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 8 遠くへ

 ジェラートの為のワッフルコーンを焼く良い匂いが、どこからか漂ってきた。なんでも家の近くのジェラトリアから、会議の時にも焼きたてワッフルコーンでジェラートが食べたいんだよ、と言って借りて来たらしい。ぽんと機械を貸し出してしまう店主も店主だが、会議場で手間暇かけて極上のジェラートを味わおうとする『イタリア』兄弟も、その為の努力を重しまなかったことも、ひたすらにイタリアンクオリティである。しみじみそう思った。
 休憩時間の終了まで、あと三時間程ある。昼食とシエスタの為の休憩は三時間半取られていて、会議が再開するのは夕方からの予定だった。イタリア国内で『国』の会議が開かれる時はいつものことで、一部は店が閉まる前にと買い物に繰り出したりもしていた。さすがに会議場は繁華街から離れているが、それでも十分も早足で進めば観光客でにぎわう一角に辿りつく。出て行った者たちは、今頃買い物を楽しんでいるだろう。
 そんな元気は無いと議場に留まった者達には、食前のジェラートがふるまわれている筈である。食前にジェラート、そして食後にもジェラート。職が充実してるって素晴らしいよ、とキラキラした目で言い放った『イタリア・ヴェネチアーノ』を留められる者は稀有に過ぎるので、もう開催国が決まって時点で、様々を諦めるべきなのだ。彼らはこれから一時間半をかけて昼食を取り、それから残りの時間でシエスタするに違いなかった。
 もっとも休憩時間終了までに起きてくることも稀だから、やはり再開は夕方になることだろう。さて今日は四時からはじまるか、五時からはじまるか。のんびりとソファに腰かけながら、『日本』は胸元に抱きついたままうとうとしている『ベラルーシ』の頭を、飽きることなくゆっくりと撫でてやった。二人とも、昼食はすでに済ませている。連日ならば考えるが、一食くらいならば栄養が十分にあり、腹が満たされればそれでいいのである。
 今はそれより、大事なことがある。まだ上手く眠れていない『ベラルーシ』を人気のない部屋に引っ張り、こうして休ませることがそれだった。うとうと、心地よさそうに菊の体温にまどろみながら抱きついている『ベラルーシ』は、耳をぎゅうぎゅうと胸に押し付けてきていた。心臓の音が聞きたいのだという。まるで赤ん坊のようだと思いながら、不思議に滑らかな髪を撫で続ける。特に手入れをしているとも思えないのに、艶やかな髪。
 思いついて三つ編みを編んでいると、『ベラルーシ』は眉を寄せて顔をあげ、とてもとても迷惑そうな表情を作った。ぎゅうぎゅうに抱きついてまどろんで置いて、よくもまあそんな表情が出来るものだ。くつくつと喉を震わせて笑いながら髪から手を離し、青年は少女の頬を両手で包みこんでやった。とたん、少女の体からゆるりと力が抜ける。それなのにいやだ触るな、と眉を寄せたままでゆるく首を振り、『ベラルーシ』は『日本』を見た。
「触るな。眠い」
「寝て良いですってば。……またあまり眠れていなかったのでしょう?」
「嫌だ。寝ない。ねないからな!」
 お前の腕の中で寝てなんかやらないんだからな、と眉間にしわを寄せて言う少女は、どうやらとても不機嫌かつ拗ねた気分でいるらしかった。今日はまだ特に機嫌を損ねる発言にも行動にも心当たりがない『日本』は、おやおやと苦笑して『ベラルーシ』の頭を抱き寄せなおす。少女はふんふんと鼻を鳴らして菊の匂いを嗅ぎ、収まりの良い場所を探してごそごそと身動きをした。これは猫だが、もしかしたら犬かもしれない、と思う。
