靄の向こうに、鉄条網に抱かれた要塞が見えた。かじかむ手を温めようと息を吹きかけたは良いものの、ぶ厚い手袋に阻まれて指先の感覚は何ら変わりない。思わず苦笑して肩を震わせれば、吐き出した息も白く溶けて行く。見上げた空は夜と朝焼けの中間で、胸に見えない重りが圧し掛かって来たかのように威圧感があり、それでいてぞっとするほど美しかった。目を細くして星を見る。あの星座の名は、なんと言っただろうか。
真冬の寒さを物語るように、空気は天にまっすぐ澄んでいた。星の光が地上までまっすぐに降りてくる。その静けさに眩暈がする。降り積もった雪に音は吸い込まれてしまって、恐ろしいほど響かなかった。時折耐えきれず、ざく、と自ら雪を踏んで音を立てた。靄が晴れない。濃くならない代わりのように、一向に薄くもならなかった。気持ちも定まらない。落ちついているのか、それとも、乱れ過ぎていて自覚できないままなのか。
耳当ての向こうで、鋭く風が過ぎて行く音を聞く。戦場とはとても思えない静けさだった。立っている場所から要塞までの距離は遠く、それでいて、辿りつけない程に隔てられているとも思えない。鉄条網と機関銃に守られた要塞。遠く遠く、駆け抜けて行かなければ辿りつけぬ彼方ではないのに、未だ持って手が届かない。双方の犠牲は多く、数え切れない程だろう。戦いが終われば文字記録になるそれを思い、憂鬱な息を吐く。
彼らは辿りつけただろうか。異国の地から迷わず、祖国日本へと還れたのだろうか。戦場で迷う魂があるのなら、手を取り国へ連れて帰ろう。同盟国である『彼』とは違い、人の魂も妖怪も妖精も、見ることなど叶わないのだけれど。伸ばした手に、触れてくれればいいと思う。そうすれば必ず、その手を繋いでみせるから。
「祖国」
ざく、ざく、と規則正しく雪を踏む音。かけられる声は呆れにまみれ、それでいて嬉しげに弾んでいた。日本は振り返らず前にのみ視線を投げかけ、やがて隣に並んで立ち止まった男に、ちらりと一瞥だけを投げかける。現れた男は、日本よりずっと温かそうな格好をしていた。通常の軍服にぶ厚い手袋と耳当てだけの日本が、この地の異質なのだ。男は外套さえ持っていない日本の姿に顔をしかめ、襟元に手をやって脱ごうとする。
その動きを見もせず察し、日本は止めなさい、と囁いた。
「しかし」
「良い、と言っているのです。これくらいの方が頭がスッキリします。……探しに?」
「はい」
言葉少なく頷いた男は、祖国の視線を追いかけて靄の向こうの要塞を見た。きんと冷えた空気にひるんだ様子もなく、要塞はどっしりと落ち着いた構えでそこにあった。男は口唇を震わせ、言葉を出さずに溜息に感情を消してしまう。日本はちらりと男を見やり、すいと腕を持ち上げた。男の方が日本より、大分身長が高い。背伸びをしながら撫でられて、男は傷跡もある顔を照れくさそうにくしゃりと歪め、なんですか、と言う。
日本はふふ、と微かに声をあげて笑い、男の頭から手を引いた。
「生きて、くださいね」
「……祖国」
「死して護国の鬼となるより、私もたまには、酒飲みの相手が欲しいのですよ」
お付き合いの長い方は、皆私を置いていきますからね。苦笑する日本に、男はゆったりとした笑みでただ頭を下げた。それは祖国からの言葉を慎んで受け止めたようにも見え、またあるいは、遠回しの拒絶であるようにも思えた。どちらにしろ、言葉によって明確にされる答えは返らない。ひどい男ですねえ、と笑いながら呟く日本に、男は顔をあげて表情を和らげる。親に褒められた幼子のような。それは無垢で愛しげな信頼の。
「我らは国を守りたい。本当はそれだけなのです」
「知っていますよ、愛しき我が民。愛しい我が子」
「……『国』を守りたい、それだけなのです」
死にたい訳では、ないのです。囁きは地に落ち、雪に抱かれて消えてしまうようにか細かった。軍人は、死を恐れてはならない。戯言を申し上げました、と言おうとするのを首を横に振ることで止め、日本はきんと冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。乾いて冷たい空気が、痛い。そう告げることに、罪悪感を覚えさせてしまうことが、痛い。痛くて痛くてたまらない。この痛みはどうすれば消えるのだろう。戦いが終われば、良いのか。
