「受け止めてくれてありがとう、イワンくん。助かったよ」
視線を室内に戻してにっこりと笑うキースは、なぜ気を失ったのか、ということを言うつもりがないらしい。些細なことだと切り捨てているからか、痛みが理由だとすれば怒られると思ったからなのかは分からないが、感謝を向けるのだとすれば不誠実な気がして、イワンはどうも、と言葉を濁してそれを受け取った。嫌、と感じる所までは届かないが、もやもやとしたわだかまりが残る面ばかりに、出会っている気がするのはどうしてなのだろうか。個人的にスカイハイのファンでもあるイワンにしてみれば、本当に複雑な気分だった。それでも、考えれば今更のことである。イワンは昨日今日ヒーローになった訳ではない。折紙サイクロンがシュテルンビルトに現れて、もう随分な時間が経っているのだった。その存在が受け入れられ、馴染んで、TV画面で見切れていないことに対し、ヒーローTVに寂しいから早期の復帰を、と願う声が届くくらいには。キースその人が決定的に変わってしまった、という印象ではない。恐らく、見えていなかった所が見えるようになってきたと、そういうことなのだろう。はじめて出会う人のように、新鮮な気持ちで、イワンは椅子に座って笑うばかりのキースを見つめた。人生で、出会うことのできる人数は限られている。その中で、一度巡り合ったひとに出会い直せる経験は、何回くらいできるものなのだろうか。多いとは思えなかった。気がつかず、終わってしまうこともあるのだろうそれを、イワンは感じて息を吸い込む。それでも、このひとがスカイハイなのだ。イワンがずっと、折紙サイクロンであったように。
「どうか……」
「うん?」
「無理をしないでください、スカイハイ。あなたの失敗を責める者もいるでしょうけれど、これで終わりじゃないんです。僕たちはこれからもヒーローで、失敗はするかも知れないけれど、彼らの期待に応えることもできるし、確かな希望になることだってできる。そう思います」
その時、ようやくキースがイワンを見たように感じたのは、きっと本当のことだったに違いない。視線が向くのではなく、ただそれだけのことではなく、意識そのものが、彼がキースより年下であることや、ヒーローとして後輩であることや、他社に所属する者であることや、NEXT能力の性質がまるで違うことなどの、たくさんの理由を取り払った所にある、ごく純粋な、人間性そのもの、イワンという存在のみに、ようやく辿りつき、見つけ出し、向き合うような。そんな錯覚を受ける。キースもきっと、イワンに出会い直したのだろう。不思議な、面識がある相手であるのに初対面の存在を見つめているような、そんな顔つきでゆるく首を傾げ、キースが君は、と呟く。それきり言葉が続いて行かないのは、まるで初めての相手と、会話の糸口を見つけられない戸惑いと全く同じものだった。思わず肩を震わせて笑い、イワンはいいですよ、と言ってやる。
「返事、しなくていいです。……ね?」
言葉が相手の耳に、意思に、心に、ちゃんと届いていればそれでいい。想いを言葉にするのは、時々とても難しいことだから。受け止めてくれたと、確かにそれが分かれば十分なのだ。笑うイワンに、キースは戸惑うようにしながらもやがて頷き、肩の力を抜いたよう、椅子の背もたれに体を預けてしまう。ふわり、と風が動いてイワンの頬を撫でて行く。向けた視線の先、キースの体は青白い光を帯びていなかった。それなのに温かく慰めるよう、慈しむように、ふわりふわりと空気が動く。彼は大気に、とても愛されている。そのものの伸ばす慈愛の腕が風を形作るなら、彼の能力は風を操ることではなく、己に向ける愛情の形に、己の意思を伝わせることなのだ。キースの伏せた視線の先が、ゆれる空気を愛でるように甘く虚空に滲むのを眺め、イワンはしおりを閉じたままの本に目を向けた。今は、なぜか読む気になれない。枕の横に本を積み重ねて置いていると、そうだ、と話題を見つけ出したかのよう、キースが声をあげた。
