七大企業のみならず、警察署や司法局、消防署を直に狙ってパワードスーツを突っ込ませるというやり方は、非常に有効かつ下品なやり方である、とセリーナは机に拳を叩きつけた。荒々しい仕草は常の彼女には決してないもので、完全にすわった目と気品ある外見も加わり、女性の周囲に人を近づかせなかった。今日はオフであったというポセイドンラインの技術者は、本職はやはりモデルでしたと言われても素直に信じ込む格好をしていた。足元は淡い草色をしたブランドものの新作の靴で、ヒールは高く細く、歩きまわるたびにカツカツと音を奏でている。レースがふんだんにあしらわれたAラインのワンピースは色が白く、それだけで技術職の男たちをひるませた。ただでさえ女物の服は、彼らにしてみれば耐久性に乏しいのだ。ふわりとした柔らかい生地はすぐに汚れて破けてしまいそうで、それに袖を通す女性の勇気を、なんとなく賞賛したくなってくる程だ。小型のパソコンや携帯電話、財布の入ったバックを椅子に転がし、セリーナはその場の女王のように椅子に座り、まなじりをつり上げた。睨みつけているのは、店内の至るところに設置されたテレビ画面である。普段はヒーローTVの生中継や録画映像を流す画面に、今はウロボロスのロゴが浮かび上がっている。
セリーナをはじめとした非番の技術者たちが集まっているのは、ゴールドステージの一角にあるヒーローズバーだった。七大企業の責任者が好んで集まる場所であることは周知の事実だったから、所属する社が攻撃を受け、都市がウロボロスの手に落ちたと知った彼らは、誰にともなくこの店に集まってきたのだ。ここに来れば、誰かに会えると信じたのである。その希望を叶えたのが、セリーナだった。ポセイドンラインのセリーナ・クレイスと言えば、ヘリペリデスファイナンスのキリサト、アポロンメディアのリサ・パタースンと並んで呼ばれる才女である。なぜヒーロー専属の技術者を仕事に据えたのかと疑問視される程の美貌の持ち主であることも、その名を有名にさせた一因だが、もちろんそれだけではない。スカイハイのジェットパックを開発したのも彼女ならば、ジャイク・マルチネス戦後にスカイハイのヒーロースーツの軽量化計画を打ち出し、耐久性能をあげた上で、わずか半年で実用可能レベルに調整したのも彼女だった。キリサトを天災に近い天才、リサを真の秀才とするならば、セリーナは努力型の鬼才である。やると言ったことを、必ず成し遂げる完璧主義の女性が社の外に居てくれたことを、感謝した者は多かった。例えいま、すこしばかり遠巻きに眺めていても、彼女こそが技術者たちの希望であった。
実のところ、セリーナは人をまとめるというのが大変苦手な性質だった。普段ならばその役目はクロノスフーズのマックス、あるいはヘリオスエナジーのハリー・デイライトが担ってくれるもので、その二人が不在の場合はリサに受け渡されるのである。セリーナはキリサトと二人で口論しながら、ああでもない、こうでもないと議論と技術を戦わせながら役立つものを生み出して行く役回りであって、決してトップに立つのが得意ではないのだ。それなのに、今日というこの日に休みなのはセリーナだけだった。つまり、仲の良いトップは全員があの無残な社内に、運が良ければ生存して閉じ込められているということで。セリーナしかいないのだ。女性は追いつめられた気持ちで顔をあげると、てのひらにするすると『人』という文字を書き、唇に押し当て、空気と一緒にそれを飲みこんだ。昔、キリサトに教わったおまじないだが、不思議と心を落ち着かせてくれる気がした。大丈夫かしら、と思い、セリーナはこみあげてくるものをなんとか堪えた。ウロボロスが流した各社襲撃の映像は荒く、短いものだったが、セリーナは間違えようもなく『それ』を確認していた。ヘリペリデスファイナンスのロビーが爆発する数秒前、狙撃により硝子が割れて、人影が吹き飛ぶように床に転がった。あれはキリサトだ。いつも言い争いをしていても、友人の姿だから、セリーナには分かった。撃たれて、爆発のすぐ近くに居た、だなんて。最悪の事態を考えてこみあげてくる吐き気を堪え、セリーナは拳を握って顔をあげた。思考の停止と罵られても、構わない。不安を、心配を、考えることを止めにする。胸に手をあてて、セリーナは息を吸い込んだ。
