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 1 野薔薇咲く

 窓の外ではちょうど、帆船に白い帆が張られたばかりだった。滑らかな風合いの強靭な布は、未だ漕ぎ出でぬ航海の日々を夢みて胸をときめかせているようだった。日本はつと窓ガラスに指を伝わせて帆の輪郭をなぞり、苦いような微笑ましいような気持ちで目を細める。あの船は、戦に使われるようなことにならなければいい。軍艦ではなく帆船を見てすら思ってしまう分、未だ日本の意識は戦時中のそれから離れられていない。
 苦笑して頭を振り、日本はゆっくりと無人の廊下を歩きだした。建物の一室では、終戦の条約終結の真っただ中である。アメリカが仲介役として名乗り出た日本とロシアの戦争は、このポーツマス造船所にて完全なる終わりを迎えることとなった。形としては日本の勝利である。万歳三唱で喜べないのにはいくつかの理由があり、むしろ、いくつも理由があった。きりりと痛みだした胃の辺りをさすって宥めながら、日本は空を眺める。
 青い。よく晴れている。そして今なら飛べる気がする。今なら出来る気がするんですよおおおっ、と叫びながら海に投身しようとして全力で止められた記憶は新しいが、幸か不幸か、今の日本の周囲に人はいない。要人は全て一室に集っているし、護衛はその周囲と建物の周り、造船所の中を循環しているだけで、騒ぎを起こしたとてかけつけてくるまでには時間がかかるだろう。日本は彼岸を眺める目で、ふふふ、と力なく笑った。
 日露戦争は本日で終結する。日本は戦争に勝ち、露西亜は負けた。しかし。しかし、だ。日本は決して圧倒的優位で敵の喉元に刃を突き付け、両手を挙げさせ降参を叫ばせた訳ではないのである。辛勝だ。国民がどう思い、国の中枢を担う者たちがどう受け止めているかは知らないが、『国』として日本が持っている感覚は、あくまで辛勝だった。かろうじて勝った。かろうじて、勝つことが、できた。そして、それだけのことなのだ。
 戦争は降伏によってではなく、アメリカの介入による条約提案と、駆け引きによって終わりを迎えた。しの過程で露西亜が主張し、日本が飲み込まざるを得なかったひとつに戦争の賠償金がある。露西亜は日本に対し、賠償金を一切払わない。つまり日本は、戦争によって消費してしまった金銭の一切を、回収できなくなったのである。うあああああ、と思わず出てしまった涙声で呻きながら、日本は空が飛べると真剣に思った。
 もう結果が出てしまったことだ。当日を迎えてしまった以上、本当に、本当にもうどうすることもできない問題だ。日本男児として潔く受け入れる覚悟くらいはしてきたが、その覚悟とは別に、日本には現実から逃避したくなる問題が残されている。行き帰りのことである。条約を結ぶべくやってきた各国の一団は、宿泊の為のホテルからこの造船所に、海から船で入ってきた。当然、帰りも同じように船を使う。船が嫌なのではない。
 船の上の雰囲気が、史上稀にみる最悪具合だったのだ。思い出しただけで胃が黄泉の国に旅立ちたがって激しく痛むので、意識を記憶から反らしつつ、日本はぐ、と唇に力を込めた。あんな空気なぞ読みたくもなかったが、読まずに居られなかった己が恨めしい。どうして外国の方々は表面だけでもとりつくろって仲良くするとか、笑顔で当たり障りのない話だけをするとかいうことが出来ないのでしょう爆発すればいいのに、と呻く。
 あ、そうだ爆発しよう、まで意識を辿りつかせ、日本は深々と溜息をつく。そんなことを考えていて、富士山が爆発でもしたら目も当てられない大惨事だ。諦めて首を左右に振り、特に目的もなく歩き出す。知らない場所を歩くのは好きだった。全てが未知であり、全てを新鮮に感じることができるからだった。窓の外、見慣れた空の青ささえ感動的で、雲の形すら自国の物とはまるで違うように思える。そよぐ風も、その中の匂いも。
