ほの暗く忍び寄る夜のさざめきを、ゆるりと立ちのぼる白煙が淡く遠ざけた。煙の産まれる源では、炭に封じられた火が赤々と燃えている。時折、火の粉が舞い上がって踊るのを、たしなめるように冷たい空気が撫でて行く。火はその姿こそ現わさなかったが、煙草盆のちいさな入れ物とその周囲を薄闇から守るように明りを灯し、ほんの僅か、室内の空気を温めていた。男が一人身を置けばそれだけで狭く感じてしまうちいさな部屋には、煙草盆が置かれた机と、ひどく簡素な椅子しかなかった。
元は物置代わりに使われていた部屋だからだろう。閉ざされた空気のカビ臭さが、今でもどこかに残っている気がした。この部屋から荷物が運びされたのは、もう半年以上は前になる。それ以来、海からの襲撃に備えて見張りを置く為の部屋になった空間に今はその為の者はなく、静寂と冷たい空気が重たく座すばかりだった。飾り気もなにもない壁の一部をくりぬいて硝子をはめた窓は荒れた海を映すばかりで、異常のない代わり、面白味をちらつかせることもしなかった。
肺の奥から深く、息を吐き出す。一瞬、冷えた空気を白く染め、吐息の名残はかき消えてしまった。ゆるゆると煙草盆から立ち上る白煙は量を増すことこそなかったが、か細くはなく空気を熱していた。吐き出した息は穏やかに砕け散るように消えたが、白煙はまるで冷えながら溶け消えるよう空気に馴染んでいく。その違いを無感動に受け止めながらも、くゆる白煙をしばし見つめた。その光景は感傷的な気持ちを呼び覚ますのか、あるいは注意を惹きつけて止まぬものがあるのかも知れなかった。
やがて視線を外したオランダは黒い革の手袋をはめた手指を動かし、煙草盆の脇に転がしておいた煙管をつまみ上げた。吸い口から、刻み煙草を詰める火皿まで全て真鍮で出来た煙管は、手袋ごしであってなお、氷のような冷やかさと重みを感じさせる。目を細めて見たのは、その煙管に菊花の細工が彫り込まれているのを知っていたからだ。繊細な手作業によって彩られた細工は、頼りない明りのせいであるのか薄暗さに紛れてしまい、はきと見ることは叶わなかった。
淡い光の元で眺めるのが一番美しく思える細工だから、あるいはそれで良いのかも知れなかった。なにかの土産か、あるいは記念として差し出された時のことを思う。それは分類的には同じ『島国』の出来ごとであったが、ここよりはもっと北にある細長い形状の土地で、季節は冬ではなく空は晴れていた。
随分と違うものだ。状況も似ていると思いかけ、似て非なるものであることにも気がついて苦い気持ちを味わう。彼の国は自ら国を鎖したが、この城は、宿る『国』の意思とは関係なく閉ざされていた。不思議なものだ。皮肉なものだとも思う。やはり少しばかり感傷的になっていることを自覚しながら、火皿に刻み煙草がみっしりと詰められていることを確認し、オランダはそれを慣れた仕草で炭明りに捧げた。
薄闇をまあるく照らし出す炭明りは、読書には向かぬ柔らかな光で煙管を照らし出す。一瞬、菊花の細工が鮮やかに浮かび上がった。堪能する間もなくすぐに火の粉がちりと跳ね、それまでとは違う白煙がひとすじ、立ち上って行く。満足げに目を細めて吸い口に唇を押しあてれば、吸い込まずともほっと、気持ちが和むのを感じて苦く笑む。これは中毒になるというが、まさしくその通りだと思いつつ、独特の味と香りをしばし楽しんだ。
甘露を口に含むより、毒を舌先で転がした方が落ち着くとは難儀な性だが、もう仕方がないだろう。そういう風になってしまったのだから、諦めて楽しむのが良いように思われた。『国』が身の内に毒を溜めこむことが、国土に影響を及ぼさぬと思わない訳ではなかったが、それならば誰かがとうに止めているだろう。つまり個人的な健康を害する可能性があるだけで、影響はないとして放置されているのかも知れなかった。
