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 柔らかな命を受け取る手のひらを、アーサーは無言のままで見つめていた。執務机に肘をついた行儀の悪い姿で、左手には頬をくっつけて頭を預け、右手は万年筆をくるくると回している。つかれた肘のすぐ隣には祖国のサインを待つ書類があり、数センチの厚さを形成していたが、誰が見たとてそちらに集中しているとは思えないだろう。浮かぶ感情もどこか薄く、瞳をやんわりと細めて、アーサーはただそれを見ていた。
 セーシェル諸島の化身たる少女の手から、返還都市の青年の手のひら、腕の中へ産まれて間もない命が移動する。それはありふれた一動作でありながらも儀式めいていて、アーサーは無言でペンを回し続ける。くるくるくる、と回転するペンをひょい、とつまみ上げたのはマシューだった。視線を移動させてやや睨むように表情を変えれば、マシューは涼しい顔で万年筆のキャップをしめ、もう一度アーサーの手に握らせた。
「お仕事、休憩にしましょう?」
「……分かった」
 問いかけでありながらも、甘くねだるその声を、アーサーは決して無視できない。望みの通りに受け入れてやれば、マシューはごく嬉しそうに口元を緩めて微笑した。感情の発露が決して派手でないマシューの、それでも溢れてどうしようもない喜びの笑みを、アーサーはひどく気に入っている。万年筆を机の上に転がし、アーサーは指先でマシューを手招いた。軽く不思議そうな顔をして、マシューはすっと顔を寄せて来る。
 止まり木代わりに差し出した、指先に止まる小鳥のように無防備に。この相手は決して己を害しはしないのだと、その全幅の信頼を、なんでもない仕草からアーサーは思い知る。よしんば肉体的に、あるいは精神的にひどく傷つけられたとして、それがアーサーからのものならば、マシューはそれを痛みとも感じないに違いない。痛みは、痛みとしてそこにあり、傷は、傷としてそこにある。その事実を認識していたとしても。
 包み隠し、覆い隠して、微笑みながら抱きしめてしまう。なにもありませんでしたよ、とそんな顔をして。だからこそアーサーは、絶対にマシューを傷付けようとは思わない。寄せられた無防備な頬を指先で突っつき、意味もなくぷにぷにとつまみあげれば、マシューはくすぐったそうにかすかな身じろぎをした。しかしそれだけで指先から逃げようとしないまま、マシューは穏やかな声で問いかける。なにを、見ていたんですか。
 視線の先にあるもの。見つめた光景の意味こそを知りたがる囁きに、アーサーは笑いながら口を開いた。
「『国』が、己の民ではない幼子を抱きあげるって光景も珍しいな、と思ってな。自国の民なら抱くこともあるだろうが」
「そう言われてみると確かに……香、大丈夫? 駄目そうならシェリに返すんだよ」
 すい、と自然に移動していった二つの視線の先で、香はどこかぎこちない姿勢で赤ん坊を抱いていた。肩に力が入り過ぎている。そっと助け船を送るマシューにこくこくと無言の頷きを返して、けれど香は赤ん坊を腕から離そうとしなかった。薄い薄いさくら色をした唇がかすかに開き、肺の奥まで息を吸い込む。ゆるく吐き出されると共に紡がれたのは異国の響きの子守唄で、アーサーは意外そうに目を瞬かせた。
 島で暇な時は子守りもするという稀有な『国』であるシェリと違って、香がそうしたことに慣れているとは到底思えなかったからだ。しかし歌声はどこまでも滑らかに響き、琥珀色の落ち着いた輝きを空気に忍び込ませた。ぎこちない姿もだんだんとほぐれて行き、今や香は非常にゆったりとした、いつも通りの立ち姿で赤ん坊を抱いていた。体をゆらゆらと揺らしながら微笑みかける姿は慈しみに満ち、若い父親にしか見えない。
 手出し口出しはしなかったものの息をつめて見守っていたシェリからも、ほっと力が抜けて行く。慣れてるんですか、と眠ってしまった赤ん坊を覗き込みながら尋ねる少女に、香は優しい瞳のままでたまに、と呟いた。
「孤児院とか行ったりするんで。歌は耀兄様から昔教えてもらったヤツだけど」
「……孤児院?」
「居ないなら、俺が親とか兄になればいいだけの話なんで」
