彼を敬愛するセリーナがもしこの場にいたのなら、泣きすがってでもキースがスカイハイとなることを止めただろう。それ程、ポセイドンラインの技術室に辿りついたキースの状態は悪かった。他の七大企業がそうしたように、技術者たちは一室に籠城を決め込み、ひたすらにヒーローの訪れを待っていた。ポセイドンラインは、他社に比べて熱狂的なワーカーホリックが少ない。そして、その情熱はまっすぐであり、脱線しない傾向にあった。すなわち彼らの情熱はスカイハイにのみ向けられ、会社のセキュリティを難攻不落の籠城レベルにしてみたり、パワードスーツの攻撃にも数十分は持ち堪えるような強固な火災防壁に改造してみたり、社の技術を利用して、技術者自らが侵入者の掃討に躍り出たり、ということをしなかったのである。ごく常識的で一般的な感性により、己の無力さを認めた上でヒーローの到着を待った彼らの判断は、誰にも責められるものではないのである。例え時に戦闘を避け、時にパワードスーツを破壊しながら単身で飛び込んで来たキースが、右腕の骨を折り、切り傷と擦り傷を至る所に作った、重傷一歩手前の状態であっても。彼らの判断を間違っていたと怒るのは、恐らく、セリーナくらいなものだろう。あああああなたたちなにしていたんですかーっ、とひっくりかえった声で叫ぶであろう女性の姿を想像しながら、技術者たちは痛みを堪えて息を吸うキースに、恭しくも丁寧な仕草でヒーロースーツを着せて行く。
折れた右腕には添え木を添え、しっかりと包帯で固定する。傷はどんなに小さなものでも消毒し、ガーゼをあて、その上かた手をあてた。人の体温は、ほんのすこし、痛みを遠ざけてくれる。緊急用に持っていた鎮痛剤が効きはじめたのだろう。ほっと息を吐いて微笑み、キースはかいがいしく世話をしてくれる技術者たちに、ありがとう、と言った。
「ひとりでは着替えられない所だった。助かるよ。とても、助かる。……だから、そんな顔をしないでくれないか」
「……ですが」
「いいんだ。私は、君たちが怪我をせず、一人も欠けることなく、私を待っていてくれたことが……本当に、嬉しい」
それに、と言ってキースが仰ぎ見たスクリーンには、様々な情報が映し出されていた。シュテルンビルト全域の現在の状況と、上空を飛ぶヘリコプターの位置が光点で示され、リアルタイムで更新されていく。階層を支える柱にはかつての事件と同じようにパワードスーツが配置されていることを、キースはここに来てはじめて知ることができた。七大企業の現在の状況も、少しずつ更新され、見る間に情報が流れ込み、増えて行く。ポセイドンラインの技術部は、ほぼ全員が完全な無傷で籠城したことにより、どこよりも早く体勢を立て直し、整えることに成功していた。トランスポーターも、すぐ動かせるようになっているという。すぐに飛び立つつもりのスカイハイが、トランスポーターを利用する機会はないかも知れないが、それは必ず他のヒーローの力になってくれる筈だった。彼らは、なすべきことをした。悔やむことは、一つとしてない筈だった。
「君たちのおかげで、私は次になにをすべきか考えることができる。素晴らしいことだ。……他社に連絡は取れたかい?」
「クロノスフーズが、先程。……ロックバイソンは、無事に到着し、すでに出動準備が整っているそうです」
「やあ、それは素敵だ! バイソンくんが居てくれるのは心強い。……ヒーローTVは、どうかな」
連絡が通じたかとの問いかけに、通信担当が無言で首を振る。避難が間に合ったようで、無事ではいるそうなのですが、と口ごもる情報源は、街に散らばったタクシーの運転手たちだろう。目撃情報、というこの上なく主観的なものであるが、この場合は信じるしかない。そうか、と頷き、キースは復活する兆しのないPDAに視線を落とした。これがどういう仕組みで動き、またいかなり理由で電源を回復させてくれないのか、キースには全く分からないが、せめてこれが使えれば、と思った。素直に、口に出して問いかける。
