花の香りを運ぶ風が吹いたので、『中国』の集中は途切れてしまった。例え十五分も前から目が文字を拒絶して文面でのたうち回っていたとしても、とりあえず直接の原因は風のせいである。そういうことにしておこう、と思いながら面白げに口元を綻ばせ、『中国』は視線をすいと泳がせた。ある者は王朝時代で時が止まっているようだと言い、ある者はこの国が辿った歴史の欠片が降り積もったようだと囁く古風な室内に変わりはなく、視線は中庭に向かって開け放たれたちいさな窓に引き寄せられる。遠くに一つだけ浮かぶ雲の白さと透き通るような空の青さは、今日が気持ちの良い快晴だと告げていた。
何処からか鳥の鳴く声が聞こえるのは、花の蜜を吸いに来ているからだろう。再び、柔らかい風が吹く。意識の奥まで香りを吸い込んで、『中国』はああ、と目を和ませた。梅の花が咲いたのだ。窓に寄って顔を出すと、なるほど、すぐ近くに植えられた梅に、紅い花が鈴なりに咲いている。戯れに手を伸ばせば、指に触れた花はころんとがくから零れるようにてのひらに落ちたので、『中国』はそっと口元に引き寄せた。口唇を触れさせて愛でれば、春の香気が身の内に染み込むようだ。小皿を水盆代わりに机に置こうと思いながら身を反転させると、そこでちょうど書類を手に、室内に入って来た青年と目が合った。
これが『国』の傍付きとして働く者であったなら無視しても全く問題はなかったのだが、青年は育て親に似てしまった凛々しい眉をぎゅうと寄せると、紅い衣を翻して歩き、わざとらしい大きな音を立てて書類を机に置いてしまった。その間、重ねられた視線は執拗にそのままで、外されようとはしない。『中国』はふむ、と考え込みながら口元に指先を押し当て、可愛らしい仕草で首を傾げてみせた。青年の眉がますます寄せられる。側近にはわりと好評の仕草なのだが、彼にとっては忌々しいだけらしい。可愛くない的な、と呆れかえった声で呟かれるのに、『中国』はわざとらしくあくびをしてみせた。
「ふあああー、眠たくて聞こえなかったある。今なんて言ったあるか、『香港』?」
「……先生、可愛いって言われてまさか嬉しい的な」
どん引きの表情で『中国』を見てくる『香港』は、わりと本気の表情をしていた。上半身もわずかに反らされているので、心の底から引いているらしい。それでも視線はまっすぐに重ねられたまま逸らされず、瞳の奥の凪いだ真剣さはかき消えることがなかった。隙をついて小皿を探しに行くことはできないだろう。まったく、なんて面倒くさい育て方をしてくれたのか。『香港』の眉毛を凛々しくした張本人の頬を心の中で思うさま張り飛ばし、『中国』は諦めて机にゆるりと歩み寄る。
「冗談あるよ、冗談。まあ、言われて悪い気はしねえあるが」
コツ、コツ、ゆっくり靴を鳴らして執務机に戻って行く姿を、『香港』は注意深く見守った。突然方向転換して、ちいさな窓からアクロバティックな動きで脱走した前科を覚えているからである。『中国』はつきまとう視線を顔の前で散らしたがるよう手を振りながら、まったく、と苦笑して椅子に座る。
「逃げねえある」
「先生の傍付きのひと、『って言ってたから信頼して一時間くらい目を離してたら忽然と姿を消してたんですよ! 俺は! もう! 祖国を! 信頼! しま! せん!』って、こないだ号泣してましたけど」
「アイツ涙腺弱いある」
すぐ泣くあるよ、とごく真面目な顔をして頷く『中国』を眺め、『香港』はなぜ己が手伝いに呼ばれたのかを悟った。『中国』の傍付きの青年は極めて有能だが、それであるが故に、時々倒れるのだ。胃痛で。今回は『中国』が主催の国際会議を三日後に迫った手伝いの要請だったので、なにかあるとは思っていたのだが。大方、多忙を極めている最中に仕事で煮詰まった『中国』が監視をかいくぐって脱走したのに耐えかねて、口から血でも吐いて動かなくなったに違いない。想像はひどく容易かった。よくあることだからである。
それでも青年は一週間程度で不死鳥のように舞い戻ってきては職務に復帰し、『中国』もそれを嬉しそうに受け入れるのだから、これは変則的な愛なのかも知れなかった。人が『国』へと捧げる愛。『国』が、人へと向ける愛。あるいは、献身。それを青年に聞いたが最後また血を吐かれるか号泣される気がしたので胸に秘め、『香港』はさて、と呟いて椅子に座り直し、新しい書類の一枚を手に取った『中国』を眺める。そういえば、手伝いに来てからまだ数時間ではあるものの、恒例のどこに行きたいなにが食べたいもう嫌ある我遊ぶある、の駄々をこねられていないと気がつく。
