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 0 『ものがたり』

 騎士が差し出したのは、一輪の花でした。それは、野に咲く赤い花でした。摘みとって来たばかりなのでしょう。瑞々しく咲く花は可憐で可愛らしく、慎ましやかに騎士の手の中で揺れていました。
「花は、お嫌いですか?」
 優しく微笑んで、騎士はなにも言わないお姫さまに問いかけます。お姫さまは中庭の見える窓辺に椅子を置き、腰かけたまま、騎士を一度見ただけで後は視線をやることさえしませんでした。夕暮れよりも穏やかな真昼の日差しが、石造りの塔にやさしい影を落としていました。
「一体何なら、あなたの笑顔を見られるでしょうか」
 困ったように微笑みながら、騎士は目を向けさえしないお姫さまの髪に、そっと花を飾りました。月明りに照らし出される、無垢な雪原のようなお姫さまの髪に、赤く鮮やかな花が揺れました。お姫さまは視線を騎士に向け、ひどく激しく睨みつけました。
「ここから、私を、出せ」
 ゆっくり、ゆっくりと言葉を噛み締めるように告げられたお姫さまの声に、騎士はうっとりと目を細めて笑いました。ここは、お姫さまの為の塔でした。お姫さま以外は、誰も立ち入れない塔でした。お姫さまの為に騎士が作り上げた塔でした。日に三度、あるいは四度訪れ、騎士はお姫さまに贈りものをします。騎士がするのはそれだけで、それ以外のなにもかもを、許さないのでした。
「だめ」
 甘く、甘い毒薬のように、騎士はお姫さまに囁きます。優しげな微笑みを崩さないまま、美しいお姫さまを、そっと閉じ込め続けるのでした。
「だめだよ。ここに居て。……俺が、君を守るから」
「ふざけるな……!」
「ふざけてないよ。本気。……大丈夫、大丈夫だよ。君は絶対、俺が守ってあげる」
 お姫さまの、傷ひとつないてのひらにそっと触れて、騎士はごく穏やかに微笑みました。
「……君が、好きだよ」
 だから、どうか、笑って。静かに空気を揺らす騎士の声に、お姫さまは表情を消しました。ゆっくりと、心を凍りつかせました。故郷の、雪景色を想いました。



 2 歌声は忘れられている


 静かだった。その静寂のせいで、目が覚めた。布団の中で寒さに身を震わせ、ナターリヤはぎゅぅと身をちいさくしながら瞬きをする。普段通りにした筈のまばたきは、しかしのたのたと動くばかりで、ナターリヤに体調不良を突き付けた。寒いのは熱のせいなのか、部屋の温度のせいなのか、ひとりきりのせいなのか、よく分からなかった。呼吸の音と時計の針の音だけが、静かすぎる、冷たい部屋の空気を揺らしていた。
 暖炉の火は、とうに消えてしまっていた。黒く焼けおちた炭と、積もった灰をベッドの中から眺め、ナターリヤは白く染まる息を吐きだした。ベッドから起きて薪を運び、火をつける力を持っていなかった。発熱している体は痛みを訴えていて、意識が定まらず、力も上手く入れる事が出来ない。こんなことだったら、とナターリヤは思う。姉のところか、兄のところか、さもなければ政府庁舎の一室を借りて休むべきだったかも知れない。
 ナターリヤが『国』として、あるいは個人として持っているちいさな一軒家に、空調設備は置かれていない。ほとんど戻って来ない家だから、そんなものがあっても使うと思えなかったからだ。ナターリヤが家で安らぐことは、ほとんど無い。日の大半は政府庁舎で過ごし、『国』の仕事はない時はもっぱら兄の元へ押しかけ、時折、姉の元に顔を見せに行くからだ。ナターリヤの家はここではなく、そしてもう、どこにも存在しなかった。
 少女の家は、ソビエトの終焉と共に消えてしまった。あるいはもっと前から無くなっていたのかも知れなかったが、ナターリヤ自身がそうと思い知らされたのは、『ベラルーシ』として独立し、『国』として一人きりで生活することを余儀なくされてからだった。家は、ナターリヤの他にも必ず誰か居るものだった。兄か、姉が、必ずどこかに居てくれるものだった。あるいは、待っていれば帰って来てくれる場所だった。それが『家』だ。
 乾いた咳で喉を痛めながら、ナターリヤは枕元に置いておいた携帯電話に手を伸ばす。時間が知りたかった。どれくらい眠っていたのか、覚えていなかった。画面に目を落とすと、最後に意識を持っていた時からは丸一日以上が経過している。随分と寝込んでいたらしく、携帯電話には新着メールがいくつかと、不在着信履歴が溜まっていた。ほとんどがベラルーシ政府からの業務連絡だったが、他の名前も残されていた。