「PDAは、いつ使えるようになるかな?」
「……オデュッセウスの、復活待ちになります」
つまり、ポセイドンラインの努力ではどうにもできない所にあるものらしい。そうか、と残念がるキースに、技術者たちは落ち込んだ表情で肩を落とした。その間も情報収集と、通信手段の復旧などの手は止めないのだから、彼らはまさにプロフェッショナルだった。キースは、彼らの仕事ぶりを見るのが好きだったから、つい笑みを浮かべて体の力を抜いてしまう。ずきりと痛む体の悲鳴は、そっと、意識の外に追いやった。
「そういえば、セリーナくんや……他の、休みだった者は、ヒーローズバーで待機しているよ。他の企業の技術者たちも一緒のようだ。もし、通信がすこしでも回復しているのなら」
「繋いでみます。……ああ、妨害されてる……っ!」
さっきはもう少しもった筈なのに、と舌打ちをする様子を見ていると、状況が代わり続けていることが分かる。上空を旋回するヘリは移動し続けていて、スクリーンの光点が正しくそれを捕らえているのなら、今はアポロンメディアの横あたりを通過している筈だった。すぐに出動して叩き落とすには、まだ距離がある。どうするのが一番良いだろう、と考えるキースの体に、不意にずっしりとした重みが加わった。慣れた重みだ。ジェットパックが取りつけられたのだろう。軽く振り返って確認し、キースはもう動いても良いかい、と着付け担当に問いかけた。ジェットパックの位置を微調整しながら、担当の青年は神経質な声で、とんでもない、と言った。
「まだお待ちください。……せめて、もう一人、二人くらい。準備が整ったと、こちらで確認が取れるまで」
「……私の怪我を心配しているのなら、大丈夫だよ」
これくらいの怪我なら問題なく飛べる、と言ったキースに、青年は無言でジェットパックを外そうとする。ジェットパックはあくまで、加速力をあげる補助装置だ。無くても十分飛べるものだが、この状態で機動力が下がるのは死にに行くに等しい。意地悪をしないでくれないか、と眉を寄せるキースに、青年はこちらの台詞です、と冷静に怒りに揺れる目を向けた。
「怪我をしていることが、問題なんです」
「……そうかい?」
「そうです。スーツがあなたの体を守りますが、それでも限界はある。急加速や急停止、上下動に……耐えきれるか」
今からでもちょっとスーツをいじっていいですか、と問いかける青年の目は真剣だった。十五分でいいので、とマントを剥いで上着に手をかけられるのに苦笑して、キースは十五分なら、と囁いた。それで君たちがほんのすこしでも安心を増やし、私を送りだしてくれることができるなら。いいよ、と告げるキースに、青年は苦笑いをして。ありがとうございます、と言った。
ファイヤーエンブレムは、会社に足を踏み入れた瞬間から、己の技術者と共に戦い抜いた。その姿は傍になくとも、確かに彼らはヒーローに寄り添い、その力となったのだ。なにせネイサンがヘリオスエナジーに足を踏み入れた瞬間、社内放送から流れてきたのは可愛らしい社員の歓声と拍手だったのだから。一瞬、式典会場に遅れて登場した主役の存在かと己の存在を思い間違うような、熱狂的な歓迎の意思だった。お待ちしておりました、お怪我がないようで安心しました、これより我らがサポート致します、どうぞお進みください、と恭しく紡ぎだされる声は全てが歓喜の涙を孕んでいて、ネイサンはやぁねえ、と監視カメラの映像を遮るようにしなりと手を振った。柄にもなく、涙ぐんでしまいそうだった。彼らのサポートにより、ネイサンはある意味では取り立て苦もなく社内を進むことができた。