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 当然だと言わんばかりの予想していた表情で腕を組み、己を見つめるばかりのステルスソルジャーに、パオリンは感情のままに言葉を叩きつけそうになった。あなたは分かっていた、知っていた。ならばどうして教えてくれなかったのかと言いかけ、直前でくちびるを結んで、パオリンは目の前に立ちふさがる己の技術者たちを睨みつけた。悔しくて、歯がゆくて、鼻の奥がつんと痛む。この気持ちは八つ当たりだ。ステルスソルジャーは言っていたではないか。パオリンにはこれから大仕事があるのだと。そのことがすでにこそれを示していたのなら、勘違いしていたのはパオリンの方だ。どいてよ、と怒りに掠れた声で、少女は白衣を着た技術者たちと、そしてナターシャに言った。彼は敵ではない。彼らは味方だ。それなのに、こんなにも通じない。そのことがもどかしく、たまらなく悔しい。
「退いて。ボクはここに、スーツを取りに来たんだから」
「……何度言われても、何度でも言うわ、パオリン」
 私はそれを絶対に許可しない。浮かぶ笑みもなく、ナターシャは淡々と言葉を繰り返した。はじめて出会った時からずっと、浮かべられていた優しい微笑みがそこにはない。凍りついた湖面のような瞳は、ひどく失望したようにパオリンを見つめるだけで、辿りついたことを褒めてもくれなかった。現れたステルスソルジャーとパオリンの姿に技術者たちは動揺し、かけてきたナターシャは押し殺しきれぬ悲鳴をあげると、瞳を怒りに燃えあがらせた。抱いた少女の体を床に下ろし、保護する者たちへ引き渡そうとするステルスソルジャーの頬を、大股で歩み寄ってきたナターシャが平手で打ったのはほんのすこし前の出来事だ。それなのに永遠のように、遠い出来事に思える。ぐらぐらと足元が揺れるように感じて、パオリンは息を吸い込んだ。迷う少女から言葉が発されるより早く、ナターシャは溜息を吐きだして、その意思をくじけさせてしまった。
「……どうして、来たの?」
 辿りついてからようやく耳にした優しい響きの言葉は、けれどパオリンの心を救いあげてなどくれなかった。ナターシャの瞳は悲しくパオリンを見つめるばかりで、微笑んでくれることも、温かな腕の中に抱き締めてくれることもなかった。技術者たちは一様に唇を噛み締めて言葉を発さず、ある者はパオリンを見て苦しげに目を伏せ、ある者は視線を外したまま手を握り締めて動かず、またある者はナターシャがそうしたように、ステルスソルジャーに憎々しげな目を向けていた。頬を打つ女性の手を避けることなど簡単だったろうに、甘んじて怒りを受け入れた壮年の男は、にやにやと笑うこともなく、ただ静かにパオリンの背を見つめていた。震え、臆するその背がどうするか、見定めるように。守るより、応援するより、試すような眼差し。首筋の肌がちりちりと痛む。吸い込んだ息は、乾いていた。
「ドラゴンキッドになる為、だよ……!」
 どうして、そんなことを聞くの、と。心が悲鳴をあげていく。言葉にして吐きだしたくてたまらなくなっても、少女は強く息を吸い込むことで、その想いを抑え込んだ。漠然と、感じることがある。それを聞いてはいけない。その答えは、与えられてはいけない。考えて、パオリン自身が辿りつかなければいけないのだ。ひとりで。そうしなければ、いつまでも試される。屈辱的な視線が、少女の背をまっすぐに伸ばさせた。燃えるような誇りが、萎縮する心を導いて行く。
「ボクは、この街を守りたい……この街に住む人を、この街の平和を守りたい。キミたちを守りたい」
「……パオリン」
「そこを退いて、ナターシャ。そうしたくて、ボクは来たんだ」
 たとえば、ヒーローとしての職責だとか。NEXT能力を持ち、それを発動させる許可を持つ者としての義務だとか、責任だとか。そういった理由がない訳でもないけれど、それはもっと分かりやすい表面的な理由で、パオリンの心を表すものにはならなかった。花を愛すように、自然な気持ちで守りたいと、思って。お腹がすくように自然に、行かなくては、と思った。思考はもう心に追いつけない。走り出した本能のように。あの映像を目の当たりにした瞬間、パオリンの意識は叫んでいた。
「ナターシャ、ボクね……守りたくて仕方なかったよ」