 国の情勢とは別のところで、個人的な理由で体調不良に陥った連絡を、ナターリヤは己の政府に送っていた。兄と姉にもその旨を伝えておいたから、連絡網的に諸国にナターリヤが風邪を引いたことは通達されたのだろう。温かくして眠ってくださいね、という『ラトビア』からのメールがあり、『エストニア』からは、暖炉の火を絶やさずに部屋を暖めて眠ってくださいね、と心配そうな声が、留守番電話に吹き込まれていた。
 かつてソビエトとして共に暮らしたことのある二人だから、ナターリヤがどんな格好で出歩き、体調を崩したかなどすぐに理解してしまったのだろう。二人ともとにかく『温かく』に注意した言葉を並べていて、ナターリヤは寒い部屋の中、枕に顔をうずめてやや沈黙する。今の状況が知れたら、『ラトビア』は言ったのにいいいっ、と泣き叫び、『エストニア』は笑顔で暖炉にガソリンでも突っ込み、ためらいもなく着火しそうだった。
 あの二人は、案外とてつもなく面倒くさい。溜息をつきながら携帯を操作して、ナターリヤは眠っている間にかかって来た兄からの着信を眺め、直後に打って送信したらしいメールを表示させて読む。薄着で出歩いたことに対する小言がいくつかと、明日の仕事が終わったらお見舞いに行くから安静にしているんだよ、と文面は語り、ナターリヤは熱のせいだけでなく、うっすらと頬を赤らめた。表示されている日付は、昨日のもの。
 つまり今日中に、イヴァンはナターリヤの様子を見に来てくれるということだ。未読メールの中には姉からのものも含まれていて、一時間に一通の割合で飛んで来るメールは、画面越しにライナの様子まで教えてくれるようだった。ナターリヤちゃん、と涙目でオロオロしながら、ライナは本当に妹の体調が心配でならないらしい。ご飯は食べられているのか、お水は飲んでいるのか、寒いところに居ないか、痛いところはないか。
 さびしくは、ないか。ライナも『国』だ。仕事中にそうメールする隙もないだろうに、それでも一時間に一通、文章だったり、一言だけだったりと形を変えながら、気遣いがナターリヤの手元に飛び込んでくる。返信がないことは、ライナにとって気にすることではないらしい。時折、倒れてないよね、行き倒れてたりしないよね、と恐る恐る問いかけが付け加えているだけで、花束のような想いが途絶えてしまうことはなかった。
 一番新しいメールが、今から三十分前のもの。お仕事終わらせて、お姉ちゃんも会いに行くからね、と張りきった宣言に、ナターリヤは思わず舌打ちをした。恥ずかしい。そして、イヴァンが一人占めできないではないか。携帯電話を両手で握るように持って沈黙し、ナターリヤは諦めて枕に顔をうずめ、溜息をつく。来るな、と言いたい気持ちが無くもないが、それはライナに会える喜びを超えてしまうものではない。兄と、姉が来る。
 そうしてこの建物は、ようやくナターリヤの家になるのだった。そうと決まれば、シャワーを浴びて着替えて出迎えたい。布団をかぶったままベッドから下りて、ナターリヤは暖炉の傍に置いておいた薪を数本無造作に暖炉に投げ込むと、着火剤を噛ませてマッチで火を付けた。すぐに暖炉の中で火は踊り出し、やがて薪も燃え始める。そのまましばらく、ナターリヤは暖炉の前から動かなかった。温かい場所だったからだ。
 十分もすれば熱は部屋中にじわりと広がり、ナターリヤはようやく暖炉の前から立ち上がる。パジャマから着替えるのにクローゼットを開いて、ナターリヤはぴたりと動きを止めた。クローゼットの中はすかすかで、服も数着しか入っていない。いつも着ているイヴァンから貰った服と、公務に必要なスーツがいくつか。フォーマルな場に着て行くドレスと、軍服と、そして紙袋から出されもしない、淡い桜色のワンピースがあった。
 紙袋の口から覗く鮮やかにして優しい色は、袋から出しもしないナターリヤの手を、待ち望んでいるかのようだった。投げ捨て、叩きつけて放置したミトンとマフラーが傍には落ちていて、ナターリヤにどうしてもあの日を思い出させた。ぎゅぅ、と唇を噛む。不快感よりも強く、眩暈と胸の痛みがあった。かたく握ってしまった指を無理に開いて、唇に押し当てて息を吸う。生温かい空気が喉を乾かして、反射的に何度も、咳が出た。
 悪いものと一緒に、消えてしまえばいいのに。忘れてしまうことが出来ればいいのに、『国』として生まれた体は、それをナターリヤに許すことがなかった。国の歩んだ歴史とは、そのまま『国』の記憶である。『国』の記憶は国家の視点から見た自国の歴史そのものであり、文書や記録としてたとえ消えたことであっても、彼らのどこかに、それは残っている。ひとのように、忘れたように、思い出せなくなることはあっても。