あの要塞を攻め落とせば、あるいは和らぐのだろうか。攻撃の要。防衛の要。二〇三高地。ここを、攻め落とせば。ぐっと拳を握り、日本は眼差しを険しく、靄の奥を睨みつけた。
「……え?」
靄の、その向こうに。誰かが居るような気がした。目を大きく開いて意識を集中させる。様子の変わった日本を庇うように男は前に立ち、同じく要塞の方向を睨みつけた。しかし男の目には、なにも異変が映らない。日本にも、見えた訳ではない。ただざわりと、胸の奥が波立った。なにかが居る。『誰か』が、立っている。滑らかな絹にも似た白い幕の向こう、ゆらり、と人の影が揺れる。はっと日本は息を飲んだ。雪原に、誰かいる。
少女だった。
「……そ……、祖国!」
「っ、え?」
「後退しましょう。あれは露西亜の」
敵国、露西亜の、『国』ではありませんか。男の声が、頭の中でわんと音を立てて反響する。意識がぐらりと眩暈を起こす。真冬の雪原において日本があまりに軽装で異質なのだとすれば、少女もまたそうだった。雪の上を歩くには適さないであろう小奇麗な靴を履いて、身に纏う服は長袖のエプロンドレスが一枚。手袋もしていない。外套も着ていない。襟巻もしていない。ぴんと指先まで伸ばされた手のひらの、その先端まで白い。
白い、白い、少女だった。ぞく、と背をなにかが貫く。それは恐怖に、一番よく似ていた。少女はぽつんと、雪原に佇んでいる。先程まで日本がそうであったように、傍らには供の一人もいなかった。雪原に咲く野の花を見に来たのだとでも言うように、視線は落とされたまま持ちあがらない。少女は日本の存在を見つけ出してはいないのだろう。あるいは、知っていて興味がないだけなのかも知れない。その価値もないのだ、と。
雪原を撫でる視線が、ゆるりと持ちあがる。視線を受け止める誉れを得たのは、しかし日本ではなかった。少女は雪原に広がる靄の中になにか、あるいは誰かを見つけ出したように目を留め、す、と痛ましげな色を紫の瞳によぎらせる。紫、だった。藤の花より色濃く、菫より可憐で、紫陽花より清楚な色。濁らず透き通る、凍りついた湖面のような瞳。それでいてそれは、よく研ぎ澄まされたナイフのように危険な色を灯していた。
ああ、あれは今まさに引き金に指を置かれた、あとは時を待つだけの銃弾なのだ。少女の腕が持ち上げられ、虚空に向かって伸ばされた。日本はハッと息を飲む。知らぬなら、分からぬなら、それはただ意味のない動きだと思われただろう。しかし日本には、それが『見え』た。血まみれの無骨な手が、靄の中から少女に向かって伸ばされる。そして指先がそっと、少女の手に触れ、握りしめられた。連れて行こうとしているのだ。
少女は導いて帰るのだ。幾千の、幾万もの、この地で散った勇者の魂を。
「あれは、露西亜の」
妹。『国』。敵国。日本の、敵。理性と感情、知識と情報の全てがこぞって日本に告げる。あれは敵国。あれこそが『敵』。日本はそれを受け入れる。それは正しい。全くもって正統な主張だ。だからこそ日本は、ぎこちなく喉を震わせ、息を飲む。なんて、なんて。
「なんて……美しい人形」
白い、白い少女。紫色の瞳をした、人形のような。整えられた美しさ。削ぎ落された小奇麗さ。その体に触れたとて、熱があるとは到底思えなかった。極寒に晒された指先はただ白く、白く。滑らかに動き、凍ることを知らないようだった。日本は少女から視線を引きはがし、茫然とする男を見る。名を呼べばすぐ正気に返る男に微笑みかけ、日本は帰りましょうか、と言った。今日は早朝から、また攻撃すると言っていた気がしますし。