 なにをしに行くのかという問いかけが形になるより早く、香の言葉は返される。変わらず視線は英国の赤子を見つめたまま、愛しい祈りを捧げていた。どうか幸せであるように、と。産まれた命に対して感じる本能的な愛しさを隠そうともせず、香はそっと赤ん坊を抱きしめた。流れる血の中に、己と繋がっているものが無いか、耳を澄ませて確かめるような仕草だった。ひとと『国』に、その繋がりがある訳もないのだけれど。
 やがてそれを見つけたようにあでやかに微笑み、香は眠る赤ん坊を胸の前で抱き直すと、指先でふくふくの腹あたりを撫でる。
「一緒っすね……。やっぱ、一緒。へんなの」
「なにがだ?」
「人間だな、と思って。英国民も、香港の民も、同じ……なんも変わらない命で、びっくりしました」
 はじめに怖々と抱いていたのは、己の守護する民と同じだという確証がなかったからだ、と言外に告げて。香は英国民として生を受けた赤ん坊を、己の民と同じ優しい手つきであやしながら微笑んだ。突飛な発言にも驚かず、アーサーは苦笑して頷くに留める。分からない感覚ではないからだ。当たり前に同じ命だと知っていても、己の国民とそれ以外の民では向ける意識が異なってくる。感じる愛おしさの桁が違うからだ。
 本能的に、桁外れの愛おしさを感じる存在として、『国』は『国民』を持っている。国境線、目には見えない区切りがひかれたその内側に住む人に対して、決して尽きることも終わることもない愛情を感じている。その外側に住む命とは別物のように、『国』は『国民』を愛するのだ。香は特に『国』でありながらその枠組みとはほんのすこし異なる『返還都市』である為に、他国の民に対する意識の差異に戸惑ったのだろう。
 それでも腕の中にある命は呼吸を繰り返し、ちいさな心臓を動かして血を巡らせ、ぱちぱちと瞬きをしながらじっと世界を見つめる瞳を持ち、作りもののような手のひらで興味深げに触れまわる。知るものと同じ、人の子なのだった。香が感じているのは、存在として幼子に対する愛おしさであり、『国』が『国民』に対するものとは違うのだろう。それでも愛して、ただそこにある命を愛して、香は金色の瞳を見つめ返していた。
 まっさらな瞳の奥、鏡のように己を映し出す存在を見据えていた。やがて深く深く、息がもれて行く。可愛い、としみじみ呟かれて、アーサーは甘く滲む幸福感に肩を震わせて笑った。己の国民にそう囁かれることが、どれほど誇らしく嬉しいか。ふと緩んだ表情で息を吐き出すアーサーに、マシューもまた目を細めて笑う。アーサーが感じる喜びを、嬉しいと思う気持ちで微笑んで。マシューはそっと、アーサーの傍を離れた。
 絨毯の上で丸くなって寝てしまっているピーターの体に、毛布をかけ直して。ゆっくりした歩みを止めることなく香の元まで行ったマシューは、はい、とばかりに軽く両腕を広げて立ち止まった。抱擁を求めているようにも見える仕草だったが、マシューの視線が香の腕の中で眠る赤ん坊に注がれていることから、意味は違えるまでもなく明白だ。香はすこし名残惜しそうにしながら、連邦長兄の腕に赤ん坊を預け渡した。
 家の前にみなしごが置き去りにされる、という衝撃事件に出会ったことこそないものの、さすがにマシューの手つきは慣れていた。日頃からクマ次郎さんや、ピーターを抱き上げているからだろう。サイズの小ささに一瞬だけ困惑に似た表情を浮かべたマシューは、しかしすぐ息を吸い込み、うっとりとちいさな命を眺める。敬愛するイギリスに産まれた命であるからこそ、マシューにはなお、想う感情がたくさんあるのだろう。
 アーサーは幼子に注がれるうっとりとしたマシューの眼差しを眺め、執務机にそーっと突っ伏した。勢いよく倒れたいのは山々だったが、音を立てて気がつかれたくない。握りこぶしをふるりと震わせ、アーサーは低く響かない声でぼそりと呟いた。
「……むらっと来た」
 いやあのマシューの目は反則だろう異論は一切認めない、というアーサーの呟きをもし英連邦が聞いていたら、赤ん坊ごとマシューをどこかに避難させたことだろう。だが幸か不幸か英連邦たちは新しい命に夢中で、アーサーに気を配ってはいなかった。唯一、危険に晒されかけている当人がアーサーの異変に気が付き、机に伏せているのを見て首を傾げはしたのだが。あー、と低音の呟きでアーサーは気を紛らわせて。
