないに違いない。マシューはすこし考えながら赤ん坊を布ごと、フライトジャケットの胸元に入れるようにした。籠は腕から下げるように引っ掛けて、アーサーの家へ急ぐ。
普段ならじっくり見て歩く野苺の、間に敷かれた道を急ぎ足で通り過ぎた。背の低い慣用樹も草花も霧に揺れていたが、視線を向ける程度の気持ちの余裕もない。薔薇の香りが、ふわりと強くなった。屋敷の後ろ庭に設えられた薔薇園は、今日も見事に花を咲かせているのだろう。緊張と焦燥に息を弾ませながら、マシューは屋敷の呼び鈴を押す。扉を叩きたい気もしたが、広い屋敷であるからこそ逆に聞こえないと知っていた。
ほどなく、執事が恭しく扉を開いてマシューを出迎える。ご主人さまは奥の書斎に、と決まり文句のようなそれを老紳士が口に出すより早く、マシューは閉じていたフライトジャケットの前を開け、白い布に包まれた命を見せつけた。なにごとにも動じない英国紳士の手本のような執事が、ぎしりと動きを止めて赤ん坊を凝視する。マシューも驚きや焦りから脱して居ない訳ではなかったので、上手く説明の言葉を出せもしない。
二人の間には、奇妙な沈黙が下りて来た。赤ん坊は落ち着いているのか、もぞもぞと身動きをするばかりで泣き声の一つもあげなかった。白い肌、濃いオリーブ色の髪に金色の瞳。老執事の視線は赤ん坊のそれら色彩を認め、それからマシューへと移された。見比べるように視線が何度か行き来し、やがて老紳士が口を開く。
「……お子様ではないようですが」
「今そこで、拾ったんです。この家の門の前で。もちろん、僕に心当たりはありません」
父親にも、母親にも。そう言外に告げたマシューに、老執事は深々と頷いた。そうでしょうとも、と言いたげな穏やかな仕草だった。それから執事は脳裏に屋敷の主人の姿を思い浮かべ、もう一度赤ん坊に視線をやった。しばしの沈黙の後、ご主人様でもないようですな、という呟きがもれていく。アーサーはいったい、使用人たちになんだと思われているのか。脱力しかかるマシューの前で、執事が陶器の呼び鈴を揺らす。
リン、と一度だけ。涼しげに奏でられた音が消えるより早く、屋敷の奥から女性が現れた。背筋のすっと伸びた中年の女性は、現代では珍しい程に整ったクラシックなメイド服を着ており、老執事と並ぶとそこだけが中世のようだ。女性はマシューに対して恭しく一礼をした後、すぐに赤ん坊に視線を落として沈黙する。執事とは違い、色彩だけでなく目鼻立ちや唇の形までじっくりと確認してから、女性はすっと顔をあげた。
マシューの顔を撫でていく目の動きはぶしつけという程でもなかったが、女性の口からは失礼致します、との声がもれる。苦笑しながら観察を受け入れ、マシューは女性の判決を待った。違いますね、とあっさり決断は下され、女性の腕が赤ん坊を取り上げていく。あやす手つきは慣れたもので、マシューは無意識に肩の力を抜きながら、この屋敷の門の前に捨てられていました、というそれだけの説明を繰り返した。
女性は赤ん坊に優しい視線を向けたままで静かに頷き、そうですか、と言った。
「ありがとうございました、マシュー様。凍える前に見つけてくださったこと、深く感謝致します」
「いえ……。……こんなに、可愛いのに」
返す言葉を上手く持てず、こぼれて行った言葉は無意識だった。マシューとて知っている。愛情だけではこどもは育てることが叶わないことも、生きる為にどうしようもなく手放さなければいけないことがある、ということも。産まれた命全てに、親からの愛が向けられるわけではないことも。望まれて産まれてくる存在ばかりではないということも。ひとより多くを生きた存在だからこそ、ひとより多くそれを知り、それを見ていて。