 さすが条約を結ぶ場として選ばれただけある建物は、騒々しい印象が拭えないアメリカ合衆国という中にあるというのに、不思議なまでの静けさと落ち着きを感じさせる作りをしていた。恐らく余計な装飾のない佇まいと、人の気配の無さが落ちついた印象を作り出しているのだろう。普段、人が慌ただしく行き交う時間であれば、そうは思わないのかも知れなかった。日本は無意識に、条約を結んでいる部屋から遠ざかって行く。
 俗世の煩わしさから、しばし開放されたいのかも知れなかった。やがて廊下が終わり、階段に辿りつく。しばし悩んで、日本は上の階へ向かう階段に足を乗せ、すっと体を持ち上げた。上を選んだのは、強いて言えば見つかりにくい気がしたからだった。階下は外に通じる扉があり、その周辺にはさすがに護衛や警備の人間がたむろしているだろう。姿を見せればちょっとした騒ぎになる想像は容易で、それだけで気疲れした。
 上の階は先程よりもうすこし、空に近い気がした。建物の一階程度上がったくらいでそう距離など変わるものではないが、それでも不思議に、爽快感が違う。ふ、と肩から力が抜け落ちた。その瞬間を、待っていたようだった。興奮を限界まで抑え込んだ銃声が、それでも日本の耳にこびりつくように響く。嫌な音だった。即座に場を飛び退くことで安全圏へと逃れた日本は、背に冷たい汗を伝わせ、靴底を置いていた個所を見る。
 焼け焦げた穴が開いていた。
「……っ!」
 だんっ、と踏み込みの音。ハッとして顔をあげれば、引き寄せられる様に走り込んでくる少女と、視線が重なる。真正面から瞳を覗きこみ、日本はぎくりと体を強張らせた。ああ。この少女を知っている。これは引き金を引かれる時を待ち望む銃弾。雪原の少女。
「っ……死ね!」
「ご冗談を……っ!」
 駆け寄りながら、少女は己の顔の前に銃を構えた。銃の名が日本の頭をかすめて行く。ナガンM。確か露西亜の、ごく標準的な軍用拳銃である筈だった。細身の銃身はにぶく光を弾いて赤銅色にすら見え、少女の華奢な手のひらにしっくりとはまっている。白い指先が引き金に力を込める。破裂音。鈴なりに似た麗しい音。少女の目が驚愕に見開かれる。口元に笑みを浮かべながら、日本はしっかりと日本刀を構えなおした。
「……なにか?」
「お前……どこに、隠してたっ!」
「苦労はしましたけれど。貴女が銃を隠したのと、まあ大体同じ要領に違いありません」
 服の下に、と微笑むと、油断なく銃を構えたまま少女の表情が懐疑的なものになる。まあそうでしょうとも、と日本は一人ごちた。銃の一つや二つならともかく、日本が隠していたのはれっきとした日本刀である。それを、どこに、どうやって隠して持ちこめたというのか。日本も他人がやったら理解できない表情にもなるだろうが、まあそれはそれ、これはこれ、だ。隠すのは得意なだけだ。物も、表情も、気持ちも。真実も、嘘も。
 銃弾を両断してなお痛んだ様子を見せない刀身に信頼の眼差しを向けてから、日本はまっすぐに少女を見た。少女はひたすら嫌そうな気配を漂わせ、それでいて無表情に近い顔つきで日本のことを睨みつけている。日の光を浴びて淡く金に色づく髪が、日焼けを知らない肌に深く濃い影を落とした。ゆっくりと瞬きが繰り返される瞳は、極上の紫。ぞく、と背が震えた。感情の無い無機質な瞳に、憎悪でもいい、灯る様を考える。
 見てみたい、とそれだけを思った。
「考え事か。余裕だな」
「そうでもありませんよ。どうすれば貴女を傷付けないかで必死なんです」
 引いてはくださいませんか、と求めに返されたのは嘲笑だった。そうですよね、と苦笑いをしながら一気に踏み込む。日本刀の間合いは、銃を撃つには近すぎる。後退しようとするより早く左手を伸ばし、銃を掴んで撃鉄との間に指を噛ませる。発熱した銃に手が焼けたが、歯を食いしばって耐えた。そのまま力に任せて銃をもぎ取り、素早く己の背後に向かって投げる。取りに走ろうとするのを、刀を鞘に納めることで制止した。
