アポロンメディア社内の会議室で、虎徹とバーナビーが雑誌のインタビューを受けている。広い室内には入れ替わり立ち替わり様々な部署の人間が出入りしており、ざわめきは絶えることなく、それでいて落ち着いた雰囲気が漂っていた。インタビューはまだ雑談の段階で、録音装置のスイッチは入れられていない。本番ではない、という緊張感の無さのせいだろうか。虎徹もバーナビーも、時折、部屋の隅に確認するような視線を向けては、互いに注意しあうという行為を繰り返していた。視線の先には作業用の机が置かれており、二つの椅子が並べられいた。バディはその椅子に座った青年と少女の存在を確認してはほっと安堵に口元を緩め、小言を言いあいながら、ゆるやかなペースで仕事を進めて行く。確認されては安心され、また確認してくる視線に、それを向けられている楓はやや疲れたような溜息をついた。心配なのは分かる、というか、心配されているのは魂の底から理解しているが、それにしても程度というものがあるのではないだろうか。父親と養父に対してヒーロースーツの貸し出しを拒み、精神的な罰を実行したアポロンメディア技術部に惜しみない感謝の念を送りながら、楓は今一つ集中しきれない様子で、ノートパソコンの画面を睨み直した。
少女が、身を入れて資料を読み込んでいないことが分かっているエドワードは、無言で読み進めていたそれを最初のページに戻し、マウスに硬質で硬質な音を立たせ、楓の手元へ置いた。怒られるより真剣に反省するやり方に、楓はきゅっと唇に力を込めて瞬きをした。ぬるまったマウスを握り締めて、真剣な気持ちでノートパソコンに挑みかかる。エドワードと楓が目を通していたのは、この二十四時間で警察から提供された資料、および現在までに判明している少女連続誘拐事件、被害者の捜査資料である。いなくなった少女の特徴、現場の写真、何時くらいに姿を消したのか、最近の私生活の様子、周囲に聞きこんだ少女たちの性格、事件、人間関係。ありとあらゆる情報。十三歳の少女が脳裏に刻み込むようにしては重すぎるその情報を、ひとつひとつ、噛み砕いて理解して、考えて読んで行く。息を吸い込むだけなのに、落ち着いてくれない感情が、鼻の奥をつんと痛ませた。無事でいて欲しい。なによりも強く、そう思う。震えながら息を吐きだし、楓はそっとマウスから指先を離した。表示されているのは、先程、エドワードが読んでいたのと同じページだ。もう大丈夫、と告げ、楓はちらりと向けられた虎徹とバーナビーの視線に、眉をはねあげるようにしかめて顔をあげる。相手するな、とたしなめるようにエドワードは呟くが、声が笑っているので説得力がない。マウスも動かず、読み進められる気配がないことを確かめてから、少女は微笑んだ。
意識して優しい笑みを唇に浮かばせ、顔をあげて二人と視線を合わせてから、机の上に置いていたてのひらを顔の高さまで持ち上げる。なぜか青ざめているバディに慈悲深い気持ちになりながら、少女はぴし、と音がするようなまっすぐな仕草で人差し指を二人に向けた。集・中・しな・さい。言い聞かせるように声もなく唇だけを動かして、楓は可愛らしい動きで首を傾げてみせる。もちろん、言うこと聞いてくれるよね。そんな風な仕草に、首がもげるような勢いで虎徹とバーナビーは頷いた。完全に動きがシンクロしていたので、楓の傍らではぶはっ、と笑いを堪え切れない音が響く。何度か咳き込んでもいるエドワードに複雑な気持ちで視線を戻し、楓はもう、と声を出した。
「集中するんでしょ? 笑っちゃダメ」
「分かったよ。……あんまり楓、怒らせないようにしよ」
肩を震わせ、いかにも楽しげに笑いながら恐れられても、ちっとも気をつけるようには聞こえない。それでもなんで、とむくれた響きで問いかければ、エドワードはんー、と口ごもり、そっと目を細めてやわらかな印象で楓を見る。
