はらはらと、涙がこぼれて行くさまを、お姫さまはただ眺めておりました。涙を拭うハンカチも、涙を止める言葉も、なにひとつ持っていなかったからです。お姫さまが持っていたのはその身のひとつと、お姫さまの名前と、そして与えられた服だけでした。外では雪が降っています。すきま風が、お姫さまの指を冷やしました。
「ごめんね、ごめんね」
大粒の涙を流しながら、お姫さまの姉が繰り返します。お姫さまと同じように冷えた指は赤く、幾重にも包帯が巻かれておりました。白い包帯が所々赤く滲んでいるさまを、お姫さまはじっと見つめておりました。
「ごめんね、ごめんね……」
お姫さまの姉は、お姫さまの手をとり、はらはらと涙をこぼして繰り返します。雪解けの水のように、温かな涙でした。冷たい指が温まるようでした。お姫さまは嬉しくなって、ほんのすこしだけ微笑みました。流す涙が温かいことを、お姫さまは初めて知ったのです。
「大丈夫」
きん、と冷える氷のような声でした。震えもせず、響く声でした。お姫さまは手を離そうとせず、泣いてばかりの姉に、言い聞かせるように囁きました。
「私は、なんともない」
「……ごめんね、ごめんねぇ……っ!」
お姫さまがその身と、名前と、与えられた服しか持たないように、お姫さまの姉もなにも持ってはいませんでした。部屋に居るのはお姫さまと姉の二人きりでしたが、窓の外にも、扉の向こうにも、たくさんの見張りが立っています。そのことを二人は知っていました。その理由も、二人は知っていました。お姫さまを逃がさない為でした。お姫さまの、結婚相手が見張りを立てさせました。
「お姉ちゃん、なにもできなくてごめんね……!」
とうとう、お姫さまの姉はお姫さまに抱きつき、肩に顔をうずめてしまいました。お姫さまはぼんやりとした気持ちで、姉の背を撫でてやりました。お姫さまには、よく分からなかったからです。お姫さまは、結婚する必要がある時には、そうしなければならない定めを持ちながら生まれました。お姫さまの姉も同じです。強くあれば関係のないことでしたが、お姫さまは弱く、お姫さまの姉もあまりに力を持ちませんでした。
「……兄さんは?」
力を持っていたのは、お姫さまの兄でした。お姫さまの姉にとっては弟にあたるそのひとの姿は、部屋のどこにもありません。お姫さまは急に不安になって、部屋の中を見回したり、見張りの姿が見え隠れする窓の外に視線をやったりしました。外は吹雪です。
「兄さんは、兄さんはどこ?」
「……来られないの」
お姫さまの兄は、強い力を持っていました。だからこそ、お姫さまの結婚相手はこの部屋に来ることを許さず、それどころか、式に呼ぶことさえしませんでした。お姫さまは、そう、とだけ言いました。お姫さまの手が震えたのを知ったのは、抱きついている姉だけでした。
「必ず……」
「……姉さん?」
「必ず、取り戻してみせるから」
お姫さまの姉はそう呟いて、お姫さまから離れました。急に寒くなったような気がして、お姫さまは体を震わせます。扉を叩く音が響きました。お姫さまの姉は、もうこの部屋から出ていかなければならないのでした。
「……これを」
どこに隠していたのか、お姫さまの姉が取り出したのはナイフでした。お姫さまの手でも扱いやすそうな、小ぶりで、鋭い刃のナイフでした。お姫さまの姉が、大切に、大切に使っていたナイフでした。お姫さまの兄が、いつか贈ったものでした。
「持って行って。お姉ちゃんだと思って」
「姉さん」
お姫さまは、不意に『人魚姫』を思い出しました。王子を刺して殺しなさい、と差し出されたナイフも、こんな風に冷たかったのでしょうか。お姫さまの姉は微笑んで、お姫さまの額にキスをしました。
「あげるわ」
「姉さん」
「本当に嫌な時に、これを使いなさい。あなたは、女の子なんだから」
頬を撫でて微笑み、お姫さまの姉は見張りの者に腕を引かれ、部屋から出て行きました。扉が閉まります。お姫さまは、とうとう、一人きりになりました。それでも、身を守るナイフが、お姫さまのものでした。それだけが、自由になるものでした。