「イワンくん、イワンくん」
「はい? なんですか」
「君は、これからどんなヒーローになるんだい?」
つい先日、目標を達成してしまったルーキー、バーナビーに聞くのであればともかく、折紙サイクロンに対しては今更すぎる問いかけだった。しかしイワンは、素直な気持ちでその問いを受け止めた。心が弾むのは、ようやくスカイハイに、ヒーローとして対等に見てもらえた気がするからだろう。折紙サイクロンは、これから改めてヒーローになる。祝辞を送られたようで、言祝ぎのようにも感じる問いだった。しかし、イワンの告げる言葉はもう決まっていた。もし、誰に問われたとしてもそう言うよう、他の誰でもなく、イワン自身が決めていた。失望されるかもしれない、とは思う。けれど、そう受け止められたのなら、それまでのことだった。胸を張って、告げる。
「きっと……今までと、そう変わりませんよ」
強くなろう、と決めた。同じ舞台で演出される他のヒーローのように、くすぶって目を反らしていた憧れから、もう意識を背けずに。強くなろうと決めた。そして、変わらないでいようとも思った。イワンが折紙サイクロンになるにあたって、請け負った役割は広告塔である。企業の宣伝であり、そして無力なNEXT能力者の宣伝。攻撃的ではなく、過度に己の身を守るでもない、一見、無害そうに思える毒にも薬にもならないヒーロー。折紙サイクロンの存在そのものが、ひとの意識に強く訴えかける。力なくとも、と。それでも強く、人の希望を抱いて生きることのできる存在。NEXT能力者という、ヒーロー。イワンに求められ、そして応えようと決めた、宣伝のかたち。それを崩してしまうことは、決してしないように。強くなる。もう二度と、力なき正義に誰も傷ついたりしないように。イワンの答えに、キースは楽しそうに目を細めて笑った。
「見切れヒーローだね」
「……いけませんか」
「いいや。そして、責めてもいないよ、イワンくん。……だが、不思議ではある。君はなぜ、カメラに映る形で救助をしたり、確保したりしないのかな。……ポイント制度は嫌いかい?」
君が誰かを助ける所も、君が犯人を動けなくするさまも、全部空から見ていたよ、と。ひそかに告げる言葉に、イワンは思わず頬を赤らめた。折紙サイクロンのポイントは低いが、ゼロではない。カメラに映る形で人命救助をすることもあるし、犯人の確保をすることもあった。けれども、映像に残らない場面での行動の方が、圧倒的に多いのは、イワンが折紙サイクロンとして、カメラのある場所では広告アピールを最優先にしてきたからだ。キースの言葉はそれを責めるのではなく、ただ純粋に不思議がり、そして賞賛していてくれた。
「きらい、ではないです……けど」
「けど? なにか理由があるのかな」
なにに対する喜びなのか、分からなくなる感情に、イワンの意識がすこしだけ混乱する。憧れのスカイハイに認められていた喜びなのか、見切れを優先する姿勢を責められてはいなかったことなのか、ささやかな、己の意識を救いあげるための行動を知られていたことに対する恥ずかしさなのか。大きく脈打つ心臓を宥めるように息を吸い込み、ゆるく、長く吐きだした。
「折紙サイクロンは、広告塔として動くことを求められていて、僕もその役目を誇らしく思っているので。これまでより、人命救助はしたいと思いますし、犯人の確保も……積極的に向かうことはないにせよ、機会があれば確実に行いたいと思っています。ポイントも、貰えれば嬉しいので嫌いではないですよ」
「ヘリペリデスファイナンスは、なぜ広告塔であれと……?」
「僕の能力が、擬態だからです」
キースさんの風を操る能力や、アントニオさんの硬化能力であれば、それこそポイントを取って首位争いをするように、と言われたかも知れませんが、と。イワンは争いを求められてもいないことを、嬉しそうに告げた。
