BACK / INDEX / NEXT

 ヒーローインタビューが『女子編』が終わって一回目の、一応は通常放送に戻ったヒーローTVになってから初ポイント獲得の感想や入院中にしていたこと、他のヒーローたちの近況からヘリペリデスファイナンスに起きたリストラの嵐まで多岐に及び、二時間を超えた頃、イワンの身柄はようやく解放された。なんでも『女子編』である間は一応はインタビューに応えてくれるものの、和やかであったり穏やかであったり、興奮気味に話をしてくれることは少なく、報道も緊張しっぱなしであったことからの反動だという話だったが、それにしても長かった。朝食を終えてすぐトレーニングルームに向かい、出動要請に応えてヒーロースーツに袖を通し、活動を終えてからの二時間なのである。時計を見ればすでに午後の二時前になっており、イワンは折紙サイクロンのスーツを着用したまま、切なく腹に手を押し当てた。足元がふらつくのは、慣れないインタビューで蓄積した疲労より、純粋な空腹が強い理由だろう。一刻も早くトランスポーターに戻ってスーツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びて思うままにご飯が食べたい。わがままは言わないが、ほかほかの白米で握られたおむすびがいくつかと、インスタントでもいいからお味噌汁が飲みたかった。折紙サイクロンのトランスポーターには炊飯器が置かれ、白米と味噌の常備がされているので、不可能ではないだろう。出汁巻き卵があれば、喜びできっと泣く。あの優秀な技術者の少女がいればイワンの顔を見た瞬間に察し、シャワーを浴びているうちに用意してくれるのだが。キリサトはものすごい変態、でも天才、の名を響かせていることに恥じないくらい、ことイワンに関しては察しが良く、用意してくれるメニューに外れがあったことはなかった。
 疲れて帰ってくるヒーローをあったかくておいしいご飯でお出迎えするのもヒーロー事業部の、現場に出ている者の使命ですからねー、と笑う少女はインタビューの開始時点では会場の近くをうろちょろしていた気がするのだが、今はどこにも見つけることができなかった。食材を買い出しに行ったか、料理してくれているんだと思いたいと思いつつ、イワンは折紙サイクロンにせめておかえりなさいと言いたい、と集まっていたファンの最後のひとりを手を振ることで見送って、ほっと肩の力を抜いた。インタビュー終了と共にトランスポーターへ帰ってしまわなかったのは、このファンの存在がいたからである。長引いた報道の質問が終わるのを待って、おかえりなさい、と遠くから声をかけてくれた彼らのことを、おじぎひとつで済ませてしまいたくはなかった。おつかれさまでした、と声をかけてくれるヒーロー事業部、広報部に所属する青年が折紙サイクロンにトランスポーターの待機場所を耳打ちしてくる。ここから二百メートル程移動した所にある路地に停車中らしい。インタビューは決着のついた道路でそのまま行われ、その間は一応交通規制がかかっていたから通る車もなく、視線をやれば白衣を着た技術者たちが、今か今かと帰りを待って、付近をうろうろしているのが遠くに見えた。広報部の青年は苦笑して彼らを指差し、あれですね、と言う。あれですね、と繰り返して笑って、イワンは彼らに向かって駆けだそうと、強く足を踏み出した。
 ふわり、と風が動く気配がした。それは白い長手袋をはめた、たおやかな貴婦人の手の動きのような。繊細で、優美で、なんとも言えず柔らかな動き。はっとして動きを止めた折紙サイクロンに広報部の青年からは不思議がる視線が向けられたが、イワンは言葉を返す余裕を持てなかった。視線を忙しなく動かして、人混みの中、その姿を探す。彼はすぐに見つけることができた。見慣れたジャケットに白いシャツ、青いジーンスで、横にはゴールデンレトリバーを連れている。散歩に来た途中、事件が起きたので遠目に眺めていた。そんな風な、どこにでもいる青年に見えた。キースさん、とイワンは唇だけでその名を綴る。まだヒーロースーツを着ていたからこそ、関係者だけではなく一般人の目もあったからこそ、不用意に声をかけることはできず、それでいて意思を通じさせる手段を思い浮かべることができない。キースは、イワンが気がついたことに、すぐ気がついたようだった。苦笑を浮かべて軽く手をあげると、さっと身を翻して歩き去ってしまう。その背に問いたいことはいくつもあったのに、ヒーローとしての姿が、イワンから私的な言動を阻んでいた。いつ退院したんですか、どうしてそこにいるんですか。ずっと、見ていてくれたんですか。偶然通りがかったにしては事件の終わりから時間が経っていて、傍らにいたジョンがたいくつを持て余し過ぎていた。迷う間にも消えてしまった後ろ姿に、諦めるしかないか、とトランスポーターへ向かうイワンの手首で、PDAがメールの受信を告げる。反射的にメールを開封したイワンの目に、飛び込んで来たのは短い言葉。
