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 きっと、いつかは

 かじかんだ指先に息を吹きかけて温めれば、すこしだけ、凍えて過ごした幼い日々を思い出した。思い出は雪の結晶のように美しく、それでいて儚く胸に浮かびあがり、すぐに音も無く崩れて行った。後には苦く切なく、柔らかな想いが残るばかりだ。辛いばかりでは、なかった。そう思うことで唇に微笑みを取り戻し、ウクライナは声には出さず、ゆっくりとその意思を言葉に還す。辛いばかりの日々では、なかったわ。今だって。
 今だって、そう。すこしばかり面倒くさい仕事で、終わらなくて帰れないだけで。ウクライナは思考の逃避から現実へ戻ることにして、視線をちらり、と巨大な円卓へ向けてみた。『国』たちが集まり、円を成して会議する為の大きな机。それをぐるりと等間隔に並べられた椅子が囲み、ネームプレートが置かれ、明日の本番に向けて主人の訪れを静かに待っていた。物言わぬそれらを遠く眺め、ウクライナはふ、と物憂げな息を吐く。
 明日の会議を中心となって進めるのは、他でもない『ウクライナ』だった。会議の準備は数ヶ月前から進められ、一週間前からは議場のあるアメリカに場所を映し、会議室の設置されたホテルに泊まり込みで作業をしている。年代物の柱時計に目を映せば、時刻はまだ午後をすこし過ぎたばかり。夕方にもなっていないが、黄昏の焦燥に背を押されたかのように、ウクライナは唇を噛んで苦しげな表情をする。時間が、足りない。
 できる準備は全て終わらせた筈だった。発言の内容も推敲と吟味を重ね、ありとあらゆる方面からの質問と反論に対応できるように思考を巡らせ、その為の準備も練習も、何日もかけて執り行った。各国のネームプレートの前には、数枚の紙をホチキスで束ねた資料が置かれている。全てはその中に凝縮してあるし、それ以上のものがウクライナの頭の中には詰まっていた。会議が始まるまで、あと二十時間はゆうにある。
 あと、二十時間しか、もうない。指がかじかんで冷たくなるのは、極度の緊張の為だった。ざぁっと血の気が引いて行く感覚があって、ウクライナはとっさに、近くにあった椅子を引き、そこに倒れこむように腰を下ろす。女性の他には誰も居ない会議場に大きな音が響くが、それを聞いたのは時を刻む柱時計だけで、意思ある者はかけつけてこなかった。意識が揺れる。白い闇の中でウクライナは、国内の異変でないことを確かめる。
 愛しい、己の国。そこになにも変化が起きていないことを感じてから、ウクライナはふぅ、と息を吐いて机に頬を寄せ、ぼんやりと目を開く。だんだんと像を取り戻して行くぼやけた世界を眺めながら、なさけないなぁ、と掠れた声で呟いた。情けない。緊張と、不安と、食欲不振、それから恐らく、すこしの寝不足。たったそれだけのことで貧血を起こして倒れかけるだなんて、すこし前の時代では考えられなかった『弱さ』だった。
 個人的な体調不調。それを表に出すようになってしまった自分。いったいどうして。いったい、いつから。こんなに弱くなってしまったんだろう。音の乏しい閉ざされた会議室では、意識を救い上げるものもなく。ウクライナはそっと、唇を動かすだけで囁く。強くならなくちゃ。もっともっと、強くならなくちゃ。ひとりでも大丈夫だよって、安心させてあげて、それで。す、と胸に浅く息を吸い込み、ウクライナは強く目を閉じて思考を停止させる。
 泣きそうだった。弟と、妹の名を淡く囁けば、返ってくる声がないことに心が暗く沈んでいく。指の冷たさに、息を吹きかけることを覚えたのは何時だっただろう。かじかんだ手を繋ぎ合せて温めてくれたのは弟で、怒ったような顔をして息を吹き、熱を宿してくれたのは妹だった。どちらも居ない。心配させることもない代わり、安心させてあげることも、その意味も、ない。意識の結び目が、ほんの僅か緩む。まなじりに、涙が浮かんだ。