デザインに一目惚れして購入したインテリア、とある記念として送られて飾ってあった絵画や、広々とした印象を与える高い天井の廊下、そこに敷かれた絨毯からなにから全てが焼け焦げ、無残な状態で再購入を余儀なくされる状況であったことに、ふつふつとした怒りが湧きあがる。道々、封鎖されていた筈の扉が開き、ひょこっと顔を出した社員が負傷した顔を明るく輝かせ、おかえりなさいませ、と声をかけてくるのにも心が落ち着かない。五秒後、前方からパワードスーツが来ます、との報告を耳にしながら、ネイサンは体の近くに炎を纏わせた。カウントダウンと共に出力をあげ、視界の隅にそれが姿を現した瞬間、全力でもって叩きつける。無礼ものは、すぐ動かなくなった。
燃える鉄くずと化したそれの隣とヒールを鳴らして歩きながら、ネイサンはさすがですわぁ、と溜息をつきながらサポートの声を響かせ続ける技術者に、報告を続けなさいな、と言った。はぁい、と幼稚園児のように幼い返事を響かせ、ハリー・デイライトは滑らかな歌声のように、人の耳に麗しく馴染んで行く妙なる声の響きで、己のヒーローの要求に従った。ヘリオスエナジーの襲撃における被害者は、多いとも言えないし少ないとも言えない。会社が直接テロリストの危険に晒されたことを考えれば、死者重軽傷者合わせて二百人ちょいで留まっているので、よおさん頑張ったと思いますわぁ、とハリーは言った。ネイサンは、時々、この己以外の全てを他人事のように捕らえて発言する副主任をひっぱたきたくなるのだが、それは同僚も同じであったらしい。頑張ってないです、人類に対してもっと優しい発言を心がけてくださいっ、と怒鳴られ、なにかにぶつけられたか叩かれたような音がして、しばし発言が途切れる。しばらくすると復活したのか、痛かったですわぁ、とため息交じりの声が全館放送で流れ、反省しているのかしていないのか分からない声が、あくまで穏やかな雰囲気で空気を揺らした。
『そうは言いますけどなぁ、本当に突然の出来事だったんですよ? 寝てたトコを、あぁんな物騒な目覚ましで起こされたこっちの気にもなってみてくださいな。おかげで、パジャマに白衣で着替えに行く余裕も与えてもらえん。これなんてイジメどす? もー、はやく帰って寝たいですわー……』
本気で眠そうにあくびをするハリーのここ数日の睡眠時間、というか体が限界を超えて脳が意識を強制シャットダウンに追い込んだ昏倒時間は、平均にして一時間程度であった筈だ。そろそろ死ぬ気がするんで、二十四時間は起こさないで寝かしておいてくださいなー、という宣言をしたのが十時間とすこし前なので、本気で叩き起こされたのだろう。だるいんですわあぁ、となんだか泣きそうな声が、しょんぼりと響いた。
『それなのに、こぉんなに頑張ってお仕事してるんです。そろそろ誰か褒めてくれてもええと違います? あ、三秒後に前方から撃たれますので、左に避けてくださいな』
ぶつくさ文句を言われながらこともなげに付け加えられ、ネイサンは彼の能力に苦笑しながら、言われるままに壁に身を押しつけるようにして左に寄った。直後、体の傍を銃弾が抜けて行く。自走式の機関銃はその機体をゆらりと揺らし、僅かに不満げに見えた。なにかに全力で上から押さえ付けられているかのように、ぎしりぎしりと緩慢な動きを見せるそれを、ネイサンは全力で焼き払う。はー、と溜息の音が響いた。
『今ので最後ですー。あとは直進、左折、道なりに進んで技術室まで来てくださいなー』
「……思ったより数が少ないようだけど?」
『お仕事しましてん。数がいくらか残ってしまって申し訳なかったですわ。セキュリティ担当としては、残念な結果でお詫び申し上げる次第です。お手数おかけしました』
