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 7 今すぐ

 数日間に及ぶ会議をつつがなく終えて、議場には安堵の空気が流れ込む。殆どの者がほっとして椅子の背もたれに体を預けてしまう中、『オランダ』は椅子から立ち上がった。呆れでいっぱいの様子で『ベルギー』が隣から手を振り、『兄』を応援する素振りを見せるが、『オランダ』はもの言いたげな顔でしばし『妹』を睨んでみせた。くすくす、と肩を震わせて笑う『ベルギー』には、なにもかも分かっているに違いない。なんやの、と楽しげに目を輝かせられたので、『オランダ』は書類を鞄に乱暴に詰め込みながら言った。
「お前も邪魔してたやろ、ベル」
「邪魔なんて人聞き悪いわぁ。女の子の大事なものを守ってただけやもん」
 おにいちゃんはせっかちだからあきまへん、といかにも楽しそうに笑われたので、『オランダ』は手を伸ばし、『ベルギー』の額を指の背でコツリと叩いた。たいして痛そうでもなく肩をすくめ、『ベルギー』は会議場にぐるりと視線を巡らせると、すでに部屋を出て行こうとする『オランダ』の背に問いかける。
「どこに居るか、分かってるん?」
「聞いとるやざ。……お前は準備しなくてええんか」
「ウチは大丈夫。湾ちゃんによろしくなぁ。可愛くしたの、後で見せにおいで言うてた、伝えておいて」
 女性陣は、この数日間ですっかり仲良くなっているらしい。『妹』の晴れ姿見るの楽しみやわぁ、とうっとりした呟きを発する『ベルギー』に息を吐き、『オランダ』は早足に会議室を出て行ってしまった。早く顔が見たくて、仕方がないのだろう。おにいちゃん可愛いわ、と爆笑を堪えながら呟いて、『ベルギー』はうーんと腕を上に伸ばし、凝り固まった疲れを逃がそうとする。
 数日間に及ぶ会議が終わり、今日はこのあと、パーティーが予定されていた。『オランダ』がどんな顔で『台湾』をエスコートして来るのかを考え、『ベルギー』は口元を手で押さえて笑いに吹き出した。写真に取っておこう。絶対にそれが良いと思いつつ、女性は机に手をついて立ち上がる。『台湾』の準備を手伝うのは他の女性陣に任せてあるので、見に行く必要はないだろう。楽しみやわ、ともう一度呟いて、『ベルギー』も部屋に戻る為、鞄を持ち上げた。



 会えないのと自らの意思で会わないでいるというのは、やはり全く別のことなのだ。それを実感として少女が持ったのは、ここ数日のことだった。どうしても現実のこととは思えない幸福感と緊張に逃げ回ったあげく、『セーシェル』の背から顔だけ出して『オランダ』を見つめる『台湾』は、そこで初めて恋を経験しているようなむず痒い気持ちを持て余した。気持ちが通じ合ってさらに好きになってしまって、もう一回恋をしてしまったなんて、知られたら絶対に笑われる。
 顔を合わせることすら恥ずかしくて隠れていたら、『オランダ』は溜息をつきながら『セーシェル』ごしに一枚の紙片を手渡した。書かれていたのは蘭が個人的に所有している携帯電話のアドレスと電話番号で、『セーシェル』と『台湾』はただ普通の十代の少女のように、顔を見合わせて黄色い悲鳴をあげた。それまで、そう言えば個人的な連絡先すら知らなかったのだと言う事実は地味に湾の胸を痛めたが、それ以上に幸福な混乱が巻き起こって、結局紙片から携帯電話にそれらを登録するのでさえ、三十分以上がかかってやっとのことだった。
 メールを打ち終わって送信するまでの二時間を根気よく待って、応援し続けてくれた『セーシェル』にはもう感謝の気持ちしか浮かばない。メールを送信し終わった瞬間の脱力感と、返信が来るまでの泣きそうな時間の空白でさえ、『セーシェル』は『台湾』と手を繋ぎ、黙って一緒に居てくれた。少女は親友のように寄り添い、騎士のように心を守ってくれた。返信が来た時には一緒に飛び上がって喜んで、よかったねと満面の笑みをくれた。セーシェルが最後の楽園と呼ばれるその意味を、湾は『セーシェル』と共に過ごした数日で知る。
