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 散りゆく花よ、龍のように咲け ――後編 七大企業占拠戦

 澄み切った瑠璃のような空に、静寂だけがあった。地上の喧騒などまるで知らぬふりをして、誇り高くのびやかに、空は彼方へと腕を開いている。大きな雲がひとつ、ふたつ浮かぶばかりの空間は、絵画として残すにも写真にして切り取るにも、どこか物悲しく。さびしく、見上げる人の視線を受け止めていた。塵や木の葉を巻き上げるつむじ風は空まで届かず、高くを飛ぶ鳥だけが渡って行く空間に、訪れる者はない。常ならば朝の見回りに来る者が、今日は訪れていないからだ。シュテルンビルトの空の王者、スカイハイ。彼の訪れを待ちわびるように、都市を見下ろすうつくしい空は、一筋、艶めいた光を大地まで投げかける。その光をてのひらに受け止め、福音のように微笑む者も、今はなく。遠雷が彼方から空気を震わせ、消えていった。嵐が訪れる予感を、空を見上げた者だけが知っただろう。
 楓が目を覚ましたのは、早朝のことだった。デジタル時計は午前五時ちょうどを示している。薄曇りに似た紫のヴェールをまとった朝靄が、窓の外に広がっていた。病室のベッドに寄せた椅子から立ち上がり、楓はうん、と伸びをしながら窓辺に歩み寄る。景観の良い部屋である筈だが、外はなにも見えなかった。麗しく広がる靄が街をかすませるばかりで、東の空に一条、燃えるような赤さで線が引かれている。ビルの隙間に途切れながら、地平線が朝日を記していた。ふ、と息を吐き、楓は病室を振り返る。青ざめた静寂が満ちる室内に、不安を感じないのは響く寝息が優しいからだ。ベッドには、エドワードが眠っていた。すこしばかり顔色が悪いのは、まだ体調が万全ではないからだろう。一週間前に楓をかばって撃たれ、生死の境をさまよったエドワードは、少女の能力暴走をおさめて病院に運ばれてからずっと、ベッドの上の住人をしている。本人は大げさだと眉を寄せて文句を言っているが、体に穴が空いたのだから、もっと安静に大人しくして欲しい、と楓は思っていた。流れる血に、意識を失い閉ざされた眉に、ぬるまっていく体温に、止まってしまった呼吸に。どんなに心が砕かれただろう。楓はそっと足音を立てないように椅子に戻り、先程までずっとそうしていたように、ベッドに上半身を伏せて目を閉じた。
 布団から抜け出したエドワードの腕が、楓の頭にぽん、と置かれる。慰めるように何度か撫でられて、楓は無言でエドワードに手を伸ばし、肩あたりの服を掴んでそこに顔を埋めてしまう。泣いてないよ、と楓は言った。分かってる、と静かに肯定した声は、それでも楓の頭を優しく撫でてくれた。
「……おやすみ、楓」
「うん。おやすみなさい、エドさん」
 甘えてすがりつくのを離そうとせず、エドワードは楓を寝かしつけてやった。遠慮して離れようとしても、大丈夫だからとそのままにさせただろう。離れがたいのは、二人に共通した想いだった。やがて、すぅ、と穏やかな眠りに落ちたのを確認して、エドワードももう一度意識をまどろませる。数時間後、災厄のような事件が都市を騒がせるまで。ひとつの体温に溶けあい、二人は体を休めていた。鳥籠で眠る、渡り鳥のように。



 それは悪夢の再来であった。その事件発生当時、シュテルンビルトに住んでいた者ならば今でも忘れられない、ジェイク・マルチネスの都市とそこに住む住人そのものを人質にした馬鹿げた交渉劇。それを交渉と呼ぶにもためらわれる、あまりにも一方的な要求と、己の生活空間そのものが危険に晒された恐怖は、未だもって市民の間から消えるものではなかった。事件から、二年半以上。三年近くが経過してもなお、人々の脳裏にそれはあまりに鮮やかによみがえる。その日の朝、人々はただ空を見上げ、立ちつくした。美しく晴れ渡った、静寂ばかりがよく似合う紺碧の空から、ばらばらと雨のように白いカードが降り注いでいる。