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 市街は昼夜を問わず、警察による厳戒態勢が敷かれている。駅の出入り口には一人ずつ交代で見張りの警察官が立ち、通学路には大通りごとにパトカーが停まった。駅前の大通りには通行する市民に混じって数人のチームがパトロールを繰り返し、住宅街は徐行したバイクが見回っていた。オフィス街では警備会社の者たちが通常より増員した状態で目を光らせ、警察と連絡を取り合って市民の安全を見守っている。報道には規制がかけられ、市民はヒーローの一人が姿を消したことを知らないままだが、さすがに感じるものがあるのだろう。陽を落としたシュテルンビルトに出歩く人影はまばらで、本当にどうしようもない理由があって外出する者以外は、帰路を急いでいるようだった。いつもならこの時間、人でいっぱいに溢れるヒーローズバーも、開店休業状態だ。店内に設置されたテレビではヒーローTVのロゴが映されているか過去のリプレイを流し続けているだけで、リアルタイムの映像は飛び込んで来ない。デビューしてからほぼ皆勤賞であったドラゴンキッドの不在を誤魔化す上手い理由が思いつくまで、ライブ放映はないままだろう。
 今日か明日くらいまでは、事件が起きてヒーローに出動がかかったとしても、その映像が流れることはない。映像として記録しておいて、録画放送として場を繋いで行くことが、すでに決定していた。なにもかもが市民の不安をさらに積み重ねない為の処置だが、どうも裏目に出てしまう気がしてならず、屈強な体躯をした男はうんざりとした溜息をついた。いかにも肉体労働従事者の見かけをした男は、深い藍色のツナギを身につけている。ツナギの右胸部分には、クロノスフーズの文字があった。クロノスのヒーロー事業部、技術部の最高責任者、マックスである。マックスは太く節くれだった指を繊細な動きで伸ばし、机に所狭しと並べられた皿やグラスの中から、氷の浮かぶオレンジジュースを選び取り、口元に運ぶ。飲まなければやっていられない気分だが、グラスはどれもノンアルコールのものばかりである。この後も技術室に戻らなければいけないので、致し方の無い状態ではあるのだが、溜息の数がまたひとつ。その、逃げて行く幸福を叩きつぶすように、少女のグラスを握った手が、底を思い切り机に叩きつけ、耳障りな音を奏でた。
「だからね! 私は言ってやったの。切れ味の悪いメスとかで腹かっさばいて動いてる心臓を自分で取り出して握りつぶしてその血でお願いしますって十回書いて頼んできても断るって!」
「例えがエグいですわー……そこまで頼ませておいて、なお断るのが実に外道ですわー」
 女言葉にしては妙なアクセントでのらりくらりと囁き交わすのは、細身の青年だった。いかにもインテリ系の眼鏡をひっかけ、ラフなハイネックとジーンズに長袖の白衣を着こむ姿はバーという空間において異常だが、マックスも、同じテーブルにつく者も誰ひとりとして気にする者はなかった。白衣こそ彼らの正装であり、普段着であるからだ。さすがにマックスは白衣でスーパーに日用品の買い物には行かないが、東の国の西辺りの方言をごちゃごちゃにしてしゃべる細身眼鏡の青年、ヘリオスエナジーのハリー・デイライトは、白衣で銀行に預金を下ろしに行って通報された前科が七回もある、学習能力のない筋金入りの白衣愛好者、兼変態であるから、どこへ行くにもこの姿だ。噂によると、彼女へプロポーズするにも白衣を着ていたから断られたらしいのだが、真偽の程は定かではない。持参のビーカーにオレンジジュースを移し換えて飲むハリーに、心行くまでエグイ提案をした報告をした少女は、だってだって、と抱抱っこのように言い募り、ぷぅ、とハムスターのように頬を膨らませた。その顔の半分は、仮面によって隠されている。