 やがてむくりと顔をあげたのと同時に携帯電話が着信を告げたので、アーサーは即座に通話ボタンを押した。相手は確認しなかったが、聞こえて来たのは耳になじみのある声で。告げられた内容に目を瞬かせながら、アーサーはほのぼのとしている連邦を眺めやった。
「マシュー」
 名を選んで呼んだのは、赤ん坊を抱いている当人だからというだけではなく、英連邦の長兄でもあるからだ。マシューが承認すれば、その意思はあまねく連邦に広がって行くのである。無造作に携帯の電源を落とし、アーサーは勤めて感情を揺らさない声で、ハッキリと言い放った。
「引き取り手が見つかった。今から二時間後に、迎えが来る。……用意を」
「……はい」
 珍しく返事に間があったのは、仕方が無いことだろう。予定されていた期限よりずっと早く、愛おしさを覚えるさなかに別れを告げられたのだから。シェリも香も驚きに目を見開いていて、それらと視線を合わせることなく、アーサーは手元の書類に目を落とした。休憩は、これで終わりだ。万年筆のキャップを取って転がしながら、アーサーは几帳面な字でサインを書き加えて行く。部屋には、歓迎できない沈黙が下りていた。
 分かっていても、アーサーにはどうしてやることもできない。出来ることはただ、幼子の幸福を祈ることだけ。それだけだ。視線さえ上げずに仕事に戻ってしまった宗主国を恨めしげに眺め、シェリがマシューに向かって手を伸ばす。赤ん坊の引き渡しを要求する少女に、マシューは穏やかな表情で首を振る。だめ、と言われてシェリの顔が泣きそうに歪んだ。どうしてですか、と薄々分かっている響きでも、問いかけは放たれる。
 香は表情で、同じ問いをマシューに向けていた。二人の違いは声に出したか、出していないかだけだった。マシューは溜息をついて赤ん坊を抱き直し、情が移るでしょう、と静かな声で囁きかける。愛おしさを覚えるのは良い。可愛いと思うことも、間違ってはいない。それはどれも否定されるべき感情ではなく、当たり前に存在を許されたものだ。けれどもそれと、情を移してしまうのは違う。それはいけないことだった。
 ましてや、自国の民ですらない存在に、『国』はその感情を許されない。きゅぅ、と眉を寄せて俯いてしまったシェリの手を、香が取って強く握る。硬く手を繋ぎ合せた二人を無言で見守り、マシューはその場にしゃがみ込んだ。片手で赤ん坊を抱き寄せ、もう片方の手でピーターの体を揺らす。すぐに寝ぼけた視線を向けて来たピーターに微笑みかけて、マシューはただ一言を告げる。お別れだよ、と。それでも優しく響く声で。
 ピーターは眠気を晴らす為に瞬きを何度かし、意識をハッキリさせる数秒で、事態をきちんと理解したらしい。そうですか、と大人びた表情で頷くと、ピーターは眠る赤ん坊の頬にぺったりと手のひらをくっつけた。幼い少年の姿をしたピーターの手ですら、余ってしまうちいさな存在。ふふ、とくすぐったそうな笑いで手を引いて、ピーターはナイショ話をするようにそっと、そーっと囁きかける。それは妖精の祝福にすら、似ていた。
「それじゃあ、さよならなのですよー」
 囁きが空気に溶けて消えてしまうより早く、部屋にしずしずと女性が入ってくる。アーサーが受けたのと同じ連絡を聞き、赤ん坊を受け取りに来たのだった。『国』から、引き取り手に渡すことはしない。人の手から人の手に、行われる。それが暗黙のルールだった。マシューはただ穏やかに微笑んで限りある命を腕の中から渡し、抱かれて出て行く姿を見送った。執務室の扉が閉まるまで、アーサーは一度も顔をあげずに。
 ぱたん、と閉じる音が響いてから、わずかに視線を持ち上げて見送った。まるでその扉が、人と『国』とを区切っているかのように。部屋の中に彼らと同じ命は存在せず、ただ時計だけが、人の身に流れる時間を刻んでいた。



 よく晴れた空の色が、会議明けの目に染みた。休憩なし六時間ぶっ続け会議を企画した国は表に出ろ、ぼこぼこにしてやる、と思いながら会議会場のホテルの扉を背にして、アーサーは大きく息を吸い込む。爽やかな空気は疲れを消し去ってくれるようで、清涼な気配が指先まで広がって行く。んー、と伸びをするとさらに疲労感が散って、アーサーは深く息を吐き出した。会議は、休憩を挟みながら進めるものである。