カードには尾を食む蛇のマークが印刷され、誇らしげに、嘲笑うように道を建物を空間を埋め尽くし降り注いで行く。撒いているのは、シュテルンビルト上空を動き回るヘリコプターだった。奇術師がなにもない空間から兎を取り出すように、それは積載量を遙かに超えたカードをばらまき続け、それだけで人々を恐怖の底に叩き落とす。ウロボロスが再臨したのである。あの忌まわしきジェイク・マルチネスが所属していたとされる組織。シュテルンビルトの闇に消え、いつの間にか息を殺し、その影すら目撃させることをしなくなった組織。情報を求めてテレビをつけた市民が目撃したのは、たったひとつの映像だった。どのチャンネルに合わせても全く同じ映像が流れ、画面の端にはウロボロスTVのロゴが映し出されている。
 それは、彼らが完全にこの都市の放送電波を支配したことを示していた。電話も通じず、インターネットは切断され、街角の信号は消え、途方にくれる市民に、流される映像だけが語りかけてきた。映しだされていたのは、薄暗い部屋だった。部屋の中央には一人掛けのソファが置かれ、そこにはブラックスーツを着た女性が腰かけている。その女性の背後に控えるように、同じスーツを着た男性が、幼子を抱きあげてあやしていた。ばらばら、音を立て、カードの雨が降り続いている。画面の中で女性が微笑み、おはようございます、と言った。
『そして、ごきげんよう、シュテルンビルト市民の皆さま! 思い出して頂けているでしょうか? ウロボロスです』
 サングラスで顔を隠す女性の頬には、黒い蝶のタトゥが刻まれていた。それを隠すことなく晒しながら、女性はえっと、と口ごもり、背後に立つ男性に視線を投げかける。
『……なに言えばいいんだっけ?』
『状況説明と、行動理由と、条件設定です』
 ああ、そうそう、そうだった、とばかり頷いた女性の視線が、画面のこちら側へ戻ってくる。サングラスに遮られていてなお、その眼差しは見る者の背筋をおぞましく震わせた。
『現在、七大企業とTV局、警察と司法局の制圧が完了しました。橋は前回と同じように叩き落としたので、渡れません。外部に繋がる通信の一切を遮断したので、外に連絡も取れません。シュテルンビルトは現在、陸の孤島です』
 要点を確認しているのだろう。指折り数えながらゆっくりと言われた事実に、市民の思考が凍りついて行く。恐怖のあまり家から出られないものも、街角のテレビでそれを目撃したものも、等しく言葉を奪われて行く。あ、と言って女性が笑った。
『七大企業に関しては証拠映像もとってきたので、あとでこの編に映像出しますね。……今ってできる?』
『できますよ。もう流しています』
 女性の指先が画面の左下をちょいちょい、と指差すのと同時、その場所に別の映像が流れだした。映し出されたのは、ヘリペリデスファイナンスのロビーだった。社員らしき人々が足早に出社していく平和な光景が、突如終わりを告げる。画面に映し出される人影はちいさく、個人の判別は出来ない。しかし、一人が撃たれて倒れたのはハッキリと見て取れる。その直後、ロビーが閃光と黒煙に包まれた。黒煙がもうもうと立ちこめる中を、小型化されたパワードスーツと無人兵器が進んで行く。映像が切り替わった。次に映しだされたのはアポロンメディアのロビーだった。同じように閃光と爆発の後、パワードスーツと無人兵器がわらわらと社内に入りこんで行く。オデュッセウスコミュニケーションも、クロノスフーズも、ポセイドンラインも、ヘリオスエナジーも、タイタンインダストリーも、同じ手順で蹂躙されて行った。それはあまりに淡々と繰り返される作業的な映像で、現実味に乏しく、ぞっと背筋を冷やして行く。画面の前の反応を想像するように、女性が笑みを深めた。
『こんな感じです。死人は……いっぱい出たかな? 数数えてないのでちょっと今分からないんですが、気になるひと、いるでしょうし。あとで集計しますね』
 その時間は十分あるでしょう、とのんびりとソファに肘をついて、女性がそれで、とたどたどしく言葉を繋いだ。