「気に入らなかったんだもん! 実際に、やれって言わなかっただけ私は良心的だと思わない? 思うよね? そうだよね? やったー! ……まあ、切れ味が悪そうなメスは投げ与えたりしたけど。拾っていいよ、とは言ったけど。やれとは言ってないしね。私、まじ良心的! 私の優しさを警察とかはもっとありがたがっていいと思うんだ? 思うよね?」
「優しさと良心の意味を、今一度辞書でお引きになられたらいかが? 貴女の認識とは違う意味で乗っていると思いますわ」
 そのままの姿で銀行に行けばやはり即座に通報されそうな少女の隣で、優美にグラスを傾ける女性は艶めかしい黒のスーツで身を固めていた。一目で高級品だと分かる上質な生地のスーツは、女性の麗しいボディラインを下品ではない程度に引き立たせている。企業が抱えるモデルだと言われても信じられそうな華やかな顔つきと肢体の女性であったが、手先だけがその印象を裏切っていた。爪は短く、色は塗られず、指先の皮膚はややささくれだっている。機械油と長時間の精密さを要求させる作業、力仕事が女性の指先からまろやかさを奪っているのだ。それもその筈で、彼女はマックスとハリー、キリサトの同業者なのである。所属はポセイドンライン。地位は技術部の副主任。名を、セリーナ・クレイスと言う。セリーナは仮面の奥から向けられる苛烈な怒りの視線に動じた様子もなく、椅子の上ですらりとした足を組み換え、唇をオレンジジュースで潤した。
「大体、警察に向かってメスを投げるだなんて……これだからヘリペリデスは短慮だと言われるんですのよ? もっとスマートにできませんでしたの? 貴女のそうしたふるまいが、私たちヒーロー技術部所属の技術者の評判を下げているのだと、まだお分かりにならない? ……聞いていますの? キリサト」
「やだー! セリーナは言うことが正論ばっかでやだー!」
「正論だと分かっているのならお聞きなさい!」
 耳を手で塞いで椅子に座ったまま足をばたばたと動かす少女は、外見の年齢よりもっと幼く見えるので、注意するセリーナはまるで若い母親のようだった。二十半ばの女性が十代前半くらいの少女の母である訳もないのだが、マックスはなんだかその印象を拭うことが出来ず、まったく手をかけさせて仕方のない、と保護者目線の感想で息を吐く。マックスのその反応を咎めるように、男の隣に腰を下ろしていた落ち着いた印象の女性が、肩を震わせて笑った。セリーナの若く華やかな美しさとは対照的な、ひっそりとした穏やかな綺麗さを持つ女性だった。三十代前半の女性は、けれどもマックスよりは大分年下であるから、男としてはセリーナと接するのとそう変わりない心持ちである。それでも、セリーナに話しかけるのよりは随分楽な気持ちで問いかけの視線を向ければ、アポロンメディア技術部、バーナビー・サポートチームに所属するリサ・パタースンは、知性のきらめきがある瞳をそっと細めながら唇を開く。
「あなた、いつも苦労しているような風なのですもの」
「そんなことはない、と思うが」
「そんなことあるからリサさん言ってるんですわ。マックスの眉間にシワ、寄ってない日の方が少ないくらいですもん。たまには胃に優しい顔つきしてやらんと、運気逃げますよ?」
 身を乗り出してまで会話に混ざりたがるハリーをうっとおしげに押し戻しつつ、マックスは笑うリサから視線を反らして、ぎりぎりと睨みあいに入ったセリーナとキリサトに声をかける。
「それくらいにしておけ、セリーナ。キリサトも、反省はしている……筈だ。しているな?」
「え、そこでなんで確認されるんです?」
 不愉快そうにくちびるを歪めて首を傾げるキリサトの口から、しかし反省しているという言葉が零れることはなく、十秒が過ぎ、二十秒が経過した。三十秒が終わった所で反省を引きだすことが困難だと結論付けたマックスは、深々と息を吐きだし、皿に転がされたナッツを口の中に放り込む。アーモンドの香りと歯ごたえ、塩気のきいた味わいは、疲れた心をそっと癒してくれた。キリサトが、ふふん、と勝ち誇った様子で胸を張る。