 二人は至近距離で動きを止め、そのまま睨みあう。口を開いたのは、少女が先だった。
「今、お前が死ねば……形勢が変わるかも知れない! 兄さんの勝ちだっ!」
「……例え心臓を撃ち抜こうと、首をはねようと、『国』は死にません」
 あなたも同じ『国』ならばそれを知っている筈でしょう、と呟く日本は、少女が己と同じ存在であるとの確信があった。雪原の姿をもし見て居なくとも、確信は揺るがなかっただろう。鳥が鳥を同じ種族だと認識して寄り添うように、犬が犬を、猫が猫を、己と同じものだ、と理解するように。『国』は確かに、『国』を見分ける。日本は少女をひたと見て、淡々と言い聞かせた。仮初の死、一瞬の消滅を与えた所で現実は代わりはしない、と。
 露西亜は負け、日本は勝った。その内情がどれだけ荒れ果てたものであろうとも、それが事実で、それが揺るがせないものだった。少女はぎり、と唇を噛み締める。珊瑚色の唇に、真珠色の歯が立てられた。感動にすら近い気持ちで、日本は目を細める。なんて精巧に、作り物めいた存在なのか。その美しさは性別の差なのか、あるいは『国』として存在を許された瞬間からの違いなのか。日本には分からなかった。どうしても。
「やめなさい。唇を痛めます」
「うるさい……うるさい、うるさいっ! お前ごときに!」
 発言の全てを否定したがって上がる叫びと共に、少女はスカートをはねあげて小型のナイフを取り出した。綺麗な装飾のついた、護身用のナイス。それを見て日本は場違いなまでに関心して思う。ああ、これは少女なのだ。白い手指がそれを握り締めて振りかぶり、日本に向かってつ突き立てようとする、その動きを。背後から伸びて来た手が、止める。
「ベラ?」
 びくり、と怯えるように。それでいて名を呼ばれたことを喜ぶように、少女の体が震える。無機質な瞳が揺らぎ、ふ、と吐息にも似た光が生まれ落ちた。人形から、少女はひとになる。それがとても残念で、それでいてなぜか、日本の神経を逆なでした。襲われた時ですら感じなかった苛立ちをそのままに、日本は少女の手首を掴んだままで微笑むロシアを睨みつける。ロシアは日本に友好的に見える笑みを向け、少女に囁いた。
「なに、してるのかな?」
「……兄さんの敵を殲滅しようかと」
「日本君、僕の敵?」
 そんなことを可愛らしい印象の笑顔で、首を傾げながら聞かないで欲しい。こめかみに指を押し当てながら怒鳴りつけたいのをぐっと堪え、日本は細く長く息を吐き出した。とんとん、と指を動かしながら言う。
「今日で敵対関係は終わりですよ。書面上」
「だよね」
 にっこりと音が浮かびそうな笑みをたたえ、ロシアは少女の腕をぐいと引っ張った。動きに抗わず、少女は手の中からナイフを離す。落下して転がる硬質な音が響き、ロシアは背を屈めて危なげなくそれを拾い上げた。少女の手の中にあってすら華奢に見えたナイフは、ロシアが持つとまるでこどものおもちゃのようだ。似合わないことこの上ない。苛立ちが収まりきらない日本は、なるべく二人を視界に入れないように顔を背ける。
「……襲われたことは不問にします。怪我もない。ここで騒ぎを起こせば、あなたも大変でしょう?」
「うん。ちょっとうっとおしいから、そうしてくれるとありがたいかな」
 これから平和になるって日に怒られるのも嫌だしね。底を知らせない笑みでゆるりと告げるロシアに舌打ちしたい気分になりながら、日本は二人に背を向けて歩き出した。無防備な背面を向ける抵抗感はあったが、それ以上に、近付きたくないと思ったからだ。ロシアは少女の腕を、かなり強い力で掴んで拘束しているようだった。白い肌。弱々しげなそれに、万一赤い跡が付いてしまっているのを見たら、逆上する気がした。
