自然とヒーローたちの視線はユーリに向けられるが、ヒーロー管理官兼裁判官の男は、彼らの視線をひとつも受け止めないままで、運転席から降りて来たイワンに問いかけた。
「彼女は」
「今来ます。……体調悪そうでしたが」
「そうでしょうね。NEXTですら眠いというか、全体的な倦怠感を感じるくらいですから……ああ、大丈夫ですか?」
よたよたと歩いて来る足音に問いかけると、暗闇に、白衣の裾がひらりと舞った。
「……だ、だいじょうぶにみえるんですか、あなたは」
「見えません。……が、意識を保ってください、お願いします。恐らく、状況を正しく説明できるのがあなただけしかいないんです。……最優先で最高の弁護士を探して上げますから」
「ぜったいですよやくそくですよききましたからね! っ、うぅー! 蝋人形ビームとか作ってスーツに組み込んでやるんだからぁーっ!」
ちょっとおおおおっ、と自社ヒーローの嘆きの叫びが深夜の公園に迸る。その音量でようやく意識をはっきりさせたのだとでも言うように立ち直し、ヘリペリデスファイナンスの技術者は、唖然とするヒーローたちに向かって頭を下げた。
「こんばんはー! キリサトです。類まれな災難の夜ですねー! えーっと、こっちは書類に書いてある分の事情は全員に知らせましたけど、そっちは説明してきました?」
「はい。とりあえずシレーネさんに誘拐事件の犯人疑惑がかけられていることと、シレーネさんが行方不明で未だ居場所の特定が叶わないこと。この状況……恐らくはNEXTでなければ意識の覚醒が難しい状態であり、ありとあらゆる都市機能が停止状態にある状況が、なんらかのNEXT能力による大規模災害であることは」
「うん。それだけ分かってれば十分ですねー。現在の状況をすっごく簡単に説明すると、NEXT能力による攻撃で、シュテルンビルトメダイユ地区のありとあらゆるものが停止しました。電気や通信は見た通りですが、人体にも影響が出ていて、今現在、メダイユ地区で起きてるのはこの場に居るのが全員だと思って良いと思います。時間も時間ですしね……」
公園に設置されたアナログ時計は、午前三時過ぎを示したまま、秒針を動かそうとはしていなかった。もちろん、この時間でも起きている人たちは居たでしょうが、と、仮面で顔の半分を隠した少女は、溜息混じりに首を振る。
「意識は喪失しているものと思われます。私も意識飛んでましたからね。起こされなければ! 寝てたと! 思いますからねー! ……なので、今日のTV中継は諦めてくださいねー?」
アニエスさんの耳元で空前絶後の視聴率チャンスだって言えば起きる気もしますが、機材が動かないんじゃどうすることもできませんし。あくびをかみ殺しながら言い添えるキリサトに、ヒーローの誰もがそっと胸を撫で下ろしたが、ふと気がついたネイサンが乗ってきたトランスポーターを見つめる。なんでこれは動いたんだろう、と言う視線だった。同様に、虎徹もユーリの車を振り返り、訝しげに首を傾げている。二人の視線の疑問を読み取り、技術者の少女はああ、と唸るように言った。
「ユーリさんの車、NEXT能力遮断コーティング実験してますから。上手く行ったってことですね。折紙サイクロンのトランスポーターも同じ理由で動かせました」
「能力遮断コーティング?」
「物理攻撃にはもちろん聞きませんけど、例えばこういう……んー、ジェイクの読心能力とか、精神系の能力を遮断するシステムですね。実験段階だったんですが、効果が確認されて何よりです。こんな形で確認されなくてもよかったんですが」
体調が悪くて仕方がないという風に溜息をつきながら、少女はヒーローたちに向き直り、さて、と気を取りなおす。
「最優先すべきはなんだと思いますか? ヒーローズ」
「都市機能の回復と、原因の特定?」
「原因なら分かってますよ、イワンくん。シレーネ以外に誰がこんなことできるって言うんですか」
