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 誰も彼もが寝不足の顔つきで集まったトレーニングルームにて、ヒーローたちは夢の続きを生きているような不安げな眼差しを交わし合い、沈黙した。パオリンが失踪し、行方が知れず、状況から少女連続誘拐事件の被害者となった可能性が高いなどという現実は、そう簡単に信じられることではなかったからだ。受け入れざるを得なかったのは、パオリンのPDAが未だ沈黙を続け、こちらからのいかなる呼びかけにも反応せず、強制起動する筈の第一級緊急通信でも音声や映像を繋げることができず、位置の特定も出来なかった為だった。壊されたか、あるいは極めて強力で特殊な妨害の中にあり、通信が届かない状況にあると各社技術者は意見を揃え、結果として少女が事件、あるいは事故に巻き込まれた可能性を濃厚なものにした。直前まで共にいたナターシャの憔悴ぶりは、ひどいものであるという。オデュッセウスCEOの説得にようやく応じ、今は体を休めているというが、このままでは体を病んでしまうことだろう。立場上、他のヒーローよりも詳細な資料を手に持って眺めながら、エドワードは口唇に強く力を込めた。そうでなければ誰に向けるでもない呪いの言葉を、吐きだしてしまいそうだった。ヒーローの一人が被害者として事件に巻き込まれた可能性が濃厚だとしておきながらも、警察と司法局は、サポーターに協力を要請してくるのみで留まっている。ヒーローに出動要請はかけられていない。つまり、ヒーローが自ら動くことは許可されていない。無言の待機命令。被害を拡大しない為の措置であり、市民を不安に陥れない為の策、その一つだった。
 平和を守る担い手。その強力な力であるヒーローが、犯罪の被害者となって姿を消したという事実は、それが未だ憶測の域を出ない事実であっても、ひどい恐怖と不安を市民に撒き散らしてしまうだろう。ヒーローとは偶像である。それでいて現実世界に根差した存在のひとつであるからこそ、作りごとで飾り付けられ、それが取り払われることは許されていない。それが、この街の平和と安定のシステム。作りあげられてしまっているからこそ、ヒーローたちには今更、どうすることもできない歯車のひとつだった。心の中でゆっくり、数を数えて意識を集中させていく。眩暈がする程の怒りも混乱も、不安も恐れも、今は必要ないものだった。気持ちを落ち着かせる。凪いだ海のよう、空を移し出す平面の水面のように。息を吸い込み、吐きだして、エドワードは数枚の書類を無造作に折りたたみ、冷たい目で机に投げ出した。覚えるような内容もなく、隠さなければいけないような機密でもない、ただの事実と指示だけの紙。ごくかすかな空気の動き、微細な音に、ヒーローたちの視線がエドワードに集中した。物言いたげな視線の群れ。臆することなく、それでいてそのうちのひとつも見返すことはなく、エドワードはトレーニングルームの中心で腕を組み、ゆるく首を傾げて閉ざしていた口を開いた。
「現在までに判明している事実として、ホァン・パオリンの失踪がある。それを、最近の少女連続誘拐事件との関連があるとしたのは、いなくなった時の状況だ。ひとつ、ある程度の人混みの中であること。ふたつ、人混みの中であるから、直前までの目撃情報は集まるものの、怪しい人物などの目撃情報が一切ないこと。みっつ、現場を解析した結果、NEXT能力を発動した痕跡が残されていること。よっつ、恐らく、争いの為の発動ではなかったこと。いつつ、十代の少女であること」
 乾いた空気が、喉を軋ませる。指折り数えて行く仕草はどこか機械的で、それでいてぎこちなく、エドワードは眉を寄せて手を強く握り締めた。横合いから無言で伸びてきた楓のゆびさきが、力を入れ過ぎて爪を食い込ませてしまうエドワードの手を引き寄せ、包みこんでいく。楓はエドワードと同じく、室内の誰とも視線を重ねようとはしていなかった。俯き、床のどこかで視線を彷徨わせたまま、そっと言葉が放たれる。
