しばらくお見舞いに来ることができないと思うんですよね、とベッドの傍らに寄せてある椅子に座るなり告げたキリサトを、イワンはごく慎重な眼差しで見つめた。目の下には隠しきれない隈が浮かび、顔つきも疲れ切った者のそれだ。ワーカーホリックで、休日から逃げて逃げて逃げ回って、休日取得率の向上に躍起になる経理部を激怒させている張本人とは思えない、珍しい姿だった。病院に来るからなのか作業用の白衣は脱いでいるが、顔には見慣れたシルバークラウンのマスクがあり、上下はファストファッションだと見てすぐ分かる簡素な白いシャツに黒いズボンで纏めており、直前まで研究室で忙しくしていたことが分かった。寝ていないだけでシャワーは浴びているのか、少女からはふんわりとシャンプーの香りがしたが、汚れを落として眠気を払う為の一作業であり、その後就寝という流れにはなっていないだろう。いったい何日満足に寝ていないのか、あくびをかみ殺して目を擦る姿はイワンよりよほどベッドの住人になるのに相応しく、ごく自然な疑問として、イワンはどうしてですか、と問いかけた。イワンと少女以外には誰もいない個室に響く声であるのに、キリサトの反応にはまるで自分が話しかけられたと思っていなかったとでも言うような、奇妙な空白が横たわる。一瞬、意識を落としていたのかも知れない。
「……忙しくて」
言葉を濁したというより、一言に集約して説明を終わらせてしまいたかったのだろう。ひどくめんどくさそうに告げられて、イワンは眉を寄せて不満顔になった。
「僕には言えないことですか?」
「うー……イワンくん、ニュースペーパー読んでますー? ちょっと前に、ヘリペリで大規模なリストラが決行されたって記事になったんですけど、それで今、ばったばたしていて」
つまり本当に、本気で、心底忙しくて、忙しくて忙しくて仕方がないだけなんですけど、とぼんやりとした口調で告げ、キリサトはぶんぶんと頭を左右に振った。ぎゅぅっと目を閉じて伸びをすれば、幾分、こびりついた眠気が遠ざかったらしい。すこしばかり目の覚めた顔で、少女はあのね、と幼く言った。
「私、ちょっと偉くなることにしました」
「……えっと?」
「この間、イワンくんがアンダースーツだけで出動して、そのことを私たち技術者は、連絡が届かなくなってから知って……イワンくんが、私たちになんとか連絡を繋げようとしてくれずに行ってしまったことも悲しかったですが、私はすごく、悔しくて。ちゃんと、偉くなってたら、イワンくんをあの時止めることも……限られた時間で、もし、たったの五分しかなかったとしても、アンダースーツの能力をその五分で出来る限り、向上させてみせたのにって。だから、私は偉くなることにして、マイケルに頼んで邪魔なひとたち全部いなくしてもらって、残った技術者で仕事割り振ってどうにかして、イワンくんが退院してくるまでに落ち着かせようとしてるんですね?」
だから、忙しいんですよー、とのんびり口調で笑ったキリサトは、告げながらまた半分、意識を夢の世界に旅立たせてしまったらしい。ほわんほわんした口調で囁かれるのにイワンまで眠気を誘われながら、それはつまり、と眉を寄せて考える。少女の言葉が正しければ、ほぼ完全なる私情に基づいた判断によってリストラが決行されたことになる。もちろん、対外的にはもっともらしい理由を付けくわえて発表したのだろうが、シュテルンビルト七大企業のうち一つとして、また真っ当な会社として、決してやっていいことではなかった。しかし、すでに終わったことである。ぐったりとした気持ちで頭を抱えながら、あなた一体なにしてるんですか、と呻いたイワンに、キリサトはにっこりと、満面の笑みを浮かべて言い放った。
「成長には、時として犠牲が必要なんですよ、イワンくん」
「犠牲って言葉で片付けていい問題じゃない気がするんですけど……! CEOも……CEOって、本当に時々、キリサトさんの言うこと聞いてとんでもないことするんですから……っ」
「あのひとは、私の言うこと聞いてくれなくても時々とんでもないので、私のせいにしないでくださいねー?」
