振動と音が、無人の建物を揺らした。思わず足を止めてしまったブルーローズの腕を取って先へとまた走りだしながら、バーナビーは先行するエドワードに視線を投げかけた。あたりには誰もいない。朽ち果て、雨ざらしになった建物は塗装がはげ、草木が生えでこぼことしていて、真昼であれば不思議と幻想的な悪夢のようであっただろう。夕闇に閉ざされかけたいまは、おどろおどろしいものにしか見えなかった。ブルーローズはもう大丈夫とばかりバーナビーの手から腕を引き抜き、足場の悪い場所をヒールで器用に駆け抜けて行く。やがてブルーローズからも問いかけの視線を向けられ、エドワードは後方に目を向けぬまま、PDAで現在の状況を確認した。
「警察の説得に応じず、犯人グループが抵抗と逃亡を開始した……らしい。犯人は未だ目視確認できず。この廃墟のどこかに潜伏しているものと思われる」
「って……ヤバいんじゃないの?」
「だーかーら、急いでんだろうが」
その気になれば二人を置いて楓の元に直線で進めるエドワードは、けれど古い地図を頼りに道を進むばかりで、能力発動の気配を見せなかった。何度来ても新鮮に楽しめるように、と建築者が趣向を凝らした建物は複雑に入り組んでいて、地図があってなお、正確な道筋を辿ることが難しい。以前であれば案内板も正確だっただろうが、朽ち果て、折れ曲がり、さびと苔にやられた状態のものを頼りにするのは馬鹿らしい。舌打ちをひとつ響かせて、エドワードは建物に入るなり途絶えた通信を呼び出し、楓に繋がらないことに苛立ちを募らせた。
「……あと三百メートル」
「見えた! あの扉……?」
「蹴り開けろ、バーナビー!」
壊すの得意だろ、と笑うエドワードの隣をすり抜けて、バーナビーは施錠されているらしき扉の前に躍り出る。気力は十分。スーツの性能を考えれば、能力を発動させるべくもなかった。
「言っておきますが……!」
壊すのが得意のは僕の相棒の方ですよ、と叫び、バーナビーは回し蹴りでもって乱暴に扉を破壊した。内側に吹き飛ばないように加減された衝撃が、扉をその場に倒れ込ませる。追いついたカリーナがさすが、とバーナビーを労うのを無視した形で、エドワードは内部の安全を確かめず、部屋の中に飛び込んだ。タ、と身軽な足音が一つだけ響き、静まり返った空気が耳を痛くする。三人分の激しい呼吸音が響くだけの空間に、求めた少女は存在していなかった。思わずよろけたエドワードの背を、二人のヒーローの手が叩く。ばんっ、と音を立てて叩かれ、エドワードは咳き込んだ。
「ちょっ、おまえら、なにす……!」
「ここは私たちに任せて!」
「先輩は、楓さんとパオリンを追ってください。……気が付いていないかも知れませんが、パオリンもいませんよ。移動させられた可能性が高い。僕たちはここで、医療部隊の到着を待ちます。すぐ、先輩を追うことになると思いますが」
三人は廃墟を駆け抜けて行きながら、同時に周囲の警戒も怠らなかった。周囲に罠はないか見定めて選んだ道順は、そのまま医療部隊が突入してくる導となる。女性の医師と看護師だけで構成されたチームはすでにアニエスの元を離れ、廃墟の入り口まで辿りついていた。多く見積もっても二十分以内には到着するだろう。行って、と求めるブルーローズに頷いて、エドワードが行く先も分からず、駆けだそうとした瞬間。弱々しく響いた声が、エドワードを呼んだ。
「エドワード……ケディ……?」
それは、ひとりの少女だった。倒れ伏し、眠る少女たちの中で目を覚まし、エドワードを引き留めるように震えながら腕を持ち上げている。とっさに駆け寄って背を支え起こしたブルーローズに微笑み、少女はエドワードを見た。
「……アカデミーの生徒か?」