 こんなに悔やんだことはなかったよ、とパオリンは息を吸い込んだ。足を一歩、前に踏み出す。
「いつの間にかこんなに、守りたくなってたよ……」
 両腕を前に出して、微笑み。パオリンは甘えるように、ナターシャに抱きついた。ぎゅ、と腕に力を込めて抱きしめ、おどろく保護者役を宥めるように、ぽんぽん、と背を叩く。
「無事でいてくれてありがとう、ナターシャ」
「……パオリン」
「ボクを守ろうとしてくれてありがとう、ナターシャ。ボクが……ボクがまだ、お医者さまに能力の発動を止められてるから、だから行かせたくないんだよね?」
 少女連続誘拐事件の被害者の一人としてパオリンが無事に保護されてから、まだ一度もドラゴンキッドはメディアの前に姿を現していない。それ以前から続く数日間の不在は体調不良という形で処理をされていた為か、連日連夜、オデュッセウスコミュニケーションにはドラゴンキッドの体調を気遣う声が届けられていた。はやく元気になって戻ってきてね、と願う声はパオリンの心をそっと癒し、同時に、技術者たちとナターシャの不安を増してしまっていたのだろう。ヒーローとして活躍するNEXTであっても事件の被害者になってしまう事実、その中で起きた楓の能力の暴走と、それを食い止める為に行われた長時間の全力発動。未だ成長途中のパオリンの心身に対する自覚しないダメージは降り積もり、血液検査や脳波の異常となって現れた。パオリンも、自分が完全に回復したとは思っていない。数日間休んでいるせいもあるだろうが体は思う通りに動かせない気がしているし、能力の発動までほんのかすかなタイムラグがある。上手く発動できたと思っても出力が弱かったり、また強すぎる能力に対して、制御しきれないかも知れない恐れと、不安もある。ナターシャと技術者が、パオリンの出動を許可しないのは、きちんと考えれば少女にも納得できる、至極もっともな理由があってのことなのだ。それでも、とパオリンは言う。
「行かせて欲しい。……どうしても駄目だって言うなら、ボクは、このままでも行くよ。ナターシャが、皆が……ボクを心配してくれてるのは、痛いくらい分かる。でも」
 背後で、息を吐いたステスルスソルジャーが、壁から背を離す気配がした。男がなにか言おうとするより早く、パオリンはナターシャの顔を覗きこみ、きっぱりとした声で言った。
「分かってるよ。ボクしか出来ないと思って言ってる訳じゃない。ヒーローは他にもいるし、ボクがいなくても……大丈夫かもしれないってこと。でも、ボクは……ボクは、やりたいんだ。できることをしたい。できるって、分かってることをしたい。全力で、精一杯、ボクはボクにできることがしたい!」
 無理はしないよ、絶対に。約束する、と告げるパオリンの目をしばし覗きこみ、ナターシャは少女を強く抱き締めた。その存在をなにもかもから守ろうとする優しさに、パオリンは大きく息を吸い込んだ。ナターシャ、と名を呼ぶ。なにかしら、と帰って来た返事は柔らかく、瞳は春のような優しさを帯びている。ナターシャ、ともう一度呟いて鼻をすすったパオリンを、女性はもう一度強く、胸に抱きしめて言った。
「行くんでしょう? パオリン」
「……うん」
「なら、泣かないの。笑って行きなさい。……あなたのスーツが待ってるわ、ドラゴンキッド」
 すぐに出られるように調整は終わっているから、と告げられて、パオリンはぱっと顔を明るくした。すぐにナターシャから離れ、奥へと駆けて行こうとする足が、ぴたりと止まる。あれ、と呟き眉を寄せながら、パオリンは己を愛する技術者たちと保護者役の女性、楽しげに笑いながら見守るステルスソルジャーを順繰りに見やり、よく分からないと言わんばかり首を傾げた。
「すぐ出られるなら、なんで駄目って言ったの……?」
「そりゃぁお前、決まってんだろ」
 ニヤニヤと笑いながら、ステルスソルジャーは一息に言った。
「保護者も説得できないこどもなら、素直に守らせろってことだ。……よかったな、一人前って認められたんだよ」
「……え、えっ。わぁ!」