できれば今日で終わりにしたいものです、と呟く日本に、男は頷く。これ以上戦いを長引かせることは得策ではなく、これ以上の犠牲も、誰も望まないからだ。日本は身を翻して歩き出し、ふと雪原を振り返る。そこには、もう誰の姿もなかった。一瞬の夢のように。少女の姿は、消えていた。日本は目に焼きついた人形の姿を思いながら、ざくざくと足音を立てて歩いて行く。その足跡もすぐ、強く吹き荒ぶ風に、雪に、消えてしまった。
1904年12月6日。その日の早朝から行われた猛攻により、ついに日本軍は203高地の攻略に成功する。十日間に及ぶ激戦。夥しい屍の上に、築きあげた勝利だった。
遠くに宮殿の屋根が見える。ちらつく雪にすこしぼやけて見えるが、目を細めなければいけない程でもなかった。ベラルーシは立ち止まってしばし寒々しい情景を眺め、すうと肺の奥まで息を吸い込んで歩き出す。道に人影はなかった。公園のベンチには雪が積もっている。遊具にも使われた形跡がない。それはただ朽ち果てるのを待つばかりのようで、制作者が望んだようにこどもたちの笑顔に囲まれるなど、不可能のようだった。
足元のコンクリートはでこぼことして、所々穴があいている。不意に足を取られてしまいそうになるが、転ばないのは歩き慣れているからだろう。それでも、屍で足の踏み場すらなかった戦場よりは、随分と歩きやすくはあるのだ。雪を踏む靴底は粗悪なコンクリートで止められる。血でぬかるんだ土でも、腐りかけた屍でもなく。硬い、感触。それにひどく心が落ち着いた。同時にすこしだけ心が騒ぐのは、今も戦いは続いているからだ。
この一秒を過ごしている間でも、前線では兵士が一人、命を落としている。実際に戦いが交わされる場に居たからこそ、ベラルーシはそれを実感として知っていた。街の静寂は安らぎと同時に、理由の掴めない焦燥を少女の胸にそっと下ろした。それでもベラルーシはひとではない。その想いに惑う、ひとにはなれない。深呼吸ひとつで気持ちを落ち着かせ、ベラルーシはゆっくりと皇宮に向かって歩いて行く。報告の為だった。
戦場での成果を直々に『上司』に告げる為、呼び出されたのだった。本当なら軍の護衛付きで車で行かなければならないのだが、送り迎えの息苦しさを煩わしさが嫌で、こうして一人で歩いているのだった。一人でいるのが好きな訳ではない。ただ多数に煩わされる状況を考えれば、一人で居る方が随分と気が楽だった。露西亜の民はあくまで兄のものである。ベラルーシが抱く国の民のように、少女の心に寄り添うことはない。
角を曲がって大通りに出る。するとさすがに、人影もまばらに見えて来た。誰もかれもが粗末な服を見に纏い、早足に、なぜか皇宮の方向に走って行く。少女らや幼い子を連れた母親たちはその流れに逆送するように、ベラルーシの隣を通り過ぎて行った。真冬にワンピース一枚で出歩く異質な少女の存在になど、気が付いていないような慌ただしい足取りだった。不穏にざわつく炎のような空気を吸い、直感的に事態を悟る。
デモだ。そう珍しいことではない。それなのに嫌な予感で、胸がざわりと音を立てて波打った。無意識に走り出そうとした足を留めたのは、道端にしゃがみこむ幼い兄妹の姿を道の向こうに見たからだった。かなり前に親とはぐれて再会できていないか、さもなくば死に別れたのだろう。すぐにそうと分かる薄汚れた顔と服を着て、兄弟は二人、寄り添うようにしゃがみ込んでいた。兄も妹も、防寒具をつけていない。寒さに震えている。
ベラルーシは珍しく首に巻いていたマフラーを外し、手袋を外し、兄妹に大股に歩み寄って行った。ちらりと、出がけにマフラーを首に巻いてくれた兄の顔と、手袋をはめてくれた姉の顔を思い出したが、まあ泣かれはしないだろう。事情を聞かれたら無くしたと言えば良いし、誤魔化しきれなかったら正直に事情を話せばいい。幼い頃を思い出して重ねたなんて、感傷的なことを口に出したくはないのだが。きっと二人は許してくれる。
目の前で立ち止まったベラルーシに、幼い兄弟はのろりとした動きで顔を上げた。その顔に怯えが見え隠れするのは、心ない者たちの気まぐれに殴られたからだろう。よく見れば兄らしき少年も妹らしき少女も、それぞれ顔に大きな痣があった。骨が折れていなければいいのだが、あいにく、医者に連れて行くような時間も同情心の持ちあわせもない。結局これは自己満足なのだ。そう思いながら、外した手袋とマフラーを投げる。
