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 甘やかな花のにおいに包まれて、エドワードは目を開いた。窓から差し込む光で部屋がぬるく暖められていて心地よく、ぼんやりとした意識はしばらく状況を把握させてくれなかった。くぁ、とあくびを噛み殺しながら身を起こし、腕から生えた点滴の管に眉を寄せる。そういえば入院してたんだった、と暢気な息を吐きだして、エドワードは部屋に視線を巡らせた。入院してからほぼ常に少女の存在を抱いていた病室は、今はエドワード一人きりである。病院は七大企業や警察署、消防署などから運ばれてくる怪我人で、上を下への大騒ぎになっていた。医師や看護師が忙しく動き回る物音を遠くに聞きながら、エドワードはなにか大事なことを忘れている気がして、沈黙する。考えて、そもそも寝た記憶がないことに気がついたエドワードは、勢いよくベッドから立ち上がった。能力を発動して点滴の管を引き抜き、枕元に置かれていた書き置きを手に取る。
「あ……の、馬鹿っ……!」
 メルヘンなメモ帳に描かれていたのは、少女らしいちまちまとした文字での伝言だった。心配しないで待っていて欲しいこと、相談して決めた作戦をちゃんと実行してみせるから、帰ったら褒めて欲しいこと、眠らせたことを怒らないで欲しいことが書かれ、鏑木楓、と署名もされている。怒るに決まってんだろうが、とエドワードは低く唸った。少女が一人で行こうとした理由は、エドワードがまだ入院しているからだろう。撃たれた体は臨死体験をしたからかなんなのか、回復が遅く、未だに鈍い痛みを発してはエドワードの動きを制限していた。普段より鈍い動きしか出来ない状況であっては、確かに足手まといになりかねない。現在のような、前代未聞の状況であればなおさらのこと。これ以上怪我をして欲しくなくて、楓はエドワードを眠らせて一人で走って行ったのだろう。よく見ればベッドの傍の棚にはヘリペリデスファイナンス印の、明らかに怪しい小瓶が置かれていて、エドワードの口元に生温い笑みを浮かべさせた。キャラメルの箱程度の大きさの小瓶を持ち上げると、ラベルに制作者の名前と効能が、手書きで記載されているのが読みとれる。嫌な予感がしながら視線を走らせ、そしてその行動自体を、エドワードは深く後悔した。世の中には知らないで過ごした方が幸福な事実というものが存在しており、これも確実にその一つだった。心の底からそう確信した。
 ラベルに書かれていた制作者の名前は、予想に違わず『キリサト』である。それだけで得体の知れない毒を飲まされた気分になるのだが、効能の項目になんとも言えない気持ちになるのは、そこに書かれた文面のせいだった。なんで薬らしきものの効能を記載する項目に、『華やかな眠りに! あなたの願いをちょっぴり後押しして、あのひとの意識をノックアウト! 飲み物に混ぜたりすれば効果バツグン。三秒以内に眠りのトリコにできそうです。すこしなら、量を間違えても大丈夫でしょう。安心安全の副作用サポートつき!』と書かれているのか。どこの星占いの文面だ。というか楓がこれを読んだ上で使用に踏み切ったのであれば、エドワードは速やかに楓を捕まえに行き、正座をさせて色々問い正さなければいけない気がした。さもなければ、今後のバディの関係性にも関わってくる。ああもう楓は本当にもう、とぐったりしながら身を起こし、エドワードは訝しげに眉を寄せた。時計を確認する。時刻は、昼の十二時ちょうどを指し示していた。二時間程度眠っていたことになる。
 果たして、あのキリサトの不可解な薬を飲まされて、効能から考えて二時間で目が覚めるものだろうか。答えは不可能の一言だった。あの悪魔の制作物である。三日三晩意識が戻らなくてもおかしくない、と思うくらいにはエドワードはイワンの技術者を理解しきっていた。さてそうすると、他の理由でエドワードは眠りについてしまったことになる。それも、眠ろうとしてのことではなく、意識することのない穏やかさで夢に導かれたことになるのだ。直前まで確かに、楓とヒーローのサポートをどう行うか、ということについて話し合い、助っ人を連れて行こう、という話をしていた筈なのだが。考えながらベッドに座りなおし、エドワードは記憶をよみがえらせようとする。もし楓の仕業でなかったとしたら、不確かなことで少女を怒ることになる。それはしたくなかった。あー、でもなー、あの薬がマジ超怪しいっていうか使ってないならなんでこんな所に置いてあるんだマジ意味わかんねぇ、と頭を抱えて呻き、ころん、と枕に頭をのせるように寝ころんで。視界の端で揺れた赤いリボンに、瞬間的にその記憶をよみがえらせた。