「ヒーローには単独行動の禁止と、通常の事件への出動要請がかかるまで、原則としてトレーニングルームでの待機が司法局より命じられています。……ドラゴンキッドの失踪も、もしかしたら他の事件を追っているのかも知れないし、別の事故に巻き込まれたのかも分からない。誘拐されたと決まった訳ではありません。……続報を待ってください。警察が動いています」
 彼らの働きが信じられない、とは誰も告げなかった。シュテルンビルトの警察はヒーローの影に隠れがちだが、確かに有能な存在ではあるのだ。ことNEXTという存在に関してはヒーローが専門家であるが故に分かりにくいだけであり、基本的にシュテルンビルトへの転属は、左遷ではなく栄転を意味する。働いている本人たちも、ヒーローの活躍があまりに華々しく派手すぎるからこそ忘れがちなだけで、精鋭が供えられた都市ではあるのだ。楓の、痛みを堪えるように吐き出された言葉を耳にして、カリーナはつよく目を閉じた。祈るように、昨夜のパオリンの表情や、会話を思い出す。同時に早朝、携帯電話を鳴らしてくれた知りあいの女警察官の、カリーナの無事を知った瞬間の泣き出しそうな安堵の吐息と、己を責め立てるような言葉の響きを。力になる。必ず見つけ出す、その為の努力を決して諦めない、と告げてくれた声を。思いだして少女は、目を開けて笑った。虚勢でも、作りものでも、凛として美しく。
「彼らが、動いてくれるなら……私は、待てるわ」
「カリーナ」
「信じてるし、知ってるもの。警察は……時々、私たちのことが嫌いでも、私たちと守ろうとしてるものは一緒だってこと、私はちゃんと知ってる! この街の平和と、市民の笑顔と幸せと……守ろうとしてくれてるって、知ってるもの!」
 敵じゃないって、ちゃんと分かってる。自分が動けないもどかしさを、悲しさを、悔しさを、理不尽にぶつけていい相手ではないことを、カリーナはちゃんと分かっている。それでも発する言葉が悲鳴染みたものになってしまったのは、傍らにパオリンがいないからだった。昨日まで、すぐ傍にいた筈なのに。
「待てるわ……私は、待てるわよ。皆だってそうでしょ?」
「……カリーナ」
「そうでしょう、バーナビー。私たちが今やるべきことは、焦って悔やんで悲しんで落ち込むことじゃなくて、コンディション整えて冷静に待って、その時になったら、パオリンを……」
 迎えに行くことでしょう、と告げる筈の言葉は涙と共に零れ、抱き寄せられたバーナビーの胸に落ちて行った。切ない呼吸の音を繰り返す少女を抱き締めてやりながら、バーナビーは貴女は本当に、と尊敬とも苦笑ともつかない響きで囁いた。
「強がって頑張って、強くなってしまえる弱いひとですね……」
「ほ、褒めてるの? 貶してるの……?」
「褒めていますよ、カリーナ。……よしよし」
 自分を奮い立たせてなお、泣いてしまう弱さと強さのアンバランス。少女の誇り高い不安定さは自然な尊敬と、庇護欲を刺激するのに十分なものだった。泣きたいだけ泣いて、落ち着いたら笑ってくださいね、と背を撫でながら、バーナビーはキースの傍らに立つままのイワンに、視線を向けて微笑んだ。イワンはゆるりと口元に微笑みを浮かべ、肺の奥にまで息を吸い込む。カリーナのおかげで、全員に冷静さが戻り始めていた。カリーナを腕の中であやしながら、バーナビーがそれにしても、と沈黙を続けるエドワードと楓、サポーターの二人を見る。
「パオリンは……誘拐されたと思って間違いないんでしょうか」
「断定できない。目撃情報がないからな。ただ、事実として失踪はしているし、連絡はつかないし、現在位置も不明。加えて、状況に共通点が多すぎる。……確立としては九十パーセント」
「NEXT能力を発動した痕跡がある、というのは?」
 淡々としたバーナビーの問いに、エドワードは答えようとして気がつき、手を包みこんでくれている傍らの少女を見下ろした。じっと見つめられて、楓は驚いたようにびくりと肩を震わせる。え、とちいさく声をあげて視線を向けると、エドワードは思い出したかのよう、楓の目を覗き込みながら告げた。
「楓、説明できるか?」
「……私が言うの?」
「楓が言うの。……補足はしてやるから、やってみな」
 そういえば最近、甘やかして説明させるの忘れてた、と少女にやんわりと微笑みかけながら告げるエドワードに、自覚らしきものはあったらしい。その表情がすでに甘やかしている、とはとても言えず、楓はそろそろとエドワードに絡め取られた視線を逃がすと、苦笑して待つバーナビーに向き直った。視線を正して、息を吸い込む。記憶を手繰り寄せ、舌の上で転がした。