 彼女は確かに『国』なのだ。同じように背負えているかどうかは分からないけれど、私はいつか、あなたのようになりたいと思う。蘭を待つ部屋で準備を整えながらまっすぐに目を見てそう言うと、『セーシェル』は紺碧色のドレスを身に纏い、海色の瞳を涙に滲ませてとびきりの笑顔を浮かべてみせた。
「ありがとう、湾ちゃん。……今日も、なにかあったらすぐ呼んでくださいね?」
「だ、大丈夫だヨー……」
 だって別にそんな、二人きりで会う訳ではないのだ。会議が終わった華やかな気分もそのままにパーティーに出席するだけで、周囲は『国』だらけの状況なのである。そんなに緊張して身がまえなくても大丈夫だヨ、と己にも言い聞かせる湾に、部屋の隅から懐疑的な視線が飛んで来た。
「男を信頼するものじゃない、と思うけど?」
「ナターリヤさん、普段、菊さんになにされてるヨ……?」
 現在の保護者は耀であるが、菊はその前の育て親である。一応、帝国時代のそれなりにやらかしていた頃の性格も知っているので恐る恐る問いかければ、ナターリヤはマニキュアを塗った爪をひらひらと泳がせ、顔をしかめて言い切った。
「私が嫌がること」
「あら、その割にはナターリヤちゃん、いつも楽しそうにしてるじゃないの」
 今日だって菊さんにドレス選んでもらったんでしょう、とおっとりと囁きながら、ライナは鏡から視線を外さない。口紅はやっぱりこっちの色の方がよかったかしら、と悩ましげに眉を寄せている姉を睨みつけ、ナターリヤは声を荒げる。
「選んでもらったんじゃない! 気が付いたらこれしかクローゼットに入ってなかったんだ! 私はちゃんと、兄さんと一緒に選びに行って用意しておいたのに……!」
「……嫌だったんでしょうねえ」
「気に入らないならちゃんと言えば良いんだ! それなのに、いつも……!」
 だん、とちいさな化粧台に拳を打ちつけて、ナターリヤはふるふると身を震わせている。慰めた方が良いのかと案じる湾に、鏡越し、ライナがウインクを寄こした。
「でも、着るのよね?」
 ホテルの衣装レンタルもあるし、買いに行くことも出来ただろう。もちろん、菊に抗議して服を取り返しに行くことだって出来たろうに、ナターリヤは菊が用意した一着を身に纏っている。月光に照らされた雪色のドレス。ナターリヤの髪と、よく似た色だった。顔を赤くしながら視線を持ち上げ、ナターリヤは呻くように言う。
「菊なんか嫌いだ」
「……まぁーたそうやって、可愛くないこと言って」
「ノック!」
 がっと化粧台に指を食い込ませるように身を持ち上げ、ナターリヤは扉を振り返りながら怒鳴った。軍の夜会礼服に身を包みながら腕組みをして、半開きの扉に背を預け、菊が立っていた。菊はゆるりと口元を和ませて笑い、白手袋に包まれた片手をナターリヤに向けて差し出す。
「ノック、しましたよ。貴女が気がつかなかっただけです」
 だったらなんの意味もないだろうとばかり片眉を跳ね上げながら、ナターリヤはつかつかと菊に歩み寄り、差し出された手に指を叩きつけるように置いた。
「あと不法侵入を謝れ! 私の部屋に勝手に入って、ドレス全部持ち去りやがって!」
「私の部屋でもあるのですから、不法侵入にはなりませんよ。……さて、それで? 今宵のお相手はお願いできますか?」
「嫌だって言ったら?」
 先に行く、とライナとシェリ、湾に向かって手を振りながら、ナターリヤは廊下に一歩を踏み出した。指先は菊の手に収まったまま、離れる気配を見せていない。全く仕方ないのだからと微笑して、菊は扉に手を添えた。
「焦らさないでください、貴女は言わない。そうでしょう?」
「……菊の」
「はいはい。文句はあちらで聞きますよ。……それでは」