「……ああ、なんだこれイワンの私物か」
 よく見れば小瓶が置かれていた周辺には、折紙で出来た手裏剣や折り鶴が無造作に散らかされていた。なにか役に立つものは持ちこんでいなかったかと棚を探していた楓が、イワンが置き去りにしていったものを見つけ、棚の上に並べて呆れていたのを思い出す。しまったうっかり勘違いして怒るトコだった、ごめん楓、と思いつつ、エドワードはけれどもますます分からなくなった眠りの理由に、眉間にシワを寄せて沈黙した。そこまで体調が悪い訳ではない筈だ。たとえば不意に意識を失ってしまうような状態であれば、エドワードの体は能力の発動を拒むのである。先程、動くのに邪魔だった点滴の管を抜くのに発動した時は、なんの問題もなく能力は動かせた。よしイワンに会ったらとりあえず殴ろう、と思いつつ赤いリボンに手を伸ばし、エドワードはそれで髪を一本にくくってしまう。楓とお揃いのリボンはシンプルな作りであるからこそ使用に抵抗感はなく、エドワードの頭の後ろでちょうちょ結びで落ち着いた。
「んー……? あー、なんで寝たんだっけ……」
 思い出せないが、楓に置いて行かれたというのは事実だった。単純にショックで、エドワードは視線を何処へと流して溜息をつく。別にあの可愛い少女がエドワードが居なくてはなにも出来ない相手だなんて思ったことはないし、そうであればどれ程良かっただろうと考えたことくらいならあるが、楓という存在はもっと自由でしたたかで、思い通りになってくれない存在だ。置いてくのはやるけど置いてかれたことはなかったからなぁ、と息を吐きながら立ち上がり、エドワードは瞬間的にそれを思い出した。あまりに唐突で、自分でなにを思いだそうとしていたのか分からなくなるくらい、よみがえりは鮮やかだった。恐らく問題は、話し合いをしていた時の体勢と場所だろう。詳しく思い出したら保護者に殺されそうな気がしたので、エドワードはひとつだけを心に誓った。楓を膝の上に乗っけて後ろから抱きしめたまま、真剣な会話をするのは止めよう。体温で眠くなる。体が疲れていたこともあってうとうとしてしまったエドワードを、楓がくすくすと笑いながら撫でてきたのも、きっといけない。エドさん、ゆっくりして、眠っていいよ、と囁いた少女はその時点できっと、一人で行くつもりだったに違いない。普段のエドワードであればいくらリラックスしていたとしても、それくらいで眠りに落ちたりはしないのだから。
 深々と溜息をついて、エドワードは処方された薬の中から鎮痛剤を手に取り、水と共に規定量を飲みこんだ。もう二回分、念のためにジーンズのポケットに突っ込み、エドワードは外していたPDAを手首に巻いた。電源はやはり入らないままだったが、そのうち回復するだろう。通信手段だ。持って行くに越したことはない。治療の妨げになるという理由で、首の爆発物は取り外されている。精神的に、体重が五キロは軽くなったような気がした。エドワードは病室の窓を開け、窓枠に足をかけて身を乗り出した。目の前には、飛び移るのに最適な大きさをした木が生えている。よし、とおもむろに頷き、エドワードはためらいもなく、楓を追って病室を脱走した。



 アポロンメディアの不幸は、ひとえに使いものになる技術者の数が少なすぎた点だろう。意識がある者が十五名、そのうち技術者が九名、無傷の者は一人としていなかった。タイガー&バーナビーに対して、ウロボロスがどれ程の警戒心を持っているのかがうかがい知れる執拗な無力化についての作戦は、恐ろしいほど効果的にヒーローの助力を削ぎ落したのだ。アポロンメディアに突入した虎徹とバーナビーは、なんのサポートも得られぬまま、自動で連射される銃の嵐とパワードスーツとの戦闘に叩きこまれることとなった。破壊されつくした社屋は現在位置をあやふやにさせ、遮蔽物の多い状況は身を隠す物が多い代わり、敵となる機械の姿も上手く確認させはしない。二人にとって唯一幸いなことがあるとすれば、それは楓と、彼女にもたらされた青い蝶の存在だっただろう。危険の少ない場所を選び、ヒーローをスーツがある場所まで導く、という設定を受けた蝶は、その役目を忠実に実行した。ひらりひらりと空を泳いで行く蝶を追いかけ、三人はアポロンメディアの奥へと進んで行く。しかし、あくまで危険の少ない場所、である。もはや安全な場所など存在しないアポロンメディアの内部において、道を選んですら三人は、パワードスーツとの戦闘を余儀なくされた。崩落した天井のコンクリートを削っていく銃弾に、能力を発動しようとする虎徹の腕を、楓は強く引っ張って止める。