 女子は守るものだ。痛めつけるものではない。だからなのだ。言いわけに似たなにかを胸の中で響かせながら、日本は廊下の角を曲がり際、一度だけロシアと少女の姿を振り返った。少女はもう、日本を見てもいなかった。硝子越し、強い日差しが少女に降り注いでいる。白い闇だ。なんとなく、そんなことを思った。



 日本の姿が視界から消えたのを見て、すぐロシアはベラルーシの腕を離した。そう力を入れていたつもりはないが、女の子の腕には痛かったかも知れない。ベラ、と言葉短く妹を呼ぶと、心持ち落ち込んだ様子でベラルーシはそろりと顔をあげ、兄の瞳をまっすぐに覗きこんでくる。掴まれていた個所に手が行っているのは、恐らく無意識だろう。意識上にあれば、兄の負担になるかもしれないような所作を、ベラルーシは決してしない。
 たったそれだけの仕草で、気分を損ねたりなどする訳がないのだが。思うあまりに過剰反応しかしない妹を、怖いとも悲しいとも、ロシアは思う。ベラルーシ、と努めて柔らかく名を呼びかける。びくん、と震えた体を見る分に、その効果はほとんどなさそうだったのだけれど。
「……怒っていますか?」
「ううん。君が……ああいう行動にでるのは分かってたから。別に」
 気にしなくて良いよ、というつもりで書けた言葉は、ベラルーシの眉をごく僅かに寄せてしまった。怒っていないよ、という言葉を添えるべきだったのだろう。互いにいつも言葉が足りず、結果が出たあとで後悔ばかりを重ねて行く。ずっと、その繰り返しだった。表情は変わらずともしゅんとしてしまったことが分かる妹に、ロシアはそっと手を伸ばした。ぽすん、と頭に手を乗せる。目をまあるく見開いて、ベラルーシはぱっと顔を上げた。
「兄さん?」
「……怪我しなかった? 腕、痛くない? ……ごめんね、ベラ」
 まさか、謝罪の言葉があると思わなかったのだろう。さらにまんまるく見開かれた瞳が慌ただしく瞬きを繰り返し、ベラルーシは少女には非常に珍しいことに、言葉に詰まってしまったようだった。唇を手で押さえたまま、首が左右に振られる。いつもこうなら本当に本当に本当に本当に、本当の本当に可愛い妹なのになぁ、と思いながら、ロシアはぽんぽんとベラルーシの頭を撫で、日本が消えた廊下とは反対側に歩き出す。
 ベラルーシはすぐ、その後を追った。振り返りはしなかった。
「兄さん、兄さん」
「なに?」
 ロシアもまた、振り返りはしない。ベラルーシが後をついて来るというのはロシアに取って当たり前のことであり、疑うことのない恐怖のひとつである。心持ち早くなった足取りを追いかけ、ベラルーシはじっと兄を見上げた。視線が出会うことはなかった。

 夕暮れが近い。ひぐらしが鳴いていた。湿り気を含んで吹く風は、もしかすれば夕立ちを運んで来るのかも知れなかった。そうすると縁側で飲むのは辛いものがありますね、とぼんやり思いながら、日本は蚊取り線香が辺りにまんべんなく広がって行くよう、立ち上って行く煙をぱたぱたと仰いだ。頭の上でりぃん、と風鈴が歌う。じめじめと暑いので過ごしやすい季節ではないが、この瞬間が夏らしく、風情を愛す心を刺激して行った。
 やはり夏の日暮れは飲むに限ります、と微笑みながら、日本は黒塗りの盆の上に置いた、素朴な猪口をつまみ上げた。透明な酒を一気に煽る。喉がかっと焼けたように熱くなり、酒がすとんと落ちて行く。りりん、と風鈴が鳴った。溜息が出る。
「ああ……いいですねえ、夏……!」
「……ご自宅のようですな」
「私はこの『国』です。つまりこの国に立つ家は全て私の自宅と言え」
 るでしょう、と問いかけるより早く、ません、と言葉がかぶせられる。不満を表して振り返るより早く、どっかりと隣に腰かけられたので視線を流す。なにやら急に可笑しくなって来てくすくすと笑いながら見やれば、老いの影が濃くなって来たの男はいかめしい顔つきを苦くも甘く緩め、仕方のないお方だ、と溜息を吐いた。りん、と風鈴が鳴る。すこし風が出て来たようだった。