その唇は息を吸い込むのにも億劫そうで、深い眠りから覚めたばかりの頭は言葉を中々見つけられない。もどかしげに揺れる視線を覗き込みながらエドワードが問えば、少女はそう、と吐息に乗せて囁き、目を伏せて頷いた。エドワードが少女がそれと分かったのは、被害者のデータを記憶していたからだ。少女がエドワードを見知って呼びとめたのは、彼がアカデミーの有名人だからだろう。良くも悪くも、エドワードはアカデミーの有名人で、顔も名前も知れている。どうした、と低く問う顔つきが言葉にならない焦りを必死に押し殺す理由も、だから少女は知っていた。震える喉を叱咤し、少女は息を吸い込む。
「か……ブラギ、カエデ、は……連れて、行かれちゃった」
「どこへ行ったか分かるか?」
「分からない。でも……追いかけられる、よ。私の能力、なら」
少女は全身を青く発光させ、強く唇を噛んで意識を集中した。エドワードも、少女も、知っている。例えどんな状況であろうと、アカデミー生が校外で能力を発動させることは許されていない。エドワードは目を伏せ、悪い、とだけ言った。少女は笑ってううん、と告げ、青白く輝く蝶を一匹生み出した。
「……このこが、連れて行ってくれる、から」
「分かった、ありがとう。……あと頼む」
「任せて。頼んだわよ!」
風もないのに飛んで行く蝶のあとを追いかけ、エドワードが駆けだして行く。その背が見えなくなるまで見送って、少女はぐったりとブルーローズの腕に脱力してしまった。大丈夫、と問われる声に頷くのもやっとだ。薄く目を開けて、助けに来てくれたヒーローをうっとりと眺める。
「ありがとう、ヒーロー。……ごめんなさい、私、体が動かなくて……あの子たちが、連れて行かれるの、止められなかった……ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
「いいの。あなたは出来ることをやってくれたわ。本当にありがとう。……能力、発動してはいけないんでしょう?」
「わ、私の力は、道案内するくらいしか、できなくて……! もっと、強い力なら、助けられたの、かなぁ……」
泣くだけの、体力もないだろうに。顔をくしゃくしゃに歪めてしゃくりあげる少女の頬に、バーナビーの手が触れた。バーナビーも、アカデミーの生徒だ。だからこそエドワードの事件後、生徒がどれだけ厳しく、能力の発動を禁じられているか知っていた。それを破ったとて、彼らは法に問われることはない。しかしそれは誇りとして、彼らの胸に刻まれる。
「君は、できることをしてくれた。アカデミーの校則は生徒を守る為のもので、僕たちはそれを誇りにしていいけれど……」
「バーナビー」
「間違えてはいけないよ。アカデミーの校則が発動を禁じるのは、生徒がまだ社会を知らないからで、能力に振り回されてしまうから。……能力は、できることしか、可能にしない。君は、今日、その意味を知った筈だ。校長先生にお話してごらん」
校則を破ったことについては怒られてしまうだろうけれど、能力を使ったことについて、叱られはしない筈だから。バーナビーの言葉に、少女はしっかりと頷く。そこでようやく、少女はテレビに映る憧れのヒーローが間近にいる、という現実を認識したようだった。きゃ、と弱く悲鳴を上げ、顔を真っ赤にして両手で隠してしまう。ブルーローズは少女を一度強く抱きしめ、無事でよかった、と息を吐いた。
時間を稼がなければいけない、と楓は自分に言い聞かせていた。一分でも、二分でも構わない。ほんの僅か、引き延ばすだけでもいい。エドワードとヒーローはすでに楓の位置を特定していて、この場所へ向かっている筈だった。いつの間にか途切れてしまった通信に不安は残るが、目の前の男女がなにかをしたのだと、もう分かっていた。意識を失ってぐったりとするパオリンの頭を胸に抱き寄せ、床に座り込んで壁に背をつける楓の視線の先には、四人の男女と、幼い姉妹が立っていた。男女は全員が二十の半ばか、後半くらいだろう。全員が黒いスーツを着こみ、サングラスで目元を隠しているから顔立ちはよく分からず、体つきだけが各々の性別を主張していた。