息を吸うことさえ難しくなるような冷たい風に目を細め、ナターリヤは手に持っていた紙片に視線を落とした。質の悪い紙は白ではなく、乾いた藁(わら)の色をしている。ペン先が引っかかりそうにざらついた表面であるのに、そこに書かれていたのは活版印刷のように整った文字だった。読みやすく綺麗な文字であるのに、それはどこか温かい字面だ。なんとなく肩の力を抜きながら書かれた項目を確認し、よし、と頷く。
メモ書きしてよこした相手の記憶と、ナターリヤの記憶が確かならば、用事が全て終わったからだった。本当に面倒くさかった、と眉を寄せながら紙片を破いて風に散らし、ナターリヤはコツコツと足音を立てながら歩きはじめる。優しい印象の文字を手放すのは惜しい気がしたが、書かれている内容が内容だったので手元に残す気にもなれなかった。全く、と身を切るように冷たい風に息を白くしながら、ナターリヤは顔を歪める。
情けないと思えばいいのか、災難だと思えば良いのかも分からなかった。ライナが『姉』としてナターリヤに頼んで来た用事は、全てが異性がらみのトラブルで、簡単に纏めてしまえば『国』に言い寄ってくる男共をどうにかしてほしい、というものだったからだ。まあ、兄さんに頼まなかっただけ良いとしてやろう、とナターリヤは思う。いくら相手が他国の国民であろうと、イヴァンに遠慮はない。相手の命が確実に消えるだろう。
過去の経験からしてナターリヤは十分にそれを知っていたし、ライナも分かっていた筈だ。だからこそ偶然政府庁舎を訪れた『妹』に、つい泣きついてしまったのだろう。お姉ちゃんねぇ、本当に困ってるの、とめそめそべそべそしょげかえっている姿は、かつて戦時中の凛として立つ勇ましかった姿とはかけ離れていて、ナターリヤはつい、ライナを睨んでしまった程だ。同一人物とは到底思えなかったが、残念なくらいに姉だった。
思わず脱力してしまう程に姉だったので、ナターリヤは八つ当たりもこめて、『国』に言い寄る男を反省させる、というとても身内以外には頼めも、言えもしない雑務を済ませてやることにしたのだった。一応『国』がらみのトラブルを『他国』が解決するなど本来はあってはならないが、場合が場合であるのだし、ライナはあくまで姉として、妹のナターリヤに頼んだので問題は起きないだろう。加えて、双方に露見させる気がない。
ライナの『ちょっと反省させてね』との依頼通り、ナターリヤは念入りに祖国に言い寄る馬鹿な男たちの精神を踏みにじって来た。暴力に訴えてはいない。あくまで言葉で精神を叩きのめしただけだ。涙を滝のように流す男に、以後絶対に『ライナ・マラーホフ』に近づかない、という誓約書まで書かせて郵送させてきたので、これでもう安心だろう。相手がライナを『国』だと知っていたのか、知らなかったのかは分からないままだった。
そのおろか者が一人や二人ならばナターリヤも興味を持って聞いただろうが、ライナが書き記した名は五人分だった。五人、全く別々の場所で出会い、言葉を交わし、そしていつの間にか求婚されていたのだという。政府の開いた式典やパーティーで顔を合わせることが殆どだったという男たちは、国でもそれなりに身分を持った者ばかりである筈なのに、どうしてそんなに引っ掛けてくるんだ、とナターリヤは頭が痛くなる。
こうなると中央ヨーロッパを見習って、国民に対する『国』の認知度をあげていく必要があるのかも知れなかった。大陸の中でも、特に元ソビエトである『国』は、国民に対する顔と名前の露出が極端に低い。それはかつて『ロシア』であるイヴァンを頂点とし、その一人のみが対外的な露出を行っていた名残であり、そして現在まで続く弊害だった。ナターリヤがこうしてウクライナを歩いていても、誰も彼女が『国』だと知らない。