「……誰かの助けは、望めるものではありませんわ。警察も、消防も、特殊部隊もそれぞれに襲撃を受けていて、その対処で精一杯。ですから私たちは、私たちしか味方を望めないのです」
事実を事実として口にして、セリーナはテレビ画面を睨みつけた。繰り返し、録画したウロボロスの映像が流されている。
「私は、事態を楽観視しません。……市民は味方ではない」
敵ではありませんが、と冷たい目でセリーナは言う。今はまだ、と判断せざるを得ず、それもいつ終わりになるか分からない。刻一刻と時間は過ぎ去り、七大企業もテレビ局もウロボロスの手に落ちた今、状況が回復することは決してない。通信の手段はなく、情報を共有することのできない閉塞感と不安の中で、ヒーローによる守護と奇跡、それによってもたらされる娯楽という救いに慣れ切った市民の心が、崩壊してしまう時は近い。セリーナは職業柄、常にヒーローの傍にある。そしてセリーナには、『市民を助けるヒーローを守る者』である自負がある。だからこそ、精神を保っていられるだけなのだ。守られ、あやされ過ごして来た人々を、セリーナは全く信頼していない。恐らく、七大企業の責任者級で、最も一般市民を信じていないのがセリーナだろう。セリーナは、ジェイクに敗北したスカイハイに向けられた市民の身勝手な失望を、今でも覚えている。そして今でも、許してはいない。燃える炎のような意思を瞳の奥に灯し、セリーナはハッキリと宣言する。
「ヒーローを守らなければなりません。……幸い、ここには七大企業、全ての技術者が集まっています。つまり、ヒーローとして活躍する彼らの顔と名前と住所を、私たちは知っています」
一般市民には決して公開されない情報を、ヒーロー事業部の社員は彼らを守る為の知識として持っていた。それは私生活で決して利用してはならない情報だ。偶然を装って、彼らの家の近くのスーパーマーケットに足を運ぶことすら、場合によっては減給や自宅待機の懲罰が待っている。私的利用を完全に禁止とするそれらの情報に、例外は一切認められていない。それでもセリーナは、己の正しさを信じ切った声で、言い切った。
「保護しましょう。……彼らが単独行動をする前に、です!」
彼らはヒーローです、とセリーナは言った。あたかも演説のことく、朗々とした声で言葉を繋いで行く。
「この状況で、彼らは外部からの助けを待つでしょうか? いいえ、私は決してそうは思いません。彼らは、彼らの力……NEXTを使って、必ず私たちを助けようとします。市民を、そして彼らの会社を。襲撃を退け、ヒーロースーツを手にしようとするでしょう。それが悪いと言っている訳ではありません。制限時間というくだらないものに惑わされず考えれば、午後の三時を過ぎてもこの悪夢は終わらない。ウロボロスが、さらに容赦なく襲いかかってくるだけのこと。……さらに事態が悪化すると分かっている時刻まで、残り五時間だと、そう思うべきなのです。私たちがすべきことは、その五時間でヒーローを守り抜くこと。そして、本当の意味でヒーローを『守る』ことです。その為に、市民にヒーローを裏切らせないことです。悪夢は必ず終わります。終わらせます。だからそれまで、私たちはヒーローを守ることで、市民を守らなければ」
まあ最悪解雇される可能性もありますが、そこはそれぞれCEOなり現場責任者を説得して特例を認めてもらうなり、各自どうにか頑張るように。うつくしい微笑みでもって言い放たれ、技術者たちの顔に苦笑が浮かぶ。淡々とした語り口は聴衆の心に共感や高揚を呼び起こさず、今一つ決意にまで結びつかないのだ。言葉を終えたセリーナも、ハッキリと自覚しているのだろう。もどかしげに眉を寄せ、苛々とした息が漏れて行く。
「……こういう時に、マックスが居てくれたら!」
私は指導者にはなれないんですったら、とぼやき、セリーナはとりあえず言いたいことは言いました、と胸を張った。
「あとは、各々、正しいと思うことをするしかありません」
