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 二人が歩み寄ってくるのに、気がついたのだろう。ぴたりと足を止めた少女は顔をあげ、二人に向かってゆるく、微笑みを浮かべてみせた。碧の瞳が、差し込む光に色を深めて輝く。肩の高さでばっさりと切りそろえられた髪は金色だったが、赤みがかって艶めき、火に照らされた金貨の印象を与えて来た。肌は日焼けを知らない、やや不健康な白さだった。背はバーナビーより二十センチはちいさく、女性としてもすこし小柄でほっそりとした印象の、頼りない体つきである。しかしまっすぐに伸ばされた背と二人を見つめる碧の、発掘されたばかりの宝石のように、なにか背筋を震わせる予感めいたものを持つ強さが、少女の印象から頼りない、という言葉を消していた。
 飾り気のない黒いジーンズに、白い半そでのシャツ。靴は赤いスニーカーで、どこのブランドのものでもなく、手に持つ鞄のひとつもない。身ひとつでそこに立つ、堂々とした風格の少女。ロイズの言葉を頭の隅にかすめさせながら、虎徹は少女の前に立つ。二歩分、遅れて立ち止まったバーナビーは、素直に訝しげな表情をして少女を見下ろしていた。とてもではないが、身の危険を感じて対処しなければいけない相手とは思えない。一般人でもそうだろう。かける言葉を探す風に口ごもる二人に、少女はゆるりと微笑んだ。
「こんにちは。私はシレーネといいます。あなたが鏑木・T・虎徹さん。あなたが、バーナビー・ブルックスJrさん。合っていますか?」
「ああ、迎えだって聞いたけど……待たせてたよな? 悪い」
「はじめまして、シレーネさん。こちらのミスでお待たせしてしまい、申し訳ありません」
 微笑みながら差し出された手を、シレーネはまず、しみじみと見つめた。握手を求めたバーナビーがたじろぐほど、まっすぐで、困ったような視線だった。あの、と問うバーナビーと目を合わせたシレーネは、無言で己の両手で胸元をぽんと叩き、同時に顎をあげて首を晒した。戸惑いながらも求められるままに視線を少女の首へ向けた二人が、同時に息を飲む。確認したことを分かってすぐにシレーネが顎を引いたが、それでもすこし見にくくなった程度で、首に付けられた『付け襟に似た爆発物』が消えて無くなる訳ではない。
「……刑務所から出てきたNEXTってこと、です。詳しい説明は、向こうについたらまた、あとで」
「君は……」
「私の能力は、おおまかに言うと『言葉に乗せた命令で、相手を操ること』です。もちろん、制限はありますが。……立ち話ができることでもありませんから、トレーニングルームに移動しても?」
 他の皆さん、もうずーっと待ってらっしゃるので。苦笑しながら告げたシレーネは、とん、と足音を立てて二人から一歩距離を取った。大丈夫。大丈夫、わたしは、あなたたちになにもしませんよ、と。笑う表情に、虎徹は言葉が出なくなる。このカリーナよりすこし年上にしか見えない少女は、それなのに、裏切られることを知っていた。信じて貰えないことを知っていた。言葉を話さなければすこしは安心してくれるでしょう、と言わんばかりつつましく閉じられた唇を、動かす術など持ちはしない。ぎこちなく頷き、移動ね、と確認した虎徹の腕を引き、バーナビーが低く潜めた声で囁きかける。
「虎徹さん、彼女は……」
「そういう話は後」
 疑うのも、話を聞くのも。移動した後で良いだろうと跳ねのけようとする虎徹に、バーナビーはしかし混乱気味の表情でいえ、と言った。そうじゃないんです、と。
「名前に覚えがないんですか? 本当に?」
「……有名な人だったりすんの?」
「有名というか、一般社会でもある意味有名にされたとは思いますけど、そうではなく……!」
 彼女は、と言葉を探しながらもどかしく告げようとしたバーナビーの唇が、ぴたりと止まる。虎徹も驚きに目を見開いて、バディの唇の前に差し出されたほっそりとした白い指を凝視した。すぐに離れた指先は、てのひらの中に弱く握りこまれる。宝石のような、夜に芽吹いた若い枝葉のような、碧の瞳がバーナビーを見つめていた。
「……しってるの?」