 あごの下を指で撫でてやりたくなったが、確実に噛まれる気がしたので『日本』はそっと自重した。『ベラルーシ』は本当に噛みついて来るし、ナイフで刺すし銃を撃ちもするのだった。物騒なことこの上無い。どうやら寝心地の良い姿勢を取れたらしい『ベラルーシ』は、満足げに鼻を鳴らして動かなくなった。時折上機嫌に頭を擦りつけてくるので、楽しくまどろんでいるのだろう。全く、眠れと言っているのに。仕方がないのだから。
「今日はなにがお嫌なのですか? 教えてくださいな」
「……なんでお前そんなに楽しそうなんだ」
「恋しい方が一人寝できないとぐずっているのに、いとおしく思わない男などいませんよ」
 ぐずってなんかいない、と『ベラルーシ』は不満いっぱいの顔で言い返したが、反論が来たのはそこだけだった。十秒待って付け加えもなさそうなことを確認し、『日本』は肩を震わせて機嫌よく笑う。
「それで、今日はなにが嫌なんです? ナターリヤさん」
「……会議中」
「休憩中、ですよ。誰もいません」
 公的な会議の最中なのだから『国名』で呼べと暗に求めてくる少女に、菊は柔らかな声でそう言い聞かせた。少女は戸惑うように沈黙を重ねたが、折れる相手ではないとすぐに諦めて深々と溜息をつく。眠すぎて抵抗するのが面倒くさかったのかも知れない。ナターリヤは菊にしがみついたままうりうりと頭を擦りつけ、むっとした顔つきで視線を持ち上げた。
「こんなに私がくっついてるのに。お前はなんでドキドキしないんだ」
「……貴女は、本当に可愛いひとですね」
「しみじみするなっ! ばかっ! ううぅ……お前の心臓もしかして不感症なんじゃないのか」
 多分そういうことだと思う、と眠気であまり働いていない頭で下された結論に、菊は笑みを深めてみせた。そんな訳があるかこの小娘。抱きつぶしてやりたい衝動を誤魔化しながら、菊はやや強めにナターリヤを抱きしめ直す。きゅうくつだ、狭い、とぶつぶつ文句を言いながらも胸に押し付けられて、ナターリヤは違うのか、と首を傾げて問いかけてくる。違うに決まっているでしょう、と溜息をついて呟きながら、菊は少女の目を覗きこむ。
 春の、光の入った水面のように、明るく揺らめく湖面色の瞳。まっすぐに菊を見返して来る視線は無防備で、警戒することなど全くないと思っているようだった。視線を重ね合わせて覗き込みながら、菊はなんとも言えない表情で溜息をつく。
「ナターリヤさん……男の前で、そんなに無防備でいないでください」
「そんなの私の勝手だ」
「もうちょっと警戒してくださらないと、こちらとしてもなにする気にもなれないんですよ。……ただ、貴女があんまり可愛いから、こうして眠りを守って差し上げたくはなりますけれど、ね」
 分かったらふくれっ面していないで眠るか、すこし私を警戒してごらんなさい。甘やかな声で囁かれて、ナターリヤはゆるく目を細めてみせた。無防備とは言うが菊は恐らく、ナターリヤが服をなにも纏わずシーツ一枚にだけ包まってベッドの上に居たとて、風邪を引くでしょうが着なさい、とパジャマを叩きつけて来るに違いないのだ。賭けてもいい。着せた後に改めて脱がされる気がしなくもないが、それはそれ、変態相手だ。仕方ない。
「……今なにかとても失礼なことを考えませんでした?」
「考えてたけど、失礼でもなんでもない。ただの事実だ」
「まったく、もう」
 ゆったり、のんびりと言葉を発して、菊はすこしだけソファに預けていた背を離した。体重のかかり方が変わって、ぎ、とスプリングが嫌な音を立てる。視線を持ち上げて黙るナターリヤと菊の顔の距離が、先程より僅かばかり近くなっていた。菊はゆるく目を細めて、上からナターリヤの目を覗きこんでいる。その、夏の夜のように深く静かな、それでいて満ちた感情を湛えた瞳の色に。息を奪われてしまったように、動けなくなる。