『着替えておいで。待っているから』
 署名はない。書かなくても誰からか分かると思ったのか、それともキースもそれだけ慌てていたのか。言葉に、またこども扱いされている気配を感じながらも引き留めたがっていたことが伝わって嬉しくて、イワンはうろついていた技術者たちに駆け寄った。おかえりなさい、と口々に告げられるのにただいまと返しながら、トランスポーターの中で飛び込むようにして戻る。背後で扉が閉じた瞬間、息をきらしながら頭部のパーツだけを取ったイワンの前に、ひらりと白衣の裾をたなびかせ、置くからキリサトがトコトコと歩き寄って来た。
「おかえりなさい、イワンくん! シャワーにします? ご飯にします? それともー、人・体・実・験?」
「ただいま戻りました! どれもいいです出かけます!」
「えええー! えーっ! だ、駄目ですからねー! 出勤後にもう一回体調チェックするって、言っておいたでしょうっ?」
 実際にヒーロースーツを着て動き回って、なにか異変が起きなかったか。終わったら調べる、というのは出動前に約束させられたことで、それをもちろんイワンは覚えていたが、過保護とも思えるそれに今はつきあってやる気持ちの余裕がない。机に並べて用意されていたおむすびと、保温のしっかりしたタンブラーに入れられているのは味噌汁だろう。出汁巻き卵とからあげもあり、その他にも皿に盛りつけられたいくつものおかずの存在がイワンの良心を盛大に痛めたが、なぜか説明するのももどかしい。ヒーロースーツを脱ぎ捨ててアンダースーツだけになり、イワンがむっとして睨みつけてくるキリサトに、表示させたメールを突き付けた。署名はないが、登録したアドレスに表示される名前で、それが誰からのものか分かったのだろう。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、少女がそっと首を傾げる。
「デートだ。……イワンくん、デートなんだ!」
「ちっがいますからねっ? ちょっと! なんでそんな結論になったんですか!」
「わ、イワンくんデートだ! みんなー! イワンくん、これからデートだー!」
 整備に解析にと忙しくトランスポーター内で動き回っていた技術者たちを振り返ってまで言うキリサトの肩を掴み、顔を寄せて、イワンは違いますからね、と笑顔で言い聞かせた。うんうん、私はなにもかもよーく分かっていますよ、とばかりの輝く笑顔で、キリサトは爆笑を堪える同僚たちを振り返った。肩は掴まれたままである。
「……スカイハイっていつ退院したんです?」
「え、キリサトさんも知らないんですか?」
 知らない、知らないと口々に帰ってくる言葉に不思議がる少女に、イワンも驚いて声をあげた。なんとなく、なんでも知っているような気がするキリサトが知らないとなると、それだけでびっくりしてしまう。まあ、アドレスが本物ですから別人ってことはないでしょうけど、と呟いて視線を戻したキリサトは、目をまんまるくしているイワンを見上げ、いかにも楽しそうに口元に手を押し当てると、ぷぷぷ、と吹き出して笑った。
「やーい、ないしょにされてるんだー!」
 アンタも知らなかったでしょうよ、と叫ぶより早く、イワンは本能の囁きに従ってキリサトに頭突きをした。ごっ、と鈍い音を響かせたのち、肩を離したイワンの目の前で、ぺしょりとばかり少女が床に倒れ伏す。相当痛くて、予想外でびっくりしたのだろう。う、うううぅーっと半泣き声を上げた少女は、手足をばたばたと動かしていたああぁいっ、と叫んだ。
「イワンくんの、ばかぁーっ! シャワーも浴びないでデートしに行こうとしてるくせに! お腹が空いてぐーってしちゃっても知らないんですからねーっ!」
「だからデートじゃないって言ってんでしょうがー!」
 床でごろごろしてると踏みますよっ、と怒りながらもしゃがみこみ、顔を覗き込んで来たイワンに、キリサトはすっかり拗ね切った様子で視線を向けた。すん、と鼻をすすって、じゃあそれが終わったらちゃんと検査させてくださいね、と言う。イワンは溜息をついて、分かりましたよ、と言った。それと、シャワーくらいは浴びて行きます。ぱっと顔を輝かせて身を起こしたキリサトがあんまり嬉しそうだったので、イワンは思わず、肩を震わせて笑ってしまった。それを見ていた技術者たちが兄と妹のようだと告げたのを聞き咎め、少女はもぉっ、と腰に手をあて、すっくと立ちあがって宣言する。