説明が終わったら私眠っていいですか、といわんばかりにあくびをして、技術者は説明を求めるヒーローたちに対し、どうして分からないのかと不思議がり、首を傾げた。
「そっくりでしょう? 状況が。シレーネが、結果的に無差別殺人事件起こした時と」
「……そうなんですか?」
「そうですよー! 今回の方が範囲が広く、かつ、範囲に含まれる生命の維持が出来てるだけで、この原因は『初代』シレーネのNEXTによる停止状態だと思って間違いないです」
どうして分かるんですか、と言いたげなイワンの視線に、技術者はにっこりと笑った。
「というか、どうして分からないんですか?」
「……キリサトさん、機嫌悪いでしょう」
「良い筈ないですねー! だいたい! シレーネが逃げたとかそこから間違ってるんですよ! 彼女が逃げる訳ないでしょうが……というか! 百歩譲って逃げたとしても、それはお前らが殺害計画なんか練ってるからだあの大馬鹿ども一人残らず蝋人形にしてやろうかー!」
聞き流してしまうには、あまりに不穏な単語が入った言葉だった。どういうこと、と眉を寄せたカリーナに、技術者は倦怠感に負けて座り込みながら、そのままですと囁いた。
「刑務所の奥に居る分には法が彼女を守ります。そこまで手出しは出来ません。でも、外に出てしまえば多少強引でも事故で誤魔化せる、そう考えたんでしょう」
「なんで、そんなこと」
「計画を立てた警察の上の人間には、シレーネが殺害してしまった無関係の一般人、その関係者の血を引くものが大勢居ます。復讐したいんでしょう。分かりやすい理由ですね」
彼女の存在は歴史上、都合のいいように書きかえられて半ばを抹消されましたが、と静まり返った夜に言葉が響く。
「忘れなかった者はいるんです。良い方でも、悪い方でもね。……復讐したい気持ちは分かりますが、法はそれを許していません。ましてや、真正面から自分で行くなら心情的にともかく、今回は司法局とヒーローTVを巻き込んだ明らかな騙し打ちです。で、ここで問題なんですけど、誘拐事件起きたの知ってます? 警察官の娘さんが連れ去られたっぽいっていうアレなんですが」
「……まさか」
「シレーネがもし、その現場を見ていたとしたら、助けに行く可能性はすごく高い。……被害者が実は犯人の一人、しかも最終的な黒幕は警察という斬新な事件ですね!」
迷うことなく煌く笑顔で言い切ったキリサトに、まさかそこまで警察がやらかしたとは思いたくないヒーローたちに、沈黙が走る。特に、最近街を警備する警察官と仲のいいカリーナには受け入れがたいものがあるようで、思い切り顔をしかめて納得していない様子だ。反論が響く前に、まあ、と呆れ交じりの声が言葉を繋げて行った。
「組織犯罪ではないと思いますけどね。だったら、終わるまで徹底的に情報封鎖される筈ですし」
あくまで何人かの暴走でしょうと結論付けて、ですから、と続く筈の言葉は、静まり返った夜に響く銃声にかき消された。場に集った全員が、いっせいに音のした方角を振り返る。しかし全てが停止した都市だからこそ耳にすることが叶ったであろう遠くからの音は、月明り、星明かりしかない頼りない光源ではなお、場所を特定することが叶わなかった。ユーリが告げた警察署内の状況と技術者の言葉を信じるのであれば、メダイユ地区で目覚めているのは、それなりの能力を持ったNEXTだけである筈だ。シレーネが何者かに襲われて姿を隠している可能性がある以上、見逃してはいけない音だった。咄嗟に走りだそうとするヒーローたちに向かって、闇の中から声がかかる。
「動くな。現場が分からないまま動こうとするなど、お前らそれでも現役か?」
乾いた地面を穿つブーツの音が、暗闇の中からこちらへと近づいて来る。それは、奇妙に聞き覚えのある声だった。
「……まんまと捕まった、あの馬鹿に比べればマシだがな」
暗闇から視認できる距離で立ち止まって、その男が息を吐く。信じられないと言いたげに目を見開いたカリーナが、隣に居たバーナビーの腕を引っ張った。
「……嘘でしょ?」
「僕もそう言いたいです……」
