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 終 手紙に書くこと

 車を用意しますからという制止の声を背に響かせ、『台湾』は部屋を飛び出した。港は窓からもうすぐそこに見えている。建物を出て長い坂を下って行けば辿りつく場所に、車を出す時間で辿りついてしまうだろう。ああもう、と泣きそうな気持ちを引き締め、少女は執務の為の建物の一角に設えた、己の部屋へ飛び込んだ。色気も可愛らしさもないスーツを脱ぎ捨て、下着姿でクローゼットを開け放つ。
 慌てて取り出したのは新品の服ではなかったが、多分、彼の前では着たことのない服だから、それで満足しなければいけないだろう。洗ってあるし、清潔だし、皺もほつれもどこにもない。瞬く間に袖を通して着替え、同じくしまっておいた靴を取り出して爪先を突っ込む。履きなれない靴は足をやや圧迫したが、構わないだろう。大丈夫、可愛い、と鏡を覗き込んで己を奮い立たせてから、『台湾』はちいさな机に置いてあった封筒を手に部屋を飛び出した。
 全く、なんてタイミングなんだろう。恋文を書きあげたその日に、いきなり『オランダ』が来るなんて。日本に仕事に行った帰りに急に思い立ってこちらに足を伸ばしたとのことで、知らせは本人が乗った船が港に到着する、ほんの十分前に『台湾』の元へ飛び込んだ。夢だと思わなかったのは、知らせをくれたのが他でもない『日本』だからで、『台湾』は坂道を転がるように港へ走り、息を弾ませた。個人的な訪問だから仕事は関係ないらしいと告げられても、そんなことはなんの関係もない。ドキドキ胸が高鳴って、感情が零れてしまいそうだ。
 会うのは十日ぶりにもならないが、彼がこの台湾を訪れるのは、別れの日以来初めてである筈だった。どうして急に来る気持ちになってくれたかは分からない。分からないけれど、期待で頬は赤くなる。もしかして、会いたくて来てくれたとか、そういう理由だったら『台湾』は泣く自信があった。ぜいぜいと息を整えながら立ち止まり、『台湾』は中国から到着したばかりの船に視線を走らせる。日本と台湾を結ぶフェリーは、すこし前に運航会社の消滅によって消えてしまったままだ。
 どうにかしろとゴネられたのでものすごく頑張ってどうにかしました、と溜息をつく『日本』に『台湾』は思わず電話口で謝ったが、『オランダ』がなぜ言い張ったかを少女はなんとなく察していた。あの日、船で出て行ったからだ。きっともう一度来る時も船でと、思っていたのだろう。それだけの理由に違いなかった。気持ちは分かるのだがそれはそれとして、『日本』さんに迷惑かけてっ、と憤慨しながら『台湾』は一隻の船に走り寄った。船には日本企業の名が書かれてあったから、国籍は明らかである。
 船からちょうど、桟橋が下ろされた所だった。船と陸地を繋ぐ細い橋に、のっそりと『オランダ』が現れる。思わず、少女は叫び声をあげた。
「……っ、蘭!」
「お?」
「もう、『日本』さんに迷惑かけちゃだめだヨー!」
 そこに『台湾』が待ち構えていたことが、よほど『オランダ』には意外であったらしい。肩になにかを担ぎながら船から下りてくるのに駆け寄って、『台湾』は数日ぶりの恋人を、ぷりぷりと怒りながら出迎えた。
「今は航路が無くなっちゃったんだから、船出させるだけでも大変ヨ! 蘭、あとでちゃんと菊さんに謝るヨ! 分かったっ?」
「湾、なに持っとるやざ」
「話聞いてヨ! これは蘭に出そうと思ってた手紙ヨ! 菊さんにちゃんと、謝るなら渡してあげる。どうするのっ?」
 『オランダ』は少女の憤慨をさらりと受け流して分かった分かったと頷き、『台湾』の手から封筒を取りあげてしまった。思わず取り返そうとしてしまう少女の手に、入れ替わりに『オランダ』が担ぎあげていたものが渡される。それは少女が両腕をいっぱいに広げてやっと持つことが出来るくらいの、大きな花束だった。赤と桃色のチューリップばかりが、今が盛りだとでも主張するように風に揺れている。
「……蘭?」
「ん?」
「これ、私に……くれるヨ?」
 それ以外に『オランダ』が花束を持ってくる理由など思い浮かばないのだが、もしも間違っていたら恥ずかしすぎる。新種のチューリップを政府に送る為の物かも知れないし、と可能性を考えながら問いかけた少女に、『オランダ』は苦笑して手を伸ばして来る。ぽんぽん、と頭に触れ、指が髪を巻いて口唇へ引き寄せる。
「……お前のや、『フォルモサ』」
 ごく軽いリップ音を立ててから髪を開放され、『台湾』はよろけるように『オランダ』の胸に頭を押しつけた。体重を預けるとよしよしとばかり撫でられた後、膝裏と腰に腕を添えて抱きあげられる。花束を膝と蘭の腕の輪に預け、湾は腕を回して男に抱きつきながら、ちいさな声で問いかけた。
「ちゃんと花言葉、分かってるヨ?」
 男は鼻で笑った後、当たり前やと少女の頬に口唇を掠めさせた。分からない訳がなかった。チューリップ原産国の名を争っているくらいなのだ。俺の気持ちやと囁けば、少女は赤い顔をして蘭に抱きついて来る。幼い頃より重たく大きくなっているものの、それでも楽に抱きあげられる体つきだった。ぽんぽんと背を撫でながら歩き出し、蘭は交換に渡された手紙に視線を落とす。
「湾、なに書いたやざ」
「……恋文」
 ぼそりと呟いて、湾はだってっ、と真っ赤な顔で蘭を見た。
「ちゃんと、私、ちゃんと告白したかったヨ! やりなおしの手紙ヨ!」
「……ちゅーことは」
「そうよ! 蘭が好きって書いてあるヨ!」
 少女漫画みたいな告白をしてみたくて、湾はとても頑張って手紙を書いたというのに。なんだか、全部台無しになってしまった気分だった。もういいヨー、返して、と手を伸ばされるのを遮って、『オランダ』はふむ、と考え込む。
「まあ、何回でもやり直したらええ。俺もそうするやざ」
「……え?」
「時間はたっぷりある。何回でも告白せえ」
 とりあえず、部屋に着いたら椅子に座らせて、片膝ついて愛を乞うてやるから覚悟しときや、と言われて『台湾』は眩暈を感じ、『オランダ』の腕の中でささやかな抵抗をした。しかし抱きあげられている状態では、どうしたって逃げられる訳がない。ぎゅぅと抱き締められてしまえばもう駄目で、少女はうぅ、と居心地が悪く身じろぎをして、恋人の表情を伺った。
「……蘭」
「ん?」
「イジワルヨー……」
 告げると、くつくつと喉を震わせて笑われる。否定されなかったことにぐったりした気持ちを感じながら、少女は『オランダ』の腕の中から空を見上げた。ぶ厚い雲の切れ目から、金色の光がまっすぐ降りてきている。水面を眩く輝かせて、あの光はどこまで届くのだろうか。嵐が来るか、晴れるのか考えながら、少女は建物の中へ連れ込まれてしまった。どちらでもきっと関係ないだろう。今日はこれから空を見る暇もないくらい、恋人に口説かれるに違いない。

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