「……言っておきますが、私が飲みたいと言ったのではありませんよ?」
「ええ。家内に貴方が来たらつまみと酒をお出しして、縁側に放置しておくようにと申しつけておきました。……遅くなって申し訳ありません」
「あなたは私の扱いが雑なのか丁寧なのか、本当によく分かりませんね……。心得てはいますが」
 まあ、いいでしょう。おかえりなさい、東郷。囁くように言ってやれば、男は日本に向けて丁寧に頭を下げたのち、背筋を伸ばして座りなおす。まったく、自宅でくらい寛げば良いものを。茜色の空に薄く薄く、透明な藍色がかぶさって来る。じわじわと夜が、忍び寄って来ていた。日本はとっくりから猪口に酒を注ぎ入れ、残念な気持ちで息を吐く。この男くらいだった。あの戦いの最中に約束を交わし、共に酒を飲むことができたのは。
 あとは皆、靖国で静かに眠っている。
「……あなたもあと三十年か四十年すれば鬼籍に乗りますしねぇ」
「本人を隣に置いてよくそういうことが言えますね……」
「寂しがっているのですよ。私の元帥。……私の国民。愛しても愛しても、私のことを置いて行く」
 ゆるりと目を細めて。ひっそりと笑う日本の瞳は、子を愛しく思う親のものであり、それでいて、祖父母の見送りを覚悟している幼子のようでもあった。到底、手の届かないいきもの。同じ次元に存在しているだけで、『国』というのは、本来まるで別世界に住まう者なのだ。男はひっそりとそう思い、日本の手に持つ猪口に酒をついだ。それでもこうして、触れ合うことができる。三十年後、この傍らで、他の誰かがこうして慰めるのだろう。
 千年、二千年。誰かがそうして来たように。
「誰か、亡くなりましたか」
「……あなたの知らない者ですよ」
「そうですか」
 私の時も、きちんと誰かに慰めて貰いに行きますか、と。尋ねかけ、約束を求めかけて、男は視線を庭に流した。日本も手元に落としていた視線を持ち上げ、丁寧に整えられた草木を眺める。空はもう大体が藍色に染まっていた。遠くに、星の明りが滲んでいる。
「恋はしませんか」
「……あなた今日はやけに饒舌じゃありません?」
 嫌ですね気持ちが悪い、と眉を寄せて呟く日本は、なにやら本気で気持ちがる顔つきになっていた。体も若干斜めになっているので、心底引いているらしい。まったくもって失礼な反応だ。男は手を付けられた形跡のない酒の肴に手を伸ばし、つまみあげると、それをひょいと日本の前に差し出した。するめいかだ。はくりと食いついた日本を白い目で眺め、男は用意されていた猪口に酒を注ぎ、くいと煽って溜息をつく。
「ザリガニでも釣り上げた気分ですな」
「訂正なさい。私はあなたの住まう『国』ですよ? ザリガニとはなんです、ザリガニとは。失礼な」
「さして興味がないかと思いきや、目の前にちらつくと食いついて来る。……そうでしょう?」
 したり顔で笑う男から視線を外し、日本はもぐもぐと口を動かした。暗く、うす暗くなっていく中を、ひらりひらりと蝶が飛んで行く。黄色と黒のコントラスト。アゲハ蝶だ。目で追いかければ、なぜか寂しさが募った。
「さあ、どうでしょうね」
「怖いのですか?」
「……東郷」
 険しくなった視線に怯むことなく、男はゆったりとした態度で日本を見返した。年長者が庇護する者を見つめる視線。歳を重ねた者だけが得ることのできる落ち着き。
「私には、あなたが誰かに深く執着するのを怖がっているように見えます」
「……深い執着を、したことがないだけですよ」
 分からないだけです、と溜息をついて日本は男の手からとっくりを取り上げ、直接口をつけて飲み干した。胸が焼け焦げるように熱い。深く息を吐き出して、とっくりを盆に転がした。蝶はもう、どこにも見えなくなっていた。風鈴が鳴る。夏が終わるのだった。