なるべく意識を保っていられる間に来てくださると幸せなんですけどなぁ、とのんびり告げるハリーに、ネイサンは思い切り苦笑した。起きていられる間にネイサンが到着できるかどうかなど、能力発動中のハリーには手に取るように分かるだろうに、読み取りもせずにそんなことを言う。ヘリオスエナジーの技術者、ハリー・デイライトは『希少種』と呼ばれるNEXTのひとりだ。迫害時代の恐ろしさを思わせるその呼び方は、彼が二種類の能力を同時に持つことができるNEXTである、という事実を示している。『希少種』の中には三つ四つ使える者もいたらしいのだが、すでに命を落としており、その名で呼ばれる存在も、現在のシュテルンビルトにはハリーしかいない。彼の能力は、対象範囲内の未来予知と、指定した物体の重力質量を狂わせることである。先程、自動小銃の動きを教えたのが前者の能力、緩慢な動きをさせたのが後者の能力だ。口ぶりから察するに、ハリーはヘリオスエナジーが襲撃されてからずっと、能力を多重展開し続けているらしい。その能力ゆえ、社のセキュリティを任されている身として、侵入されたことがもう嫌で仕方がないらしいが、彼の職業はあくまで技術者である。
こうした有事にのみ能力を発動し、侵入者を排除する役目を割り振られているだけで、社が危機に晒されたのはハリーの責任ではない。あなたは頑張ってくれたわ、と労うネイサンに、ハリーはそう言ってくれるのはありがたいと思っておきますぅ、と拗ねた声で返事をした。
『せっかく恩返しできるチャンスやと思いましたのに、満足にできなくて不満ですわぁ……。それにしても、ウロボロスさんは分かっとりません。バックヤードを襲撃してくるだなんて、ルール違反やないのです? 昔から、特撮でも変身シーンでは攻撃をせずに温かく見守り、決め台詞を言っている時は厳かに清聴し、必殺技を繰り出す時にはその動きを最後まで見てから避けるなりあたるなりするのが悪役のルールとマナーというものですわー。これだから最近の若者はあきまへんのや。教育の質が知れますわ。ゆとり言うやつですのん?』
「そうねぇ、あなたはそろそろ寝た方がいいわねぇ……」
溜息混じりのネイサンの言葉や背後の頷きにも、ハリーは揺らがず、人の話を全く聞いていなかった。そうですよなぁ、悪役の美学というものを貫くべきですよなぁ、と一人で誰かと会話している分に、本当に本当に限界が近いらしい。あと五分でも遅れたらマズかったわねぇ、と思いながらネイサンが技術室の扉を押し開くのと、全館放送がぷつりと音を立てて終わりになったのは、同じ時だった。ネイサンの背後で、扉が閉じる。そこに立っていたのは、白衣を着た技術者たちだった。部屋の一番奥には、ファイヤーエンブレムのスーツがマネキンに着せて飾られている。それぞれ腰から折る一礼でもって歩んで行くネイサンを見送る技術者たちの間から、ひょこりとハリーが顔を覗かせた。顔色が紙のように白くなったハリーは、眠気と疲労で、もう立っているのも限界なのだろう。同僚にしがみつくようにして体を起こしてふらついていたのだが、ネイサンが目を向けると、微笑んで手を離し、一人の足で立ち直した。す、と頭が下げられる。
「おかえりなさいませ、ファイヤーエンブレム。うつくしき炎」
「お待たせ、私の可愛い技術者ちゃんたち。……ハリーは何日休暇が欲しいかしら?」
「……二日か三日、起こさないでいてくれたらそれでいいですわ。冬眠しますんで、今度こそ眠らせといてな?」
それで、起きたら病院に行って異常が出てないか検査もします、と告げるハリーに、ネイサンはしっかりと頷いた。NEXT能力の多重発動は、それだけ身体に大きな負担がかかる。苦もなく行っていたジェイクが規格外なのだと話すハリーは、ネイサンの労いに、嬉しそうに微笑んだ。
「どうぞ怪我なく、いってらっしゃいませ。……皆、あとは頼んだで? 最高のコンディションで、送りだしてあげてな」
「おつかれさまです! お休みなさい!」
「安眠まくらがこちらです!」