 他に感情をどう表現したらいいか、とっさに分からなかったんだろう。頬を両手で押さえてその場でぴょん、と飛び跳ね、パオリンは顔を真っ赤にしてスーツの置いてある更衣室へ走り去って行く。ありゃあまだまだこどもだな、と喉を鳴らしてくつくつ笑いながら、ステルスソルジャーはナターシャを見て、それからドラゴンキッドの技術者たちを優しく眺めた。技術者たちもまたはにかんだ様子で走り去るパオリンを見送り、忙しく己の仕事へ戻って行く。一人だけ落ちついた様子で歩み寄ってくるナターシャを、ステルスソルジャーは片手をあげて出迎えた。ナターシャも同じように片腕をあげ、二人はぱん、と音を立てて手を打ち鳴らす。視線を交わすと、悪戯っ子のような笑みがどちらともなく零れ、くすくすと肩を震わす囁きになって行く。手助けしなくても大丈夫だったな、と呟く壮年の男に、いいえ、とナターシャは目を細めて笑う。
「最後は、あなたの存在に後押しされたようでした。ありがとうございました、ステルスソルジャー」
「いいや、これくらいなんてことねぇよ」
 幸せなもん見せてもらったしな、と嬉しそうにしながらステルスソルジャーが見つめていたのは、ひたすらにドラゴンキッドを愛し、彼女を守ろうとした技術者たちだった。その想いは親が子を守る愛に似た守護であり、自社のヒーローを大切にしたいとする技術者たちの意思は、男の現役時代には無かったものだ。商品価値のある利用できる存在ではなく、一人の存在として、技術者はヒーローを愛してくれている。頑張ったかいがあった、と呟くステルスソルジャーに、ナターシャは無言で頭を下げた。どんな言葉でも、感謝には足りず。だからこそ、パオリンに向ける愛によって、報えることができたのであれば。こんなに幸せで、素敵なことはないだろう。ありがとうございます、とナターシャは言った。男は静かに微笑み、頷いた。



 通信は、まだ繋がらないままだった。ナターシャによれば、復旧まで一時間はかかるという。それを待ってもウロボロスの示した刻限には十分余裕があるのだが、それを待たず、ドラゴンキッドは愛用の棍棒を持って部屋を出た。ここで待っててね、すぐになんとかするから、と笑うドラゴンキッドに半分手伝ってやる、と言ったステルスソルジャーの姿は、すでにない。能力を発動してしまえば味方にも視認できなくなる能力であるが、現在位置は着々と破壊されていくパワードスーツが教えてくれた。半分、と言ったのに、ステルスソルジャーは一人で社内清掃をしてくれるつもりなのだろう。好意に甘えることにして、パオリンはゆっくりとした足取りで社の出入り口へ向かう。言葉を交わさなくとも、彼が手伝ってくれるのはここまでだ、と分かっていた。ここから先は、現役のヒーローに街の運命が委ねられる。こつ、こつ、と音を立てて歩き、ドラゴンキッドはやがて、外へ出た。ブロンズステージエリアのエントランスを選んで出たものだから、眼前には円を成す二層の底が見える。それ以上に少女の目を奪ったのは、彼方まで広がる青い空だった。黒い雨雲が千切れ、そこから透明な光が都市へ降り注いでいる。ぎゅっと拳を握って空を仰ぎ、ドラゴンキッドは息を吸い込んだ。笑いだす寸前のように響く、声が出た。
「さあ……行くよ、ドラゴンキッド」
 ボクと、一緒に。あの場所まで。そうして歩きだす足取りは、軽やかに。視界に、街を飛び回る仲間の、青白い軌跡が映る。お待たせ、と笑って、少女は眩しげに目を細めた。その視線の先には、ちいさく、黒い影がある。
「……助けるからね」
 恐ろしいほど澄んだ光の中を、ヘリコプターが飛んでいる。その場所に連れ去られたあの幼子がいることを、どうしてか、ドラゴンキッドは確信していた。出てくる前にナターシャから借りた、アナログの腕時計を確認する。時刻は午後一時。頷いて、ドラゴンキッドは走り出した。



 一人で走るのは、本当に、久しぶりのことだった。幼い頃には父がいた。記憶に留められないくらい昔であれば、母も一緒であったことだろう。楓は常に誰かに手を引かれ、守られていた気持ちで乱れる息を吸い込んだ。思い出がぐるぐると渦を巻き、現状に合わないことばかりを考えた。これってもしかして走馬灯ってやつかな、と思い、冗談にならないことに気がついて眉を寄せるも、渦を巻く記憶たちに押し流されて行く。父がシュテルンビルトへ行ってしまってから、楓の手を引いてくれたのは伯父と祖母だった。その二人の温かさがなければ、きっと楓は生きていけなかったに違いない。母を亡くした空白を、父といられぬ切ない寂しさを、楓は二人にゆっくりと埋めて貰っていた。数年して、楓はヒーローTVというものの存在を知った。はじめは、父が仕事をし、住んでは戻ってきてくれない都市のことだと興味を持った筈で、すぐにめまぐるしく展開されていく彼らの活躍に、楓はすっかり夢中になった。お気に入りのヒーローはころころと入れ替わり一定しなかったが、不思議と一度も、ワイルドタイガーを好きだと、お気に入りだと思ったことはないことに気が付く。虎徹が知ったら一週間は泣き伏しそうな事実だが、きっと楓は分かっていたのだろう。どうして、父親の姿が分からないことがあるだろう。楓の目が、耳がそれを分からなくとも、心の一番深い場所で、きっと楓は理解していた。だからこそ、好きになれないでいたのだ。