声を発したのはその二人だけだったが、場に立つ者は等しく、彼らと同じ意見を表情に張りつかせていた。軍服を着た男は、その反応に煩わしそうに顔を歪めるばかりで、言葉を告げようとはしなかった。その高慢なまでに他を拒絶する態度は、映像の初めに見た椅子に座る男と同一のもので。その顔かたちも、立ち姿も、昼に見た映像の中から抜け出してきたものとしか感じられなかった。それなのに男は、生身の存在感を持って涼しげに立っている。帝王、と誰かが囁くように呟く。
男は煩わしげに眉を寄せ、カナートだ、と吐き捨てた。『初代』のひとり。『帝王』カナート、その人だった。
シレーネが意識を取り戻したのは、太陽がすっかり姿を隠してしまった、音の無い静かな夜のことだった。ひどく殴られたらしき頭が言葉にできない程痛むのを感じながら、シレーネは息を整え、嫌がる体を叱咤してじりじりとまぶたを持ち上げた。幸い、室内は静まり返っていて呼吸音もなく、一人きりだというのは分かっていた。意識を取り戻した瞬間、真っ先にそれを確認した己に笑いたい気持ちになりながら、そろりと室内を見回す。家具もなにもおかれていない、まっさらなワンルームマンションの一室のように見えた。一人暮らしで、眠りに帰るだけの生活で良いならば、ぴったりの大きさの部屋だろう。ベッドを置いて、服を入れる棚を置いて、生活に必要ないくつかのものを置けば、あとは足の置き場を選ばなければいけないくらいに狭い。額に手を押し当てながらよろよろと上半身を持ち上げれば、壁だとばかり思っていたのは対面式キッチンとの区切りであったようで、そっと覗き込むと粗末なコンロと作業台、洗い場を確認することができた。
しかし、物はなにもおかれていない。がらんとした空間にあるのはシレーネの体ばかりで、少女の体を縛るロープもなければ、武器になりそうなものを見つけることも出来なかった。体へのダメージと騒音を考えなければ、窓硝子を叩き割ればそれなりに有効な武器になりそうだったが、そうするだけの理由が今はなく、シレーネはだるい体をころりと床に投げ出し、そっと目を閉じてなぜこうなったかを思い出そうとした。吐き気を通り越して意識の明滅を覚えるくらいの頭の痛みは、呼吸を繰り返せば、それだけでゆるゆると遠ざかって行く。カ、カチ、カチン、と硬質な音を奏でて動く秒針の音を聞いた気がして、シレーネは緩く微笑んだ。シレーネはどんな身体ダメージを受けたとしても、死ぬことが出来ない。それは体の時間が停止しているからであり、その原因となった仲間の能力が、徐々にシレーネの体を回復させてくれているからだった。
二十四時間に一回、完全なリセットが執り行われる他にも、こうして怪我をすればゆるゆるとシレーネの体は癒されて行く。時間を逆巻くように体が楽になっていき、目覚めて十分も経過した頃、シレーネは失われた血液が体の中に戻り、下がっていた体温も回復したことを悟った。頭のひどい痛みも、もう消えている。溜息をついて目を開き、同時に鮮明になった記憶に、なんだか酸っぱい気持ちになって唇をきゅぅと閉ざす。映像の中でカナートが言っていた、要約すれば犯罪に巻き込まれやすい己の体質を信じたくはないが、こうも巻き込まれてしまうとなにか引き寄せているのではないか、と思わざるを得ない。ジャスティスタワーに向かう途中、シレーネは嫌がる少女の手を引く、いかにも怪しい数人の男たちを発見した。男たちの進行方向には車があり、少女はいかにもか弱く、怯えて声も出ない様子だった。辺りを見回せば人影はなく、助けを待つ余裕もなさそうだ。勇気ある者なら、例えヒーローでなくとも、少女を助けたいと思うだろう。シレーネも、迷わなかった。
