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 煩く数を増やして行く心拍数を宥める努力を放棄しながら、エドワードは膝を抱え、目を閉じてその時を待っていた。頭の一部分だけが冷静に、告げられた時間へカウントダウンを続けている。意識がある間は切り離すことが不可能の聴覚が、扉が開かれる音と足音、増えた気配とかそけし声を拾い上げた。吐息のように溜息のように、エドワード、と呟かれる名前。呼びかけであっても反応はしなかっただろう。呼びかけでない、ただの確認であったからこそまなじりを微かにも動かすことをせず、エドワードは努めてゆっくりと息を吸い込み、吐きだした。冷静な頭のどこかが、お前もか、とからかうように旧知の存在へ言葉をかける。虎徹もバーナビーも、カリーナもアントニオも、キースもネイサンも、トレーニングルームに入るなり楓の不在を確かめるように視線を彷徨わせ、そしてエドワードの名前を呼んだ。責めるのではなく、慰めるのでもなく。途方もない空白を目の当たりに、寄り添いたがるよう、その名を呼んだ。イワンも同じように、反射的に親友の名を呼び、けれどもそれ以上の言葉を発せず、近寄ることもできずに立ちつくした。
 ヒーローサポーターとしてヒーローたちの前に姿を現してから、彼らは常に一対のように二人でいた。そうするのが決められたことであり、自然のように、二人でいた。ずっと隣に立っている訳ではなく、立ち位置としては離れた場所で、まるで別々の作業をしていることの方が多い二人であったけれど。彼らは目で見て、そして感じて、知っていた。彼らはバディであり、対であり、引き裂きがたいひとつの形だった。こんな空白を、誰が予想しただろう。屈辱にも似た喪失を、受け入れることすら困難で。だからこそ、目を背けるように、エドワードはまぶたを下ろしてソファに身を沈めたまま、眠るように呼吸を整えているのかも知れなかった。ひとつのことを思う。ひとつのこと。たったひとつの望みのことを想う。エドワードが堀の外で自由を得る為の代償が、その少女の守護だった。その能力を導き、成長させ、害あるものから守護し、またその暴走から少女自身を守る為の手段として、エドワードは都合よく選ばれた。初めて引き合わされた瞬間のことを、思い出す。まだほんの少女だった。十一歳になったばかりの少女は、誰に甘えることも縋ることもできない空間で、ひとり、背を伸ばして立っていた。少女の傍らにはヘリペリデスファイナンスの技術者と、ヒーロー管理官が周囲の威圧感から守るように控えていたが、青ざめた表情がなんの足しにもなっていないことを告げていた。広い部屋だった。机と椅子が取り払われた、広いだけが能のような会議室で、政治家と市長と議員、裁判官と警察官、治安維持特殊部隊、果ては軍の人間に取り囲まれながら、エドワードと楓の対面は執り行われた。儀式であり、契約だった。
 たった十一の少女がその場の誰をも味方と思っていないのは、エドワードにはすぐ分かることだった。ユーリとキリサトはそうなりたいと思ってはいるだろうに、すぐ傍に体を寄せることすらぎりぎりのことで、優しい言葉ひとつ、かけることは許されていないのだろう。楓は危険視されていた。父子二世代に渡って現れたNEXT能力は現代においても特異であり、道を踏み外せば容易く罪を呼びよせる力だ。隠蔽されたユーリの過去がそれを物語り、エドワードの存在がNEXTの危険性を証明する。第三の加害者になるのではないか。そんな目で見られてなお、楓は唇を噛んで背を伸ばし、まっすぐにエドワードを見ていた。泣きそうに潤んだ目は、父親に助けを求めていた。震える程握り締められる手が、触れて欲しかったのはバーナビーだろう。心を与えた二人から引き離され、話すことも助けを求めることも、禁じられて。連れてこられた、楓こそ、罪人のような扱いをされていた。少女はなにもしていない。その、なにも、の前に『まだ』を疑う多くの悪意とこびりついた恐怖が、エドワードを選び出し、楓をこの場所に連れてきたのだ。