『これは、ウロボロスからの挑戦状です。前回の事件でこちらが敗北を記したのは、まあだいたい全部ヒーローのせいだと思うんですよね? なので、状況を変えてのリトライな訳です。そんなことを下請けにさせるなって話ですよ。ねえ?』
『まあ、これで貸し借り無しなので。いいんじゃないですか?』
『そうなんだけど……。あ、なので、あの、安心してくださいね? 別にシュテルンビルト市民に恨みがあったり、ジェイクのかたき討ちとかそういう訳でもない、ただのシミュレーションっていうか……。NEXTの理想郷とか興味ないし……』
 ていうか宗派が違うから私としてはなんとも言えないし、と視線を明後日の方向に反らしてぼやき、女性はふぅ、と息を吐いた。指先が額をそっと叩き、視線が画面に向けられる。
『私たちは今日の午後三時……あと六時間くらいで、シュテルンビルトを出て行きます。それまでに、私たちが掴まればあなたたちの勝ち。逃げられれば、私たちの勝ちです。午後の三時からは、本当のウロボロスにバトンタッチするので、市民の皆さんはちょっと生き延びられないかも知れませんが、とりあえず三時まではなにもしないので、安心していてくださいね!』
『三時までに掴まれば、ウロボロスも諦めるそうです』
『もしくは、ヒーローを捕らえてつきだせば、市民の安全は確保されます。制限時間は、同じく午後の三時まで。私たちはこの部屋と、あとヘリの中の二手に分かれてますが、連れてくるのはどちらでも構いません。ヘリが一番楽かな? 頑張って連絡とってください。ヒーロー八人と、手助けをしている二人。合計十人と、市民の安全を、交換します』
 まあ、そういうことだから、と。ソファから立ち上がり、女性は画面の向こうにひらひらと手を振った。
『ヒーロースーツのないヒーローに奇跡を祈って六時間待つか、自力でどうにか頑張るか。それは市民の判断に任せます。私たちは別に、どっちでもいいし……あ、ヒーローの生死は問わないので、原形とどめていればそれでいいですよ』
『それでは市民の皆さま、ご機嫌よう』
『素敵な六時間を過ごしてくださいね!』
 なんの悪意も感じられない朗らかな響きの声を最後に、ぶつん、と映像が途切れて消えた。茫然とする市民の耳に、上空を旋回するヘリの音が聞こえている。ウロボロスのカードが、ばらばらと降り続いていた。いつまでも、いつまでも途切れず。正常な思考を塗りつぶし、踏みにじって行くように。



 砕け散った硝子の上を、蜘蛛のように多くの足を持った器械が動きまわっている。無理に引っ張ってきた監視カメラの映像を覗き込みながら、キリサトは品の無い舌打ちを響かせた。映像は、お世辞にも綺麗とは言い難いものだ。爆発の中心から逃れてようやく生き残った一台を遠隔操作で無理矢理動かしているのだから仕方がないが、それにしてももう少し鮮明に映せないものか。ピントが合わないぼやけた画像ではそのものの詳細な形を把握することができず、構造から対策を練ることもできない。話によれば、恐らくは熱源探知機能を搭載し、全自動マシンガンを背負った、自走式の制圧機械である。ごく簡単な識別機能だけはついているのか、小柄な成人女性ほどの大きさに改良されたパワードスーツには見向きもせず、ヘリペリデスファイナンスのロビーをひたすらに歩き回っていた。焼け焦げた床や壁、ひしゃげた調度品は原形を全く留めていなかった。爆発の中心地は黒い大穴があいており、そこが建物の内部であったことすら分からなくなりそうな有様だ。再度の舌打ちを響かせ、キリサトはパソコンの前から立ち上がり、苛々とした仕草で白衣をはおった。視界がいつもより広いのは、仮面が砕けてしまったからだ。爆発に巻き込まれて燃え尽きたそれを残念に思いながら、キリサトは我ながらよく生きていたものだと自嘲気味の笑みを浮かべ、研究室の定位置へと戻って行く。