「目が笑ってない楓が怖かったから?」
「……じつは、ぜんぜん、怖いと思ってないでしょう」
「今のところは。俺に向けられた顔じゃなかったし」
伸ばされた手がぽん、と一度だけ楓の頭を撫で、気まぐれにすぐ離れて行く。指先を目で追い掛けながら、楓は上手く処理できない感情に息を吐きだした。考えなければいけない気がするこの気持ちに、向き合う時は、けれども今ではない。気を取り直して画面に目を向ける楓に、エドワードは無言で従った。苦にならない沈黙の中で、二人はサポーターだけにもたらされた情報を頭に叩き込んで行く。今日の午後には捜査本部に合流して、警察と共に動くことになるだろう。後方待機を言い渡されたと変わりない状態のヒーローたちと違い、サポーターは最前線に立たされるのだ。走って行く先に、この世の悪がある。す、と息を吸い込む音が耳に触れた。
「焦らなくていい。……できることを、しよう」
「はい」
「よし。じゃ、ちょっと休憩」
言うなり、エドワードはさっさとパソコンをログオフしてしまう。バックライトが消え、鏡のように顔を移した画面を見て顔をゆがめ、楓は不満げにエドワードを睨んだ。
「もう休憩するの?」
「十五分ごとに、五分は目を休ませなさいって俺たちの上司の一人からお達し。パソコンの連続稼働が十五分をオーバーすると、自動的にお知らせメールが飛んで即座に俺が怒られる」
あのひと基本的に過保護っていうか、やり方が強引で強制的な過保護なんだよめんどくせぇ、とうんざり吐きだされた親愛の響きに、誰と言われずとも楓は『上司の一人』を特定した。今頃は、楓たち以上に忙しく動いているであろうヒーロー管理官、その人である。昨日中に家に帰って来たからまだ余裕がある方、とエドワードは言っていたが、今日も早朝に出勤して行ったという。数時間の仮眠と、家に置いてあるものが必要で取りに来たというニュアンスの帰宅であるから、気持ちの上でも休めてはいないだろう。はやく事件が解決しないにしても、進展くらいはしてくれないと、ユーリの顔色がさらに悪くなって、司法局の部下が容赦なく救急車を呼ぶ事態になる。過去に、うちの上司の顔色が悪いを通り越して土気色っぽいのでちょっとお願いします、と何度か本当に救急車を呼ばれているので、その経験から考えてリミットは三日くらいだろう。あと三日以内に事態を好転させなければ己の体調を完璧に崩すくらい働き詰めるというのに、ユーリというひとは他の者にばかり気を回すのだ。その急性的な過保護の心を一割でいいから己に向けてさえくれれば、部下が爆笑しながら飲み物に睡眠薬を混入し、上司を仮眠室に叩きこむ事件が司法局で発生しなくて済むものを。ユーリさんもだいたい周囲が見えないワーカーホリックだよね、と溜息をつく楓に、エドワードは深々と頷いた。
「あのひとの場合は仕事が心底好きっていうより、仕事がユーリさんをどうしても放してくれなくて、いまユーリさんが仕事の傍を離れるなら爆発してやるんだからって脅されて、仕方なくずっと仕事してるって感じだけどな」
「爆発を恐れずに、家に帰って寝る勇気が必要だと思う」
「だからあのひと、キリサトさんと仲良しなんだよ」
二十四時間仕事するけど、一日が二十四時間で足りないのなら寝ないという行為でもって延長戦にもつれ込めばいいと思う。つまり二十四時間が終わった時から二十五時、さらに二十六時という無限の可能性、これですよっ、と力説して部下に微塵の容赦もなく頭を殴られていたキリサトの姿を思い出し、楓とエドワードは生温い笑みで頷き合った。
「一日は二十四時間でいいよね。それで、夜は寝るものだよ」
「そうだな」
「……そろそろ五分たった?」