 唇が、音を綴る。
「……リ、カ……く」
 息を飲む、音。がたんっ、と音を立てて椅子から立ち上がりながら、ウクライナは口元に手を押し当てた。
「あ……!」
 信じられないような気持ちで、会議室の扉に視線を向ける。混乱しすぎて、意識がなにを考えればいいのか分からなくなっていた。今、誰の名を、どうして口にしようとしたのか。耳に触れたかすかな声には聞き覚えがあり、それでいて、呼びかけた青年のものではなかった。驚きに見開かれる瞳の色は、晴れ渡ったスカイ・ブルーではなくもっと落ちついた、古い森色の瞳。
「い……イギリス、さん」
「……驚かせたな。すまない。ノックは……したんだが」
 返事がなかったから、もう帰ったのかと思って。そう言ったきり室内に足を踏み込もうともしないイギリスに、ウクライナは返す言葉も持たずに立ちつくす。ぐるぐる、言葉が胸の中で混乱していた。聞かれた。聞かれて、しまった。他の誰にも、本当は自分の耳にすら、触れさせたくなかった音、言葉、気持ち。ほんのかすかな囁きを、想いを、聞かれてしまったに違いないのだ。酒精を宿せば濁る瞳は、今は総明な輝きで澄んでいる。
 一番、聞かれたくない、聞かせたくない、相手だった。
「……アメリカなら」
 深い、それでいて穏やかな溜息と共に言葉が下りてくる。もっと他の感情を、怒りや拒絶や嫌悪を想像していたウクライナは、だからこそ逆に体に力を入れて言葉を耳にする。それをどこか痛ましげに、申し訳なさそうにゆるく眺め、イギリスはそっと、そっと緊張をほぐすように言葉を重ねて行く。それは月の無い夜を怯えるこどもに、温かなおとぎ話を語って聞かせる声の色。
「アメリカなら、ロビーで見かけた。時計を気にしながらコーヒー飲んでたから、待ち合わせでもしてるのかと思って声をかけなかったんだが……野暮なことを聞いたか?」
 暗に、待ち合わせしている相手だったのか、と問いかけてくるイギリスに、ウクライナは無言で首を左右に振った。待ち合わせなど、した記憶がない。そんな約束を結んだ覚えも、なかった。まだ上手く言葉を戻せない様子のウクライナにふむ、と首を傾げ、イギリスは扉に背を預ける。
「この所、と言ってもこの四日間か。アメリカがこのホテルに通ってると聞いたんだが」
「……そう、なんですか」
 もしかして、良い女性でも宿泊してるのかも知れない。じくりと痛んだ胸を誤魔化し、ウクライナはようやく顔をあげて微笑む。
「いいえ、私には関係のないことだと思います。……そういえば、この四日、彼の姿をよく見はしましたが」
「へぇ?」
 楽しげに弾んだ声はいかにも悪戯っぽく、ウクライナに事の詳細を求めていた。それが好奇心を全面に押し出したものであっても、下世話な印象ではなく、あまりに悪戯好きの少年のようだったから、女性はくすくすと肩を震わせて唇を開く。
「午後の……五時過ぎくらいになると、この会議室に来て、『もう帰りなよ』と」
「……なにやってんだアイツ」
「この時間から居るくらいなら、用事を済ませた帰りにでも寄っていただけでしょうね。……やだわ、私ったら」
 まさか、心配して顔を覗かせてくれているだなんて、どうしてそう思ってしまったのか。落ち込んだ気分を切り捨てるように唇を結んだ女性を、イギリスは静かな目で眺めていた。好奇心、ではなく。あるがままを観察している瞳。
「アメリカが」
 感情を、極力消したような声に。ウクライナの視線が、静かにイギリスを向く。そうしなければ行けない静かな強制が、その響きにはあったからだ。二人の距離は遠く、会話を苦としないギリギリの距離だろう。声を言葉として間違えず、ようやく相手に届けることのできる距離。イギリスは近付かず、ウクライナは足を踏み出さなかった。時計の針が進んでいく。日差しに照らされて、細かいほこりがキラキラと光っていた。
