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 ずぞぞぞぞ、と音を立てて紅茶をすするナターリヤに、菊は溜息をついて手を伸ばした。こら、という代わりに繊細なティーカップを包み込んで持つ手を叩けば、少女の強気なまなじりがさらに吊りあがる。拗ねているのだ。怒ってもいるのだろう。全く、と内心で盛大な溜息をつきながら、菊はホテルラウンジの上質な一人掛けソファに、ゆったりと腰を据えるべく座りなおした。そんな顔は可愛らしいだけで、これっぽっちも怖くない。
 はあぁ、とわざとらしく吐き出された溜息と引いて行く指先に、ナターリヤの表情はますます頑なになった。幼子なら二人は座れるであろうゆったりとしたソファに、少女はしゃがみこむよう足を乗せ、紅茶をずずず、と音を立ててすすった。
「……こら」
 さっきも注意したでしょう、とゆるく首を傾げる菊を睨み、ナターリヤはぷい、と顔ごと背けるように視線をそらしてしまった。それだけで、言葉もなければ会話にもならない。全身全霊で気に入らないと訴えかけながら、少女は行儀悪く温かな紅茶をすするばかりだ。溜息をついて腕組みをし、菊はソファの背に体を預けてしまう。『アメリカ』の元から連れて来てかれこれ二十分。ナターリヤは全く口を聞いてくれないままだった。
「……どうしてあんなことしたんですか」
 しかし、それでも聞いておかなければいけないことはある。菊はホテルメイドの、アメリカ製というよりは日本製に見える市松模様のクッキーを拾い上げ、ナターリヤに向かって差し出しながら問いかけた。少女はそれにちら、と視線を向けただけでティーカップの淵から唇を離そうとしない。すする音も響かないので、素直に飲んでいるか、あるいは口をくっつけているだけなのだろう。強情、と菊は苦笑し、クッキーを口にする。
 香ばしい小麦粉の味が、口いっぱいに広がりる。ザクリという歯ごたえと共にミルクとココアの甘味が砕け、鼻からふわりと抜けていく。確実に日本製だ。アメリカ製品にはない繊細で控えめな甘さに舌鼓を打っていると、ナターリヤから物言わぬ睨みが向けられる。知らんぷりしてざくりともう一枚をたいらげた後、菊はクッキーを指先でつまみあげ、にこりと笑いながらナターリヤの口元に差し出した。少女の唇が、うすく開く。
 はむ、とクッキーを挟みこむ唇の赤さと、かじる白い歯の艶やかさに、菊は柔らかく目を細めた。
「それで?」
 あむあむあむ、となにか小動物のようにクッキーをかじって行くナターリヤを肘をついて至近距離から眺め、菊は再度、穏やかな声でそれを問いかけた。ナターリヤは迷うように視線を彷徨わせたが、状況的に逃げられないことと、ごまかせないことは分かっているのだろう。ごくん、と細い喉が上下して、クッキーを飲みこむ。
「アイツが悪い」
「またそう言う……」
「期待させておいて、させただけ、なんて男は最低だ」
 ティーカップを持ったナターリヤは、その中身を豪快に飲み干した。意図を掴めずに沈黙する菊に、ナターリヤは不満でいっぱいの顔をしてだって姉さんが、と言った。
「あのメタボのせいで泣くんだ」
「……おや、まあ」
「……見た訳じゃないけど」
 あまり関心しない風に相槌を打った菊に、ナターリヤはごくかすかに眉を寄せて呟く。指先が伸ばされ、クッキーを一枚つまみあげて口元へ運ぶ。気にいったらしい。もぐもぐと口を動かしながら、ナターリヤはすぅと目を細めた。
「待ってる所に、来るだけの男なんて最低だ。希望を持たせて、それだけで、手を差し出しもしない」
「いいんですか?」
 なにを、と菊は言わない。言わずとも、ナターリヤは分かっているからだ。少女はバターでベタついた指先を菊に伸ばし、遠慮なく服をハンカチにしながら鼻を鳴らして言い切った。
「嫌だ」
「駄目、ではなく?」
「い・や・だ! お前だってそう思うだろ?」
 アーサー・カークランド。呼びかけに、菊の隣の椅子に座っていたアーサーが、読んでいた新聞をばさりとしならせ、記事から目を上げつつ素直に頷いた。感情的には同意見だな、と言いつつ、二時間のお説教で元養い子をラウンジに留め置いた保護者は、悪びれの無い表情をしている。
「俺が気に入らないのは、お前の姉さんの方だけど」