エドワードは腕時計に視線を落とし、数秒考えてからたぶん、と言ってパソコンの画面を復帰させた。十五分は厳密に測っていただろうに、休憩の五分をちゃんと見ていない所が可愛らしく思えて、楓は肩を竦めてちいさく笑う。
「エドさん、かわいい」
「……いきなりなんだよ。可愛いのは楓だろ?」
きょとんとした、不意を突かれた表情でごく自然にそう言ってのけたエドワードに、楓は無言で紙カップのコーヒーに口をつけた。長時間、頭を使う作業をする為に砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーはものすごく甘かったが、なぜかあまり味を感じない。ごくん、と喉を鳴らして飲み込んで、楓は力なく、紙カップを机の上に置いた。コトン、と音がする。
「……エドワードさんは、ずるいと思う」
「ん?」
「おんなのひとに! も、もてた、でしょう……?」
アカデミーの時、イワンさんと一緒にいたような時期に。勢いごんで告げ、それでいてしおしおと失速してぼたりと落ちた言葉を拾い上げて、エドワードは苦笑しながら首を傾げる。余裕すら感じさせる、落ち着いた態度だった。
「なんで?」
「……え、う」
「なんで? 楓。……なんでそう思うんだ?」
指先が伸ばされ、むずむずと閉ざされた楓の唇の前で止まる。すい、と見せつけるように動いた指先は、少女の前髪にだけ触れて離れて行った。爪が、すこし伸びている。何日か忙しくて、楓がやすりをかけていないからだ。それが習慣のようになってから、エドワードは自分で爪の手入れをしなくなっていた。息を吸い込む。肺の奥まで、感情が広がってすこし苦しい。
「可愛いって……言われたら、嬉しいし。エドさん、私が嬉しいことばっかり言うから……」
「……嬉しいんだ?」
「だから、っ」
そう言ってるでしょう、と反射的な怒りに似た気持ちで言い返そうとした言葉が、どこかへ消えてしまう。顔なんて、見るのではなかった。後悔していても目に焼きついた表情が消えてくれずに、楓はぎゅっと瞼に力を込めた。
「そ……」
頬に両手を押しつける。熱い気がした。
「そんな顔しないで……」
「……どんなだよ」
「知らない!」
ぱちん、と目を開くと、楓の意識に焼きついたあの表情は消えていた。代わりに、心底理解していない、いぶかしげな顔つきでエドワードは首をひねっている。べぇ、と幼く舌を出して怒りながら、楓は絶対に言ってあげないんだから、と思った。だって、あんなに満ち足りた幸せそうな表情を見たのが、はじめてのことで。理由が分からなくて、逆に不安になる。
「もういい。お仕事の話、しよう? ね? ……ね?」
「……現在までに判明している事実だけまとめると」
仕方ないな、と溜息をついて言葉を挟まず、エドワードは紙カップに手を伸ばした。楓のものと同じ甘さのコーヒーに、砂糖の味がするとばかり妙な顔をしながら、低められた声が説明を奏でて行く。ざわめき続ける空気が、ふと遠くなった。
「いなくなっているのは、現在までで十五人。全員が少女とされる年代の女性。つまり、下が九歳、上が十八歳程度までで、この資料が本当に正しければ……全員がNEXT能力保持者。何人か、入学予定者も含め、アカデミーの生徒が混じってる。いなくなった時間帯はバラバラだが、傾向的には夕方から夜に集中していて、朝から昼間の時間帯は十五人中、二人だけ。いなくなった状況は一人で行動している時を狙っている……と思われるが、本人が単独行動であるだけで、逆に人混みが多い。ショッピングモール、登下校中の駅、車通りの多い交差点、など。共通点があるとしたら、まあ……見かけ、だな」
「……服装とか、髪の色とか、目の色とか?」
「この場合は、単に印象。……見てみ?」