「この所、君によく声をかけて……ありていに言えば、あれこれ誘っているのは、俺も知ってる」
「……はい」
「迷惑か?」
 それなら、俺から一度注意しておく、と。あまりに保護者として放たれた言葉に、ウクライナは思わず笑ってしまった。面白い感情では、ない。それはどろどろとした癒されない悲しみと苦しみと、それらの混じった羨望に、一番よく似ていた。彼は守られている。昔も、今も。正しくまっすぐ成長しますように、と。愛され、導かれている。抱かれている。その存在を、ウクライナは持ったことがなかった。これからも、持たないままだろう。
 弟と妹にそうありたいと願ったことはあれど、イギリスを前にすれば、それがあまりに滑稽な祈りであったかが分かる。彼は強く、そして女性は弱かった。それだけの差だ。昔も、今も、なにひとつとして変わらない。いいえ、と囁いて首を振り、ウクライナはぎこちなく唇をつり上げた。不自然でない程度笑えているだろうか、と頭の片隅でそんなことを思った。
「いいえ。彼の……貴重な時間を私に使うことはないのに、と思うくらいで、迷惑なんて」
「そうか」
「はい」
 そこで、会話は終わりのようだった。イギリスは特に用事があって会議室に立ちよった訳でもないのだろう。邪魔をしてすまなかったな、と苦笑されるのに首を振って、ウクライナは明日、よろしくお願いします、と微笑みを浮かべる。イギリスは同じような微笑みを浮かべてひとつ頷き、あまり根つめて作業するなよ、と言い残して扉を閉めた。足音がだんだんと遠ざかって行き、やがてぶつりと途切れる。ふ、と全身から力が抜けた。
 椅子に座り込んで、目を閉じる。やるべきことは、もう無い筈だった。部屋に戻って体を休めよう、とそう思いながら、ウクライナはぼんやりと瞼を持ち上げ、柱時計に目をやった。一時間、二時間が経過する。三時間が過ぎると日が陰りはじめ、四時間を重ねて部屋は薄闇に包まれる。午後の五時過ぎ、重たく響く時計の音を聞いて、ウクライナは目を閉じる。アメリカは来なかった。六時過ぎ、ウクライナはひとり、部屋を後にする。
 もう、誰の名前を呼ぶ気にもなれなかった。



 元保護者の説教は、時間を吹き飛ばす魔法でも含まれているのではないか、とアメリカは真剣に思った。なにせ始まったら一時間は軽くどこかへ飛んで行くし、その間、アメリカに時の流れを感じさせもしないのだから。重たく響きわたる午後五時の鐘が鳴り響いた瞬間、アメリカは早退を余儀なくされたシンデレラのように時間というものを取り戻し、大慌てでイギリスを振り切って廊下を走りだしたのだった。午後五時。夕方である。
 ホテルに足を踏み入れた時はまだ顔の正面に光を感じるばかりだった日差しは、今は背から前に影を長くし、空を茜色に染めている。まだまだ明るいが、それでもすぐに薄闇は世界を包むだろう。早歩きをしながらも、まっすぐな長い廊下の窓から中庭を見下ろし、アメリカは深々と溜息をついた。今日こそ、今日こそ明るいうちに外に連れ出したかったのに。イギリスはどうして、天才的に変態なくらいお説教が長いのだろうか。
 その原因が自らの素行にあるとは微塵も思わずにしかめつらをして、アメリカは会議室へと足を進めて行く。約束はしていない。なにひとつ。それでもウクライナが明日に迫った会議準備の為にこのホテルに滞在してからというものの、アメリカは母国の立地条件を生かし、毎日顔を覗かせては声をかけているのだった。本当は食事に誘ったり、買い物に連れだしたりしたいのだが。素直になれないせいで、ことごとく失敗している。