「犯人の確保には向かない、人命救助にも適切ではない能力です。擬態は、体の構造そのものを変化させますが、それでいて、意識は僕そのものです。知識も、その擬態する形に合わせて増減する訳ではなく、僕が持つそれ以上にも、それ以下にも、決してなりません。変化させられるのは形で、例えば僕はキースさんとそっくり同じ姿になりますが、キースさんの能力は使えません。あくまで、僕そのものの形を変えること。これが折紙サイクロンの能力で、全てです。……つまりね、キースさん。ヒーローとして活動して行くにあたって、僕の能力というのは、実際ほとんど使いものにならないんですよ。折紙サイクロンのヒーロースーツにスポンサーの広告が刻まれている訳ですから、究極的に言えば、僕の能力はそれを歪めて消してしまうんです。TVに映らせなくしてしまう擬態という能力のかたちは、広告塔にはまるで向かない。まあ、ヒーロースーツも一緒に変化させるっていうのは、ちょっとできないんですけどね。でもスーツ着ている状態での擬態となると、かなり限られてくるというか、あれが満足に動かせる手足がなければいけないことから、まず人間以外の擬態はできないし、そうなってくると、トレーニングはしてるので、結局は意思が伝わりやすい自分自身の体でいることが、ヒーロー活動中には一番なんですよね……」
まあ、必要に応じてなので、スーツ脱ぎ棄てて擬態することが、これまでになかった訳ではないんですけど、としみじみと言い募るイワンは、キースからすると、ヒーローとはなにか別の存在のように思えた。もちろん、仲間として認識できない訳ではない。折紙サイクロンは大切なヒーロー仲間のひとりであるし、彼の活躍を、ポイントによる順位とはまた別の所で、キースはそれなりに評価している。けれど、そんな評価など関係ないのだと告げるかのよう、イワンの言葉は、キースの今まで耳にしたことのない意識だった。ヒーローとして、人を助けること。人の、期待に応えること。救うこと。それらが、イワンの中にはしっかりと根付いているのだが、今までのヒーローとしての形とは、まるで別の成長の仕方を遂げている。
「……だからこそ」
考えに沈みかけていたキースの意識をはっと浮上させ、イワンは誇らしげに、明るい笑みで言い切った。
「僕がヒーローであることには、意味があるんだと思います。まるで、ヒーローに向かない能力の僕が、活動においてほとんど能力を発動させないことにも。……ようやく、最近、こう思えるようになりました」
デビューから時間がかかってしまったことは、会社にも申し訳ないんですが、とはにかんで告げ、イワンはそっと囁いた。
「理想には、まだ遠いんですけどね……」
「……ああ、それで」
ようやく、落ち着く所を見つけたような納得の声に、イワンが首を傾げることで問いかけた。そろそろ部屋を辞する気配を見せながら、キースは嬉しそうに笑い、立ち上がる。
「見切れだけでは終わらない、と言っていたのに、君の言葉はそれとは違っていて、どうしてだろうと思ったんだが。……君の心が望む方向をちゃんと見つけて、それを君は、もう諦めないで追って行こうと、そう思ったんだね……?」
「そうですね。言葉にすると……ちょっと、恥ずかしいですが」
むしろ、改めてそう言われてしまうと、大分恥ずかしくて頭を抱えたい気持ちでいっぱいになるので止めてもらいたいのだが。やや恨めしげなイワンにきょとんと不思議そうな眼差しを送り、キースはそれを問わず、温かな言葉を送った。
「応援しているよ、折紙サイクロン。君が思い描いた理想に届く君になる日が、とても楽しみだ。……楽しみだ、とても」
「ありがとうございます、スカイハイ。……キースさん」
「うん、どういたしまして! さて、長居してしまったね。そろそろ私も、病室に帰るとしよう。あんまり留守にして、アントニオ君を心配させてしまっても悪いしね」