 幼い反発だっただろう。そして、正当な怒りであっただろう。傍にいてくれない父。会う約束を繰り返して、繰り返して、そのたびに会えなくなったと謝罪を送られ、機嫌取りのプレゼントだけが宅配便で家に戻ってくる。さびしくて、くるしくて、送られた人形を抱きしめながら仏壇の前で寝てしまった朝、楓をそっと揺り起こしてくれたのは伯父の村正だった。それからしばらく、温厚な伯父が声を荒げてどこかへたびたび、電話をしていたのを楓は覚えている。それから一週間もしないうちに、父が帰って来たことも。嬉しくなんてなかった。ちっとも喜べなかった。絶望に似た怒りを、その時はじめて感じたのだ。だって虎徹は、楓との約束はやぶるのだ。会いたいと言っても、返ってきて欲しいとお願いしても、何度も何度も約束しても、そのたびに裏切って、謝って、それなのに。血の繋がった兄の言葉なら、聞き入れると、そういうのか。目の前が真っ暗になる事実。愛されていないのではないかという不安を、楓は泣きながら仏壇の母親に、時には墓石とその下に眠る骨壷に向かってぶちまけた。オリエンタルタウンは狭い田舎町だ。少女のその行為を、大人たちは知っていただろう。皆、不思議と、楓には優しかった。不憫だと、可哀想だと、思われていたのだろう。もしかしたら中には、虎徹の職業を知る者もいたのかも知れない。今となってはもう、分からないことだった。
 ぐるぐる、ぐるぐる、思い出はよみがえり、深く沈めた筈の、眠らせた筈の、見ないふりに成功していた筈の感情が浮かび上がってくる。ひくついた喉で息を吸い込み、楓はぼろぼろと涙を流しながら廊下の角を曲がった。走る足は一時も止めない。魔法のような五分はとっくに過ぎ去っていて、だからこそ、逃げていかなければいけないのだった。パワードスーツが追いかけてくる音を聞きながら、楓は階段の手すりを掴み、勢いよく登りはじめる。執念深く追ってくるそれは階段すら障害にしないだろうが、多少距離は稼げるだろう。上へ、上へと走って行きながら、楓は歯を食いしばり、頬を流れる涙を拳で拭った。誰も見ていない。誰にも会わない場所だから、泣きやもうとは思わなかった。思う存分、泣くことができた。こんなに心から、泣く為だけに泣いているのは、はじめてのことかも知れなかった。供養みたいだ、とぼんやり思う、どうしてそんなことを考えたのかは、分からなかった。息が切れて行く。思い出がよみがえって行く。思考が押し流され、思い出に支配されていく。
 父親に、いらないこどもだと思われているかもしれないという想像は、楓のやわらかな心を押しつぶすのには十分なことだった。少女にとって不幸だったことは、年齢に似合わぬ聡明さが、それを不安故の妄想だとしっかり分からせていたことだろう。それは祖母にも伯父にも相談させることをせず、ただ時折、風の音が大きく響く夜などに目を覚ました瞬間、どくどくと響く心臓の音と共に、楓の心を軋ませて行った。何度も、何度も楓は父を呼んだ。おとうさん、おとうさんおとうさんおとうさん。傍にいて、会いたいの、話をしたいの、顔をみたいの。今日あったことを聞いて。特別なことはなにもなかったけれど、話したいことがたくさんあるの。おとうさんの話を聞いてみたいの。ねえ、どうしてなの、おとうさん、おとうさん。おかあさんと違っておとうさんはまだ生きてるのに、どうして私はおとうさんの好きなものも、なにひとつ、分からないの知らないの。毎日、どんな風に起きてきて、どんな風に顔を洗うの。毎日、どんな服を着て、どんな靴で会社に行ってるの。どんな風に、どんな風に。ねえ、私が知らないのとおんなじで、おとうさんはきっと私のことをなにひとつ、なんにも、知らないよね。深い、あまりに深い想像の闇は、楓に手紙を書くという行為を奪って行った。返事が来なかったらどうしよう、と思えば、一目ぼれした便せんを、どうしても開けることができなかった。電話も、メールも、受け止めることしか出来なかった。