さすがに反省しているのかも知れなかった。『香港』はなにも言わずに机の端に置かれた紅梅の花を見つめ、庭のですよね、と問いかける。よく晴れた天気を喜ぶ微風は断続的に吹いていて、『香港』の鼻先にも春の香りを届けていた。よく手入れの成された万年筆で名を書きこみながら、『中国』はそうあるよ、と目を穏やかに細めて囁いた。それは春を喜び、庭を誇り、四季のめぐりを愛するうっとりとした声で。世界に、国土に捧げられるこの愛を傍で聞くことも一つの理由として、あの青年は仕事を辞めないのではないかと思いつつ、『香港』は口を開く。
「じゃ、これ、水盆かなんかに浮かべてあのひとに届けてやったらどうですか。お見舞い的な感じで。先生はどうせ忙しくて顔も見に行けないだろうし、行ったとしても私の顔を見に来る時間の余裕があるんだったら我が国家の為に働いてくださいお願いします、とか号泣されるに違いないし?」
「……アイツ可愛くないあるねー」
遠い目をして息を吐く『中国』は、己の側近であるからこそ、なお想像に難くなかったのだろう。万年筆の背を歯で食みながらちらりと視線を花に向け、『中国』はまぁったく、とつまらなさそうな声で唇を尖らせた。
「どうしてあんなに胃が弱いコに育っちゃったあるか」
「どう考えても先生のせいじゃね?」
「我は上司として胃薬調合してやってるある」
その前に素行を見直すという重要な段階がある筈なのだが、『中国』の笑顔はまっすぐだった。自分に非があるとは思っていないのだろう。ダメだこの先生はやくなんとかしないと、と心底思いながら適当な返事を返し、『香港』は手早く処理されていく書類を受け取り、提出部署ごとにまとめて行く。『国』の仕事自体は『香港』にもそれなりに発生するものだからどうすればいいのかは理解しているし、なにより『イギリス』の手伝いで作業自体は慣れているものだ。
『中国』の側近が倒れて呼び出されるのも、今にはじまったことではない。携帯電話が普及してから、回数としては増えている。溜息をつきながら新たに一枚を受け取り、ふと文面に視線を落として『香港』は息を飲んだ。書類の上部に記載されていた日付は昨日のものであり、印刷された全体の形式が、それが『国』に対して一律送信されたメールであることを示している。緊急の知らせではあるが、重要なものではない。閲覧と返事の時間が取れないから返信すんなある、と一行目に書かれ、二行目にはごく簡素にし明後日から始まる会議のことが書かれていた。その会議に、『台湾』が同行する。そのことを知らせるメールだった。重要度としては低いものだからか、『香港』はそのメールを見落としてしまっていた。
あるいは『中国』も、それを狙って重要だとは記さなかったのかも知れない。一枚を受け取ったまま動きを凍りつかせてしまった『香港』をちらりと眺め、『中国』は運び込まれた仕事の最後の一枚に名を書き記し、万年筆のキャップをかぶせてしまった。投げ出された万年筆が、ころころと転がり、机の中央付近で止まる。
「きまぐれあるよ。意味も理由もない、ただのきまぐれある」
「……でも、湾は今まで全体会議には」
「確かに、今まで『台湾』を亜細亜より外の『国』が集まるような会議には連れてったことないあるが……今回は復帰が間に合いそうにない。ただの秘書代わりある」
少女を『台湾』ではなく、湾、と個人を示す名で呼んだ『香港』を咎めるでもなく、『中国』はのんびりとした口調で言葉を並べた。理由がない、と告げた次にすぐ秘書代わりと行った『中国』の真意がどちらにあるのか、『香港』にはよく分からない。それでも今まで理由があって、『台湾』が国際会議に姿を現していなかったことは知っている。今回のように傍付きの青年が倒れてしまった時、秘書の役目は『香港』に与えられていた。
『香港』は正式な『国』とは僅かに立ち位置を異ならせる。故に大体の場合、会議に姿を現しはするものの、会議室には入らず、控室で『シーランド』の子守りをしながら過ごしているのだった。『香港』は会議場に立ち入ることが出来る。それは国際的にも独立都市として認められている『香港』だからであり、微妙な立場であり続けている『台湾』とは違うのだ。『台湾』を『中国』が連れて行くのなら、そこになんの意味も無い訳がない。きまぐれである筈がないのだ。向ける視線に厳しい色を乗せて問いただす『香港』に、『中国』はゆるりと息を吐きだした。本当に、と言葉が紡がれる。
本当に、ほんとうに、深い意味はないあるよ、と。竹林を、葉を涼しく鳴らしながら渡って行く風のような声で、『中国』は囁いた。
「なに企んでる訳でもねえある。場所が場所だから『中国』が『香港』を連れて行く形になるだけで……我が、連れて行くあるよ。王耀が、湾を、連れて行くある。意味は分かるな? 香」