いえ、私関係ありませんから、と言わんばかりの輝く笑顔を、イワンは半ば以上諦めた気持ちで眺めやった。ヘリペリデスファイナンスに入社してけっこうな時間が経過しているし、CEOとも、この少女技術者とも親しく仲良くしているとは思うが、未だにこの二人の関係が全くもってよく分からない。仲の良い他の技術者に聞いても、人生にまだ未練があるので話したくない、と徹底的な拒絶で教えてくれないので、親しい間柄であることは知っていても、その関係に名前を付けることができないでいる。くすくすと笑う少女は、恋をしているとすればあまりに穏やかで、けれどもそうでないと思うには、あまりに甘く響く声だった。CEOは、と他の誰も紡げないであろう清らかな響きで役職を紡ぎ、キリサトはゆるりと首を傾げて目を細める。
「お見舞いに来たがっていましたけれど、まあ、来られるとしても一週間後とかだと思います。私も、次に来られるのは……半月後、くらいかな。それまで、ちゃんと看護師さんの言うこと聞いて、安静にいいこにしてるんですよ?」
「キリサトさんこそ、良いから寝てくださいね。倒れる前に」
「この先一ヶ月くらいは人生超前のめりに生きるって決めたんで、倒れる前になんとかなります。大丈夫です!」
ほら前のめりになれば倒れる前に足が出てなんとかなるじゃないですか、と心底頭の悪そうな発言を響かせて帰って行った天才技術者が今日中に眠る確率は、今すぐ隕石がシュテルンビルトに落下して都市が滅亡する確率より低いだろう。会社に帰ったらすぐ経理部にでも発見されて、医務室に連行されればいいのだが。ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部の技術部と経理部は犬猿の仲とするよりは、反抗期真っただ中のわがままっこと問答無用で言うことを聞かせようとする保護者めいていて、常になにかしら言い争っているの。だが、十二割くらいの確率で正しさは経理部にあるで、キリサトは早々に経理部長に確保されたのち、お説教でもされればいいのだった。全く手のかかる幼馴染を見送ったような気持ちで魂の底から息を吐き、午後を迎えたばかりの晴れ空を見上げた。徹夜でもしてしまったかのように、精神が疲弊しきっている。これでは治るものも治らない気がしたので、イワンは気晴らしに院内を散歩することにした。幸い、絶対安勢のタイガー&バーナビーと違い、イワンにはある程度の自由が許可されている。スリッパに足を滑り込ませ、戸口のプレートを外出中のそれにして、イワンはゆったりとした足取りで廊下を歩きだした。自然に足が屋上へ続く階段を選んだのは、窓から見上げた空が、あんまり綺麗に晴れていたからだった。高く、雲が流れているのも見えた。上空の風は強く、それでいて、穏やかな光景が広がる午後だった。
ヘリポートを兼ねている屋上はなにもなく、がらんとしていた。特に人の出入りを禁止している訳でもないのに、人影がどこにもない。からりと晴れた陽気であるから、逆に、中庭に賛否に出るものが多いのだろう。下から吹き上げてくる風に乗って、遠く、こどもたちの明るい笑い声が響いた。ヒーロー御用達のNEXT医療に強い病院ではあるが、もちろん、一般診療も受け付けている為、雰囲気はただの病院と変わるものではなかった。張り巡らされた鉄柵の前まで歩み寄り、イワンは目を細めて広がる風景を眺める。病院はすこし都市から離れた場所に建てられているが、ゴールドステージの端にある。だからこそ目に映る光景は三つの階層を眺められる複雑で美しいもので、イワンは思わず満ち足りた息を吐きだした。ここから見える都市は、記憶にあるもの、そのままのように感じられる。もちろん、傍に寄れば大小さまざまな被害は出ているだろうが、あった筈のものがぽっかりと消えてしまったような喪失感はなく、天気と相まって非常にのどかで平和なように思えた。あの都市を、そこに住む命を、イワンは守ることができたのだ。じわじわと湧きあがってくる喜びに、唇がうっとりと微笑む。守れた。ヒーローは、ちゃんとシュテルンビルトを守れたのだ。イワンはヒーローとして、その力の一欠片として、動くことができたのだ。被害は大きかった。分かっている。けれど、喜びが溢れていた。大きく息を吸い込んで、吐き出す。エドワードまで頑張りが届いただろうかと、そんなことを思った。