「ナターリヤさん」
「う、うぅ……」
「嫌そうな声出さない。……ほら、もう眠ってしまいなさい。ねむたい顔してますよ?」
 息苦しくて心臓がどくどく音を立てているのに、変わらずそれはナターリヤだけなのだった。どうすればこの男の心拍を乱すことができるのか、それがナターリヤには分からなくて悔しい。囁き言い聞かせる声は穏やかなばかりで、欲する熱を秘めている訳でもなさそうだった。不感症め。心の中で吐き捨てて、ナターリヤはこくりと頷いた。ほっ、と菊の表情が安堵に緩む。ナターリヤは平手で菊の腕を叩き、苛立つ気持ちを発散した。
「まったく! 私が眠れないのは誰のせいだと思ってるんだ! 誰のせいだと!」
「……私、ですね」
「幸せそうに言うんじゃない! ばかっ!」
 お前なんか国に帰ったりしないで、ずっと私と一緒に居てくれればいいんだ。感情のままに叫んだ言葉に、はじめて、菊の心臓の音が聞こえた。どく、と一回だけ少女の耳を打つ鼓動。ぎゅぅ、と抱き寄せる腕に力がこもる。菊はなにも言わなかった。ナターリヤもそれ以上は、言葉を離さなかった。ただ安心したような、悲しいような複雑な気持ちで少女は目を閉じる。二人はひとではない。ひとのように国を離れることは、できない。
 ナターリヤも、『ベラルーシ』だ。同じ立場だ。だからこそ、そんなことは十分に知っている。それでも感情的にそれを求めてしまうのは、ただひとのように、菊を想っているからだった。
「菊」
「……はい」
「寝るから、起きるまでになんか考えておけ」
 お前そういうの得意だろう、と言い捨てて、ナターリヤはぱたりと瞼を下ろしてしまった。元々、眠気に意地で対抗していただけなので、眠りはすぐに指先まで広がり、少女の意識を飲みこんでいく。ほどなく、くー、と安堵しきった寝息が響くのに愛しく苦笑して、菊は少女の体がソファから落ちないよう、よいしょと声をあげて抱き抱え直す。もぞりと身動きをしたナターリヤは菊の腰に両腕を回し、お腹に鼻先を擦りつけて眠っている。
 こうなるともう、休憩時間の終わりまでナターリヤは絶対に起きない。ひとと同じような休息を欲する『国』の体が、満たされてしまうまで意識が回復しないからだ。もっとも、緊急事態が起こればその限りではないが、イタリア国内の治安は安定している。『国』の集まっている議場を狙ったピンポイント空爆が起きる気配もないので、二時間半はこのままだろう。読む本の一冊でも持ってくればよかった、と菊はすこしばかり後悔した。
 別に少女の寝顔を見ていて飽きる訳ではないのだが、悪戯心を起こさない自信がないのである。ナターリヤにはああ言ったし、本心の一欠片ではあるのだがそれはそれ、無防備だからこそ乱したくなることもあるのだった。教え込む楽しみというのもあるのだし。菊の不穏な考えを、夢の中でなんとなく察したのだろう。じわじわと眉間に刻まれて行くシワを指先で伸ばしながら、はいはいなにもしませんよ、と菊は囁きかけてやる。
 すぅ、と寝息が深くなった。声が聞こえたのかも知れない。すぐに疑ってかかるくせに、ナターリヤはすぐに菊の言うことを信じてしまう。好きといえば疑いもなく受け入れ、嫌いと告げれば真正面から傷ついてしまう。まっすぐな心。眠る少女が髪をぐしゃぐしゃに乱してしまわないよう三つ編みにしてやりながら、菊はふと顔をあげて扉を見た。鍵はかけておかなかった筈だ。密室で二人きりで平静で居られる自信がなかったからだ。