あくまでナターリヤが『ベラルーシ』であり、『ウクライナ』ではないからことの認知度の低さもあるだろうが、それにしても『ドイツ』や『イタリア』は、互いの国でも大体が顔を知られているのだという。政治家のように多くメディアに顔を出している訳ではないが、それらの『国』は穏やかに人に受け入れられ、そうして暮らしているのだった。大きな戦いを終えて起きた緩やかな変化に、未だ元ソビエト組は対応しきれていないのだ。
全く変化が無い訳ではない。それでもそれはひどく緩やかに訪れ、分かる程度には表に出てこないのが常だった。はぁ、と白い息を吐きだして、ナターリヤはふと足を止める。観光地の繁華街に程近い道は幅も広く、美しく近代的に整えられていて、歴史の名残は何処にもないようだった。くもりひとつなく磨き上げられたショーケースに姿を映し、ナターリヤは己の全身を見回した。好意的に見て、すこしばかり時代遅れの服だ。
公的な場で必要となるフォーマルな服以外の、私服に分類される衣類を持っていない訳ではなかったが、ナターリヤが着る服はもっぱら決まっているのだった。昔、イヴァンがくれた深い藍色のメイド服。布をたっぷりと使った長いスカートはそれなりに動きやすく、かつ武器も隠しやすいので重宝しているし、首元のリボンも頭に付けているそれと同じで気に入っている。全部、イヴァンがナターリヤに、とくれたものだった。
赤くかじかんだ指先で、くたびれたスカートの布を撫でつける。新品の服とは比べ物にならない毛羽立った感触が、服の限界を訴えているようで物悲しかった。イヴァンはもう、ナターリヤに服をくれることはないだろう。共に暮らしていた時期は過ぎ去って戻ることはなく、なによりイヴァンは、ナターリヤを見ると怯えて逃げるからだ。ごくたまに普通に接してくれることもあるが、結婚を要求すると十二割の確率で泣いて逃げる。
泣き叫ぶ兄さんもとても可愛らしい、とうっとりしながら、ナターリヤはスカートを整え終えて指先を離す。手袋はいつもしないのだった。ライナが手を繋いで、温めてくれたから。マフラーをする習慣も、身につかない。イヴァンがいつも、一緒にね、と分けてくれたからだった。ナターリヤの両隣にはいつも兄と姉がいて、それが当たり前で、そうなくなる日が来るとは思っていなかった。独立国であることは誇らしく、すこしだけ寂しい。
かじかんだ手に息を吹きかけて温め、ナターリヤはショーケースの前から移動しようとした。別に買い物を楽しむ気分ではないし、特に用事もないからだった。しかし数歩も行かず歩みを止めたのは、ナターリヤを待ち伏せするように立つ数人の若者が居たからだ。顔に見覚えはなく、服装も安っぽく品がない。今しがた終わらせて来た雑務の関係者ではなさそうだからこそ、ナターリヤは苛々と舌打ちをし、視線を険しくする。
国内の治安や風紀がどうであろうと、基本的に『国』に責任はない。しかし様々な現状を踏まえて考える分に、十分に原因くらいはありそうだった。あの人はもうすこし毅然とあるべきだ、と全力でその辺りの通行人を八つ当たりとして殴って捕まえて罵倒したい気分になりながら、ナターリヤは足を止めて立ち止まる。若者はなにを勘違いしたのか、にやにやと笑いながら馴れ馴れしい態度でナターリヤに近づいて来る。
君、黙って立ってればちょっと時代遅れの格好をした深窓の美少女に見えるからねっ、と胸を張って断言した某超大国の言葉を思い出し、不意にナターリヤは決意する。よし、あのメタボ今度会議であったら殴って刺そう。理由は別になんでもいい。無くても良い。世界のヒーローの危険を招いているとも知らず、若者たちがニヤつきながらナターリヤに向かって手を伸ばす。その手を少女が、音高く振り払ってねじ伏せるより早く。
少女の背から伸びて来た青年の手が、無遠慮な腕を掴みあげた。
「ごめんね。彼女に、触らないでもらえるかな」
ぞっとする程に穏やかな声だった。聞いた誰もが優しげな響きであると思うに違いないのに、それでいて本能が強く警鐘を打ち鳴らすであろう危険を秘めた声だった。耳元をそっと撫でて消えた声にナターリヤは聞き覚えがあり、思わず背後を振り返ってしまう。驚いた少女の視線を優しく受け止めて、にこ、と笑ったのは春積み苺の葉の色をした、光をたっぷりと含んだ緑色の瞳だった。優しく、やさしく、ナターリヤを見ていた。