複雑な感情を覚えなくもないが、悪い気持ちではない。す、と匂いを楽しみ、ゆるゆると肺から息を吐きだした。部屋はしんと静まり返っている。ごう、と風が鳴り、窓が揺れる。それを合図としたように、オランダは冷たい石壁から背を離し、部屋の扉を押しあけた。そう長居するつもりではなかったのだ。この部屋が煙でいっぱいになってしまうくらいの時間の余裕はあるが、その為の場所ではない。匂いだけでも嫌う者はあるし、なによりも外の景色が見たくなった。
ただ外界と部屋を区別する為にしか理由を持たされなかった粗末な木板は、重たく軋む音を立てながら開き、長身の男を外へ送り出した。荒れた海風がケープを腕にまとわりつかせる。思わず眉を寄せながら視線を向けると、切り立った崖に押し寄せた波が、白く飛沫と砕け散るのが見えた。その一滴すら、オランダの立つ城壁までは届かない。
ゼーランディア城。オランダ東インド会社が台湾統治の中心地とする為に建てた城に立て篭もり、もう半年以上が過ぎ去ろうとしていた。台湾政権を我がものとせんと攻め込んでくる漢民族の勢いは衰えず、相対するオランダは疲弊し続けている。その始まりは予兆めいた事柄を置きながらもどの歴史でも繰り返されてきたように唐突で、突然のことだった。
着任後に代替わりする筈だった次の長官は戦闘中と知るや長崎に逃げ、援軍は悪天候で上陸できず、救援軍は無能な指揮官と共に逃亡するという状況の中で、数の上でも圧倒的に負けているオランダ軍は実によく耐えている。周囲が海に囲まれた状況であるからそうやすやすと逃げ出せない事情もあるが、それにしても長期に渡り、よく堪えていた。
オランダ軍の士気はもはや絶望的なまでに落ち込んでいるが、それでも奮闘を続けているのは『国』がその場に居るからかも知れないし、あるいは籠城戦という過酷な条件が彼らから正しい判断を削り取ってしまったのかも知れなかった。戦いとは常にそういうもので、兵士とは常にそういうものだった。若葉の頃から始まった籠城はじりじりと続き、今や新年を迎えて一カ月も終わろうとしている。冬は越せまい。春を迎えるより早く、この戦いは終わるだろう。
天秤は手の施しようがないほど傾いていて、皿に乗せられた重りが崩れ落ちるのを待つばかりなのだ。己がどちら側になるのかということは、考えたくもない。すでに分かり切ったことだったが、そうであるからこそ、決定的な瞬間まで受け入れたいことではないのだった。感傷的な気分や、重たい疲労感を打ち捨てるように海から視線を外し、オランダは煙管を通して息を吸い込んだ。独特の味と香りと、眩暈がした。
黒と灰色の入り混じった曇り空は、水平線まで続いている。空と海の交わる所。晴れていれば光り輝く白い線によって区切られ、混じり合うそこはただ黒いばかりで夜の訪れを感じさせた。今は未だ手元が見えるが、もう一時間もすれば肩まで暗闇が降りてくる。足元まで飲み込まれ、なにも見えなくなるまで時間の猶予はそう多くない。煙草を暢気に楽しめるのも、それまでだった。空に昇って行くか細い白煙も、すでによく見えなくなっている。
細く長く息を吐き出せば、崩壊への時間伸ばしになるだろうか。乱雑な手つきで頭をかいて、嫌なことやと一人ごちる。城壁にまとわりつくような波音が、やけに神経を逆なでた。この城は海に近すぎる。それなのに、攫って行く為の船は一つもない。もしそうすることが出来たとして、男は『国』であり、連れて行く存在も人ではない。彼らは引き離される。つがうことなど出来はしない。それをどんなに望んでも。
「らん!」
「……ん?」