「お父さん、駄目っ!」
 今使ったら五分は上手く進めるけど、一時間はまたこの状態になるんだよ、と真剣な表情で告げられて、虎徹は無言で相棒に目をやった。じゃあどうすればこの場所を切り抜けられるのか、と焦る虎徹に、バーナビーも焦れた気持ちで沈黙だけを投げ返す。二人の能力の最大の弱点が、五分の発動後に訪れる一時間のインターバルだ。それは過去、二人がどんなに努力しようとも改善しなかった能力的な特性で、脳が体に設定したリミッターであるともされている。身体を強化するハンドレットパワーは、他の能力に比べてフィードバックが大きい。体を生かす為に脳が設定したその一時間を、縮めることはどうしてもできないのだった。また、一時間を挟んでの発動であっても、対直は確実に削られて行く。ヒーロースーツに辿りついてゴールではないのだ。そこから先、彼らは犯人の確保という本番が待ちかまえている。それまで、限界まで発動を引き延ばしていくの努力も、楓がサポーターとして受ける役割のひとつだ。待って、と楓は呟き、父親と養父の腕にすがるよう、抱きついた。
「焦らないで……! これくらい、能力がなくても切り抜けられる筈でしょうっ? 違う? ……ねえ、焦らないで……!」
 ひらひらと、楓を励ますように青い蝶が飛びまわっている。切ないくらい必死の言葉に、虎徹とバーナビーは意図して深く息を吸い込み、できるだけゆっくり吐きだした。銃声はいつのまにか止み、あまりに動きがないことで感知できなくなったのか、機械は音を立てて遠ざかって行く。ほっと息を吐いて、楓はその場にずるりと崩れ、しゃがみ込んでしまった。
「……大丈夫。皆、生きてるよ。絶対だよ……?」
 か細く、己にこそ言い聞かせているような声で呟く楓を、たまらず虎徹は強く抱き締めていた。アポロンメディア社内に、虎徹とバーナビーが危惧したような、生々しい血痕はなかった。破壊されて見る影もない建物と、迷宮に迷い込んでしまったような薄暗い不安感が漂う中で、代わりに目にしたのは倒れ伏し、動かない人々だった。室内の空気は淀み、吸い込んだ気管にちりちりとした痛みを発生させた。指先が痺れ、意識が軽い眩暈を起こす。一呼吸ですら毒となる空気が、未だに残る状況であるなら、数時間前はいかほどのものであったのだろう。室内に踏み込むのはあまりに危険で、楓は泣きながら虎徹とバーナビーの腕を引き、ただただ蝶を追いかけることに専念した。息があることも、脈があることも、確かめてやることはできなかった。彼らの名前を、楓は知らない。だからこそ、呼びかける声もなく、言葉もなく。一度だけ少女は、祈るように『おかあさん』と口にした。震えた声はつれていかないで、と願い、それきり少女は前だけを向いている。タイガー&バーナビーをヒーロースーツのある場所へ導くことだけで、心をなんとか持たせている。そうでなければきっと、歩けないでいるのだ。
「ごめんな、楓……ごめんな、ごめんなぁ……! 連れてこなけりゃよかったな……!」
 親として、娘に見せたい光景の筈がなかった。陰惨な死体を突き付けられるよりも激しく、少女のトラウマをえぐっていくことを虎徹は知っていたからこそ、なお深く、そのことを悔やんだ。それは娘には容易く母の死を思い起こさせ、虎徹には愛する妻の亡骸を、瞼の裏によみがえらせた。
「……私は、自分の役目を果たしに、ここに来たのよ、お父さん。私は……お父さんと同じに、やらなきゃいけないことを、知ってるの。連れてこられたんじゃない、私が来たの」
 だから、そんなことを言わないで。強く父を抱きしめ、告げた楓は苦しげな顔をしていた。辛くて、辛すぎて、息の仕方すら分からなくなってしまった顔つき。
「だから、お願い。私がするべきことを、させて……?」
「……楓」
「バーナビー。……バーナビーさん、頼んでいい?」
 一度目。少女が呼んだ響きは、まだ親しく出会わぬ頃の憧れを帯びていた。それは胸に抱く希望の形で、憧れだったのだろう。尊く輝かせる星を見上げるようなきらめきで、楓は虎徹の腕の中で身を反転させ、バーナビーに囁いた。