 ひとのように、忘れたいことを、何時までも記憶してしまうこともある。全てを克明に記憶している訳ではない。ナターリヤが覚えているのは断片的な、それでいて生々しい風景や仕草の欠片であり、かけられた言葉や、会話のひとつであったりした。リトベル共和国。闇に葬られた七ヶ月の結婚、『リトアニア』と過ごした日々が、今も『ベラルーシ』の中に深く残っている。傷跡のように、それは傷んで、いつまでも忘れられない。
 体から力が抜けていく。ずる、とクローゼットの扉にもたれるように、氷のように冷えた床にしゃがみ込む。薄いカーペット一枚では、床から立ち上る冷気は遮断しきることが出来ないようだった。寒い。この建物の中に居るのはナターリヤだけで、そのことがなお、少女の心を冷やしていた。ひとつの建物に、ひとりきりで居るのは苦手だった。嫌いだった。苦手にさせられた。嫌いにさせられた。桜色の洋服が、やけに目につく。
 カタン、とかすかな物音が耳に届いた。はっと正気を取り戻し、ナターリヤは俊敏な態度で立ち上がる。着替えも身支度も整っていないことなど、もう気にもならなかった。温かなカーディガンだけを掴んではおり、部屋を飛び出して行く。
「兄さん!」
 物音は、居間の辺りからした。仕事を終わらせたイヴァンが、途中でなにか買って来たものをしまっているのだろう。ナターリヤの家の冷蔵庫にはミネラルウォーターと簡単な軽食しか入っていないことを、イヴァンも知っている筈だった。熱でふらつく体を喜びで高揚させながら、ナターリヤは素足で冷たい廊下をかける。そして居間の扉を、音高く開いた。
「兄さん、姉さん? 兄さ」
「起きられるの?」
 たちのぼる、冷気の冷たさを、その瞬間に思い出す。立ちつくすナターリヤを出迎えたのは、イヴァンでもライナでもなかった。トーリスだった。仕事の帰りか、あるいは抜け出して来たのだろう。フォーマルな仕事用のスーツをきちんと身に付けた『リトアニア』は、薄暗い部屋の中、僅かに微笑みながら首を傾げて立っていた。その足元には格好の不釣り合いな、ビニール袋が置かれている。食材や、惣菜が入っているようだった。
 食べものの温かいにおいが、不気味に空気を染めていた。
「……ベラルーシ?」
 本当に二人きりの時、トーリスは戯れか気まぐれで、ナターリヤの『国』の名を呼ぶ。それは政治と騎士の望みによって結びつけられた七ヶ月間の名残のようなものであり、単純に、そちらの方が舌に馴染んでもいる様子だった。キエフの子らには、長く、人の名が与えられないままだった。厳しい寒さと世界の中で、キエフの『国』は救いであり信仰であり象徴であり、ひとの形をして生きる神である時間が長すぎたからだった。
 ひとの名がナターリヤに与えたのは、『国』の記憶と完全に切り離して持つことのできる、個としての優しい記憶だった。
「ベラルーシ」
 不思議そうに、馴染んだ響きでトーリスはナターリヤの名前を呼ぶ。存在として一番初めからあった名前は、魂に染み込むように響き渡って行った。動けないナターリヤに、トーリスはゆるりと穏やかな仕草で首を傾げ、春摘み苺の葉色をした瞳に、優しい意思を揺らめかせた。
「どうしたの。大丈夫?」
 なにも答えず、ナターリヤは一歩後退した。いつの間にか閉まっていた扉に体が阻まれて、それ以上は距離を開けることができない。足も、扉に触れる指も、とても冷たかった。家の中はきんと冷えて静まり返っていて、まるで閉ざされてしまったようだった。なんの音も、しないようだった。ナターリヤは息を吸い込む。針のような痛みが、胸に広がった。カタカタと、己の意識の外で体が震える。指先が、ナイフを探して彷徨った。
 ここは、どこだっただろう。いまは、本当に、認識していた『現在』なのだろうか。長い眠りに夢を見てしまっていただけで、あの石造りの塔の中に、まだ居るのではないだろうか。滑稽な思考はナターリヤの意識いっぱいに広がって、歩み寄ろうとするトーリスに言葉として向けられた。
「……え、る」
「……え?」
「かえる。……嫌だ、帰る。帰る、帰る! 帰るっ! 兄さんと姉さんの所に帰る! 帰せっ!」