 デスクの椅子を引っ張って腰を下ろし、キリサトはその瞬間のことを思い出した。狙撃から爆発が起こるまで、時間は数秒しかなかった。逃げて、という求めを完全に無視してキリサトに駆け寄ったCEOは、少女を素早く抱きあげた。そのままCEOがまっすぐに社の奥を目指したのは、外がすでに危険だと分かっていたからかも知れない。三歩もいかないうちに爆発が起こり、CEOとキリサトは爆風に吹き飛ばされ、意識を失った。二人を回収したのは、異変が起きた直後に研究室から飛び出して来た、キリサトの同僚たちだった。彼らは意識がある者と軽傷者を選んで疾走し、即座に侵入者用セキュリティを最高レベルで起動させた。ブロックごとに設置されている防火シャッターを全て下ろし、籠城を完成させるまで、かかった時間は十数分であったという。その判断の早さは褒められるべきだろう。負傷者をいくらか見捨てて来たとしても、その行いのおかげでキリサトとCEOは助かり、ヘリペリデスファイナンスは深部への侵入を防いでいるのだ。ただ、それでも現状は防戦一方である。幸い、会社のセキュリティは暇はないが情熱を持て余して仕方がないヒーロー事業部一同の手によってちょっとした要塞くらいの防御力を持ち、外部からの侵入を徹底して阻む仕様に改造されているが、それはあくまで、対人類用のセキュリティなのである。軍が制圧に使うような武器に耐えきれる装備ではなく、また、あくまで人類を相手に考えていたせいで、攻撃力は備わっていない。捕縛と撹乱が精一杯なのである。
 それでも他の七大企業と比べれば、ヘリペリデスファイナンスは持ちこたえているのだろう。友人たちの状況を思い描きかけ、キリサトはふるりと頭を振り、貧血と全身に走る痛みに唇を噛み締めた。少女の額にはぐるぐると包帯が巻かれ、腕も止血処理がされていた。爆風によって叩きつけられた全身は痛みを発しており、本当は息をするのもしんどくて仕方がない状態だ。なんとか起きて動いているのはイワン用の鎮痛剤をかすめて飲んでいるからだが、褒められた行いではないことは分かっていた。ワーカーホリックに過ぎるキリサトとて、狙撃を受けた状態で満足な治療もせず、精力的に働きたがった訳ではない。本当は仮眠用のベッドに突っ伏して動かないでいたいのだが、そうもいかないのは襲撃が恐らくこの部屋を目指しているからであり、最終的な目標がヒーロースーツの破壊と技術者たちの無力化にあると分かったからだ。ウロボロスを名乗る男女が放送した映像は、いかなる手段を使ってか、インターネットを経由したビデオレターの形で技術者の元へもたらされた。それを受信したきり回線が不通になったので、ウイルスが添付されていた可能性も高く、先程から数人の技術者がネットワークに延々と張りつき、作業をしている。けれども、復旧は遠いだろう。非常用の発電機を動かして技術室内の灯りを賄っている状況で、緊急性の低いその作業を続けさせる訳はいかなかった。
 あと十五分で結果につながる発展がないようであれば作業を中断させることを決意して、キリサトは血のにじむ包帯に指先を押し当て、はぁ、と溜息をついた。しんどい。痛い。気持ち悪い。意識がぐらぐらする。机に拳を打ちつけてうーうー呻いていると、その顔をひょい、と覗き込んでくる者がある。
「アイディア浮かんだ?」
「……浮かんだように見えるの?」
「聞いてみただけだよ。……どうしようねぇ」
 のんびりとした呟きで、CEOはキリサトの頭を撫でてきた。キリサトと同じく爆風に巻き込まれて意識を失った筈の男は、少女と違い、奇跡的にどこも激しく痛めることはなく、出血を伴う怪我もなかったらしい。さすがに疲れた顔はしているが、落ち着きはらった態度は、籠城を続ける技術者たちに無駄な焦りという逃げを許してなどくれなかった。なんだか他人事に響く言葉に、キリサトは肺の底から全部息を吐きだした。
「どうするも、こうするも。どうしようもないのだけれど」
「そう? 本当に? ……君ならどうにかできるでしょう?」
「どうにかって……ちょっと、やだ、人前!」