被害者の写真を並べたパソコンの画面を見て、その一枚にパオリンがいることに楓の表情が曇る。なにかを読みとろうと目を凝らすように一人一人を見比べ、楓はふるりと頭を振った。
「わかんないよ……」
「そうか? キツイ顔立ち一人もいないだろ?」
「……えっと?」
顔の印象、と噛んで含めるように告げられて、楓は眉を寄せながら十五人もの少女たちの顔を見比べた。そう言われてみれば、どこかしらおっとりとした印象の者が多い、ような気がする。あるいは明るく、優しそうな印象を与える者ばかりで、例えば初対面で声をかけたとしても、誠実に対応してくれそうな、そんな気がした。パオリンも、ヒーローをしているだけあって、困っている者は決して見過ごしていかない性格をしている。顔を見れば人間性が分かるとも言うが、少女たちは共通して『優しそう』な印象を持つ、『NEXT』だった。ぞわ、と得体の知れない恐怖が肌の上を駆け抜けた。無差別ではないのだ。確実に選別された結果、少女たちは連れ去られている。目の前が揺れ、白い光が淡く点滅していく。苦しくて喉に手を添えれば、息を吸い込むことができなくなっていると気がついた。
「……楓。呼吸しろ。息」
できるな、と促してくるエドワードに苦しげに眉を寄せ、楓は止めてしまったそれを再開すべく、ぶるぶると震えながら唇を開いた。おおきく、息を吸い込む。それだけで、吐き出すことができなかった。痛いくらいに体が強張っている。手を伸ばしてエドワードの人差し指と中指をぎゅっと握り、楓は祈るように目を閉じた。混乱する意識を、ひとりで落ちつけられない。
「……ったく」
呆れよりは幾分か優しい響きで吐き捨てられ、体に影が落ちたのを感じる。なに、と思って目を開けた瞬間、片腕で強引に体が引き寄せられた。がたん、と椅子が鳴る。
「ほら、楓」
隣り合わせに座っていた椅子の上、エドワードの膝の上に移動させられた。ぐったりと、エドワードの体にもたれかかるように息を引きつらせる楓の背を、てのひらが丹念に撫でて行く。からだのかたちが、てのひらの辿る輪郭によって暴かれていく。引きつるように息を吸い込み、背を反らし、少女はむずがるように首を振った。震える手が、エドワードの服を弱く掴む。
「……ぎゅってして」
「んー?」
「な、撫でるのより、ぎゅってして。エドさん……!」
なんか、やだ。眉を寄せて呟く楓の呼吸が平常に戻っていることを確認して、やれやれ、とエドワードは苦笑する。望みのままに片腕で背を抱き寄せてやれば、ほっと脱力した少女の体が体重をかけてきて、顔が肩に伏せられる。
「……楓はこどもだなー」
「ちょっとびっくりして、息できなくなっちゃっただけだもん」
「そこじゃねぇけど……あー、うん。まあいい」
落ち着けてよかったなー、とからかうように囁かれて、楓はもう、と息を吸い込みながら体を離した。
「だって、なんかすごく怖かったんだもの」
「俺は今正直な話として、お前の保護者が怖いけどな?」
「保護者?」
首を傾げながら座っていた椅子に移動しなした楓は、目を瞬かせながらエドワードが指差す方向を覗き込んだ。ぱちん、と音を立てて衝突しそうな勢いで、虎徹とバーナビーと視線が重なる。あ、と言ったのは誰だったか。すくなくとも遠い目をして顔を反らしているエドワードではなかったので、室内にいる他の誰かか、保護者のどちらかか、楓であった筈だ。エドワードをどの地層に埋めるかを真剣に考えているらしき保護者を見つめ返しながら、楓は瞬きをするたびに、自分の顔が赤くなって行くのを自覚した。はくはく、言葉を宿さず口が動く。たくさんの言葉が渦巻き、結果、楓は涙でうるんだ目で保護者たちを指差し、椅子から立ち上がって絶叫した。
「真面目に仕事してて! こっち見ないで!」