「えっと、まず……増加して、減少する気配のないNEXT能力保持者の犯罪行為に歯止めをかけるため、警察と七大企業が協力して、NEXT能力の痕跡を辿る機械を開発しました。これは通常、現場に残された指紋を採取するのと同じ原理です。NEXT能力発動には固有のパターンがあり、解析すれば個人の特定が可能だとされています……理論上は。未だ理論に留まっているのは、能力の固有パターンの登録が完全に個人情報というか、DNAと同じくらい、本当にその人だけのものだから……将来、犯罪を犯した時に個人を特定したいので、あなたの情報登録させてくださいとかばっかじゃないですか爆発しろっ、って匿名希望の技術者さんが怒ったそうなので、機能としては、拭いた血痕を浮かび上がらせるのと同じように、NEXT能力がどこで発動して、その人がどういう風に動いたのかをモニター上に映しだす、というもので留まっています……」
 その匿名希望の技術者は、高確率でシルバークラウンのベネチアンマスクで顔を隠している少女で、諸族がヘリペリデスファイナンスの筈であるが、ヒーローたちは誰もそれを口に出さなかった。わざわざ匿名希望になっているのだから、理由があるのだろう。唯一、イワンだけが額にてのひらを押し当てまたあのひとは、と呻くが、名前は出さずに溜息を落とした。
「良心と良識が、あるんだかないんだか分からないことするの好きなんだから……いつの間にそんな仕事してたんだろう」
 忙しいのが大好きで休まないことで心を弾ませる真性のどM気質のワーカーホリックは、仕事が山詰みで途切れないのが常でありすぎて、外部からこうした依頼があって動いていたとしても、結果となってもたらされるまでイワンに気取らせてもくれないのだった。だってイワンくんには関係ないお仕事じゃないですかー、と不思議そうに首を傾げる、頭の中にいる己の技術者の頬を遠慮なくひっぱりながら、イワンは身内が秘密で動いてたらそれだけで不機嫌になる独占欲もあるんです、と吐き捨て、現実世界に思考を戻して来た。顔が怖いです、とばかりびくついた視線を送る楓に大丈夫ですと微笑んで、イワンは何度目かの溜息と共に、サポーターの説明の続きを促してやった。イワンの吐きだされる幸福は、主に自社の技術者のせいである。
「痕跡を辿る、ものなので。画面上のイメージとしては、サーモグラフィーを考えてください。人の形に青い光が浮かび上がりますが、能力によってこれも差が出るというか……精密なものにはできなかったみたいで……なにが一番近いのかな」
「飛行機に乗る前の金属探知機ってあるだろ? 金属身につけて手そこ通ると、音が鳴るヤツ。あれくらいの仕組みと精度だと思っておけば間違いない。そこで誰かがNEXT能力を発動すると、画面上に反応が現れる。ある程度までなら、効果範囲などの測定も可能。発動が、争う為でなかったとされているのは、単に能力の発動範囲が動いてなかったからで、信憑性は五分五分だと思ってる。俺は。動かなくても脅せるし。な?」
「それでどうして僕に同意を求めるの、エドワード?」
 どんな時でもじゃれあいの心を忘れないアカデミーの先輩たちに、バーナビーからは呆れた眼差しが送られる。こうはなるまい、と言うような溜息をついて、楓が口を開いた。
「だから……だからね、バーナビーさん。連続誘拐事件の犯人についてはまだ調査中だけど、すくなくとも、ドラゴンキッドを連れ去った相手は、NEXT能力者なの」
 その測定の器械が完成したのがつい先日ということで、他の現場については未使用であるらしい。鮮度の問題もあるらしく、発生から二十四時間が経過した場所では発動があっても痕跡を拾い上げることができなくなるなど、要改良の一品であるらしい。その説明を聞いて、ヒーローたちは道理で、と苦笑気味の気分で納得した。この状況下でやけに技術部が静かだと思っていたら、騒ぐ余裕もないくらい、その改良に力を注いでいるのだろう。警察主導の元、各社技術者が総力を結集して開発しているのであれば、しかも現在のように追いつめられた状況であれば、彼らは尋常ではない速度で結果を叩き出し、ヒーローたちの力になってくれる。警察よりも身近な存在であるからこそ、温かな信頼でもって彼らを想い、バーナビーは頷いた。