 頭を抱き寄せて包帯越し、額に口付けを落とそうとしてくるのを咎めれば、マイケルはまあまあ、と笑って誤魔化してしまう。技術者たちがなるべく素顔の少女を見ないようにしているのをいいことに、マイケルは自重をロビーに置いてきたらしい。CEO、とわざとらしく役職で男を呼び、キリサトは男に掴まれた指先を引き抜こうとやっきになった。
「ちゅっちゅちゅっちゅしてこないでったら! 私は今仕事中なの忙しいの! ……聞いてるっ?」
「リラックスさせてあげようと思って。良いアイディアが浮かぶようにね。ああ、指に切り傷作って。……可哀想に」
「その傷は一昨日ダンボール開けようとしてカッターで切っちゃったヤツで今日のじゃないからぁっ! ちょっとや、やだっ……やだもおおおおっ! 舐めないで噛まないでばかぁっ!」
 キリサトの声に泣きが入った時点で、恋人の戯れにしてもセクハラだと判断したのだろう。ああもう、と全力で関わりたくない顔つきをしながらも歩み寄った技術部副主任の男が、キリサトをひょい、と持ち上げて、CEOから引きはがした。
「CEO」
「うん? なにかな」
「セクシャルハラスメントです。止めてください」
 本人たちがどうこうはこの際置いておいて、周囲が不愉快だと思ったら成立するんですよ、と言い聞かせられ、CEOは肩を竦めてキリサトが座っていた椅子に腰かけてしまった。反省しているのかしていないのか判別がつけにくいマイケルをよそに、キリサトは安全圏まで逃れようとよろよろと歩きだし、貧血でしゃがみ込んでしまっている。ううぅ、と少女が半泣きで鼻をすするのに溜息をつき、副主任の男はキリサトに息を吐く。
「主任も、しゃんとする! ほら、好きな兵器開発していいですから。今なら財布もいますし」
「君、CEOを財布呼ばわりとは、いい度胸してるね?」
「すみません。根が素直なものですから」
 副主任はCEOの笑顔に胸を張って堂々と言い返し、兵器の言葉に目を輝かせるキリサトを、年下の従妹を甘やかすような目で見つめ、状況が状況ですからね、と笑う。
「イワンさんが来るまで、持ちこたえないといけません」
「……来ると思うー?」
「来ますよ。来ると思っているから、あなたも体に無理させて起きて、あれこれ考えてるんでしょう?」
 キリサトは複雑そうな顔で、こくりと頷いた。ふらつきながらも立ち上がり、イワンくんは、と仕方がなさそうに呟く。
「絶対、ヒーロースーツを取りに来る筈です。まあ、直接、ウロボロスを叩きに行く可能性も考えられますが……ジェイクの前例があるので、それだけはしないって、信じています」
 アンダースーツだけで敵陣に乗り込ませた件の事件は、技術部にとっても本人にしてみても黒歴史だろう。あれで、ヒーロースーツが普段どれだけ身体的な補助をし、身の安全を確保してくれていたかどうか、イワンも他のヒーローたちも分かった筈だ。生身で立ち向かうのは、勇気ではない。それでも、彼らがここへ到達する為には武器の前に生身で立ち、危険を潜り抜けてからではないと不可能だという矛盾した事実に気がつき、キリサトは息を吐きだした。イワンは来るだろう。それまでにできることは、いくつもある筈だった。



 アポロンメディアにてリサ・パタースンが目を覚ましたのは、ベッドの中ではなく床の上だった。一瞬、意識が混乱して分からず、リサは咳き込みながら身を起こし、あたりを見回す。リサがいたのは技術室の一角だった。ある者は机に身を伏せて動かず、ある者はリサと同じように床に倒れて、やはり動かなかった。ぞっとして立ち上がり、リサはすぐ隣に倒れていた青年の口元に顔を近付けた。弱々しいが、息はしている。気を失っているだけだろう。どれくらい意識を失っていたのかも分からず、リサは痛む頭に手を添えて床から立ち上がった。倒れた時に、頭を打ったのかも知れない。出血していなければいいと思いながら、リサは足元をふらつかせつつ、扉が開かれたままの廊下へ向かう。外側からなにかに吹き飛ばされたようにへしゃげた扉は、もう使いものにならないだろう。室内も廊下も、やけに静まり返っている。不安定に点いては消える灯りが、不安な心を駆り立てて行く。いったい、なにが起きたのだろう。それはあまりに突然であっけなく、リサは廊下をよたよたと歩きながら考えた。曲がり角が見えてきた。どこへ行けば誰に会えるかを考えながら、リサが曲がり角を曲がろうとした瞬間だった。視線の先にパワードスーツが見え、リサは反射的に口元を手で押さえ、数歩、足音を立てないように後退した。