「真面目に仕事はするけどな? 父親としてちょっと見逃せないことがあった訳だがエドワード、埋められるならどこがいい」
「……答えるのは五十年後にさせてください」
獣のように目を光らせ、飛びかかる瞬間を待ち望む虎徹に、エドワードは気まずく視線を反らして溜息に乗せて言葉を吐きだす。五十年が経過し終わる、それまでに考えておくんで、と灰色の声で呟くエドワードに、バーナビーがあでやかな笑みを浮かべた。虎徹の獰猛な笑みとは違い、こちらはあくまで艶やかな微笑みである。ただし、麗しすぎて見た者の呼吸を奪いそうな魅了の笑みであり、即死性の毒を滴らせる笑みだった。
「エドワード先輩?」
「……なんだよ」
「今度、アカデミーで楓さんとどう接しているのか、詳しく聞かせてくださいね?」
無言で降参の仕草をしながら頷くエドワードに、とりあえずはよしとしたらしい。まあいざとなったら僕たちにはスカイハイという味方が付いているし、埋めるより成層圏の方が早いですよ、と殺害の意思が見え隠れする発言で虎徹の意識を宥めたバーナビーは、凍りついた室内の空気を微笑みひとつで溶かしてみせた。さあインタビューを終わりにしてしまいましょう、の一言で再開したざわめきが、エドワードにはなにかのカウントダウンに聞こえる。はー、と深く息を吐きだしたエドワードに身を乗り出し、楓はそっと問いかけた。
「逃げる?」
「……逃げ切れる相手か?」
「警察署までは追い掛けてこない……と思う」
午後になったら捜査本部に行くのは、半強制的なスケジュールなのである。このままでは引き留められそうな気がしたからこその楓の申し出に、エドワードはゆるい笑みを浮かべた。
「ちょっと首……いや、顔洗ってくるから。待っててくれるか?」
「……捜査の協力に行くんだよね?」
「ああ。市民の安全を守りに行くんだよな」
噛み合っているのか噛み合っていないのか犯別のつきにくい返しをして、エドワードは椅子から立ち上がった。ここから動かないで待ってろよ、と告げるのは、移動することによって楓が一人になってしまうことを防ぐためだろう。室内は常に人が出入りしているもののアポロンメディアの社員ばかりで、インタビューに戻ってはいるものの、意識が明らかに楓に向いている保護者たちもいる。大丈夫だよ、と呆れながら言い返し、楓は早足に部屋を出て行くエドワードの背を見送った。それから、机に肘をついてパソコン画面を注視する。画面は、未だ少女たちの写真を表示していた。マウスに手を伸ばして、資料をまた最初から読み直して行く。集中して何枚か読んでいると、不意に、周囲の音が消えていることに気がついた。インタビューが終わったのだろうか。ふと顔をあげた視線の先、バーナビーと虎徹がまだ離し続けているのが見えた。それなのに、音が遠い。ぶ厚い硝子の向こうへ、世界が隔てられてしまったように。誰とも、視線が合わない。誰も楓のことを見ていない。慌ただしく立ち上がり、部屋中を見回しても。誰も、誰も。
「っ……!」
ぐっと、腕が引かれた。意識が求める名を呼ぶ寸前、それを慌てて遮るように。勢いよく視線を向ければ、そこに立っていたのは少女が想像していたどんな相手とも違う、楓よりずっと年下に見える幼子だった。顔つきや体つきから女の子であることが分かる。うす汚れた身なりは家出して街を彷徨った後のような印象で、セキュリティーカードによって侵入を拒むアポロンメディア社内に、正規の手段で入ったとも思えなかった。唖然として見つめるばかりの楓に、幼子は必死に目を合わせてくる。震えるような、縋りつくような眼差し。くちびるが、動く。
『たすけて』