不意に甘やかな声が冷えた空気を揺らし、オランダは呼ばれた方へと振り返った。その二音は確かに男の名の一部ではあるが、オランダの『らん』を呼びやったのではない。それは『蘭』という花の響きだった。芳しい花。幼すぎて、男を表すどの名も正確に発音出来なかった幼子が、唯一舌に馴染ませることが出来た、その名。蘭。それを幾度となく繰り返し、城壁の端からオランダの立つ場所まで走ってくるのは幼子だった。
背丈は、男の膝をようやく越したくらいだ。幼子は走って来た勢いそのままに、オランダの脚にぶつかるように抱きついて来る。可愛らしい作りの二本の腕にぎゅぅと脚を抱えられて、オランダは空の方向へ、煙草臭い息を吐きだした。
「らん! ねえ……ねえ、蘭。蘭!」
「ちょこっと待っておくんねの」
煙管を持たない手を幼子の頭に乗せて撫でると、ちいさな顔は不満げに膝に擦りつけられた。全身で今すぐ構って欲しがる幼子に甘い苦笑いを浮かべながら、オランダは城壁に身を寄せ、指で挟んだ煙管を軽く打ちつけた。火皿から燃える刻み煙草を海に捨て、オランダはまだ熱い煙管を、無造作に腰の道具入れに突っ込んだ。熱で火の付くような物は入れていないので、大丈夫だろう。零れて落ちていた煙草がやや燻されたのか、強い芳香が立ち上るが、すぐに消えて行く。
名残を惜しむように息を吸い込み、オランダは脚にしがみついたまま顔も上げない幼子の頭を、くしゃくしゃと優しくかき混ぜてやった。それからトン、と指先で額を叩くのがいつもの合図だ。
「……もうええ」
「蘭!」
ぱっ、と幼子が顔をあげる。満面の笑みはまっすぐにオランダに向けられていて、そこだけが光の恵みを得ているかのように眩く感じられた。目を細めて見つめ返しながら、オランダはゆっくり膝を折り腰を曲げ、幼い少女と目の高さを同じくらいにしてやった。
「湾。部屋に居ろ言うたやざ」
「雨が降るヨ?」
湾、と呼ばれた幼子はそう言って、ちょこんと首を傾げてみせた。ぱちぱちと忙しなく瞬きをしながら、瞳が雨具を探している。もちろん、オランダはこの後の天気など知りもしなかったので、持っていたのは煙草道具だけだ。雨具を持っていないことを確認した湾が、不思議そうな声で濡れちゃうヨ、と呟く。苦笑しながら頭を撫でてやり、オランダは湾を抱き上げた。
「ありがとうの。濡れんで済みそうやざ」
「どういたしましてだヨー」
慣れた仕草でオランダの首に抱きつきながら、湾はなにを見てたの、と不思議がる声で問いかけた。街側ならばともかく、海側であるので興味を引かれるものがないのだろう。水面を視線が探しまわるのに苦笑して、オランダはゆっくりと城壁を歩いて行く。腕の中にすっぽり収まってしまう体は温かく、心地の良い重みがあり、男よりいくらか鼓動が速い。東洋人独特のきめ細やかな肌は滑らかに白く、背の半ばまで流れる黒髪は柔らかく艶やかだった。光の加減によって黒檀から黒曜石の深さまで色を変える瞳は迫りくる夜も闇も恐れず、信頼を置いた様子でオランダを見つめている。
昨日までそうであったように、今日もその通りだったように、明日も明後日もずっと、抱き上げて甘えさせてくれるのだと信じ込んでいる瞳。無垢な信頼はまるで人の幼子そのものであり、それなのにふと見えた家の灯りをに笑みを零す誇り高い慈愛は、どこまでも『それ』が『国』であることを知らしめた。
湾は呼び名だ。オランダを『蘭』と呼ぶように、男は幼子を『湾』と呼んだ。幼い少女は『台湾』であり、オランダと同じ『国』である。未だ成長途中の、自我が芽生えて長く経過していない、無垢で柔らかで愛おしい存在。少女を一番最初に見つけたのはオランダ人ではなかったが、『台湾』が初めて認識した己以外の『国』は『オランダ』だった。そして未だに、『台湾』は『オランダ』以外の『国』を知らない。