ヘリペリフェスファイナンスの溢れる財力によって個室をあてがわれているイワンと違い、キースとアントニオ、虎徹は三人一部屋で入院している。バーナビーも個室待遇であるのだが、それは単に部屋が空いていなかったからであり、顔出しヒーローの特性上、一般人と同じ部屋をあてがうこともためらわれたからに過ぎない。他の入院ヒーローが移動する案もあったのだが、彼らはあくまで、ヒーローなのである。うっかりした言動で正体が露見してしまう可能性がある以上、同じ部屋に詰め込んでおく方が、病院としても安心できるのだった。特に、普段の言動がヒーロー時とイコールに、異常に繋がりやすいキースは、アントニオに再三、気をつけるようにと注意されているらしい。それでなくとも怪我を押して飛び回る前科があるのだから、その気持ちはイワンにも十分理解できた。お二方にあまり心痛をかけないでくださいね、と保護者のような気持ちで言ってやると、キースはなぜかうん、と嬉しそうに頷き、ふわりと空気を揺らめかせた。やはり、青白い光は零れてもいない。
ふと、部屋を出て行く背に問いかけた。
「キースさん」
「ん? なにかな?」
「キースさんの、理想ってありますか」
ヒーローとしての、それ。スカイハイとして抱くそれはありますか、との問いに、キースはそっと人差し指を唇に押し当てて。あでやかな笑みで、ないしょだよ、と囁いた。
入院ヒーローたちの中で最も早く退院の日取りが決まったのは、イワンだった。元より、ジェイクに痛めつけられた状態そのものに差がある為に、回復が早かったのだ。社内がまだ落ち着いていないのでもうすこし入院していても良いんですが、まあ出ておいで、と苦笑したのはイワンからのレポートを返却しにきたCEOで、表紙には赤ペンで花丸が描かれていた。どう評価しようか迷ったあげく、キリサトから聞いた日本の、とりあえず褒めたい時はこのマーク、と教えてもらった花丸を描きこんだらしい。キリサトは、会いに来られないと告げた日以来、イワンの前に姿を現さないままだった。研究に没頭しているか、仕事で忙しく飛び回っているか、ついに実力行使に出た休日取得至上命題部隊に掴まってホテルかどこかに監禁されて休まされているかの三択しか思い浮かばなかったことにこそげっそりしながら行方を聞いたイワンに、CEOは三番目が一番近いかな、と肩を震わせて笑った。経理部長がついに麻酔銃を持ち出すまで粘って粘って仕事をしたおした少女の頑張りによって、とりあえず、なんとか、技術部も安定を取り戻しつつあるらしい。もうあと二週間くらいすれば、人数の少なさにも慣れて平常運転できると思うけれど、と笑ったCEOは、増員については考えながらも積極的には考えていないことを明かした。
その理由が、並大抵の変態的な天才だと、たぶん仕事とかキリサトくんに上手く適応できないと思うんだよね、というものだったので、ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部技術班は、ついに奇人か変人か変態のどれかに属する天才しかいない奇跡の部署に転身を遂げてしまったらしい。イワンとしては、全く嬉しくない事態だった。CEOが、それを全く問題視していないことも頭が痛い。それじゃあ明日、退院したら連絡して、会社に顔を出しにおいで、と大量のおせんべいを残して去って行ったCEOに溜息をつきながら、イワンはぐったりとベッドに上半身を横たえた。すぐに伸びてきた手が気遣わしげに頭を撫でてきたので、イワンは拗ねた気持ちで眼差しを持ち上げ、苦笑しきりのバーナビーを純粋な八つ当たりで睨みつける。
「バーナビーさんは、いいですよね……」
アポロンメディアのヒーロー事業部、とりあえず普通っぽいですもんね、と低くうねる声で言い放たれ、バーナビーは眉を寄せながら、控えめな態度で考え込んだ。