「それを言うなら、姉と弟みたいなんですよ! 私は、イワンくんより年上なんですからね!」
 キリサトの見かけは十代半ばであり、イワンの実年齢は二十で、もうすぐ二十一になる。純粋な日本人の外見年齢がおかしいのか、それともキリサトが嘘をついているのかは問わず、技術者はぬるい笑みでそうですか、と言った。ともあれ、血の繋がった家族のようなじゃれあいであることは、どちらも否定せず。すこしくすぐったく、受け入れているようだった。



 シャワーを浴びて出てきたら服と一緒におべんとうが用意されていたので、イワンはそれを持って行くことにした。気分がやや落ち着いたら、お腹が好きすぎてふらふらしていたことを思い出した為だ。保温タンブラーとお箸、おてふきも一緒にトートバックに詰め込んで、イワンは忙しなく動き回る技術者たちに申し訳ない気持ちを抱きつつ、トランスポーターから道に降り立った。キリサトはCEOに呼び出されたらしく、すでに姿がない。用事が終わって会社に来られるようになったら、何時でもいいのでメールください、という言付けは少女が今日も労働基準法をぶっちぎって働くであろう事実を示していて、イワンは思わず苦笑いになる。キリサトが趣味と実益を兼ねた仕事人間であることは重々承知の上だが、それはそれ、ちゃんと休まなければヘリペリデスファイナンスが労働基準局に怒られる事実を、そろそろ経理部長あたりが言い聞かせてくれないものか。CEOが半ば黙認、放置しているのがキリサトの休まない最大の原因なのだが、マイケル曰く、僕はそれでも休みなさいね、とは言っているんだよ、とのことなので、結局は少女の心づもりをどうにかしなければ改善されることはないだろう。それで助かっている面があるのは事実なのだが、それだから同僚に麻酔銃で撃たれて縄で縛られてホテルに監禁されて休暇を取らせられる、というちょっとした事件性をおびた強制手段を実行されるのだと思いながら、イワンは警備の者にいつもありがとうございますと頭を下げて、ごく自然に街の人混みに溶け込んだ。人々は、つい数時間前にヒーローの出動があったのだと思えないくらい、平和で落ち着いているように見えた。
 過度な不安は、もう消えているように思えた。あとはヒーローもそれに慣れて行けばいい。ほっと胸を撫で下ろしながら、イワンはPDAを起動させて新しいメールの受信を確認し、そこに書かれたカフェの名を確かめ、道を進む足を速めた。シュテルンビルトには何処にでもあるチェーンのコーヒーショップだが、現場から近くにあるのはひとつだけである。目星をつけて進んで行けば、緑のロゴマークの前、キースがテイクアウトのコーヒーカップを片手に、ジョンと戯れているのが見える。
「……キースさん!」
 そういえば、今度こそ声をかけるのをためらわず、言葉を探さなくても良いのだと思い至って、それが何故か嬉しく、イワンは声を張り上げてキースを呼んだ。先に顔を向けたのはジョンで、賢いゴールデンレトリバーは尻尾をばたつかせて瞳をきらめかせるばかりで、主人を置き去りにイワンの元へ走り寄ることをしなかった。キースは笑いながら立ち上がって、駆け寄ってくるイワンを出迎える。キースの飲んでいたコーヒーの香りが、ふわりと漂ってイワンを共に歓迎した。
「おつかれさま、イワンくん。飲み物を一緒に買っておこうかとも思ったんだが、冷めてしまうと思ってやめておいたよ。なにが飲みたい? キャラメル・マキアート?」
「言っておきますが、僕のコーヒーの好みはブラックです」
「イワンくん、大人だ! 大人だね、君は!」
 私はミルクが飲みたい気分だったのでカフェラテにしてみたよ、と満面の笑みで言われてしまったので、職場の先輩でもあることだし、イワンはキースの顔面を殴りたい衝動を、想像の中で実行するだけで留めてやった。深々と息を吐き、イワンは首を傾げるキースに言い聞かせるよう告げた。
「キースさん」
「うん? なんだい?」
「僕の年齢、分かってます? 二十です。すこしすれば、二十一です。ティーンじゃないんです。こども扱いはしないでください。……分かりましたか? キース・グッドマン?」
 返事は、と教師のように告げてやれば、大柄な男は太陽のように明るい笑みで、大丈夫だ、と両腕を広げて宣言する。