 楓は、エドワードをまっすぐに見ていた。敵か、そうでないものかを見定める視線に、味方であるという期待は含まれていなかった。対応を僅かでも誤れば、エドワードは永遠に楓の味方には思って貰えないのだろう。一度だけ、一度きりしか、チャンスは与えられない。息を吐いて、歩み寄る。肌を切り裂くような視線と、悪意と、威圧感がエドワードに集中した。その中でエドワードは、楓の前に立つ。見つめあい、その瞳の無垢な怒りと、誠実さにただ、息を奪われた。少女は、世の不実をなじっていた。悪意と、正体の知れないものに対するあいまいな恐怖におびえることを、怒っていた。なにも起きないうちから、なにか起きるのではないかと恐れられることを、悔しがっていた。信じて欲しいと言葉が、届きもしないことに苦しんでいた。信じるものは己の正義であることを、迷わず、疑いもしない眼差しだった。世界の広さと醜さを未だ知らず、それは幼く、脆く、美しかった。あの日、エドワードが失い、打ち砕かれ、二度と抱けないものを、少女は疑わず抱いていた。幼い少女の本能は、知っているのだろう。それが、一度手放せば二度と触れることも叶わないものだと。憧れ、切望し、泣き叫んで手を伸ばしても、うつくしく燃える過去にしか存在できないものになりさがるのだと。それでいて容易く傷つき、傷つけられ、失われてしまうものだと。黄金より宝石より価値のある、なにものにも代えがたい気高いもの。失ってはならぬものだと。
 本能だけが理解し、けれどまだなにも知らぬ少女は、現れたエドワードが己と同じそれを持たぬ者だ、とすぐ見破ってしまったらしい。戸惑いながら辺りを見回し、その場の誰も、少女の持つ本物の黄金を手放してしまったのだと悟ると、楓の瞳はいよいよ恐怖を抱き、唇が震えた。彼女の父親は一度失い、それでも本物の黄金の欠片を、胸に抱く存在だった。ヒーローはひとが失ってしまうそれを、奇跡のように胸に咲かせる者ばかりだ。だからこそ、無垢な少女には信じられないのだろう。こんなに大切なものを、手放してしまえるだなんて。失ってしまえるだなんて。恐怖でしかなかったのだろう。本能であるが故に、感情的に理解ができない恐ろしさに、ついに楓がなにごとかを発してしまいそうになる。唇が息を吸い込む。その、タイミングで。エドワードは手を伸ばし、色を失った少女の手を取った。一度、震えて。凍りついた眼差しが、エドワードを見た。義務だとか、自由の代償だとか、抑止力、手段なんてことは、覚えていてもどうでもよかった。憧れ、美しく燃え落ち、失ってしまったそれを、今度こそ守りたいと思った。はじめはそんな、自分勝手な感情で。次に、必死に頑張っている様を応援したいだとか、手伝ってやりたいだとか、思ったのだ。不思議に、そこに存在しているだけで誰からも愛され、手を貸される存在が稀にいる。楓は、そういう少女だった。それでいて慢心することなく、感謝を、努力を忘れぬひたむきな少女だった。
 世渡りばかりが上手くなった立ち居振る舞いか、あるいはアカデミーで身に付けた知恵、知識が新鮮に映ったのか、楓はエドワードに相応しくなりたい、と事あるごとに口にした。バディになりたい、対等になりたい、と。必死に追い求めるのが自分ばかりだと拗ねられるたび、それは違う、と言ってやらなかったのはエドワードの意地悪だ。本当は、エドワードの方が楓を追い掛けていた。失ってしまったものは取り戻せない。だからこそ、せめてあの無垢なる黄金に相応しく、隣に立つ為の努力をした。バディとして与えられた立場から、少女を守ろうとしたのに。いつの間にか許された気になって、知らぬ間に浮かれていた。どうして守れると思ってしまったのだろう。簡単に失ってしまうことを、エドワードはよく知っていたのに。
「……ちょっと。あの、さあ!」
 前触れもなく。頭を直角に殴って行ったペットボトルの底が、エドワードの思考を強制中断に追い込んだ。
