ゴウン、と空調が奏でた重く柔らかな音が意識を揺らし、カリーナはそっと瞼を持ち上げた。息を吸い込み、横たわったままで瞬きをして数秒考え、ああ寝ていたのだ、とそのことを理解した。寝た記憶がないので、意識が落ちてしまったのだろう。ソファに横たわった体を持ち上げようと手を付くと、左腕にずきりとした痛みを感じて歯を食いしばる。視線を向けると、傷口に重ねたガーゼの上から包帯を巻いたのだろう。鍛え上げられてなおほっそりとした少女の腕はひと回り大きくなっていて、カリーナは憂鬱な息を吐きながら、なるべく腕に負担をかけないよう、腹筋にものを言わせて体を起こした。
スーツから簡素な白いワンピースに着替えさせられた体には、薄いブランケットがかけられている。指先でつまみあげてそっと覗き込むと、太ももにもぐるりと包帯が巻かれていたので、カリーナは再び溜息をついた。こんなもの、どうせ出動する時には取らなければいけないのに。怪我を押して戦うヒーロー、というものに、シュテルンビルトの市民は反射的な恐怖感を覚えている。それは約二年前の『ジェイク・マルチネス事件』からで、市民は傷つくヒーローというものをその時ほぼ初めて目の当たりにし、同時にそれは不安を揺るがす象徴的なものとなって意識に植え付けられたのだ。
彼らは傷ついてはならない。彼らは平和維持の象徴であり続けなければならない。怪我をすることもあるだろう。けれど、怪我をしてなお戦い続けることと、苦痛に顔を歪ませながら動き続けること、治療中に飛び出して行くことを、ヒーローは暗黙の内に禁じられたのだ。貴方たちの命を脅かすことは許可できない、とアニエスは言う。それでいて、今の市民の状態をどうすることもできない、と。反発を覚えることも多い有能な女性も、守らなければいけない対象だと思ったのはいつのことだっただろう。春に花が芽吹くように、ブルーローズの意識は変化した。カリーナは己のことなのに、それがよかったのか悪かったのか、未だ判断することができないでいる。
指先を伸ばして、脚の包帯に触れる。ブランケットにまで移った体温が、ほっと心を和ませた。
「痛いの?」
はっとして顔を向ければ、カリーナが着ているものと良く似た白いワンピースを身に纏い、パオリンが立っていた。髪にはすでに見慣れた、青い花飾りのピンを刺している。答えないカリーナに気を悪くした風もなく、パオリンは両手いっぱいに、曲芸かなにかのようにして持っていた食器を、次々と眼前の机に並べて行った。そこで初めて、カリーナは己の居場所を悟る。トランスポーターの中だ。しかし、ブルーローズのタイタンインダストリーのものでもなく、ドラゴンキッドのオデュッセウスコミュニケーションのものでもない。タイガー&バーナビーの、アポロンメディアのトランスポーターだった。
トランスポーターの基礎構造は、各社共通のものである。それぞれの個性に合わせてギミックが取り付けられていたり、改造されていたりはするが、有事に使いまわせるようにと大元は一つのものにしてあるらしい。居住性を持つラウンジなどその最たるもので、間取りも家具も初期状態は完全に同じものあり、こうした不意の眠りの後では誰のラウンジで寝かされていたのか分からないこともままあった。
それなのになぜ、タイガー&バーナビーのトランスポーターであると分かった理由の一つに、彼らがバディであることがあげられる。成人男性が二人で使うラウンジなのだ。他の誰よりも大きな空間があり、なにより彼らはこのラウンジで過ごす時間が多いらしい。個性溢れる、とすれば聞こえは良いが、二人が持ち込んだ私物がそこかしこに見受けられるのだ。自宅かここは、と思いながら、カリーナは居場所を断定する原因となったバーナビーのヒーロースーツの一部、脱ぎ捨てられたフルフェイスマスクとアームカバーの一部をうろんな目で眺め、室内にぐるりと視線を巡らせる。