囁く声は、耳に届かなかった。声が出ていないのだ。けれどもそれは透明な響きで、弱々しくもまっすぐに楓まで届けられた。幼子は繰り返す。何度も、何度も。それしか手段を知らないように。それしか、言葉を知らないように。
『たすけて』
連れて行きたがるよう、何度も、腕が引かれる。それは楓の足を前に進ませるには弱く、けれども胸を痛ませた。
『たすけて、たすけて……!』
その痛みで。声なき悲鳴で。繰り返される言葉で、楓は理解してしまう。パオリンは、そして少女たちは、こうして連れ去られたのだ。連れて行かれたのだ。ついて行ったのだ。この求めを退けることが出来ず、あるいは、確かに助けたいと決意して。震えながら、かすかな望みを必死に繋ごうとする存在に心動かされて。パオリンはきっと、助ける、と言ったに違いない。楓は息を吸い込んで、服を引く少女の手に触れた。
「……なにから、助ければいいの? なにを、助ければいいの……? 私なら……NEXTなら、助けられるものなの?」
『……たすけて』
「お願い、答えて。そうしたら、私、きっと……!」
あなたの力になれるから、と告げる楓に、幼子の身開かれた目が向けられる。そこにあるのは不信と恐怖だ。裏切られることを恐れて、あるいは問い詰められたことに怯えて、幼子の指から力が抜けて行く。いなくなってしまう、と反射的に感じた楓は、幼子の手を強く握った。瞬間、目の前が光の欠片で青く染まる。それは、悲鳴のようだった。本能的な反射でもって、楓はその能力をコピーする。エドワードが楓の名を呼ぶ声がして、少女は振り返ろうとした。けれども、叶わず。その存在は、会議室からかき消えるように無くなった。
一瞬でも傍から離すのではなかった、と後悔しても遅すぎて、エドワードは強く机に拳を叩きつけた。激しい音にようやく室内が夢から覚めたかのよう、視線がエドワードに集中する。虎徹とバーナビーが訝しむ目を向けてきたのち、傍らの不在に気がついて表情が強張った。目で確認こそしていなかったものの、ずっと気にしていた筈なのだ。エドワードが所用で傍を離れたことも分かっていたから、なるべく視界の端に楓を入れるようにして座りなおし、かすかな動きを捕らえられるようにしていたのに。ほんのすこし前、一秒か二秒くらい前まで、記憶はその姿を覚えていたのに。そこから、楓は消えていた。血を吐くようなエドワードの表情が、単なる不在ではないと告げている。
「……くしょう……っ!」
もう一度、机を激しく拳で打った後、エドワードはPDAを起動させた。呼び出し相手は楓だが、砂嵐が荒れるばかりで映像も音声も繋がらない。位置情報を呼びだしても不明となるばかりで、行方を掴むことが出来なかった。続いて、エドワードが呼びだしたのはとある技術者の少女である。寝ている時以外は二秒以内で反応します、と告げられていた通りの速度で繋がった通信に、エドワードは怒りを叩きつけるように告げる。
「楓が消えた」
『……ん? その瞬間を見てたとかですか? なら具体的にどうぞ。どんな風に消えたように見えたのか』
教えてくれたら力になります、と画面の向こうで冷静に微笑む少女の言葉は、悪魔との取引にすら似ていた。なにかを差し出す代わりに、唯一の望みが叶えられる。ためらわず、エドワードは息を吸い込んだ。
「NEXT能力による空間移動? 転移……したみたいに、見えた。楓は相手の能力をコピーしてた……ように、見えた」
『……転移?』
「SF映画で見たようなイメージ、そのままの」
キリサトは唇に指先をあてて押し黙り、そうですか、とだけ言った。焦りのあまり解決策を促す言葉を叩きつけてしまうより早く、画像の向こうでキリサトの視線があげられる。
『……楓さんが相手の能力をコピーしていたのなら、そのうち連絡が来る……と思います。ちゃんとコピーできていたのなら』
「……確かだな?」