「リサくん」
 背後から急に声をかけられ、リサはびくりと肩を震わせた。しかし、純粋に聞き慣れた声であるので、すぐに女性はゆるゆると肩の力を抜き、振り返った。
「ロイズ部長……」
「急いでこちらへ。現状は理解できていますか?」
 安堵したリサの呼びかけに頷き、ロイズは女性の手を掴んで歩きだした。普段は絶対にそうした行いをしない上司だから、相当焦っているのだろう。疲弊しきっているので、正直引っ張ってもらえてありがたいと思いながら、リサは素直にいいえ、と呟き、首を振った。
「分かりません。今しがたまで……倒れていたもので」
「怪我は? 見た所、外傷はないようですが、体に痛みやしびれはありますか? 君たちのいた所には、ガスがまかれたようですが……他に意識のある者はいましたか?」
「正直、今すぐに倒れたいくらいだるいですが……意識が戻っていたのは私だけでした。……ロイズ部長、これ……もしかして、テロですか?」
 廊下をいくつも曲がり、道を選んでロイズは歩いて行く。頭の中で地図を考えながら足を進めるリサは、けれど目的地が分からずに眉を寄せた。中央技術室でもないければ、外に向かっている訳でもない。どこへ行くのかは、ついて行けば分かることだった。やがて廊下の突き当たりにある扉まで辿りつく。鍵をあけて非常階段に出ると、ロイズはリサの手を離し、振り返って重々しく告げた。
「テロです。七大企業が同時に攻撃されたことを確認しました。社内で今意識があるのは、私と、君と、斎藤くんと……」
 十五名ってところだね、とロイズが告げた名前の中にリサの夫は含まれておらず、女性はそっと溜息をついた。上に行けばいいんですね、と問いかけ、頷かれるとゆっくり階段を上がって行く。階段に落ちた白いカードを拾い上げれば、ウロボロスのマークが書かれていた。無造作にカードを投げ捨て、リサはそういえば、とロイズを振り返る。
「どうして、私を迎えに来ることが?」
「偶然です。社内の生きているカメラを動かしていたら、君の姿が映ったもので。……あとは、私が一番元気なものでね」
 怪我をしていないという意味では、一番が君になるだろうね、と笑うロイズをよく見れば、右腕が上に上がらないようだった。今まで気がつかなかった己を恥じながら、リサは指定された階で扉を慎重に開け、ロイズを先に通して言う。
「落ち着いたら腕を診せてくださいね。それとも、誰かが応急処置を?」
「一応して頂きましたが、そうですね。頼みましょう」
 君は腕がいいから、と笑うロイズにはにかんで笑い返しながら、リサは上司のあとについて歩いて行く。不思議と、社内は静かだった。時折、ずしんと音を立てて建物が揺れ動くのは、足元でパワードスーツが破壊を続けているからだろう。言葉にならない不安を抱えながら歩き、リサが連れてこられたのは、CEOの執務室だった。扉を開くと同時に、歓声があがる。
「リサさーんっ! おかえりなさい!」
「ロイズ総合部長、おつかれさまです!」
「先に斎藤くんの所へ行っておいで、なにが起きているのか、君に把握してもらわなければ」
 ロイズに促されて歩きだし、リサはちょこんと椅子に座って待っていた斎藤さんの元へ辿りつく。ちいさな体はすすけて汚れ、顔には痣ができている。どこかへぶつけたのだろう。大丈夫ですか、と問えば、斎藤さんはイヒっと独特の笑いでリサの無事を歓迎し、もちろんさ、と笑いながら女性を手招いた。拡声器がない為にぽしょぽしょと囁かれる声に耳を傾けながら、リサは促されるままにヘッドフォンをつけ、録画されたウロボロスの映像を早送りで見て行く。会話が進むにつれ、どんどん顔を険しくしたリサは、ヘッドフォンをもぎ取るように外すと、息を詰まらせ、言葉を失った。女性の背を、斎藤さんがとんとん、と叩く。詰まった言葉を開放するような仕草に、リサは混乱しながら頭を振り、大きく息を吸い込んだ。