それは『国』ではなく、あくまで『個人』としての行いなのだと告げられて、『香港』は返す言葉を見つけられずに沈黙した。『中国』がそうするだけの理由が、分からなかったからである。確かに耀は湾を実の娘のように可愛がっているが、それはそれ、これはこれである。国家としての両者は複雑で、長く『中国』の元を離れていた『香港』には理解しきれないことも多いが、ひとつだけ分かっていることがあるとしたら、愛情と憎しみが混在しているということだけだ。どの『国』の間にも、それはあるように。『中国』と『台湾』の間にもそれはあり、そして耀と湾の仲にも存在している。
無言で、なにかを否定してちいさく首を振る『香港』を理解した目で眺め、『中国』はそぅっと息を吸い込んだ。
「難しく考えるでないよ、香」
「……そんなこと言われても」
「あー……なんあるか、その、こう言えば分かるあるか? この間、日本でうさこちゃん生誕五十五周年記念展示だったか、やってたある。覚えてるあるか?」
『香港』は即座に、口が糸で縫いつけられたように×の形をしているうさぎを思い浮かべた。
「あれっすよね。ミッフィーだかナインチェだか言う名前の」
「うさこちゃんある。その、うさこちゃん特別展示に、湾は菊と一緒に出かけたあるね」
「……それが?」
その一件はとてもよく覚えているのだが、それまでの話と関連性があるようには思えなかった。自然と『香港』が不機嫌な顔つきになってしまうのに苦笑して、『中国』はそれが原因で、と言い放った。
「湾がホームシックをこじらせたある」
「……は?」
「湾を、『台湾』を、いちばーん最初に支配した『国』は『オランダ』あるね。うさこちゃんの故郷はオランダあるから……湾、うさこちゃんと一緒にお家帰るって言い張られたね」
深々と溜息をつきながら『お前のお家は台湾と呼ばれる区域あるよー』と灰色の声で呟く『中国』に、『香港』はしみじみとした気持ちで頷いた。軽い幼児退行を起こしたくらいでねじ伏せられる相手ではないので、相当『台湾』はごねたのだろう。もしかしたら、今回の側近の体調悪化の一因は『台湾』なのかも知れない。他にどうしようもなかったんですね、と確認口調で問いかけた『香港』に、『中国』はげっそりとして頷いた。
「ほんっとうに他にどうしようもなかったあるよ……」
「つーか、それってホームシック違くないですか? 遠距離片想いに耐えきれなくなっただけくね?」
彼の少女が『オランダ』に長年恋焦がれているというのは、亜細亜の中では公然の秘密である。『香港』が意思を得た時にはすでにそうで、『イギリス』の元に行く時もそうで、帰って来てからもそうだったので、その想いは筋金入りだろう。それなのに『台湾』は支配者をくるくると入れ替えた歴史と、近代における立ち位置の不安定さから己の土地から滅多に離れることを許されず、『中国』の手の中で『国』の目から隠され続けたのである。屋敷の奥に閉じ込められ続けた深窓の令嬢が、恋を原動力に親に反発し、家出してやると叫んで恋焦がれる相手との面会を漕ぎつけたようなものだった。
よくある話である。そう考えれば、別に不思議でもなんでもないのだった。告白すんのかな、と暢気に考える『香港』に、『中国』はそれらを考えたくないと言わんばかりの態度で首を振った。
「……ちょっとホームシックがこじれてるだけある。会えば落ち着くに違いないある」
「せんせ、往生際悪いっすよ? 湾がちゅーりっぷさん好きなのなんて、ずーっと前からのことじゃないですか?」
「我は認めねえあるよー!」
その叫びは、『香港』には『お父さんは許しませんよー!』と聞こえたが、間違ってはいないだろう。きっと菊に聞いたとしても、ごく遠回しに穏やかに、同じ内容の言葉が返ってくるに違いなかった。それとも鎖国時代に彼の国とだけ交流があったと聞いているので、また違う想いがあるのだろうか。『香港』は『国』であるが、彼らより短い時しか生きておらず、複雑な関係性をこじらせたこともない。幸いなのか、不幸なのかは分からないままだが、これからもきっと平穏なままだろう。
『香港』は溜息をつきながら机の端の紅梅をそっとつまみあげ、てのひらに乗せて部屋を出て行った。物置にでも行けば、手ごろな大きさの水盆があるだろう。それを持って、青年のお見舞いに行くつもりだった。これはぜひとも話しておきたい。結果、青年の体調が悪化するか回復するかは、『香港』の知った所ではないのだけれど。ほくそ笑む口元を、ふわりと風が撫で過ぎて行く。春の香りを乗せて、大気を華やかに染め行くようだった。
今回の会議開催場所として選ばれたのは、繁華街にほど近い高級ホテルの高層階だった。最初『中国』は繁華街のど真ん中のホテルを選ぼうとしたのだが、ただでさえ時間にゆとりを持ちすぎて行動する者が多いので、それは危険すぎると徒歩十分程で中心地に付く場所に変更になったのだった。ぶ厚い硝子造りの扉はドアマンが開閉を行っていて、黒塗りの高級車が次々と止まっては、『国』を置き去りに何処へと去って行く。訪れるのは『国』ばかりではなかったが、大体がその傍付きや護衛などで、一般は遠ざけられているようだった。