「分かりました。……それにしても、争いの発動がなかった、というのが気になりますね」
「抵抗しなかったってことか?」
「抵抗しなかった、というより、抵抗できなかった理由がある筈です。いつかの誘拐のように。……あの時みたいに、なんとか見つけることが出来ればいいんですが」
 訝しげに呟く虎徹に首を振りながら、バーナビーは思考を巡らせる。市長の息子と共にパオリンが姿を消した時も、やはり誘拐であり、けれども即日、事件は解決したのだった。あの時のように、長引くものでなければいい。
「……ともあれ、楓ちゃんも、カリーナも、一人で出歩かないこと。僕たちも、単独行動は止めておきましょう。常に二人一組以上での行動を心がけるように……したいので、スカイハイ。パトロールの時は折紙先輩を連れて行ってくださいね。先輩はなにかに擬態して、ちゃんとついて行って下さい。正直、スカイハイが一番不安です」
 正義感が強く、機動力が高いというだけで不安になってくるというのに、なにせ相手はキースなのである。シュテルンビルト中を飛び回ってパオリンを探してしまう可能性もあり、眉を寄せて沈黙するキースの傍らで、イワンはしっかりと頷いた。
「任せてください」
「……分かっているよ。でも私は、少女ではないだろう?」
「ヒーローでも単独で行動すれば敵の手に落ちる可能性がある事件が発生中だと思ってください。……ファイアーエンブレム、ロックバイソン。説得を頼んでも?」
 重々しく頷いたネイサンとアントニオが、むくれた様子のキースの腕を両側から掴み、ソファのある方向へ引っ張って行く。ヒーローたちの良識で常識の二人に説得されれば、キースも納得してくれるだろう。首輪付けてリード付けておけば勝手に出歩いたりしないかなぁ、とSMプレイとしか思えない不穏な呟きをするイワンを引きつった表情で見やり、バーナビーはカリーナの背を先輩に向かって押しやった。
「カリーナは先輩に守ってもらってくださいね。僕は楓ちゃんの送り迎えをするって決めたので」
「それはいいけど、なんか釈然としない……っ!」
 きっと、盾かなにかにするようにぐいぐいと背を押されているからだ。足を振り上げてバーナビーの脛に靴底を叩きこみ、カリーナはふん、と鼻を鳴らしてイワンの元まで歩いて行く。イワンは苦笑気味に少女を出迎え、そういうことだから、と低く、青年めいた声でささやいた。
「スクールの行き帰り、送るから。トレーニングルーム行くのも、帰るのも……出動も、トランスポーターまで」
「……うん」
 ヒーローなのに、という言葉をカリーナは飲み込んだ。そうであっても、パオリンはいなくなったのだ。相手に対する強い攻撃力を持ったNEXT能力者であっても、事件に巻き込まれてしまったという事実が、少女の自尊心を納得させる。不満をなるべく表に出さないようにしているカリーナに、イワンは思わず苦笑した。単純に事件に巻き込まれる可能性があるというだけならば、危ないのはカリーナよりもイワンである。直接的な攻撃手段を持たない訳ではないが、イワンの持つのはあくまで近接戦闘、肉弾戦や武器を介したものであり、氷を自在に操る攻守ともに優れたものではないからだ。そのことに、カリーナも気がついたのだろう。これで大丈夫かなぁ、と言わんばかり品定めする視線に晒されて、イワンは心の底から同意してやりたくなりつつ、キースとネイサン、アントニオがいる方へ視線を流した。説得は終わり、世間話になっているようだ。
「僕とキースさんと、ネイサンとアントニオさんだったら、じゃあ誰がいい? 誰か一人でもいいし、ローテーション組んでもいいし、カリーナが決めていいよ」
「……イワン」