「心配しないでもだいじょうぶですって」
「キリサトちゃん? マックスは心配しているのではなくて、諦めただけなのは分かってあげなさいね?」
「相手が諦めたってことは、私の勝ちってことですよ」
 やったね、とばかり拳を握り締め、極めて頭の悪い発言を響かせたキリサトが、こんなでも七大企業の技術者代表として警察や司法局、政府機関に出入りしているという事実を、マックスは冷静に考えないようにした。頭が痛くなりそうだったからである。同じく代表として選ばれているハリーは、フライドポテトの油にまみれた指を白衣の裾で拭って清め、しょうがないですなぁ、とのんびりとした声でキリサトを眺めていた。この両名が代表者として選出された時点で全てを諦めるべきなのかも知れないが、諦めきれないのがマックスの眉間のシワの原因、その理由のひとつである。はあああぁ、と深く息を吐きだした男の肩を、セリーナの手指が撫でるように叩いて行く。
「仕方がありませんわ。キリサトはちょっとお馬鹿さんですもの。こちらが大人の対応をして差し上げなければ」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんですぅー! だからセリーナは馬鹿だもん。馬鹿に言われても悔しくないもんー!」
「ひとを指差したあげく、馬鹿の連呼とは。失礼ですわ!」
 基本的に仲が悪いキリサトとセリーナが、なぜわざわざ隣り合った席に座っているのかが分からない。離れて座ればいいものを、二人は自主的に現在の席に腰を下ろし、未だ動こうとしていないのだった。笑顔のまま、間合いを取るように睨みあう二人を宥めることを諦め、マックスはリサに問いかけた。
「ところで、キリサトはどんな状況でさっきの台詞を?」
「ああ、ええと……ほら、ついこの間納品した、NEXT能力の痕跡発見装置に、個人識別機能をつけて、さらに司法局に登録がある分と、アカデミーに報告がある分のNEXTの情報を入力しておいて欲しいって言われていたじゃない?」
 それを断りに行った席でしつこく食い下がられてぷっつりしちゃったみたいなの、と娘の蛮行を穏やかにたしなめる母親の表情で、リサが溜息をついた。メスを携帯して行った時点で計画的なぷっつりだとしか思えないのだが、相手はキリサトである。こんなこともあると思って、の一言で人類の想定外の用意を取り出してくる相手なので、常識を照らし合わせる方が間違っているのかも知れなかった。つくづく、どうしてこれが七大企業技術者の代表として選出されてしまったのか理解に苦しみながら、マックスは馬鹿、馬鹿って言った方が馬鹿、と言いあいを続ける二人を、精神上の理由で視界から外した。
「……そういえば、オデュッセウスは大丈夫なのか」
「大丈夫って、技術部の人間が全員倒れて使いものにならなくなるんじゃないかって意味で? それとも、ヒーローに対する警護とか、セキュリティ的な意味で?」
 あからさまな話題の転換に乗ってやりながら、リサの指先がスティック状に切られた生野菜を摘みあげる。テーブルに乗せられているのはどれも指先で摘んで食べるタイプのものばかりで、本格的に空腹を満たす料理はひとつも置かれていなかった。
「どちらも」
「一応、三時間交代で仮眠と休憩を取っているとは聞いとりますけどなぁ……。はよう見つけてあげませんと、まあ倒れるのは一人や二人じゃないでしょうに。そちらさんはどうしとるんです? 昨夜はまあ楽しげなメール頂きましたけども」
「うちのツートップ親馬鹿なら、今日も元気だったわよ?」
 被害者の年代とちょうど同じくらいの娘さんだから、心配なのは心から理解してあげるけれど、とリサはオレンジジュースを一息に飲み干した。