親友は、イワンの頑張りをどう評価してくれるのだろう。よくやったな、と言ってくれる気もしたし、まだまだだな、と笑われてしまうような気がした。どちらでも、よかった。そんな風にエドワードのことを思える日がやってきたことも嬉しくて、イワンは上機嫌に目を細めて空を仰ぐ。その顔にふと、影が落ちた。それはあまりに唐突な薄闇で、一瞬、イワンから思考のなにもかもを奪って意識を白くしてしまう。え、とようやく声が出たのは、『それ』がはっきりと分かる大きさになってからのことだった。上空から凍てついた空気の塊が、真っ逆さまに落ちてきている。息苦しいそれに耐えながら、イワンは両腕を広げて、『それ』が落ちてくるであろう地点へと駆けだした。『それ』は意識を失っているように見えた。イワンは落下地点に身を滑り込ませるようにして、彼の名を絶叫した。
「キースさん!」
ごうっ、と音を立てて空気の塊が爆発的に四散していく。木々が激しく揺れ動く音がいつまでも響き、こどもたちの悲鳴が上がって、消えた。それらを意識の端に留めながら、イワンは落ちてきたキースをなんとか抱きとめた姿でヘリポートに仰向けになり、衝撃と苦痛に歯を食いしばる。頭を強く打ってしまったので、意識が上手く定まらない。は、は、と浅く早い呼吸を繰り返していると、ふわり、と風が揺れ動いた。意思を持ったかのような、優しい動き。白手袋をはめてたおやかに動く、貴婦人のてのひらを思い起こさせるような流れ。瞬きをして視線を向けると、ひどく申し訳なさそうな青い瞳と目が会った。ああ、と溜息をつく。なんて純粋な空の青だろう。激しい雨嵐が抜けて行った後の、きんと透明な空気の元でしか見られない、純粋で無垢なまでの空の青色。それを宿した瞳。
「……天使って空から落ちるんですね」
「イワンくん、大丈夫かい? 頭を打ったんだね……」
可哀想に、とそっと伸びてきた手で頭に触れられて、イワンの意識が覚醒した。あ、とまんまるく口を開いてしげしげと目の前の人物を見つめ、大きく息を吸い込んでから名を呼ぶ。
「キースさん。……こんにちは」
「ああ、こんにちは! と、すまない。すぐに退くよ」
青く、青白く、閃光のような眩いひかりがキースの体を覆うように現れ、風がふんわりと大柄な男の体を持ち上げる。重力などまるで感じさせない様子で、床から十五センチ程の高さに足を置き、キースはにこにこ笑いながら、ヘリポートにしゃがみこむイワンに手を差し伸べた。
「立てるかい? ……本当にすまない。だが、助かったよ」
「僕は大丈夫です。……それより、怪我はありませんか?」
「それは私の台詞だね。君も、まだ怪我が治りきってはいないだろうに。痛む所はないかい?」
差し出された手を掴んで立ち上がり、イワンはズキズキと痛む後頭部にそっと手を押し当てた。幸い、切れてはいないようだった。すこしくらいは内出血で腫れるかも知れないが、特に怪我という怪我をしたとは思えなかった。キースが言うように体は完全に回復しきっていないが、傷口が開いてしまった嫌な痛みもない。イワンはそっと胸をなでおろして、不安げなキースに大丈夫ですよ、と言い切ってやった。
「キースさん」
「うん?」
「……君も、ということは、キースさんの怪我は完治していないんでしょう? どうして空飛んじゃうんですか……」