「普通……っぽい、でしょうか。斎藤さんは、僕にはあまり普通とは思い難いし、個性豊かな面々ばかりだと思いますが。どうなんです? 虎徹さん」
「トップマグと比べてってことか?」
イワンが来たから、という理由で一つしかない椅子を追いやられ、所在なげにベッドの傍に立っていた虎徹へ、バーナビーはこくりと頷いた。その他に、どこと比べるつもりなのか、といううろんな眼差しつきの問いかけに、虎徹は苦笑しながらイワンを見やり、ごく控えめな表現で証言した。
「まあ……ヘリペリに比べれば普通だな」
「あなた本当に発言に思いやりがないですね?」
「バニーちゃんは俺にどんな言葉を期待してたの?」
バディ仲麗しく微笑みあう二人を無視しながら、イワンは溜息をついて上半身を起こした。まあ、世のヒーロー事業部が皆あんな感じではないと分かっただけで、すこし世の中に希望が持てた気がするのでよしとしよう。気を取り直し、イワンは足元に置いていた紙袋を持ち上げた。本当は部屋に入ってすぐ渡そうと思っていたのだが、イワンの顔を見たバーナビーがすぐ椅子から虎徹を立ち上がらせ、先輩を手招いて座らせた為に、なんとなくタイミングを逃してしまっていたのだ。バーナビーさん、と呼びかけると、碧玉の瞳がやんわりと細まり、イワンを眺めた。はい、と素直に返事をしてくれる後輩に、イワンはにっこりと笑いながら、その紙袋を差し出した。
「CEOから、皆さんに。アントニオさんとキースさんには、ここに来る前に渡してきました。これは、お二人のぶん」
「ありがとうございます。……これ、なんです?」
「おせんべい。日本の米菓子です。とっても美味しいんですよ!」
基本的にヘリペリデスファイナンスが差しいれてくるお見舞いの品は、たとえそれが他のヒーローの手に渡るものであろうとも、イワンの好みを考慮したものばかりである。今回も例にもれず、イワンがひいきにしている会社の米菓子であった為、説明の言葉にも説得力が乗った。ふぅん、と物珍しそうに受け取ったバーナビーは、和紙で包まれた四角い箱を両手で持ち上げ、しげしげと眺めてから首を傾げる。箱には、のしがついていた。流暢な筆書き文字で『快癒祝い。イワンくん、退院おめでとう!』と記されている。反対側に首をこてりと傾げなおし、バーナビーは一応、日本文化が分かる虎徹に確かめてみた。
「これは、この書き方で間違っていないんですか?」
どう考えても、他のヒーローへのお見舞いではなく、純粋なるイワンへの祝いである。無言で紙袋に手を突っ込んだ虎徹がもうひとつも確認するが、それにも、同じのしが付けられていた。完全に間違っているとしか言いようがない。しかし、ヘリペリデスファイナンスのCEOがしたことである。相手の立場うんぬんは置いておくとしても、新手のヘリペリジョークである可能性は高かった。あー、と意味の無い言葉で呻き、虎徹はそれを、日本かぶれの間違った知識として怒らないでやることにした。ちらりとイワンに視線を向け、言い聞かせる。
「違う、とは……言っておいてやれな?」
「……僕も、一応、どうしようかな、とは思いましたが。ですよね、これ、やっぱり違いますよね」
「そういえば、先輩。なにかご用事があったのでは?」
これを渡しに来てくださっただけではないですよね、と首を傾げるバーナビーに、イワンはこくりと頷いた。そうですか、と嬉しそうに笑い、バーナビーはひらひらと虎徹に手を振った。
「じゃあ、虎徹さん。帰ってください。また後で」
「はいはい。……二時間くらいで大丈夫か?」
「あなたたまには、ご自分の部屋にいたらどうなんです?」
早く出て行け、とばかり手を振るバーナビーに苦笑して、虎徹はじゃあな、といなくなってしまおうとする。それをイワンは、慌てて引き留めた。別に二人きりでなければ話せないことではないし、大体、イワンが来たことで椅子を奪ってしまったことだけでも悪く思っているのだ。大丈夫ですから、と告げれば虎徹はいそいそと戻ってきて、ベッドの逆側に腰を下ろした。バディと先輩に挟まれながら、虎徹だけを嫌そうに眺めるバーナビーに、イワンはもう、と息を吐いてたしなめる。