 なるべく、人がこない部屋を選んだと思ったのだが。部屋に他人が立ち入れば、それだけでナターリヤは起きてしまうだろう。さてどうしたものかと思っていると、軽やかな足取りが部屋の前で止まる。ヴェ、と独特の鳴き声。扉をわずかに開いて室内に足を踏み入れることはなく、ひょこりと顔を出したのはフェリシアーノだった。『イタリア・ヴェネチアーノ』、本日のホストの片割れは、居なくなった二人が心配で探していたのだろう。
 曇っていた顔つきが菊を見てぱっと晴れ渡ったので、どうやら心配をかけてしまっていたらしい。にこにこ笑いながら菊を見て、その腰に抱きつきながら膝枕で眠るナターリヤを見て、フェリシアーノはうーん、と首を傾げてみせた。
「菊ー?」
「はい。なんです?」
「寝てるのー?」
 響く声は恐らく、そよ風に一番良く似ていた。そっと触れ、掠めて行くだけの穏やかな響き。意識を決して揺り動かさない、撫でて安心させることだけを望むような声。気遣いに満ちた声に、菊はくすりと笑って頷いた。
「そっか。……ナターリヤ、この間も倒れちゃってたもんね。どうしたの? 恋の病?」
「……フェリシアーノ君」
「恋の病は辛いよねー! 俺、すっごーくよく分かるよ!」
 でも君のことが大切すぎて眠れないなんて最高の愛の言葉の一つだよね、眠いのってイライラしちゃうけど、と嬉しげに笑い、フェリシアーノは扉の前にしゃがみ込んだ。中に入って来る様子は無い。邪魔しないよー、と笑いながら囁き、フェリシアーノは優しい目を菊に向けた。
「ねえ、菊。ちょっとお話していい? 余計なことだって分かってる」
「あなたがそう思うことで、真実余計だったことなんて何もありませんよ。……なんですか?」
「ヴェヴェ、ありがとう! あのね。……あのね、『国』同士の恋って、キツイよ」
 知ってると思う。菊も十分分かってると思うけど、でも言わせてね、と笑って。フェリシアーノは目を伏せて、窓から差し込む木の幹の、光を宿した影の色を見つめていた。
「一度手を離しちゃうとね、それはきっと永遠になるよ。手を離したくなんてなかったのに、俺たちは『国』だからさ。どうしようもなくそうすることを強いられたりもするじゃない? ……そのひとより、国と国民を愛する気持ちが確かにあって、それは嫌なものではなくて俺たちの誇りで、なによりも誇らしい存在理由そのもので。それが呼吸と同じくらい、生きて行く為に不可欠な本能であることを、俺は……俺は本当に嬉しく思うけど、さ」
「はい」
「俺達にはどうして自由意思があるのかなって、時々考えるよ」
 ひとの意思の入れ物が『国』だとしたら、俺たちにそんなものは必要ないのにねえ、と影を見つめたままで笑って。フェリシアーノは息を吸い込む。生きる為の吐息。失えば死に至る本能。
「神様はどうして、俺たちに国民と国を愛する以外の『愛』をくださったんだろう……。この感情には必ず意味があると思うんだ。でもその答えが見つからない。俺の……俺の答えも、意味も、彼が全部持ってるんだと思うんだけど、だから……会いたいな。俺はね、俺は、約束したから千年だって待つよ。千年待ったから、次の千年も待てるし、その千年が終わったらその先の二千年だってきっと待つ。約束って、そういうものなんだよ」
 破られる時を恐れるんじゃなくて、ひたすらに叶う瞬間だけを信じ続ける。約束は俺にはそういうもの。静かに静かに囁いて、フェリシアーノはすっと立ち上がった。えへへ、と照れたようにはにかむフェリシアーノの、瞳がほんのすこし潤んでいた。
「ごめん、脱線しちゃった」
「……いいえ」
「ねえ菊。俺たちが手を繋ぐって、だからすごく怖いことなんだよ」