 まさかそんな筈がないと否定しながら、かすかな望みを託すように。震えもせず張り詰めた硝子細工のような声が、透明に、そっと耳に触れて消えた。バーナビーは先程とは逆に虎徹に黙ってと目配せをした後、思わず手を伸ばして言葉を遮ってしまったという風な少女にすこし身を屈め、怯えたように一歩足を引いて遠ざかるさまを、ただ痛々しく見つめて告げた。
「アカデミーでは、歴代のNEXTについて学ぶ授業があります。一般に対して封じられた真実も、そこでは正確な形で伝えられます」
「……あなた、しってるの?」
「同じ名前、同じ能力という偶然が重なっているのでなければ。……外見がなぜ、当時のままなのかは分かりませんが、あなたは……『歌姫』シレーネ、その人ではないのですか」
 敬意すら感じさせるバーナビーの声に、シレーネの喉はひゅぅと息を吸い込んで沈黙を続けた。いっぱいに見開かれた瞳が動揺と、恐れと、震える程の喜びを伝えてくる。声はなく、シレーネは頷きを返した。
「……バニー?」
「虎徹さん、彼女は……僕は彼女の話を聞きたい。トレーニングルームに移動しましょう。他のヒーローも揃っているんですよね? なにか、僕たちに伝えることがあって?」
「はい。ヒーローTVからの依頼で……なにかあった時の対策が万全とみなされたので、すこしだけ出して貰えることになりました」
 昔よりは良くなったけど、でもあんまりNEXTの立場変わっていませんね、と苦笑するシレーネに、バーナビーは申し訳なさそうな顔をして頑張ります、と言った。やけに素直な態度に見えたので、虎徹は不思議がってバーナビーの顔を見る。バーナビーは苦笑して肩を竦め、ここじゃちょっと、と言った。とにかく移動をしましょう、ということらしい。他の皆さんも待たせていることだし、と促され、虎徹はよく分からないままに歩き出す。しかし数歩も行かないうちに腕を引っ張られ、虎徹は前を歩いていたバーナビーの背に激突するように歩みを止めた。わあだのきゃあだの叫び声が上がるのを聞きながら、虎徹は引かれた腕を振り返り、溜息をつく。
「斎藤さーん……え? 携帯? バニーの? 届けてくれたんですか、そっかー。ありがとうございます。ほれ、バニー。お前の」
 ぽしょぽしょと小声で矢継ぎ早に囁かれる言葉を聞き取りながら、手渡されたバーナビーの携帯を本人に受け渡す。バーナビーはすっかり忘れていた、という顔つきで携帯電話を受け取ってズボンのポケットに無造作に押し込めると、戸惑うシレーネをそっと手招きながら告げる。
「ありがとうございます。すみません……あの、斎藤さんです。アポロンメディアのメカニックで、ヒーロースーツの整備設計技術者。僕らのスーツを開発してくれたのは彼で……ご覧になったことありますか? ワイルドタイガーと、バーナビーのスーツ」
 田舎から出てきた親戚の少女に社内や仕事の説明をしています、とするような口調だった。シュテルンビルトに住んでいるならヒーローTVに興味はなくとも、彼らの姿を目にする機会が無いことがないのだが、あえて聞いたのはシレーネが自ら刑務所に居たことを告げたせいだ。シレーネは戸惑いながらもしっかりと頷き、斎藤さんに目を向けるとその前にしゃがみ込んだ。
「……あの、スーツの?」
 怯えて震えるか弱い動物のような態度で、恐る恐る問いかけてくるシレーネを、斎藤さんはじっと見つめていた。やがてもしょもしょと言葉が囁かれたのにシレーネは始めこそ面食らったようだが、虎徹とバーナビーには驚くべきことに、すぐ聞きとることが出来たようだ。はい、はい、と言葉短く頷きながら交わされる言葉を二人は上手く聞き取れなかったが、シレーネは何度目かのあいづちを打った後に目を見開き、口元を手で押さえて俯いてしまう。唇を押さえた指のすきまから、囁き零れるように響いて来る声。
「……ありがとうございます。あなたたちのような想いで、スーツを作ってくれるひとが……居るようになったんですね」
 それから斎藤さんは、引き留めてすまなかったね、と囁き、最後に簡素なデザインのUSBをバーナビーに手渡した。『初代』のものだよ、と告げられた言葉にシレーネが信じられないというように顔をあげ、それがなんであるのかも理解していない様子でUSBに手を伸ばして来る。記録媒体の一種です、と説明しながら少女の手にUSBを受け渡し、バーナビーはこれ僕も見ていいですか、と研究室へ戻って行く斎藤さんの背へ問いかける。彼女と皆で見ればいい、と言い残して立ち去った斎藤さんを茫然と見送り、シレーネはUSBを大切そうに胸に抱いた。