『仮説が正しければ。……とりあえず、二時間ください。サポーターのPDAは、ヒーローのものとは作りが違います。回線も、多少異なるものも使えるようにしてあります。追えるかも知れない。言うまでもないと思いますが、エドワード。単独行動は控えて、ヒーローを全員合流させてください。上手く追え、知らせが届けば、間もなく出動要請がかかるでしょう』
二時間以内に、あなたの怒りをぶちまける場所を用意してあげますよ、と言うキリサトに目礼して、エドワードは通信を終わりにした。手早くユーリにメールで事の次第を連絡し、青年は無表情でインタビューを終わりにしたバディを見る。
「……トレーニングルームに移動してください。他のヒーローにも連絡します。そこで、指示があるまで待機を」
「エドワード」
「傍を離れた。俺の不注意です。……挽回はします」
終わったら、怒りも責めもお好きにどうぞ。抑揚もなく、冷たい声で言い放ったエドワードは、さっと身を翻して部屋の出口へと向かう。戸口で一度立ち止まり、振り返った視線は、一刻も早くトレーニングルームへ行くことを目的としていた。バディに、否やはない。小走りに背を追ってくる足音を聞きながら、エドワードはPDAに指先を走らせる。砂嵐の音がする。
「楓……っ!」
呼びかける声に、応える声はなく。
呼び出し音は緊急を告げるそれではなく、プライベートな番号から発信されたそれだった。急いでいるからと言って、繋ぐ回線を間違える相手ではない。つまるところ、社会的な緊急性よりもなお強制力を持ち、こちらを従わせたいなにかが起きているのだ。ワンコールの鳴り響くほんの僅かな時間でそこまでを把握したユーリは、携帯電話を持ち上げ、静かな声で休憩を告げた。安堵と困惑が半々の、説明を求める部下たちを置き去りに、ユーリはマイペースな足取りで会議室を出て行く。廊下の、突き辺りの方角へ歩きながら受信ボタンを押して耳に通話口を押し当て、慣例に従って己の名を唇に乗せた。
「ユーリ・ペトロフです。……なにが起きて、なにをすれば?」
『説明の必要がない相手って、好きですよ。手間が省ける』
聞く者によっては上機嫌であるとも判断される柔らかな笑みまじりの声に、ユーリはうんざりとした気分で白い天井を眺め倒した。いったいなにが起こればこんなにも、この少女を逆上させることができるのかと思うが、冷静なように見えて、沸点が低い場所に設定されていることもユーリは知っていた。それでも、ここまで怒りをあらわにするとなれば、相手やパターンは決まっている。警察がらみか、政治がらみか、NEXT能力がらみ、その三点である。最近の傾向から判断すると、NEXT能力を使用したなんらかの件が、少女の逆鱗を逆なでしたあげく、踏み抜いたに違いない。ふー、と息を吐きだすことで言葉の続きを促すユーリに、くす、と笑みの気配が響く。
『そろそろ管理官の元にも連絡が行くと思いますが、ヒーローサイドに犠牲者……というか、被害者かな。が、増えましたよ。楓さんが姿を消し、エドワード・ケディがそれを目撃しました』
「……そうですか」
『そうなんですよ。それで、ユーリさんにして欲しいことなんですが、ちょっと許可もぎ取ってきてくれません?』
持つべきものは上層部にゴネられる権力と、不可能を可能にまで押し上げるネタを持っている友人ですね、とハキハキした声で告げられて、ユーリはとりあえず深呼吸をした。状況から、なんの許可を求めているかは理解する。けれど、それは危険で、とても難しいことだった。否定を口にするより早く、電話口の向こう、甘やかに笑う声がする。
『まあ、難しいというか、できないっていうことなんて私にも分かっています。……けどね、ユーリ』
「なんです? キリサト」