 バーナビーが現れてから、きっと全てが変わったのだと、楓は思う。彗星のように、きらめきのように。さっと世界を明るくしてくれたひと。彼は楓に淡い憧れと恋を教えてくれて、ワイルドタイガーのバディとなり、虎徹の腕を引っ張って歩くような導きの存在になってくれた。バーナビーは、虎徹に救われてばかりだったという。新しい価値観、新しい関係性、新しい気持ち。良くも悪くも虎徹がバーナビーと出会うことでもたらしたものは、生み出したものは、それまで彼の世界にはまるでなく、黒く閉ざされた小箱の中に太陽がそのまま落ちてきたような、反射的な拒絶すら覚える衝撃であったという。楓はそれを聞いた時に、私もだよ、と告げる言葉を飲みこんで、なぜだかそのまま、言うことができなかった。今でもそれはすごく不思議な気持ちで、どうして言えなかったのかが分からない。同じだよ、バーナビー。おんなじだよ。私の中の黒くて深くてどうしようもない穴を、いつの間にかタイガー&バーナビーが、お父さんとバーナビーが埋めてくれたんだよ。虎徹は楓の父であり、それでいて、はじめてその存在になったかのように、真新しく娘という存在を受け入れたようだった。思えば、虎徹も苦しんでいたのだろう。最愛の妻を亡くし、娘とは遠く離れ、身内とも滅多に会うことができない。その中で顔を隠し、正体を明かさず、人を助け続けても成績は振るわない。ロートルだ、時代遅れだと罵られながらも、彼はかつて胸に抱いた希望、ヒーロー、レジェンドという輝きを追い求め、必死に生きていたのだ。楓はそれを理解しなかったし、同じように、虎徹に離れて暮らす娘の、心の機微など分からなかっただろう。
 当たり前で、自然なことだった。二人はただ、血の繋がった、親と子という名を持って呼ばれる存在であり、きっと、家族ではなかった。それでも愛していた。心から愛していた。愛して、愛して、それをどうしても止められず、だからこそずっと辛かった。二人を家族にしてくれたのは、それを失ってしまったバーナビーという存在と、そして娘から父を引きはがす原因となったNEXT能力の発動だった。能力は安定することなく、その日によって状況を変えて、決して落ち着くという気配を見せなかった。そのせいで楓はアカデミーの入学が決まり、前後して、それまで決して許されなかった父との暮らしを許された。虎徹が、ワイルドタイガーであると、そのすこし前に楓は知ったばかりだった。正体が知れたからいいだろう、との気持ちもあっただろう。同じシュテルンビルトに住むのだから、父と娘が離れて暮らすのは、少女の年齢からしてもあまりに不自然だという想いもあっただろう。オリエンタルタウンからシュテルンビルトへ引っ越す前日の夜、楓は久しぶりに夜中に目をさまし、喜びと悲しみで心をくしゃくしゃにして、疲れ切った気持ちで静かに泣いた。楓の言葉はやはり、父に聞き入れられるものではないのだ。だって楓はいつだったか、帰宅していた虎徹に言ったことがある。おとうさん、お願い。一緒に暮らしたいの。楓をシュテルンビルトに連れて行って、それで二人で一緒に暮らそう、と。一度だけ、確かに、頼んだ記憶がある。
 駄目だと、言われた。学校のこと、暮らしのこと、勉強のこと、楓の年齢のこと。たくさんの理由を告げられて、楓は途中でもういい、と叫んでその場を逃げ出した。その次の日から、楓の部屋には鍵がつけられた。村正が、なにも言わずに鍵をつけて、学校から帰って来た少女を抱きしめてくれたのだ。その腕の中で、楓は涙を流さなかった。部屋に帰って鍵を締めて、一人で座りこんで泣いた。あの日は駄目だったのに、どうして虎徹は楓と暮らすことを許してくれたのか、分かっていたけれど理解したくなかった。虎徹は楓のいうことを聞いてくれない。それなのに、楓のして欲しいことを、別の理由で叶えてしまうのだ。帰って来た欲しかった時は、伯父の言葉で。一緒に暮らしたかった希望は、NEXTという力を理由にして。でも、それでもいい、と楓は思ったのだ。楓はだって、虎徹が好きだった。大好きな父だった。たった一人、楓に残された両親なのだ。愛する存在が欲しかったのかも知れない。そうしなければ心がどこかへ行って、行方不明になって、戻って来れなくなってしまいそうだったのかも知れなかった。階段の踊り場で息を整えながら、もう無心に、段差に足をおく。手すりを握って体を持ち上げ、上を目指した。一番上。屋上に出ようと思った。まだ一時間経たない。それは絶望的な時間の遠さで、それまで楓は逃げる他、なにもできないのだった。けれど、希望があった。窓の外に、街を飛び回る青い光が見えたのだ。市民にとってのヒーローは、まさしく、楓にとってもそうだった。スカイハイも出動している。能力をコピーできれば、逃げられるのだ。