「……なあ、バニー」
「はい」
「ものすごーく簡単でいいんで、今教えてくんない? 彼女、なに?」
 本人を目の前にして問うことに、罪悪感すら覚えているような表情で虎徹はバーナビーに首を傾げた。それくらいなら聞かなければいいものをと思いながら、バーナビーは一度、シレーネを見る。淡い夢の欠片を見送ったような面差しで斎藤さんの去った方角を見つめていたシレーネが、視線を戻してやんわりと微笑む。積極的な肯定ではなかったが、バーナビーはそれを許可だと受け止めた。移動しながら話しましょうか、と言って歩き出しながら、前を行くシレーネの背を眩しげに見つめる。エントランスのすぐ傍に止めてある黒塗りの車が扉を開け、中に三人を誘った。粛々と乗り込んだ所で、バーナビーは悩んだ言葉を手で転がし選び取るように、ぽつん、と言う。
「虎徹さんは、NEXTの……というより、ヒーローの『初代』についてご存じですか?」
「ご存じっつーか、さすがに誰でも知ってんだろ? 『帝王』カナート、『時紡ぎ』オーチェ、『知将』コージュ……『影舞い』キエフ。ヒーローネーム制度導入前の実験段階だかなんだかで、全員本名なんだってな?」
「その通りです。……でもね、虎徹さん。『初代』は実は、四人ではなく五人だったんですよ。……『影舞い』の、キエフが命を落としたとされる事件。思い出せますか?」
 そりゃあ、と記憶を巡らせながら頷いて、虎徹はあることに気がついて息を飲む。それは今も語り継がれる、NEXTが起こした犯罪の中では最も凶悪とされるもののひとつだった。己の能力を使用した無差別殺人。死亡者は三ケタにのぼり、その中には『初代』と呼ばれたヒーローも含まれた。犯人の能力は当時、『対象者に死を宣告する』ものとされ、研究の果てに『言葉による命令支配』であると結論が下された。犯人はまだ十九歳の少女であったと言う。少女の名はシレーネ。驚きと混乱に彩られた虎徹の視線を受け、シレーネは淡い微笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。
「……もうひとりの異称は『歌姫』、名をシレーネ」
 歴史に消えた五人目の『初代』。そのひとだった。



 『初代』とは、あくまでヒーローのそれである。厳密なNEXT能力者の祖を指し示す言葉ではないが、歴史に残る彼らの名より前に、記されている者はなかった。それはNEXT能力者の迫害という事件について、はじめて光が差した瞬間とも言えるだろう。書物は賢しげにNEXT能力者そのものの誕生を彼ら『初代』と結びつけたがるが、彼らはあくまでTVに映るヒーローとしてショウアップされた一期生である。闇に葬られてきたNEXTたちの歴史は長くはないが、決して短いものでもないのだった。
 思えば虎徹は、『初代』以前のNEXTについてを知らないでいた。彼らは彗星のように現れた希望で先駆者であり、突然変異の先駆けのようであり、そこが始まりの光点のように思っていたのだ。そんな筈がないのに。NEXTそのものの存在が正式に歴史に認められたのが、今から約四十数年前。今でこそ彼らはNEXTという名でもって認知をされたが、それ以前の記録はどこにも残っていないのだ。過去に滅びたいくつもの文明がそうであるように、歴史に残すことを許されなかった事実があることを、喪失を指摘されて初めて思い出す。虎徹の前でたおやかに微笑む少女はその喪失そのものであり、取り残された歴史の欠片だった。
 混乱に意識がぐらぐらと揺れる。バーナビーの言葉を疑う訳ではないが、それが事実をするならばヒーロー『初代』の一人が、今も歴史教科書に名を覗かせるようなNEXT能力者で大量殺人犯と同一であることになるのだ。シレーネは虎徹の混乱を分かっているだろうに、淡く微笑むだけで肯定も否定もしなかった。ただ、向けられた瞳が質問があるならば答える用意があることを示してくれている。虎徹は静かに道を走って行く車窓から景色を眺め、ジャスティスタワーまでまだ距離があることを確認する。到着すれば、ゆっくり質問をする機会があるとも思えない。シレーネがここに居る理由がまだ明かされていない以上、到着してからゆっくりと、というのは楽観視にすぎた。