話をせがまれて幾人かの名を告げることがあったので、『日本』や『中国』、『ベルギー』や『スペイン』、『イタリア』の存在は知っているが、それは記号的な認識であって面識があるという訳ではないのだった。台湾は島国であるから、海を鳥籠のようにして、『オランダ』は『他国』を遠ざけてきた。それを、幼い少女は知らないでいる。遠くないうちに知るであろうその事実を、どう受け止めるのだろうか。
けれどもその時にはすでに、『オランダ』は『台湾』に会えなくなっていることだろう。永久の別れではなくとも。それに近しい時の長さで。城壁から城の内部に下りて行く階段を下がって行くと、遠くの家の灯を見つめていた視線が『オランダ』の元へ戻ってくる。『オランダ』がこのデーランディアに籠城するのと時を同じくして、『台湾』もこの場所から外へは出て居なかった。それはこの地の化身である『台湾』が、『オランダ』の傍に居るということで表される現在の支配の象徴であり、また、降り注ぐ危険から少女を守る為でもあった。
『台湾』の意思、姿かたちは未だ幼く、己の身を守る術すら満足に身についてはいない。この地に足を踏み入れて三十七年。望んでそう留まらせたのは他ならぬ『オランダ』だが、もうすこしやり方があったのではないかと、今にして思う。
本国はあくまで台湾を植民地のひとつとして取り扱い、『オランダ』も『台湾』をそう扱った。搾取するだけで、都合の良いようにそうするだけで、本当の意味で与えたことは無い筈だった。三十数年そうしてきて、それなのに時折訪れる『オランダ』を、『台湾』はいつも満面の笑みで出迎えた。可愛がっては居たように思う。それでもそれは、犬や猫を、姿の可愛い小動物を愛でるくらいのもので、決して同じ存在として慈しみ、守り育てていたのでは無いのだった。
それを始めたのは、この城に来てからだ。奪われる危機感を前にして初めて、『オランダ』は『台湾』を慈しみ、育て、守り、愛した。その違いを今はおぼろにしか理解しないであろう『台湾』は、『オランダ』の手を離れてはじめて、それを理解する。『台湾』の心に去来するであろう感情は、どんなものだろうか。共に居られる時間は永遠に続かないのだと、改めて認識してはじめて。無垢な心に一太刀の傷を与えるような行いを。どう感じるのだろうか。それは記憶に残るものなのだろうか。
庇護された記憶も、慈しみの中で育てられた記憶もなく。気が付けば争いの中で、支配されながら存在を存続していく術だけを知り。幼い己の姿を記憶する者もいない『オランダ』には、分からないことだ。石造りの階段を下りきり、城内へと入る。城壁の端の小部屋とは違い、外気を遮断する為のしっかりとした扉は手首に重たく、どことなく憂鬱な様子で閉まって行く。この扉を開閉する回数も、もう多くはあるまい。
「……らん?」
「ん」
詰めていた息を吐き出すよう、緊張していた体から力を抜いて問いかける『台湾』は、言葉にされずとも感じるものがあったらしい。幼い腕を伸ばして頭を抱え込むように抱き寄せられ、『オランダ』は思わず苦笑した。髪を手が撫でる感触もあるので、これはどうも、慰められているらしい。らん、蘭、と不安定な響きで何度も呼びかけられて、『オランダ』は大丈夫だと言う代わり、『台湾』の体を強く抱きしめた。幼い体で柔らかい骨がしなるのに、『台湾』はぎゅぅと眉を寄せるだけで『オランダ』の行いを受け入れた。
「……煙草の匂いするヨ」
「嫌け?」
「蘭のならいいヨ。……蘭の匂い覚えたヨー」