慣れ親しんだ、自然に不自然な隔絶を受けた空気に包まれながら、『オランダ』はロビーの一角に佇み、車と人が行き気する光景を眺めていた。視線は時折彷徨ったが、結局エントランスに戻され、多く離れることはなかった。会議場の三階まで吹き抜けになったロビーは中央に噴水があり、周囲を瑞々しい花と緑が取り巻いている。目と気分を楽しませる為の趣向はここが室内であることを忘れさせてしまうような開放感を演出していたが、『オランダ』の気分はどこか塞ぎこんだまま、華やかにもならないし浮つきもしなかった。
視線の先でまた一台、黒い車が停止する。現れたのは『ベルギー』だった。『ベルギー』は肩の露出したオレンジ色のカクテルドレスを着ていて、薄い白いボレロを羽織っていた。足元は細いヒールの靴だったが、『ベルギー』は不安定な足元を感じさせない機敏な身のこなしで車から降りると、危なげもなくホテルへ入ってくる。会議に出席するには華やかすぎる格好だが、今回の女性陣は誰もかれもがそのような服装だったから、特に目立ちはしなかった。今日は数日間に渡る会議の初日で、執り行われることと言えば顔合わせと自己紹介と最近の情勢についての意見交換という井戸端会議を経ての、夜会である。顔も名前も嫌という程知った相手ばかりだから、心持ちとしては国際会議に出席するというものではなく、夜会前のちょっとした時間つぶしくらいなのだろう。
平和になったものだ。しみじみと思っていると、きょろきょろと落ち着くなく辺りを見回していた『ベルギー』と視線があった。女性はどうも、兄を探していたらしい。明るく人懐っこい笑みを浮かべてやってくるのに、『オランダ』は壁から背を離して出迎えた。『ベルギー』は礼儀正しくおはようを口にした後、勝手知ったる態度で『オランダ』の隣に立ち、寸前まで男がそうしていたように、壁に背を預けてしまった。『オランダ』の手を引いて会議場に向かうだとか、あるいはラウンジで休憩したがる様子もない。『ベルギー』の視線は興味深そうにそこから眺められる景色、車が入ってくる出入り口に向けられた後、しぶい顔をしている『オランダ』へ戻って来た。
「おにいちゃん」
「なんや」
「何年ぶりやの?」
視線が合った瞬間から、隣に並ばれた時から、そう聞かれることは覚悟していた。『台湾』が来るというのはあまねく全ての『国』に対して連絡された事実であり、『ベルギー』は『オランダ』がその存在を慈しんでいたことを知っているのだから。なんとも言えない表情で視線を下ろすと、『ベルギー』は害意のない子猫のような顔をして、問いの答えを待ちながら首を傾げてみせた。にこにこにこ、と笑われて、『オランダ』は深々と息を吐き出す。昔から、この妹のおねだりめいた笑みに勝てた試しがない。まあ、笑顔を向けるような関係にまで仲を修復できたのだから、喜ぶべきではあるのだ。
過ぎた日を数えながら考え、途中でそれを放棄して、『オランダ』はゆるく首を振った。
「分からん」
「んー、四百五十年くらいやな」
「……ベル」
溜息混じりの剣呑な呼びかけにも、『ベルギー』は視線でくるりと円を描き、楽しげに笑うだけだった。隣国で、そして兄妹なのだ。これくらいの威圧で怯えるような仲でもなく、そうしていた時期はもう遥か遠くの過去である。怖くないわ、と肩を震わせて笑えば、『オランダ』は気まずげに手を伸ばしてきた。ぽん、と窘めるように頭に触れて離れて行く手のひらは、叩いたにしては優しすぎ、撫でたにしては甘すぎた。
くすくすと肩を震わせながら、『ベルギー』は諦めて壁に背を戻した『オランダ』の横顔を見つめた。いつもより険しい顔つきに見えるのは、緊張しているからだろうか。可愛い所もあったものやわと思いつつ、指摘しないのは、そうしていい雰囲気ではなかったからだろう。時間はゆっくり、それでいて確実に過ぎて行く。会議開催まで一時間を切ったことを確認する『ベルギー』の隣、『オランダ』は懐から煙草を取り出し、ライターで火をつける。溜息と共に吐きだされる白煙を手を振って散らし、『ベルギー』は滑り込むようにしてやってきた数台の車を見つめる。もしかして、あの車だろうか。
視界の端に、『オランダ』が携帯用灰皿で煙草を揉み消す仕草が見えた。
「ベル」
呟きは唐突で、動きは予測出来ないものだった。ぱっと投げつけられたそれを胸で受け、『ベルギー』は目を瞬かせて『オランダ』を見る。やけに首元がスッキリしていると思うが、それもその筈で、普段そこに巻かれているマフラーは『ベルギー』の手元にあるのだ。煙草の匂いが染みついたマフラー。なんやの、と眉を寄せる『ベルギー』に、『オランダ』はトントン、と己の肩辺りを叩く。