 それが国同士の条約であっても、『国』同士の同盟であっても、個人としてそうするのであっても。
「一度手を……離されてしまったことがあるなら、もう一度そうするのは、どんなに大変だったろうって思うよ。……ねえ、菊」
「はい」
「手を繋いだのは、どっち?」
 手を離された迷子に、優しさを分け与えたのは誰。囁くフェリシアーノに、菊は静かに言い切った。
「私です」
「いつか、手を離さなきゃいけない日が来たら、菊はどうするの?」
 おれたちは『国』である以上、本当は常にそれを考えなきゃいけない。別れは出会いの延長線上に必ずあって、そして『国』はその選択を自由意思では選べない。また世界を巻き込む大きな戦いが起きたら、そして誰より大切な人が向こう側に置かれてしまったら。『国』は戦わなければならない。喜びと誇りと悲しみの間で、心が引き裂かれても。そうならないよう、誰もが平和を願って尽力しているのだけれど。平和も共通ではない。
 二つの正義の狭間に犠牲があるように。平和の間には和平が組み込まれているように。必ずどこかで譲り合わなければ、平和にはならないのだ。誰もが同じことを願っている筈なのに。
「傍に居ますよ」
「……菊」
「手が離れてしまっても、たとえ会えなくても、声を聞くことができなくても、姿を見ることができなくなっても。望むなにもかもが叶わず、隔てられてしまっても。……傍に居るって本当は、そんなに難しいことではないと思うんです。私たちは『国』です。個人の感情に関係なく争う日が、来て欲しくは無いけれど……『国』として己が愛す国民を選び、彼女を選びきれない日は来るでしょう。彼女も同じように。それでも傍に居る、というのは」
 残るってことですよ、と菊は言う。フェリシアーノが木の影を見つめるように、菊は顔をあげ、窓から見える空の青さを瞳に映した。光がまぶしい。そっと、目を細める。
「世界のあまりの綺麗さに、不意に気がついて」
 高くを流れて行く雲の色。誇り高く胸に響く、純白。
「それを教えてくれたのが彼女だと、根拠もなにも思い浮かばず、胸にすとんと言葉だけが落ちて来た時の」
「……うん」
「心は、その感動を覚えているのですよ」
 忘れたことはないでしょう、と菊は囁く。フェリシアーノは視線を持ち上げて、じっと菊の姿を見つめた。うん、と言葉が響く。
「花の、名前を……覚えてるよ。彼が教えてくれた花の名前。その時のことは上手く思い出せないけど、でも、彼が教えてくれたって事実と、その花の名前はちゃんと思い出せる」
「身を寄せ合うことだけが、傍に居る事ではないでしょう?」
 ほら、ずっと傍に居たじゃないですか、と菊は告げる。フェリシアーノは顔をくしゃくしゃに歪めて、否定とも肯定ともつかない仕草で首を振った。それでも、姿が見えない。声が聞こえない。手が繋げない。離されてしまった指先は冷えて行くばかりで、同じぬくもりで温められることはない。辛いばかりだ。悲しいばかりだ。それでも色褪せない世界に、残されて行くものがある。思い出とも、記憶とも、人は呼ぶ。寄り添う想い。心の内側に。
 確かに在る、そのもの。
「菊は、そういう風に……する、つもりなの?」
「究極の選択を迫られたら、ですよ。別になにも、普段からその準備をしている訳ではありません。……ねえ、フェリシアーノ君。私たちの想いは困難でしょう。私たちが『国』であるというだけで、自由にならないことはいくつもある。けれど……重ねて行く記憶と、この想いは私のものなのです」