 ベラルーシはそもそも、日本という国自体が嫌いである。中国もそれなりに好きではないが、日本は古くから兄が求め焦がれてきた国のひとつだ。望んでも望んでも、兄の視線ひとつさえ容易くは手に入れられないベラルーシに取って、だから『日本』という『国』は、そもそもが好意の対象外なのだ。なんであんなちんけな島国が欲しいのか、本当にさっぱり理解できない。文化も言語も違うのに。ただ、気候が良いというだけで。
 少女が『日本』を唯一認めるとするならば、話に聞く、その季節の美しさだけだった。なんでも春になれば一斉に花が咲き乱れ、夏にも秋にも冬にさえ、それぞれ美しい季節の花が咲くという。それだけでなく日本という国に住む者は、それぞれの季節を愛でる心を持ち、その変化を本当に楽しみながら日々を過ごしているというのだ。少女めいた心がその事実をすこしばかり素敵だと思う反面、ベラルーシにはやはり理解できない。
 季節は巡る。ただそれだけのものだ。時計の針が回るように。一日が過ぎ去って行くように。一月が終わって行くように。一年が重なって行くように。巡り、そして過ぎ去って行くものだ。流れる、それだけのものなのだ。それを楽しむとか、愛でるとか、そういった気持ちは少女の中にないのである。毎日毎日雪ばかり見て過ごしていたせいで日付の感覚さえ鈍っていた少女は、カレンダーを見て月が変わったのに気が付いたくらいだ。
 真新しいカレンダーは三月の訪れを少女に告げていたが、それにしても、それだけである。感動もなにもない。何十年、何百年と同じ三月は巡って来たし、これからも三月はやってくるのである。四月が来て五月が来て六月が来て七月になって、八月になって九月になって十月になって、十一月、十二月が終わり、一月二月で、三月である。本当にそれだけのことだ。喜ぶことなどなにもない。『日本』は奇妙な『国』だ。そう思った。
 ベラルーシはなんら代わり映えのない雪に埋まった中庭を眺め、カレンダーを凝視したのちに歩き出す。そういえば兄に呼ばれていたのだった。全ての用事を終わらせて万難を排した後に来るように、ということと結婚ではないということも言われていたので、疲れと期待が叶わないことから足取りは軽くはない。それでも、兄からの呼び出しである。なんらか用事があるということである。あの、兄が、ベラルーシに、来て欲しいと。
 その事実だけでドアノブの破壊など容易いことだった。鍵がかかっていようが、強固に作られていようが関係ない。邪魔をするなら壊す。それだけのことだった。そっと触れた兄の執務室へ続くドアノブは、しかし今日に限って鍵はかかっていないようだった。すんなりと少女の力を受け入れて開き、ベラルーシはそっと室内に体を滑り込ませる。一応、ノックはした。大きな音ではない。兄の仕事の邪魔をしてはならないからだ。
 特に声もかけない。集中している兄の耳に届いて邪魔をしてしまってはいけないし、妹の声を聞くと反射的に怯えるというあまり嬉しくない事実も、事実として、ベラルーシは認識していたからだ。まあ、怯えて泣く兄もそれはそれで可愛らしく、鑑賞の価値があるので全く問題は起きないのだが。音を立てずに扉を閉める。ロシアは雪原の照り返しによる眩い光を背にしながら、書類に目を落としている所だった。眉間にシワはない。
 難しい案件ではないということだろう。兄の心を煩わせるものではない、ということだろう。それだけで、ほっと心が軽くなる。この国は広い。広すぎるくらいに、広い。どこかで毎日、なにか問題が起きている。それが一つでも、兄の耳に入ることが少なくなれば良いのに、とベラルーシは思う。『国』が己の国の内部で起きている事実を把握するのは、本能的に定められた掟のひとつであり、それ以上に当たり前のことだ。けれども。
 悲しい顔を見る機会がすくなくなればいいと、願うことは、悪ではないとそう思う。
「……ベラ?」