 選択肢の中に虎徹とバーナビー、エドワードが含まれていないのは、彼らが楓の守護者となり、立ちまわることが暗黙の了解としてすでに決まっているからだ。カリーナがすこしだけ羨ましそうに見つめる先で、エドワードに手を引かれた楓が虎徹とバーナビーに囲まれ、あれやこれやと言い聞かせられている。その表情はヒーローの護衛役を得た少女というより、保護者たちのうっとおしさに辟易している娘そのものだが、全員が身内のような存在なので仕方がないだろう。緊張感がゆるく解けていくのを感じて、カリーナは楽な気持ちで息を吸い込んだ。視線を近くまで戻す。イワンを見つめて、もう一度告げた。
「イワンがいい。……しばらくの間、よろしくね」
「分かった。僕がいけない時は、PDAで連絡するから。他の誰かが行くかも知れないし、皆がどうしても動けない状態なら、会社に連絡して、必ず誰かと一緒に動くんだよ?」
「……ところで、学校に送ってくれる時って、女の子に擬態してくれるサービスをお願いしてもいい?」
 なるべく私と同年代か、さもなくば大学生くらいの女の子で、とお願いしてくるカリーナに、イワンは記憶を探りながら沈黙した。擬態できるリストに何人かそれくらいの年頃の女性が存在するので、不可能ではない。精神的な抵抗があるだけである。
「……キリサトさんじゃ駄目?」
「目立たないようにして欲しいの、って言わないと分かってもらえない? ……そうね、仮面がないなら良いけど」
「仮面オフで擬態とか僕が社会的に死ぬフラグにしかならないからね? やりたくないしやらないからね? ……分かった。じゃあ、ヘリペリの社員さんの娘さんが、ちょうど今大学生の女の子なんだけど。事情を話しておくから」
 この子の姿で迎えに行くからね、と携帯電話に写真を表示させるイワンの手元を覗き込み、カリーナは瞬間的にその姿を記憶した。分かった、と頷き、カリーナは悪戯っぽく笑う。
「合い言葉とか決めておく? 万一の為に」
「……じゃあ、合い言葉は? って聞かれたら、僕が『私の氷はちょっぴりコールド』って言うから、カリーナは」
「あなたの悪事を完全ホールド! ね。……もうちょっとひねらない? なんだっけ、山とか川とか、谷とか?」
 日本にそういうのなかったっけ、と考え込むカリーナの頭を撫でて、イワンは口に出しやすいのが一番だよ、と囁いた。なんでもないことを考えて気を紛らわせるのは大事なことだが、普段通りの言葉と、そこに乗せる決意をなぞる方が少女にはいいだろう。頭を撫でられてくすぐったそうにしながら、カリーナはふわりと肩の力を抜いた笑みで、うん、と優しく頷いた。



 エドワードが罪悪感と焦りでずっと緊張しているのを知っていたので、肩の力が抜けたのならそれはいいことだ、と楓は思いこもうとした。思いこもうとしたのだがしかし、うまく行かないのは無視したい会話が交わされている場所と、楓の物理的距離が近かったからである。せめて一メートル、可能なら五メートルくらい距離を取らせてくれれば、楓はそこで己にまつわるどんな会話が交わされていようとなにを求められていようと、はいはいお父さんは過保護でバーナビーさんも過保護だけどエドさんも過保護だったね知ってたけどどうしようね、と生温い気持ちで全てを右から左へ聞き流すことができていたのに。現在の楓とその三人の距離は、すごく近い。エドワードとは背中から抱き抱えられるような形で腕を回され手を繋ぎ、バーナビーがその前にしゃがみこみ、虎徹がその傍らで難しい顔をして考え込んでいるのだ。完全に包囲されている気がして、しかも手を繋がれているから耳を塞げなくて、バーナビーが真正面から顔を覗き込んでいるからうっかり溜息もつけなくて、楓は仕方がなく、内心だけでものすごく遠い目をした。楓をお姫さまのように扱っているバーナビーのことだ。この状況で楓が溜息をつこうものなら、心配のあまり過保護の過が四つか五つくらい連続する超過保護に進化した対処を思いつくに違いなかった。今もバーナビーは真剣な顔をして考え込み、そうすると、と呟いて視線を持ち上げる。完璧な造形をした唇が吐きだしたのは、楓が聞き流したいのに止めざるを得ない言葉たちだった。
「とりあえず、防犯ブザーと催涙スプレー。携帯電話のGPS機能はオンにしておいてもらうとして……楓ちゃん、銃とスタンガンだったら、スタンガンの方がいいよね?」
「過剰防衛って言葉知ってるか、バーナビー」