 だからここから、出せ。悲鳴より血に似た叫びで木霊した声に、トーリスは息を飲んで目を見開いた。それだけで、どんな混乱が起こっているのか分かってしまう。けれど、どんな言葉もナターリヤには届かないだろう。怯えに似た拒絶を張りつかせて、ナターリヤの手が服の胸元をかきむしるように握った。眼光は鋭く、トーリスにひたと向けられて離れない。トーリスは言葉を失い、中途半端に伸ばした手を、握り締めて下ろした。
「ナター……リヤ、ちゃん」
 なにを間違えてしまったのかは、トーリスにも分かっていた。苦しく呼び直したトーリスに、ナターリヤはさらなる混乱を呼び起こされて首を振った。少女の指先が、己の太ももに固定してあった硬いものに触れる。体温と同じぬくもりを分け与えたそれは、あまりに身近にしていたからこそ咄嗟には思い出せないものだった。全く意味がない、と頭の一部でごく冷静に己を叱咤して、ナターリヤは慣れた仕草でそれを取り外す。
 ちいさなナイフだった。ナターリヤが普段武器として使用している大ぶりなナイフとは違う、護身用にしかならないであろう大きさの、華奢なつくりのナイフだった。ごく古めかしいデザインの、しっかりとした作りのもので、丁寧に研いで整えられている。それを握ってようやくナターリヤは安心したように息を吸い込み、トーリスは顔色を悪くして息をつめた。ナターリヤは落ち着きを取り戻した冷たい横顔を、薄暗い空気に晒している。
 刃先がまっすぐ、トーリスに向けられた。
「……刺したい?」
 口を開いたのは、トーリスが先だった。静寂の空気を揺らすことでしか救われないような苦い響きを帯びて、トーリスはゆるく目を細めて笑う。ナターリヤはなにも言わず、ナイフを握る指に力を込めた。短く切って整えられた爪の色は白く、血を通していなかった。そのことこそを愛しむように、申し訳なく思っているように、トーリスは淡々とした声で両腕を広げてみせた。
「いいよ。君が望むなら、やっていい。……ただ、俺は『国』だから、これはあくまでトーリス個人としての許可だけど」
「な……ん、で……!」
「だって、ベラルーシがリトアニアになにかするのはマズイから。だから個人的になら、俺は君に刺されてあげる。国は全く関係ない所でなら、君は、俺になにしたっていいよ。……君が望んで俺にそれをするのなら、好きにしていいんだよ」
 さあ、おいで。柔らかく微笑んで腕を広げる『リトアニア』が浮かべていた笑みは、あくまで正気の中に保たれた、許容と穏やかな愛情によるものだった。トーリスはナターリヤの全てを受け入れ、全てを許して全てを愛している。
「ナターリヤ」
 まるで、踊りに誘うように片手を差し出して。トーリスは、ナターリヤをその腕の中に無防備に呼びこんだ。
「おいで」
 足音も、なく。ナターリヤがトーリスに向かって踏み込むのと、背後の扉が音高く開かれるのはまるで同時だった。弾丸のように飛び出して行くナターリヤの背後から腕が伸び、ナイフの軌跡を無理に上に捻じ曲げる。馬鹿っ、と荒々しい叫びがナターリヤの耳元で叫ばれ、トーリスの腕の中に飛び込むより早く、少女の体は温かく抱きしめられた。トーリスはほんのすこし悔しげに、現れた存在の名を呼ぶ。
「ギルベルト。……に、エリザベータさん。どうして、ここに?」
「ライナさんから連絡網! ナタちゃんが風邪引いたって聞いて、お見舞いに来たのよ!」
 ナターリヤとトーリスの間に体をねじ込むようにして立ち、フライパンを構えてエリザベータは興奮した口調で吐き捨てた。お前もすこし落ち着けな、とエリザベータに溜息を向けながら、ナターリヤの腕を取って背中から抱きしめて静止しているのはギルベルトだった。ギルベルトが居るのも、エリザベータと同じ理由だろう。単に引っ張られてきただけかも知れないが、ナターリヤをしっかりと抱きしめる腕は、庇護の強さを持っていた。
 一瞬の静止にそれまでの混乱もあって状況把握が出来ていないナターリヤを、宥めるようにギルベルトの手が撫でる。よしよし、と赤子にするように言い聞かせながらも、ギルベルトの手は慎重に動き、少女の発熱と脈拍を確かめていた。片手で少女の腕を捕らえたまま、器用にコートを脱ぎ、ギルベルトはそれを少女の体に巻き付けてしまう。温かさに、ナターリヤの体から本能的に力が抜けた。ナイフが、手から落ちる。
 床に突き刺さるより早く受け止めたエリザベータは、それを視線も向けずギルベルトに差し出した。ギルベルトは慣れた仕草でエリザベータから危険物を受け取ると、もの言いたげなナターリヤの視線に苦笑して、ナイフを差し出してやる。
「よーし、良いコだナタ。落ち着いたな? 刺したり投げたりすんなよ?」