 ふっと、ロシアは紙面から顔をあげ、扉に背をつけたまま立っていた少女の名を呼んだ。その声は穏やかで、怯えの色など微かにも感じない。とても珍しいことだった。嬉しくて思わず口元を綻ばせると、ロシアはごく幼い頃のようにベラルーシに対して柔らかく微笑みかけ、そんな所に居ないでこっちにおいでよ、と手招きをしてくれた。もしかしてこれは夢なのだろうか、と少女が真剣に考えるくらい、近年は全く見なかった無警戒だ。
 本当は、ベラルーシが兄に対して過剰な好意を示し、恐怖を与え、結婚を迫らない限り常にロシアは妹に対してこの態度である、という事実を少女は全く分かっていない。よって陸上選手もかくや、という程の勢いで駆け寄ってきた妹に、ロシアは椅子から腰を浮かしかけ、手招いたことを即座に後悔した。兄妹の間になんともいえない緊張と、恐怖と期待と混乱が走る。勇気を振り絞ったのは、ロシアが先だ。ぎこちなく息を吸い込む。
「あ、あのね、ベラ。……もうちょっと離れてくれるかな」
「私はこの距離でも会話するのに全く問題がありませんが兄さんの顔がよく見えるし兄さんの声がよく聞こえます」
「……良い子だから」
 なにが楽しくて、手を伸ばしてすこし引き寄せればキスできてしまうような距離感で、妹として大事にしている少女と会話をしたい兄がいるものか。広い世界にはもしかしたら存在するのかもしれないが、それはごく少数の例外であると信じたいし、そしてロシアはその例外ではないのだった。しぶしぶ、本当にしぶしぶ一般的な正常な距離感を持って立ち直したベラルーシは、これくらいでいいですか、と不安げに首を傾げた。
 その仕草はあどけなく、そしてさらりと流れる髪が、少女の清らかさと美しさをぞっとするほどに引き立てた。ベラルーシは美しい少女だった。本人が望む望まぬに関わらず。自覚のあるなしにも関わらずに。人形のような、作り物めいた精巧さと手垢の無い無垢さで、恐ろしいほどに美しかった。それでも可愛らしいと感じるのは、純粋にそう思うのは、やはり兄妹だからで、本当に大切だからなのだ。ロシアは溜息をつき、苦笑する。
「うん。どうもありがとう。……それでね、ベラ。君を呼んだ理由なんだけど」
「はい。……結婚ではないと聞きましたが気が変わっ」
「ったりしないからね?」
 だからもう本当にもうどうしてもうなんでもうこの妹と来たら、本当にすぐになんでもかんでもこうなのか。結婚しないよ、と重ねて言い聞かせれば、ベラルーシの澄んだ湖面によく似た紫の瞳に、これ以上は無いという不満の色が広がって行く。表情は、殆ど代わりない。無表情にすら感じられる不機嫌顔で、そうですか、と言うだけだ。ベラルーシの感情を、内心を知るのは実はとても容易い。目を覗きこめば良い。それだけだった。
 少女は瞳で雄弁に語る。言葉より。心より。
「……それでは、兄さん。御用事は?」
 今も拗ねた表情をしている瞳の色を、きっとベラルーシは自覚していないに違いないのだ。本当に結婚さえなければ、それさえなければ、撫でくり回したいくらい可愛いんだけどな僕の妹、諸国に自慢したいくらい可愛いんだけどな僕の妹、結婚結婚結婚、とか迫ってくるアレさえなければ本当に、と。一日に平均八回は思うことを心底痛感して、ロシアはうん、と力なく頷いた。少女が入室するまで眺めていた書類に、視線を落とす。
「ベラ」
「はい」
「一緒に日本に、菊君の所に行く?」
 菊、とは、『日本』の名である。『国』が持つ人としての名前。いつからか存在していた、個人として存在する為の呼び名。『日本』のそれは本田菊と言い、『ロシア』のそれはイヴァン・ブランギスキという。誰がいつ名付けたのかを、ロシアは思い出せない。日本も同じくらいの感覚だろう。それはいつか誰かが『国』に与えたもので、けれども神や目に見えないなにかによってではなく、確かに彼らが愛し守護する国民である筈だった。