U字形のソファには、眠っていたカリーナと食料を運んで来たパオリンしか座っていなかった。探しても、本来の主である二人の姿はなく、気配も感じ取れない。どういうことなのだろう。胸を騒がせるあまり良くない予感に眉を寄せながら、カリーナはひたすら丼御飯を攻略しているパオリンに視線を向けた。よく焼けた鰻のかば焼きが美味しそうだ。
「ねえ、パオリン。私、どうしてここで寝てたの? ……あと、タイガーとバーナビーは?」
口いっぱいにタレのかかった白米を詰め込み、もぐもぐもぐと口を動かして飲み込んでから、パオリンは涼しげな表情をしてペットボトルに手を伸ばした。グリーンティー。イワンからの差し入れに違いない。喉を潤してからうーんと首を傾げ、ホァンはペットボトルのねじを締めつつ、呟きを落とす。
「寝てたっていうか、僕も寝てたから……ちょうど起きたら、バーナビーがカリーナさんの額にちゅってしてるトコだったから、連れてきたんじゃないかな。良い子にしててくださいねって言って、バーナビーはお仕事に行っちゃった。タイガーは付き添い?」
「……タイガーなんか言ってた?」
「なんでバニーちゃんはどうしてそうやってすぐカリーナとパオリンにちゅっちゅするの? って泣きそうだった」
二人の少女はなんとも言えない表情で視線を見交わし、同時に溜息をついた。パオリンが補足のように、僕が起きたのにも嬉しそうにしてほっぺにちゅってして行ってきますしたからね、と告げるのに、そんなことだろうと思った、とカリーナは頷く。バーナビーは性格的に、別にスキンシップが激しい訳ではない。女性に対してすぐ触れたがる訳でもないのだが、ことカリーナとパオリンに対しては事情が違うのだと、二人は己のことだからこそ熟知していた。昔からではない。ここ一年くらいのことだった。大体全部タイガーのせいなんだけどね、と呟くパオリンは卵丼に手を伸ばしてもぐもぐと頬張っているが、その勢いは先程よりずっと遅かった。
そうね、と相槌を打ちながら、カリーナも机に溢れる程おかれた食べもののうち、ハムとレタスのサンドイッチに手を伸ばして口をつける。パンにはハチミツが入っているのだろう。ふわりとした甘みが口の中に広がって、ハムのうまみとレタスの瑞々しさをいっそうひきたてた。はぁ、と二人は同時に溜息をつく。『ちゅっちゅするの?』じゃないだろ、あの中年。カリーナは未だに虎徹に淡い恋心をくすぶらせていたが、それはそれ、これはこれとして、全く分かっていない相手に殺意めいたものすら感じる。パオリンも、全く同じなのだろう。どん、と音を立てて空にしたどんぶりを机に置き、フォークを持ってパスタに手を伸ばす、その目が座っている。
一年前、バーナビーの精神は一度破綻した。それは彼の記憶の混乱が大きな原因を担うが、一番のきっかけになったのはバディがヒーローを辞めると言いだしたことだった。その時のことは、カリーナも詳しく思い出したくない。たくさんの事情があったにせよ、虎徹は共に戦ってきた仲間たちに対し、最初は本当の理由を明かそうとしなかった。年齢もあるだろう、娘のこともあるだろう。けれど、それを理由にヒーローの辞職を決意しただなんて言葉を、誰も信じなかったし受け入れなどしなかった。バディであるバーナビーは、誰よりそれを信じなかった。ひとかけらも、受け入れることをしなかった。
彼の精神の破綻に一番初めに気が付いたのは、アカデミーの先輩でもあるイワンだった。ほぼ同時にパオリンも気が付き、行動に出たのは少女の方が先だった。その時のことを、カリーナはよく覚えている。バーナビーは眠るように目を閉じて、トレーニングルームのベンチに座っていた。青白い顔つきの男を、体調でも悪いのかとカリーナは遠くから眺めていた。その視界を横切るようにして、身軽くパオリンはバーナビーの前へ行く。虎徹は辞めると言いだして一週間が経過し、その間一度も、トレーニングルームでバディが揃うことはなかった。心の一部を預けるように、依存していたと言っても過言ではない恋の仕方をしていたバーナビーには、すでに限界を超える空白だったのだろう。