 毎日、毎日、夕方になって仕事が一段落するのを待ちながら、どう誘おうかと、そればかりを考えているのに。五時の鐘を前に会議室に向かっていざ扉を開ければ、零れて行くのは『もう帰りなよ』とか、『まだやってたの?』という、すこしイジワルめいたそっけない言葉ばかりだった。そうじゃないのに。もう暗いから、室内で一人で居させるのも心配だから、仕事が熱心なのは分かるけど帰ろうよ、と。そう、言ってあげたいのに。
 仕事を終わらせて一緒に居てよ、と。言いたいのは、それだけなのに。今日こそ、と意気込んだアメリカが気を取り直して一歩を進んだ矢先のことだった。悪寒。背筋を一瞬にして貫く獰猛なまでの殺気に、アメリカは全身を逆立てるようにして立ち止まり、踏み出しかけた足を場に縫いとめる。急激な体重移動に靴底が嫌な音を立てて抗議したが、アメリカに気にしている余裕はない。本能の叫びに従って、上体をぐん、と反らす。
 前髪が何本か、空を舞った。それを冷静に目でとらえながら、アメリカは両手を思い切り前に突き出し、襲いかかって来た『それ』を突き飛ばして離れる。本当は、蹴るのが一番良かった。そうしなかったのは、なぜか『そうしてはいけない。後が死ぬほど怖いから!』と意味の分からない判断を本能が下したせいだ。自意識の判断にこそ混乱しかかるアメリカは、しかしあっさり突き飛ばされた『それ』の感触に、すぐ納得する。
 やけに柔らかく、そして軽かった。女の子だ。咄嗟にそう思って意識を外側に戻し、アメリカは意識を戦闘に向けて研ぎ澄ませながら前を見る。ひら、と黒いリボンが視界の端を横切った。え、と思いながら顔の間に腕を挟みこめば、頑丈な靴底が二の腕に食い込む形で止まる。激烈な舌打ち。接触点に体重をかけて飛び退く、という一流の体重移動を成し遂げてアメリカから距離を取った襲撃者は、銀の髪を高く結いあげていた。
 繊細な黒いリボンが台無しになるくらいキツく硬く結ばれた髪が、着地した少女の背に落ちて涼しげな音を立てる。処刑台に設置された刃をも思わせる殺気交じりの鋭い視線は、残念なくらい美しい澄み切った紫だった。古めかしいドレス仕立てのメイド服。軍用のブーツに、実用性に富み過ぎた大型のナイフを持ったとびきりの美少女だった。アメリカは思わず息を吸い込んで、眩暈を感じながら言葉を探してそーっと口を開く。
 暗殺者かと思ったら知り合いだった、という衝撃的な事実に、脳がちょっとついて行かない。
「あー……えっと、ナターリヤ……?」
「気安く呼ぶな豚野郎」
 その声で命じられた兵は、極上の歓喜に身を震わせながら戦いへと赴くことだろう。誰もがそう思うであろう、極上の戦姫の声。凛とした麗しい響きが、聞くに堪えない罵声を淡々と吐き捨てることが、わりと日常的であるからこそ受け入れたくない。
「どこへ行くつもりだ」
 問いかけながらも、少女はアメリカの目的もこの先の部屋に姉がいることも、なにもかも分かっているようだった。頸動脈狙いで構えられたナイフを握る手から力は抜けず、飛びかかる隙を狙って、今も体勢を低く、脚に力を入れたままなのである。返答次第では戦闘が再開されるだろうし、どのみち、なにを答えても少女はアメリカに飛びかかってくるだろう。これ以上はない程に不機嫌顔の少女の、八つ当たりも含めて、だ。
 アメリカの想う女性には、すこしばかり性質の悪い、最強の守護者が複数ついている。
「……じゃあ、ベラルーシ。君のお姉さんの所さ」
「分かった。動くな。去勢させろ話はそこからだ」
 着飾って黙らせて椅子にちょこん、と座らせれば名だたる人形師がその魂すら捧げて作り上げた『作品』である、と言われても信じてしまいそうな少女の口から、絶対に聞きたくない単語が出てくるのは男として、青少年として大変心臓に悪いものがある。精神的にも大打撃だ。勘弁してくれよ、と半泣きの気持ちになりながら、即座に距離をつめてナイフの刃を首に食い込ませて来ようとするのを、銃身ではじき返すことで止める。