「あー……あのさあ」
「はい」
 背筋を伸ばして座り直し、微笑むシレーネはただの礼儀正しい少女に見えた。隣で、バーナビーがなにを言う気かとぎょっとした顔つきで虎徹を見てくるが、意外にも、それを止めたのはシレーネの穏やかな仕草だ。バーナビーの口元に手を持ち上げて注意をひきつけてから、シレーネはゆっくりと首を左右に振り、なにも言わなくていいと意思を示す。外見だけは年下の少女の、そのあまりに落ち着きはらった行いに、逆らえないものがあるのだろう。はい、とどこか落ち込んだ響きでもって頷いたバーナビーに笑みを深め、シレーネは虎徹にまっすぐ向き直った。
 アポロンメディアからジャスティスタワーまで、そう距離がある訳ではない。道が混んだとて、あと十五分もないだろう。急ぐ気持ちを堪えながら、虎徹は慎重に言葉を組み立てて行く。
「アンタ本当に……?」
「どちらを聞いてるのか分かりませんが、私は……私の仲間は『初代』と呼ばれたNEXTで、私は、たくさんを殺しました。事実で、本人です」
「……でも、若い気がすんだけどな?」
 ひたひたと足元に這いずってくる水のように、空恐ろしく告げられる言葉だった。嘘だというには説得力のありすぎる響きに、虎徹は遠回しな否定とも取れる問いを口にした。それはシレーネと会った時に、バーナビーも告げた言葉であった。少女の外見は、あまりに年若い。化粧や立ち居振る舞い、または整形技術で年齢を若く見せかけることはいくらでもできる。しかし虎徹もバーナビーも人間を相手にした仕事上、それらの見せかけならば違和を感じ取れるのだ。あ、これは違うな、という心の囁き。それは根拠のない第六感だが、今まで外れたこともない。それなのにシレーネには、なにも感じないのだ。誤魔化していないし、東洋系のように若く見えてしまうという訳でもない。彼女は真実、年若い。それでいて落ち着きはらった精神が、明らかに年齢を裏切っていた。
 どんな経験をしていたとて、十九年、あるいは二十年前後生きた存在が背負える落ち着きではないのだ。シレーネが真実『初代』であるのなら、ようやく納得の域に達するものである。けれどその為には、シレーネは六十前後の老婆でなくてはならないのだ。シレーネの告げた仲間が一人でも生きていれば、皆そうであったように。現在までに生き残っている『初代』は、ひとりとしていない。全員、三十代半ばで命を落としている。あるいは彼らの血縁だろうかとも思うが、公的な資料を信じれば、『初代』は誰も伴侶を持たずに生を終えていた。どの可能性も、彼女には当てはまらない。困ったように、シレーネはゆるく笑った。
「事件当時のままで、私は年を重ねていませんから」
「……不老不死ってことか?」
「いえ……二十四時間分老いて、リセットされているみたいなので、ちゃんとした不老とは違うようです。効果が切れればたぶん死ぬので、不死でもありません。いつ効果が切れるのか、本当に切れるのかも……私には分かりませんが」
 他人事めいた興味の薄さで己のことを語りながら、シレーネは困ったように首を傾げた。唇にそっと手を押し当て、うろうろと視線を彷徨わせる。やがて泣くのを堪えるように一度唇を結び、あの、とシレーネは囁いた。
「私、ちゃんと……分かるように言えて、ますか?」
 ごめんなさい、と溜息と共に吐きだされた言葉が、恥ずかしそうに響いて行く。
「あの、私あんまり、ちゃんと教育を受けてなくて……ヒーローになる時に勉強させてもらったんですけど、でも、やっぱりちゃんとできないことが多くて、それで、いつもカナートに、馬鹿って怒られていたので……。説明も、しても、分かってもらえないこととか、多くて、すみません……頑張るので、分かるまで聞いてくれますか? 私がんばって、お話しますから」
 実はさっき声をかける前に、すごく考えて練習したのだと告げるシレーネは、ひたむきな目を虎徹に向けていた。そうすると見ための年齢より、ずっと印象が幼くなるから不思議なものだ。口を開かなければまた、底知れぬ雰囲気に飲み込まれそうになると言うのに。たどたどしく告げられた言葉の中に『初代』の名を聞きつけて、その自然さに、やはり本物なのかと虎徹は思う。さらに質問を重ねようとするが、振動と共に車が停止し、ジャスティスタワーについたことを理解する。溜息をつきながら車を降りる虎徹の耳に、そっと、言葉が忍び込んだ。全部、とシレーネは言った。きっと全部、お話することになりますから、と。一瞬振り返った虎徹に、シレーネは微笑みを深めて立ちあがる。