 誰が培うことを義務づけたではない、強制されてもいない、自由意思。腰に少女の腕を巻き付けられて膝を占領されて動けなくなる、そのことを選びとったのは菊の意思。フェリシアーノはぎこちなく微笑む。それをきっかけにしたように、フェリシアーノを呼ぶ声が聞こえた。二人を探しに行って戻って来ないので、心配性の誰かが探しに出ているのだろう。このままでは、騒がしくなってしまう。眉をよせた菊に、フェリシアーノが笑う。
 素直な笑みだった。
「大丈夫。……どうしようかな。ネクタイでいいか」
 呟いてネクタイを解いてしまったフェリシアーノは、それをくるくると巻いてスーツのポケットにねじ込んだ。なにをするつもりなのだろう。見つめる菊の視線の先、フェリシアーノはまたね、チャオ、と手を振って笑顔で扉をしめ、ぱたぱたと足音を立てて走り去って行く。やがて、騒がしくも温かい声が響いて来た。
「大変だよ大変だよー! ルート! 大変大変、すっごく大変! 俺ね、ネクタイなくしちゃった!」
「無くすなー! どうすれば無くしたりできるんだっ……まさか」
「ヴェー?」
 探していた人物に辿りついたのだろう。菊にはすぐ想像することができた。ルートヴィヒは額に手を押し当てて頭の痛みを堪え、その前でフェリシアーノはにこにこと笑っている。まさかなにー、と促すフェリシアーノは、すでに逃げる準備をしているに違いなかった。じりじりと距離が開いて行くのを睨み、ルートヴィヒは叫ぶのだろう。
「シエスタか! こ……こら待て! 逃げるな! シエスタの時に全裸になるなと何度言わせれば……!」
「解放感に溢れてこそシエスタだよ! ルートちっとも分かってない! そして俺を追いかけるより一緒にネクタイ探して欲しいでありますううううぎゃあああああごめんなさいごめんなさい顔怖いよおおおおおお!」
 遠ざかって行く声に、菊は笑いを堪えて口を手で押さえた。フェリシアーノは頃合いを見計らい、ルートヴィヒにバレないようにネクタイを廊下に落とすのだ。それは恐らく、この部屋からは遠く離れた何処か。再びしん、と静まり返った室内には、少女の寝息だけが響いている。外界の騒ぎなど知らぬ顔で、ナターリヤは菊のぬくもりを堪能していた。少なくともあと二時間は、この安らぎが続けばいい。そう願い、菊は少女の瞼に触れた。
「さて……貴女にはなんと言いましょうね」
 どの言葉なら、ナターリヤの心に届くだろう。二時間、それを考えるのも悪くない。暇つぶしが出来たと笑って、菊は少女の顔に影を落とす。口付けは、眠る少女を目覚めさせはしなかった。安らぎの中、ナターリヤは眠っている。菊はくすくすと笑って、その眠りを守っていた。



 会議を終えたばかりとは思えないスッキリとした顔つきで、ナターリヤはホテル前の階段を下りて行く。休憩後に再開された会議は結局ぐだぐだのままで終わったので、消耗する体力もすくなかったのだろう。元気そうなのはなによりである。転ばないと良いですけどね、とのんびりと後を追って階段を下り、菊は少女を追ってざわめく街へと出て行った。石畳が赤金色に染まっている。もう日が暮れ始めているのだった。伸びる影は長い。
 涼しげな風に心地よく目を細めながら、ナターリヤが菊を振り返る。少女はもうすっかり宿泊先のホテルに戻るつもりで、菊と共に街を散策する、という洒落た選択肢は端から頭にないらしかった。じゃあまた今度、と言って別れようとするのを引きとめ、菊は苦笑しながらナターリヤの目を覗きこむ。
「名残を惜しむことくらいしてください……次の会議にはいらっしゃいますね?」
「次? 何処でやる会議だ?」
「確か、フランスで」