「……助けてくれる?」
 少女の手が、バーナビーに向かって差し出される。いつか、何度も、そうしたように。バーナビーは恭しく姫君の手を取り、そっと微笑んで頷いた。
「もちろん、楓ちゃん。……君が望めば、何度でも」
「……うん」
 繋いだ手に、力が込められる。どちらともなく重ねた瞳は、微笑んでいた。行ってきます、と笑うように囁き、楓はバーナビーの能力をコピーする。
「蝶々さん。お父さんとバーナビーさんをお願いね。……まっすぐ、スーツの場所まで、連れて行ってあげてね」
 青い蝶をてのひらの中に閉じ込め、楓はそれをバーナビーに受け渡した。意思など無い筈の青い蝶はぱたぱたと羽根を揺らし、バーナビーの指先に慎ましく留まる。それを安心したように眺めてから、楓は虎徹に向き直り、お父さん、と笑った。
「私のことは心配しないで……って言っても、心配しちゃうだろうから、なるべく早く、迎えに来てね」
「楓……?」
「待ってるから! ……バーナビーさん、お父さんをよろしくね! お父さん、お父さんはワイルドタイガーなんだから……私と、お母さんが大好きなワイルドタイガーなんだから! めそめそしないで! 大丈夫だよ。私、絶対大丈夫だから!」
 ふわり、楓の全身が青白い光に包まれる。止めようとする虎徹から身軽く逃れ、楓はもう一度、心配しないで、と叫んだ。
「大丈夫、私、逃げるの得意なの!」
 タン、と踊るように瓦礫を踏んだ足が、少女の体を瞬く間に父の手から逃れさせた。走り出す背を追おうとした時には、すでに楓の姿は彼方へと走り去っている。パワードスーツが少女を追う音が響き、やがてあたりは静まり返った。
「……虎徹さん」
 絞り出したような声で、バーナビーが言う。
「行きましょう。楓ちゃんがくれた、この五分で」
「……二分で行くぞ。ここからは、もうすぐそこだ」
「じゃ、二分で着替えて、一分で追いつきましょうね」
 よそ行きの微笑みで気分を強制的に浮上させ、バーナビーは虎徹と共に廊下を駆け抜けて行く。いくら崩れ、壊されていても、そこは彼らの慣れ親しんだ社内だった。目指す場所は近く、だからこその悔しさと歯がゆさが、二人の背を突き飛ばしていく。飛び回り、楓がすべて引きつけて行ったのだろう。パワードスーツも歩きまわる機関銃に遭遇することもなく、二人は目指す部屋まで辿りつき、その惨状に息を飲んだ。社内がこれほどまでに荒らされていたのだ。多少は無事でないことも覚悟していた。けれども、目の前にある光景は、二人が予想していたどれよりも悪いものだった。部屋中に、ヒーロースーツの欠片が散らばっている。かろうじて、それだけを理解した。
「……えっと」
 吐き気を堪えるように口元に手をあて、バーナビーがぶるりと身を震わせ、絶句する。虎徹の判断は、一瞬だった。身を翻して楓を追おうとするその腕を、しかし女性の腕が食い止める。視線を向ければそこには、ぜいぜいと息を切らして虎徹の腕をつかむ、女性技術者の姿があった。
「ついてきて、早く!」
「リサ、僕たちのスーツが! ここには予備もあった筈なのに……! 楓ちゃんが、早くしないとっ」
「分かっているわ。遅くなってごめんなさいね、バーナビー。タイガーも、ごめんなさい。ずっと作業していて、ようやく終わった所なの。間に合うかも分からなくて……でも、間に合ったの。大丈夫よ、タイガー&バーナビー!」
 さあ来て、と華やかに笑い、リサは二人を連れて走り出す。廊下をまっすぐに抜けてつきあたりの扉から非常階段に出ると、二段飛ばしで階段を駆け上がって行く。足をもつれさせ、息をきらしながら、リサが二人を連れて行ったのは各部署の不用品を押し込めた倉庫のフロアだった。どことなくカビくさい扉をリサが思いっきり開けた瞬間、中から劇的な声が響く。
『待っていたぞ! タイガー&バーナビー!』
「さ……斎藤さん! うおわああああっ、斎藤さーん!」
『無事だなっ! うん、なによりだ!』
 窓辺に置いた椅子にちょこんと腰かけ、マイクを片手に、彼らの愛する斎藤さんがそこにいた。感激して駆け寄る虎徹に早足でついて来ながら、バーナビーは焦れた様子でリサを見る。
「ここに、なにが?」
「マーベリック。元、うちのCEOが逮捕された事件で、二体、アンドロイドが解体されずに残ったのを覚えている? それをアポロンメディアが引き取って、色々研究していたことを」