「肩出過ぎや。それも羽織っとき」
「ボレロ着てるやないの」
「布が薄い。駄目や」
透けている程ではないのだが、うっすらと肌が見える薄手の生地は『オランダ』のお気に召さないものらしい。もおー、と脱力しながらもマフラーを羽織り、『ベルギー』はげっそりした顔で『オランダ』を仰ぎ見る。
「おにいちゃん、過保護やわ」
「ほっとけ」
「終わったらパーティーやもん。これくらいは普通なんよ?」
流行よりは大人しいもんや、と言い募っても、それくらいは『オランダ』も知っているに違いない。気のない頷きでいいから、と受け流されるのに溜息をついて、『ベルギー』はマフラーに頬を寄せた。煙草臭い。本数を控えなきゃあきまへん、と口がすっぱくなるほど言っているのに、全く要望は聞き入れられていないようだった。視線の先で、車がどこかへ去って行く。降りてきたのは、待ち人ではなかったようだ。
「……どんな子やろ」
多くの『国』と同じように、『ベルギー』は『台湾』の姿を知らない。ただ、経済の発展という面において、少女は『日本』に導かれたと聞くから、時間にきっちりした性格であることは間違いがないだろう。ふと視線を動かして探すと、『日本』はラウンジの片隅で新聞を広げていた。『ベルギー』が到着する以前からそこでニュースに目を通していたという想像は容易く、だからこそ不思議な気持ちで時計をもう一度確認する。ちょうど、長針が動いた所だった。会議開始、四十五分前。隣で、息を飲む音がした。ごく自然に『ベルギー』はホテルの出入り口に視線を向けて、そして、同じように息を吸う。
黒曜石だ。反射的に、なにを理解するより早く、そう思った。それは艶やかに磨き上げられた黒曜石のようだった。それでいて印象は硬質ではなく、ひとつの奇跡のように瑞々しく柔らかい。咲いたばかりの花のようだった。その少女の名を、すぐ思い出せる。そうだとすぐ、『ベルギー』には分かった。『台湾』。美しい、という意味の別称を持つ、島国の少女だった。
鏡に映る自分の姿が今日に限ってどうしても気に入らなくて、納得できなくて、用意しておいた服を下着から変えて化粧をし直して、髪を梳かして髪飾りを付け替えて、それでも受け入れることが出来なくて泣きそうになった所で、焦れた『中国』にいい加減にするあると腕を引かれ、『台湾』は会議場にやって来た。無理矢理に乗せられた車で、『台湾』は何度も何度も桃の花飾りに手をやっては位置を直し、外しては付け直し、気に入らなくては外し、そしてまた付けるという行為を繰り返した。
とっさに手に忍ばせた鏡では小さすぎて、なんの役にも立たなかった。『中国』はやや呆れた眼差しで朝からずっと狼狽している『台湾』を見たものの、深い溜息をついただけで、珍しく小言を口にしない。なにを言っても利きはしないし、聞こえもしないと分かっていたのかも知れない。車窓の景色は変化し続け、ついに会議場となるホテルが見えてくると、『台湾』はいっそ絶望的な表情で手鏡を手から滑り落としてしまった。どうしよう、どうしよう、とその言葉だけがぐるぐると胸の中で回り続け、吐きそうなくらい気持ちを圧迫している。
会議に着いてきても良い、と許可を下されてからずっと。その会議に『オランダ』も居ると教えられてからずっと。数日前から、昨日の夜から、今日の朝から、ずっとずっと。きっかけになったのは日本で行われたとある展示会だが、それがなくとも、本当はずっと、落ち着いてなどいなかったのかも知れない。髪飾りひとつ、上手に付けることができないなんて。どうすれば落ち着けるのか思い出せない。落ち着く、ということがどういうことだったのか、思い出せない。分からない。
『台湾』は、ただ、『オランダ』に会いたいのに。会いたかったのに。ずっとずっと会いたくて、それなのに、こんな風では瞳に映されたくなくなってしまう。とびきりの、一番の、最高の姿で、どんな女の子より可愛らしく笑って、その前に立ちたいのに。そう思い続けてきたのに。その時が今、ようやく巡って来たのに。緊張で指先が冷たく強張るのに、全身がずっと細かく震えている。会いたいのに、会いたいのに、会いたいのに。会いたくなくて、怖かった。なんで会いたくないのか、なんで怖いのかは、馬鹿らしいくらい鮮明に理解している。嫌われたくないからだ。呆れられたくないからだ。あの時別れた永遠のままが良かったと、思われたくないからだ。
車のスピードがゆるゆると落ちて行く。このままでは車の中から出たくない、と言い出しかねない『台湾』を見やり、『中国』は深く息を吐いた。流れるような動きでちいさな手鏡がつまみ上げられ、少女の強張った指に握らされる。ぐいと顎を掴んで顔をあげさせて、『中国』は『台湾』を睨むようにすらしながら、きっぱりと言い放った。