 パタン、と軽やかな音を立てて扉を閉めて、菊はナターリヤを連れて行ってしまった。思わず息を吐き出しながら頬を赤らめ、湾はシェリに視線を送る。同じような顔つきで、少女はこくりと頷いた。好きな相手に、なんだかすごく会いたくなってしまった。そわそわと手の指を組みかえながら無意味に視線を動かし、二人は扉に意識を集中する。鏡を覗き込んでいたライナは、ばたばたと響いて来る足音にびくんと肩を震わせた。すぐに忙しなく扉がノックされ、返事を待たずに押しあけられる。
「やあ、ハニー! ヒーローが迎えに来たんだぞ!」
「アルフレッドくん。ノックしたら、返事を待とうね?」
「うん、次から気をつけることにするよ! やあ、二人ともキュートな格好してるね。俺のハニーの方が可愛いけど、二人ともとっても可愛いんだぞ」
 夜会礼服をきちっと着こなして髪をあげた姿で、アルフレッドはにこにこ笑いながらライナへと近寄って行く。椅子に座ったまま待つ女性に対して身を屈め、アルフレッドはライナにぽん、とネクタイを受け渡した。見れば、首元に巻かれている筈のそれがない。もう、と呆れ顔になりながらライナはアルフレッドの首に両腕を回し、身を寄せながらネクタイを結んでやろうとした。くすくす笑って、アルフレッドはライナの肩に額をくっつける。
「会いたかったよー、ハニー」
「……もう、結べないよ?」
 髪もせっかく整えたのに乱れちゃうでしょう、と囁く声は、叱りつけるにしては甘く響いた。ぱらりと落ちる前髪を整えようとする指先を捕まえて、アルフレッドはそれを唇に押し当てた。
「ちょっとだけこうさせておくれよ。君と来たら会議中忙しそうにして、俺に構ってくれないんだからさ! あー……あー、会議終わってよかった。抱きしめたくてしょうがなかったんだぞ。ライナ、愛してる。ぎゅってしてくれよ、ぎゅ!」
「もー、しょうがないなぁ……」
「わーい!」
 こどものような声をあげてライナにハグしてもらった後、改めて思い切り女性を抱きしめ、アルフレッドは満足した様子で首を差し出した。ライナは笑いながらアルフレッドのネクタイを結んでやり、差し出された手を取って立ち上がる。
「じゃあ、私も行くわ。セーちゃん、湾ちゃん。お先に」
「あ、ハニー。キスしたい」
「それは後で」
 忘れてたとばかり顔を寄せてくるアルフレッドを押しのけ、ライナは二人に微笑を向けて出て行った。慣れてますよねえ、とシェリが溜息混じりに言うのに頷いて、湾はあ、と声をあげた。アルフレッドと入れ違いに、香が部屋に顔を覗かせたからだ。ひらひらと手を振る湾に笑って、香は部屋に入って来た。
「ちーす。……シェリ、準備終わった的な? ……もうちょっと居る?」
 訪ねたのは、香がシェリの手を引いて行けば、湾が一人で待つことになってしまうからだ。うーん、と悩む表情になる少女に、湾は思い切って息を吸い込んだ。
「だ、大丈夫ヨ」
「……でも」
「なんの話やざ」
 現れたのは、まさしく湾の待ち人だった。思わず椅子から立ちあがってしまう湾の前に出るようにして、シェリが頬を膨らませて蘭を睨む。
「アンタの話ですよ。もう、待たせ過ぎだとは思わないんですか!」
「……すまんの、湾」
 そのまま、気に入らないとばかり噛みつきに行こうとするシェリの肩を掴んで引き寄せ、香は無言で蘭を見つめる。男たちはしばし視線を交わし合い、やがてシェリの背を宥めるよう撫でながら、香は一歩を踏み出した。
「散々言われてると思うけど、俺も一応、湾と関わり深いんで。……次泣かしたら、俺も怒りますから」
「気ぃつける」
「はい。……シェリ、行こう。大丈夫だから」
 心配なのは分かるけど、きっともう大丈夫だから、と言い聞かせる香を不満げに睨みあげ、シェリは長く息を吐きだした。これだから男はどうしようもない、いつも自分たちだけで決めてしまうのだから、と言いたげな仕草だった。けれど言葉に出すことはせず、シェリは湾を振りむいて両手を取ると、ぎゅっと握りしめて視線を合わせてくる。
