好きですよ。ごくあっさりと告げられた言葉に、ナターリヤの足が止まった。ざぁっ、と強い風が吹く。むせ返るほどの桜吹雪が視界を埋め尽くすが、それはほんの一瞬のことだった。今日は風が強いですね、とのんびりと呟きながら歩き出そうとする菊の手を引っ張り、ナターリヤはその足を止めさせた。手は繋いでいたから、引きとめるのは簡単なことだった。
「ま、待てっ!」
「はい?」
「いま! 今お前なんて……言った……!」
少女の記憶が確かなら、ナターリヤはこう問いかけた筈だった。お前、私のことが好きだろう、と。いつかはぐらかされた覚えのある問いかけだから、対して期待もしていなかったのがまずかった。言葉は指の間を通り過ぎて行く水のように意識に残らず、聞き逃しはしなかったが、脳が理解まで辿りつけない。ぎこちなく問い詰めるナターリヤがおかしかったのだろう。菊は繋いだ手にぐっと力を込め、くすくすと肩を震わせて笑う。
「貴女が好きです、と」
「お……お前! そういうのはもっと、ちゃんと! なんでそんな簡単にっ」
「簡単に?」
ぐい、とそのまま手が引っ張られる。慣れない和服でバランスを取りにくいナターリヤは、導かれるままに菊の腕の中に倒れ込んだ。きっ、と勝気な睨みで顔をあげると、やけに真剣な表情と目が合う。ふ、と口元を緩められた。
「簡単に言わないと、貴女分からないでしょう」
「馬鹿にするな!」
「……『君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも』」
視線をがっちり合わせたままで囁かれ、ナターリヤは背を震わせながら顔を赤くした。意味は分からない。全くよく分からないのだが、衝撃的に恥ずかしいことを言われた気が、した。言葉につまるナターリヤをしげしげと眺め、菊はそっと首を傾げる。
「あれ、分かります?」
「分からない!」
「ですよね……。まあ、ざっくり一言にしてしまえば、貴女がどこにも行かなければ良いのに、ということですよ」
ざっくり要約させすぎな気がしたが、まあ菊が言うのならそういうことなのだろう。恥ずかしいヤツだっ、と肩を怒らせながら言うナターリヤに、菊は微笑むだけで少女を見つめていた。せっかく春になったというのに、桜が咲いたというから見に来たのに、会いに来てからずっと、菊はナターリヤのことばかりを見ている。ナターリヤは息を吸い込んで、両手を菊の目に押し付けた。いつからそんな風に、菊はナターリヤを見ていたのだろう。
愛しいと。恋しいと、眼差しが歌う。
「ちょっと……なんです、この手は」
「塞がせろ、ばか……! やだ、そんな目で見るな!」
「気になるなら、貴女は花をご覧になって居れば良い。私は私で、『花』を見るだけです」
ね、と微笑まれても、ちっとも納得できなかった。菊の言う花が桜ではないことくらい、ナターリヤにだってちゃんと分かるのだ。見るな、と睨むと微笑みが深められ、菊はさらりと嫌です、と言った。ナターリヤは眩暈を感じた。もしかして、これからずっとこんな風に、菊は調子に乗っているのだろうか。どこかでガツンと言い聞かせる必要がありそうだ。満更でもない気分の自分を心の中で殴り倒し、ナターリヤは決意を新たにした。
まぁた変なこと考えて、と呆れの視線は当然無視だった。ぷい、と顔をそむけて視線を桜並木に戻す。そもそもナターリヤは、この花を見に来たのだ。日本の春に咲く花。いつかは夜にじっくり眺めたその花は、昼間の光に白く透け、輝くように咲いていた。吐息が漏れる。綺麗だった。
「春も」
「……ん?」
桜を眺めるナターリヤの背から腕を回して抱き寄せ、菊は静かに言葉を繋ぐ。
「春も、夏も、秋も、冬も。移り変わる季節の花を、貴女と共に見ていければどんなにか幸せでしょう」
頭を肩にくっつけるようにして預け、ナターリヤはゆるく目を閉じた。そうすると、鼓動が聞こえるようだった。耳に馴染む菊の鼓動は、普段より幾分か早いようだった。思わず楽しくなりながら、ナターリヤは目を開く。
「菊」
「はい」
「夢の中に、迎えに来ただろう」
ざぁ、と音を立てて。桜吹雪が、舞う。薄桃色の風の中で、菊はしっかりとナターリヤを抱きしめた。
「はい」
「……菊」
「はい」
ナターリヤは全身を菊に預けて、そのぬくもりを味わう。春の眩い光に、ゆるりと目を細めて。
「私は、お前が居るとあったかいんだ」
「はい」
「だ……だから! そういうことだ!」
分かったな、と体を離そうとするナターリヤを抱きしめて、菊は分かりませんよ、と苦笑した。ナターリヤが唇を噛んで、悔しげな顔をする。頬はうっすらと赤らんでいた。ちょっと緩めろ、と腕が指でつつかれる。逃げないから、と言われて、菊は僅かに腕の力を弱くした。動きにくい、狭い、と文句を言いながら、少女は青年の作りだしたちいさな輪の中で体を反転させ、菊とすぐ近くで向き合った。一回だけだ、とナターリヤは言う。
「一回だけしか言わない。だから……よく聞いてろよ」
ナターリヤの腕が持ちあがり、菊の頬を両手で包み込む。すこしひんやりとした、繊細な少女の指だった。ナターリヤはごく僅かに背伸びをして菊の耳に唇を寄せ、大きく息を吸い込んだ。
「春も、夏も。……秋も、冬も、全部だ! 全部一緒に、見てやる。私は、お前と、一緒に……一緒に!」
「……ナターリヤ」
「好き! ……好き、好きだ。私は、菊のこと……菊、きくが……す」
き、と。囁きは唇の狭間に消える。ざあざあと音を立てて吹く風に、桜の花が散っていた。
落ちる桜が、涙のように。
二人の足元を、恋の色に染めた。