ポセイドンライン技術部は、すぐにスカイハイの捕縛に動くように、と言って、セリーナは自らも歩きだした。保護ではなく、あえて捕縛と言ったのは、相手がスカイハイだからである。自宅でじっとしているとはちっとも思えない相手なので、まずはポセイドンラインの周辺に足を運び、あとは居そうな場所をしらみつぶしに探して行かなければ。正義感の強い彼は、誰かが止めなければ飛びだして行ってしまう。どんなに危険だと分かっていても、ほんの少しの可能性さえあれば、キース・グッドマンは飛び立ってしまうのだ。百パーセントの可能性がなければ考えを実行に移したくないセリーナとは対照的な相手だが、セリーナはヒーローとしてスカイハイを愛していた。彼の持つ気高い正義を、誇りに思っていた。スカイハイは二度と、市民によって傷つけられてはならない。どんな事情があろうとも、セリーナはそれを許しておくことができない。街へ足を踏み出すと、英雄を称えるような紙吹雪がウロボロスのマークを躍らせていた。それをためらいなく踏みにじり、セリーナは足早に道を進んで行く。なすべきことをしようとする、女性の足取りに迷いはなかった。
学校に行っていた筈のカリーナがライル家に帰宅したのは、ウロボロスの放送から二十分後だった。恐らくは教師の制止も待機指示も全て無視して、全力疾走して来たのだろう。咳き込む程に息を乱して家に扉をくぐったカリーナは、唖然とする両親に向かい、きっぱりとした響きの声でただいま、と言った。
「それと、ごめんなさい、パパ、ママ。後で学校から呼び出されちゃうと思う……緊急事態だってことで許してくれるとは思うけど、他の生徒への示しもあるし」
なにせカリーナは、授業中の教室を飛び出し、全校生徒の目がある中を一目散に家へと急いだのである。いかに学校がカリーナのヒーロー活動を了承していようと、指示があるまで生徒は教室から出ないように、と放送が流れている中でのことだった。うやむやにしてしまうには、目撃者の数が多すぎる。ポーズとして保護者呼び出しの上、生徒指導室にて面談といういつもの流れだと思うのよね、とやけになれた風に口にし、カリーナはスクールバックを居間のソファの上に置いた。そのままカリーナは机の上に投げ出されていたリモコンを手に取ると、ざあざあと音を立て砂嵐を流しているテレビの電源を落としてしまう。そうすると、家の中は不思議なくらいの静けさだった。カリーナは、娘を出迎えた時のままの立ち位置で視線だけを向けてくる両親を振り返り、焦りのない、落ち着きはらった表情で告げる。私はこれから出かけるけど、と。
「パパもママも、警察からいつもの安全宣言が出るまでは家に居てね。あの放送から考えると、午後三時までは危ないこともないみたいだけど、念のため。あ、キッチン借りていい?」
「……カリーナ?」
「パンケーキを焼くわね、ママ。ジャムとクロデットクリームを持って行くけど、いい? 飲み物は途中で買えるかな……」
お店がやってなかったら自動販売機があるから大丈夫か、と呟きながら、カリーナは手早く髪をまとめ、エプロンを引っ張り出してキッチンへ消えて行く。すぐにごそごそとカリーナお気に入りのパンケーキミックスが取り出され、フライパンが火にかけられて熱されて行く。何枚焼こうかな、と眉を寄せながら考えているカリーナの姿に、そこでようやく保護者たちは、己というものを取り戻したらしい。なぜか全く動揺しているように見えない娘に、どう接したらいいか分からない様子で、声をかける。カリーナ、と弱く響いた響きに、少女は強い表情で振り返った。そこに立つのは、確かに彼らの娘である筈だった。それなのに一瞬、二人は少女をヒーロー『ブルーローズ』と見間違えてしまう。息を飲む二人に、カリーナは首を傾げた。
「パパとママも、パンケーキ食べる?」