怪我の回復とNEXT能力の使用には親密な関係性はないが、それはイワンの擬態やアントニオのような硬質化に限った問題で、キースの場合は事情が違ってくる筈だった。ただ、風を動かすというだけであれば問題ない。しかし己の体を重力から切り離すよう、空に舞う鳥のよう浮かび上がって飛ぶともなれば、怪我の回復に差しさわりがあることなど、誰であっても分かることだろう。イワンに指摘されずとも、キースはちゃんと、そのことを分かっているらしい。申し訳なさそうに苦笑して、うん、と頷き、諦めきれない様子で空を見上げた。ゆったりと、白い雲が東へ流れて行く。鳥たちが、その流れを追うように飛び去って行った。さっきよりはずっと穏やかな風が、梢を揺らして過ぎ去って行く。雨音のように心地良く耳に染みる、枝葉が揺れる音がした。こんな日に空を飛ぶことができたら、どんなにか気持ちがいいだろう。そっと息を吐き出して、しかし、イワンは未だ十数センチ浮かび上がったままのキースの腕を掴み、容赦のない力で下に引っ張った。彼が、スカイハイが肩を負傷していることは知っていた。けれども、それがなんだというのか。痛みによって地に繋ぎとめられるのなら、それはそれでいい気がした。彼は鳥ではない。風でもない。ましてや天使なんてものではなく、キース・グットマンは、人間だった。NEXT能力を持つ、ひとなのだ。ぐ、と喉の奥で痛みをかみ殺す悲鳴が響き、ふらつきながら、キースが靴底をヘリポートにつける。掴んでいた腕を離し、イワンは静かな怒りを込めてキースの横顔を見つめた。ばつが悪いのだろう。視線は反らされたまま、イワンの方を向く気配がない。
「……キースさん」
「うん」
「駄目ですよ、飛んじゃ。……駄目です。怪我がちゃんと治るまで、安静にしていてください。そんなこと、キースさんにだって分かっている筈でしょう?」
なんで、と告げる声は苦しく、イワンの喉にひっかかりながら出て行った。キースは、イワンよりずっとヒーローであるのに、どうしてそんな簡単なことも守れないのだろう。それは怒りによく似た悲しみだった。シュテルンビルトのKOH、スカイハイに憧れる一市民のように、イワンは失望にすら似た気持ちで男の横顔を眺める。ヒーローアカデミー在籍時代、まだエドワードが隣にいた時、夢を語り合いながらスカイハイへの憧れを口にしたことを思い出す。彼は、イワンがまだ夢物語にするのも恐ろしいくらい、ヒーローを神聖なものとみなしていた時から、ずっと憧れの存在だった。人は彼を風の魔術師と呼び、いつしかキング・オブ・ヒーローと、その称号をスカイハイに対する固有名詞であるかのように、囁き喜び口にした。その思い出が、イワンに悔しい想いを抱かせる。もどかしかった。こんな風に空を飛びたがるスカイハイなんて、イワンは知らない。同じヒーローとして働き始めてからも、天真爛漫なひとだと想うことはあれど、こんな風に言葉を聞かずただただ空を求めるこどものような姿を、想像したこともなかった。視線が出会わない。彼は空だけを見つめている。
キースさん、とイワンは男の名を呼んだ。うん、と返事は返ってくる。返事だけが、返ってくる。
「……どうしてそこまで、飛びたいんですか?」
「私は」
ゆるく、悲しげに目を細めてようやく、キースはイワンを振り返った。その瞳に、拭いきれない焦りを見る。それは傷が未だ癒えぬことにではなく、また、自由に空を飛べないことでもないように思えた。キースは、なにかに焦っている。イワンはそれを理解できない。教えるつもりもないであろうキースは、またふっと視線を反らし、青い空を見つめた。
「私は、スカイハイだからね」
風が吹く。天の高くで、地上の近くで風が吹く。雲を運び、梢を揺らすその音は、どこか寂しげなものだった。
キースがイワンを訪ねてきたのは、屋上で落下してきたのを受け止めてから、数日後のことだった。あの人に休みを取らせることがどれだけ大変なのか分かって頂けますよねあなたならばっ、ところでこれが頼まれていた本です、とそつなく、イワンの頼みに従って図書館から借りてきてくれた数冊の書物を置き土産に、経理部長が出て行った直後のことだったので、ノックの音が響いて、はじめは彼が戻ってきたのかと思ったのだが。はい、と不思議がって入室を許可したイワンに、お邪魔するよ、と響いた声をさすがに間違える訳もなかった。とっさに、ベッドから立ち上がろうとしたのは、ほとんど無意識の行いだった。慌てた体がバランスを崩し、柔らかなベッドに全身を受け止められてもがいていると、室内に体を滑り込ませたキースと目があって、沈黙する。なんでこんな所を見られなければいけないのか。気が遠くなりかけながら、イワンはもそもそと体勢を立て直してシーツの上に座りこみ、何事もなかったかのような装いで、キースにぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、キースさん」