 その名に。知らず、身が強張るのを感じて、バーナビーは息をつめた。そのひとを冷静に考えるのに、その名をただ口にするのに、感情をそこに乗せない記憶として処理するのに、あとどれくらいの時間が必要なのだろう。バーナビーは彼に利用されたことを知っていた。幼さに目隠しされた日々は遠く、彼の憎むべき悪行も、それでも今に繋がるNEXTたちの平穏、その礎をひとりで作りあげた功績も、理解していた。彼は己を正義だと信じ、バーナビーたちが掲げる正義の前に敗れたのだ。法という名の正義。守るべき平和の前に、縋るべきものもなく。その男はただ、歴史の闇に名を消した。アルバート・マーベリック。それでもバーナビーに、彼なりの、本物の愛情をくれた男。養父であり、保護者であり、教師であり、導き手であったひと。憎しみだけを思えたら、心はすこし楽だった。あまりに複雑な感情に言葉を失うバーナビーを見つめ、リサは静かに声を響かせて行く。あなたたちのヒーロースーツは、今しがた、失われてしまった。私たちはそれを再生できない。けれど。
「思い出したの。あの時、あなたたちを襲ったアンドロイド。タイガー&バーナビーの姿を模した兵器は……私たちの作りあげたヒーロースーツと、同じ素材で出来ていた」
『正義にこだわるなよ、タイガー&バーナビー! 悪にもこだわるな! それは同じものだ。おんなじものなんだよ。正義も、悪も。そうしたいという人間の強い欲望だ! ただ矢印の向きが違うだけ。それだけのことだ!』
「……これは、彼の信じた正義。そして、私たちが途切れさせた正義よ、タイガー&バーナビー。それでも……それでも、彼が信じた正義を、どうか……あなたたちが繋いで行って!」
 アポロンメディアにはその責任がある、と週刊誌やメディアはCEOの逮捕後、延々と報じ続けた。罪を償う責任がある。腐敗や不正、続けられた犯罪の責任を、アポロンメディアはとらなければいけないと。バッシングされながら、タイガー&バーナビーはヒーロー活動を続けてきた。人の世に流される噂のように、やがて悪意は薄れ、言葉を耳にする機会も無くなっていたけれど。技術者たちは、それを忘れなかった。あの日の夜、アポロンメディアの技術者たちがそれを目にし、感じたのは深い絶望と怒りだった。彼らの正義が悪の形となり、守るべきヒーローに襲いかかる悪夢だった。今、それが希望に変わる。
「力なんてそんなものよ。人が作りだした力なんて、そんなもの。自由なの! 自由に意思とかたちは変えられるの!」
『さあ、これが新しいスーツだ! タイガー&バーナビー!』
 そこにあったのは、夜の色をした希望のかたちだった。二人が見慣れたタイガー&バーナビーのスーツは白が基調となったものだが、対のように、スーツは黒を基調とされていた。クリアパーツの色は変わらず、ワイルドタイガーがライトグリーン、バーナビーのものはクリアピンクで分かりやすい。胸元の兎のロゴもそのまま移植されていて、違うのは基本的な色のみに見えた。近くによってまじまじ眺めると、細かい箇所が記憶にある己のスーツと異なっているのが分かる。それでも取り立てた違和感を持たないのは、短時間で改造しきった斎藤さんとリサの努力が実ったからなのだろう。震える手でスーツに触れ、バーナビーはなんの感情にか、首を振った。
「……これを」
「着てくれるわね? というか、他に選択肢がない訳だけど」
「リサ、でも……僕は」
 苦しげに眉を寄せるバーナビーの肩に、リサが力強く手を置いた。向けられたのは、強い瞳だ。言ったでしょう、とリサは笑う。信じて、信じて、ただひたすらに。胸に燦然と輝く希望を、相手に受け渡したがる声で。
「これも、彼が信じた正義だったの」
「……くっそ、どの道選んでる時間の余裕なんかねぇんだ。バニー、着ろ! 俺はこれ着て行くからなっ!」
 楓が待ってんだ、と叫び、虎徹は服を脱いで行く。若干嫌そうに脱衣から視線を外し、リサは静かな目でバーナビーの答えを待った。それでいて、すでに、分かっている表情だった。反抗して、舌打ちしたがる学生の表情で、バーナビーはブラックスーツに手を伸ばした。途切れた希望が、確かに。繋がって行く音を聞いたような、そんな気がした。

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