大体からしてその前も、虎徹は帰省していてバーナビーの傍にはいなかったのだ。仲間たちはその間、バーナビーがどれ程頑張っていたかを知っている。心配をかけないように、また、バディに誇りと思ってもらえるヒーローであるようにと。
その時にはすでに確か二人は恋人同士で、カリーナは一晩ではなく涙で枕を濡らした記憶があったから、バーナビーの気持ちはすこし分かるつもりだったのだ。つもりでしかなかったのだと、その後のパオリンの言葉で知らされたのだが。少女はバーナビーさん、と男の名を硬く強張った響きの声で呼び、ゆるくゆるく持ちあがった瞳を捕らえるように、睨みつけるように視線を重ねて行った。
「ボクが」
迷子のこどもに見えたんだよ、とパオリンは言った。親とはぐれちゃって、誰も傍に居てくれなくて、どこへ行ったらいいのかも分からなくて。寂しいよ、苦しいよって、声も出せないで泣いてるこども。手を繋いであげたかったんだよ、とパオリンは言った。
「一緒に、いるよ。……バーナビーさん、ボクが一緒だよ」
あらぁ、と茶化すようにあがったネイサンにちらりと視線を向けただけで、パオリンは笑いも怒りもしなかった。少女のてのひらが持ちあがり、体温と生気を同時に失ってしまったかのようなバーナビーの頬を包み込む。
「……タイガーさんじゃないけど。ボク、ずっと一緒にいるよ」
「キッド……さん」
「家族になろう、バーナビーさん。ボクたち、ヒーローがバーナビーさんの家族だよ。……タイガーさんじゃなきゃ、ダメかな。ボクは、バーナビーさんの家族になれない? ……ねえ、ボクはずっと傍にいるよ」
一生ヒーローでいるつもりだからね、と少女めいた華やかな笑顔でパオリンは言った。国に家族はいるし、時々は会いに帰りたいし、それはすごく大切で大好きだけど、でも。
「傍にいるよ。……だから、ボクと家族になろう?」
「……家族……でも」
「結婚しようよって言ってるんじゃないんだ、バーナビーさんがしたいならしてもいいけど。そういうのじゃなくて、ボクたちは家族になるんだよ、バーナビーさん。病める時も、健やかなる時も、悲しい時も苦しい時も。ずっとずっと一緒にいて、気持ちをこうやって分けあえばいい。ボクらはそういう家族になるんだよ」
ね、と頬を撫でる少女の手に、困惑したままバーナビーは唇を噛む。頭の中の冷静な部分が結婚の誓いめいた、そのもののような言葉を告げるパオリンに不信感を抱いていたが、同時に傷ついて上手く動かない部分はてのひらのぬくもりに飢えていた。一緒にいるとはなんだろう。家族になるとは。傍にいるとは、どういうことだったのだろう。一度は完璧に理解できた筈の言葉の意味が、今のバーナビーにはよく分からない。はいもいいえも告げず、ただ困惑に意思を閉ざすバーナビーに、パオリンはそっと息を吐き出して見せた。
影が落ちる。ぬくもりは一瞬だけ額に触れて、周囲の歓声とも悲鳴とも取れぬ響きを引き出して離れて行った。口付けられた額に導かれるように顔をあげれば、ようやくこちらを見た、とばかり嬉しげに笑う少女と視線が重なる。傷ついた者を、この世のなにものからも守ろうとする聖女のような表情をして、それでいてまるであどけなく、パオリンは言った。
「仲間で、家族だよ。……恋人じゃないから、離れない」