「うじうじ悩まないでよ、エド! それは僕がやってればいいことで、エドはしなくていいんだからさ。……バーナビーさん、パス。あげます。これ、もう飲めないだろうし」
「ありがとうございます、先輩。この炭酸は犠牲になったんですね……。ということなので、おじさん、どうぞ」
「え? その流れで渡してくれるってどういうことなのバニー? 捨てて来て欲しいの? 飲めってことなの?」
 鈍痛を訴える頭を手で押さえながら顔をあげたエドワードが見たのは、満ち足りた顔をして腕組みをするイワンと、その隣でしれっとした表情で視線を明後日に流しているバーナビー、そして手渡された炭酸のペットボトルを手に微妙そうな顔つきをする虎徹の三人だった。問いを重ねる虎徹に、バーナビーはあからさまに嫌そうな顔をしつつ、トレーニングルームの隅を指差した。ほらほら、と言わんばかり、指先がゴミ箱を指す。
「飲んでもいいですが、捨てるならあちらへお願いします」
「若者と会話が通じた気がしないんだけどな……? んー、でも、もったいなくねぇか? 半分以上残ってる」
「だから、飲んでもいいって言ったじゃないですか? でも、飲むなら僕から離れた場所でひとりで飲んでくださいね。分かっているとは思いますが、向こうがシャワールーム。着替えはロッカー、モップとバケツは掃除用具入れ」
 ぐいぐい背中を押しやって遠ざけるバーナビーに苦笑しながら、虎徹がペットボトルを持って部屋の隅に移動していく。ああ、本当に飲むんだ、と惨事を正確に理解したイワンとバーナビーの視線が虎徹を見送った。微妙な緊張感がトレーニングルームに満ちて行く。しばらくして、ぶしゅっ、と独特の音を立てながら吹きこぼれたペットボトルを投げ捨てることもできず、右往左往する虎徹の元へ、掃除用具を持ったカリーナとキースが駆け寄って行く。アントニオとネイサンは苦笑して見守ったのち、それぞれロッカールームとシャワールームへ消えた。着替えを取りに行き、冷えたシャワールームを温めておく為だろう。全く普段通りの光景に、エドワードは思わずぽかんと口を半開きにしてしまった。その頭をぺちりと、イワンのてのひらが撫でるように叩いて行く。
「ばぁか」
「……んだよ」
「落ち込むと、いざって時に動けないよ、エドワード」
 君は、なんのためにここにいるの。透明な声で紡がれた言葉に、エドワードの喉はひゅぅと音を立てて息を吸い込んだ。言葉が渦を巻く。答えはいくつもある筈なのに、なにも口に出すことができない。薄っぺらくなる気がして、言うことができない。迷うエドワードに、イワンは溜息をつく。
「……楓ちゃんを助けに行くのに、待ってるんでしょ?」
 告げられたのはシンプルな言葉だ。この上なく。飾りもなく、迷いもなく、望み、ただそのものの言葉だ。エドワードの隣に腰を下ろして、イワンはうーん、と両腕を伸ばして息を吐く。
「僕たちもそうだよ。許可を待ってる。いつもと同じで……どうしようもなくなったから、NEXT能力を使って助けに行っていいよって、誰かが許可するのを待ってる」
「……難儀な仕事だな、ヒーロー」
「うん、そうだね。……だから、エドがすこし羨ましい」
 なんでこんな話をしているんだろう、と互いに不思議がる眼差しで。エドワードとイワンの目が、気追いなく相手に向けられる。数年前には決して叶わなかった気安さで。
「この場で君だけが、彼女個人の為に動けるって、知ってた?」
「……そう、なのか?」
「最悪の仮定の話をするとね、エド。目の前に被害者が居て、そこに楓ちゃんが居なかった場合。エドは、僕たちにその場を預けて、楓ちゃんを探しに行くことが可能なんだよ」
 目の前に助ける相手がいた場合、僕たちにそれは許されない。そう告げて、イワンはエドワードに対してにっこりと笑った。
「僕たちが持つ救いに優先順位があるとしたら、許されているとしたら、それはトリアージだけなんだよ。エドワード」
「……辛いか?」
「うん。……でも、もう乗り越えた。たまに悲しいけどね」
 でも悲しんで、助からなかった命が助かる今になる訳でもないし、となにかを振り払うように呟き、イワンはソファから立ち上がる。さて、とわざとらしく明るい声が響く。