「君の年齢は知っている! そして、分かっているとも!」
「そうですかキースさんすみませんが一発殴っても?」
「どうしてだい?」
 そんなもの、知っていた上でのナチュラルボーン年下扱いに我慢できないからに決まっているだろうがと心の中で言い放ち、しかし邪気のない笑顔に負けて、イワンは怒りを溜息を共に吐きだした。そういえば、お腹が空いていたのだった。頭に血が上りやすいのは、きっとそのせいに違いない。もうどうでもいいんで、お腹が空いたのでどこかに移動して僕は食事にします、と灰色の声でイワンが言い放つと、キースはようやく、おべんとうのはいったトートバックに気がついたらしい。そして、同じヒーローであるからこそ、イワンが昼食を取っていないこともすぐ分かったのだろう。それはすまない、と真剣に反省した声がして、ぐったりするイワンの腕を、大きな手がぐっと引く。
「すぐ近くに、ジョンの散歩に行く公園がある。ベンチからは噴水が見えて、緑も多くて落ち着く場所だ。そこへ行こう。すこしだけ歩くことになるが……イワンくん、歩けるかい?」
「歩くくらいなら」
「気分が悪くなったら言うんだよ? いいね?」
 よし、じゃあ行こうと囁いてジョンと共に歩きだすキースは、イワンの腕を掴む手を離そうとはしなかった。足取りは普段のそれより心持ちゆっくり、歩幅もちいさく意識されているようだ。空腹で動き続けなければならない辛さを、キースは知っている、だからこその気遣いに、先程腹を立てた事実を恥ずかしく思いながら、イワンは後をついて行った。まったく、お腹が空いていて良いことなんか、ひとつたりともありはしない。ヒーローの誇りにかけて足をふらつかせることも、気持ち悪くなって立ち止まることもせず公園まで辿りついたイワンは、噴水を囲むように設置されたベンチのひとつに腰を下ろし、持って来たトートバックを膝の上に置いた。正月におせちを入れる重箱をそのままちいさく、長方形にしたようなデザインのお弁当箱は三段になっていて、一段目にはおむすび、二段目には出汁巻き卵とからあげ、三段目には切干大根の煮物と野菜炒めが詰められていた。どれもすっかり暖かさを失っているが、おいしさが損なわれるものではない。タンブラーをあければ、中に入っていたのはワカメとネギの味噌汁であり、こちらはほんわりと湯気が立つ。おしぼりで手を拭き、割り箸を手にして頂きますと頭をさげて、イワンはまず、出汁巻き卵を口にした。
 普段なら甘みのない、塩っぽい味付きの卵焼きがイワンの好みなのだが、出動後にはなぜか甘めのそれが食べたくなる。キリサトがおべんとう箱に詰めてくれたそれも、イワンの好みにちょうどいい、すこし甘めの出汁巻き卵だった。ほっと肩の力を抜きながら飲み込み、次におむすびを手に取る。白いご飯に黒い海苔の巻かれた、ごくシンプルなおむすび。一口食べると甘しょっぱく似た細切り昆布とかつおぶしが入っていて、イワンはそれをもぐもぐと口いっぱいに頬張り、ようやくひと心地ついた息を吐きだした。次にからあげを口に入れると、しっかりジンジャーの味が利いていて、肉質はやわらかく、ほんのりとしょうゆの香りがした。ほのかに、体が温まりそうな味だ。
「……君は、おいしそうにご飯を食べるね」
 空腹を満たそうとするあまり、しばし隣に座るキースの存在を忘れていたイワンは、ぎこちない動きでそーっと視線を横へと向けた。キースは食べるのに集中しきっていたイワンに気を悪くした風もなく、太股に肘をついて手に顎を乗せ、体を傾けて一挙一動を見守るようにしていた。足元では休憩することにしたのか、身を伏せたジョンがすうすうと落ち着いた息を響かせている。ええと、と告げるべき言葉を探し、イワンはおむすびの収まった一段目を、そっとキースに差し出してみた。
「食べますか?」
「これは、イワンくんのお昼だろう? なら、ちゃんと食べなければいけないよ。私は大丈夫だ」
「そうなんですが、たぶん、キースさんの分もあると思うんです。普段より量が多めなので。食べきれずに残してしまっても悪いので、すこしだけ手伝って頂けませんか?」
 トートバックの中をよく見れば、イワンには入れた覚えのないプラスチックのフォークがあったので、つまりそういうことだろう。これも一枚多かったと思っていたおしぼりを差し出せば、キースは意外そうな顔つきのあとで嬉しそうに微笑み、それでは頂くことにするよ、と言った。
「えーと、どれを頂けばいいのかな?」
「それでも、好きなものを」