 比較的近い場所ですから貴女は来やすいでしょう、と言うと、ナターリヤは眉を寄せて嫌がった。来たくない、と思っている顔だった。苦笑しながら理由を尋ねると、あの国はなんだか香水臭いから嫌いだ、と言う。マスクでもして来なさい、と溜息をついて、菊は少女の頬を撫でる。寝たとはいえ、寝不足が重なっての深い眠りだ。肌が荒れていた。
「まあ、どうしても嫌なら事前に御手紙くださいね」
「分かった」
「……今夜は眠れそうですか?」
 とてもよく眠った、という顔つきをしてナターリヤは立っていた。夕方にそんな顔つきをしているのだから、夜になっても寝つきは悪いことだろう。昼寝たから夜はもういい、とあっさり言い放つナターリヤに、菊は苦笑しながら額を重ねる。熱を計るような、親密な距離。ナターリヤは嫌な顔をすることなく、不思議そうに菊の瞳を見返した。きく、と呟く桜色の唇。そっと重ねて吐息を盗み、菊はくすりと囁いた。
「眠ってくださいね。約束です」
「約束? ……なんでだ」
 心臓の鼓動を確かめたがって、ナターリヤの手のひらが菊の胸に強く押し付けられる。耳で聞くのとは違うから、よく分からないのだろう。不満げに眉を寄せるのを可笑しく見つめながら、菊は少女の手のひらに己のそれを重ねる。あたたかい、嫌だ、と言って拒絶されることはもうない。恥ずかしげに顔がしかめられ、あんまり触るな、と少女は呟いた。それだけだ。ひどく、心が弾む。
「『我が背子が 袖返す夜の 夢ならし まことも君に 逢ひたるごとし』ですよ」
「理解できる言語で話してもらおうか」
「……夢の中でお待ちしています。会いに来てくださいね、ということ、です」
 悲しい夢も、寂しい夢も見ないように。一人で眠れるよう、おまじないですよ、と。笑う菊にしぶい顔を向けつつ、ナターリヤはこくりと頷いた。眠れる気はしていない。けれどそこまで言うのならば、試しに横になって目を閉じるくらいのことはしてやってもいいかな、と思った。



 小瓶に詰められた砂漠の砂色で描かれた、奇妙な建物ばかりが並ぶ街。筆で描かれたようなぐにゃぐにゃとした線で作られたその街を、ちいさなナターリヤは一人で歩いていた。姿かたちは確かに幼いのに、視界の高さだけが『現在』と同じアンバランス。それをおかしい、と思う思考は現実に置き去りにされていた。ちいさな手足を一生懸命に動かして、幼いナターリヤは無人の街を進んでいく。真昼と深夜の混在する、奇妙な街。
 一歩を踏み出せば照りつける太陽の日差しは凍える闇に埋もれ、角を一つ曲がれば木漏れ日になり、街頭の区切りで夕方にもなった。時間も季節も温度もなにもかもが捻じれて入り混じって混在していて、幼いナターリヤの心を苛んだ。街の名を、ナターリヤは知らない。何処にも、それを記す看板がないからだ。店の看板も道にあるそれも全てが白く塗りつぶされていて、文字を読むことはできなかった。言葉のない街だった。
 いつから、この場所を歩いているのだろう。気が付いたら足を進めていたナターリヤに、それを知る術はなかった。振り返ることはしない。来た道を、戻ることはしない。それはできないことで、してはいけないことだった。幼い手足は、ただ前へ前へと進んでいく。街はしんとしていて、なんの音もしなかった。人の声も、機械の動く音も、風の音も植物の息吹も、動物たちのささやきも。なにもなかった。静寂に塗りつぶされた静寂があった。
 いつの間に、一人になってしまったんだろう。ナターリヤはそう思いながら、ぐにゃぐにゃとねじ曲がった砂色の街を行く。確かに兄と姉が一緒に、すぐ傍に、いてくれた筈なのに。歩きながら右を見ても、左を見ても、そこには捻じれた景色が広がるばかりで人影は無い。息を吸い込んだ。一人だった。急がなければ。幼いナターリヤは懸命に足を動かして街の出口を探し続ける。急がなければ、急がなければ。ここはとてもさみしい。