「キリサトさんと約束したんだって? あと何分?」
「……あと、十五分くらい。正確には覚えてない」
「あんまり時間ないな……でも、エドワードも食べるでしょ?」
 お腹が空いて動けなくなったりすると、救助活動中困るからね、と苦笑するイワンの背後では、カリーナとネイサンが休憩室からテーブルを運び込み、せっせと料理を並べていた。テイクアウトされた様々な料理のにおいが、鼻先まで漂ってくる。さあ、急いで食べて準備しよう、と伸ばされた手を取り、エドワードは立ち上がる。ようやく、ほっと緩んだ空気を感じ取り、エドワードは鼻の奥をつんとさせて苦笑した。ヒーローたちこそ、どんなにかいなくなった仲間を心配しているだろうに。彼らは目の前で落ち込む相手を、どうしても無視しておけないのだ。お人よし、と呟けば諦めてと笑われ、エドワードは椅子に座らされる。食欲はない。けれど、一口を食べれば体が空腹を思い出すことも、経験上、分かっていた。ぱん、と手を合わせて頭を下げる。いつの間にか染みついた、日本式の礼儀作法。いただきます、と言って、エドワードは料理に手を伸ばした。



 まっくらやみの穴の底に、目隠しをされたまま突き落とされる、怖くて悲しい夢を見た。泣いても泣いても叫んでも、誰も助けに来てくれない。助けがないことを分かっていても、泣きながらそれを求めてしまう。そんな、悲しい夢を見た。ふとまぶたを持ち上げた時、そこにあったのは暗闇で、楓はぞっと身を強張らせた。心臓がどくどくと早鐘を打つ。ぼんやりとした頭では夢と現実の区別がつかず、夢から覚めているのかも分からなかった。浅く早い息を繰り返しながら、震える腕を胸に強く押し当て、目を閉じる。頭の中で数を数えた。いち、に、さん。し、大きく息を吸い込んで。ご、ゆっくりと、吐き出す。ろく、目を閉じて体の力を抜けば、ようやく現実を認識できた。怖い夢だった。とても、とても怖い夢だった。怖かったことは覚えているのに、内容をちっとも思い出せない。脳裏によみがえらせることすら、心が拒否しているのかも知れなかった。一呼吸ごと、指先からほろほろと零れて行く夢の欠片を感じつつ、楓はまっくらやみの中を目を凝らして見つめた。まったくの暗闇だった。うすぼんやりとした、四角く区切られた光を遠くに感じるので、そちらに窓があるのかも知れなかったが、星も月も雲に隠れてしまっているらしい。夜なのか、それともぶ厚い雲に空が覆われた昼なのかも定かではない。何時間気を失っていたのか、それとも何日かすら、よく分からない。焦らない、焦らないで、と楓は言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。
 しばらくするとはっきりと目を覚ました脳が、少女にPDAの存在を思い起こさせた。暗すぎてよく見えないが、服に乱れはなく、手首のPDAもそのままであるようだ。手さぐりでPDAを起動させ、日時を確かめる。日付は、楓が記憶しているものと一致していた。時間は、最後に時計を見た時から考えて五時間とすこし過ぎている。すこし長いお昼寝をしてしまったくらいの時間だ。よく分からない安堵に胸を撫で下ろし、同時に、お昼食べられなかったなぁ、と暢気に考え、瞬きをする。目が闇に慣れてきた。見たい、と思いながら目を凝らすと、四角く区切られた薄明かりを光源にして、部屋の中が見えてくる。思わず、楓は息を飲んだ。楓が身を起こし、座り込んでいるのが冷たいばかりの床でなければ、シーツの海に寝転んでいる少女たちだと思ったかもしれない。けれど、そこにあるのはコンクリートの冷たい床ばかりだった。薄い敷物の一枚もない。そこに少女たちは目を閉じて横になり、弱い呼吸を繰り返していた。眠っているより、昏睡状態に近い印象を楓が受けたのは、少女たちがいつまで経っても同じ姿勢で動かず、末期の病棟めいた雰囲気を漂わせていたからだった。ゆるやかに死に向かうだけの、それでも必死に繋ぎとめられた命と、体の空気感。それを楓は知っていた。まだ、生々しく覚えていた。