肩にちいさな頭を乗せて、『台湾』は面白そうに笑いながら言った。何処に居ても、これのおかげですぐに分かるヨ。雨が降る前に会いに行けたヨ。『台湾』がそう言い終わるのを待っていたように、石を叩く雨粒の音が『オランダ』の耳に届き始める。それ以外の音を嫌がって塗りつぶしてしまいたがるような激しい雨は、すくなくとも今夜いっぱい途切れることがなさそうだった。雨が降るのを『台湾』が見たがったので、『オランダ』は暖炉のある温かな部屋に移動し、窓辺に毛布とクッションを敷き詰めてから少女をそこに下ろしてやった。
『台湾』は窓に両手と額を押し当てながら、海に還って行く雨粒を飽きもせず眺めている。なにがそんなに楽しいのか分からず、『オランダ』は『台湾』に手が届く位置に椅子を移動させ、腰かけて煙管に手を伸ばしかけて、止める。室内で吸わないと決めている訳ではないが、この城に立て篭もってから、『オランダ』は『台湾』の前で喫煙しないことにしているのだ。
それもまたくだらない、今更すぎる庇護のひとつだ。匂いを覚えてしまうくらい、すでに『台湾』は『オランダ』のそれに馴染んでいるというのに。それでも煙管から手を離し、『オランダ』は代わりに『台湾』に手を伸ばした。ぽん、と頭に手を置いて、そのまま指を滑らせて行く。皮手袋にやや絡みつくようにしながらも、黒髪はするりと指通りよく梳かれ、まっすぐな背を穏やかに打った。不思議そうに振り返った『台湾』は『オランダ』を見つめるが、言葉は生まれない。『オランダ』もただ無言で、『台湾』の髪を指で愛でていた。
雨の音がしている。『台湾』はぱちぱちと瞬きをして、服の袖を探った。やがてちいさな指が丁寧に包装された飴をつまみあげ、無心にそれをはがしていく。その包装紙に見覚えがあるのは、補給物資の中に見かけたからだろう。ほんの少しの数しかなかったそれを、公平に分配された己の分全てを、『オランダ』は『台湾』に与えていた。幼子のてのひらにころりと転がり出てきたのは、ラズベリーの色をそのまま宿した飴玉だった。『台湾』はその色や形を覚えたがるようにじっと見つめた後、指先でつまみあげ、『オランダ』に差し出して来る。問うより早く、『台湾』は唇を開く。硬質な飴より甘やかに色づく、無垢な唇。
「蘭。あーん」
なんの為にか溜息をついて、『オランダ』は口唇を薄く開いてやった。そっと差し出された指が隙間に飴を押しこみ、それだけで、すぐ離れて行く。手首を掴んで引き寄せ、柔らかな指に歯型を残せば『台湾』は確実に泣くだろう。泣かせんのは嫌やな、と一人ごちて、『オランダ』は『台湾』に目をやった。雨粒が落ちる海に視線を戻すでもなく、幼子は一心に、『オランダ』のことを見つめていた。
「……ええんか」
きっと、最後のひとつに違いない。『台湾』はこくりと頷いて、それからすこし、恥ずかしそうな笑みではにかんでみせた。
「蘭」
「ん?」
「煙草、吸わなくなった、ご褒美ヨー」
ごく冷静に、壁を殴れば落ち着けるかもしれん、と思い、そんなこともできないので、諦めて『オランダ』は『台湾』に手を伸ばした。右手を引き寄せ、手の甲に指先を触れさせる。ゆっくりと、書きつづったのは言葉だった。
「……J……e……?」
「……Maintiendrai」
途切れた言葉を引きとって告げれば、『台湾』はよく分からないと眉を寄せて『オランダ』を見上げた。オランダ語でもない、もちろん、台湾の言葉でもないそれを、理解できるだけの知識を『オランダ』は与えなかった。だから、分からなくて当然なのだ。分からせるつもりも、『オランダ』にはなかった。先程『台湾』がそうしたように、『オランダ』も問わせず、ちいさな手を口元に引き寄せる。軽く口唇を触れさせてから離せば、『台湾』はどこか、泣きそうな表情をしていた。
「蘭」