「……ね?」
同意を求めた声と共に、すいと視線が若者に移動する。掴んだ腕はすでに離されていたが、若者たちは場に打ち付けられた杭のごとく、動くことができなかったらしい。視線が向けられて初めて呪縛が解けたように、がくがくと大きな仕草で頷き、蜘蛛の子を散らすように走り去って行く。その背が人ごみに完全に消えるまで、向けられている視線は鋭いままだった。鮮やかな瞳の奥底に、激しい苛立ちが見え隠れしていた。
やがて視線が再び、ナターリヤの元に戻ってくる。にこ、と笑いかける目は穏やかなばかりで、若者に向けられていた危険なきらめきなど、どこにも残されていなかった。そのことが、ナターリヤの心を苛立たせる。舌打ちせんばかりの顔つきになったナターリヤに、困ったような苦笑が向けられて。その唇がそっと、なにかを奏でる前に、ナターリヤは吐き捨てるように言い放つ。
「姉さんの国でなにをしている……リトアニア」
同じ『国』として在る『リトアニア』の人としての名前を、知らない訳ではなかった。国名を呼んだのは、だから一種の拒絶に他ならない。慣れ合うつもりなど、ないのだと。頑なな意思を崩さないナターリヤに、『リトアニア』、トーリス・ロリナイティスは困った表情になりながらも、微笑みを浮かべたままだった。やがて甘やかな色をした瞳がくるりと宙に円を描き、告げるべき言葉を見つけ出したかのように、穏やかに唇が開かれる。
「君の姉さんに、悪いことはなにもしない。……大丈夫だよ、ナターリヤちゃん」
それはまるで幼子に対するような囁きで、言い含めるようにそぅっと響いて行く言葉だった。かっと意識が怒りで熱くなる。衝動のままに怒鳴りつけようとすれば、それを制するかのようにトーリスの瞳がやや細まった。不穏ではなく、どことなく不満げな視線にナターリヤが訝しげな表情になると、トーリスは少女の全身をさっと見まわし、首を斜めに傾げながら息を吐きだす。まったくもう、と呆れを言わんばかりの仕草だった。
「ナターリヤちゃん。一応聞くけど……防寒具は? コートとか、手袋とか、マフラーとか」
「忘れた」
「忘れないものだからね、普通は」
ぴしりと叱りつけるような口調は、普段はナターリヤには向かないものだった。それはもっぱらトーリスの『隣国』に向けられるもので、青年が少女にこんな風な口調を向けることは珍しかった。ナターリヤがやや驚きを持ってそう感じたように、トーリス自信も自覚があるのだろう。すこしだけ気まずげに視線が彷徨っている。ナターリヤと違って、トーリスはきちんと冬に外出する格好をしていた。厚手のコートに手袋、長いマフラー。
それらは全て濃い木の皮の色をしており、化学繊維で作られたものながら、自然のぬくもりを感じさせた。トーリスは溜息をつきながらミトンを外し、ナターリヤの手首をぐいと掴んで引き寄せる。反射的に振りほどこうとしたナターリヤの動きは、下から見上げてくる叱りつける視線に止められ、叶わない。悔しさと胸のざわつきに唇を噛んでいるうちに、トーリスはさっさとナターリヤの手に手袋をはめ、手首を開放してしまう。
青年のぬくもりを移したミトンは生温くてぶかぶかで、ナターリヤの眉間にしわが寄る。続いてマフラーも外そうとしたので、ナターリヤは手袋を外そうとした。もくろみ通り、トーリスは慌ててマフラーから手を外し、ナターリヤの手袋を押さえてくる。外しちゃダメでしょう、と言い聞かせ口調で告げてくるトーリスをしげしげと見つめながら、ナターリヤはひそかに満足した。本当に、分かりやすい男である。すこしだけ機嫌が上向く。
知らずに淡く綻んだ口元をそのままに、ナターリヤはふん、と鼻を鳴らしてミトンに触れていたトーリスの手を退けさせた。トーリスはやれやれと苦笑しながら、すこしばかりは温かみのある格好になったナターリヤに問いかける。
「それで、ナターリヤちゃん。この国でなにしてたの?」