 先程より近くに、パワードスーツの音が聞こえた。振り返る。ひとつ下の踊り場に、パワードスーツが迫ってきていた。近い。ぞわりと恐怖が駆け抜けて行った。追いつかれてしまう。怖い、どうしよう。まだきっと、父もバーナビーもこちらへは来れない。コピーしたバーナビーの能力が、うっすらと、彼の場所を教えてくれる。位置は遠くて、まだ動かない。助けは来ない。走らなければいけなかった。ぐっと歯を食いしばり、足に力を入れて階段を駆け上って行く。あと五階あがれば屋上で、その距離が辿りつけないくらいに遠く思えた。意識が、またぐらぐらする。酸欠なのかも知れなかった。一段あがるたび、思い出が心からころころと零れ、頬を伝って流れていく。視界を滲ませる涙を指先で払って、楓はただ、前だけを向いた。物心ついてはじめて、虎徹と一緒に暮らし始めて、楓は思った以上に父と娘ができていることに、ひそかに驚いていた。離れていても親子だっただけあると思ったが、一時期は他人のようにも切り離していた存在だから、親しく触れ合うことに違和感を覚えないことにこそ驚いたものだった。その理由も、もしかしたらバーナビーなのかも知れない。バーナビー。楓をお姫さまにしてくれるひと。楓をお姫さまのように、守ろうとしてくれるひと。騎士のように、それを誓ってくれたひと。
 バーナビーは、知らない間に虎徹の恋人というものになっていたらしい。それを知った日、楓は思わず父親の顔をひっぱたいた。憧れの人を取られた嫉妬よりなにより、血が繋がっているのだという父が、少女のきらめくものを無遠慮にかすめ取って行ったからだとするような、ひたすらに鮮烈な怒りがあった。彼はきれいで、尊いものだった。一個人が所有していいものだとは、到底思えなかった。けれども、彼はひとだった。バーナビーという、一個人であったのだ。憧れを穢されぬまま、ひととして父親の傍にあるのだということを理解してはじめて、楓は虎徹がバーナビーの傍にあることを許した。バーナビーを許したのではない。許したのは虎徹だった。バーナビーには最初から許さない所がなく、そうすることは出来なかった。めくるめく過ぎて行く日々で、楓は家族という存在になれ、父親と、養父を名乗るバーナビーの存在に慣れて行った。はじめて、楓の両親は、ちゃんと二人になったのだ。多少いびつでおかしいものだったけれど、その喜びといったら、楓が決して味わったことのないものだった。存在している、ということがなにより嬉しかった。楓の母は、存在しなくなって久しい。だからこそ、両親という言葉を当てはめられるものが『二人』であることが、嬉しくてたまらなかった。それなのに、能力は一向に安定する気配を見せなかった。家庭環境が落ち着いたり、年齢的な身体の、あるいは精神の成長を重ねれば安定するものだと、きちんと制御できるものだと言われていたのに、出来なかったのだ。
 だから、楓は、それがそういうものだと思うことにした。元々、NEXT能力については、現代科学において分かっていることの方が少ないのだ。安定する条件というのもそれまでそうして落ち着いてきた人が多かった、というだけで、確実なものではない。多数決に負けたからと言って、落ち込むことはないのだ。心の、恐ろしく満たされない黒い穴のことを、いつしか楓は忘れていた。思い出さないようにして、それに成功していたからだ。それは深く、恐ろしく、向き合って行くには辛すぎるものだった。そうしなければ生きて行くのが難しいくらいだったので、それでいい筈だ、と楓は思っていた。思っていたことを思い出してしまって、楓は必死に違うことを考えようとした。なにを思っていたのだろう。一番はじめ。思い出がよみがえってどうしようもなくなってしまうきっかけになったのは、なんだっただろう。ああ、ああ、そうだ。一人で走るのが随分ひさしぶりだと思って、ずっと手を引かれていたことに、ようやく気がついたからだ。手を引かれて導かれるこどもでしかなかったことに、ようやく、とうとう、気がついてしまったからだ。