ふらんふらんどころか、ぐらんぐらんと体を揺らして今にも倒れそうなハリーに、走り寄って来た技術者の一人が枕をおしつけた。んん、と半分目を閉じながらまくらを抱きしめたハリーの腕を引っ張って、一人が専用の睡眠室へ導いて行く。途中で倒れても運べるように、さらに二人が追って行った。頑張ってくれたわねぇ、と笑うネイサンに、静かに寄り添うものがあった。オールバックに眼鏡をかけた壮年の男に、ネイサンはうふん、としなをつくってウインクをする。
「あなたの評価はいかがかしら? 事業部長」
「八十点という所でしょうか。スーツをまとわぬ状態のあなたさまに戦闘行為をさせたのがマイナスです。ですが……襲撃と同時に跳ね起き、瞬時に能力を全開発動。怪我人の為の活路を開き、一般社員を数部屋にわけて立てこもらせ、技術社員をこの部屋へ導いた。……そこから数時間、発動しっぱなしだったことを考えて、九十点にオマケしておきましょう」
「厳しいこと」
百点じゃないからハリーは泣いちゃうわね、と笑うネイサンの言葉に、技術者たちは苦笑いして頷いた。百点じゃないってどういうことですのん、と床に倒れて泣き伏す副部長の姿が、ありありと想像出来た。くすくすと緊張感のない忍び笑いを響かせる雰囲気を、さて、と呟き一つで切り替えて。ネイサンはしなやかな指先を、ファイヤーエンブレムのスーツに伸ばした。
「これを着て、行くわ。準備は終わっているわね?」
「はい。ファイヤーエンブレム。すべて、つつがなく」
「ありがとう。……あら、まだこんな時間なのね」
長い一日になりそうだこと、と笑うファイヤーエンブレムの視線の先、時計がカチリと音を立てて十二時を示した。ウロボロスが提示した時まで、残り三時間のことである。
ステルスソルジャーは、パオリンにとって馴染みのある存在ではなかった。彼は元ヒーローであり、現役のコメンティエーターである。辛口で毒舌のニュース解説やヒーローに対する講評は年齢を問わず人気があるもので、雑誌にたびたび対談が組まれているのは知っていた。けれども彼は憧れの存在ではなく、元関係者、という認識が外れることはなかった。パオリンは元々、シュテルンビルトの生まれではない。だからこそいわゆる、レジェンド世代と呼ばれるようなファンの気持ちも分からず、彼らの功績を尊ぶこともした記憶がなかった。セピア色の映像は胸の奥にある懐かしいなにかを呼び起こすだけで、虎徹のように目を輝かせて魅入ることはなかったのだ。つまりパオリンは、ステルスソルジャーについて、新参のヒーローファンより知識を持たない状態だった。佇まいから今でも体を鍛えていることが分かったし、身のこなしもスマートで安定していることから、これならなんとかなりそうだ、と安心したくらいだったのだが。数十分前の己の判断を、パオリンは完全に誤りだったと認めていた。なんとかなりそう、というレベルではない。ステルスソルジャーは完全に、パオリンに仕事をさせなかった。まず、会社に突入する前、ステルスソルジャーは少女に目線の高さを合わせて言い聞かせた。お前さんが俺に詳しくないってことは十分に分かってる。だが、現役でも元でもなんでも、同じヒーローだ。不安になるな。ただ、俺を信頼しろ、と男は告げた。