「スーツの出動外使用許可を求めてくるのは別にいいの。それはトレーニングならね。でも、娘さんのスクールの行き帰りで送り迎えするのになにがあってもいいようにって、あのバディはなにが起こる気でいるのよ! 一個中隊が攻めてくるの? そうなの? ええ、当然許可しなかったわよ! しましまタイガーとうさぎ柄バーナビーの油性ペイントに進化させたわよ!」
 がんっ、と音を立てて叩きつけられたグラスは、健気にも砕けず、その形を保ってみせた。馬鹿と馬鹿の言いあいに飽きた二人は、べー、と舌を出して嫌な顔をしあっている。
「ふ、ふふふ。早く、早くヒーローに出動要請がかかりますように。あのスーツで出動せざるを得なくなり、リアルタイムでなくてもいい、映像に記録され、放送され、ファンに唖然とされ指をさされて笑われ、心から反省する日が楽しみだわ……!」
「女性を怒らすと本当怖いですわぁ……と、そういえばキリちゃん。会社に戻る時は、誰かと一緒に行くんやで?」
「え、なんで?」
 いがみ合うのに飽きたらしいセリーナとキリサトは、二人でひとつのメニューを覗き込み、追加注文を考えていた所だった。きょとん、としてメニューからあげられた視線を受け、ハリーがなんでって言われましても、と困ったように苦笑する。
「キリちゃん、見かけが少女連続誘拐事件の、被害者の年代と完全一致してるんですもん。十代の前半。危ないのは分かりますやろ? ええこですから、一人で出歩かんといて?」
「こんな、心底怪しい仮面少女を誘拐しようとしたら、それはただの変態さんだと思うので。ちゃんと撃退できますよ?」
 世間一般の常識に則って、シルバークラウンのマスクで顔を隠している状況が心底怪しい、という自覚はあるらしい。それでも常に外さずそのままにしておくのは、それがヘリペリデスファイナンス、CEOからの業務命令だからである。業務命令という形で、外部に対して言い訳のしやすい状況を作りあげられていなくとも、それがCEOから頼まれたのであればキリサトは逆らわずに受け入れる、という事実を、この場に集った者は熟知していた。顔を隠さなければいけない理由も。独占欲という分かりやすい感情で誤魔化された、本当の理由も。だからこそ外して帰れとは誰も言わず、似たような種類の笑みがそれぞれの口元には浮かんで行く。
「でもなあ、危ないのは分かってくれてますやろ? 誰かとおてて繋いで帰ってくださいよ、お願いしますわー」
「そこまで言うなら、ハリーが送ってくれればいいじゃない?」
「冗談言わんといてください。まだ死にたくありません」
 降参の形に両手をあげながら、ハリーはちらりとマックスに視線を送った。
「マックスなら大丈夫かも知れませんけど、アウトなんが分かっててやるのはちょっと……セリーナかリサ、頼みます」
「……なにがアウト?」
「あなたを引く程溺愛している、ヘリペリデスファイナンスのCEOが、に決まっているではないですか。ハリーと手を繋いで帰ったら最後、銃撃されますよ? ハリーが。そして、キリサトは一週間くらい監禁コースなのではなくて?」
 このつんつるてんの脳みそはまだ学習ということができない、と残念ぶって溜息をつくセリーナに、キリサトは小馬鹿にした目を向けて、まさか、と鼻を鳴らして笑ってみせた。
「マイケルはそこまでしないですよ」
「……え? 本気で言ってるんですの?」
「え、ちょ、なにその反応。え、え……っ?」
 いっそ怯えたような眼差しを送られて、少女の動きが追いつめられた小動物のように、挙動不審なそれになる。きょろきょろと辺りを伺いながら助けを求める目を向けられて、リサは少女を落ち着かせるように、穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「そこまでするから、セリーナは言ってるのよ?」
「や、やだー、リサちゃんまで。まさか、そんな……まさか」
「キリサト。あなた、去年の夏のこともう忘れたんですの?」