欲しいなら一緒に焼くけど、と不思議がる娘は、昼食の時間にしても早いことを訝しんでいるのだろう。無情に進んで行く時計はまだ十時にもなっていない。中々返事をしてくれない両親に焦れた顔つきになり、カリーナは熱したフライパンにタネを流し込んで行く。うん、二十分で焼けるだけ焼こう、と呟き、カリーナはフライ返しも使わず、手首のスナップだけでパンケーキを裏返してしまった。いつの間にそんな芸当ができるようになっていたのか、それすら知らないことに気がつき、両親はただカリーナがパンケーキを作っているさまを見つめた。お気に入りのローズピンクの皿にパンケーキを重ねられるだけ重ね、カリーナはそれをラップでぐるぐる巻きに固定してしまった。ジャムとクロデットクリーム、お気に入りの炭酸をピクニック用の籠に放りこんだカリーナは、あ、と言ってウエットティッシュやチョコレートバー、キャンディーなども手当たり次第に詰め込んで行く。どこかへピクニックに出かけるような準備だった。やがてキッチンで一人満足げに頷き、カリーナは手早くエプロンを脱ぐと、それをぽん、と椅子に投げかけた。制服のまま籠を持ち、山盛りのパンケーキを抱えて、カリーナはスクールバックも手に取って振り返る。
「それで、パパとママは、本当になにしてるの?」
心配げに問いかけてくるカリーナはあくまで冷静で、普段通りの様子だった。窓の外ではまだウロボロスマークのカードが降り続いているというのに、帰宅した瞬間の全力疾走の名残を見なければ、シュテルンビルトに異変が起きていることも分かっているか定かではないと、心配になったくらいだろう。
「カリーナ、あなた……」
それきり、カリーナの母は言葉が出てこないようだった。娘を不安げに見つめる眼差しの中には不安の色があり、カリーナはふう、と息を吐く。
「ママ、私は大丈夫よ。……ちゃんと分かってるわ」
そう言ってカリーナは、片腕を持ち上げて両親にPDAをみせた。常であれば緊急事態を知らせて鳴り響く筈のPDAは、今は沈黙したまま動く気配もない。電源が入らなくなったの、と眉を寄せて呟き、カリーナはそこで初めて、厳しい顔をして窓の外を睨んだ。外はやや風が強く、空は鮮やかに晴れ渡っている。色の濃い雲が流されてくるのが見えたが、曇りにはならないことだろう。ヘリコプターの音と、カードがばら撒かれる音だけが静寂を縫い合わせる、奇妙な空間が出来あがっていた。
「……パパ、ママ」
昼前のきよらかな光を一身に受けるように、カリーナはまっすぐに立っている。微笑んで、少女は言った。
「ブルーローズを……ヒーローを信じて、待っていて」
明日にはきっと帰るわ、と笑ってカリーナは家を飛び出して行った。まだ熱いくらいのパンケーキは、ラップ越しにもほわりと良い匂いを漂わせている。食欲旺盛にごくりと唾を飲みこんで、カリーナはしかし、前を強く睨んで走り続けた。誰とも連絡が取れない状況で、伝わってきた情報はウロボロスがもたらした悪夢の再来のみ。劇や仕掛けではないことを示すように、カリーナの頭の上では忌々しいヘリコプターが紙くずをばらまいている。いったい誰が掃除すると思って資源をばらまいているのか。紙吹雪っていうのは、掃除がとにかく大変なんだから街の清掃業者さんに謝れと憤慨しつつ、少女の足は確かな目的地を目指して走り続けて行く。パンケーキが冷める前に到着したいと思いつつ、カリーナはぐん、と走るスピードをあげた。
楓に連絡が取れないから迎えに行ってくる、と飛びだそうとした虎徹を足払いをかけたバーナビーは、バディをためらいなく床に沈めて踏みつけ、嘆かわしげに溜息をついた。気持ちは十分分かるし状況によっては賛成してもよかったのだが、楓の現在位置は、バーナビーの予想が確かなら、まだエドワードが入院している病院の部屋の筈である。NEXT専門でヒーロー御用達の病院はこの街で最もセキュリティレベルの高い場所のひとつであり、また、ウロボロスが告げた襲撃の場所には含まれていない筈だった。とすれば楓は、顔出しヒーローのバーナビーと、彼と同居している虎徹より、よほど安全な場所にいると考えられる。近隣住民の方を疑っている訳ではありませんが今この場所は安全とは言い難いんですよ分かっていますか僕だって僕のお姫様の傍に居られなくて守れないかも知れないというこの状況はひたすら辛いというかむやみに焦りもしますが今は冷静にならなければいけない時で僕らは冷静になるべきなんですよ分かっていますか、とノンブレスで言い切るバーナビーは、その間も虎徹の背骨に対してぎりぎりと体重をかける作業に余念がなかった。内臓が圧迫される危険より、背骨が折れる恐怖をより身近に感じ、虎徹は分かったから足どけてくれないかなバニーちゃんっ、と悲鳴染みた声で叫んだ。普段なら転がして踏んだくらいですぐに離れてくれるのだが、冷静さを口にしているわりに、バーナビーも相当動揺しているらしかった。