「ちったあ落ち着くある。髪飾り程度で、お前の魅力は変わったりしないあるよ」
「……せんせには分からないヨー」
この反抗期娘が、と言わんばかり『中国』の眉が吊りあがった。『台湾』は顎を掴んだままの『中国』の手を外そうとするが、緊張で強張り過ぎて疲弊した指ではどうにも上手く行かない。ぐぅ、と泣きそうに表情が歪むのを呆れかえった表情で眺め、『中国』はまったく、と呟いて『台湾』の髪から花飾りを外してしまった。
文句を言わなかったのは、『中国』の仕草があまりに優しく、そして素早かったせいだろう。さらりと一筋を指で梳り、『中国』はそれなりに慣れた仕草で『台湾』がいつも付けている辺りに、桃花の髪飾りをつけ直してやった。ぽん、と前髪の付け根あたりを撫でた指は、そのまま頬に滑らされる。
「……落ち着くある」
ほんのすこし、困ったような。それ以上はどうしてやることもできないのだと、苦く告げるような。苦しげな表情を声を見るのは久しぶりで、『台湾』は喉に言葉を詰まらせてしまう。『中国』はこういう時に限って『日本』は傍に居ないある、と愚痴るような呟きを発しながら停止した車の外に出て、『台湾』に向かって出て来いと言わんばかり、てのひらを差し出した。その手を取らないことだって、『台湾』には出来るのだ。いつでも。今も。それでも『台湾』は『中国』の指を握るようにして手を重ね、車から降りて立ち上がった。
手は、少女の冷たく強張った指を温める時間だけ繋がれ、すぐに離される。
「さて、我は準備があるからもう行くある……が……。……『台湾』」
どうしたある、と問われた声はあまりに強張っていた。離された手を見つめた『台湾』の表情が、今にも身を投げそうなくらい追い詰められていたからだろう。少女は指先を震わせながら目の高さまで持ち上げ、爪先を凝視して首を振った。
「マ……マニキュア、剥がれちゃったヨ」
「……ほんのちぃーっとある」
どんなに精密に測っても一ミリもないだろう。それは薄く、薄く引かれた線、あるいは点にすら近く、言われて凝視して初めて分かるくらいのものだ。『中国』の呆れかえった慰めの言葉に、しかし『台湾』は首を振り、せんせはなにも分かってないヨ、と息を吸う。
「湾」
それなのに、零れ落ちたのは違う声だった。その声に、意識全てが引き寄せられる。そんな気持ちで顔をあげる。会えなかった歳月は、人の身なら永遠の別れを繰り返しても足りない長いものだった。重なった視線に、時が止まる。目が合った瞬間瞳の間にあったのは、確かにか細く繋がっていた、一欠片の永遠だった。それをなんと呼ぼう。
「……らん」
「ん」
「蘭。……らん、蘭? 蘭っ?」
問いかけてしまったのは、頷いて欲しかったからかも知れない。疑う余地など何処にもなかったからだ。『台湾』はゆっくりと歩み寄ってくる『オランダ』の名を、少女に許された呼称を、幾度となく唇に乗せて囁きかける。舌はまだその響きを覚えていた。
「湾」
耳は、その囁きを思い出した。蘭、と『台湾』は呼ぶ。あの日隔てられたままの永遠が、もうすぐそこにあった。
「すぐ、分かった……?」
男の膝をすこし越える程度でしかなかった背丈は、年頃の少女らしく伸びている。手足も長くしなやかに、体はまろやかな曲線を描きだして、まるで別物だ。それでも『台湾』の頭は『オランダ』の胸辺りにしかないから、少女はぐっと踵をあげ、顔をあげて男を見た。男らしい、端正な甘い顔立ちが笑みに緩む。
「……間違えるわけ、ないやろうの」
腰を支えるように回された手が『台湾』を引き寄せ、背伸び止めや、と促される。くやしく思いながら踵をつけると、それなのに変わらない顔の近さに気がついて、『台湾』は息を吸い込んだ。する、と腰から離れた手が、髪に隠れた首筋をトントン、と叩く。顔もあげなくていい、ということだろう。おずおずと視線の高さを床と水平にすると、『オランダ』はその動きに合わせて、場に両膝をついてしまった。すこし顎を引いて視線を重ねながら、『台湾』はそっと、体の後ろで手を組んだ。
「ホント……? 嘘つく、いけないヨ」
「湾」
そう呼んだやろうの、とやんわり咎められて、『台湾』は頷いた。うん、とか。はい、と答えた方が良いことは分かっていても、その言葉は思い浮かぶのに、どう口にしていいか分からなくなる。言葉は、どうすれば話せるものだっただろうか。息を吸い込んで、それから、そこから、もうよく分からない。蘭、とちいさく『台湾』は呼んだ。その名だけは、どうしてか唇が覚えていた。それでも一回、そう呼んだだけで、言葉が出なくなってしまう。狼狽する『台湾』に苦笑して、『オランダ』は少女に手を伸ばした。まっすぐに下ろされている髪を一筋、指に絡めるようにして撫でる。