「気に入らないなら徹底して遠ざけておけ。姉さんにでぶが感染する」
「お身内を前によく言えますね……二人とも」
 アーサーはきらびやかな笑顔で明日イヴァンの前でひまわりむしってやるよ、と言い、ナターリヤはマシューとかいうヤツの持っている白クマに油性マジックでヒゲを書いてやる、と吐き捨てた。呆れていっそ面白くなってくるくらいの低レベルな嫌がらせだ。お二人ともそれくらいになさいね、と言いながら日本は腕時計に視線を落とす。午後七時前。ラウンジは静まり返っているが、ティータイムよりディナータイムに近い時間である。
 それなりに疲れているし、お腹もすいている。がるるるる、とアーサーを威嚇するナターリヤの顔の前で手をひらつかせ、菊は少女の注意を自分へと引きもどした。なんだ、と言われるのに微笑みかける。
「お夕飯、なにが食べたいですか?」
「……にくじゃが」
「では、明日会議が終わったら作りましょう」
 今日はもう時間も遅いですし、他のものにしましょうね、と囁かれてナターリヤが不満げに頷く。その一連の会話を、アーサーはなぜか惚れ惚れした様子で眺めていた。
「随分溶けた……いや、解けたもんだな」
「でしょう? 愛し恋しと言い続けた成果です」
 関心しきったアーサーの言葉の意味は分からずとも、菊のそれはなんとなく理解したのだろう。息を飲んで椅子から立ち上がるのに微笑みながら手を差し出し、菊も場を後にしようとする。
「ですから、アルフレッドさんのことも、もうすこし気長に見て差し上げればいかがですか? ……ナターリヤさん」
「なんだ」
 ほら、強情してないで手を繋がせてくださいね、と苦笑しながら。菊はそっと、ナターリヤの手を取った。
「私は、貴女の期待に応えられましたか?」
 きゅぅ、とどこか困ったようにナターリヤの眉が寄せられる。指先だけに力が込められ、少女が菊を繋ぎとめた。ナターリヤの唇が、ぎこちなく息を吸い込む。うろうろと迷う視線すら愛しげに、菊はただ、答えを待っていた。やがて少女の視線が、繋いだ手に落とされる。迷って、迷って、迷いながら、かすかな声が響いた。
「菊の……手が」
「はい」
「温かい、のは……覚えた」
 冷たい手を取って、温めてくれたひとの。体温を、覚えた。聞きとめて、菊はそっと微笑んでナターリヤの手を引き寄せる。はぁ、と息を吹きかけて指先を温め、菊は目を細めてやんわりと笑った。
「そうですか」
 それなら、本当によかった。くすくすと喉を震わせて笑いながら、菊はナターリヤの手を引いて歩き出した。それでは御先に、と言い残されるのに手をひらりと振って、アーサーは立ち去る二人の後ろ姿を眺める。か細く繋いだ手は、離されることがなく。二人はただ寄り添うように、ひとの中へ消えて行く。深々と溜息をつきながらソファに体を沈め、アーサーは面白くない気持ちで新聞を畳む。彼女は、日差しに解けた花だった。
 光に包まれ、水になることを知った氷だった。百年前のナターリヤの状態ならば友人として、アーサーは菊に考え直せやめておけと言い聞かせただろうが、あれくらいならば、大丈夫だろうと思える。冷たさに、自らも傷ついていることさえ自覚せずに。差し出した手が痛むのを見て、悲しむだけだった北の『国』たち。むっつりと眉を寄せて、アーサーは駄目だよなぁ、とぼんやり呟く。
「彼女は……まだ、駄目だ。認めらんねえよ」
 傷ついて、傷つけて。その手の冷たさと痛みで、目が醒めるならそれまでのこと。それだけのこと。手を離してしまえば、そこで終わり。おとぎ話の恋が、ひとつ、消える。それだけのこと。
「……恋に恋してるようじゃ、彼女は溶かせない。お前じゃまだ無理なんだよ、アメリカ。……アルフレッド」
 閉ざされた、凍りついた心の向こうに、眠りにつこうとする彼女の『こころ』がある。アルフレッドでは、未だそれに触れることが出来ない。アーサーは短い言葉を交わした時の女性の顔つきを想い浮かべ、苦い想いでぎゅぅと目を閉じた。失敗した。別に、傷つけたい訳でも、遠ざけるように仕向けたい訳でもなかったのだ。それは本当のことで。ただ、ほんのすこし、想いの形を見たかっただけ。想いの、色を知りたかっただけなのだ。
 彼らはきっと、恋をしている。それがまだ、おとぎ話でも。