恋人になるならその前に結婚しようね、と囁いて、パオリンはよしよしとバーナビーの頭を撫でてやる。彼はその時、二十五の青年になっていた。破綻した心が二十五のものであったなら、バーナビーはその言葉も手も体温も、なにものをも受け入れることはなかっただろう。けれども彼はこどもだった。四歳で停止した瑞々しい己の全てに、ようやく時を刻むことを許して、まだ一年も経過していなかったであろう幼子だった。恋をして、愛しいと囁き、想いが受け入れられ返される喜びを知り、それを幸福だとようやく口に出す勇気を持ったばかりの。
どうして一人で大丈夫だと思ってしまえたのか、そちらの方がパオリンには理解できない。だって泣いていたのに。気が付いてしまえば手を伸ばすことしか出来ない程、抱きしめたいと思ってしまうくらいに、バーナビーは泣いていたのに。大丈夫だよ、と頭を撫で、額に幼い口付けを送るばかりのパオリンに、腕を伸ばしたのはバーナビーだった。強く握って強張っていた指を解き、少女の背に伸ばして怖々と抱きよせる。男性にそうされるという危機感などまるでない仕草で、パオリンはバーナビーに体を預けた。よしよし、と囁きながら腕の中に落っこちてきた心を抱きしめ、頭を胸に抱き寄せて撫でてやる。
そこでようやく周囲にめぐらされた視線に、勝ち誇った色がなかったと、カリーナは嘘でも言うことができない。バーナビーを可愛いと甘やかす少女の笑みは、紛れもない勝利者宣言だった。それに苛立った己を過去に戻って正気に戻れと殴ってやりたい気持ちを今も持ちながら、その時のカリーナは、茫然と見守る同僚たちの間をすり抜け、二人の元へ駆け寄った。ちらりと向けられたパオリンの、これは彼を傷つけるものだろうかと厳しく誰何する視線には睨みをひとつ返すことで答え、カリーナは涙の膜を張りながら向けられた、バーナビーの視線を絡め取る。
これを信じていいのだろうか、と不安定に揺れる翡翠の瞳。こんな風では決してなかったと、涙と共に込みあげたのは怒りだ。アンタはもっと強かった筈でしょう。それは虚勢でも仮面でもなんでも、くだらない男のプライドでも、こんな風に弱い所をひとに見せるような心根ではなかった筈でしょう。弱さを見せることを許してしまったのは、すぐ傍にそれを受け止める相手がいたからだ。そうして良いと導かれるがまま、素直なこどもは深く考えることもなく、その通りに甘えてしまったに違いない。ああ、なんだってこんな時に、その元凶は上司なんかに呼び出されてここに戻って来ないのか。見せてやりたい気持ちと、絶対に見せてなんてやるものか、という怒りがカリーナの中で混在する。
パオリンがとっさに走り寄り、すぐに体温を分け与え、傍にいると誓った理由がカリーナにも分かった。手を伸ばして浮かぶ涙を拭ってやれば、バーナビーはくすぐったそうに目元を和ませ、すこしだけ喉を鳴らして笑った。傍にいるなんて言葉を、カリーナは告げなかった。その代わり、前からパオリンが抱きついていたので、カリーナはバーナビーの背中を貰ってしまうことにした。横から体重をかけてやっても良かったのだが、それで空いた背中に誰かが来たら、それがタイガーであっても蹴る自信があったからだ。かくして前ではパオリンを抱きしめ、背中合わせにカリーナをくっつけてようやく失われた体温がバーナビーに戻って来た頃、トレーニングルームに虎徹が戻って来たのだった。
虎徹は、少女を侍らせているバディにぎょっとしたような目を向けて足を止めたあと、えーっと、と口ごもりながらバーナビーの元へ歩み寄って来た。当然、バーナビーの未来を有言、あるいは行動によって仮予約した少女たちからはこっちに来るなと白い目を向けられたが、虎徹はその青年の現恋人でバディである。めげずに、バニーちゃんに話しがあるんだけど、と遠回しに二人きりになりたい旨が告げられた所で、虎徹の世界が逆転した。背後を取っていたイワンが、虎徹に足払いをかけて床に沈めたからだ。痛みと混乱で起き上がれない虎徹を呆れ交じりの冷やかさで見つめ、貴方の事は尊敬していますし好きですが、と少女たちの意思をも代弁して告げたイワンは、けれどそれ以上の言葉を重ねることなく、唇を噛んで俯くバーナビーに身を屈めた。