「駄目ですよ、バーナビーさん。バディでしょう? もっと大事にしなきゃ。追い返さなくていいですから。ね?」
「だって先輩。このひと、本当にずっと僕の所にいるんですよ? 今日だって、朝ご飯とお昼ご飯を食べに三人部屋に戻っただけで、あとはずーっとここにいるんです。ずーっとですよ、ずーっと。本当の、ほんとうに、ずーっとです!」
「いーじゃんかよー。心配でさ、バニーの顔見てたいんだもん」
こどもっぽい物言いに、バーナビーの表情が不機嫌になる。
「……心配したのはこっちだってんですよ」
噛みつくように吐き捨てられた言葉に、虎徹は苦笑気味に目を細めるだけで、あとはなにも言わなかった。ジェイクとの戦闘が終わって一息ついた頃、虎徹は意識を失ったという。その時の騒ぎを、イワンはよく知らない。傷の痛みでイワン自身も安静を余儀なくされていた為に、関係者が情報を届かせなかったのだ。イワンが知っているのは断片的な情報いくつかで、意識を失った虎徹を、バーナビーが病院まで運んだこと。その後すぐ、バーナビーも意識を失ってしまったこと。目覚めたのは虎徹の方が先で、バーナビーは一週間もの間、眠り続けて起きなかったこと。激しい疲労と全身の傷以外は、脳などに異常が見られなかったからこそ、起きないバーナビーが虎徹には心配ではななかったのだろう。一週間、バディが起きるまで。虎徹は、バーナビーの病室で祈るようにその手を握り締めていたという。なにを思っていたのかは、誰も知らない。ただバーナビーが目覚めてからもずっと、同じように虎徹は片割れの個室に通い続けている。目を離して、また眠られてしまうのを恐れるように。生きていることを、確認したがるように。
バーナビーは深々と息を吐き出し、未だ安静を解かれない体をゆっくりと動かして、虎徹の頭を力なく叩いた。バーナビーは一週間、本当にただ眠っていただけだという。激しい疲労と怪我の痛みに耐えかねた意識が、とにかく一番原始的な手段で心身を回復させようとしたのだ、というのが医師の結論で、バーナビーもそれに納得している。だからこそ、ただ寝ていただけなのに、と思うのだろう。倒れた瞬間を目の当たりにした己こそ、心配しているのにと憤って。はぁ、と溜息をついて、バーナビーは気を取り直すことにしたのだろう。
「それで、先輩? お話ってなんですか?」
「えっと……バーナビーさんの理想のヒーローって、どんな風か聞いてみたくて。誰、とかじゃなくて、概念的なものでいいんですが。なにかありますか?」
前触れのない質問内容に、バーナビーはいかにもおかしげに、穏やかに笑みを深めてみせた。そうですね、と迷いながらも決めている声が、問いの答えを紡いで行く。
「ウロボロスを見つけ出して、両親のかたきを取って、滅ぼすみたいな感じが僕の理想のヒーローでした。……目標、達成してしまったので、これからどうするかは考え中です」
終わってしまったもので、と囁く声は幸福と喜びに満ち溢れ、空気をふわふわと漂った。バーナビーの生い立ち、そしてヒーローになった理由を知っているからこそ、心にしっくり来る言葉だった。どうしようかな、と考えを巡らせる表情はどこか幼く、あどけなさを感じさせるもので。思わず、イワンは手を伸ばしていた。金色の髪に指先を触れさせ、頭の形をなぞるようにゆっくりと撫でて行く。ぱちぱち、と意外さに瞬いたバーナビーの瞳は、しかしすぐ、喜びに笑み崩れた。
「……ありがとうございます、先輩」
「ううん。……目標、また見つかるといいですね」
「はい、先輩は……」