「うるさい。そんなの私が決める。……ギルベルト、エリザ、なにしてるんだそう言えば」
「こっちの台詞だっつーの。病人がふらふら起き上がってるんじゃねぇよ。だるいか? なんか食べたか?」
 しっかりナターリヤと視線を合わせながら、ギルベルトは背後を気にしているエリザベータの視界の端に映るよう、ひらひらと手を振った。す、とエリザベータはフライパンを持って構えたまま、トーリスが少女から完全に見えないよう、立ち位置を変える。よし、と安心した風に頷き、ギルベルトはむくれた表情でだるい、そして水も飲んでない、と言ったナターリヤと額を重ねる。ごち、とやった方もやられた方も、等しく痛い音がした。
「ばぁか。来て正解だったじゃねえかよ。なんか食べやすいもん作ってやるから……エリザ、着替え手伝ってやってくんねえ? シャワー……は難しそうだから、体拭いてやれよ」
「了解。覗いたらコレだからね?」
 ぐっとフライパンを握って笑顔を向けてくるエリザベータに、ギルベルトはもちろん分かってる、と言いたげな引きつった笑みを浮かべて頷いた。二人は滑らかな動きで立ち位置を即座に入れかえ、やはりナターリヤの目からトーリスを隠す。それは同時に、トーリスの目にもナターリヤを映させない絶対の防衛だった。苦笑するトーリスに睨みを向け、ギルベルトはナターリヤを連れて出て行くエリザベータに、ひらりと手を振る。
 エリザベータは心得た表情で頷き、ナターリヤを抱きしめるようにしながら居間を出て行った。足音が遠ざかる。これでギルベルトが呼びに行くまで、二人はこの部屋に近付きもしない筈だった。やや体から力を抜きながら、ギルベルトは腕組みをして胸を張り、不愉快げに首を傾げる。
「……つーか」
「はい」
「なんだよあの、俺らがあと一分でも遅かったら流血大惨事になってた状況は」
 むしろお前はどんなトラウマをナタに植え付けてあるんだ、と呆れにすら近い怒りの表情で問いかけてくるギルベルトに、トーリスはくすりと喉を震わせて笑った。トラウマを植えたつもりはないのだが、そう言っても過言ではないだろう。本人にしてみれば、それが全く正しい認識なのかも知れなかった。なんとも言えない気持ちで顔をあげ、トーリスはゆるく苦笑して唇を開く。
「ギルベルト。リトベル共和国、ご存じですか?」
「詳しくはない。……でもウチが、っつーか、ドイツが占領して解体させた、リトアニアとベラルーシの」
「そう。俺と彼女の国が合併して出来た、七ヶ月だけの共和国です」
 お前さりげに連合王国とか組むの好きだよな、というギルベルトの表情が嫌そうなのは、かつてタンネンベルクの戦いにて、リトアニアとポーランドに追い詰められた経験があるからだろう。『国』として、『プロイセン』は己の民を鼓舞しつつ必死に戦ったが、結果は両国に破れていた。ヤバイそん時の黒歴史思い出した、忘れろ俺様、と呟きながら額に手を当てて顔をしかめているギルベルトに、トーリスは肩を震わせて笑う。
「それで、その時に」
「あ? ……あ、ああ! おう、その時に?」
「ちょっと彼女を監禁してました。今は反省しています」
 その時のことで今も色々あるんでしょうね、とにっこり笑うトーリスに、ギルベルトはどん引きの表情で呟く。
「お前、なんで生きてられんだよ……や、『国』だから、そういう意味で死が訪れないのは知ってるけどよ。よく、イヴァンが許し」
「俺も、そう思うんですけど」
 お辞儀でもするように胸に片手を当て、トーリスは甚だ不思議でならないのだ、と告げるように瞬きをした。
「言ってないみたいなんですよね……ナターリヤちゃん。そのことを。イヴァンさんにも、ライナさんにも」
「……なんでだ?」
「さあ。知ってたらイヴァンさん、ソビエト時代に俺をコルホーズ行き放題コースですよ」
 でも一度もそういうことはありませんでしたし、とさらりと告げるトーリスの視線は、落ち着いているようでいて、不安定に彷徨っていた。蝶が飛びまわる軌跡のように不規則に、ゆらゆらと揺れる視線は無意識にかナターリヤを探しているようで。ギルベルトは、眉間のシワを深くする。
「トーリス」
「分かってます」
 ふ、と諦めたように、視線がギルベルトに向いて落ち着いた。分かっています、と言い聞かせるように囁いて、トーリスは諦めたように笑った。
「俺は、彼女に嫌われてますから。良いと言えば、刺されるくらいに」
 ギルベルトは、その言葉になにか引っかかりを覚えて僅かに首を傾げたが、その動きはトーリスに分かるものではなかった。交わす言葉もなくなり、薄暗い部屋に静寂が戻ってくる。耐えきれなくなったように、トーリスが部屋の扉に歩み寄った。