「……こんなことって……!」
「指定された時刻までは、残り五時間を切っている。……未だ、虎徹くんにもバーナビーくんにも連絡は取れないままだ」
「ロイズ部長! じゃあ、私たちは早く、一刻も早く、彼らに……彼らにスーツを!」
 届けなければ、助けなければ。言葉を詰まらせ、リサは零れ落ちそうになる涙を堪えながら叫んだ。室内にいる他の者も、同じ意見ではあるのだろう。しかし彼らは一様にうなだれ、その場を動き出すことが出来なかった。立ち上がろうとするリサの肩に、斎藤さんが触れた。か細い声が見ただろう、と言った。
『パワードスーツがうろついていて、ヒーロースーツがある部屋に辿りつけないんだよ。トランスポーターも動かせない』
「でもっ! でも……どうにか、どうにかならないんですか!」
「落ち着きなさい、リサくん。そのためにも君を迎えに行ったんです。……君と斎藤くんは、ヒーロー事業部のブレーンだ。力を合わせて、頑張って欲しい。……どうか」
 抽象的で、祈りのような言葉だった。頑張って、それで、どうしろというのか。この場に武器はなく、満足な設備もない。設備は沈黙し、できるのは考えることだけだった。
「……取り乱しました」
 手を握り締め、息を吸い込んで、リサは一台だけ稼働しているパソコンの画面を睨みつける。かつてのCEO、アルバート・マーベリックが仕事で使っていたパソコンは、この状況であっても常と変らない動きを見せていた。回線が切断されているのか、インターネットには接続できないが、社内のシステムを遠隔操作することくらいなら簡単にできる。画面は四分割され、それぞれ監視カメラの映像が映し出されている。数秒ごとに映像が切り替わって行くので、生き残ったカメラの数は多いらしい。どの映像にもパワードスーツが映っているのに歯噛みしながら、リサはなるべく冷静になろうと息を吸い込んだ。ガスで眠らされただけで、リサたち技術者にそれ以上の攻撃がなかったことを考えれば、殺害を最優先としたプログラムではない筈だった。それともリサのいた区画が偶然にそういう方法で制圧されただけで、他の場所はまた違うのだろうか。夫は今日も出社している筈だった。どこに居たのだろう、と無意識に考えてしまい、リサは祈るように手を組みあわせ、息を吸う。今は、考えてはいけない。彼らにスーツを届けることだけ、それだけを考え、実行していかなければ。市民の心が負けてしまう前に。
 時間がじりじりと過ぎて行く。ぽつぽつと、リサが零した言葉を斎藤さんがパソコンで実行にうつし、上手く行かずに考え直す、砂を噛むような時間が過ぎて行く。遠隔操作でトランスポーターを動かし、パワードスーツを引くか撥ねるかすれば何台かは無力化できるんじゃ、とリサは考えながら、試しにやってみてください、と斎藤さんに呟いた瞬間だった。ふと、パソコン上に映った情景に、音を立てて血の気が引いて行く。その廊下に、リサは見覚えがあった。スーツの整備をしに、毎日通う場所だからだ。パワードスーツが群がる、その扉の向こうに、タイガー&バーナビーのヒーロースーツが置かれている。硬くロックされた扉に、機関銃で穴が空けられて行く。やがて紙切れのように、扉が吹き飛んだ。
「あ……っ」
 喉が引きつって、上手く声が出ない。斎藤さんのマズいな、という呟きが、静まり返った部屋に響きわたった。立ち上がり、リサは部屋を走り出て行こうとする。その体を何人かが、はがいじめにして止めた。行ってもなにも出来ない、間に合わない、と叫ぶ彼らに首を振り、リサはぼろりと涙を零した。
「だって、スーツがっ! タイガーと、バーナビーのスーツ、私たちの……私たちのヒーロースーツが!」
『……ああ』