「ん?」
「蘭と、私……ずっと、一緒……?」
かすかに、震える声で尋ねられたのは、『オランダ』の記憶する限り初めてのことだった。触れられた手を己のもとに引き寄せて、そこに掠めた熱を決して逃がさないようにかき抱きながら、『台湾』は必死に『オランダ』を呼ぶ。
「……ねえ」
雨が降っていた。世界の音を塗りつぶしてしまうような激しい雨が。それなのに掠れたか細い声はハッキリと、『オランダ』の耳に届いてしまう。
「……一緒ヨ?」
「『フォルモサ』」
呼びかけに、びくん、と『台湾』は身を震わせる。それは驚くほど甘く低く響いた、優しい声だった。『オランダ』は『台湾』を一番初めに呼んだ名で引き寄せ、落ち着かせるように頭を撫でる。『フォルモサ』、それは、美しいという意味合いの。『台湾』という存在に宿った、もうひとつの名前。
「……覚えておき。そしたら、いつでも一緒やざ」
なにを。なにを覚えておけばいいのか、告げぬままの言葉は、『台湾』にはひどく苦しい。蘭、と『台湾』は『オランダ』を呼ぶ。苦しいくらいの力で抱きしめられて、いつもなら落ち着いてしまえる腕の中でも、そうならないことがあることを、知った。
「……でも、湾、蘭がいいヨー」
短い髪を指で掴んで引っ張りながら、『台湾』はなにも告げない『オランダ』に言う。
「蘭、らん……」
「……ん」
「湾ね、蘭がいいヨ。蘭と一緒に、ずっと」
ずっと、それは、いつまでの事だろう。『台湾』も『国』だ。己の姿かたちがここ三十数年、一向に成長しない理由をもう知っている。望んでしまってはいけないと、おぼろげに理解している。オランダは台湾から奪うだけ奪い、民が望むようなことはなにひとつ与えてなどくれなかった。それでも。『台湾』に飴をくれたのは、『オランダ』なのだ。見つめる『台湾』に『オランダ』は手を伸ばし、くしゃくしゃと髪を撫でてくる。
その感触をずっと、覚えていようと思った。雨があがっても、冬が終わっても、春が巡っても。煙草の匂いと一緒に、『台湾』は覚えていようと思った。たとえそれが本当は、いけないことなのだとしても。蘭、と『台湾』は『オランダ』を呼ぶ。雨音にかき消されてしまうような、ちいさな声しか出なかった。それでも『オランダ』は眉を寄せて、笑って。囁くような声で、『台湾』の耳元で少女を湾、と呼んだ。一月の終わりのことだった。
二月一日。ゼーランディア城は攻め落とされ、オランダは台湾から手を引いた。混乱のままに『台湾』は『オランダ』から引き離され、会ったこともない人々の前に連れて行かれ、我が祖国よと奉られた。人々は『台湾』を恭しく扱い、敬意を持って接し、そして幼子に『国』であることを求めた。柔らかな声で名を呼ぶ者はなく、脚に抱きつけばただはしたないと叱られる。涙を拭う優しい指も、へそを曲げて閉ざした唇に放りこまれる飴も、なくなってしまった。それなのに蘭、と『オランダ』を呼ぶことすら、『台湾』には許されなかった。
あれは搾取するだけの侵略者だったのだから、と教えられて、『台湾』は初めて納得したような気持ちで息を吸い込む。長身の男は台湾からなにもかもを奪って、そして一つも残してくれはしなかった。皆、みんな、海の向こうへ持って帰ってしまう。そしてもう二度と、戻ってきてはくれないのだ。指折り数えて待っていれば『オランダ』が訪れた日々は終わり、これから『台湾』は一人きり、ひとりの足で立たなければいけない。『オランダ』はその方法を、教えさえしなかったのに。温室の中で育てられた花より、『台湾』は世界を知らなかった。