二人はどちらも受け取ろうとせず、それは幼子とベラルーシの間、足元に落ちた。すぐに、雪が薄く積もっていく。二人はなにも言わなかった。ベラルーシもまた、なにか言葉をかける気などなかった。くるりと身を翻す。そうだ、『上司』に報告をしなければいけない。正直日和見に過ぎる彼らに会うだけでも気が重たくて吐き気がするのだが、これも『国』の仕事のひとつであり、ゆくゆくは兄の為でもある。そう思えば我慢できた。
灰色の街を再び行く。その背にか細く、声が響いた。
「あ……!」
振り返れば幼子が立ちあがり、ひどく戸惑った風にベラルーシを見ていた。ベラルーシはじっと、二人を見返す。やがて動いたのは妹だった。ぱっとマフラーを取り上げると雪を払い、それを兄の首に巻きつけている。そこまで見れば十分だった。ベラルーシはもう振り返りもせず、道の先へ行く。背後でまだなにか声が上がっていたとしても、もうそれはベラルーシの耳に届かない。皇宮に近付くにつれ、どんどん人が増えて行く。
息苦しい程の密度。人々の足音で聴覚が塗りつぶされて行く。やがて皇宮に続く門の前に辿りつき、ベラルーシはその足を留めた。目の前に広がる光景の意味が分からない。デモだった。それは理解できる。だが、この人数はなんだ。大気に渦巻く熱量は。振りあげられた拳はどこに向かって下ろされると言うのだ。手に持った武器はなんだ。銃は、鍬は。包丁もある。それを誰に向けるつもりなのか。誰を傷つけるというのか。
人々が前に行進するたび、地面が揺れるような錯覚。雷鳴が落ちたかのように、空気がびりびりと振動する。声をあげて怒鳴る人々の要求は、声が多いからこそ皮肉に聞き取れるものではない。それでも、それなのに、理解する。これは戦争だ。ここでも戦争が起きている。皇宮を守る為に軍人が銃を構えている。それが見えぬ訳でもないだろうに、人の意思は止まらない。ぞく、と背が震えた。その手の銃で、誰を、なにを。
撃つというのか。
「お……ねえ、ちゃ……ん」
不意に。それはまるで奇跡のように。怒号にかき消されることなく、震える声がベラルーシに届いた。ベラルーシは信じられない気持ちで振り返る。追いかけて来たのだろう。足元を見ない大人たちに突き飛ばされ、よろけながら、幼い兄妹がベラルーシに向かって駆けてくる。その、瞬間。暴徒の声が一際高くなる。守る軍人たちに緊張が走った。その一人の軍人の顔を、ベラルーシは見る。構えた銃の引き金に、指がかかった。
叫び声など、届きはしない。聴覚を黒く塗りつぶす銃弾の音。刷毛でペンキを塗りたくるように荒々しく、それでいて重厚に精密に、意識を浸食して行く黒の音。悲鳴。混乱。血のにおい。コンクリートが銃弾によって削られて行く。怒号。逃げまどう人々の声、足音。倒れた者を助け起こす手などなく、体を踏みつけて逃げ惑う者たち。ベラルーシは幼子を腕の中に抱きしめ、その場にしゃがみ込んで人の濁流に耐えていた。
手を離せばこんな幼い命など、すぐ踏み荒らされて消えてしまう。路傍の花と同じくらいに無力なのだ。銃弾の音がやまない。抱く腕に籠る力を痛がりながら、幼い少女がもぞもぞと身動きをした。
「あのね……」
背伸びをした吐息が、耳に触れる。囁く声は黒に落ちた、白い光のようだった。
「あったかいの。ありがとう……」
逃げて来た何者かに背を蹴られるようにして倒れ、ベラルーシの腕から幼子がすり抜ける。二人はあっと言う間に人の波にもまれ、消えて、その姿も声も、どこにも見えなくなってしまった。囁きはまだ、耳の奥に残っていると言うのに。銃声が響く。また誰かが、倒れて死んだようだった。ここは戦場ではないのに。ここで死んでしまった魂は、どこに連れ帰ればいいのだろう。この国の中で、守るべきなにかに打ち砕かれた魂を。
どこへ。