 おかあさん。か細く、唇がその名を囁いた。それだけで、胸が痛いくらいに、まだ寂しい。悲しい。不意に、なにも薄れていなかったことを突き付けられて、楓は頬に涙を伝わせた。目の前の光景と、あの日、動かなくなった母親の姿が重なる。おかあさん、おかあさん。首を振って、何度もその存在を求める。おかあさん、お願い。まだ、死なないで。切なく、喉が空気を吸い込むのを、慰めるように。そっと、楓の手にぬくもりが増えた。その手は火のように熱を持ち、それでいてぶるぶると震えていた。楓ちゃん、と苦しげな響きが名を呼ぶ。目を向ければそこに、オリーブグリーンの瞳があった。宝石のような煌きは一瞬で、すぐに曇天のような濁りが輝きを覆ってしまう。堪えるように握られた手の痛みは、楓を慰めるものであり、パオリンの意識を繋ぎとめる為に必要な力であるようだった。苦しげに身をよじって息を吸う様にハッとして、楓はパオリンの名を呼び、肩に手をかける。
「パオリンさん……! 痛いとこ、ない? 苦しい……?」
「き……み、は、怪我……?」
「ないよ。してない。私は平気。どこも痛くないし、怪我もしてないよ。……どうしよう、どうして……!」
 青ざめた顔色で、浅く早く苦しげな息を繰り返しながらも、ひたむきな目でパオリンは楓を見ていた。目で確かめ、言葉で告げられて、ようやく安心できたのだろう。そっか、よかった、と苦しげな合間に呟かれて、楓はじわりと浮かぶ涙を胸の中で押し殺す。意識を保つのすら辛そうなパオリンが、それでも目を覚ました理由があるとするなら、悲しみに崩れそうな楓の心を守る為だった。たったそれだけのこと、それだけの為に、ヒーローは手を伸ばして助けに来てくれる。それを楓は知っていた。誰よりずっと、間近で見ていた。ごめんなさい、と呟かれた謝罪に、パオリンはゆるく首を振って目を細める。
「でも……もう、起きてられない、かな……」
「眠いの? 辛い? ……どうしよう、どうしよう……!」
「大丈夫、楓ちゃん、落ち、着いて……キミの、NEXTは、強い。だから、ボクも、すこしだけ、起き……られたんだと、思う……。ちゃんと、は、まだ、時間が……外に、連絡……」
 眠くて、眠くて。どうしても起きていられないように、重たいまぶたをゆるゆると落として。それでも頭を振って意識を繋ぎ止め、最後にパオリンは、楓に向かって柔らかく微笑んだ。
「怖くないよ……」
 するり、リボンが解けてしまうように、あっけなく。再び意識を失ったパオリンの手を握り締め、楓は強く、闇の中を見つめた。死にゆくような嫌な雰囲気は、まだそこにある。けれど、怖くとも、やらなければいけないことがある。楓はPDAを起動させると祈るように通信を押し、エドワードを呼びだした。電波は微弱で途切れ途切れ、何度も途絶えては繋がることを繰り返す。ざ、ざっ、と砂嵐すらぶつ切れに荒れ狂う。はやる心を押さえながら、何度目かの呼び出しを通信に託して。
「お願い、繋がってよ……!」
 願いを込めて呟いた瞬間、それを確かに聞き届けたように、通信状況が改善した。即座に、相手が受信する。
『か……楓、楓っ!』
「エドさん……!」
『楓、無事か? 痛いとこないか? 苦しかったりしないか? 怪我は……怪我、してないか?』
 ふわりと現れた画面は絵葉書一枚程度の大きさで、通常より随分画質も荒いものだった。奇跡的に回復した電波状況では、これが精一杯だったに違いない。その、ちいさな画面の向こうから必死に様子を訪ねてくるエドワードに、楓は胸がいっぱいになりながら頷いた。一度、二度。三度頷いて、ようやく、掠れた声ではい、と告げることが叶う。うん、とエドワードは安心した微笑みで頷き、画面のこちらへ手を伸ばしてくる。その手は確かに、楓に触れたがっていた。
『よかった。……すぐ行く。もうすこし待ってろ』
「はい。……あ、え、エドさん。あの、誘拐された子たちがいるの。パオリンさんも、一緒に。ただ……意識が」