あ、忘れてた、と暢気に言って虎徹を開放したバーナビーは普段通りの伊達男だったが、ふぅ、と息を吐く仕草に精神的な疲弊が隠し切れてはいない。寝起きに衝撃映像を見て疲れました、と身もふたもない呟きをして、バーナビーは窓の外をちらりと眺めた。虎徹の家からは遠く、アポロンメディアの社屋が望める。巨大なビルが不気味に揺れ、黒煙を噴き上げるさまはウロボロスの宣言が冗談ではないことと、流された襲撃の映像が事実であることを告げていた。虎徹から離れたバーナビーはまずテレビのチャンネルがどこも砂嵐しか流していないことを確かめ、次にパソコンの電源を入れた。インターネットに接続ができないことを確認し、バーナビーは携帯電話を手に取ってダイヤルする。やはり、呼び出しもしなければ不通のアナウンスが流れることもない。最後にPDAの電源すら入らなくなっていることを確かめ、バーナビーは眉を寄せて沈黙した。つけっぱなしのテレビを虎徹が消すと、家の中はしんとしてしまった。生活音が、どこからも響いてこないせいだった。道を行く人の姿は全くなく、店もシャッターを下ろして灯りを消してしまっている。住民は息を殺して家の中に閉じこもり、災厄という嵐が過ぎ去るのを待っているようだった。バーナビーはしばらく黒煙を噴き上げるアポロンメディアビルを眺め、それからハッとして、悩む虎徹の腕を引っ張った。
「虎徹さん」
「どしたの、バニー。そんな真剣な顔して」
「大変なことを思い出しました。今日は僕、パンを買ってくるつもりだったので、食べるものがなにもないんですよ……!」
冷蔵庫の中もミルクとワインとビールしかなくて、野菜がすこしあるくらいだし、とバーナビーが言い終わるより早く、家のチャイムが連打された。キッチンをちらりと見て溜息をついたバーナビーは、鳴らすのは一回にしなさいと言ったでしょう、と小言を口にしながら玄関へと歩いて行く。声を聞かなくとも、誰が来たか分かり切っている素振りに、虎徹は来客の予定があっただろうか、と首をひねりながら後をついて行った。バーナビーは慣れた仕草で扉の鍵を開け、乱れていた髪をさっと手櫛で整えてから扉を開けた。
「いらっしゃい、パオリン。あなたが一番のりです」
「そうなの? やったぁ! おじゃまします!」
おはよう、バーナビーと笑いながら飛び込んで来たパオリンを、バーナビーはすかさず両腕を広げて抱きとめた。首に腕を回してくる少女の体を抱き上げ、二人は家の玄関でくるくると回って笑いあった。ああ、パオリンか、と額に手を押し当てて沈黙し、虎徹は深々と息を吐きだす。
「なんだ、この、目の前で堂々と浮気された感……」
「甲斐性っていうのが足りないんじゃない? お邪魔します」
「おう、どうぞ。……甲斐性って、いや、そんなことは」
ないと思うんだが、と反射的に返事をした虎徹の視線の先で、きゃっきゃと笑いあう二人の横を素通りしてきたカリーナが、手を使わずに足の動きだけで革靴を脱ぎ捨て、スリッパに爪先を突っ込んでいる。両手にはパンケーキが山のように重ねられた皿を持ち、腕にはピクニック用のバスケットを下げ、さらにスクールバックまで腕にひっかけていた。走ってきたのか息切れを起こしているカリーナは、よろよろと歩きながら進み、キッチンに入って行く。邪魔にならないスペースに持って来たそれらをどさりと置くと、カリーナはようやくひと心地ついた息を吐きだした。重かったぁ、とぼやきながらカリーナがキッチンから居間に戻ってくると、ようやくじゃれるのに一段落したバーナビーとパオリンがやってきた。そのまま二人に満面の笑みで腕を広げられたので、カリーナはそれを鮮やかに無視し、所在なくもじもじしている虎徹にうろんな目を向けた。
「タイガー、なにしてるの?」
「いや、その……カリーナは、なにしてんだ……?」
「なにって言われも。なんて言えばいいのか分かんない」