 喉の渇きで意識が浮上する。どうやら、気が付かず眠っていたようだった。ベッドに横座りした姿勢から上半身だけを倒した姿で目をさまし、ライナは静かに息を吐き出した。明りの灯されていない室内は、すっかり暗くなっている。暗闇が苦手な女性なら身を竦ませそうな静寂と黒だが、ライナに取っては慣れたものだった。ぼんやりと瞬きだけしていると、目もだんだんと慣れてくる。憂鬱な気分と戦いながら、そっと体を起こした。
 ベッド脇のちいさなテーブルの上に乗せていたペットボトルを手に取り、蓋を捻って口元へと運ぶ。汲みたての水をそのままボトリングしたというミネラルウォーターは室温を移して生温く、けれど消毒液の嫌な匂いを口に広げる事がなかった。半分ほど、一息に飲んで喉の渇きと気分をうるおし、ライナは乱れた髪に手をやった。さっと手櫛で整えて立ち上がり、明りをつける為に扉の方へと歩んでいく。その手が、スイッチへと伸びた。
 あとほんのすこし、力を入れるだけで明りがつく、その間際に。トン、と叩かれた扉が女性の動きを引きとめた。
「……誰?」
 声が、もしかして届かなかったのだろうか。扉はもう一度トン、と弱くノックされ、それきり音を響かせることがなかった。気配は立ち去っていない。扉を一枚隔てた場所に、誰かが、迷う気配で立っていた。寝起きのぼんやりとした気分では、それだけで相手を特定することができない。じり、と弱く焦げ付く胸の感覚に、ウクライナはそっと扉に手を伸ばした。鍵は開けない。チェーンもそのままに、覗き穴に目を近付けることもしない。
 冷たい鉄の扉に、指先を触れさせて。伝わらない熱に、ライナはそっと目を細めた。
「……アメリカ、くん?」
 ごつ、と鈍い音がした。恐らく、青年が扉に額を押し当てたかしたのだろう。溜息の音はかすかに空気を揺らし、扉越し、ライナの耳をくすぐるように消えて行く。明りもなく、辺りは静かだった。二人の間は扉に隔てられていて、だからこそ、相手が息を吸い込む音さえ聞こえてくる。生きている音。死に絶えた静寂の中、あたたかく響く。
「……アルフレッドって呼んでおくれよ。仕事は終わっただろう?」
 名前がいい。名前。なまえで呼んで。駄々っ子のように甘えた声でぽつぽつと呟かれ、ライナは唇をかすかに震わせながら息を吸い込む。絆されてしまいそう。足元に水が忍び寄るような恐怖感で、不意に強くそう思う。絆されて、しまう。そのことがとても怖いのに、叶えてあげたい。叶えてあげたい。望むこと、ひとつひとつ。
「……あ」
 水分を取ったばかりの喉が、乾いた感覚で引きつった。感情が高ぶる。ひとの作りだした光の無い世界で、感情と心が、隠せない。溢れてしまう。零れて、しまう。瞬きと一緒に、雫が頬を伝って落ちる。
「アル……フレッド、くん」
「うん。……夕方、会いに行けなくてごめんよ。君に会いたくてここに居るのに」
 その為だけに俺は来てるんだよ、と。葉を鳴らして吹く風よりかすかに響く言葉は、どうしてか、疑いなく胸に馴染んで行く。嘘をつかれると、思いたくないからだ。本当であればいいと、信じたがっているからだ。言葉を鵜呑みにする信頼と素直さを、まだ持つことが出来ずに。それを自覚してしまっているからこそ、ひどく震えた。
「ライナ」
 首を傾げるような、淡い気配が向こう側にある。
「ねえ……泣いてるの?」
 君は、本当、すぐ泣いちゃうよね、と。囁かれる言葉は呆れを含んでいて甘く、困ったように掠れて耳の奥まで響く。泣いてないわ、とライナは無言で首を振った。しかし隔てる扉がそれを伝えず、コンコン、と軽いノックの音が外側から響く。
「開けておくれよ。顔が見たい」
「……アルフレッド君」
「君を抱きしめたい。ね、いいだろう?」
 扉が邪魔だよ。ねえ開けて、と困った声で甘く懇願する青年に、ライナはゆるゆると首を振った。最後の、砦だ。そう思った。この扉は最後の、本当に最後の一枚の扉。開けてはいけないし、開けられない。駄目、できない、と沈黙で返すライナに、トントン、とノックの音。
「……怒ってる?」
「怒って、ないわ」
「部屋に入ったり……君が、嫌がることはなにもしないよ」