 ベラルーシもそうだ。少女は『国』としての名の他に、ひととして、ナターリヤ・アルロフスカヤ、という響きを持っている。ナターリヤ。それが少女の名前だった。イヴァンがそうであるように。本田菊が、そう呼ばれるように。ナターリヤ。その名を持つ少女は唐突に出て来た菊の名に、本当に不可解そうに首を傾げた。さすがにそれが草花や植物を表しているのではなく、個人としての『日本』を指し示すことはすぐに分かったらしい。
 不愉快そうに眉が寄る。どうしてですか、とナターリヤは言った。
「一緒に、ということは兄さんは行くんですか。……私も一緒に?」
「強制はしないよ。君はね。僕は……招待されたから、半ば強制に近いけど」
 君には拒否権が用意されてる、と笑いながら、イヴァンは書類をつまみあげて妹の眼前に差し出した。読みやすい文字でタイプされた書面を、ナターリヤはざっと目で追う。細かく読みはしない。内容が理解できれば十分だからだ。それでも、きりりとナターリヤの眉が歪む。そうだよね、と溜息をつきたい気分になりながらイヴァンは苦笑する。
「菊君も、なにを考えてるんだかよく分からないよね。お花見、なんて」
 日本国内における、文化交流としての桜観賞のお知らせ。書類には確かにそう書いてあり、政治的な意味合いはないこと、『国』としての行事や駆け引きではないこと、個人としての催しであることなどが書かれていた。主催するのは、もちろん『日本』である菊だ。時期的に『中国』である耀(ヤオ)が滞在している可能性が高いが基本的には菊一人がイヴァンと、そしてナターリヤを出迎えることとなり、個人の家で執り行われる。
 個人の家とは、つまり菊の自宅ということだろう。ベラルーシは小石を口に詰め込まれたかのような嫌な顔をして、そっと首を傾げた。
「どんな罠を仕掛けたんでしょう」
「……だよねぇ、そう思うよね」
 でもこれ一応公文書なんだけどね、と言ってイヴァンは書類の一番下に記載された一文を指差した。そこだけタイプ文字ではなく、手書きで言葉が書き添えられている。どことなくきちんとした印象の文字だった。読んで、ベラルーシの眉間にますます皺が寄る。うんうんそういう顔になると思った、と苦笑して、イヴァンはそれを読み上げた。
「罠じゃありませんから、って書かれてもねぇ……」
「でも……兄さんは行くんですか?」
「うん。正式な『国』としての要請ではないにしろ、こういうお誘いだからね。上司が行けってさ」
 仲良くして置いて悪いことはなにもないからね、とにっこり笑うイヴァンの心がどこにあるのか、ナターリヤには分からない。けれど、分からなくともいいのだ。大切なのはイヴァンが行く、ということ。それが分かれば十分だった。分かりました、と頷いてナターリヤは顔をあげる。
「私も行きます」
「そう? ……無理しなくてもいいんだよ?」
 ナタ、あんまり菊君のこと好きじゃないでしょう、と気づかわしげに問いかけられて、少女の中でますますちんけな島国の評価が落ち込んだ。兄さんにこんな風に気遣われる理由になるとはなにごとかあの島国、と思いながら、ナターリヤは大嫌いです、と吐き捨てる。でも、行きます。言いだしたら聞かないのがナターリヤだ。身を持って骨に染みるくらい、イヴァンはそれを知っている。説得できないことも。ふ、とイヴァンは息を吐く。
「分かった。じゃあ一緒に行こうね」
「はい」
「……攻撃したりしちゃ、ダメだよ?」
 僕に見えるトコでも見えないトコでもやっちゃダメだよ、と言ったイヴァンに、ナターリヤはなにやら衝撃を受けたようでよろめいた。ダメだよ、とイヴァンは言い聞かせる。仲良くしに行くんであって、闇打ちの機会を探りに行くわけじゃないんだからね。しぶる妹に二十回は繰り返して言い聞かせ、イヴァンはようやく、なんとか、本当になんとか妹を頷かせることに成功した。肩を下りた見えない重荷の代わりのよう、窓の外で雪が落ちる。
 もうそろそろ、この国も温かくなる。

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