そのうち私以外の誰かが説明してくれると思うし、待てなかったらアンタのバディにでも頼みなさいよ、と言い放ち、カリーナはまだ抱っこ待機をしている二人の前をごく普通に通り過ぎた。カリーナにしてみれば、楓に招かれて何度も宿泊している、勝手知ったる鏑木家である。エプロンを見つけ出して戻ってくると、バーナビーとパオリンがこれみよがしに、しょんぼりと落ち込んでいた。
「これが反抗期なんでしょうか、パオリン……」
「そうなのかも。ハグして欲しかったのに、無視されるボクたち。とてもさみしかった……ひどいよ、カリーナ」
「ちょっと、なんでうっとおしさが三割増しなの?」
私はアンタたちに構ってあげる暇はないですからね、と言いつつ、通りすがりに二人の頭をぽんぽんと撫でてくれるのがカリーナの優しさである。すこし回復したらしい二人は、キッチンへ向かうカリーナの傍でうろちょろしだした。カルガモの親と、双子の雛のような光景である。ねーねーカリーナー、ハグしようよハグー、だっこー、無視しないでください、ねえねえカリーナ、と左右からまとわりつかれ、少女に青筋が浮かんで行く。凍らされる前に止めてられよお前らー、と安全圏に避難しながら声をかける虎徹の肩を、新たな訪問者がぽんと叩く。
「虎徹、玄関開けっぱなしだったぞ? 気をつけろよ」
「……アントニオ、聞いていいか?」
「なんだ。どうした?」
ふわりと空気が動くのを感じて玄関を振り向けば、イワンを抱えたキースが、宙から着地するのと目があった。やあ、と朗らかに笑って挨拶するキースに合わせ、フランスパンのサンドイッチを抱えたイワンがぺこりと頭を下げてくる。彼方から走ってきた車が止まる音がして、ネイサンも姿を見せた。彼らを家に招き入れてから扉にしっかりと鍵をかけ、虎徹はぐったりしながら、アントニオに視線を向ける。
「……なんで俺の家に集合しちゃってんの?」
「ここに来れば、とりあえず全員に会える気がしてな。正解だった。コーヒー飲むヤツは手をあげてくれるか?」
「出来あがった順番で並べて行くので、もう座った人から食べちゃってください。虎徹さんも食べていてくださいね」
カリーナは電子レンジで温めたパンケーキを、人数分の皿に移してテーブルに並べていた。イワンは持って来たフランスパンのサンドイッチを紙袋のまま机に起き、手を合わせるとさっそく食べ始めている。バーナビーとパオリンは、生食に向いた野菜を洗ってとにかく切っただけの雑なサラダをボウルごと置き、ドレッシングで工夫してください、と主張した。アンタたちもう少し頑張りなさいな、と苦笑したネイサンは冷蔵庫を覗き込み、あるものでなにか作れないかを考え込んでいた。淹れたてのコーヒーが良い香りを漂わせていく。
「まあ、とりあえず頂きましょう。時間もありませんし……虎徹さん? 虎徹さん、なにしてるんですか。ご飯ですよ」
「……展開について行けないんだけど」
「え? お腹が空いた状態で会議しても良い案浮かばないし、これから大変だから、あるもの食べておこうってことですよね? それにしても先輩、ありがとうございます! 僕、今日の朝はパンにしようと思ってたんですよ」
にこにこ、本当に幸せそうに笑いながらフランスパンのサンドイッチに手を伸ばすバーナビーに、イワンはたくさん食べて大きくなるんだよ、と微笑んで頷いている。キースは目玉焼きがないことにしょんぼりしながらも、カリーナの焼いて来たパンケーキにコケモモのジャムを塗り、美味しそうに食べていた。そうしているうちに、ネイサンがジャガイモを細切りにしてフライパンで焼き、オムレツのように形を整えたものを持ってきて、テーブルに追加する。さっそくパオリンが味見をして、おいしい、と飛び跳ねるように声をあげた。虎徹は諦め気味にパンケーキを口に運び、コーヒーを喉に通して息を吐きだした。
「……いま、シュテルンビルトってウロボロスのせいで、かなり大変なことになってんだよな……?」
「そうだよ! だから今食べておかないと! もう次、いつご飯が食べられるか分かんないじゃないか!」
この世の終わりがすぐそこに迫っているのが見えてしまった悲痛な声で叫ぶパオリンに、カリーナは重々しく頷いた。普段ならばためらうカロリーの、ナッツとキャラメルとマシュマロが入ったチョコレートバーを口にしながら、カリーナはだって三時に終わるとは絶対に思えないし、と時計に視線を向ける。時刻はようやく、十一時を迎えようとする所だった。