 恐らく参加した『国』という『国』が同意見に違いない。今なら会議はシエスタを挟んで行われるべき、というヴァルガス兄弟の意見も通ってしまいそうだった。もう今日は家帰ってすぐ休む、絶対、とぐったりしながら考えていると、道の向こうからゆったりとした足取りで警察官が歩いて来るのが見えた。それが顔見知りの老刑事だということに気が付き、アーサーはひらりと手をあげて挨拶する。老刑事は嬉しそうに一礼した。
「これはこれは、祖国。……お疲れのようで」
「そうだな、疲れた。隣国を爆破したいくらい疲れた」
「ドーバー海峡の、向こう側の彼の国を、ですか。……泣きそうな顔をしてらっしゃいますが」
 老いた男の眼差しが向けられている己の背後に視線をやり、フランシスの姿を認めたアーサーは、極上の微笑みでもって親指を下に振り抜いた。会議の効率化だか何だか知らないが、ドイツと手を組んで六時間ぶっ続け会議の実験を決行したアホの片割れなど、今すぐ涙の海で溺れれば良い。もうしませんごめんなさいって言っただろうがーっ、と飛び出してきてまで騒ぐフランシスを、アーサーは異常に嫌そうに見つめた。
「お前もういいから呼吸すんの止めろよ。俺の国では息すんなよ。国民に行きわたる酸素量が減る」
「ごめんなさいだから許して坊ちゃん……。というか、国民の前よ? 坊ちゃんの愛しい国民の前で暴言はいて良いの?」
 幻滅しちゃうでしょうねえ、と同意を求めて向けられた視線に、老いた刑事はごく穏やかな微笑でもって沈黙した。それくらいのことで祖国に対する愛に何ら変化はないのだと、その笑みだけで告げてしまう表情。アーサーよりもマシューに似た感情の表し方に、フランシスはよろりと壁にもたれかかる。国民に愛されているようでなによりです、と涙声で呟かれ、アーサーは当たり前だろうが、と胸を張って頷いた。
「だって俺の国だからな……ああ、巡回中に引き留めてすまなかった。また今度、飲もうな」
「いいえ、お気になさいませぬよう。……最後の見回りの途中でした」
 え、なに坊ちゃんの飲み仲間なの、と恐ろしいものを見る視線を向けているフランシスを無造作に殴り倒し、アーサーは不思議がって首を傾げる。最後、とはなにか。数秒考えて定年退職という言葉に行きつき、アーサーは言葉を胸につまらせる。外見の老いは、見て分かっていた。それでも何時までも付き合って行けると思ってしまったのは、己が変わらない存在だからだろうか。そうだったか、とアーサーは呟いた。
「……もう、そんな年齢か」
「はい、祖国。あなたと出会って……もう五十年以上になりました」
「お前はハイスクールの生徒だった。……ハイスクールの生徒のくせに、ハブに来て、それなのに警察官志望で」
 懐かしい思い出に目を細めながら、アーサーは手を伸ばして老いた男の帽子を取った。色が抜け、白髪交じりになった髪をくしゃりと乱せば、そこでようやく時の流れを思い知る。彼はアーサーに取って、かけがえのない友の一人だった。上司ではなく、国民ではなく、ただ同じひととして時を過ごし、見守っていた稀有な存在だった。定年で退職したからと言って、繋がりが消える訳ではない。けれど、どちらも分かっていた。
 ここで、別れだ。『国』と友情を交わした男は人だけの世界に戻り、アーサーの手からまた一つ、繋がった糸が断ち切られる。寂しくなるな、とアーサーは言った。光栄です、と国民として目を細めて笑った老人は、すぐに辛そうにぎゅぅと目を閉じて囁く。はい、と。言葉短く告げられた同意は、アーサーの友としてのものだった。ありがとう、と告げたのはどちらだったのか。言葉の残響が残る中、アーサーは老人から手を引いた。
 ぽん、とまるで気軽に頭に帽子を戻してやりながら、静かな声で問いかける。
「定年後は、どうするんだ? ……どっか引っ越しでもして隠居するのか?」
「旅行にでも出ようかと思っております。ただ、最近孫が出来ましたので、落ち着いた日々にはならないでしょう」
 孫、という言葉にアーサーははてと首を傾げた。男に伴侶はなく、私生児も居なかった筈なのだが。娘、息子を飛び越えて孫である。なんだそれ、と問いかけようとするのと、声が響いたのは同じだった。
「おじいちゃん!」