すらりとした痩身は鍛え上げられたものには見えなかったが、それでいてぞっとするほど、弱々しい印象を与えなかった。立ち居振る舞いは無駄を極限まで省いたからこその研ぎ澄まされたうつくしさを持っており、それは楓が見たことのあるどの職業、人種とも違っていた。楓にとって幸いだったことは、彼らは幼子を使って少女二人を部屋から別の場所へ移動させただけで、害を与えることもなく、不思議なことに、特別な興味も持っていない点だった。興味はあったが、すでに失われているというのが正しいのかも知れない。時々、未練がましいような色を乗せる眼差しが、楓には恐ろしくて仕方がなかった。
赤子が、他に頼るものも無く人形を抱き締め縋るように、楓はパオリンを抱き締める。意識のないぐったりとした体は、それでも呼吸を繰り返し、鼓動を刻み続けている。意識がないだけだ。大丈夫、きっと、大丈夫。怪我はしていないし、血も流れていない。絶対に、意識は戻る。だから、大丈夫、大丈夫。指先を細かく震わせながら己に言い聞かせ、楓は息を飲みこんだ。どくどく、心臓が音を立てている。緊張で眩暈がしているが、視線は相手がいる方向から反らさない。目を合わせることはしなかった。底なしの穴に落ちてしまいそうだった。
「……理由って言われてもなぁ」
不意に、一人の男が困ったように首を傾げ、優しげな声で呟いた。二人の女と一人の男は地図を広げで話し合いをするのに忙しく、人好きのする甘い顔立ちの男が、主に楓と会話を続けている。俺は作戦とか立てるのに参加しないし、お話したいならしてあげるよ、と年下の少女をあまく宥める笑みでもって告げた男は、その言葉の通り、楓の問いに律儀に答え続けていた。過度の緊張でなにを聞いたのか思い出せず、楓は震えながら肺の奥まで息を吸い込み、咳こまないように気をつけながら吐きだした。不意に、記憶がよみがってくる。楓は、彼らに問いかけたのだ。なぜ、少女だけを、NEXTだけを選んで誘拐したのかと。男は、その答えにひどく困っているようだった。
「俺からは別に、女の子がいいとか、NEXT? がいいとか、オーダーした訳じゃないんだよ。死なないの連れて来て、とは言ったけど、性別と年代の指定はしなかったし」
「し……なない、の?」
「うん? だってコイツの、なんだっけ、NEXT能力ってさ、移動型全自動殺害機なんだもん。簡単に連れて来られるのはいいけどさー、ぜーんぶ死体ばっかな訳。それだと困るんだよなー。まあ、ポイして来てって運ばせるのも楽だから、処理には困んなかったんだけど、ここ最近はようやく生かして連れて来られるようになったみたいだけど、意識がなぁ……戻んなくてさぁ、つーかお嬢ちゃんはなんで意識あんの?」
適正とかそういうのあんのかなぁ、と首を傾げながら、男は弱々しい抵抗をする幼子の腕を引いて抱きあげ、どこへも行けないように腕の中に閉じ込めてしまった。幼子の視線が姉を探して彷徨い、同じように、女性に抱きあげられているのを見ると、か細い抵抗すら消えてしまう。男はそれを全く気にした様子がなく考え込み続け、んー、と暢気な声をあげた。
「それとも、NEXTだと死なないってことなのか? 分からん。ちょっとさー、ミンスさー、無視ってないで一緒に考えてくんね? なんであのお嬢ちゃんだけ意識あって、NEXTだと死ななくて、あと理由とか聞かれてるんだけど。なあなあ、無視しないでってば。無視とか俺が寂しくて泣くぞ?」
「あなたが一々、質問に答えようとしなければいいだけの話でしょう? 私は今忙しいんです。後で遊んであげますから」
「話しかけられたのに無視されたら可哀想じゃんか……」