「湾ちゃん、頑張ってくださいね。パーティー会場で待ってます。なにかされたら、きゃーって叫ぶんですよ。きゃー。すぐに走って来ますからね!」
「……シェリ、なんで騎士道精神に目覚めてんの?」
 心底複雑そうな呟きを発する香の声を聞き流し、シェリはまろやかな湾の肌を包み込むようにして頬を引き寄せ、前髪越しに額にそっと口付けた。くすくす笑いながら体を離し、シェリは香の手を取って歩き出しながら、すれ違いざまに蘭に『べぇ』として出て行ってしまう。ばたんとやや乱暴に扉が閉じられるのを見送って、蘭の視線が少女を向いた。思わず背を伸ばしてしまう湾に笑って、男は少女のすぐ前まで歩み寄った。
「……湾」
「は、はい!」
「顔あげ。ええ子やざ、動かんで待っとれ」
 膝の上で手を握り、ぎゅぅと体中に力を入れてしまう少女に微笑しながら両手を伸ばし、蘭は先程シェリがそうしたように、湾の頬を手のひらで包み込んだ。指先が頬の丸みをもてあそぶようにふにふにと動かされるので、湾は全く気分を落ち着かせることができない。もぞもぞと身動きをすれば喉の奥で笑われて、ふと顔に影がかかった。あ、と思った瞬間に唇が重ねられて、すぐ離れて行く。舌先で上唇を舐められて、湾は妙な声を出して肩を震わせた。ぶくっ、と笑いを堪えて蘭が吹き出す。
「可愛い声出しや」
「ら、蘭! これから、あの……!」
「分かってっざ。……ん、これだけや」
 ぱちん、と耳の横で音がする。金属の留め具の音だった。ぱっと手をやると、どこか指に慣れた感触がして、湾は不思議に思って鏡を覗きこむ。思わず、目を見開いた。そこにあったのは、無くしたと思っていた桃花の髪飾りだった。え、えっ、と何度も鏡を見て、湾は蘭を振り返った。少女の髪を指に絡めるように撫でながら、蘭はすまんの、と苦笑した。
「金具が壊れてしもーたでの、修理に出してたんやざ。勝手にすまんの」
「……蘭が、壊しちゃって、だから、直してくれたヨ?」
「無断ですまんの」
 湾が一生懸命髪飾りを探していたのを、蘭は知っている。ナターリヤに窃盗と言われてしまったのは一面的な事実だが、そう受け止められても仕方がないだろう。湾はちいさく探してたんだよ、と拗ねた声で呟いただけで、きゅうと眉を寄せ、男を責めようとはしなかった。指先が何度も、何度も花弁を撫でて行く。その指先がはたと、動きを止めた。考え込む仕草を見せながら、少女が蘭、と男を呼んだ。
「……なんにもしてないヨ?」
「どういう意味やざ」
「普通に、ただ、修理してくれたヨ?」
 至近距離で視線が交わされ、蘭がそっと視線を外す。即座に髪飾りを外した湾は、髪飾りの留め具に視線を落とした。よく見れば、そこに文字が刻みこまれているが、そんなものはなかった筈だ。目を細めて、少女はそれを読む。



『omdat it je wi zeggen』
 ――どんなに、貴女を愛しているか。



 全身の血が音を立てて顔までのぼってくるのを感じて、湾は指先を震わせた。視線を外していた蘭が、ちいさく舌打ちを響かせる。
「……分かんのか」
「蘭語は、ちょっとだけ、菊さんに教えてもらったヨー……」
「余計な真似しくさって」
 面白くなさそうに言う蘭の手が、少女の持つ髪飾りを取りあげる。視線を重ねながら髪に留めなおされても、湾は抵抗しなかった。パチン、と音がして、蘭の手が引いて行く。それを見つめながら、湾は息を吸い込んだ。
「蘭は」
「ん?」
「……私の気持ちをちゃんと、受け入れなくても。私にこれ、付けたヨ?」
 これはもう、紛れもない所有宣言だ。それなのに男は平然と頷き、少女の前に片膝をつく。
「嫌か」