 約束する。絶対。それでも駄目、としょんぼり問いかけてくる声に、胸がきゅぅっと甘く締めつけられた。弟にそうするように、庇護の心で甘やかしたいのかも知れない。妹にそうするように、優しくワガママを受け入れてやりたいだけなのかも知れない。けれど、彼は弟でも妹でもなく。それらに対する気持ちとは違うことも、ライナはきちんと知っていた。酷く似ていて混乱するけれど。まだ手を伸ばせないけれど。それでも知っていた。
 トン、と扉は叩かれる。
「……開けてよ」
 優しく、淡く。冷たい、鉄の扉が叩かれる。
「駄目」
「開けて」
「……できないわ」
 扉の内側で、ぎゅぅと手を握り締める。このまま目を閉じて、眠ってしまいたい。
「できない」
「できるよ」
 ねえ、と。何度でも、寄せては返す波のように。アルフレッドはすこしだけ困った声で、ライナに呼びかける。
「……じゃあ、鍵を開けて」
「鍵?」
「俺が開くよ。……鍵だけ、開けて?」
 息を、吸い込むだけの一拍の静寂。ライナは震える指先で、ぎこちなくチェーンを動かして外した。チェーンが落ちる音も、そのあとに響く鍵の外れるカチリという、どうしようもない音も外側に響いただろう。恐れるように一歩、ライナは室内に身を引いた。コツ、と扉がノックさせる。
「……怖くないよ」
 なにもしない。絶対。そう、囁いて、アルフレッドは扉を内側に向けて開く。さっと、眩い光が室内に射した。廊下は目が眩むほど明るかった。光の無い室内で慣れていたから、余計にそう感じてしまう。青年は、それを背にして立っていた。約束通り、部屋の扉を開けただけで、室内には一歩も足を踏み入れようとしていない。青年の、真昼の光に満ちた青空色の瞳が、ライナの姿を捕らえてあでやかに笑う。嬉しげに、ただ、温かく。
 ひかりは、ライナの足元まで差し込んでいた。
「ライナ」
「……え」
「抱きしめたい。……会いに行けなくてごめんって、謝らせてくれないかい」
 そんな、ことは。気にしなくていいのに。約束をしていた訳ではなく、待っていた訳でもないのだから。謝らなくて良いのに。謝ることなんてないのに。その言葉が、どうしても出てこない。ね、と首を傾げながら笑ったアルフレッドが、ライナに向かってゆるく両腕を広げてみせた。それはまさか、ここまで来てほしい、と。そういうことなのだろうか。くら、と精神的な問題で眩暈を起こしかけ、ライナは恐れるように足を引いてしまう。
 怖かった。
「……怒ってないわ、だから」
「うん」
「そんなこと、しないで。……しなくて、いいのよ」
 闇の中。差し込んだ光を嫌がるように、ライナはゆるく首を振る。アルフレッドは諦めきれない表情で、片手をライナに向かって差し出した。じゃあ、と拗ねた口調で手が動かされる。
「握手。それくらいなら、いいだろ? ……握手。ね?」
「う……うん」
 それくらい、なら。手を伸ばしただけで、指先にまで届く。足を踏み出さずとも、触れることが出来るだろう。暗闇の中から、ライナはアルフレッドに触れた。指先が擦れて、きゅっと繋ぎあわされる。その、瞬間。ぐっと腕ごと引っ張られて、ライナの体が前に倒れる。抗議をするより早く、頭がぎゅぅ、と片腕で抱きしめられた。引っ張られた手は繋がれている。そのてのひらも、腕も、かすかに震えていた。
「ごめん」
 ぎゅうぅ、と腕に力が込められる。どくどくと、力強く、早く脈打つ心臓の音がすぐ近くで聞こえた。ライナは体から抵抗の力を抜いて、青年の胸にもたれかかってしまう。アルフレッドは女性の髪に鼻先をうずめるようにして、ぽつ、と言葉を落としこんだ。
「あんな暗い場所から、話さないでおくれよ」
「……ごめんね」
 すぅ、と息を吸い込む、泣きそうな音。あたたかい音を聞きながら、ライナはそっと、目を伏せて呟く。
「ごめんね……」
 繋がれた手が汗ばんで、熱い。痛いくらい抱きしめてくる腕に、胸が痛んだ。この熱を失ったら、今度こそ、一人で立つことが出来ない。そう思った。怖くて、怖くて、だから手を伸ばせない。息を吸い込んで、告げる。
「ごめんね……!」
「……ライナ」
 ぎゅぅ、と優しく、頭が胸に押し付けられる。息苦しい、抱擁とも呼べないぎこちない拘束。手が、ただ熱い。息がかすれて、眩暈がした。ねえ。アルフレッドが困ったように囁く。ねえ、泣いてるの。ライナは顔をあげずに首を振り、眠るようにそっと、目を閉じた。

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