己が守護する土地のことも、民のことも、育まれた文化すら、『オランダ』の方が詳しかったかも知れない。少女を祖国と呼んで敬う人々は、確かに『台湾』の愛しい民で血肉であると感じられたが、それを近しい存在として恋しがる為には時間が必要だった。『台湾』はあまりにも己が守護すべきものと引き離され、閉ざされて育てられすぎた。そうしたのは『オランダ』で、そうされたのが『台湾』だった。望んで身を置いた訳ではなかったが、その時間が続くことを少女は祈ってしまった。途方もない罪であったのだと、今更に思い知る。それでも、ただ、ただ恋しかった。突然に奪われすぎて、受け入れることなどできなかった。
過去を、そして『オランダ』恋しがって泣く『台湾』を、世話役の一人はあまりに不憫に思ったのだろう。彼女には『台湾』と同じくらいの娘がいたのだと、少女はずっと後になって知った。それは周囲の者に興味を持つ、ということが出来始めてからで、その時にはすでに、世話役の女は命を土地に還していた。泣き暮らす『台湾』にそっと耳打ちされたのは、今日という日に、『オランダ』が台湾から出て行くという知らせだった。それは『オランダ』と引き離されてたった九日後のことだったが、『台湾』にはゼーランディア城で過ごした九ヶ月より長い永遠の時のようで、そんなに長い時間があることを幼子は知りもしなかった。
無為に過ごしてしまった時の長さと尊さを、『台湾』はそこで初めて思い知る。己がなにも知らなかったことも。止めようとする者を振り切って走って、『台湾』が辿りついたのはあの日、『オランダ』を迎えに行った城壁の上だった。港へ続く道は姿を消した『台湾』を探しまわる者たちでいっぱいで、彼らの目を潜り抜けて行くことはできそうになかったからだ。また、考えているうちに時間が立ち過ぎて、出発の時刻はとうに過ぎてしまっていた。
かけのぼった城壁の上から、海の向こうへ消えて行く船影が見えた。遠すぎて、船の形すらよく分からない。声が届かないと知っていて、『台湾』は『オランダ』の名を呼んだ。
「蘭! 蘭、蘭! らん! 蘭っ、蘭……!」
ん、と首を傾げて、しゃがみ込んで視線を合わせてくれるのがとても好きだった。それを好きだということに、初めて気がつく。近くに行くと漂ってくる煙草の匂いも、いつの間にか大好きになっていた。抱きしめてくれる力は強くてすこし痛かったけれど、それでも『オランダ』は一度も、『台湾』を傷つけようとはしなかった。声を荒げられることはなく、手で打たれることさえ一度としてなかった。
「蘭……!」
喉が痛むほど、声が枯れるほど叫んでも。返事が返って来ないなんてことは、一度もなかった。一度目が訪れることなど、考えもしなかった。それなのに、何度呼んでも呼び返されない。砕け散る波の音と、どうしようもない空白ばかりが広がって行く。
「嫌だヨ! 蘭、嫌! 会いたいヨ……!」
船影がどこにも見えなくなって、『台湾』はその場にしゃがみ込んでしまう。ずっと一緒と言ったのに、お願いしたのに、居なくなってしまった。そしてもう、二度と会えない。衝動的な考えを頭を振って否定して、『台湾』は告げられた言葉を必死に思い出し、唇に乗せる。一度聞いたきりの響きを、かき集めて。
「Je……Main、tiend……rai」
意味は知らなかった。聞かなかったし、聞いていたとしても『オランダ』は教えてくれなかっただろう。それは秘密めいた毒のある甘さで心に染み込み、少女の涙を吸い込んだ。悲しみも、苦しさも、言葉と共に封じ込められていく。繰り返せば言葉は毒のように苦く、甘露のように舌に馴染んですうと消えて行った。息を吸い込んで、立ち上がる。足元はふらついたが一人で立ち上がり、『台湾』は一歩を踏み出した。
その手を引く者はなくとも。その名を呼ぶ者がなくとも。一人で歩いて行けるような、そんな気がした。