「……嬉しいけど、でも、ひどいヨ。自分ばっかりだヨ! 私の気持ち、無視しないで欲しいヨ。蘭が……大好きだから、こういうのはちゃんと言って欲しいの」
「ほーか」
 ぽん、と頭に手が乗せられる。顔の距離が近いという当たり前のことに今更気がついて、湾は視線を彷徨わせた。少女の反応にいかにも楽しげに笑い、蘭は甘く滲む声でこれからはそうする、と告げた。頷く以外にどんな動きも出来ず、湾は両手を持ち上げて、男の首にぎゅっと抱きついた。背が撫でられる。息が上がってしまいそうになりながら、湾は男の名を呼んだ。何度も、何度も呼んだ後、耳に唇を寄せて囁く。
「……きゃーって言わないから」
「ん?」
「蘭が私にしたいこと、していいヨ。……でも、本当に嫌だったら言うから、その時はやめてくれる?」
 でも今日はパーティーに連れてって欲しいヨ、と言って首を傾げる少女をひょいと抱きあげて、蘭は微苦笑を浮かべながら頷いた。パーティーが終わったら、攫って行っても良いだろう。したいことはたくさんあった。今すぐそれを実行できないことが、やや残念だった。



 くるり、くるりと視界が回る。世界が回って自分がどこに立っているのかも分からなくなってしまうのを、強く繋いだ手だけが繋ぎとめる。ワルツのステップさえよく分からないとダンスを嫌がった湾に、蘭はなんと言っただろうか。よく思い出せない。確か、ああ、そうだ。手を離さないで居れば踊らせてやるやざ、心配せんでええ、だ。
「蘭……蘭!」
「ん?」
「よく、こうやって、誰かと……踊る、ヨ?」
 見ているだけならとてもゆったりと踊っているように見えるのに、息がどんどん上がって行く。緊張もあるが、ワルツはごくスローテンポの曲を除けば、それなりの全身運動だ。息一つ乱さず少女を躍らせる男は全く慣れていて、無理に会話をしようとする湾に、喉の奥を震わせて笑っている。背を抱く手が、体を引き寄せて足を踏み出させる。
「いや」
 言葉は短く、曲の合間に途切れながら落とされる。音楽のようだった。酔いかけて、息が乱れて行く。
「躍らせる女は」
 指を絡めたてのひらが、ぐいと腕に持ち上げられる。導かれるままにくるりと回って、またすぐ、抱き寄せられた。
「湾が最初で、最後や」
「らっ……も、や……まだ」
「もうちょい。我慢やざ」
 息があがって苦しいと訴える湾の背を指先で撫でて、蘭は少女の名を呼んだ。顔をあげるとそっと唇が重ねられて、動きも呼吸も止まってしまう。歓声が耳の奥まで響いて、ようやく、一曲が終わったことを悟った。唇が離れると同時、ぷはぁ、と酸欠気味に息を吸い込んだ少女に笑って、蘭は乱れてしまった髪を整えてやる。肩を大きく上下させながらも心地よさそうに目を細める湾に、男はもう一度唇を寄せる。
 宥めるように額に口付け、うっすらと開かれた瞼の、奥の視線を絡めて息を吸う。
「……一曲は終わったからの、あとは好きにしてええやざ」
「蘭、の、そば……に、居るの、は?」
 エスコートをしてきた男性と一曲を踊るのは義務ではないが、それなりの礼儀だ。一曲でこれ程に疲れては他の誘いがあっても全て断るだろうと踏んで、蘭は少女に自由にさせてやることにした。やっと息を整えながら傍に居たいと告げられるのはそれなりに来るものがあったが、こらえて、蘭は苦笑しながら少女の頭に手を置いた。
「おなご同士、話すこともあるやろうの」
「……セーちゃん、どこヨ? セーちゃん。セーちゃんと一緒、いるヨ」
 ふぇ、と幼くしゃくりあげるのは、極度の緊張が解けた上、肉体的な疲労感がピークに達しているからだろう。遠くで睨みつけていたシェリを求めのままに手招けば、最後の楽園はスカートを翻しながら走り寄ってきて、ぐずりかける湾に両手を広げて抱きついた。双子が再会したようにぎゅうぎゅうと抱きあいながら、シェリは湾の足元を気遣いつつ、女性陣が固まっている方へと少女を連れ去って行く。後で迎えに行かない限り、今日も返してはもらえなさそうだった。