レジェンドが有名になりすぎたせいで、彼らの世代の、他のヒーローに対する知名度は低い。ステルスソルジャーこそ、立場をあかして顔を晒すことで現在の職を手に入れたこともあり、まだ存在は認識されている方なのだが、それでもジュニアスクールに行き、ヒーローファンを自称する少年少女に問うた所で、知っていると頷く者に巡り合うのは稀だろう。完全な世代交代が行われた、二世代も三世代も前の元ヒーロー。その男の言葉をうのみにするのは危険なことだとパオリンは思ったが、ステルスソルジャーの目はあまりに真剣で、少女に頷く以外の道を与えてはくれなかった。不承不承、分かったよ、と頷いたパオリンに壮年の男はにかりと笑い、少女をひょいっと抱きあげてしまった。抗議の声をあげる間もなくパオリンすら巻き込んで発動された能力が、初めはどんなものであるのか分からなかったのは、その効果故だろう。ステルスソルジャー。隠密の兵士と名をつけられた彼の能力は、完全なる熱光学迷彩である。主観的な変化はとりたててあるものでなかったから、パオリンはその恐ろしさを、はじめ理解することができなかった。見えない移動というのなら、やり方は違うがエドワードにも可能なことだ。目的地へ直線で進むことが可能なエドワードと違い、ステルスソルジャーはあくまで作られた道を歩んで行くしかない。
それは焦れるパオリンにしてみれば遠回りにも感じ、パワードスーツと正面から出会えば、戦闘は己が担うのだという緊張を生み出させた。抱きあげた状態であるから、ステルスソルジャーも、パオリンが決して油断していないことは、すぐに分かっただろう。しかし彼はなにも言わず、ただ少女を守護しながらヒーロースーツの元まで辿りつかせる、というサポーターからの要請を忠実に実行した。はじめにパオリンが違和感に眉を寄せたのは、パワードスーツと自走式機関銃のどちらもが、二人に対してなんの反応もしなかったことだった。熱光学迷彩なので熱源感知も問題なくすり抜けられるらしい。ステルスソルジャーはパオリンを腕に抱きあげているとは思えない普通の足取りでそれらのすぐ傍を通り抜け、武器がありゃあなぁ、と苦く笑った。銃でも剣でも、なんでもいいんだが。
「なんか持ってれば、壊しながら進めるんだがよ。とりあえず通り抜けるってことで勘弁してくれな、お嬢ちゃん」
「ボク、パオリンだよ。……ステルスソルジャーのおじさん、本名はなんていうの……?」
「んん? そうだなぁ、ベッドの中でなら教えてやれるんだが……まあ、好きに呼べばいい」
メディアに登場する時も、雑誌の対談で誌面に現れる時も、彼は一貫して元ヒーロー、ステルスソルジャーであることを貫いていた。本名はヒーロー活動中からがんとして公開されぬままで、ニュースキャスターもコメンティエーターとしての彼のファンも、男を呼ぶ名はひとつだけだった。ステルスソルジャー。くっくっ、と喉の奥で笑いながら誤魔化す壮年の男に、パオリンはまたそういうこと言って、と頬を膨らませる。
「ボク、ユーリさんに、セクハラされたらパワードスーツの前に蹴って良い、って言われてるんだよ?」
「蹴りだされたらさすがに……壊さないと怪我すんなぁ」
めんどくさい、としか思っていない口ぶりである。そもそも逃げるという行為が選択肢に入っていない時点でちょっとおかしいが、パオリンがそれを口にすることはなかった。不意に、頭を庇うようにぐっと抱き寄せられたからである。なに、と囁くパオリンに顔をあげるな、と、動くな、という低い命令を発し、ステルスソルジャーは現れたパワードスーツを睨みつけた。それは見かけ上、他のパワードスーツとなんら変わる所は見られなかった。しかしその一台は確実にステルスソルジャーとパオリンの位置を捕捉している動きで、じりじりと距離をつめて攻撃の体勢を整え始めている。数歩下がればそこに別のパワードスーツがいる状況で、廊下はせまく、逃げるにしても距離が近すぎて追いつかれるだろう。ボクが、とパオリンが能力を発動させる気配に、ステルスソルジャーは一言、止めろ、と言った。毅然とした拒絶だった。怒られた訳でもないのに、パオリンはびくりと身を震わせてしまう。相手を強制的に従わせる威力に満ちたそれは、ある種の王者の声だった。聞き入れなくてはいけない、と反射的に思わせる声だ。驚いて硬直するパオリンの背をあやすように撫で、ステルスソルジャーはにっと笑う。