スーツを着た四人のうち、もう一人の男性。ミンスと呼ばれた男は、うんざりとした様子でひらひらと手を振った。あっちで静かにしていなさい、との素振りに、しかし男はしょんぼりとした様子で言葉を返す。愛嬌のある男と違って、ミンスは冷たい面差しをしていた。にこりとも笑わない、無表情に近い顔つきは、落ち込む男を見下ろしてあきれ果てた色を浮かべる。
「黙って待ってられないのなら、一人で先に行ってもいいんですよ? 突破くらいなら出来るでしょう? 一人で」
「陸海空全部包囲された状況で、一人で抜けろとか! イジメ、ダメ、ゼッタイ! ……じゃあさ? 理由、理由だけでも」
「理由ねぇ……」
溜息をつき、腕を組んで、ミンスが楓に視線を流す。それだけでびくりと震える怯えきったさまを憐れむように微笑んで見つめ、ミンスは静かな声で言い切った。
「ありませんよ、そんなもの」
どぉん、と音を立てて建物が揺れる。廃墟の中にあって、この空間は異質な程にきれいに整えてあった。居住空間として使用していたからだろう。元は休憩所として使われていた天井の高い、広々とした空間は、白いペンキが所々はがれおち、無作為に生えた緑と花に覆われていた。その花はいくつか折られ、花瓶に生けられて、どこかから運び込んで来た机の上に置かれていた。赤と、黄の花。緑の葉。ちかちかと、視界で揺れる。
「まあ、強いて言えばそれが仕事だからなんですけどね。そうしないと怒られちゃうもので。定期的に何人か本部に渡すのが仕事で、それ以外は売ってますけど、それは資金集めというか。本部のえり好みが激しいせいで、私たちも苦労してるんですよ? こっちが苦労して集めてきたのを、見るなり気に入らないやりなおしとか! イジメ、ダメ、ゼッタイ!」
「説明できるだけの理由とか、ないっていうのが一番かも」
補足するように、言葉を添えたのは女性だった。頬に黒い蝶のタトゥを刻んだ女性は、机に広げた地図をくるくると巻いて紐で結びながら、楓にちらりと視線を向けてくる。
「連れて行かないと、私たちが殺されるから。一番はそれじゃないかな。どこへ行っても教団は追ってくるし、逃げられないし。だから、代わりに集めたこどもを渡すの。……でも前回すごく失敗しちゃったからなぁ……この街ではなにもするつもり、なかったんだけど。ウロボロスの縄張りだし、あとが怖いし」
「やっちゃったもんは仕方ないでしょう。一定の成果はありましたし、潮時ですよ。……さて、これどうしましょうかね」
「この子たちには……迎えが来てるんだっけ」
いいな、と囁くような笑いの意味が、楓には理解できなかった。四人の男女はそれぞれの感情を込めた目で楓とパオリンを見つめ、腕に抱えた幼い姉妹を抱き締め直した。
「じゃあ、そろそろ行きますか。連絡はついたんですよね?」
「ばっちり!」
「高い貸しついたなぁ……」
じゃあね、と楓とパオリンを置き去りにして、彼らは部屋を出て行こうとする。追いかけるべきか、見送るべきかを迷って、楓はパオリンを抱く腕に力を込めた。エドワードが楓に告げた役割は、身の安全の確保とパオリンの守護だ。そこに、犯人の確保は含まれていない。元よりサポーターはヒーローとは違い、犯人を確保する権利を持ちあわせていないのだ。彼らに与えられた権限は一般人と代わりはなく、けれども現行犯であるのなら、捕らえる理由は十分だった。現場を見た訳ではない。けれど交わされる会話と連れて行かれる幼い姉妹の怯えた表情が、彼らがそうさせたのだと物語っていた。迷う楓の視線の先で、幼い姉妹がすがるように振り返る。表情を失った姉は、ただ人形のように腕を引かれ、それでいて目を一度も楓とパオリンから反らそうとしなかった。楓とパオリンをここへ連れてきた妹は、それを悔いるように青ざめた顔で、こちらも浮かぶ感情はすくなく、声も出さず、ただ唇の動きだけで囁く。
『たすけて……!』
ひらりと、青い蝶が一羽、部屋に迷いこむ。待て、と叫ぶ声は、一瞬だけ遅かった。
「待て、楓っ!」