 耳を傷つけるような衝撃音と火花が散った一瞬、慣れた仕草で安全装置を外し、アメリカは溜息をつきながら引き金に人差し指を乗せ、構えた。相手は本気だ。悲しいくらい本気だ。こちらも、それなりに対応しなければ死なないにしても、殺されかねない。『国』は死なない。死は、国が滅びぬ限り訪れない。けれど、殺されることはある。命が確かにその瞬間、ぶつりと途絶えた、とそれを知覚することはある。最低最悪の体感。
 それを超えてなお、やってくる『生』という現実。再生しているのか、それとも死はただ通過点として過ぎ去るシステムになっているのか、アメリカにはよく分からない。どの『国』もそれを知らないだろう。ただ分かっているのは、腕を落とされても、はらわたを引きずり出されても、首をはねられても、失血で死に至ろうとも。『国』は死なない。人知を超えた激痛の果てに一度『死』を迎え、そして送り出し、生に復帰する。それだけだ。
 それだけ、でも、死ぬわけにはいかない。当たり前のこととして、彼らは『国』として、国防の一環程度の感覚で我が身を『守らなければいけない』のだ。ひとの、生存本能より、ワンランク上の防衛感覚。それに従ってためらいなく発砲し、アメリカはベラルーシを心底困った目で見やった。
「ナターリヤ。こう呼ぶことを嫌がられると、国際問題に発展するんだけど。それでいいのかい?」
「……仕方ない、妥協してやる。ただし口に出して呼ぶな」
 少女は銃弾によって焼け焦げるような穴が開いたスカートを手で持ち、なんだか絶望的な顔つきで二、三度頭を振った。気に入りの服なのだろう。お前のせいで穴が開いた、と恨めしげな目つきを向けられて、アメリカは銃をひたと構えて動かさぬまま、器用に肩をすくめて苦笑した。その通りではあるのだが、完全にお門違いなお怒りだ。溜息をつく。周囲は、先程よりすこし、闇の深さを増していた。
「退いておくれよ。君とじゃれてる時間はないんだ」
「姉さんに近付くな!」
 足を踏み出したアメリカを威嚇して、ナイフが横凪ぎに動かされる。完全に距離を取った上での仕草だから、危機感はない。溜息をついて、アメリカは銃を手の中でくるりと弄んだ。
「……ねえ、ナターリヤ」
「名前を呼ぶなと言った筈だが」
「……。……レディ?」
 どうしようもなくそう呼びかけたアメリカに、ベラルーシの反応は劇的だった。手の甲にぼたりと毛虫が落下してきたような表情で飛び退き、心底嫌だというのが一目で分かる仕草で己の体をかき抱き、信じられない、という風にアメリカを見てくる。そこまで反応されると、逆に怒りをもよおしてしまう。レディ、と今度はしっかりハッキリ発音して、アメリカは険しい表情でベラルーシを睨む。
「俺と、彼女の問題だよ。君が首を突っ込んでくることじゃない」
「姉さんが」
 マナー違反は、ベラルーシも承知の上なのだろう。むっと持ち上げられた眉がアメリカの正当性を受け入れつつ、それでいて明確に抗議していた。
「姉さんがあんなに辛そうじゃなかったら、私だってなにもしない」
「……彼女が、君に言ったのかい」
 辛いって。苦しいって。言葉に出して言ったのかい、と問うアメリカに、ベラルーシはきゅっと唇を噛んで沈黙した。言わない。言う筈がない。誰にも、なにも言おうとしないひとだ。他の誰にも告げない言葉を、どうして身内に零すだろうか。ベラルーシはウクライナの妹であり、そしてその心の内側に存在する者だ。抱きしめて守りたがる相手に、ウクライナは決して己の弱さを晒さない。だったら、とアメリカは初めて声を荒げた。
「彼女が俺に言ってから怒りに来てくれよ! 君、ブラコンなだけじゃなくてシスコンも過ぎるんじゃないのかい!」
「はい。そこまで」