「よし、いい子だ……。落ちないように捕まっとけよ? しっかりだ。まあ、落としゃあしないが……念のためって奴だな」
ぎゅうぅ、とパオリンを抱く腕に力が込められる。すこしだけ息苦しい、とパオリンが思った次の瞬間った。だんっ、と強く床を踏み切った足が、二人の体を宙へ舞い上がらせる。鍛え上げられた脚の力だけで二人を捕捉したパワードスーツの上まで跳躍し、ステルスソルジャーは厳かに言った。
「お前は、運が悪かった。……諦めな?」
疲れるが仕方がない、と呟いた言葉の意味を、パオリンは結果を目にすることで知った。パワードスーツに無造作に回し蹴りを叩きこんだ男の、その足先の軌跡を追って、空間が一瞬だけ歪みを孕む。氷が割れるような音はかすかで、注意しなければ聞き取れなかった。ストン、と軽い音を立てて廊下へ降り立ったステルスソルジャーの背後で、パワードスーツが二つにずれて行く。ナイフでケーキを切り分けるように両断されたパワードスーツは、激しい放電をあげながら廊下に倒れ、やがて全く動かなくなった。ふー、と息を吐きだしたステルスソルジャーは、己の成した結果を振り返ることなく、またパオリンを抱き上げたまま進んで行く。ぎょっとした少女は、壮年の男の背をばしばしと叩き、痛がらせることで歩みを食い止めた。
「……なんだ、どうした?」
「それは、こっちの……ボクの台詞だよっ! なに今のっ!」
「ん? 見て分かんなかったか? おじさんなぁ、パワードスーツを蹴って切ったんだ。オーケイ?」
それだけ言って、また粛々と歩みを進める男の横顔は笑っていて、それ以上の説明をする気がないようだった。それくらいのことなら、パオリンだって分かっている。ただ、蹴ったと切れたがどうしても繋がらないだけだ。ちょっとさあ、と声を荒げるパオリンに、ステルスソルジャーはやれやれと息を吐く。
「なんだよ、一回見たことあんだろ? 能力の転用だ」
「……こんなの、見たことないよ」
「あんだろ? ジェイクがバリアをビームにして打ち出してた。あの技術と同じだ。……いまのヒーローは大人しいからなぁ、能力を変則発動させねぇもんな。……わかんねぇか」
俺たちの現役時代なんか、仲間内で変則発動が流行したからひどかったぞ、とニヤニヤ笑う男を眺め、パオリンははじめて、彼のヒーローネームを思い知る。ステルスソルジャー。彼は確かに兵士、戦う存在なのだ。
「能力の見極めってのはな、本当に大事だ。……お前さん、ちゃんと調べてもらったことはあんのか?」
「……ない、かも」
「だろうなぁ……いや、それはな、俺たちがいけねぇんだ。レジェンド時代に、ちょっとばかり事故があって……いまは環境も整ってて、理解者も多い。一回調べてもらえ。損はねぇぞ」
パオリンの頭をぽんぽん撫でながら歩いてくステルスソルジャーの声は、明るく、優しいものだった。パワードスーツも、熱光学迷彩を突破できる機能がついていたのは一台だけだったのだろう。あとは奥へと突き進む二人に反応することなく、不気味な沈黙を貫くか、ぐるぐると場を巡回しているプログラム通りの反応をするものしかいなかった。
「俺の能力は、光を完全に透過させ、回折させつつ……赤外線領域までを同時に動作して、熱光学迷彩反応を起こすもんだ。科学は得意か? ドラゴンキッド」
「……あんまり。なに言ってんのか分かんないよ」
「そうだなぁ……光の屈折とか、反射は分かるか? おおまかに言うと、そういうもんを操作して目に見えなくさせつつ、暗視装置やらサーモグラフィー装置の目からも存在を誤魔化せるって能力だ。たまーに今みたいな、それでも感知しちまう優秀なのがいるが、まず見破られるもんじゃねぇ」
難しくて、俺も説明してやれる程にはちゃんと分かってる訳じねぇんだけどな、と笑って、ステルスソルジャーは歩き続ける。もう程なく、目的地へ辿りつくだろう。進む足取りは変わらず、一定のリズムで靴音が響いている。