 意識が、ないの、と怯えながら呟いた楓にしっかりと頷き、エドワードは大丈夫だ、と繰り返した。
『助ける。すぐ行く。……待てるか?』
「……うん。なにをして待ってればいい?」
『身の安全の確保。できるなら、ドラゴンキッドの守護。……五分じゃ辿りつけそうにないな、そこだけ許してくれるか?』
 交わした約束を思い出す。思わず肩を震わせて笑って、楓はうん、と頷いた。
「通信……切らなきゃ、だめ、かな」
『ん、ちょっと待ってろ。……映像は難しいか。音声だけにして繋げとくぞ? ……なんか、話してた方がいいか?』
「ううん。エドさんの声が……エドさんと、同じ音が聞ければ、それでいいよ。……ありがとう」
 わずかな間に、逆探知の邪魔にならないかどうかだけ確認したのだろう。聞き覚えのある声がどこかからして、通信の継続を許可したのが分かった。慌ただしく駆けだすいくつもの足音に紛れ、虎徹とバーナビーが楓の名を呼ぶ声が聞こえる。映像はもう消えていたから、声だけが響く。それもやがて、慌ただしい物音と指示をするいくつもの声にとって代わり、楓はそっと目を閉じた。不思議と、エドワードがどの廊下を走っているのか、なにをしているのかが分かる。それだけで安心することができた。息を整えて、目を開く。ぴくりとも動かない少女たちは、ぞっとするような恐怖もそのままに、眠り続けている。怖い、と思う。けれども、今は耐えられた。音が繋げる。すぐ傍に、エドワードが居てくれた。エドさん、と楓は唇の動きで呟く。誰とも違うことを、不意に思い知る。虎徹は楓の怖いものをやっつけてくれる相手で、バーナビーは怖いことを感じなくさせてくれる人。ヒーローは、怖い場所から救ってくれる存在だった。パオリンも、その言葉とぬくもりで、一時的に楓を恐怖から救ってくれた。エドワードは、違う。怖いものは、怖いまま、そこにある。薄れはしない、遠ざかりもしない。けれど、怯えない。恐れない。勇気をくれる。それは、強い気持ちだ。楓は信じられる。息を吸い込み、吐き出すのと同じ強さで信じられる。そこにエドワードがいてくれれば、それだけで。きっと楓は、千の銃弾の前にさえ、臆せず立ち向かえる。安心をくれる。勇気をくれる。唯一の、ひと。
「……エドさん」
 ちいさな呟き。通信が拾わないくらいの囁きは、向こうにまで届かなかったのだろう。慌ただしくロッカーを開き、着替え得る物音に楓は視線をうろつかせ、膝に顔を伏せてしまう。ばさばさと荒々しく服を脱ぎ捨てて行く音が、たまらなくいたたまれない。ふう、と息を吐きだす声音に、色気というものの存在を感じて、楓は口を両手で押さえた。とてつもなくいけないことをしている気分で、楓はぎこちなく、腕を伸ばしてPDAを遠ざけた。なるべく物音を聞かないようにしていると、がたっ、と倒れたような音がして、思わず呼びかける。
「エドさ……」
『楓』
 繋いでいることを、忘れているに違いなかった。そうでないのならどうして、こんなに泣きそうな声で名前を呼ぶのだろう。
『……楓。すぐ、行くから』
「え……エド、ワード、さん。あの」
 踏みつぶされた蛙のおもちゃの鳴き声のような声が、した。沈黙は、数秒。うわあああああ、と呻きながらしゃがみこむ気配に、楓は頬に両手を押し当てながら息を吐きだした。エドワードは、今絶対に、顔が赤い。それが見られないことがすこし残念で、見られていないことに、たまらなく安堵した。
「待ってます……」
『うん。……うん、あのな。忘れてた俺も悪いとは思うけど、おま、ばか、あー……聞かなかったふりとか……しろよ……男は繊細なんだよ……』
「……嬉しかったの。ごめんね?」
 がごん、とエドワードがロッカーに頭を打ち付けた音がした。
『……楓』
「は、はい!」
『楓』