 まるで殉教者のようだ、とそんなことを思った。



 トレーニングルームで虎徹とバーナビー、シレーネを出迎えたのは六人のヒーローたちと、呆れ顔のサポーターだった。特に楓は父親の失態が許せない様子で近寄らないで話しかけないで、と顔を合わせた瞬間に言い放ち、虎徹を大変落ち込ませていた。同じ家で暮らす家族であるから、朝の状態は重々承知していたものの、まさかこの時間になるまでPDAを起動させることもしなかったとは信じられず、連絡が取れないことで心を痛めていたらしい。バーナビーさんもしっかりしてよね、とびしりと言い放つ楓は、エドワードと同じくサポーターの制服姿だ。他のヒーローがアンダースーツではなく、それぞれ私服を身に纏っている中での仕事着なので、二人はやや浮いて見えるが本人たちに気にした様子はない。
 そもそも、普段からトレーニングウェアに混じって、サポーターはこの制服なのである。ヒーローたちはすっかり見慣れていたのだが、初めて見るシレーネにしてみれば新鮮なもののようで、入り口で立ち止まったままじっと眺めていた。居心地が悪そうにシレーネを見つめる楓と、少女の視線が絡みあうように出会う。シレーネは温かみのある笑顔を浮かべ、楓に軽く会釈した。楓の隣に立つエドワードは、バーナビーと同じくアカデミー出身であるから、少女がなんであるか知っているのだろう。どことなく戸惑ったような雰囲気でシレーネを見つめ、ようやくやってきたバーナビーに目を移すと、無言で首を傾げてくる。それに肩を竦めることでなにも話す情報がないことを示したバーナビーは、それぞれに緊張した面持ちの仲間たちを見回し、ぱん、と手を打ち鳴らして注目を集めた。
 びくん、と驚きに身を竦ませたシレーネを申し訳なさそうに見やり、バーナビーは集中する視線に慣れた仕草で、にっこりと笑みを浮かべてみせた。
「まずは遅れてすみません、お待たせしました。……察するに、彼女が、僕らが呼び出された用件そのものだと思っても?」
「ええ、アンタたちがあんまり来ないもんだから、こっちもまだ用件やなんかは聞けてないんだけど」
「……すみません」
 苦笑気味にそっと囁かれた謝罪に、ネイサンがハッとした表情でシレーネに顔を向ける。いいのよ、気にしないでちょうだい、と告げられた言葉は口調こそ普段のものだったが、そこにはどう接していいのか分からない戸惑いと、焦りのようなものが滲みでていた。ヒーローの中で最も人に接するのが上手いネイサンにしては、殆どありえないことだった。いくつものぎょっとした視線を向けられても、ネイサンはそれを散らそうとはせず、表面的にはごく普通の態度でシレーネのことを見つめていた。シレーネはゆるりと首を傾げてネイサンを見返し、やがて、バーナビーと同じく『知っている』ことを悟ったのだろう。苦笑しながら気にしないで、と口元に指先を押し当てる仕草は秘密の共有を求めるものに似て、ネイサンの緊張を柔らかく解きほぐして行く。
 声を潜めて知っているんですか、と問うたバーナビーに、ネイサンは視線を向けずにすこしだけね、と言った。
「アカデミー出身でもないヒーローで、知ってるのはアタシくらいなものだけど」
「あなたは、どうして」
「……説明より、あの子の用件を済ませてあげましょう? 私たちにはある自由と時間が、あの子にはない筈だから」
 二人の視線の先で、シレーネは身の置き所にも困った様子で、やや居心地悪く立っていた。それをどうにかしてやりたい、と思ったのだろう。駆け寄ったキースが笑顔であれこれ話しかけているものの、シレーネは言葉すくなく返すばかりで、打ち解ける様子は見られなかった。気弱で控えめに見える少女とキースの相性は、残念ながら良いようには見えない。キースさん、と男を呼びもどすイワンの手招きにしたがってしょんぼり離れて行くそのタイミングで、ネイサンがてきぱきと指示を下した。女性陣は速やかにソファに着席、男性陣はどこかから椅子とテーブルを調達して、すみやかに適当な場所に並べること。手の空いて暇な者はシレーネの持って来た資料を読むなどして、もうしばらく静かに待っているように。