「姉さんの用事を済ませていた。それだけだ。お前には関係ない」
「そっか。その用事は、もう終わり?」
コイツには人類に備わっている筈の『人の話を聞く』という機能が付いていないに違いない、とナターリヤは思った。苛立ちながら睨みつけると、トーリスは堪えた様子もなく微笑んでいる。ナターリヤに、それ以上会話をするつもりはなかった。なかったのだが、あまりに笑顔が崩れずにうっとおしかったので、ナターリヤは仕方がなしに頷くことで質問に答えてやる。ライナに頼まれた雑務は、先程確認した通り、終わっている。
つまり用事はもう無いのである。大体が『国』として用事があった訳ではなく、特に目的も理由もなく訪れただけなので、滞在していなければいけないこともないのだった。強いて言えば頼まれごとの報告をしなければならないだろうが、それは用事のうちに含まれていない。だからもう帰る、とでも言いたげなナターリヤにトーリスはくすりと笑みを深くし、体温を失って強張りかけている指先を差し出した。騎士のてのひらだった。
剣を持つ時代はもう古くに終わっているのに、ごつごつとして硬そうな手だ。農具のせいだろうか。あるいは軍に混じって演習を繰り返しているとも聞くので、重火器を扱っているからかも知れなかった。差し出された意味も分からず、手をじっと見つめてしまうナターリヤに、トーリスは愛おしげに笑みを深くする。その表情を、視線を手に落としているナターリヤは見る事がない。ただ笑う気配だけを感じたので、訝しく声が響いた。
「なんだ」
「ううん。……用事が終わってるのなら、ね。すこしだけ、おいで?」
親しげに、甘く誘いかける声にナターリヤの視線が跳ねあがる。向けられた瞳に、トーリスはごく穏やかに笑った。ね、と囁いて指先が動き、ミトンに隠されたてのひらを重ねる事を要求してきた。
「なにも、悪いことしないから」
くす、と柔らかな意思を灯して笑う表情は先程から全く変わらないものであったに関わらず、ナターリヤは息をつめて視線に力を込めた。そこに立っていたのは『リトアニア』だった。かつての『リトアニア大公国』、強大でしなやかな力を誇った騎士の国だった。清廉で潔白な、それはまさしく騎士たるにふさわしい『国』として彼の国はあったが、しかし決してそれだけではなかったことを、ナターリヤは、『ベラルーシ』は知っている。
それだけでは生き延びられない時代があった。それなのに、『リトアニア』は今ここに居る。じり、と燃えるように瞳の奥底に灯るのは、苛立ちを隠した獰猛な意思。先程、青年らに向けられていたものと良く似た、それでいて全く別のものだった。敵意ではない。害意は感じられない。それとはまったく別の、強く激しい意思だった。ナターリヤは唇をつり上げ、くつりと喉を震わせて笑う。そちらの方が、ナターリヤには馴染み深い。
張りつけたような優しさなど、気持ち悪いだけだった。そんなものは入らなかった。
「トーリス」
「え……え、ええっ! な、なに?」
まさか、名を呼んでもらえるとは思ってもみなかったのだろう。ナターリヤの予想通り、とても分かりやすくうろたえたトーリスは、心臓の辺りに手を押し当てながら深呼吸をしている。頬がほんのり赤く染まっているのを見なかったことにして、ナターリヤはほんの僅か、首を傾げた。それだけで、意思が伝わる。えっと、と口ごもりながらトーリスが視線を向けた方向へ、ナターリヤは一歩を踏み出す。差し出された手は取らなかった。
騎士にエスコートされる姫君になど、なりたくはなかった。
ついて行くことを決めた過去の自分を、ぼこぼこに殴って道端に捨てて放置したい気分だった。激しい眩暈と戦いながら試着室を出てきたナターリヤが見たのは、店内の一角にかけられた、色とりどりのマフラーを注視しているトーリスの背中だった。温かな色から涼しげな色合いまでが揃ったマフラーは、ちょっとした画家のパレットのようで、見て飽きるものではないのだろう。中には、ナターリヤの髪色に良く似たものもある。