それでも諦められずに悔しくて、悲しさよりも切なくて。マシューは苦しげに目を細めて、女性の腕に抱かれる赤ん坊を見つめた。女性はマシューの視線を穏やかに受け止めて口元に笑みを浮かべ、大丈夫ですよ、と囁く。それがあまりに、屋敷の主人が奏でる言葉とそっくりの響きだったので、マシューは思わず驚きの視線を女性に向けた。大丈夫。自信に満ち溢れた、それだけで一筋の希望を胸に抱かせる言葉の響き。
それだけを信じて、進んで行けるような。導きに似た言葉を囁いて、女性は赤ん坊をそっと抱きしめる。
「どのような事情で産まれたにせよ、門の前に置き去りにされたにせよ……もう、大丈夫です。この子は一番良い所に来ました」
ようこそ『英国』へ、と。言祝ぐように、女性は囁く。
「この地に産まれた者の幸福を、誰より願う方の御元へ……ようこそ。大丈夫ですよ。ご主人様が良いように取り計らってくださいますからね。……一週間程度はお預かりすることになりますけれど」
最後の言葉は、マシューに向けられたものだった。上手く理解できないままにぎこちなく頷けば、女性は母親の表情でふわりと笑う。殿方は何時だって驚かれますけれど、と言葉が紡がれた。
「多くはありませんが、時々あることですのよ。マシュー様は、ご経験のないようですけれど」
『国』の元に赤子が捨てられてしまうのは、と。告げた女性に、マシューは全力で首を振った。そんな経験は、『国』となってこの方、一度もないことだった。朝、家を出ようとしたら扉の前に赤ん坊が捨てられているだなんて、ちょっとしたホラーだ。心当たりが無いからこそ、意味の分からなさに想像しただけで泣きそうになる。これがフランシスなら、あらまぁ、の一言で抱き上げて、仕事場に連れて行くくらいはしそうだが。
イギリスではあることなんですか、と尋ねるマシューに、女性は素直に頷いた。
「無意識に、知っているのだと思います。甘えているだけかも知れませんけれど」
この場所であれば、絶対に生きてくれる。親元に居るものと形は違うにしても、必ず幸福に生きてくれる。そのことを国民だからこそ無意識に知っているのだろうと、女性はすこしばかり困った風に、けれど誇らしげな様子で口にした。マシューはじっと赤ん坊を見つめて、ふくふくとした頬に指先を伸ばした。ぷっくりとした肌はまだ弱く、すこし引っ掻いただけでも傷つけてしまいそうだった。限りある、ひとの命がそこにあった。
手を離さなければいけない何かしらの状況の中で、このこどもの親は生きて欲しいと願ったのだろうか。せめてもの幸せを、思ったのだろうか。そうであればいいと、マシューは思う。金の瞳はまだ語る術を持たず、不思議な感情を宿してマシューを見つめていた。幼くとも分かるのだろう。幼いからこそ、理解するのだろう。ひとの形をしたひとではない存在が、目の前に立っていることを。ごく自然に、受け入れたのだろう。
マシューは身を屈めて赤ん坊の額に口付けを落とし、微笑みを向けてからアーサーの居場所を尋ねた。老執事はいつものように奥の書斎にと言葉を響かせ、女性は一歩下がって礼をする。紅茶をお運びする時に一緒にお連れします、と告げられて、マシューは頷いて歩き出した。そう訪れることが多くない屋敷だが、それでも案内は無く進むことが出来る。温かみのある白い壁に、落ち着いた色合いの木材が目を惹いた。
階段の手すりや扉は全て古めかしい飴色の木で作られていて、ほっとするぬくもりを感じさせた。間接照明の薄ぼんやりとした灯りに目を凝らせば、そこかしこで妖精たちが遊んでいる。活けられた花にはそこに宿る精が腰掛け、ああでもないこうでもない、と花瓶を置く位置に戸惑う少女を見つめていた。やがてメイド服の少女はぱっと顔を明るくして、ひと抱えはある大きな花瓶を、なめらかな光指す窓辺に置いた。
花の精が嬉しげに笑むのを、少女は見ることが叶わないに違いない。それでも少女の指先は花びらを慈しむように撫で、見えない存在にここで良い、と問いかけの囁きを落としていた。そこに確かに存在すると、信じるよりも知っているのだろう。花の精は水仕事で荒れた少女の指先に祝福のキスを送り、マシューの視線に気がついて手を振って来た。マシューは微笑みで返礼に代え、書斎を目指して歩き去って行く。