「……というか、無計画に集合してみたはいいんですが。これから、どうしましょうね? ヒーロースーツもないし……」
「捕まえるにしても、このまま行くのはちょっとねぇ……。やっぱり、スーツを取りに行くしかないんじゃないかしら」
「あの中を? どうやって」
ちょっと会社の前通って見てきたけど、パワードスーツがうじゃうじゃしてたぞ、と顔をしかめるアントニオに、イワンとネイサンは難しげな顔をして黙りこむ。ポテトチップスの袋を抱えてせっせせっせと口に運びつつ、パオリンがじゃあさあ、と明るく声をあげた。
「八人で一斉に行くのはどうかな? 皆で一緒に行けば、なんとかなると思うし。ダメ?」
「それって回を増すごとに難易度上がってかない? 向こうだって馬鹿じゃないだろうし、一回二回はなんとかなる気がするけど……時間もかかるし、ちょっとどうかと思う」
「かと言って単独潜入で辿りつくには……普通に技術室に行くならともかく、パワードスーツとの戦闘が予想される、破壊されきっているであろう社内を進む訳ですから」
辿りつくだけなら、能力的に単独でも可能なのは何人か居ますけれど、とバーナビーが呟き、アントニオやキース、ブルーローズは頷いた。パオリンがいまいち自信がなさそうに同意しなかったのは、少女はまだ、医師に能力の使用をストップされているからだ。ちょっと体が動かしにくくて、ほんのすこし思う通りに雷を生み出したりすることができないだけなんだけど、と苦慮するパオリンは、そうだなぁ、と息を吐きだした。
「ボクと、イワンは……誰かと一緒じゃないと危ないだろうね」
「そうすると、どう取りに行けばいいんだ……?」
「はやく取りに行けた人が、もう一回行けばいいんじゃないかな? 私は急いで行くことにするよ」
だからイワンくんは私と一緒に行こう、と立候補するキースに異を唱える者はいなかったが、積極的に同意する者もいなかった。キースがスーツを取りに行ったあと、もう一度スカイハイとしてヘリペリデスファイナンスへ行くということは、そこから能力を発動しっぱなしだということだ。ヒーロースーツを取りに行くのは、彼らにとってあくまで過程であり、スタートラインに立つことである。ウロボロスを名乗る四人組を捕まえに行かなければいけない以上、リスクの大きすぎる方法だった。考えた末に頷き、イワンはゆるく微笑んだ。
「……スカイハイは、スーツを着たらすぐ上空のヘリを制圧して欲しいんですが、僕の意見に反論あるひと手をあげてー」
「えっ。……え、えっ? い、イワンくん? イワンくんっ!」
「僕に助けを求めないでください。僕なら大丈夫です。なんとかします。なんとかしますから……!」
全員がそれとなく視線を反らして沈黙するのを、キースはおろおろと見比べた。ひらひらと手を振りながらキースのしょんぼりした視線を退け、イワンは思い切り眉を寄せる。
「でも、僕のことは本当に、気にしないでください。……社内にはキリサトさんがいます。彼女がなにも手を打たない訳がない。時間がかかるかも知れませんが、動きがあるまで……いえ、ぎりぎりまで、僕は待機しようと思います」
だから皆さん、ヒーロースーツを取りに行ってください、と告げるイワンが、しぶる彼らを立ち上がらせようとした瞬間のことだった。
「お父さん! ……間に合った! お父さん、バーナビーさん! 皆、お待たせ!」
サポーターの制服、白いフードつきのローブを着こんだ楓が、満面の笑みで飛び込んでくる。エドワードの能力を発動させているのか、少女は玄関の扉を突きぬけてきた。右手にも左手にも、誰かの腕を掴んだ状態で。
「助っ人! 連れて来たよ!」