なにをしているの、とできる限りの大きい声をあげながら駆け寄り、腕を引っ張られていた少女を背に庇うようにして男たちから引きはがす。相手はシレーネより背の高い、体格の良い男たち三人だったが、不思議と恐怖は感じなかった。殺気と敵意がないことに気がついたのはその瞬間で、シレーネの背を恐怖にも似た警告が駆け抜けたのもその時だった。ハッとして振り返るより早く、背から灼熱が体を貫いた。遠距離から狙撃されたのだと気がついても、くず折れた足が地に倒れるのを止められない。声もなく倒れたシレーネを見て少女は悲鳴をあげ、助けようと手を伸ばすのが見えた。いいから逃げなさい、と言おうとしたのが最後で、頭に強い衝撃を受けたことまでは覚えていた。もしかして、頭も打たれたのではないだろうか。そうすると本格的に化け物じみた回復力であるので、シレーネはげっそりと息を吐いた。あの少女のトラウマにならなければいいのだが。そんなスプラッタが記憶に刻まれるのは、あんまり可哀想なことだった。可愛らしい女の子だったことだし、あの少女のあげた悲鳴は、きっと本物だった。
シレーネをおびき出す為の罠だと考えるには、あまりにタイミングが良すぎる。あらかじめシレーネに対して狙撃班が用意されていて、その時を狙っていたに違いない。そう考えれば、あの女の子も、連れ去ろうとしていた者たちも半ば被害者だ。命があればいいのだが、シレーネはあまり事態を楽観視できない性格だった。せめて女の子だけでも助かっていればいい。深々と溜息をついて他人への心配を打ち切り、シレーネはさてどうしてこんな場所に拘束もされず、ただ転がされていたのかを考えた。相手が事情を知らなければ、単に死体を適当に転がしたと思えなくもないが、それにしても雑である。
「……っていうか」
そもそもシレーネに対して殺害計画を練って実行することこそが、雑だと思えて仕方がなかった。死ねるのであれば、シレーネはもうとっくに何回か殺されている筈なのである。さすがに刑務所の中までそう手は伸びてこなかったが、完璧に警備され整えられている筈の刑務所においても何度か食事に毒を混ぜられたことがあるし、シレーネの能力を知ったNEXTの研究者に、このままでは危ないからと声帯を切除されたこともある。その時はさすがに、二十四時間で全リセットをかけてくれるオーチェの、切り離され、狂ってしまった力に感謝したものだ。声が出せなくなるのは、シレーネにとってあまりに辛いことだった。今回の計画を立てた誰かは、きっとそれを知らないのだろう。シレーネを死なせることはできる。シレーネの能力は己の肉体を強化することはできないし、あくまで自分の意思では回復させることも、再生させることもできないのだから。心臓の鼓動を停止させ、脳を死に至らしめることは、普通の人間に対するのと同じように、いくらでもやりようがあるのだった。
出来ないのは、死なせ続けて置くことである。死はシレーネに取って途切れてしまう通過点のようなもので、ある程度すれば意識は回復するし、体の状態も何事も無かったかのように修復されてしまうのだ。シレーネがいつ死ぬのかを、本人すら知らないでいる。当初それは、シレーネの体の時間を捻じ曲げた本人であるオーチェが死亡すれば自動的に解除されるものとみなされていたが、その死の報が奏でられてなお、巻き戻る状態からは脱することが出来なかった。虎徹の質問に対して、シレーネは不老不死ではないと答えたが、半分以上は希望にまみれた言葉だった。そうではないことを、未だに証明できていない。だが、だからと言って、別に積極的に殺されてやりたい訳ではなく、死にたい理由を見つけることもできなかった。殺害計画があると知れば逃げるくらいには、シレーネは生に執着している。ごく普通の人間と、おなじように。
考えても上手く答えのでなさそうなことばかりだったので、シレーネは潔く、思考そのものとを打ち切って立ち上がった。元々、考えて答えを出す、という作業はシレーネの専門ではないのだ。それはもっと頭の良い誰かがすれば良いことで、ここに転がされていた理由も、殺されなければいけない訳も、とりあえずシレーネが生きようと思う感情に歯止めをかけることができない。床に手をついてゆっくりと立ち上がり、体の平衡感覚が元に戻っていることを確認する。窓から街並みを眺めれば当然、見覚えなの無い景色ばかりで困惑したが、なんとなく、シュテルンビルトの外にいる訳ではないような気がした。恐らく、メダイユ地区のどこかだとも思ったが、根拠はなかった。ただ、そう思ったのだ。そしてその感覚を正しいのだと、とにかくシレーネは信じた。信じるものも、それしかない。