イワンがロシア系で、同性とのキスに抵抗感がまるでない事実を、カリーナは現実として目の当たりにする。唇噛んじゃいけません、と色などまるでない平然とした声で、幼子を叱るように囁き落として、イワンは戻ってくるのここで待っていますから、とバーナビーに告げた。バーナビーは瞬きをして、それからようやく、安堵したように微笑んだ。それからバーナビーの『家族』はパオリンとカリーナとイワンで、時々その中にネイサンとアントニオ、キースが入ってくるが、その三人は大人であるが故に立ち位置としては不安定だった。
ネイサンは公平で中立であるが故に、アントニオは虎徹と古い付き合いである為に、キースに至ってはイワンの恋人であるのでどう判断していいのか分からないのだろう。紆余曲折の末に虎徹は能力を回復させ未だにヒーローを続けているし、バーナビーの恋人のままだ。恋人のままでいつまで経っても『家族』カテゴリに入って来ないのは、その一度の破綻をバーナビーが根深く許していない証拠であり、どうしてカリーナたちをバーナビーが甘やかし、甘えてくるかを理解していないからだった。許して居なくとも理解さえすればバーナビーは虎徹のことも『家族』と思うだろうが、ヒントを与えて理解させてしまうのが癪なので、パオリンもカリーナもこの一年、理由については黙秘を貫いている。
まあ、褒められたきっかけではないことは分かり切っているのだ。傷心に付け込んで男をたぶらかし落とすなんていう手管を、まさか使うことになるとも思わなかったが、人生なんてきっとそういうものだろう。恋愛させなかっただけ、二人は虎徹に感謝されてもいいくらいだ、とカリーナは考えている。考えて、思い出していた諸々に魂の底から息を吐き出せば、パオリンも複雑そうな顔つきで空になったパスタ皿を机に戻し、首を振った。
「タイガーさんは好きなんだけどね……一年経ってもバーナビーが不安定なんだもん」
「……そういえば」
考えまいとしていた現実と立ち向かうことにして、カリーナはサンドイッチを食べ終えた喉をペプシで潤した。タイガー&バーナビーのトランスポーターにはバーナビー専用の小さな冷蔵庫が置かれていて、その中にはいつの間にか、緑茶とペプシが常備されるのがお約束となっている。パオリンに関してはあればなんでも飲むので、用意のしがいが無いらしい。むくれていつかそう言っていたのを思い出しながらペプシのキャップを閉め、カリーナはそれを机に転がした。マニキュアの剥げた爪先を睨む。
「仕事ってなにしに行ったの? ……状況はいったん落ち着いたと思うんだけど」
途切れる寸前の記憶を探りながら、カリーナは不審げに問いかけた。記憶として思い出せるのは、戦車と狙撃戦闘のあと、バーナビーに抱きあげられたすこし後までだ。ブルーローズのトランスポーターに移動して、なんとかヒーロースーツを脱いでシャワーを浴びて、アニエスからのお説教と同時に現在の状況を知らされ、膠着状態に陥ったからヒーローはしばらく休憩していなさい、と。そう言われた所までは明確に覚えている。その後がない。んー、と頭を抱えるカリーナに、食欲が復活してきたらしいパオリンが、チンジャオロースの大皿を独り占めしながら答える。細切り肉とピーマンがえらく美味しそうに見えた。
「カリーナ、そのままぱたんって寝ちゃったみたいだよ。で、様子を見に行ったバーナビーが発見して、こっちに連れて来ちゃったみたい。仕事は……なんて言ってたかな。ゴールドステージの破損がひどいから、住民の皆さんに説明とかなんとか。食べる?」
「一口」
「ん、あーん。……説明、ねぇ」