人と、ひとではない存在と、『国』が溶け込むようにして共存する屋敷だった。主はここに気まぐれに返ってくるだけで定宿にはしていないのだが、それでも良い影響を国民に与えているのだろう。敬遠な祈りにも似た喜びの意思が、屋敷に静かに満ちていた。書斎の扉は、開け放たれていた。中を覗き込みながら扉をノックすると、窓枠に腰かけて本を読んでいたアーサーの視線が持ち上がり、森の瞳が喜びを滲ませた。
「マシュー、どうした?」
特に呼ばれて来た訳でも、外交が用事があった訳でもない。ただ会いたくなったからこその訪れを、アーサーはことさら喜んでいるようだった。読んでいた本を閉じて膝の上に起き、アーサーは窓辺でマシューを待っている。歩み寄ることをしない態度に笑みをこぼしながら、マシューは書斎へと足を踏み入れた。書斎という個人的な空間から出て来ようとするのではなく、その内側に呼び込んでくれることが嬉しかった。
霧が晴れて来たようだ。雲と粒子の間をまっすぐに下りてくる飴色の光に照らされて、アーサーは美しく微笑んでいる。その前に立って姿を見つめ、マシューはおごそかな気持ちで身を屈めた。そっと前髪に口付けて、額を重ね合わせて視線を近付ける。マシューからの珍しい態度に、アーサーはやはり嬉しそうに笑った。なんだ、どうした、と言いながら背を抱き寄せてくれる手はあたたかく、人と同じ温度でそこにあった。
吐息がもれていく。マシュー、と言葉をねだる囁きに、唇は自然と動いていた。
「あなたが、誇らしくて……愛しいと、思っただけなんです」
あいしています。淡い笑みを浮かべながら刻まれた言葉に、アーサーの頬に朱が散った。珍しくもうろついた瞳が、おずおずとマシューの姿を映し出す。なにか、とごく自然に問いかけに首を傾げると、アーサーは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「口説きに来たのか?」
「いえ。ただ、会いたかったもので。……おかしいですか?」
ふふ、と柔らかな笑みがくすぐったいように身じろぎをし、アーサーはマシューの肩に額をうずめてしまう。ぎゅぅー、と額を押しつけながら、アーサーはちくしょうこれだから天然はっ、と聞こえない響きで毒づいた。それが十分口説き文句として通用するのだということを、どうして誰も教えなかったのか。愛の国覚えてろ、と自分が育てたことを棚上げして全ての責任を隣国に押し付け、アーサーはうっとりと目を閉じた。
髪を撫でる手の感触が、心地良い。男にしてはちいさめのアーサーのてのひらより、マシューのそれの方がひとまわり程度大きいのだった。尊いものに対するように触れていく指先が、愛おしい。薄く目を開けば、マシューも心地よさそうに微笑んでいた。視線が交わされる。ゆっくり顔を寄せたのはマシューで、かすめるように唇を重ねていく。くすくす、と堪え切れない温かさに肩を震わせ、アーサーはまったく、と呟いた。
「珍しい。どうしたんだ、マシュー?」
「……僕があなたを愛したいって思うの、そんなに不思議ですか?」
笑うことないのになあ、とわずかに寄せられた眉間のしわに口付けて、アーサーはいいや、と笑い顔で言った。嬉しいよ、と言った肩は笑みに震えていて、積極的な否定になりもしない。マシューは諦めたような脱力感でアーサーを抱きしめ、胸一杯に息を吸い込んだ。雨にぬれた庭園の薔薇と、同じ香りがした。いいにおい、大好き。うきうき告げた言葉は無意識で、だからこそマシューは脱力した恋しいひとを不思議がる。
「アーサー? どうかしました?」
「……なんでもない。ちょっと待て」