 ぽすん、と。ごく軽い音を立てて、後からアメリカの口が塞がれる。完全に油断していた状態で後ろを取られ、口を塞がれ、アメリカの背に嫌な汗が流れる。付き合いが長いから、声だけでも分かる。絶対に目が笑っていない。
「き……菊。あの、どうし、たん、だい……?」
「いえ、争いの音が聞こえましたので、もしやと。……駄目でしょう、ナターリヤさん。襲撃したらいけませんよ、と言いませんでしたか?」
「……言ってた」
 むっと唇を尖らせた少女は、いそいそとナイフをしまう所だった。今一つ、衆目からの視線や羞恥心にかけているらしき少女は、大胆にスカートをめくりあげて持ち、太ももに固定した鞘にナイフを収めている。咄嗟に目をそらしたアメリカの目をぺちん、と叩き、日本は溜息をつきながら少女に歩み寄って行く。スカートに開いた穴を見聞して不服下にしていた少女は、目の前で立ち止まった日本に対し、むっとした顔を向けた。
「菊。穴が開いた」
「他に言うこと、あるでしょう?」
「……アイツが悪い」
 あれあれ、あれが悪い、と言いたげにアメリカを指差して責任転嫁を図る少女に、日本は深々と溜息をついた。人様を指差すものではありません、と言いながら腕を下げさせ、日本はベラルーシの手首を掴んだまま、アメリカを振り返ってにこりと笑う。
「アメリカさん」
「な……なんだい?」
「言い聞かせておきますね。無暗にひとを襲撃してはいけませんよ、と」
 それはなんとなく、理由がきちんとしていて正統性があれば、襲撃を黙認くらいはしていますよ、とも聞こえるのだが。底知れなく恐ろしいので、アメリカは無言で頷きを返すに留めて置いた。ベラルーシは日本がよそ見をしている間に腕を外したがっていたが、ぶんぶんと振り回すばかりで一向に自由を取り戻せる気配がない。ついに細い指先で手を引きはがしにかかったのを呆れて眺め、日本はゆる、と穏やかに首を傾げた。
「諦めなさい。逃がす気はありません」
「だ……大体! どうしてお前がここに居るんだ! 来るのは明日の早朝だって言ってたじゃないか!」
「早めに仕事を切り上げて来たに決まっているでしょう」
 まったくもう、とまんざらでもなさそうな苦笑を浮かべ、日本はぐい、とベラルーシを引き寄せた。
「行きますよ。……では、また明日。アメリカさん」
「う……うん? うん、また明日……?」
 なんだか色々不思議な会話をしている、ということは分かるのだが、なにが引っかかっているのかアメリカには良く分からない。首を傾げながら引きずられて行く少女と、引っ張って行く青年を見つめていると、あ、そうだ、とばかり日本が振り返る。
「良いんですか?」
「なにが?」
「お時間」
 もうそろそろ、六時半くらいになりますけれど。そう言って微笑みながら腕時計を掲げてみせた日本の後ろで、ベラルーシが『ざまぁみろ』とばかり澄まし顔をしている。あれが少女でなければ、具体的にはイギリスやフランスだったならば、一発や二発位銃弾を撃ち込んだり殴ったりしたものを。一応紳士に育てられたが故にそれくらいでは手を上げることを意識が拒むので舌打ちだけをして、アメリカは勢いよく廊下を走りだした。
 言いたかった言葉が泡のように浮かびあがり、心で弾けて消えて行く。辿りついた部屋は、しんとしていた。呼びたかった女性は、もうどこにも居なかった。明日に仕事を控えた夜、町に一人で出かけるような相手でもない。行き先は分かっている。宿泊している部屋だろう。しかし、そこを尋ねる勇気は未だ無く。理由もなく訪れる関係とも、言い難かった。行き場のない気持ちを持て余して拳を振り上げ、弱く、弱く扉に打ち付ける。
 彼女の居た場所を、大きな音で荒らしたくない。それだけの、気持ちだった。

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