ああ、と『台湾』は胸中で息を籠らせる。きっと『オランダ』は知らない。けれど、知らないままでいい。その仕草で、千回。梳った祈りが、報われたことなど。
「久しぶりやざ、湾」
「らん……」
「泣くことなんぞ無いやろうの」
髪を流れるままに開放した指先が、そのまま『台湾』の頬に押し当てられる。指先が目尻を掠めて行って、『台湾』はふるりと首を振った。あまり触れないで、と願う。頬の熱さが伝わってしまうから。
「泣いて……ない」
「ほーけ」
「そうだヨ。泣いてないヨ。……蘭、服、汚れる」
たどたどしく、ようやく言葉を繋いで、『台湾』は跪く『オランダ』の足元を見つめた。ホテルの床は輝くほど清潔に清掃されているが、それでも汚れない訳ではない。
「蘭、立って、大丈夫」
「……嫌やざ」
「蘭、らん!」
どうしてそういう、イジワルいうの、と呟いて、『台湾』は背中で組んでいた指を外し、『オランダ』に手を伸ばした。男の肩に両手を乗せるようにして、服を掴んでぐいと引っ張る。当然、体格の良い男を持ち上げることなど叶わなかったが、意図は伝わるだろう。それなのに『オランダ』は甘く目を細めて笑うだけで、力のこもる少女の細い腕に、手袋ごし、指先を這わせるだけで立ち上がろうとはしなかった。
「腕、痛めるやろ。止めえ」
「蘭が、素直に立ってくれたら良いんだヨ……!」
「素直に諦めたらええ」
しれっとして言う『オランダ』はあまりに『台湾』の記憶していた男そのもので、指から力が抜けてしまった。湾、と不思議がって名前を呼ばれるのに、頷くのが精一杯だ。『オランダ』は少女の顔をじっと見上げた後、中途半端に立ち上がるようにして身を起こし、『台湾』の頬に口唇を掠めさせる。泣くんやない、と言い聞かせられて、『台湾』は何度も何度も頷いた。『オランダ』はそのまま立ち上がり、高い位置から『台湾』の頭をぽんと撫でてくれた。
「会議には出られんか?」
「……うん」
「そーけ。……ああ、どこやったかの」
考え込む素振りを見せながら、『オランダ』は服のポケットをぱたぱたと叩くようにして探った。そうして見つけ出された目的のポケットから、手袋に包まれた指先が摘み出したのは素朴な包装がなされた飴だった。世界的に主流となった透明なセロファンではなく、ロウ引きの白い紙に丁寧に包まれた飴をいくつもいくつも、『オランダ』は『台湾』のてのひらに与える。それは雨のように。ぱらぱらと、少女の肌を打った。
「あと、これやな」
一際ふくらんでいたポケットから取り出されたのは、『台湾』のてのひらとちょうど同じ大きさのうさぎの人形だった。口が×になっている特徴的なそれは、『オランダ』を代表する絵本のキャラクターだ。良いこで待っとき、と髪をひと撫でされながら囁かれて、『台湾』はゆるむ頬をぐっと引きしめ、唇を尖らせて『オランダ』を見た。嬉しくない訳ではない。けれど、嬉しがっていると思われるのは、あんまり幼いような気がした。
「私、そんなこどもじゃないヨ」
てのひらいっぱいに落とされた飴から、ラズベリーの香りが漂ってくる。それは昔『台湾』が好んでいたもののひとつで、『オランダ』から与えられたものだった。男は幼子を無条件に甘やかすことはしなかったが、それが必要な時に躊躇うようなこともしなかった。例えば、まだ難しすぎるような話と退屈から『台湾』を遠ざけてくれる時。例えば、『台湾』の耳に入れたくない国際情勢が語られる場から遠ざけられる時。例えば、戦いに出る前に安全な場所に避難させられた時、帰ってくるまでのお守り代わりのように、時間稼ぎのように。飴は与えられて、『台湾』はそれを複雑に感じながらも、嬉しく受け取っていた記憶がある。だからこそ、意味は明白だ。
出られない会議が終わるまでの長い時間、それで暇をつぶして居ろ、ということだ。当時はなかった人形が与えられたのは、オマケのつもりか分からないが、どちらにしろ年頃の外見をした少女にふさわしいものではない。不服げに睨みあげてくる『台湾』に喉の奥で低く笑い、『オランダ』はゆるゆると、目を細めて囁いた。
「そうやな。……ちょこっと育ったみたいやざ」
そう言いながらも、ぽんぽん、と頭を撫でて立ち去って行く仕草は悔しいくらいに記憶と一致して、だからこそ習慣めいた一途さで、『台湾』に『オランダ』の背を追わせはしなかった。視線だけで追いすがるように見送っていると、『オランダ』は呆れ顔をして立っていた『ベルギー』に近寄り、一言、二言なにかを指示して立ち去って行く。それが会話ではなく指示だと分かったのは、呆れ顔を濃くした『ベルギー』がひょいと肩をすくめた後、足早に『台湾』に歩み寄って来たからだ。