扉までなるべく足音を立てないように歩いて、扉の向こうの気配を伺う。耳を澄ませてもなんの物音も感じなかったので、意を決してドアノブを手で掴む。がちん、とさすがに鍵が開放を阻んだが、シレーネは諦めなかった。息を吸う。全身を青白く発光させ、シレーネは一言に意思を乗せて命じた。
「開け!」
ひどくひどく、耳障りな金属音を奏でて、鍵が壊れて命令を受け入れる。軋みながら開いた扉に手をついて息を整えながら、シレーネはなるほど、と思った。普段ならば体に感じない、重たい疲労が存在している。シレーネの能力は、相手に意思がなければ効かない、筈だった。しかし無機物にも効果が発揮された以上、能力はやはり、制限限界を突破しているらしい。疲労感はその証で、カナートの言葉を信じるのなら、寿命が削れているということなのだろう。シレーネに寿命が、正常な形で残されているのであれば、削れているのだろう。思い切り苦笑して廊下に体を滑り込ませ、シレーネはきょろきょろと辺りを見回し、思い切り首を傾げた。粗末な部屋からは想像できない、高級ホテルのような廊下が広がっていた。右手側はすぐ壁になっていたが、左手側は向こう百メートルくらいにずらりと重厚な扉が並び、ふかふかの絨毯がシレーネの靴を受け止めている。
ベージュ色の汚れが目立ちそうな絨毯には足跡のひとつもなく、等間隔に灯された明りには埃がつもった形跡すらない。徹底的に清掃され、整えられた廊下だった。それなのに、人の気配が全くしない。どこの部屋からも物音はしなかったし、耳を澄ませてもしんと静まり返るばかりで、歩み寄る足音も聞き取れなかった。シレーネは真っ先にNEXT能力の存在を疑ったが、それでいて、五年間の経験を持つヒーローとしての感覚が、その可能性を真っ先に否定した。NEXT能力の罠にはまったのだとしたら、独特の圧迫感、緊張感を感じなかったからである。迷いながら、シレーネは廊下の端に向かって足を踏み出した。とにかく、ここを脱出したいと思ったからだ。慎重に、それでいて急いで足を進めて行く。周囲に対する警戒を怠っていたと、シレーネは決して思わなかった。しかし、巧妙に仕掛けられた罠に気が付くこともできなかった。
絨毯を踏んだ足の下で、かすかな物音が響く。シレーネがそれに気がついた瞬間、足の下から爆発が起こる。痛みと熱で片足の感覚を失ったことを自覚しながら、シレーネは廊下の壁に体を叩きつけられ、意識を暗闇の底に落としてしまう。焼け焦げ、穿たれた廊下は、再び静寂を取り戻すばかりだった。
もしかしてこの建物はものすごく罠満載の、そういう施設ではないのだろうかとシレーネが気がついたのは、通算で四回目の意識喪失と重傷から回復して、動けるようになった時だった。頭の片隅で、だからお前は低能だと言うんだ一回目、もしくはどんなに遅くとも二回目で気が付けとカナートが頭を抱えながら血を吐くような絶叫を発した気がしたが、シレーネにしてみれば気がついたのだから褒めて欲しいくらいだった。偶然、対テロリスト用に対人の、即死に近いような罠ばかりが仕掛けられた建物に閉じ込められただけかも知れないという可能性は、あり得なさ過ぎてシレーネをげっそりさせたが、脱出への意思をくじく想像にはならなかった。ただ、別に痛いのが平気な訳でも好きな性癖でもなかったので、さすがに進むのはいったん止めてその場にしゃがみ込む。
「……うーん」