 瞬く間に部屋から駆けだしたのは虎徹とアントニオで、二人がテーブルと椅子の調達係となるようだった。なにせトレーニングルームである。隣接した休憩室には全員が座っても余るくらいの大きさのソファが設置されているが、そこはあくまで親しく歓談する場所である。緊張しきった雰囲気を保ったままのシレーネを招くには、適切な場所とは思えなかった。カリーナとパオリンは素直に指示に従ってソファに腰かけ、ネイサンの言った通りに少女が持ちこんだと思わしき雑誌や新聞記事を手に取って眺めている。朝早くに呼び出され、現在時刻が昼前であるからその間に読みつくしてしまったものばかりだが、普段なら目にすることが叶わない類のものばかりなので、読む興味が尽きることはなかった。
 それらは全て、閲覧に許可が必要な情報ばかりだった。図書館などで閲覧可能なデータからは不自然に切り取られた過去の空白を埋めるもの。『初代』が活躍した時代の新聞記事であったり、雑誌にはインタビューが掲載されていたりしたが、それはどれも公に存在しているものではなかったからだ。それは五人目の存在を確認できるものばかりだった。新聞には写真付きで『初代』の活躍を報道する記事がのり、雑誌にはシレーネのインタビューが掲載されている。少女らの手元を覗き込んだエドワードが、溜息混じりに焚書からよく生き延びた分があったな、と囁いた。イワンも全く同じ意見のようで、バーナビーに人数分の飲み物のお使いを頼みながら、発掘された宝物を見る眼差しをそれらの資料に向けていた。
 バーナビーの手伝いに楓が小走りに後を追っていく。しばらくすると二人より先にカフェテーブルを持ったアントニオと、同じくカフェから拝借して来た椅子を持った虎徹が戻ってきて、ネイサンの監督のもと、全員が座れるソファの前に設置していた。慌ただしい動きをなんとなく眺めてしまうシレーネの前に、すいと手が差し出される。エスコートを務めたがるキースの笑顔に、シレーネはぎこちなく、てのひらに指先を預けた。触れることはなく、浮かび上がって手の中に収まる指を握る無作法をせず、キースは穏やかな動きで虎徹たちが持って来たシレーネ用の場所まで少女を導き、座らせた。なにも言わず、笑顔で離れてくれたキースに、シレーネはありがとう、と囁く。
 笑みを深めたキースがどういたしましてと告げると同時、慌ただしくバーナビーと楓が戻ってくる。これでよかったですか、と不安げにミネラルウォーターのペットボトルを差し出されて、シレーネは楓の指に触れないように慎重に、それを受け取って頷いた。触れない仕草に気がついた様子もなく、楓は胸を撫で下ろした様子でヒーローたちにも飲み物を配って行く。やがて全員の手元に飲み物が行き渡ったのを確認して、ネイサンが口を開いた。司会進行役を任されるつもりらしい。
「さあ、自己紹介から行きましょうか。それとも、アタシたちの名前はご存じ?」
「資料を頂いたので、名前は分かっています。ネイサン・シーモアさん?」
「ネイサンと呼んで。……ヒーロー名もご存じね?」
 ぴんっと張った緊張の糸は、殆どのヒーローが無意識で発したものだった。この場に存在する以上、シレーネはそれを知っていることになる。しかし通常彼らは顔も名前も伏せて活動するヒーローなのだ。バーナビーは慣れた様子で座っているが、キースはそわそわと落ち着きなく体を揺らしている。そのさまを申し訳なさそうに眺め、シレーネはしっかりと頷いた。
「はい、ファイヤーエンブレム。火を操る、自然操作系に大分されるNEXT」
「その通りよ」
「よかった。……それでは、改めまして、自己紹介させて頂きます。私の名前は、シレーネ。本来なら、刑務所から外に出られない筈の殺人犯で……あなたたちの言う、『初代』ヒーローのひとりです。ええと、私が今回、こうしてこの場所に居るのは……ヒーローTVと司法局からのご依頼があった結果、なんですが、その辺りちゃんとご存じのひといらっしゃいます、か?」
 反応を見ていると、どうも話が通じていないと分かったのだろう。怖々と問いかけられ、ヒーローたちはそれぞれに顔を見合わせた。唯一、うああぁ、とうめき声をあげて頭を抱え込んだのが、司法局勤めのユーリと同居しているエドワードである。当然、室内全ての視線が集中するが、エドワードは呻くばかりで顔をあげない。楓が気づかわしげに頭を撫でるとようやく視線を持ち上げ、エドワードは半分悲鳴のような声で言った。