「どこ、行くんだよ」
「帰ります。彼女の体調を悪化させるのは、俺の本意ではないので」
 適当に椅子に引っ掛けておいた茶色のコートを着込み、トーリスは鮮やかな白いマフラーを首に巻いた。よくトーリスがしている、コートと似た色合いのマフラーとは別のものだ。『国』は割と質素な生活を好むが、外出着が一着しかない訳ではない。それでも微かな違和感に、ギルベルトはつい、口に出していた。
「それ、普段のと違うな。買ったのか?」
「ええ」
 穢れなき、雪原のような柔らかで鮮やかな白は、うっすらと青みを帯びているようでもあり。ナターリヤの髪色に、よく似たものだった。トーリスは大切そうに手袋をはめない手で、そのマフラーを撫でて言う。
「つい先日。一目惚れして」
「ふぅん。まあ、風邪引かないように帰れよ……それと、あんまナタ苛めんな」
「苛めてませんよ、大切にしたいだけなんです。俺はね」
 ギルベルトも、体調に気をつけてくださいね、と言い残して。トーリスはマフラーをひらりとなびかせ、居間を出て行った。すぐに玄関が開く音がして、足音はまっすぐに遠ざかって行く。思わずその場にしゃがみこんで溜息をつきながら、ギルベルトは思い出したかのように、家の寒さに身を震わせた。
「この室温は風邪悪化するだけだろうが……ったく」
 とりあえず、部屋を暖めて、電気をつけて明るくもして。それから、料理に取りかかろう。そう思いながらギルベルトはトーリスの残して行った食材の入ったビニール袋に近付き、ひょいと持ち上げて中身を覗きこむ。入っていたのは数種類の野菜と、まだ温かなボルシチだった。



 あとは、ギルベルトに任せておけば安心である筈だった。トーリスにフライパンと罵詈雑言、その他もろもろを叩きつけてやりたい気持ちを堪えながら、エリザベータはナターリヤの手を引き、少女の部屋まで戻る。居間や廊下と違い、温かい空気に包まれていた少女の部屋は、二人の訪れを柔らかに出迎えてくれたようだった。ほっと、無意識にだろう。全身から緊張を消したナターリヤを、抱きしめてやりたい気持ちになる。
「……ナタちゃん、着替えよっか。あと、体は拭く?」
「……いい」
 それがどちらに対する否定であっても、エリザベータは良い気がした。とりあえず、言葉を向けて返事が返ってくるのであれば、ショック状態から脱したばかりでは、精神的に安定している方だった。けれど、またなにが引き金になって混乱させてしまうか分からないので、エリザベータはそっとナターリヤから体を離し、少女の好きにさせてやることにする。ギルベルトは着替えと清拭を、と言ったが、あれは方便にしか過ぎない。
 部屋から二人を、ナターリヤを逃がす為の理由だから、少女がそれを望まないのであれば、それで構わないのだった。ただ、もうすこし温かい格好をして欲しい、とエリザベータはごく軽く眉を寄せる。寒さに慣れているのかも知れないが、ナターリヤが来ているのは冬用のぶ厚い生地で作られたパジャマとカーディガン、ギルベルトが纏わせたコートだけなのである。薄着だとは思わないが、なんとなく寒い印象がある。
 素足だからだ、とエリザベータはすぐに気が付いた。体を布で温かくしても、足が露出してしまっては冷えるだけである。部屋の中で視線をうろつかせて靴下を探しながら、エリザベータはベッドに腰かけたナターリヤに、そっと響く声で問いかけた。
「イヴァンかライナさん、呼ぶ? すぐ、来てくれると思う」
「いい。今日、二人とも来ると言っていた。だからわざわざ呼ばないでいい」
「……そう」
 ぽすん、と音を立ててナターリヤはベッドに横になる。寝るつもりはなく、疲れて体を起していたくないだけなのだろう。開かれた瞳はぼんやりとした色を灯してはいるが、眠りの気配は漂っていなかった。エリザベータは扉のすぐ傍に立ちながら、なにも言わずにナターリヤを見つめている。出て行け、と言われないので、少女がエリザベータの存在を許容していると思いたかった。少女の無関心は、拒絶ではないのだった。
 シーツの上に体を投げ出し、ナターリヤはナイフを握っていた己の手を見つめていた。癒えない傷跡が、いくつもあった。それは直接の戦闘でついた傷もあるが、大半は『国』であるが故に浮かびあがって来てしまうもので、少女の手が血を流したものとは、また別のものだった。ナターリヤはじっと、己の手を見つめる。なにも考えられない状態で左手を見つめ、少女は、諦めたように目を閉じた。ためらいがちに、足音が響く。