こうなると、シレーネがここに居るのは、意図して運ばれたと考えるのが正しいのだろう。部屋に鍵をかけられていたのは、シレーネの身の安全を確保する為だったのかも知れない。連れてくる手段が手荒すぎたので、まさかそんなことはないだろうが。どうしようかなあ、とまとまらない思考を投げ捨てたがる溜息をついて、シレーネは眉を寄せた。正確な現在位置も分からなければ、今が何時なのかも分からないし、この場所がなんなのかも分からないし、犯人の目的も分からないし、どうやって進めば罠に引っ掛からずに進めるのかも分からない。分からないことしかなかったので、シレーネは分かることを考えてみた。とりあえず、シレーネをここに運んだ相手は、確実に少女に対する悪意を持っている。間違いのないことだった。そうすると、とシレーネは座りこんだままで毅然と顔をあげ、なにもない空を睨みつけながら息を吸う。
「……私が死なないのは分かったと思うけど」
それでもまだこの、やたらとお金かかりそうな設備動かしたいの、と呆れを色濃く出した言葉に、返る物音はないままだった。辺りは相変わらずしんと静まり返っていたし、人の気配はどこにも感じられない。しかし耳を澄ませて待つシレーネは、確かに、どこかで機械の動く音を聞き取った。監視カメラと、そして。どこかにスピーカーが、ある。
『しかし、絶命しない訳でもないらしい。君はもう、幾度か心臓を止めているじゃないか』
響いて来たのは穏やかな壮年の、教養の高さを感じさせる男の声だった。あくまで冷静で、楽しんでいる風にすら響く言葉に、シレーネはそっと息を吐きだした。
「あなたはなにがしたいの?」
『納得する理由が必要かね? 君に恨みを持つ者はいくらでもいるだろう、殺人者シレーネ』
「ただ、私を殺したいの? 死ぬけど、死なないのは確認できたでしょう?」
これは恐らく遺族ではないし、その関係者でもないな、とシレーネは思った。そういう存在は、シレーネを前にして、こんなにゆったり喋らない。これは、シレーネの声帯を切除してNEXT能力の解析をしたいと言い出し、権力で許可をもぎ取ったあげく強行した科学者と同じ類の存在だった。心底気持ち悪い。部類としては最悪に叩きこみたいそれに掴まってしまったことをようやく理解して、シレーネは頭を抱え込んだ。
「……誰かに頼まれたのね?」
『君はただ、死に続ければいいのだよ』
「私は」
死なないと確認したでしょう、と告げようとして、シレーネはあたりの空気が淀み始めたことに気がついた。毒ガス、と本能が判断を下す。慌ててその場から逃れようとする足が、がくりと崩れて倒れこむ。手足がびりびりと痺れて痛い。瞬く間にぐらついて来た意識で彼方を睨みつければ、音声の向こうで、男は笑ったようだった。
『被害者の数だけ、君は』
死刑を執行されなさい。穏やかに、穏やかに響く声を聞きながら、シレーネの意識が落ちて行く。くちびるが動いたのは、無意識だった。
「……た」
なにかを言え、と言われたことは覚えていた。カナートが真剣な顔をして、ちゃんと覚えろ、と言っていた。四文字の言葉。それは途方もない、願いのような。
「す、け」
恐怖を乗り越えた向こうに輝く、あたたかい、いとおしい、光のような言葉。
「……て」
「はい」
意外なことに言葉は、すぐ近くから聞こえた。本当にすぐ近く、シレーネの体のすぐ、傍から。もう動かない体でまぶたをなんとか持ち上げようとするシレーネの目を守るように、そっと手が視界を覆ってしまう。温かいてのひらだった。その体温を、シレーネは知っていた。うそ、と言葉が零れる。夢だと思った。だから、名前を呼べた。
「……キエフ」
はい、と声が囁く。よくできましたね、と助けを求めたことを穏やかに褒められて、シレーネの意識は柔らかな死に沈みこむ。すぐに命が蘇るであろう体を抱きしめて、現れた軍服の男はまなじりを怒りに吊り上げ、吐き捨てた。
「彼女を守りもしない、星の都市よ」
命令より気高く、怒りより鮮明に、叩きつけられる言葉。
「……深く、影の中に沈め」
冷たく体温を失ったシレーネの手を強く握り、全身を青白く光らせながら。キエフはためらわず、能力を発動させた。