どうしてそんなことを聞いたんですか、と問おうとした唇が、ぴたりと動きを止める。髪から指先を引きながら首を傾げるイワンは、ごく普通にバーナビーを見返すばかりで、落ち着いた態度を崩すことがなかった。バーナビーがイワンを先輩、と呼ぶのはイワンがアカデミーの出身だと分かってからのことだった。ヒーローとしての先輩、というよりはだからアカデミーの先輩、という意味なのだが、イワンは初め、それをひどく申し訳ながった。ちょうど、折紙サイクロンとして見切れしかしない己の立場に、迷いが出てきた時期でもあったからだろう。目覚ましい活躍を続けるルーキーであるバーナビーに、そう呼んでもらうのはあまりに申し訳ないし、そういう風に思わなくてもいいのだ、とイワンは幾度も告げていた。その説得をあえて受け入れなかったのは、他ならぬバーナビーの意思だった。虎徹からどうしてそう呼ぶのかと、イワンが戸惑っているのを知って遠回しに止めるようにと諌められることもあったが、バーナビーはがんとしてその呼称を変更することがなかった。
イワンを先輩と思い、そう呼ぶのにためらわないだけの理由が、バーナビーにはあったからである。その理由のひとつが、イワンがアカデミーに残して行った様々な成績であり、また、図書館の貸し出し記録である。バーナビーも、元々読書家だ。ウロボロスのことを調べる為に図書館に通い詰める折、気晴らしに趣味の本や勉強の為の参考書を借りて帰ることもあり、その履歴には九割以上の確率で、イワン・カレリンの名があった。高度な専門書にも、その分野の入り口となるであろう入門書にも。アカデミーで習ったことをさらに理解し、知識を深めて行くのに最適であろう本にも。借りる者などほぼ存在しないであろう、閲覧に許可が必要なぶ厚い古書にも、イワン・カレリンの名を見つけることができた。その名は、良くも悪くもアカデミーでは有名だったから、バーナビーの記憶に焼きつくのは早かったのだ。イワンがただ本を借りているだけではなく、それを己の知識として確実に吸収して行った事実は、アカデミー史上に燦然と輝き、未だ誰も抜くことが出来ない成績最高ランクの首席卒業者であることが証明していた。だからこそ、バーナビーはイワンを先輩と呼ぶのだ。確かな尊敬を込めて、そう呼ばせて欲しくて、戸惑うのを知りながらも目隠しをしていた。呼ぶたび、申し訳なさそうな表情でそっと眉を寄せ、おどおどと視線を彷徨わせることも普通の反応だった。すくなくとも、ジェイクの元へ潜入するすこし前までの記憶は、挙動不審とも言えるであろうイワンの姿を、確かに覚えているのに。
バーナビーの視線の先で背を伸ばす姿は、まったく落ち着きはらっている。試しにもう一度、バーナビーは先輩、と呼びかけてみた。くすくすと笑いながら、イワンはなに、と囁いた。
「どうかしましたか、バーナビーさん」
「……嬉しくて」
「うん?」
首を傾げて問い返す姿も記憶にあるイワン・カレリンその人であるのに、まるで反応が違っている。ようやく受け入れてくれたのだ。ようやく、許してくれたのだ。バーナビーにとってのイワンが、確かに『そう』であることを。ようやく、イワンは認めて許してくれたのだ。
「……先輩」
「なに、バーナビーさん」
「先輩、先輩。……せんぱい」
嬉しくて、嬉しくて。何度も呼んで、そのたび、受け入れてくれたことを確認して、くすくすと笑いを響かせる。あどけない喜びが可愛くて、イワンはもう一度バーナビーに手を伸ばした。よしよし、と囁きながら撫でてやると、バーナビーは積極的にイワンの手に頭を預け、嬉しそうに目を細めた。
「先輩は、退院したらすぐ復帰するんでしたっけ?」
「うん。僕はそのつもりだけど……技術部次第かな。CEOは一応、たぶん大丈夫だって言ってたけど、まだハッキリとは」
「そうですか……。応援しますね!」
はやく先輩の見切れみたいなぁ、とわくわくするバーナビーが、あんまり折紙サイクロンのファンそのものだったから、イワンは胸をきゅぅっと喜びに甘く締めつけた。衝動のままに両腕を伸ばし、バーナビーの体をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう」