己の顔の前にぴしっと手のひらを差し出したアーサーの顔は、指のすきまから見る分に真っ赤だった。どうしよう。可愛い。思ってしまうとたまらなくなって、マシューは制止の形に差し出されたアーサーの指先に、ゆっくり唇を押し当てる。びくん、と震えた指すら愛おしくて微笑むと、人差し指が唇に押し付けられる。目を瞬かせながら視線を向けると、返って来たのはやや恨めしげに細められた、極上の輝きを放つ翠の瞳で。
えっと、と言葉につまるマシューに、アーサーはにっこりと微笑んだ。
「待て、と言っただろう。言うこと聞けないとオシオキするぞ?」
「ごめん、なさい。……痛いこと?」
「いや、気持ちいいこと」
あと痛いのはお前じゃなくて俺だから安心していい、と言って、アーサーはマシューの肩にぽんと手を乗せた。しかしそれ以上の動きはせず、アーサーは書斎の入口に嫌そうな視線を向けて沈黙する。扉に背を向ける形になっていたマシューは首の動きだけで振り返り、呆れ顔の女性に和やかに微笑んだ。書斎の入り口に立って中に入ってこようとしない女性の手元には、紅茶一式が乗ったカートの持ち手が見えている。
片手で赤ん坊を抱き上げたまま、器用に押して来たのだろう。ご主人様、昼間ですが、と遠回しに咎めるメイド長に分かっていたさと頷いて、額に指先を押し当てたアーサーは、マシューから体を離して呟いた。
「チャンスだったのに……」
「マシュー様、いざという時は大声で私どもをお呼びくださいませね? ……ご主人様、お茶の時間でございます」
「隣室に用意。すぐ行く」
壁を指差して告げたアーサーに、しずしずとした一礼が返される。カラカラとカートを押して行く音を聞きながら、アーサーは本を持って立ち上がった。部屋を出て行く途中に本棚に戻して、アーサーはマシューを指先で呼んだ。すぐに傍まで駆け寄ってくるマシューの頬を指の背で撫でてから、アーサーは茶席の用意を整えさせている隣室へ向かう。主を出迎えるまでわずかな時間しかなかったに関わらず、席は整っていた。
赤ん坊をあやしながら傍に控える女性を簡単にねぎらって席につきながら、アーサーはつと首を傾げる。
「トリシア。お前、また産んだのか?」
「御冗談を。家の前に捨てられていたそうです。マシュー様が救って連れて来てくださいました」
「……ひさしぶりだな」
驚くでもなく納得したように呟いたアーサーは、正面に座ったマシューに温かな笑みを向ける。国民を想う、『国』としての表情だった。ありがとう、と感謝されて首を振ったマシューの視線の先、招かれて寄って来た女性が体を傾けて赤ん坊を見せている。アーサーは赤ん坊をしげしげと見つめ、welcome、と言葉を送った。
「男の子、か? 産まれてそう経ってないな。可愛い顔してる」
「いかがなさいますか?」
「いつもの通りに。医者を呼んで診て貰って、怪我と病気がないかの確認。疾患があるようなら適切な処置を。身長体重と簡単な特徴をまとめて、明日の今頃までに書類にして持ってこい。ああ、写真はとびきり可愛く取れよ?」
てきぱきと指示を出す方も、受ける方も、大変に慣れた様子だった。承りました、と深く頷き、女性はそのまま部屋を出て行く。慈しみの眼差しでそれを見送って、アーサーは紅茶の入ったポットに手を伸ばした。湯気を立てて注がれて行く紅茶を見つめ、マシューはそっと問いかける。
「本当に、よくあるんですね」
「ああ。数年は無かったんだが……まあ、不況だしな。お前は多分、そういう経験ないだろうけど」
確定的な言葉だった。確かに捨て子が家の前に居たこともないし、これからもあって欲しいと願うことはないだろうが、同じ『国』としてそう言われてしまうと些細な反発心が目を覚ます。なんでですか、と軽く唇を尖らせながら言うと、アーサーはやや呆れた表情になった。
「よく考えてみろ。白クマを飼ってる家の前に、赤ん坊置いていく親が居ると思うか?」
「……ああ」