破裂音、衝撃、押し殺した苦痛の声。全てが瞬間的な出来事で、理解するのに時間がかかった。はたはたと音を立て、生温い液体が楓に降り注いでいる。苦痛に歪むエドワードの瞳が、茫然とする楓の目を覗き込んでいた。少女の全身が、青白く染まっている。力任せに掴まれた手が熱く、痛い。強制コピーと同時に行われた能力の発動は、間一髪で少女を凶弾から守りぬいた。心臓の近くを、ぞっとするほど熱いちいさなかたまりが通り過ぎて行ったのを、遅れて知覚する。エドワードの肩越しに、銃を構えた男の姿が見えた。
「……こちらに、攻撃の意思はない」
楓の手を支える壁に腕をつき、体を支えながら。告げるエドワードの言葉に、男が面白くなさそうな顔をする。
「見逃せってことか?」
「……楓が攻撃しようとする前は、アンタは、そうしようと思ってくれてた筈だ。……なにもするな、楓。お前じゃアイツに敵わないし、アイツらは、いまは、なにもしない。取り引きだ、俺たちになにもするな。それ以上撃つのであれば、こちらも攻撃に出る。すぐに、他のヒーローもここに来る」
「……だい、じょうぶ……だよ」
楓の腕の中で、意識を取り戻したパオリンが幼子に語りかける。己の求めた救いの結果に打ちひしがれ、泣きそうになる幼子に。弱々しくも笑みを向け、パオリンは言った。
「必ず、ボクが……助けに行く、から」
だから、今は。続く言葉に不愉快そうな顔をして、男は幼子を抱きあげ、足早に去って行く。大地に足を叩きつけるような足音が遠くなり、消えて行く。長く、息が吐き出された。
「楓」
「……あ」
「どこも、痛くないな……?」
エドワードの視線が楓をそっとなぞり、確かめるようにして微笑む。よかった、と唇が動く間も、はたはたと流れ落ちる音が止まることはなかった。サポーターの制服、アンダーウェアは黒一色だから、その色がよく分からない。けれど袖を通す純白のマントは鮮やかに、赤く血の色に染まって行く。エドワードは鈍い動きで少女たちから体を離し、立ち上がろうとして倒れ込んだ。衝撃によって床で跳ねた体は動かす、投げ出された手にも血が付いている。咳き込みながら繰り返される息。恐ろしい程の勢いで、血が流れ、広がって行く。
「……エドさん?」
体を支える力が残っているうちに離れようとしたのは、重みで少女を押しつぶしてしまうと思ったからだろう。鍛え上げられたエドワードの体は重い。疲れ切った少女二人では、退かすことも難しいと分かっていたのだ。楓は倒れたエドワードに手を伸ばし、抱き起こそうとした。それなのに、膝が震えて立ち上がれない。涙が滲んだ。腕を伸ばす。無理矢理服を掴んで引き寄せ、頭を抱き締めた。
「エドさん、エドさんっ……! なんで、撃たれっ……エドさん! 返事して! お願いだから返事をしてっ!」
「楓ちゃんっ、駄目! そんな風に動かしたら……!」
『楓ちゃん……? 楓ちゃん、どうしたのっ?』
PDAから声がする。どこかにぶつけた衝撃で、通信が再び繋がったのだろうか。慌てた声をあげるバーナビーに、未だ上手く動かない体に歯噛みしながら床に横たわり、パオリンは息を吸い込んだ。
「バーナビー、お願い……早く来て、エドワードさんが……!」
泣き叫ぶ少女は、意識を失った男に必死に呼びかけている。太陽が沈み、夜へ差し掛かった曇り空の室内は、それでも不思議にほの明るい。ここは廃墟だ。朽ち果てた白い部屋の中で、その二人は宗教画のように見えた。嘆く女と、動かない男。
「エドワードさんが、撃たれた……! 意識がないっ!」
『すぐに行きます。パオリン、君は?』
「ボクも楓ちゃんも、無傷だよ。平気。ボクは……なんだろう、疲れ切ってて、うまく、動けないだけ……」
すぐに、と言ったのは、もう近くまで来ていたのだろう。少女たちの名を呼びながら駆け寄ってくる足音を遠くに聞きながら、パオリンは腕に力を込め、体を持ち上げた。なんとか、床に座りなおす。ふと、部屋が暗闇に塗りつぶされる。月が雲に隠れたようだった。なにを考えるより早く能力を発動させ、手の中に雷を生む。星みたいだ、と思った。