「……もしかして、まだ体調が悪いのかい?」
「いえ、ただの事故です。お気になさらず」
言外に、それ以上追及しないでくださいと力いっぱい意思を添えれば、キースは分かったような、よく分かっていないようなあいまいな仕草で首を傾げ、うん、と語尾をあげる返事をした。続く会話もなく広がる沈黙に戸惑いつつ、キースが少しずつ、イワンに近寄って来た。一歩、一歩、ゆっくりと足音を響かせてベッドの傍で立ち止まり、キースはじっとイワンの顔を見つめる。あの日、満足に振り返りすらしなかった空色の瞳が、一心にイワンを見つめるさまは、なにか不思議な感覚を心にもたらした。不思議と、気持ちが落ち着いて行く。
「……キースさん?」
「うん」
「とりあえず、座ってください。それから、僕に会いにきてくれた理由を、教えてくれると嬉しいです」
さあ、どうぞ。手で椅子を指し示せば、キースはそこに素直に腰を下ろし、膝の上に軽く握った拳を置いた。それから迷うように息を吸い込み、理由を、と囁く。
「うまく説明できる気がしないんだ。もちろん、君に会う為に来たというのも理由のひとつではあるんだが、会う、というか、顔を見たくなって……理由を言わなければ、私はここにいてはいけないかい?」
穏やかな声だったが、落ち着いているとするより、どこか落ち込んでいるようにイワンの耳に触れた響きだった。なにかあったのだろうか。そっと顔を伺ってみるも、キースは柔和な笑みを浮かべてイワンの返答を待つばかりで、そこから隠された感情の機微を読みとることはできない。元より、イワンとキースは仕事仲間であるが、プライベートで親しいかといわれれば首を傾げて考えた末、恐らくは違うと告げるのが正しいくらいの中なのだ。こうして二人きりで話すのも、はじめてではないが、多くあることではない。イワンにキースの感情を読みとることはできないのだった。キースもまた、そうであるように。落ち込んでいるのなら刺激したくはないな、と思ってイワンはそっと唇を開く。いいですけれど、と。
「本を、読もうかと思っていたので……」
「ああ、うん。いいよ。お読み?」
「……お相手しなくてもいいんですね、分かりました」
では気が済むまでそこにどうぞ、とこども扱いに対する多少の嫌味すら込めて告げてやれば、キースはにこにこと嬉しげに笑うばかりで、イワンの望んだ反省など欠片たりとも浮かばなかった。確かにイワンは、すこし前にようやく二十を数えたばかりだ。ヒーローとしての経験も浅いし、キースにしてみればほんのこどもと同じくらいの感覚なのかも知れない。それでも、仲間として信頼してくれていることを、知っている、ささやかな苛立ちをその事実一つを頼りに宥め、イワンはそれでは失礼しますとあまり響かない声で告げたのち、経理部長に頼んで借りてきてもらったぶ厚い本をしげしげと眺める作業を再開した。本はどれも古く、ハードカバーのしっかりした装丁のものばかりで、目立った汚れはなかったが年月と人の手を渡って来たのが分かるすこしくたびれた、独特の風合いをしていて、ページを開けば古い紙とインクの匂いが立ち上るようで、イワンの頬を笑みに緩めた。表紙に刻まれた硬質な字体の印象が表すように、中身はどれも物語ではない。一冊は医学書で、一冊は物理の教科書で、一冊は歴史書で、一冊は心理学の教科書だ。本当は医学書をもう一冊頼んだ筈なのだが、歴史書の表紙に張られたふせん紙に『一冊借りました! キリサト』と書かれていたので、人体の骨格や筋肉の動きが事細かに図解されたそれは、自社の技術者たちの手に渡ったらしい。それがなんで必要なのかは怖い想像にしかならないので考えないことにして、イワンは物理の教科書を手に取った。ヒーローアカデミーに在籍していた当時はよく目にしたそれを、手に取るのはいつぶりのことだろうか。卒業してからめまぐるしい日々を過ごすことを言い訳に、知識を深めていなかったのは、イワンが自分に許してしまった怠惰の言い訳だった。とりあえずはこれらを、入院している間に読み切ってしまわなければ。