 真剣な顔をしたセリーナに肩を掴まれ問いかけられて、キリサトは灰色の声で『きょねんのなつ』とたどたどしく繰り返した。なぜだか、その単語を耳にするだけで動悸が激しくなり息切れがして冷や汗が出てくるが、理由が分からないし原因にも思い至れない。そもそも去年の夏の記憶がすっぱりと抜け落ちていることに気がついて、少女技術者は動揺した。
「……あ、あれ……? きょ、きょね、ん、の、な……なつって、な、なにが、なにがアレしてどうなって……?」
「む、無理に……思い出さなくてもいいんですのよ。私が悪かったですわ……去年の夏はなかったことにしましょう」
 ともかく、私が送りますから、いいですねと言われて、キリサトはこくりと頷いた。全体にほっとした空気が流れ、キリサトも体から力を抜く。なんだか泣きたい気持ちになったのでセリーナの胸に甘えるようにもたれかかれば、女性は少女を保護するように抱き締め、よしよしと頭を撫でてくれる。結局はそれなりに仲がいい二人からそっと視線を反らしつつ、封印された去年の夏のことを想い、マックスは弱々しく頷いた。
「ヘリペリデスファイナンスCEOの為にも、キリサトだけは事件に巻き込ませる訳にはいかないな……。まあ、いつものように研究室に籠っていれば、問題もなく過ごせるだろうが」
「研究室から出たら、メンバーにメールが自動で飛ぶように、なんか設定しておきます? その方が安心できますよね?」
「ハリー、その設定、頼んでいいかしら? ……いつもの生活を考えれば、大丈夫だとは思うのよね。すくなくとも、日中出歩かなければいけないブルーローズやサポーターの楓ちゃんより、引きこもっている分、狙われないと思うのだけれど」
 でもこれ、時々、自分から事件を発生させる一級フラグ建築士になっちゃったりもするしなぁ、と言わんばかりの視線を同業者三人から向けられて、キリサトはセリーナに抱きついたまま、なんだって言うんですかー、と涙声をあげた。
「ちょっとよく分からないけど、悪口なんです……?」
「……皆、あなたを心配しているだけですのよ。キリサト」
「私の心配より、いなくなっちゃったパオリンさん心配すればいいと思うんですよー。……無事でいるとは思うんですが、NEXT能力の痕跡が途切れてるのがなぁ……」
 大丈夫かなぁ、と眉を寄せて考え込むキリサトは、警察の解析部と裏取引をして見せてもらった現場検証画像を思い返し、不安げに唇を噛んだ。本来、青い光が道筋を描くように浮かび上がってくる筈なのだ。しかし、光はその場所で途切れていた。その場から動くことなく、その場だけで発動し、その場で発動の痕跡を消していた。一瞬だけ発動したのだとしても、目撃者がないことが気にかかる。相手がどんな能力を持っているかまでは分からないからこそ、もしもの可能性で、キリサトは不安になる。もし、その手段で少女たちが連れ去られているのだとしたら、生命が危うい可能性がある。早く見つけてあげなければ、被害者は悲しみと共に発見されてしまうかも知れない。考え込むキリサトの頭をぽんと撫でて、セリーナが椅子から立ち上がる。そろそろ戻ってお仕事の時間ですわ、の一言に、技術者たちは体に力を込めて立ち上がった。このメンバーで食事、あるいは飲みは各々のスケジュールと照らし合わせ、月に一度以上は行われていることだった。しかし、現在の状況が長引くようであれば、次に直に顔を合わせられるのがいつになるかは分からない。誰ともなく差し出された握りこぶしが、テーブルの上で触れ合い、次に音を立てて手が打ち鳴らされる。
「それじゃ」
「ええ、また。落ち着いたら」
「今度は七大企業、全員いられますように」
 それは、ひとつの平和の証である。顔を寄せ合ってくすくすと笑いあい、技術者たちは己の職場へと戻って行った。彼らの奮闘を知る者はすくなく。けれどもヒーローの活躍として、結果を誰もが知ることになる。