 ベッドがきしみ、左手が柔らかなぬくもりに包まれた。ぎゅぅ、と力を込めて握る。
「エリザ」
「なあに、ナタちゃん」
「リトアニアは」
 帰ったのか、とかすれた声が問いかける。エリザベータは確証がないからこそ答えにためらったが、本人が自分で言いだすにしろそうでないにしろ、ナターリヤの状態からして、ギルベルトが留まらせているとも思わなかった。
「帰ったわ。だから……安心していいのよ」
 ナターリヤは、なにも言わない。繋いだ手に力を込めて、まぶたを震わせただけだった。



 穏やかな寝息が響いている。片手を繋ぎ合せたまま、エリザベータは眠るナターリヤの顔を眺めていた。同性ながら、本当に綺麗な少女だ、と思う。もうすこし穏やかな表情を浮かべる機会さえあれば、さぞ交友関係にも恵まれるだろうに。あいにくと少女の苛烈な性格は、それによって周囲のひとも、『国』も、やや遠ざけている状態だった。エリザベータとて、ソビエトで共に過ごした期間がなければ、同じことだっただろう。
 吹雪と風の冷たさに守られるように、ナターリヤはどこか、人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。それでいて、無自覚に寂しがりやで、外見年齢相応の甘えたい心も持っていると、知る者はすくないだろう。トン、と部屋の扉がノックされる。静かにね、とだけ声を返せば、おう、と笑いながら応じたギルベルトが入って来た。男は女物のエプロンを外しながら扉を閉め、眠るナターリヤを見つめて、ごく嬉しそうに口元を綻ばせる。
「ナタ、寝てんの? 寝かしつけたのか?」
「寝ちゃったのよ。体調も良くないだろうし、興奮してたのが落ち着いて疲れたんでしょうね……」
 近付いて来るギルベルトからは、温かなたべものの匂いがした。なに作ったの、と笑いながら問いかけるエリザベータに、ギルベルトはベラルーシの伝統料理の名前をいくつかあげ、ベッドサイドにしゃがみこむ。眠る少女に伸ばされる手を、エリザベータはなんとなく見つめていた。ギルベルトの手は慈しむようにナターリヤに触れ、頬に散らばった髪を耳にかけると、額に押し当てられて熱を計っている。ふ、と笑みが緩んだ。
「ん、さっきよりは良いな。……ああ、そういやトーリスは帰ったから」
「あらそう。良かった。ナタちゃんに帰ったって言っちゃったのよ」
「勝手に……まあ、帰すつもりだったからいいけどよ」
 そういうのは一言でも打ちあわせてからにしようぜ、と苦笑いをするギルベルトに、エリザベータはごめんね、とにっこり笑う。どのみちトーリスは家に残らなかったのだし、それでいいではないか。そう思っているのが丸分かりの笑顔に、ギルベルトは溜息をつき、眠るナターリヤを見つめる。すぅ、と深い寝息を立てているナターリヤの意識は夢に深く、声をさほど抑えていない会話にも、揺れ動かされることはないようだった。
 起きていれば凛として冷たく張り詰めた表情も、眠っていればまだあどけない。十八か、十九くらいの外見だった。『国』の精神は、大体外見年齢に引きずられ、固定される傾向にある。身も心も十九の少女とはまるで違うだろうが、それでも、ギルベルトにとっては庇護すべき年下の少女だった。悔しいような、悲しいような定まらない気持ちでナターリヤを見つめ、ギルベルトはぽつりと口を開く。
「エリザ」
「なに?」
「お前、あれ見てどう思った」
 あれ、を詳しく説明しなくとも、エリザベータにはギルベルトの言わんとすることが分かる。普段でもある程度通じてしまう為、こうして事件の起きた後の張り詰めた空気の中で、それを読み間違えることはないのだった。家の鍵は空いていた。それだけでも奇妙だと思ったのに、扉を開けて感じたのは、どこか破滅的な予感だった。声が聞こえた部屋の扉を開け放って見えたのは、今まさに足を踏み出したばかりの少女の姿。
 そしてそれを、微笑んで迎えようとするトーリスの姿だった。一瞬でも判断が遅れていたら、トーリスは刺されていただろう。ギルベルトはナターリヤの手を見つめ、エリザベータも同じように少女の華奢な作りのてのひらを、ただじっと見つめた。大人になりきれていない印象の、少女の手だった。傷跡はたくさんあるが、それはてのひらのしなやかな印象を損なうものにはなっていない。武器が、似合うとも思えないてのひらだ。