「俺の家は妖精も住んでるし、勤め人の出入りもあるから置いていきやすいんだろ。『国』の家でもあるし」
ものすごく、この上なく納得できてしまう理由だった。頷くマシューに苦笑して、アーサーはとつとつと言葉を告げ、それからそっと胸を手で押さえる。目を伏せた姿は、なにかに祈っているようでもあった。ゆるゆるともれて行くのは、安堵の息だろう。よかった、とアーサーは呟いた。
「俺の所に、連れて来て貰えて……本当によかった。ありがとうな、マシュー」
「いえ。僕は見つけただけですから」
「それでも、だ。ありがとう。……あの子の親も、よかった。殺さないで、連れて来てくれて」
これで生かして守ってやれる、と呟くアーサーの声は本当に嬉しそうだった。国民がその罪を犯さなかったことが、命が繋がれたことが嬉しいのだろう。アーサーの横顔は見返りの無い愛に満ちていて、マシューはすこしだけ胸が苦しくなる。『国』の体は、愛で満ちている。それは国民に対する愛であり、ひとが国土の上で感じている幸福でもあった。差し込む光を心地良いと思う、水面のきらめきを美しいと思う、その心。
きらめきの欠片はすこしづつ集まって、やがて『国』の胸に還って来るのだった。時として円環する愛の器として、『国』の体はそこにある。不意にマシューはそうしたくなって、アーサーの名を呼ぶ為に唇を開いた。すっと息を吸い込んだ瞬間、屋敷に大声が響き渡る。
「赤ちゃんですよーっ!」
声は廊下から静寂を切り裂くようにして響き、温かな笑いとなって屋敷中に広がって行く。がくりと脱力したマシューの元に、軽やかな少年の足音が聞こえて来た。赤ちゃんですよーっ、とそれを知らしめるように叫びながら飛び込んで来たピーターに、ティーカップを傾けながらアーサーは頷いた。
「知ってる」
「ちょっと、なんなのですかその無感動は! 赤ちゃんですよ可愛いですよ可愛いですよ! ……あれ、マシューお兄ちゃん。何時の間に来てたのですか?」
だっこー、と両腕を広げながら歩んで来たピーターをひょいと抱き上げて膝の上に座らせながら、マシューはついさっき、と苦笑した。胸の中のモヤモヤはもう消えてしまっていて、探しても形にすらならない。そんなマシューに愛を分け与えるように思いっきり抱きつき、ピーターは大はしゃぎの様子で赤ちゃんなのですよ、と言って来る。赤ちゃんだねえ、とほのぼの頷くマシューに、ピーターはこくこくと何度も頷いた。
「あんなにちっちゃいのに、おんなじ指の形してたですよ……! すごいですよ!」
「ピーター、赤ちゃん好き?」
「大好きです! 僕のトコだと、産まれないですから」
ちいさな海上要塞を選んで出産をしてくれる相手は、きっと今後も現れないだろう。そう言えばそうだった、と苦笑するマシューの膝の上で、ピーターはうずうずした様子で廊下を見たり、普通の焼き色をしたスコーンに手を伸ばして食べたりしている。普段よりずっと落ち着きのない態度は、それだけ幼い命が衝撃的に嬉しかった証拠だろう。ピーターが可愛い、とぎゅぅっと抱きしめてくるマシューの腕の中、少年が首を傾げる。
「あのこ、どうするですか? この家で育てるですか?」
「養い親が見つかるまでは、な。まあ、長くても一週間程度だろ……マシュー、この後の日程は」
「パソコンを使わせて頂けるなら、滞在しても支障の出ない程度です」
一週間ならば。問われる前にそこまでを答えてみせたマシューに、アーサーは合格点の微笑みで頷いた。
医師による診断の結果、拾われた赤ん坊は特に病気を持たず怪我もなく、全く健康な状態であると証明された。アーサーいわく『とびきり可愛く』映された写真が貼られたデータ表は上司に提出され、しかるべき審査ののち、希望者を募って養い親が決定される。探すのに三日か四日はかかるから待っててねー、というのを『明日晴れると気持ちがいいよねー』と同じレベルで言った上司の電話を、アーサーは叩き切った。