 特に、と楓は思う。特にここ最近、ここ数年は、ずっと手を引く相手がいたのがいけなかった。エドワード・ケディ。楓のバディ。楓の為に、つれてこられたひと。楓の為に、外にでることがかなったひと。楓の為に、ひどく献身的に守ろうとしてくれるひと。今はきっと、病院のベッドでゆっくりと休んでいてくれている筈の、ひと。そのひとを思うたび、楓の心がざわざわと揺れた。それはテレビではじめてバーナビーを見た時よりもずっと大きな波で、そんな風に心が動いてしまうのは、はじめてのことだった。どうしてなんだろう、と考える。エドワードより優しいひとは、たくさんいる。顔が格好良かったり、綺麗だったりするひとも、たくさんいる。守ろうとしてくれるひとも、導いてくれるひとも、いるのに。エドワードより楓をまっすぐに大事にしてくれたひとは、いなかった。怖さを忘れさせるくらい、守ってくれるひとはいる。けれども、怖くても立ち向かう勇気をくれるのは、エドワードひとりだけだった。恐怖の中を潜り抜ける安堵も、共に駆け抜けていく高揚も、分かち合う喜びも、心が凍りつく程の心配も恐怖も。皆、エドワードが楓に教えてくれたものだった。教わってしまったものだった。どうしよう、と楓は思う。もう、どうしても誤魔化せなかった。怖くて怖くて、記憶が溢れてしまうくらい、混乱で訳が分からなくなってしまうくらい怖くて、逃げなければいけなくて、そんな余裕がどこにもなくて、とうとう、認めてしまう。分かってしまう。理解して、しまう。
 好きだ。恋をしている。この気持ちを好きと呼ばなければ、他になにも好きと言えないくらい。この気持ちが恋でないとするなら、もう永遠に恋をすることができないくらい。好きになって、恋をして、ひどく深くまで、愛している。エドワードははじめから、楓のものだった。楓の為に偉い誰かが連れて来て、ぽんと渡してくれた、少女の為だけのバディだった。それは初めて楓が持つことのできた、楓が安心して心を注ぎ込める相手で、思う存分に愛することのできる存在だった。はじめは、人形を可愛がるように。次に、愛玩動物を抱きしめるように。次第に、一人のひととして。愛することができた。愛されることができた。それは初めて、楓がなんの見返りもなく、想うという行為ができた瞬間だった。ようやく肯定できた。ようやく、自分に対して報われることができた。NEXTで、不安定で、どうしようもなかった楓だからこそ、与えられたひと。膝が震えてもう動けなくなりかけた頃、ようやく屋上に辿りつく。顔をあげた、そこに。一瞬、なにもかもを忘れるような空が広がっていた。天は高く、空気は澄んでいる。そこを駆け抜けていく王者に向かって、楓は思い切り手を伸ばした。
「スカイハイさんっ……!」
 追いついたパワードスーツから放たれる銃声が少女の声をかき消し、皮肉にもヒーローたちに存在を気がつかせる。ぎりぎりで回避に成功した楓は、震える体を叱咤して、屋上のへりへ急いだ。前を向く、振り返らないでただ、走る。
「楓くんっ! すぐ……いますぐに行く!」
「上に居たのか……! バニー、行けるかっ?」
「はい、ここは任せましたよ! 楓ちゃん、今行くからね!」
 エントランスから走って出てきたタイガー&バニーが、屋上のへりに追いつめられた楓の姿を確認する。急旋回して少女の元へ急ぐスカイハイを狙って、パワードスーツが攻撃をはじめた。その間に、バーナビーがビルからビルへ飛び移り、アポロンメディアの屋上を目指して行くが、能力を発動してなお、足場のなさが道行きを阻んだ。もう逃げ場所がない所に立ちながら、楓は地上でパワードスーツに立ち向かう虎徹を見る、
「おとうさん……!」
「楓っ! ……楓、大丈夫だ! 絶対に受け止める!」
 来い、と呼ぶ声に。駆け廻った悲しみを思い出さなければ、楓は立ち上がることができただろう。愛して、愛して、愛した、たったひとりの楓の父親。かすかに笑って、楓は泣いた。
「できないよ……。できないよ、おとうさんっ……!」
「出来る! 楓は強い子だ、大丈夫! お父さんのことは気にするな! 必ず受け止めてみせるから!」