ぶいっ、と得意満面ピースサインをつきだして笑う楓を、溜ひどく複雑そうに眺めやったのは、ユーリ・ペトロフだった。司法局から、直に拉致されてきたのだろう。着込んだスーツとネクタイに乱れはなく、ヒーロー管理官はやや気まずそうに少女の背後に控えている。持っている紙袋から、ルナティックのスーツと仮面が見えているのがひどくシュールだった。ヒーローたちは一応、ルナティックの正体を知っている。知っているが、それにしても、なんというか、これはない。楓お前なんてことを、とヒーロー一同の意思を代弁して呻く虎徹の隣で、バーナビーは警戒気味に、少女が引っ張ってきたもう一人を見つめた。もう一人は、エドワードではなかった。虎徹よりもっとずっと年上に見える、壮年に片足を突っ込んだ年代の、ひどく落ち着いた態度の男だ。すらりとした痩身は鍛え上げられた鋼の印象でありながら、愛嬌のある笑みが不思議と親しみやすい雰囲気を演出している。その男を、バーナビーはどこかで見たことがあるのだった、それも、わりと頻繁に。他のヒーローも同じであるらしく、楓がつれてきたもう一人をしげしげと眺めては、どうしても思い出せない旧知を訝しむ雰囲気で、口を閉ざしている。楓は能力の発動を解くと、引っ張ってきた二人から手を離し、ヒーローたちに向かってじゃあ紹介します、と言った。押しの強さがともえちゃんそっくりだよぅ、とぐする父親の声をまるっと無視して、楓はまずユーリを指し示した。
「こちらは、匿名希望のNEXTさん! 顔と名前に覚えがあっても、匿名希望だから知らないふりをしてください」
「……分かった。エドワードでしょう。その力技の無茶ぶりで楓ちゃんに入れ知恵したの、エドワードでしょう……!」
ぎりぎりぎりぎり、全力で胃がひきしぼられているような苦痛を感じながら、イワンは恐らく病室から動けなかったのであろう親友の顔を思い浮かべる。楓は、愛らしい笑みを浮かべて一度だけ頷いた。ひらり、と動いた手がもう一人を指し示す。
「そして、もう一人は」
「ああ、いい。自分で言うさ……まったく、このお嬢ちゃんのやり方には心底驚いたが、考え方としては悪くない。一線を退いた老兵でよければ、いくらでも力を貸すぜ? 現役ヒーロー」
「……え? あ、あれっ? もしかして……!」
はっとしたカリーナが、男を指差して立ち上がる。その反応を可愛がるように笑い、男は背筋を正し、よく響く声で、かつて己が名乗っていた名を告げた。
「ステルスソルジャーだ。……よろしくな?」
ところでそのヒゲ、俺の真似じゃねぇか、とにかりと笑い、男は虎徹を見ながら己のあごに手をやった。そり残しにしては特徴的な、ネコのシルエットのようなヒゲが、ステルスソルジャーには一匹、虎徹の顎には二匹いる。格好良くも可愛くもないよね、と告げる楓の頭をぐりぐりと撫で、壮年の男はおかしげに、少女の顔を覗き込む。
「男のおしゃれには理解を示した方が良い。良い女の条件だ」
「……素敵なヒゲね?」
「笑顔で言えりゃ満点だ」
良い女に育てよ、と楓の頭をぐしゃぐしゃに撫でる手から逃れ、少女はもう、と洗面に駆けこんで行った。その隣で、ユーリがはぁ、と溜息をつく。
「セクハラで訴えますよ?」
「お前が何歳までおねしょしてたかバラすぞ? ユーリちゃん」
「これだから、あのひと世代のヒーローは……!」
それこそセクハラでしょう、と吐き捨てるユーリに、壮年の男はしばし考えこんだ。嫌な予感がしたのだろう。それでは私は着替えますので、と何処へ逃れようとするユーリの頭に手を置き、ステルスソルジャーはヒーロー管理官の髪をぐしゃぐしゃに撫でた。ばさ、と音を立ててユーリの手から紙袋が落ちる。
「……な、なにを……しているんですか」
「眉間にシワ寄ってたからよ、撫でてやろうと思って」
「私を今年いくつになったと思って……ああ、もう、いいから! 私が着替えている間に、誰と行くか決めておきなさい!」
トイレをお借りします、と告げるユーリにぎこちなく虎徹がその位置を指で示すのと、赤いリボンを結び直し、楓が足早に戻ってきたのが同時だった。室内のなんとも言えない雰囲気に、楓はきょとんと首を傾げる。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ。大丈夫」
力ないバーナビーの言葉に、楓はふぅん、と不思議そうに呟き、テーブルの前に座るとぱちんと両手を打ちあわせた。いただきます、と呟き、残っていた料理を猛然と口に運んで行く。あ、食べている間に誰が一緒に行くかとか決めておいてね、と告げる楓に、ヒーローたちはかすかに笑い、力なく頷きあった。