 呼びかける、声に。どうしてその場にいないんだろう、と楓は思った。いつも腕を伸ばせばすぐ、触れられる距離にいたのに。待ってるね、と楓は言った。不思議と、それを悔しいとは思わなかった。あたりを見回す。眠り続ける少女たちとパオリンを守って、これから来るヒーローたちに託すこと。それが楓の仕事で、サポーターのやるべきことだ。高揚する意識と、繋げっぱなしの通信が、部屋に近づいてくる足音をかき消していた。だから楓は、その時まで。扉が開かれるその時まで、それに気が付くことはなかった。



 現在、NEXT能力の保持者が起こした犯罪に対して、最も有効な手段がヒーローとされている。すなわち、同じNEXT能力保有者を対抗手段として使う策だが、実のところ、これほど大雑把で適当なこともない。NEXT能力は、その呼称によって一つの区別をされているだけで、個々によって全く違うものなのである。個性と呼んでも差し支えないくらい、恐ろしい程多岐に及んだ能力の中、虎徹やバーナビー、過去にレジェンドの発現例を持つハンドレットパワーは、比較的ポピュラーとしてしまっても構わないものだろう。つまり、と声を張り上げ、技術者の少女はホワイトボードにてのひらを叩きつけた。
「私が言いたいのは、今の状況でなんで警察が包囲のみで、現場に出るのがヒーローだけなんだって話ですよ! それはエドワードの証言から犯人にNEXT能力者が含まれるというのはほぼ確定として間違いないんでしょうけれど、なんの! 為に! NEXT対策チームが捜査班に組み込まれていて! 今! 私が! わざわざ! この場に来てるのか考えて頂けますかーっ! アドバイザーの意見をがん無視するならアドバイザーの必要性がないっていうか私を呼ぶなああああっ!」
「キリちゃん、落ち着かんと。頭の血管切れてしまうで」
「ぎいいいいいいいお前たちの頭の血管ぶちって切ってやろうかーっ! 全員! 脳卒中に! なーぁれーっ!」
 だんだんだんだん床で足を踏み鳴らしながら、口調だけ可愛く呪われてもなんの効果もなさそうである。怒り心頭のキリサトを、隣で落ち着かせているのはハリー・デイライト。少女と同じく、アドバイザーとして召喚された、ヘリオスエナジーの技術者である。切れきった少女と違い、こちらはやや面倒くさそうな様子で、ずらりと並んだ椅子に腰を下ろす警察官、それも現場に出ない者たちを見つめていた。ふぅ、と息が漏れる。
「でもまあ、彼女と同意見でもありますわー。この状況で狙撃班も、特殊部隊も前線から引いて、包囲だけに留まるってなんの冗談ですのん? ……まあ、逃がさんように包囲網がっちり作るのは良いことですけどなぁ」
 ちらり、とハリーが視線を向けたのは、技術者と警察官の空間のちょうど中間に、浮遊するように展開された電子地図だった。いくつもの細かい矢印と動線がそれぞれの位置と動きを示し、シュテルンビルトから海に向かって伸びるまっすぐな橋の、その先端に赤い旗が風もないのに揺れている。それは、打ち捨てられた観光施設だった。数年前に経営難で廃墟になり、シュテルンビルトと他都市を繋ぐ中間地点であった施設はそのままに、向こう側の橋だけが取り壊された、一方通行の行き止まり。そこに、楓と、微弱ながらドラゴンキッドのPDAの発信が確認された。現在、使われていなかった橋は改めて封鎖され、上空にはヘリが、海には船が何隻も廃墟に向かって進んでいる。程なく、天にも地にも円を描く包囲が完成することだろう。そこから脱出する為には空路、海路、陸路のどれかを選ぶ他道はんばく、そこを封鎖するのだから、あとはヒーローの取り物劇で済むだろう、との結論が下された。会議室に設置されたモニターのひとつでは、生中継を始めたヒーローTVが少女連続誘拐事件の概要を、改めて視聴者に説明している。無言を貫く官僚に向かって、キリサトの憎悪にすら満ちた視線が向けられた。
「未知のNEXTに対して向かっていく危険は、警察だろうと一般人だろうと、NEXT能力保持者であろうと変わらないものです。理由は、どんな危険を持つ相手なのか、全く情報がないから! 何回言えばいいんですか。彼らは警察と一般市民に対する盾なんかじゃない! 守る理想と、それを実現してしまえる力を持った、ただ誠実なだけの人間ですっ!」