「……はい」
「頑張るね」
肩口に額をそっと押し当てたバーナビーが、目を閉じてはい、と囁くのと同時。もう我慢できません、と言わんばかり、虎徹がだぁあっ、と声をあげて二人の視線を引き寄せた。
「距離が! 近い! あと俺の存在を忘れないでくれるかな、バニー? ちなみに理想のヒーローは」
「言わないでも知ってますよ。レジェンドでしょう?」
ちっ、と聞こえるように舌打ちを響かせ、バーナビーはイワンの肩にすりすりと額を擦りつけた。
「ああ、やだやだ。これだから空気読めないおじさんは。僕が先輩と楽しくお話してたのに、邪魔してきて」
「邪魔っつーか……! バニーはなんで抱っこされてんだよ」
「先輩がぎゅってしてくれるの、珍しいんですよ? これは堪能しなければいけないでしょう」
この機会を逃すなんて考えられないんで邪魔しないでくださいとばかり虎徹を冷たく眺めやったバーナビーは、苦笑するイワンに対してにっこりと笑いかけた。落ち込んでベッドに倒れこみながらも恨めしくそれを眺め、虎徹はバニーはさー、と間延びした声でぶちぶちと文句を言う。
「おじさんにも、そういう笑顔向けてくれていいと思うんだよなー。なんかこう、嬉しくてたまらない感じの?」
「はいはいはいはい。これでいいですか?」
「営業スマイル! 営業スマイルだよねバニーちゃんっ?」
ものすごくどうでも良さそうな口調で完璧に笑ってやったバーナビーに、虎徹は全力で抗議を響かせる、うるさいなぁもう、と眉を寄せながら、バーナビーは大体ですね、とイワンに体重を預けたまま、嘆かわしく息を吐きだした。
「今のは確かに意識して笑顔になってあげましたけど、先輩に対するのも、虎徹さんに対するのも、同じ笑顔ですよ?」
「うっそだー。種類が違うんだよ、種類が。な? そうだよな?」
「違いますよね? 一緒ですよね?」
お互いに譲らないバディにそれぞれ問いかけられ、イワンはしばし考えたのち、慎ましやかに沈黙を保つことにした。ただし、バーナビーに笑いかけることは忘れない。無言の笑みをバーナビーは肯定と受け取り、また、虎徹は否定だと思ったのだろう。おおおおお折紙いいいいいっ、と叫ぶ虎徹をうるさいですよと平手で叩き、バーナビーはきりりと眉をつり上げた。
「病院には一般人もいるんです! 不用意にヒーロー名を叫んだりしないでくださいと、何回言わせるんですか!」
「だって! だってバニー!」
「だってじゃない! ……すみません、先輩。ご迷惑を」
ひどく申し訳なさそうに謝られて、イワンはいいよ、と笑いながらバーナビーの頭を撫でてやった。意地が悪いのは分かっていたが、これくらいの独占欲は先輩特権として許してもらいたい。笑顔ひとつで、なにを嫉妬するというのか。身内のように取り扱われていることを、虎徹だけが気が付いていない。
「……バーナビーさん」
「はい?」
「会いに来るから、安静にしていてくださいね」
リハビリで無理したり、早く退院したいとか、もう大丈夫だとか言って周りを困らせたりしないように、と言い聞かせるイワンに、バーナビーはワガママを知られてしまったこどものような顔つきをして。すこしだけ拗ねた声で、はい、と素直に返事をした。幼いこどものような反応に、イワンは深く息を吐く。可愛いなあ、と思う衝動のままにもう一度、ぎゅぅと抱きしめてから体を離すと、バーナビーは甘く嬉しそうに笑み崩れて、くすくすと肩を震わせて笑った。先輩、なんだかお兄さんみたいです。うっとりと、憧れをもって囁かれた言葉も、笑顔も、確かに虎徹には向けそうにないもので。数秒後、二度目の折紙呼び絶叫を行った虎徹に、バーナビーからは拳が送られた。蹴られないだけ手加減されていると、虎徹が気が付く日は遠い。