悪い上司ではない。ちょっと発言がアレなだけであって、性質の悪い馬鹿ではない、ということを呻きながら繰り返し、アーサーは室内に視線を巡らせた。四方に本棚が置かれた圧迫感のある執務室の中心で、赤ん坊とピーター、そしてシェリが笑顔で戯れている。セーシェル諸島の化身である少女は、いったいどこから聞きつけたのか赤ん坊を拾った当日にアーサーの家に現れ、そのまま滞在しているのだった。
ピーターが僕まだメールもしてなかったですけど、と呟いたので、知らせたのは妖精である可能性が高い。英連邦は総じて妖精との親和性が高い傾向にあり、ハッキリとした視認ができなくても、虫の知らせ的な予感を受け止めるくらいは簡単なのだった。シェリも、そうして知ったのだろう。素敵な予感がしたんです、と言って飛び込んで来た少女は、赤ん坊を見るなり歓声をあげて抱き上げ、頬ずりをして可愛がった。
島で赤ん坊が生まれると一人一人を抱き上げ、太陽と海の祝福を祈っているのだとする『島の女神』は、異名に違わずよく慣れた手つきで幼子を抱きあげていた。あやす仕草も、ぐずって泣きだす時に奏でる歌も慣れたもので、その横顔は少女というよりも母親に似たそれである。何回もあることだからアーサーもそれなりに抱けるのだが、性差でなんとなく敵わないな、と思って、今も腕に抱いているシェリを見つめる。
毛足の長い絨毯の上に直に座って、シェリは南国の空に響く素朴な歌を口に乗せていた。オレンジ色の不可視の音符を空気に漂わせ、一心に幼子の安らかな眠りを祈る少女。赤ん坊を覗きこんでいたピーターも眠気に巻き込んでしまっているのに気がついて、シェリはよしよし、と弟分の頭も撫でてやる。僕もうそんな歳じゃないのですよー、と言いながらも心地よさそうに撫でられて、ピーターは絨毯の上に突っ伏した。
寝るなら毛布掛けろよ、と注意の声に返るのは、素直な返事の二重奏。そこだけ外見の歳相応で、アーサーはくすくすと笑いを響かせる。赤ん坊は、もう眠ってしまったようだった。歌声を途切れさせたシェリは、ちょうど手に書類を持って入ってきたマシューを見やり、その背後に視線をやって不思議そうに首を傾げる。後をついてくる筈の気配が無いことに、マシューも気がついたのだろう。振り返り、苦笑しながら名を呼ぶ。
「香、どうしたの?」
「……え、マジこっちの台詞なんすけど」
鮮やかな赤い衣に黒いズボンを合わせたいつものいでたちで、香は遠目にも分かる青ざめた顔つきで部屋の入り口で立ちつくしていた。視線はシェリと、その腕の中に眠る赤ん坊に一点集中で向けられていて、他のものが目に入る様子もない。二人を見比べて大体のことを察したマシューが、ああ、と苦笑しながら頷いて。説明しようとするより早く、きらきらの笑顔でシェリが立ち上がり、香に向けて首を傾げた。
「ほら、パパがきまし」
「それは男子に取って大ダメージにしかならないですよおおおおおっ!」
香が死んじゃうっ、やめてあげてっ、とはね起きながら大絶叫したピーターに、シェリは不服そうな顔つきを向けた。
「冗談じゃないですかー。あー、起きちゃった」
「……生きてる?」
声もなく突っ伏すアーサーと半泣きのピーターをよそに、シェリはのんびりと赤ん坊をあやしている。早くなった鼓動を沈めようとしながら、マシューは勤めてのんびりと香に問いかけてやった。その場にしゃがみ込んだまま動けなくなってしまった香は、連邦長兄の問いかけにふるふるふる、と弱い動きで首を振って。死んでます、と涙声で言ったので、マシューはしゃがみこんで香を抱きしめてやった。よしよし、と背を撫でる。
復活できない沈黙に叩き落とされた男たちをからりとした様子で見まわし、シェリは赤ん坊を抱きしめたまま、また歌を口ずさみ始めた。ろくでもない悪戯を発した声と同じとはとても思えない、優しく穏やかな歌だった。