イワンが経理部長経由で本を求めたことはCEOにも情報として伝わっていたらしく、マイケルからは一冊読み終わったらレポート書いてごらん、読んであげるから、とありがたいお言葉を頂いている。ヘリペリデスファイナンスCEOは、七大企業CEOの中で最も年若い存在であるが、それは彼が手繰り寄せた類まれなる運気の賜物だけではないことを、イワンは正確に知っていた。この国の最高学府を飛び級で進学し、卒業し、全ての授業科目に置いて最高得点を叩きだした天才の記録は、未だ破られることがないと聞く。だって得意な科目しか履修しなかったからね、とは彼のCEOの言だが、それにしたって限度というものはあるだろう。イワンもレポートを書くのは得意だった。苦手意識は未だにないが、けれどもそんな天才を相手に、しかも自社のCEOである人に提出するとなれば、心が弾むと同時に萎縮してしまうのも仕方がないことだろう。やるしかない、のだけれど。CEOは忙しい人だ。キリサトはもしかしたら一週間後くらいに見舞いに来るかも知れないというようなことを言っていたが、それを実現させる時間の余裕がないことをイワンは知っている。それでもきっと、彼はイワンが書きあげたレポートに目を通し、的確な意見を与え、議論を交わす時間をくれることだろう。見切れで終わらない、と言い放った次の日、執務室に呼び出されたイワンを出迎えたのは、いかにも嬉しそうなCEOの笑顔と、導きの言葉だった。
君がやる気になったのなら、それだけの努力をするのであれば、技術班も僕も心からの敬意を持って歓迎し、その為の助力を惜しみはしないから。だから、無理せず自分のできる精一杯で努力しなさい、と告げたCEOはきょとんとするイワンの頭を撫でてくれたのだ。お怒りを覚悟して来たのに激励され、脳の処理が追い付いていないさまが、あんまり可愛かったらしい。優しさばかりが、傍にあった。きっと皆が、見守ってくれていた。それに気が付けなかったことが、ひたすらに悔しい。与えられた役目はあくまで企業の利益を全面に押し出したものであり、キリサトはイワンにそれを求めはしたが、一度も強要はしなかった。それを放置されているように感じて、心がひねくれたこともあった。その時期も彼らは見て、そして待っていてくれた。本当はきっと、ずっと、手を差し伸べていてくれた。もう二度と、それに気がつかないでいたくない。印刷された文字列に集中すべく、イワンの視線が開かれた本のページに落ちて行く。やがて室内に静かな物音だけが響くようになっても、キースは変わらず、そこにいた。はじめこそ、物珍しげにイワンの持つ本を眺めたり、個室の様子をきょろきょろと眺めたりしていたのだが、やがて視線はひとつの所へ還っていく。空へ。透明な窓硝子越し、手の届かない高さにある、空へ。流れて行く雲の動きへ。地へ影を落とし移動していく鳥たちへ。渡って行く風の音。ざあざあと梢を揺らし、花びらを気まぐれに拾い上げて躍らせながら、遠く遠く、どこかへ消えて行く風の。
「……返事はいいんだ」
優しく降り注いでいく光の筋に、目を細め。その眩さに、憧れるように囁かれた響きを耳にして、イワンは息を吸い込んだ。文字と言葉の中間で意識が漂っていて、どちらにも集中しきれる状態ではないが、どちらも切り捨てることは叶わなかった。動かず、ぺらりと本のページをめくる音を了承と受け取ったのだろう。ほっとしたように息を吐き出し、キースは言葉を続けて行く。視線は、窓の外を眺めていた。
「怒られてしまったよ、私は。……なんて無茶をするんだと、怒られてしまった。……夜の、パトロールに出ていたことが、バレてしまってね。とても、怒られてしまった」