 老人がやって来た道の向こうから、四歳くらいに見える少年がかけてくる。振り向いて出迎える老人に、少年は勢いよく抱きついた。さらりと、濃いオリーブ色の髪が揺れる。祖父と呼んだ人から離され、アーサーに向けられた瞳は金色をしていた。アーサーは息をつめて、少年を見返す。珍しい色の組み合わせであることは確かだったが、確証は持てず、問いかけるのもルール違反だった。それでも、考えてしまう。
 何年前に、見送ったこどもだろう、と。三年、四年は前だった筈だ。誰に引き取られて行ったのか、アーサーは知らない。ただ信頼できる相手の元へ、幸せに暮らせるようにと祈りは託されて引き取られて行った筈だ。アーサーはゆっくりと息を吸い込んで、老人に尋ねた。
「どこからか……引き取ったのか」
「はい。貴方様と過ごした日々を終えて、孤独な隠居は寂しすぎましたので」
 しれっとそんなことを言う老人は、知らないに違いない。引き取り手にも、拾った者の名は明かされないルールだからだ。じぃっと見つめてくる幼い瞳に苦笑いを返しながら、アーサーはじゃあ旅行にでも行けよ、と言った。
「世界中。この子を連れて旅行にでも行ってやれ」
「セーシェル諸島! セーシェル諸島がオススメですっ!」
 ばんっと音を立ててホテルのぶ厚い硝子扉を開け放ち、セーシェルは肩で息をしながら主張した。アーサーがぎょっとした目を向けてくるのもかまわず、恐らくは彼方から走って来たせいで盛大に息を乱している少女は、軽くよろけながらも一歩前に踏み出す。視線は、ハッキリと幼い少年の姿を捕らえていた。どこか泣きだしそうな必死な表情をしながら、シェリもまた、それを告げなかった。代わりに、大きく息を吸う。
 浮かべられた微笑みは、己の国土を誇るものだった。
「セーシェル諸島、オススメですよ。ぜひ、ぜひ……来て、ください」
「あ、じゃあ香港もよろしくお願いします」
 急いで走って来た様子でもなくごく普通に歩きながら現れて。香はシェリの隣に並び、いつかそうしたように硬く手を繋ぎ合せた。もしや、と思って振り向けば、そこには苦笑しきりのマシューと、キラキラ目を輝かせているピーターも居て。お前らはタイミングが良すぎる、と笑うアーサーに、マシューは仕方がありません、と言った。
「僕らは英連邦ですから。……よろしければ、カナダにもお立ち寄りください。歓迎致します」
「シーランドも! シーランドもですよ! 泳いで行けますよ!」
 『国』は、人の存在を感じ取ることができない。人の足が国土を踏んでも、それを感じることができないのだ。どんなに大切に想う存在であっても、そのひとがどこに居るかを、当たり前のように理解する術が無い。けれど、彼らは『国』だった。たとえばひとがその土の上、美味しいものを食べて綻ばせた口元の幸福や、美しいものを見て流れた涙の感動や、異国の街並みにざわめく心の喜びが、感情として存在しているのなら。
 それは『国』へと還るのだ。国民であるか、そうでないかは関係がなく。その土の上、その国の中で感じた想いは、その『国』へと通じて伝わり、還って行く。嬉しい、楽しい、愛おしい。幾億もの感情が『国』の心に降り積もり、それはやがていとしい民を愛する感情となり、ひとを、誰かを大切に想う気持ちになって、世界中を巡っていく。『国』はひとの個を、なにひとつ感じられない。けれどひとを、なにもかも感じ取れるのだ。
 ひとは、それを知らない。それでもなぜか必死な『国』の様子に感じるものがあったのだろう。老人は穏やかな口調でいつか必ず、孫を連れて国々をめぐって行くことを約束し、二人は手を繋いで歩きながらイギリスの街並みへと消えて行った。さようなら、と誰かが言って見送った。さよなら、けれど必ずそこにある、途切れはしない愛の形。この胸に今も降り積もる、想いのひとつぶ、ひとかけら。きっと二度と会えはしない。
 それでも二度と、別れはしない。アーサーはそっと胸に手を押し当てて、ゆっくりと息を吐き出した。
「……帰るか」
 呟いた言葉に、いくつも声は重なって。彼らは、いつも通りの帰路につく。優しい気持ちに温まる胸に、愛おしさが弾んで行くから。誰も、涙は流さなかった。ただ微笑んでひとの喜びを、幸福を、祈り。『国』は、人にまぎれて町の中を歩いて行った。

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