「それでは、未知のNEXTを前にした時の死傷率、および生還率が非NEXTとNEXTに差があるのはなぜです? キリサト技術主任。……彼らがNEXTであるだけの、崇高な理想を持ったただ人であるということは、もう分かっています」
 激情を、顔色一つ変えずに受け流す壮年の男は、背筋をまっすぐに伸ばしてそこにあった。悠然とした佇まいに、感情が動かされる気配はない。瞳には、決意。己の信じる絶対の正義を貫くための、ある種の犠牲を覚悟した光があった。
「だからこそ、彼らはヒーローと呼ばれてしまうのですよ。……これにて閉会。各自は速やかに持ち場につくように」
 沈黙を保っていた警察官たちは、その発言にいっせいに立ち上がり、足早に部屋を離れて行く。ちらちらと向けられる気の毒そうな視線を振り払うように、少女がだんっと足を鳴らした。その腕を引っ張って歩きながら、ハリーは廊下を抜け、各社トランスポーターが待つ場所まで連れて行く。出てきた建物を睨みつき、キリサトはなんのためらいも無く呪詛を告げた。
「うわあぁんっ! 月の無い夜に背後に気をつければいいっ!」
「それ完全に悪役の台詞やわー。しかもやられ役の方やわー」
「だってハリー! 今回は、今回のNEXTは……!」
 あんなに危険なものに、本当はヒーローだって近寄らせたくないのに。遠くから麻酔銃とかで狙撃して安全を確認したのちの突入じゃないとイワンくん動かすの許可したくない、と呻くように呟くキリサトの頭をぽんと撫で、ハリーはひょい、と少女の目を覗き込み、噛んで含めるように問いかける。
「そんなに危険なん? 空間転移」
「きけんって、ゆーかぁ」
 すっかり拗ねた口ぶりで視線をどこかへ流しながら、少女はハリーに掴まれていた腕をやんわりと振りほどき、長く息を吐きだした。世界には夜が訪れようとしている。元より今日は、天気が悪い。光を失って黒くぬりつぶされている世界の中で、ほんの僅かな距離なのに、ハリーはキリサトの表情が読めなかった。仮面に隠されていても、普段なら、もうすこし近くに見えるのに。浮かぶ感情が、今はただ、遠い。
「……NEXT能力にはそもそも、科学で解明できる系と、科学で解明できない系があるけど、転移とかはなんていうか、どっちのカテゴリにも属さないっていうか……こう言えば分かるかな。ハリー、転移っていうのは、NEXT能力っていうより」
 魔法なの、と。溜息をついて、憂鬱そうに少女は言った。
「狙われたのがNEXT能力保持者だけで、こういうのもなんだけど、本当に不幸中の幸いだったわ……だって一般人が巻き込まれたら抵抗力なくて死んじゃうかもだったし」
「……警察署長さんの対応、正しいと違います?」
「あそこでゴネとかないと、今後に影響出るんであれでいいんですー。あっちも分かってゴネられてるとこもあるし、だましだまされ、持ちつ持たれつなのでこれでいいんですー」
 でも対応としては気に入らない、と鼻を鳴らしてヘリペリデスファイナンスのトランスポーターへ歩み寄って行くのを手を振って見送り、ハリーは女性は怖いわー、と苦笑した。あれで、もし警察官がヒーローと共に前線に出て行くような決定がされていたとすれば、全力を持って理論を展開し、説明し、納得させた上で現在と同じ状況に持ち込んだだろうに。彼女は常に、誰の味方だかよく分からない存在だった。すくなくともヒーローの敵ではなく、NEXTの敵でもない。それが分かっているだけで、十分とするべきなのかも知れなかった。ハリーは白衣を翻し、自社のトランスポーターへ駆け寄って行く。準備を終えたファイアーエンブレムのスーツを微調整するのは、ハリーの役目で、他の誰にも譲りたくない大切な仕事だった。彼らは危険のただ中へ行く。共にいけないのであれば、最大限、持てる限りの支援をして送りだすこと。それがキリサトにも、ハリーにもある、各社の技術者に共通した決意で、誓いだった。

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