 体のかたちを、ぼんやりと認識する。夢と現の狭間に、意識が浮かんでは沈み、また浮かんではまどろんでいる。あたりは暖かいような、冷たいような、なまぬるいような、ひどくあいまいで、鮮明なものなど一つとしてなかった。痛みはどこにもない。感情は遠くに置き去りにされていて、悲しいだとか、悔しいだとか、楽しいだとか、嬉しいだとか、なにも感じることはなかった。焦りもしない。そのことに気がついても、心はうまく動かないままだった。自分の名前を思い出すにも時間がかかって、名前というものがどんな意味を持っていたのかも分からなくなって、考えているうちにもなにを考えていたのか思い出せなくなる。それが怖いということも、はじめのうちは分かっていた筈なのに、今は感じなくなってしまった。意識が揺れ、浮かんで、沈んで、また浮かぶ。水底から、光がきらめく水面を遠く眺めているような気持ちで、やわらかに息を吸い込んだ。存在という意識が、それでもまだ、ここにある。繋ぎとめて、かき集めて、パオリンはようやく、己という意識を正しく認識した。急激に、肉体の重さが戻ってくる。全身がずしりとした重みを持ち、横たわっていることを認識する。まぶたが、持ちあがらない。体のどこも動かせない。手も足も、ぴくりとも動かせない。力が入らない。か細く繋がった本能だけが、肺に空気を送り込もうと弱い呼吸を繰り返させている。
 考える、考える。意識を失う寸前のこと。突然、見知らぬ場所に立っていたこと。暗い部屋。明りのない部屋。一つだけの窓。遠くに街並みと、星明かりが見えた。不安げな幼子がパオリンを見る。笑いかけようとした瞬間、意識が白と黒に分離するのを感じた。床に向かって体が倒れて行く数瞬に、目が床に落ちるように倒れ込み動かない少女たちの姿を見ていた。ぞっとしたことを覚えている。本能が、これから自分もその少女たちと同じになることを告げていた。自由を失う前の耳が、細く細く、幼子が奏でた悲鳴を捕らえていた。記憶はそれを覚えていた。悲しく、悲しく、裏切られる瞬間の叫び。意識を失っては行けなかったのだ。あの幼子はきっと、そんなことをしたかったのではないのに。繋いだ手は、裏切りを味あわせる為にそうしたのではなかったのに。起きなければ、動かなければ。あの幼子を助けなければ。歯を強く噛むような気持ちで、パオリンは思った。それなのに、体はひとつも動かない。悔しくて悔しくて、涙が出そうになる筈なのに、その気持ちにさえ動かない心にぞっとする。いつの間にか、また意識が体から引きはがされる。風に運ばれて行く花びらのように、舞い上がり、揺れ、落ちて、また舞いあげられる。考えていたことすら、忘れて。静かに眠るよう、パオリンはまた己というものを失った。暗い部屋に、少女たちのか細い呼吸だけが響いている。なにも変化のない部屋。立ちつくす幼子は、一人、唇を噛み締めた。



 パオリンが姿を消してから、二十四時間以上が経過した、朝。カリーナはなにひとつ変わらない日常の元、己の部屋で目を覚ました。のろのろとした動きで目覚まし時計を止め、時間に余裕があることを確認して、身を起こす。PDAを即座に機動させて情報を収集し、念のため、私用の携帯電話も確認するが、求める情報はないままだった。事件には進展がなく、一日は過ぎ去った。一件の新着メール、七時半に迎えに行くから、と告げるイワンに擬態して来てねと念を押す返信をしてから、カリーナは息を吸い込み、鏡の前に立つ。まだ眠気の冷めない顔を覗き込み、意識を切り替えて、微笑みを唇に刻んだ。一日。たった一日だ。それしか経過していないのに、落ち込む理由がどこにあるというのだろう。ヒーローは諦めないし、諦めたとしても立ち上がる。何度でも前を向いて、信じる方へ走って行けばいい。頑張れ、ブルーローズ、と口に出して呟き、カリーナはよし、と意気込んでパジャマを脱ぎ、制服に袖を通して行く。頭の中で時間割りと持ちものを照らし合わせて確認し、机の上に放置してあったキャンディーとチョコレートの包みをいくつか鞄に投げ入れて、部屋を出る。家の中はすでに、温かな朝食のにおいで満ちていた。空腹を思い出しながら階段を降りて、カリーナは笑顔で両親に挨拶をする。一瞬、向けられた心配の視線を、あえて笑顔を浮かべることで無視した。大丈夫、なんて聞かないで欲しい。大丈夫なんてことは、絶対にない。