 それでもこの手が大型のナイフさえ自在に操るさまを、二人はよく知っていた。あの時、ナターリヤが持っていたのはごく小型のナイフだ。果物ナイフより一回り大きいだけの、護身用のナイフ。少女が好んで武器にするものと比べれば、あまりに頼りなく、そして不安なものだった。
「思いっきり刺しに行ってたよな……」
「そうね。しかも心臓狙いとしか思えない高さだったわ」
「本気だな、ナタ……。俺ら心臓刺しても死なないけど、人知を超えた激痛を味わうハメにはなるもんな」
 人の身にでは決して感じない苦痛も、ひとと同じようには死なない『国』は受け止めてしまうのである。想像してぞっと身を震わせるエリザベータに、ギルベルトは今一つ納得しきれない様子で、かえすがえす首を傾げた。
「……トーリス、変じゃなかったか?」
「確かに、自分を刺し殺そうとする相手に向かって、完全無防備だったわよね」
「それもそうなんだけどよ。こんな感じだっただろ?」
 こんな、と言ってギルベルトはエリザベータと向き合うように体の位置を整え、腕を持ち上げて開いて見せた。そのまま腕の中に身を寄せれば、腕を閉じるだけで簡単に抱擁できるだろう。エリザベータは眉を寄せながら一瞬の光景を思い出し、確かに、と不可解な想いを抱えて頷いた。トーリスは、ナターリヤを迎えるように腕を広げていた。『国』は、たとえ心臓を貫かれても死にはしない。痛みの中でも、動くことはできる。
「ナタも馬鹿じゃねえ。『国』の体のことは同じ存在として知ってる筈だし、なにより、あのまま飛び込んで殺せるとは思ってなかったよな? そうすると結果は見えるんだよなぁ……。つか……どういうことだ?」
「なにが?」
「お前さ、嫌いな相手に触れたいと思うか?」
 生理的に嫌でも、なんか理由があって嫌いとかでも良いんだけど、とにかく嫌いな相手。特に異性。補足しながら問いかけてくるギルベルトに手を伸ばし、エリザベータは男の頬をつまんで左右に引っ張った。当然、抗議しようとするギルベルトを、エリザベータは至近距離からの笑顔で黙らせる。
「触りたいと思う訳ないでしょう? 嫌いな相手に触る、もしくは触られたら即座にアルコール消毒よ?」
「お前それは酷すぎじゃね?」
「だって生理的に嫌いな相手とか言うんですもの。なにか理由があって嫌いな異性だったら、そうね。なにがあっても絶対に接触しないような距離は保つと思うわ」
 女ってマジ怖い。そう言いたげに若干怯えた顔つきになるギルベルトの頬を引っ張ってぺちんと離し、エリザベータは指で額を突っつきながらそれで、と笑みを深める。
「なに、どういうこと? 分かるように説明しないと」
「……し、しないと、なんだよ!」
「窒息寸前までキスしてあげる」
 お前はどうしてそれが脅しとして有効だと思い、かつなんでお前が俺にそれをしかけてくるのか、という疑問を瞬間的に瞳によぎらせたギルベルトは、反論の一切が無駄だということも知っていたので、こくこくと無言で頷いて従順である意思を示した。エリザベータはちっ、と聞こえるような舌打ちを響かせた。
「まあいいわ、許してあげる。話しなさい」
「エリザ怖すぎるぜー……。や、だからよ。トーリスが嫌いなわりに、ナタってわりと自分から触りに行くこと多くね?」
 今回にしても、それ以外にしても。告げたギルベルトに、エリザベータは意外そうにぱちりと瞬きをした。確かに今回は、触れに行くとする範囲を超えすぎているにしろ、ナターリヤから距離を縮めてはいた。それ以外にも、たとえばナターリヤはトーリスの指をよくばきばきにしているが、それにしたって触れなければ折ることが出来ない。トーリスは、あれで紳士的な気質も持っている。自分から少女に接触することは、まず、ない。
 つまりそれは、そこにどんな理由があったとて、ナターリヤからトーリスに手を伸ばしたということだ。もちろん、感覚はひとそれぞれである。けれどエリザベータには、あの衝撃的な光景を見ていたからこそ、納得しきれない違和感が胸に残った。ギルベルトも、同じ気持ちなのだろう。不可解そうな顔つきで、シーツに投げ出されたナターリヤの手を、じっと見つめていた。
「……あんま、辛い想いは抱え込むなよ?」
 少女の手は、エリザベータと繋がれている。自由に置かれているもう片方の手に指を絡めて握り締めれば、眠るナターリヤの表情が、ごく甘く穏やかに緩められた。兄と、姉がそうしてくれていると、夢に見ているのかも知れなかった。

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