「すいません!」
「い、いえ……あの、つまり、連絡行ってないんです、ね?」
「……いえ、楓の為にっていうか……楓とか、ブルーローズ、ドラゴンキッドの為に過去にあったとある事件について、近々真実が紐解かれ白日の元に晒されることとなるとか言ってた気がするんですけど、まーた仕事が忙しくて精神がタナってるよこのひととか思って放置していたというか、すいません誰もあなたがここに居る理由をちゃんと知りません」
 ペトロフ邸におけるユーリの取り扱いがなんとなく分かるエドワードの台詞だったが、名前を出された面々は寝耳に水の表情で顔を見合わせる。特に真っ先に名前を出された楓は、可哀想なくらい狼狽も露わにエドワードを見つめている。エドワードはそっと溜息をついて楓の手を握り、視線を合わせて違う、と言った。なにがと問う間もなく大丈夫だから、と断言されて、楓の体から力が抜け落ちた。男性と女性に別れて座っているので、エドワードと楓の間には微妙な距離がある。だからこそ抱きとめてやれず、背もたれに崩れた楓を心配そうに見やるエドワードは、やがてひどく申し訳なさそうな表情をシレーネに向けた。シレーネは苦笑いをして首を振り、息を吸い込んだ。
「朝、集まって頂いた時点で、なんとなくそんな気はしていましたから……それでは、その説明からします、ね」
 上手く説明できるか、という不安に揺れる表情で視線を揺らしながら、シレーネはひとりひとりの顔を見るようにして話しだす。
「まず……どこから説明すればいいのか。私がここに居るのは、あなたたちヒーローに……特に、女性のヒーローに、過去にあった事件の真実をお伝えすることがメインだと、思っています。ヒーローTVと司法局がなにを考えているのかは知りませんが、本来私は、死ぬまで刑務所から出られない立場です。お分かりのように、この首輪が……なければ、今でもそうでしょう。いつでも殺せる保障がなければ、私を外に出したくないくらい、私は……ヒーローとして、NEXTとしても、危険だと思われていて、その理由がえっと、殺人事件なんですけど。そもそも私が起こした事件について、ちゃんと知ってます……?」
 己が犯した罪をなんでもないことのように口にして、シレーネが見たのはやはり女性陣だった。年齢の若さから、それを知っているか疑問だったのだろう。楓、カリーナ、パオリンの順番に視線は巡らされ、どう言ったものかと考え込んでいる。その横顔に、声がかけられた。
「その前にさ。聞きたいんだけど」
 どこか責めるような、挑むような口調でパオリンが言う。
「君、本物? 本物っていうのは、本人かってことなんだけど……僕が知ってる事件の犯人は、その時、十九歳だった。今はもう、六十歳を超えてる筈なんだよ、生きてればね。君は、僕の目から見てとても六十には見えない。……君は誰?」
「……シレーネ本人です」
「どうして?」
 素朴な疑問に、シレーネは困ったように口を閉ざした。膝の上に置いていた手を持ち上げ、服の上から強く、胸を押さえて息を吸い込む。やがて持ち上げられた視線は、強いものだった。
「私の時間が、停まっているから。だから私は、外見的な年齢を重ねることができません」
「……止まってる?」
「オーチェの、ちからが。……それが時間の停止なのか、事象の停止なのか、私は分かりません。当時はそこまで研究が進んでいませんでしたから。とにかく、オーチェの、私の仲間には……停める、NEXT能力を持った子がいて。彼女は、私を助けようとしてくれて、でも……ごめんなさい、上手く言えない。一番最初から、説明、していいですか? うまく、分かりやすく、言えるかどうか分からないけど……。私がちゃんと、本人だって思ってもらえるように、私が、ヒーローになるすこし前から。私が、ヒーローであるのに、なんの罪もない一般人も巻き込んで、犯人もろとも……自殺しようとした、あの事件について。最初から、最後まで、全部を」
 お話するので、聞いてくれますか、と。囁く声はかすれて消える寸前の、かなしい歌のようだった。

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