ふふ、と喜びのにじむ笑い声が温められた空気を震わせ、イワンの意識を訝しませた。怒られた、というのなら落ち込んでいたような印象が間違いではないことが分かるが、キースの声は叱られたと、それを報告するものではなかったからだ。はにかんでいて、とびきり嬉しい秘密をそっと教えているようで、ちっともしょんぼりしていない。まるで大切な贈り物を、誰かから貰ったような印象だ。そっと視線をあげて、ちらりとばかりキースの顔を盗み見る。変わらず窓の外を眺める横顔は、イワンの視線に気がつかず、陽の恵みにうっとりとまどろむよう笑っていた。吐き出される言葉の意味とは、まるでそぐわない。
「傷が治りきっていないから、実は、飛ぶと体が痛むんだ。それをね、誤魔化す為に……強い、とても強い薬を処方してもらっていて、それが会社にバレてCEOに怒られてしまった。ヒーロースーツなしで空を飛ぶというのは、私がスカイハイであるということを知らしめてしまう以上に、体に負担がかかって良いことではないと知っていたから……こっそり、技術部に頼んでヒーロースーツを貸してもらっていたこともバレてしまっていて、それはもうCEOに怒られてしまったよ。あのスーツはそんなことの為にあるんではない、と」
「……なんで、そんなことしたんですか」
読書を諦めてページの間に紐のしおりをはさみ、イワンはじわりと滲む感情のままに問いかけた。苛立ちと、呆れと、ほんのすこしの悲しさは、言葉に抑揚を持たせず吐きださせて行く。ん、と困ったように微笑み、キースは言った。
「私は、期待に応えられなかっただろう……?」
その言葉が全てで、それ以上はないようだった。梢の揺れる音が聞こえてくる。外では風が、強いようだった。
「期待に応えなければ、と思うんだ、私は。市民の期待に応えなければ……彼らが私が負けるのを見て、晒されるのを見て、どんなにか不安だっただろう」
「だから、パトロールを?」
「怒られてしまったけどね。私に出されていた薬は、NEXT用の、医療用麻薬だそうだよ。それくらい強いものでなければ、痛みを感じてしまうくらいだったんだね、私の体は」
まるで他人事のように、それでいて厳かに告げられた言葉は、イワンの問いへの答えのようであり、どこか噛み合わないちぐはぐなものだった。返事はいらない、とキースは言った。だからだろう。未だ、キースはイワンに視線を移していない。だからなのだろう。部屋の空気は恐ろしい程に穏やかで、優しい。
「……君の」
「僕の?」
「そう、君の……技術者の女の子が、君のお見舞いに来た帰りに、私たちの様子を見に来てくれてね。その時に薬を見つかって、薬を取りあげられて、CEOにもバラされてしまった」
それは、これから忙しくなるので会いに来れません、と告げた日より前のことなのだろう。そういえばいつだったか、イワンに処方されている薬を全部メモに書きとめて帰って行ったことがあったが、それを危惧してのことだったのだろう。
「失敗したからってなんです、だらしのない、と……怒られてしまったよ。彼女は厳しくて、とても優しいね」
「そ、そうですか……?」
「痛みを感じている間は、休まなければいけないと」
どんな顔をして人に休めと説教をするのかあのひとは、とイワンはそっと溜息をついた。誰かに休めというのなら、鏡を見て、まず自分に説かなければいけないくらい、休まないのがキリサトという少女であるのに。よっぽど見ていられなかったのだろうか。キリサトは確かに優しいがおせっかいではなく、他者のヒーローの体調に首を突っ込んでまで怒る、というのは、イワンにしてみればやや意外な行為なのだった。それとも実はスカイハイのファンだったのかとも考えるが、自社ヒーローである折紙サイクロンを、一般的な方向性とはちょっと違った角度から偏愛するのがヘリペリデスファイナンス技術部の総意である。まあ、なにかしら思う所あっての行動なのだろう。考えることを止めたイワンがそう結論付けて読書に戻ろうとした時、それで、とキースの声が続きを告げた。
「しばらく、休むことにしたんだが、その前に……どうしても、もう一度飛んでおきたくて。そうしたら飛んでいるうちに、空で気を失ってしまったんだ」
「……は?」