 か細い吐息に似た呻きに、リサが勢いよく斎藤さんを振り返る。直後、足元から突き抜ける振動が、部屋全体を揺らした。立っていられず、倒れる程の衝撃がどこから来たのか、考えたくもない。けれど、確かめなければいけなかった。揺れが収まると即座に立ち上がり、リサは斎藤さんの元へ駆け寄る。椅子から転がり落ちた体を支えながら、二人はパソコンのモニターを凝視した。映像には嵐が走り、今にも途切れてしまいそうに荒く揺れ動いている。切り替わって行く映像の中に、スーツの保管室を映すものがあった。はじめ、リサはそれがなにを映しているのか分からなかった。黒く焦げてひしゃげた部屋に、自爆したらしいパワードスーツの残骸と、赤と緑の欠片がいくつか転がっている。破壊されたヒーロースーツの欠片だった。いかに現役ヒーロー中で最高の耐久性能を誇れど、恐らくはゼロ距離で行われた爆破に耐えきれなかったのだ。
『……なんということを』
 ぱた、と音を立てて床に涙が落ち、リサは己の頬に手を押し当てて息を吸い込む。泣く暇などない筈だった。それなのにぱたぱたと、落ちる涙は数を増やして行くばかりだ。体のだるさが急に重く、体にのしかかってきた。座りこめば動けないのに、脚が立ち上がる力を失ってしまう。また、建物が揺れ動いた。どこかで、またなにか、壊されたようだった。
「……どうすればいいの?」
 拳で涙を拭い、顔をあげながらリサは誰にともなく問いかけた。室内には疲労感が漂い、誰一人として顔つきは明るくない。リサも、くじけてしまいそうになる。助けて、と縋りそうになる。助けてヒーロー。声には出さずくちびるを動かし、そのヒーローに必要な力が失われてしまった事実に、悲鳴もあげられず喉が引きつった。ヒーロースーツにもスベアは存在する。パーツごとに予備はあるし、交換し、補修しながらスーツは使われているが、その為の道具も、なにもかも、あの部屋に置かれていた。黒くひしゃげ、残骸だけになったあの部屋に。拳を床に叩きつける。痛みがすこし、意識を鮮明にしてくれた。時間はある。まだ、終わりではない。なにか方法がある筈だ。考えて、と己に言い聞かせるリサの頭に、なにかが瞬いた。
「……ええ、と……?」
 自分でも正体の分からない煌きに、リサはモニターに視線を戻す。粉々に砕けたヒーロースーツに、黒いパワードスーツの破片が散らばっている。眉を寄せて凝視し、リサは胸に手を押し当てた。じわじわ、指先に体温が戻って行く。なんだろう、と思った。既視感があった。こんな風に砕かれ、壊され、使いものにならなくなったスーツを、リサはどこかで見たことがあった。タイガー&バーナビーのスーツは、そこまで壊れたことがないのに。それでも、どこかで。確かに、一度。
「……あ」
 呟き、息をつめて目を見開き、リサは勢いよく立ち上がる。
「あった……あった、まだあった。まだあったっ!」
 ぞくぞくと体中に力が満ちて行く。斎藤さんに視線を向けると、瞬間的に同じところへ辿りついていた。言われなくとも、意思は確かに通じ合った。瞳に輝きが戻る。強い意思。頷いて、リサは走り出す。どこへ、と引き留める声は無視して、廊下に出た。一刻も早く、その場所へ。それが待つ場所へ辿りついてあげたかった。かつて、この社のCEOが失脚した夜。技術者と共にアポロンメディアへ踏み込んでくれた、折紙サイクロンの言葉がよみがえる。彼は、アルバート・マーベリックにこう言ってくれた。どんな技術でも、使い方ひとつで変わって行く。あなたの正義も、思い描いた理想も。使い方や、形を変えてしまうかも知れないけれど。必ず。いつか必ず、それを未来へ。繋げて行く。道を違えてしまった正義と理想でも、失わせはしないのだと。今ではない未来を、それが生かされる未来を、彼は確かに信じてくれた。その未来が、今だ。今、この時をおいて他にない。あの日の夜、ヒーローが灯した希望を胸にかき集めて。諦めず、リサは前へと足を進めた。

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