壊れた窓からまっすぐ、月明りが差しこんでいる。透き通る金色の輝きの中で、楓が泣きながらエドワードを抱きしめていた。何度も、何度も立ち上がって移動しようとしたのだろう。不自然な体勢で崩れたエドワードを胸で抱きとめ、少女は繰り返しエドワードの名を呼んでいた。咄嗟に動けなかったのは、その光景に現実味のない美しさがあったからだ。白い部屋には緑と花が溢れ、砕けた硝子と剥がれたペンキが雨上がりに現れた石のように転がっている。暗闇を月明りが遠ざけ、二人はただ、そこにあった。血のにおいが、濃い。声を失った二人を、咎めるようにドラゴンキッドが呼んだ。
「バーナビー! ブルーローズ、はやくっ! 医療班はっ?」
「え、あっ……す、すぐ来るわ!」
「楓さん! エドワード先輩っ……!」
正気に返ったブルーローズがパオリンに駆け寄り、その身を抱き起こす。同時にバーナビーは楓とエドワードに駆け寄った。むせかえるような血のにおい。能力を発動してエドワードを抱き上げたバーナビーの腕に、ちからなく、楓が手を伸ばした。
「……楓ちゃん、エドワード先輩は大丈夫だよ。すぐそこに医療班が来て……楓ちゃん?」
薄闇の中で、青白い光が灯る。涙を零してしゃくりあげながら、楓は怯えるようにバーナビーから一歩離れた。は、はっ、と浅い呼吸が繰り返され、視線が落ち着きなく彷徨った。
「だ……駄目なの、バーナビーさん。わ、わたし、さっきから、ずっと……!」
「楓ちゃん!」
ふらつき、倒れかける楓にブルーローズがとっさに手を伸ばす。抱きとめた瞬間、ばきん、と足元で音がした。視線を向けると、エドワードから流れ落ちた血が完全に凍りついている。ブルーローズの腕の中で、少女の体が青白く輝いていた。
「制御、できないの……っ!」
周囲の気温が急激に下がって行く。
「どうしよう、どうしよう……!」
楓の能力は、不安定なものだ。それが能力的な特性なのか、それとも使いこなせていないだけなのかを、楓は知らない。調べようとしなかったからだ。そんなことをしなくても、いつか必ず安定して使いこなせるようになると、思い込んでいた。機械はいくらでもあったのに。時間がない訳ではなかったのに。後悔と焦りと、エドワードの負傷が少女の心に亀裂を入れて行く。混乱して、楓は無意識にエドワードを探す。彼は、バーナビーの腕に抱きあげられたまま、ぐったりとして目を閉じていた。だらりと伸びた腕が、バーナビーの動きに合わせてゆらりと揺れる。色を失った指の先、爪がすこしだけ、伸びていた。
「っ……エドさん! エドさんっ!」
必死に手を伸ばして、エドワードに触れる。能力が書きかえられる安堵と同時、楓はエドワードの体温が低いことに気がついた。こわい。反射的に心が叫ぶ。一人きり、目覚めた冷たい部屋の中を思い出す。あの場所はゆるく死に往く気配に満ちていた。病院のにおいがした。失われて行く生温い体温は、記憶の底に沈めた母親のぬくもりを思い出させた。
「っ……あ」
飛び退くように離れると、腕がパオリンにぶつかって能力をコピーしてしまう。ぱしん、と音を立てて雷が眼前で踊った。
「楓ちゃん、落ち着いて!」
「しっかり! 大丈夫だよ。っ……バーナビー!」
しゃがみこみ、己の身を抱く楓に腕を回して強く引き寄せ、パオリンはバーナビーを振り返って叫ぶ。
「エドワードさんを守って!」
「パオリンっ?」
「っ……間に合わない、暴走する……!」
能力を全開で発動させたパオリンが、それによって楓の意識を落としてしまうより、早く。少女の中で制御を失った能力が、外側に向かって解き放たれた。室内が金の閃光で埋め尽くされる。微細な落雷が空気中をかけ巡り、視界を白く焼いて行く。卵の殻が握りつぶされるような。そんな音を、誰もが聞いた。