 じわじわと手足が冷えて、そのうち動けなくなってしまう。さみしくて悲しくて、動けなくなってしまう。息を切らして走りながら、右を、左を見て出口を探す。時間も季節もぐちゃぐちゃに入り混じった街は、奇妙に景色を歪めるだけでその果てが見当たらない。ぞっと背が震えた。怖い。ここは怖い。ここから出たいのに、ナターリヤにはその方法が分からない。じわじわと冷たくなって行く手足を温める方法も知らない。ここは一人だ。
 ひとりでなんて、居たくないのに。息が切れる。もう、走れない。思ってしまえばもう駄目で、ナターリヤはその場で転ぶように脚を折ってしゃがみ込んでしまった。街の色が褪せて行く。時を重ね過ぎた写真のように。セピア色から白黒へ。す、と色が消えて行く。息が苦しい。走り過ぎて息が苦しい。寒すぎて息が苦しい。ひとりぼっちで、ここはくるしい。くるしかった。ようやくそのことに気がついた。ずっとずっと、ナターリヤは苦しくて。
 息を、吸い込むことすら苦しくて。
「……見つけた」
 止めてしまった呼吸を、よみがえらせる声がした。くたくたに疲れて動かない体を、癒してくれる声がした。息を吸い込む。顔をあげる。幼いナターリヤの元に、歩んでくる者があった。ゆったりと、それでいて小走りに。白黒の街をセピア色に染め変えて。世界の息を、よみがえらせて行く。ぐにゃぐにゃだった街の線をぴんとさせれば、そこは見慣れた風景だった。イヴァンの家のすぐ近くだ。右も左も、季節と時間は捻じれていない。
 ナターリヤは思い出す。ここはあの日、辿った道。上司に会いに行くのに使った道。幼い兄妹に出会った道。幼いナターリヤはちょうどあの妹と同じくらいの歳格好で、ずっとその通りを彷徨っていた。悲しみから逃げるように。しゃがみ込んだまま動けないナターリヤの前で、菊は立ち止まる。にっこり笑いながら手を差し伸べられた時、ナターリヤの姿は、もう『現在』のものだった。幼子はどこにも居なくなっていた。息を吸う。あ、と呟く。
「菊。……本当に、ほんとうに、菊……?」
「本当に、本当に私ですよ。……約束したでしょう?」
 覚えておいてくださいね、と。手を取って少女を立ち上がらせながら、菊は囁く。
「傍におります。現で会えない日があれど、こうして夢を通いましょう」
 繋がれた手が、ひどく熱い。二人分の熱が、手のひらに集まってしまったようだった。そっと、菊はナターリヤから手を離す。指先は温かいままだった。体温が移されたように、温かいままだった。



 瞬きをして、泣いていることに気がついた。手で拭いながら起き上がり、ナターリヤは夢を見ていたことを悟る。かなしい夢だった。愛しい、夢だった。てのひらが、まだ温かい。ベッドから起き上がってカーテンを開き、ナターリヤは朝日の眩しさにきゅっと目を細める。ひどく眩しい。朝は、こんなに明るいものだっただろうか。目に映る色の全てが鮮やかで、輝いているようだった。突然、世界の美しさに気がつく。少女は息を吸い込んだ。
 胸に言葉が降りてくる。それをそのまま、口にした。
「菊……?」
 目から大粒の涙がこぼれる。しゃくりあげながら口元を手で押さえ、しゃがみ込んだ。急激に自覚する。ざわざわと、心が騒いだ。たった一つ、意思が囁く言葉がある。気がついてしまえばそれはもういっぱいで、溢れだしそうになっていた。ナターリヤはそれを囁く。ひどく透明な声で。ひどく純粋な恋で。それはこの世界を色鮮やかに輝かせる、たったひとりの。

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