 死角を徹底的に避けた通学路を設定することには積極的に協力したものの、さすがにやりすぎだと思ったのだろう。楓がいいとか悪いとかじゃなくて、そもそも嫌、と口に出す前に否定したエドワードは基本的に楓の味方だが、それでいて少女の意思を優先してくれることばかりではない、ということを知っている。疑わしげな視線がちらりと送られるのに苦笑して、エドワードはごく当たり前のように、それを告げた。
「罪に問われたら困るし」
「……私、エドさんのそういうトコ、きらい」
 どうしてそういうことを言ってしまえるの、と責め立てるような眼差しに、エドワードはゆるく微笑むばかりで言葉を返さなかった。二人からそっと視線を外し、バーナビーは深く息を吐く。失言でしたと告げられて、エドワードは首を横に振る。
「気持ちは分かる。……銃社会だしな。アカデミーにも許可証持って携帯してるヤツも何人かいる。だから、俺に謝るな」
「……はい」
「それに、歩く半自動スタンガンが駄目だったんだし、武器の扱いにも慣れない楓が武装しても効果は期待できないだろ……。いいか? 楓。なにかあったら最大限、己の命を守ることを優先すること。下手に抵抗して、相手を刺激することだけはしないこと。PDAでも携帯でもいいから、即座に俺かバーナビーか、ワイルドタイガーに連絡して……そこから五分、持ちこたえろ。五分、その場に留まってさえくれたら、どこに居ても絶対、楓のトコまで辿りついてやる。……分かったか?」
 分かったら返事、と促され、楓は笑いながらはぁい、と言った。背中から感じるエドワードの体温が温かくて、どうしても真剣な気持ちになれない。本当に分かってんのか、と苦笑しながらエドワードは楓の肩に額を押しつけて、その存在が今傍らにあることを喜ぶよう、ひっそりとした息を吐きだした。ようやく落ち着いた様子のエドワードを眺めつつ、バーナビーが楓の前から立ち上がる。話し合いで視線を合わせる為にしゃがみこんでいたので、膝がやや疲れている。脚をぽんぽん、と手で叩いて疲労を散らしながら、バーナビーは未だ難しそうな顔をして黙りこむ、己のバディに目を向けた。
「虎徹さん? どうかしたんですか?」
「……どう、っていうか。バニーは変に思わないのか?」
「なにがです?」
 もしかして、なにか見逃してしまっているのだろうか。不安に顔を曇らせるバーナビーに、虎徹が悔しげに歯を噛む音が聞こえる。眼差しは鋭く、楓とエドワードを睨んでいた。
「変だろ。どう考えても変だろ……!」
「……ん?」
「近いっ!」
 ついに我慢できなくなったらしい虎徹が、娘とエドワードを指差して叫ぶ。そこでようやく気がついたように頷き、バーナビーは改めてサポーターの二人を視線に収めた。あんまり自然にくっついていたので受け入れてしまっていたが、確かに距離が近い、というか、エドワードはどうして楓を後ろから抱きこんでいるのか。叫び声に嫌そうに顔をゆがめ、そろそろと腕を離してはいるものの、繋がれた手が解かれる気配はなかった。照れたように頬を染め、楓が勢いよく息を吸い込む。
「ば……バディだもん! 近くてもいいの!」
「よくない! バディはそんなに近くないだろっ?」
「お父さんとバーナビーさんはこれくらいの距離だもん!」
 トレーニングルームに集ったヒーロー全員が、楓の主張の正しさを認めない訳にはいかなかった。確かに、タイガー&バーナビーの距離感は、わりとこれくらいなのである。虎徹も上手く反論できないらしく、それはその、と言ったきり、視線が完全に空を泳いでいる。バーナビーはそもそも反論できないと理解している顔つきで、慎ましく沈黙を貫いていた。しかし、視線でもうすこし距離取れませんか、とエドワードに求めることも忘れてはいない。虎徹と絶対に視線が合わないように目をそらしつつも、エドワードはバーナビーの要求を受け入れ、少女からそっと体を離し、横に立ち直す。背中の寒さに不安げに向けられた少女の視線に、エドワードはゆるく、目を細めた。
「ここにいるだろ?」
「……うん」
「手は、まだ繋いでるだろ?」
 楓の視線が、ゆるゆると降りて行く。指を絡めるように力を入れ直して、楓はもう一度、うん、と言った。

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