『許可ナシでもエドワードは、絶対、行きますよ』
だって楓ちゃんが、よりにもよって楓ちゃんが、目の前で連れ去られるという考え得る限りの最悪の状況ですよ、と面白がっているような響きの悲壮感を与えない声で囁かれ、ユーリは無言で額に手を押し当てた。そんなことは、言われなくとも分かっている。それが他の誰かであったなら、エドワードは焦りながらも冷静さを取り戻し、サポーターとして与えられた権限全てを使ってでも助けようとしただろう。けれども、いなくなったのは楓である。エドワードが蝶よ花よと可愛がっている少女である。冷静になることは、できるだろう。我を失い衝動的な感情で動くことの恐ろしさを、罪という形で知っているからだ。けれども、サポーターとして動くことは、望めないに違いない。情報だけをかき集め、最前線より一歩足を引き、解決の手段をヒーロー、あるいは公的機関に委ね、祈るように無事を待ち、見つめるだけのやり方は。罰されると分かっていても、エドワードはヒーローと同じように最前線を駆け抜けるだろう。誰の制止の声も聞かずに、伸ばした手もすり抜けていく能力を、エドワードは持っている。その光景が、目に見えてしまう。
『だったら許可あげて、その上で制限をかけるのが賢いやり方だと思いません? 立場とか関係なく、個人的な感情で私はそうしてあげたいし、それに……言っちゃったんですよねぇ』
「なにをです?」
『二時間以内に、あなたの怒りをぶちまける場所を用意してあげます、って。エドワード・ケディに』
つまりそれは遠回しな、だから二時間は絶対にその場を動かす、冷静に待て、という厳命でもあるのだが。暗にエドワードにそれを受け入れさせたことよりなにより、結果的な事後報告であることに、ユーリは深々と息を吐きだした。ヒーローにまつわる緊急回線ではない時点で分かり切ったことだったが、つまりどうしても受け入れて貰わなければいけない要求な訳だ。エドワードを前に出すことに必要な条件と、手続き、連絡を取らなければいけない人間を頭の中で考えながら、ユーリは白いばかりの天井を睨みつけた。
「……二時間ですね?」
『二時間です。正確にいうと、あと一時間五十二分です』
「分かりました。一時間半でなんとかしましょう。その間に、あなたはなにを?」
もしや私にこれだけ危ない橋を全力疾走させておいて、まさかなにもしないなんて絶対にありませんよね、と告げられ、電話の向こうでキリサトがおかしげに笑う。悪魔のような笑い声だった。魔女だとも、ひとは呼ぶことだろう。詳しくは聞くまい、と心に誓い、ユーリはそれでは健闘を祈ります、と言った。風変りな友人から害が及ばないようにつきあう秘訣は、好奇心を持たず、ほどほどの距離を保つことなのだ。会議室に足早に戻りながら、エドワードにある程度自由に動けるようにしますからもう少しだけ待ちなさい、とメールを打って送信し、ユーリは携帯電話を懐にしまいこむ。会議の再開は不可能だが、致し方ないことだろう。会議室の扉を開け、中に入る。急な休憩に戸惑うことなく、それぞれ短いリフレッシュを堪能してきた部下たちは、緊張感に満ちた良い顔をしていた。彼らはこのシュテルンビルトで『なにか』が起きることを誰より知り、それにより奪われる平和を守る為の猟犬である。走りだす命令は、ユーリの声が下すものだ。そして彼らは、今から命令が下されることを知っていた。平和は奪われている。守る為の力が、いくつも必要なのだった。さあどうぞ、と言わんばかり待つ部下たちに苦笑し、一足先にしなくてもいい苦労を請け負った我が身に遠い目をしたくなりながら、ユーリは着席していた面々に向かい、息を吸い込んだ。これより、ここも戦場になる。
奪われてからしか、動けなくとも。救いの手は伸ばされる。