なんとなく、トーリスがなにを考えていたのか分かったナターリヤは、そっと脱いだ靴を持ち上げた。思い切りふりかぶって投げつける予定は、しかし他ならぬトーリスが振り返ったことで中断される。ああ、と気がついて申し訳なさそうに微笑む表情が、あまりに嬉しそうに緩んでいたので、怒りをぶつけるのも馬鹿らしくなったからだ。大体、どうしてナターリヤが怒らなければいけないのか。ありとあらゆる意味で理不尽だった。
「……帰る」
「うん。似合ってるよ、ナターリヤちゃん。すごく可愛い!」
「か・え・る!」
お前本当に耳の機能ついてないなっ、と怒りのままに叫ぶナターリヤに、トーリスはうっとりとした微笑みで聞こえてるよ、と言った。聞こえている、と。聞いている、と。聞き入れる、は厳密にすこしずつ違うのである。よく分かった、と相手を殺して場を去りたい気持ちと戦いながら、ナターリヤはトーリスの視線を避けるように、半回転して姿見と向き合う。若者向けの服と小物が揃った明るい店内で、鏡はよく見ることが出来た。
普段の濃い藍色の服とよく似たデザインの、淡い桜色のワンピースだった。襟を締めるリボンも、袖口の布も、腰をぐるりと巻いて後ろで結ぶリボンも艶やかな白で、それは同じ色であるのにナターリヤを落ち着かない気分にさせる。反射的な仕草でスカートに滑らせた指先は、質の良い生地であると伝えてきた。一体どうしてこんなことになったのか。トーリスがナターリヤを連れて来たのは、若者向けの安価な服が揃う店だった。
どうしてウクライナ国内で、それもナターリヤの好みに合うような傾向の服屋がある位置を知っているのかとも思うが、相手はトーリスである。なんとなく色々やりかねないし、バルト三国としてまとめられている一国にはITの申し子がいる。ナターリヤが気がつかないうちに連絡を取って情報を送ってもらったのだと思えば、納得できないこともなかった。そんな隙がいつあったのかとも思うが、嫌なのでもう考えないことにする。
鏡の中、不機嫌に、それでいて戸惑ったように見返す少女は確かに己自身で、ナターリヤは困惑を強くする。くるりと半回転してもう一度視線を合わせ、ナターリヤはきゅぅ、と唇を噛んで問いかけた。
「どういうつもりだ」
「どう、って?」
「服だ、服! どういうつもりで、私にこんな……!」
叩きつける不機嫌を受け止めたのは、穏やかな意思だった。穏やかに、そっと、優しく。そういう風にしか、トーリスはナターリヤに感情や意思を返さない。先程のように隠された激情をナターリヤが読み説くことはあっても、探らない限り、それは決して分からないままだろう。トーリスはすこし困った風に微笑んで、見なれない明るい色合いの服を来たナターリヤを見つめている。
「俺が、さ」
目的地が分かった時点で走って逃げることもできたのに、それをせず。店内に連れてはいられて、手を振り払って抵抗することもできたのに、それをせず。服を押し付けられて投げ捨ててしまうこともできたのに、それをせず。着ないで出てくることもできたのに、それをせず。抵抗しながら、抵抗しきれずに付き合ってくれているナターリヤを、本当に優しい視線で、トーリスは眺めた。
「君に、服を送りたいって思うのはそんなにおかしいこと?」
ナターリヤの唇が開き、けれどなにも言葉を発することなく、ぎこちなく閉じられてかたく結ばれる。なんの感情をか抑え付けているのであろう表情は複雑で、ナターリヤの内心を読ませるものではなかった。彷徨った視線はやがて、トーリスの左手で静止し、刺すように鋭く細められた。視線が熱を持っていれば、火傷くらいはしただろう。店内の温かさでようやく色を取り戻したトーリスの手が、こそばゆいように微かに動く。
「……ナターリヤちゃん?」
「っ……私は、お前のものなんかじゃない」