「で、さっきのはその能力の応用編ってヤツだ。光の屈折をさらに曲げて、一カ所に集中させて、法則性を持たせてから、足の軌跡に乗せてぶった切った。まあ、いわゆる一つのレーザービームってヤツだな。格好いいだろ?」
あれができるようになるまで三年努力した、と笑いながら語り、ステルスソルジャーはドラゴンキッドの頭を撫でた。
「俺たちん時は、まだ差別もひどくてな……。ヒーローの為に一生懸命に動いてくれる技術者連中なんてもんは、そういるもんじゃなかったんだよ。身を守れるのは自分だけみたいな状況ん中……このシステムが続いて、うまーくNEXTが受け入れられるようになりゃ、後輩どもはもっと生きやすくなるって、そんな夢みたいなことばっかり考えながら毎日生きてたもんだ。お前たちは、俺たちの夢を実現してくれてる。毎日毎日、馬鹿みたいに人助けして、ありがとうって言われてなぁ。辛いことたくさんあっても、そんだけで十分だよなぁ……こら」
そんな顔で行ったら保護者どもに心配し倒されるぞ、と苦笑して、男は顔をくしゃくしゃにして泣くのを我慢しているパオリンの為に、そっと歩くのを止めにしてくれた。
「どうした? ん?」
「ボク……最初、不安だったんだ。ステルスソルジャーなんて昔のヒーロー、本当に大丈夫なのかなって」
「そんな顔してたなぁ」
全く気にされていない風に笑われて、なおパオリンはきゅっと胸を絞られてしまう。男は初めから、それを期待しないでいたのだ。全く、これっぽっちも希望を抱かずに。それでもパオリンの為に惜しみなく、その能力を使ってくれた。今も少女を抱き上げる腕は、安全な場所に辿りつくまで靴底を床につけるのをよしとしないよう、パオリンをがっちりと固定している。心臓の音が聞こえてしまいそうな距離だった。パオリンはなんとか息を吸い込んで、ステルスソルジャーの目を覗きこむ。
「……ごめんなさい」
「ああ。……ほら、そんな顔すんな、ドラゴンキッド。お前さんにはこれから、大仕事があるんだからよ」
歩みを再開し、ステルスソルジャーは真面目な顔で告げた。俺が守ってやるのはそこに辿りつくまでで、そこから先を戦うのは自分でしなければいけないのだ、と。
「ただ、味方はしてやるぜ? 手も口も出さないで、見てるだけだが……俺は、お前の味方だ。ドラゴンキッド」
「……どうして?」
そこに、辿りつく安全な場所である筈の技術室、出迎えてくれる技術者に、どんな試練があるというのだろう。予期せぬ不安に息をつめながら、パオリンはステルスソルジャーに問いかけた。壮年の男は口元を緩ませ、決まってんだろ、と笑った。
「可愛い後輩の味方をするのが、先達の義務ってもんだ」
だから、頑張れよ、と言って。ステルスソルジャーは能力の発動をとき、辿りついた一室の扉をノックした。
室内には、幼い姉妹の寝息が響いていた。光さす窓辺からそれを眺め、頬に黒い蝶のタトゥを刻んだ女性は、ごく穏やかに微笑んだ。大丈夫だからね、と囁き声が、落ちる。
「……あなたたちは、ちゃんと」
帰してあげるから、と呟き、女性は窓から空を仰ぎ見て、ヘリコプターを眺める。この街に不安と混沌を蘇らせるのは、なんと簡単なことだっただろう。方法も手段も委ねられたものだが、それをそのまま実行するだけで、なんの工夫もいらないやり方は多少味気ないものだった。仲間はそれにつまらないとくちびるを尖らせたが、女性はたまには楽なのもいい、と思う。
「……さあ、残り時間はすくないわ。ヒーロー。あなたはこの子たちをちゃんと……ちゃんと、助けられるかしら」
くすくす、くす、と肩を震わせて笑い、女性は窓辺から部屋の奥へと移動していく。その冷たい足音は、幼い姉妹の眠りを妨げず。誰にも聞き咎められず、消えて行った。