そこで初めて、『台湾』はこの場に己たち以外の『国』が集まっていることを自覚した。ざっと血の気の引く音がしたが、小言を重ねそうな『中国』はエントランスを共にくぐった時点でとっくに傍から居なくなっており、親しい亜細亜の『国』たちの姿も見当たらない。柱時計に目を向ければ会議開始時間までもう間もなく、ギリギリまで『オランダ』が『台湾』に付き合っていてくれたことを示していた。
「『台湾』ちゃん?」
「はい!」
思わずぴょこん、と飛び上がるように返事してしまってから、『台湾』はその無作法と羞恥に頬を薔薇色に染めた。俯いてしまいそうになるが、失礼の上塗りはするべきではない。堪えて視線を持ち上げればすぐ目の前に『ベルギー』が立っていて、女性は人懐っこそうな明るく、好意的な笑みを浮かべて『台湾』を見ていた。
「驚かせてごめんねえ。うち、『ベルギー』言います。よろしゅうね」
「はじめまして、『台湾』、デス。ご挨拶が遅れまして、まことに申し訳ありません……」
少女に礼儀作法を叩きこんだのは『日本』だった。彼が今の姿を見ていたら、やんわりと叱られていたに違いない。せめてこれ以上は無作法をしないようにと丁寧に頭をさげれば、『ベルギー』はアーモンド形の大きく綺麗な目をぱちぱちと瞬かせて、感嘆の息を吐きだした。
「さすが亜細亜の子やわぁ……。ああ、気にせんといてな。おにいちゃんが独り占めしようとするのがいけないんですわ。と、ゆっくり話したいんやけど、ごめんな。うちも行かなきゃあかん。で、これ、おにいちゃんの伝言やから」
受け取ってな、とにっこり笑顔で飴の上に積み上げられたのは、個包装のされたチョコレートだった。思わず眩暈を感じかける『台湾』に、『ベルギー』は苦笑して首を傾げる。
「足りないかも知れん、ベルのも分けてやれ言うんよ。まったく。……『台湾』ちゃんは、終わった後のパーティ、出る?」
いいえ、とちいさく呟いて、『台湾』は首を横に振った。『国』同士の親睦会を兼ねた夜会だから、『中国』はなにも言わなかったが、『台湾』も出る気はなかった。出たい気持ちもあったが、今日は『オランダ』に会うだけで精一杯で、それ以外のことを考えられなかったのだ。『ベルギー』はそうやの、とひどく残念そうな声で肩を落としたあと、腕時計に目を走らせてから肩に柔らかく巻きつけていたマフラーを取った。
「ま、おにいちゃんも『台湾』ちゃんが居たら気が気やないやろうし、今日はゆっくりしてればええわ。温かくして待っとくんやで」
そう囁きながら、『ベルギー』は自然な動作で少女にマフラーをまきつけてしまう。ふわ、と煙草の匂いが立ち上るそのマフラーが誰のものなのか、『台湾』は聞かないでも分かっていた。狼狽する『台湾』の手からラズベリーキャンディーをひとつ摘みあげて、『ベルギー』はぱちん、とウインクする。
「こうかんこ。な?」
また今度ゆっくりおしゃべりしような、と言い残して、『ベルギー』はさっと身を翻して会議室へ向かう。その背を追うことなく、『台湾』はありがとう、と掠れる声で告げた。声はそう大きくなく、響かなかった筈だ。けれど振り返った『ベルギー』は晴れやかな顔で少女に手を振ったので、『台湾』も笑顔で、手を振り返した。
開始直前の会議室に滑りこみ、隣の席に腰かけた『ベルギー』に『オランダ』はちらりと視線を向けた。無言で問う兄にうんざりした気分と微笑ましい感情をないまぜにした視線を向け、『ベルギー』はあげてきたで、と言葉短くそれを告げる。言いながら視線を兄に向けないのは、包装紙を爪ではがすのに必死だったからだ。なんとか紙を破り、転がり出てきたラズベリーキャンディーをぽんと口に入れれば、隣から降り注ぐ問いの視線が強まった。ああもう、と顔の横で手を振りながら、『ベルギー』は眉を寄せて言う。
「おにいちゃんのマフラーとこうかんこ!」
「ベル……あんなあ」
「おにいちゃん。『台湾』ちゃんは女の子なんよ?」
きっぱりとした、それは宣言だった。なんの意図かぐっと言葉に詰まってしまった『オランダ』を冷めた目で見上げ、『ベルギー』はキャンディーを舌で転がしながら口を開いた。
「おにんぎょさんより、好いた相手の持ちものもらった方が、万倍嬉しいに決まっとるやないの」
「……やったんか」
「マフラー? あげとらんよ。貸しただけ。おにいちゃん、自分で返して貰いに行くんやよ? うち、このあと忙しいねん」
なにせ、『台湾』ちゃんが可愛かったことについて、『国』の女性陣と大いに語り合わなければいけないのだ。『オランダ』が少女の前に膝をついた光景を目にした者も多いだろうから、さぞかし話は弾むことだろう。機嫌良く肩を震わす『ベルギー』に、『オランダ』は深く溜息をついただけだった。