 ちがう。ちがうの、そうじゃないの。わるいのは私なの。おとうさん、おとうさん。声にならない叫びは涙になるばかりで、楓はその場にしゃがみこんでしまう。ふかい、ふかい、穴がみえる。そこへ落ちてしまいそうで、立ち上がれない。パワードスーツが迫ってくる。スカイハイとバーナビーは、きっと間に合わない。楓、と必死にワイルドタイガーが娘の名を呼ぶ。それに、かすかに答えようとして。
「……楓ーっ!」
 強い呼び声に、楓は息を吸い込んだ。それは、道の向こうから、アポロンメディアの屋上のへりを一心に見上げて走ってくる。その姿はちいさく、それなのに、間違えはしなかった。
「っ……エドさんっ!」
「楓っ、立て! それでっ」
 両腕を広げて、エドワードは呼ぶ。
「来いっ!」
 考えるより先に、体が動いた。とん、とあまりに軽く踏み切った足が、楓の体を落下させる。ごう、と耳元で風が鳴った。
「楓くんっ、手を……!」
 落下が始まるその瞬間、勢いを殺さずに突っ込んで来たスカイハイが、少女のてのひらをぱん、と叩いた。コピーされた能力が風の力で少女の体を押し上げるも、勢いはすこししか緩まない。落下の中程でバーナビーは楓の手を取り、空でくるりとダンスのように回ってから、ぽんと力を込めてエドワードへ投げ渡した。あとで怒るからね、としっかり釘をさした楓の養父はけれども仕方がないなと心から苦く笑い、そのままワイルドタイガーの元へ戻って行く。その確認ができたのは、一瞬だった。すぐそこに地上が迫っている。怖いと思ったけれど、同じくらいに安心した。手を伸ばす。そのひとの元へ落ちたいという気持ちを、スカイハイの風は助けてくれた。
「楓!」
「エドさん……! エドさん、エドさんっ……!」
 首に腕を回して飛び付いた楓の背を、エドワードの手が引き寄せ、抱きしめる。二人はそのまま額を重ね、笑いあった。
「びっくりした!」
「俺もだよ、この馬鹿!」
「馬鹿じゃないもん! エドさんが来いって言ったんだもん!」
 そのまま落ちてくるとは思わなかったんだよ、とエドワードが笑いながら怒る。
「でも、受け止めてくれるって信じてた!」
「俺はちょっと焦ったけどな! ……ったく、無事か? あんなトコでなにしてたんだ、お前」
 はー、よかった、と言いながら、エドワードは楓を抱きしめたまま、その場に座りこんだ。腕を離すつもりはないらしい。ぎゅうぎゅうと肩と背を抱き寄せられていたから、楓はぴったりとエドワードに体をくっつけ、頭の上にあごを乗せてしまう。
「逃げてたの。一生懸命、逃げてたの!」
「……おま、逃げ場があるトコ選んで逃げろよ……」
 呆れかえった声にくすくす笑いながら、楓はうん、と頷いた。
「ずっと、ひとりで逃げていたの……」
「……そっか」
 どくどく、心臓がまだ高鳴っている。緊張と、不安と、恐怖から解放された喜びで、全身が歌い出すように幸せに満ちている。エドさん、と呼ぶ声がすこしだけ泣きそうに響いたから、楓は思わず笑った。悲しいことなんて、ひとつもない。
「よく、頑張ったな」
 ぽん、と頭を撫でてくれる手に目を閉じてすり寄って、楓はうん、と頷いた。
「エドさん」
「ん?」
「名前、呼んで?」
 エドさんの声で聞きたい、とねだりながら、楓はうっすらとまぶたをあげた。
「……あなたが好き」
「楓」
「好き、好き。……言っちゃった!」
 どうしよう、さっき気がついたの、と少女は笑った。離れたくないよ、というように抱きつきながら。とくとくと、不安に心臓を高鳴らせながら。名前を呼んで、とただねだった。今はそれだけでいいの。
「……楓」
「はい! ……はい。はい、はーい」
 うふふ、とあどけなく。ちいさなこどものように笑ってすり寄ってくる楓を、溜息をつきながら抱きしめ直して。エドワードは仕方がないな、と告げるよう、少女の目を覗きこんだ。
「……なぁに幸せそうな顔してんだよ。なきむし楓」
 指先が、涙を拭って離れていく。だって、と言いかけて、楓は言葉にならずしゃくりあげた。よしよし、と苦笑して、エドワードが楓の頭を抱き寄せる。堪え切れず、楓は息を吸い込んだ。それは、産声のように。つよく、泣き声が響いた。

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