生気のない顔で帰って来たベラルーシを出迎え、ロシアは用意していた言葉を飲みこんだ。乱暴を受けた訳ではないのだろうが、服は一部が破れ、泥に汚れ血に汚れ、ひどいありさまだ。髪もぐしゃぐしゃで、手にも足にも、腕にも無数の切り傷、引っかき傷のようなものがある。靴はかろうじて足に引っかかっている状態で、もう使いものにならないだろう。出がけに与えたマフラーも手袋も、落として来てしまったのか、無い。
ロシアと同じくベラルーシを出迎える為に控えていたバルト三国も、誰も言葉を話せなかった。ラトビアは目を見開いて悲しみに耐えるよう震え、エストニアは沈痛な表情で唇を噛んで俯いた。リトアニアだけがじっと、色褪せた瞳の少女を見つめていた。ロシアはどう声をかけてやればいいのか分からず、動くことができない。そんな彼らの間をすり抜けて、ウクライナが少女に両腕を伸ばす。
「ベラルーシちゃん! ……っ、ベラルーシちゃん……っ!」
ふくよかな胸に妹を抱き寄せたウクライナは、よく無事で、という言葉を飲みこんだ。この場の誰もが皇宮の前で起きた暴動を知っており、そしてベラルーシの姿を見るならば、それに巻き込まれたのは明白だったからだ。ロシアとリトアニアは、その時、皇宮の中に居た。ベラルーシが徒歩で家を経った後、民衆の様子に異変ありとして、車で迎えを寄こされたからだった。リトアニアは暴動が起きるその瞬間を、ひたと見ていた。
ロシアは、その暴動の最初の引き金を、引いた。民衆の行動も、軍の行いも、どちらにも掲げる正義がある。二つの正義の間に犠牲が生まれるのであれば、どうすることもできないのであれば、その最初は自らの手によって行うべきだと思ったからだ。仲良く出来ない己の民に、悲しかったのも本当なのだけれど。それでも、その結果がベラルーシの姿だ。言葉はなんの慰めにもならず、誰の胸からも響かない。苦しく、生まれない。
ウクライナの腕の中で、ベラルーシが顔を歪めて身じろぎをする。体のどこかが痛むのか、とぱっと腕を離した姉の肩を、ベラルーシは全力で突き飛ばした。
「……っ!」
「……ベラルーシちゃん?」
「ベラ? ……ベラ、どうしたの」
姉妹であるにしても、ウクライナとベラルーシの中は良好という程のものではない。特別仲が悪くないが、良くもない程度だ。しかしこんな風に心配するのを、拒絶するような間柄ではない。呼びかけるウクライナの声は戸惑っていて、ロシアも不審げだった。大きな傷があるようには見えない。抱きしめられて痛んだ、という訳でもないのだろう。血の匂いはしなかった。けれどロシアの呼びかけに顔を上げた少女は、顔を歪めていた。
痛いと、叫んでいた。
「い、やだ……」
おおきなおおきな怪我をして。痛いと泣き叫ぶ、こどもの顔をしていた。
「……ベラちゃん?」
「あっ……た、かい……」
手を離され、ひとり。迷子になったこども。1905年1月9日。血の日曜日。
日の出前だ。目を焼く強い光に悩まされることなく甲板に立ち、日本は腕を上に持ち上げてぐぅっと凝り固まった体を伸ばす。昨夜はどうやら、随分とゆっくり眠れたらしい。体に溜まっていた疲れはスッキリと消えていて、朝の冷えた静けさが体の芯まで沁み渡って行く。潮の匂いが肌をベタつかせるが、それはもう仕方がないだろう。揺れる足元もなにもかも、陸に戻るまでの我慢だ。日本は明るくなって来た空を眺め、ゆるりと笑う。
空にはまだ星が瞬いていた。それでいて不思議に明るかった。太陽が顔を覗かせる前の、ほんの少しの時間。夜と朝の狭間。黒色でしかなかった夜空は濃紺に代わり、じわじわとその彩度を増していく。深く鮮やかな紫が一条、水平線を染めていた。ああ、もう本当にすこしで朝焼けなのだ。胸に吸い込んで吐き出した息は、夏の予感をはらんだ風に攫われて、その場に留まりもしなかった。懐中時計を取り出して、視線を落とす。
午前、四時五十分。幻想揺らめく世界を視認できる残り時間は、あと半刻も残っていないだろう。それなのに周囲は慌ただしく、駆け回る軍人たちでいっぱいだ。できるだけ意識から締めだしていた足音に意識をかき乱され、日本はやれやれ、と首を振って船首に歩き出す。幾人かが彼方を睨みつけながら短い言葉を交わす即席会議の場には、さすがに喧騒もわずかに遠くなる。船底を叩く波の音。カモメがどこかで、高く鳴いた。