 ものすごく複雑な顔をして佇んでいる香と菊の元に歩み寄り、蘭は極東の島国のパートナーを探す。菊はにっこり笑って、今まで顔を向けていた方向を指差した。視線を向けると、淡雪色のドレスを翻し、ナターリヤがイヴァンと踊っている。イヴァンの表情は困惑と恐怖にひきつって青ざめていたが、少女を扱う手つきは優しく、躍らせる仕草は慣れていた。
「……ええんか?」
「もうすこしすれば満足して戻ってくるでしょうから。ダンスパートナーとして、私は実力不足とのことです」
「踊ってくれるだけ良い的な」
 ぶすうううう、と不機嫌顔で香が見つめる先では、シェリが湾を椅子に座らせ、かいがいしく世話を焼いている。笑顔が輝いているように見えた。なんとも言えない沈黙が三人の間に下り、やがてぽん、と両側から香の肩が叩かれる。
「頑張りなさい、若人よ」
「すまんの。湾が可愛いばかりに」
「……そろそろ俺も本気で口説くの考えたくなってきた的な」
 ああ、でも。どうしようかな、と深々と溜息をつき、香は複雑な両片想いに終止符を打つべきなのかどうか、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。どこにも、それなりの事情がある。まあ気張り、と声をかける蘭に素直に頷いて、香は視線を持ち上げて少女たちを見る。視線に気がついたシェリは、嬉しそうに手を振って来た。それでいいのかも知れない、と思って香はさらに息を吐きだす。幸せの形はきっと、それぞれなのだろう。
「そういえば、蘭さん」
「なんや」
「夜会が終わったらすぐ連れて帰る、と耀さんが意気込んでおりました」
 連れ去るなら早くした方がいいのでは、とにっこり笑う菊に、蘭は深々と息を吐き出す。そうと気取られぬように視線を巡らせれば、確かに耀はピリピリとした様子で、時間を気にしながら湾のことを見ている。視線を菊に戻して、蘭はぼそりと呟いた。
「ええんか、味方しよって」
「思い出してしまったので」
 昔ね、と菊は苦笑しながら囁く。
「あなたの手を離れた『台湾』さんを、私が統治することになった時……彼女は単に、『国』が来るとでも聞いていたんでしょう。蘭、と貴方の名を呼んで飛び込んできて、私を見て泣きだしました。……私はあなたを思い出すよすがとして、彼女に私の教わったオランダ語や文化を個人的に教えたり、貴方の思い出話もいくつかしたもので、責任感、というか……幸せになって欲しいではないですか」
「……そーけ」
「そういう時代でした。私も経験のあることだ。責められませんし、責められることでもないでしょう。けれど私たちは……彼女からあまりに多くを奪いました。罪滅ぼしになることではありませんが……与えてあげてください」
 もう泣かさないでくださいね、と背を押して来る菊に頷き、蘭は湾に向かって歩き出した。近づいて来る蘭にすぐ気がつき、少女は満面の笑みで手を伸ばして来る。その手をしっかりと握って、蘭は少女を抱きあげた。あといくつか、蘭は湾から奪う予定のものがあるが、それは見逃してもらうしかないだろう。目を白黒させながらも抱きついてくる湾の耳元に、囁きを落とす。
「湾」
「は、はい……?」
「連れて逃げる、ええな?」
 帰国するのは明日にせえ、と告げられて、なんとなく湾は察したようだった。先程、蘭がそうしたように視線を彷徨わせ、耀の姿を見つけると申し訳なさそうな顔をする。そして湾は、うん、と頷いた。ずっとずっと、連れて行って欲しかった。あの日、見えない船の影に向かって名前を呼んだ日から、ずっと。この腕に攫って行って欲しかった。連れて行って、と少女が囁く。
 言葉はきっと海底の、白い石にも届くだろう。

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