 こんなにも普段通りであることが、こんなにも苦しくて、不安になる。パオリンはいないのに、未だ行方が分からないのに、どうしてカリーナだけ昨日と変わらない今日を過ごしているのだろうか。訳の分からない罪悪感で、心が負けてしまいそうになる。脚に力を込めて、意識して笑顔を作る。本当は、それだけで精一杯で、言葉まで取りつくろう余裕がない。祈りにも似た虚勢が崩されることはなく、カリーナの父も、母も、おはよう、と声をかけるに留まった。ほっと安堵して椅子に座るカリーナを見た痛ましい視線に気が付くことなく、少女は並べられた朝食に目を輝かせ、早口で食前の祈りを済ませると、それに手を伸ばした。食欲は普通にある。心がちくりと痛むのを無視して、食べたくない気持ちを跳ねのけて、口を動かして飲み込む。普段の食事量の八割くらいを飲みこんだ所で、来客を知らせるチャイムが鳴った。心当たりがあるカリーナは慌ただしく残りをかきこみ、玄関へ向かう。不意に泣きそうになる安心感に息を吸い込みながら、鍵をあけ、扉を開いた。立っていたのは、イワンだった。擬態して女性の姿になっているでもない、ごく見慣れたジャケットにスボンをはき、猫背ぎみでやや目つきの悪いカリーナの同僚。イワン・カレリンそのままの、青年だった。なにしてるの、なんでそのままなの、なんで擬態してくれていないの。いくつも浮かんだ文句を飲みこんで、カリーナはイワンに向かって強く足をふみきり、勢いをそのままに抱きついた。どん、と体がぶつかるが、倒れ込みはしなかった。
 飛び込んで来た少女の体を上手く抱きとめて、イワンはそっと、呆れたような溜息をカリーナの耳元で響かせる。泣いてるのかと、思った。呟かれる言葉に、カリーナはぎゅっと唇を噛んで目をあげる。至近距離で睨む矜持が、残っていた。
「泣いてなんて、ないし! おはよう!」
「うん、そうだね。……おはよう、カリーナ。よく眠れた?」
「普通に眠ったわ。それより、ねえ、イワン。なんで擬態してくれてない訳? 私、ちゃんとお願いしたのに」
 抱きついたままでぷぅっと頬を膨らませるカリーナに、イワンはくすくすと喉を震わせて笑った。優しく目を細め、カリーナの目を覗き込む。すこしだけ寝不足の色が見える、少女の瞳。不安に揺れながらも、恐れを知りながらも、扉から現れた瞬間と比べれば、随分と落ち着いていた。
「……僕のままで君に、会いたくて」
「なにそれ」
 告白みたい、と首を傾げて呟き、カリーナはイワンの温もりを堪能するようにぎゅっと腕に力を込めてくる。体温、鼓動のリズム、体のかたち、かすかな匂い。イワンのそれを覚えこむように目を閉じて、それからカリーナは体を離し、微笑んだ。
「もう、大丈夫」
「そう?」
「うん。そう。……ありがとう、イワン。もうすこし時間がかかるから、パパとママに挨拶して行って? 事情は知ってるから、イワンのままで大丈夫よ」
 送り迎えしてくれることは話してあるの、とイワンの腕を引いて家の中へ連れ込むカリーナに、青年はややぎこちない笑みを浮かべながらも逆らわず、足を進めた。一連の流れをそれとなく見ていた御近所さんに、ライル家のカリーナちゃんが彼氏を両親に紹介した、と誤報が飛び交うのは、仕方がないことだっただろう。後日、そんな噂を流されるような気はしていたんだけど、と苦笑したイワンに、どうして言ってくれなかったのよ、とカリーナが烈火のごとく怒るのだが。その数日後の未来を予測できない程、その時の彼らはそれぞれに追いつめられ、そして。必死になにかを守ろうと、もがき続けていた。

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