「おはようございます」
ゆるりと歩み寄って来た日本に、面々はそれぞれに目礼を送る。その中でたった一人、おはようございます、と言葉を返した中年の男の隣で、日本は足を留めた。気力が満ちた顔をした男だ。どうですか、と気負いなく問いかける日本に、男はさあ、と穏やかに笑った。
「さあ、ではありませんよ。勝てると言いなさい、勝てると」
「おや。祖国殿は私に、『戦前に大口を叩いた男』だと呼ばれろと仰る」
「不可能ならばそれを求めませんよ? 私の元帥」
ふふ、と自信ありげに笑う日本に、男はいかにもおかしげに、くつくつと肩を震わせて笑った。二人の間には糸の張った緊張感があるが、それは決して悪いものではない。気分が高揚している。それだけのことだった。悪くはない。水平線に七色の光が混じる。黒から藍色、紫から橙、赤から黄色、白。白金。日の出まで、もうほんの僅かな時間しかない。うっとりと目を細めてそれを眺め、日本はちら、と男の顔を見上げた。
男は、降参だとでも言うように両手を挙げた。喉を震わせて、日本は再度求める。
「言霊、ですよ。言霊。呪い。……さ、仰いなさい。東郷」
船底を強く、波が叩く。すこし強めに、船が揺れた。脚に力を入れて立ちながら、男は背筋を伸ばして水平線を見る。その姿に一人、若者が駆け寄った。
「失礼致します! 敵艦が……!」
「ふむ。……大本営に伝令を」
微塵も揺るぎはしない、どっしりとした命令の声だった。決して大きくはない、荒げもされなかった声だが、それは船の隅々にまで風のように広がる。ぶわ、と戦意が大気に溶ける。満ちた。満ちたのだ。たった今時は満ち、そして急速に、恐ろしく張り詰めて行く。電気的にびりびりと尖る空気を感じながら、日本は水平線に睨みを送る。遠くに、黒い船影が見えた。バルチック艦隊。誰かが囁く。恐れの無い声で。満ち満ちた声で。
告げる。
「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを殲滅せんとす。……本日」
す、と息が吸い込まれた。
「天気晴朗なれども波高し。以上」
「はい!」
「さて祖国」
懐中時計を開いて覗きこんでいた日本は、呼びかけに応えてぱちん、と蓋を閉めた。五時五分。日の出にはもう十分程時間はあった。じわじわと空が光をはらんで行く。よく晴れていた。まさに晴朗と呼ぶに相応しい、清々しい朝だった。
「ご覧ください」
静寂を泳ぐ無骨な指先が、まっすぐに帆柱を指差す。ばたりと音を立て、旗が揺れた。
「……Z旗?」
「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。我らが秋山の言葉です」
艦隊に向けてその意味を送りました。静かに言いきり、男は日本をまっすぐに見る。
「いかがでしょう」
「頑固者。……まあ、そうですね」
あくまで男は『勝つ』という言葉を使いたくないらしかった。目を細めて親愛交じりに軽くなじり、日本は口元を緩ませて腕を組む。
「歴史に残る名文になるのでは? ……勝てば」
「それでは」
く、と喉を鳴らして笑い、男は恭しく日本に首を垂れる。
「百年先にも、伝えましょうぞ」
「……期待していますよ」
日が、昇る。ゆっくりと、鮮やかに朝が来る。水面を輝かせ、空を染め変え、風に波に歌わせながら。朝焼けが広がって行く。まばゆく目を細めながら、日本はおや、と首を傾げる。
「日出ずる国としては……不思議なくらい負ける気がしませんね」
船の腹を、波が叩く。カモメが高く歌声を響かせた。日本は板張りの甲板に靴音を響かせながら、帆柱に歩み寄った。風が強い。ばたばたと音を立て、旗がはためいている。その光景を日本は、目に焼き付けた。千年先にも、覚えておけるように。1905年、5月27日。海戦稀に見る大勝利により、その全てが歴史に刻まれた。
そして、二人は未だ出会わぬまま。
戦いが終わる。日本の勝利だった。