揺れる声で紡がれた言葉がなにを持ってして告げられたのかを、分からない程にトーリスも鈍い訳ではない。はっと息が吸い込まれ、それでもトーリスは穏やかに笑んだままだった。ほんのわずか、諦めを含んだ笑顔。言葉を紡げなくなってしまったナターリヤに、トーリスは一歩だけ近付く。睨んでいた左手が持ち上げられて、ナターリヤに触れる寸前で静止した。
「そうだね」
ごく、あっさりとした肯定だった。当たり前の言葉として、事実確認としてしか響かない声だった。思わず目をあげて視線を合わせると、トーリスはほろ苦く笑うだけでなにも言わない。ただ、てのひらが動かされた。決して肌に触れることをせず、手が、頬の輪郭、そのまるみだけを辿る。
「本当に……そうだね」
きゅ、と手が握り締められ、下ろされた。不意に突き放されてしまったような気がして、ナターリヤはトーリスから一歩離れる。試着室のカーテンを掴み、ナターリヤは隠れるように布を引いてしまった。乱暴に、手早く服を脱ぎ捨てる音が響く。握り締めた己の手にそっと唇を押し当て、トーリスは遠巻きに見ていた店員を笑顔で呼んだ。
「彼女が着ていた服を。代金は二着分支払います。一着、包んでください」
音だけでさえあんなに乱暴に脱がれては、売り物には戻しにくいだろう。なによりナターリヤの肌が触れた服を、そのまま売り場に戻したくなどなかった。戸惑う店員にカードを渡して清算を済ませ、荷物を受け取って、トーリスは店から走り出して行ったナターリヤを追う。すぐに追いかけたので、見つけるのも追いつくのも、トーリスには簡単なことだった。それでも肩で息を繰り返しつつ、トーリスはナターリヤの腕を捕まえる。
「待って!」
「離せっ、帰る……帰る!」
「うん。帰っていいよ。引き留めてごめん。……でももうすこしだけ」
トーリスはナターリヤが着ていたのと同じ服が入った袋を、少女の胸に押し付けた。反射的な仕草で受け取ってしまったナターリヤが狼狽している一瞬の隙に、トーリスはゆるく肩に引っ掛けていたマフラーを引き抜き、少女の首に巻き付けてしまう。慌てて外そうとするナターリヤの手のひらに、ミトンがはめられていたことがトーリスには嬉しかった。捨ててくることも、置き去りにすることも出来ただろうに。無意識にしても。
ナターリヤは、トーリスの与えたものを持って来たのだった。
「ナターリヤちゃん」
嬉しくて。トーリスはマフラーを巻いた手を離さずに己の元へ引き寄せ、ナターリヤとの距離を近くする。嫌がるように、むずがる様に、ナヤーリヤの眉間にシワが寄せられた。揺れる瞳はどこか泣きそうで、トーリスはゆるく目を細めてそれを見つめる。このまま時が止まれば、この少女はトーリスのものだった。ふふ、と笑ってトーリスはマフラーから手を離し、硬直するナターリヤの額に、己の唇を近付ける。触れはしなかった。
吐息だけが、そっと肌をかすめる。
「……ごめんね。送ってあげられたらよかったんだけど、用事ができちゃったから」
「よ、けいな……余計な世話だ!」
「うん」
己の全てを取り返すように、ナターリヤはトーリスから飛び退いて離れる。ミトンとマフラーをした姿は、トーリスが最初に見つけた時より、随分と温かそうに見えた。体も、俊敏に動かせるのだろう。慌ただしく周囲を確認してから走り去るその背に、トーリスは静かに言葉を捧げた。
「ベラルーシ」
ひとの名を、呼ぶこともできたのだけれど。あえてその名で、トーリスは告げた。
「……君が、好きだよ」
その背に届くことを、まるで望んでいないように。優しく、声は響いて。弱く、冬の凍った空気に溶け消えた。
一直線に走って来た道は行き止まりで、角を曲がる風にしか作られていなかった。そこでようやく立ち止まり、ナターリヤは息を整えながら背後を振り返る。そう長い距離を駆け抜けて来た訳ではない。見晴らしの良い道だから、かろうじてナターリヤが居た辺りを視認することができた。目を細めて、その空間を睨みつける。喉を通って行く冷たい空気が、鋭く胸に痛かった。振り返った先に、トーリスは立っていなかった。
吐息が、白く染まって消えていく。歪んだ笑みを唇にのせてナターリヤは身を翻し、その場を走り去って行った。