それは確か、別名『相手の心を言葉によって折る作業』のことだとイワンが言っていた気がしたのだが、とすると彼はカリーナに損害賠償が発生しないよう尽力してくれるつもりに違いなかった。ボクも今回ちょっと手加減ナシでやっちゃったんだよねぇ、と鶏肉とカシューナッツの炒めに箸を伸ばしてもぐもぐしながら、倒れるまで戦い続けたパオリンはきゅぅ、と眉を寄せて呻く。
「……バーナビー絶対疲れて帰ってくるね」
「やってる時は生き生きしてるってイワンなんかは言ってたけど。R18の作業なので二人はまだ早いですとか言ってたし」
「ん……」
さて、どうやって甘やかしてあげるのが一番いいだろう。パオリンがまた一皿を空にした時、ラウンジの扉が音を立てて開いた。即座にそちらを向いた少女たちの視線を受け止め、スーツ姿の虎徹がよう、と片手をあげる。その背に半ばもたれるようにして、よろよろとバーナビーが歩いてきた。空調の利いた室内にほっとした顔をした後、バーナビーは白いワンピース姿でソファに座る少女らに視線を移動させ、目を甘やかに輝かせて口元を和ませる。
「おかえりなさい、バーナビー。タイガーも」
「おかえりバーナビー、タイガー。……バーナビー? 起きてられるうちにシャワー浴びて来なさいよ」
「……ただいま、パオリン。カリーナ」
ふふ、と嬉しそうな笑みをこぼして囁きを返し、バーナビーはネクタイを解きながら素直にこくりと頷いた。しかしその表情はもう半分眠りの世界を彷徨っていて、このままではシャワーを浴びながらバーナビーは寝てしまうだろう。カリーナはさっと立ち上がり、冷蔵庫かからパックゼリーを取り出すと、キャップを捻って開けてしまう。ほら、と言いながらバーナビーの口元に差し出すと、青年はなんだかとても嫌そうな顔をしながら、カリーナを伺う。食欲がないと視線で告げるバーナビーを許さず、カリーナは微笑んで首を傾げてみせた。いいから、と促すのに諦めの息を吐き出して、バーナビーは白いプラスチックの飲み口に歯を立てて唇を食ませた。
ちゅー、とカリーナにゼリーを持たせたまま飲むバディに心底複雑そうな視線を向けつつ、虎徹は座ったまま食事を続けているパオリンに目を向けた。
「……珍しいな。白いワンピースなんか着て」
「うん、カリーナとお揃いなんだ。バーナビーが買ってくれたんだよ。ね?」
ね、とカリーナは頷きを返し、ゼリーを飲みきってすこし元気が出たらしきバーナビーの頭を撫でてやった。表情も、幾分眠気から解放されている。はい、シャワー行ってらっしゃいと告げると、バーナビーはふらんふらん頭を左右に動かしながらも頷き、カリーナの頬に口付け一つ送ってシャワールームへ歩いて行く。頬へのキスを特に気にした様子もなく空のゼリーパックをゴミ箱に投げ入れ、カリーナはなんだか泣きそうな虎徹に、腕組みをしてから問いかけてやった。
「なによ?」
「……バニーちゃんの恋人って俺だったよなって思って」
「私がハンサムの恋人に見えたみたいな言い方、やめてくれる? 違うし!」
あれはアンタに全て預けていた心を三分割して依存することに変えただけなのだ、という不健全な事実を、カリーナは分かっていて口にしない。三分の一を担うパオリンは分かっているのかいないのかその事実に見向きもしないし、イワンも同じような状態だった。その気持ちはどれも恋ではない。第一、カリーナが心を寄せるのは今でも虎徹その人しかいなかった。なんでこんな複雑で不平等で不健全な気持ちにならなければいけないのかと八つ当たりめいた睨みを利かせたあと、カリーナは床に投げ捨てられたバーナビーのネクタイを拾い、ぽいとソファに向かって放り投げた。その他、シャワールームに向かって点々と脱ぎ捨てられている衣類には手を出さず、カリーナは先程まで座っていた位置に戻ってしまう。