「ではライスボールを頂こう! 中身はなにかな?」
 おしぼりで手を拭いてからおむすびをひとつ手に取り、キースはそれをぱかりと二つに割ってしまった。中身は、塩ジャケのようだ。やあ、サーモンだったよ、と嬉しそうに言ってから割ったおむすびを元通りに閉じ、キースはそれを嬉しそうに口に運ぶ。斬新な中身の確かめ方に唖然としながら、イワンはキースが手を伸ばしそうにない、切干大根の煮物に箸を伸ばした。細切りの人参としいたけがふんだんに使われた煮物は素材の味を生かしたやさしい味付けで、イワンはもぐもぐと口を動かす。二人はしばし無言で料理を口に運び続けたが、その沈黙を嫌なものだと、イワンが感じることはなかった。食べ終えておべんとう箱をトートバックにしまいながら、イワンはごちそうさまでした、と手を合わせて呟いた。ごちそうさまでした、と隣で真似をするキースにくすりと肩を震わせて、さて、とイワンは気を取りなおす。PDAを起動させ、キリサトに『ごちそうさまでした。おいしかったです、いつもありがとうございます。休んでくださいね?』と送信してから、キースに向き直る。
「キースさん」
「なんだい?」
「いつ退院したんですか? ……まだ入院しているものだとばかり思っていたので、すごく驚きました」
 イワンが退院して、今日で四日目である。退院前日に挨拶をしに行った時、キースはまだ当分入院を続けるようなそぶりでいた気がするのだが、勘違いだっただろうか。急に退院が決まることもあるだろうが、それにしても、連絡ひとつないことが寂しいような気持ちにさせる。別に、キースがイワンに退院の日を連絡してこなければいけない義務はないし、プライベートでそう仲が良い訳でもないのでそれを責めている訳ではないのだが。キースは申し訳なさそうに眉を寄せて、うん、と言った。
「昨日。本当に急に決まったんだ」
「……なにか、事情でもあるんですか?」
 それならば詳しくは聞かない、と苦笑するイワンに、キースはもう一度だけうん、と言った。ジョンの手綱を持たない手がすいと持ちあがって、晴れた空に向けられる。
「すこしね。自宅療養しなさい、と言われてしまったんだ」
「そうだったんですか……体調は、まだ?」
「完全に、とはいかないらしい。CEOには、飛ぶなと」
 翼をもがれ吊り下げられた痛みも、はばたきを禁じられる苦しさも、イワンには想像することができない。ひとは飛ぶことが出来ないからだ。あるいはイワンなら、鳥に擬態すれば可能なのかも知れないが、それは鳥の体が飛ぶのであってひとの身が空を舞うのと同じことにはならないだろう。NEXT能力が風を操るものであるからこそ、キースはひとの身で空を飛ぶ。空に伸ばされていた手がそっと膝の上に置かれ、しかし視線は地に戻らなかった。ぼぅっとした表情で空を眺めるキースの横顔を、イワンは慣れた気持ちで見つめる。二人で話をする時に、イワンが見るのは大体がキースの横顔だ。男の視線は空に向けられていて、傍らの存在にも足元の愛犬にも向けられはしない。
「気晴らしもかねてジョンの散歩をしていたら、ヒーローTVの生中継が始まって……驚いたよ、君が元気に見切れていて。場所もすぐ近くだと分かったから、つい、見に行ってしまった」
 視線が食い違ったままの会話を、不愉快だとも不誠実だとも思わない。仕方がない、そんな気がした。無理に意識を向けようとすればキースはイワンを見るだろうが、そんなにして視線を向けてもらいたい理由もなく、そのままで会話を続けて行く。退院してすぐ復帰した折紙サイクロンの姿に、なにを思ったのかは。どうしても、聞く気になれなかった。
「僕たちはあの三人に……随分、負担をかけてしまっていたみたいですね。今日、はじめて知りました」
「私もだよ。頑張っているなぁ、くらいにしか思えなかった。TV画面越しの映像だからとは思いたくないが、意識が視聴者になってしまっていたのかも知れない。……君が、間に合ってくれてよかった。思わず、止めに入ってしまう所だった」
 彼女のあんなに張り詰めた姿を、はじめてみたよ、と。囁くキースは、落ち込んでいるようだった。仲間があんなに頑張ってくれていたのに気がつかず、安穏と過ごしていた罪悪感は、イワンの中にも存在している。けれど、気が付けなかったことも、知らなかったことも、悪いと思うのは結局本人なのだ。ドラゴンキッドは一言も、イワンの長期の不在を責めなかった。ブルーローズも、ファイヤーエンブレムも。おかえりなさい、と言ってくれた。ならば、その感情は身勝手だ。それに対して、怒りを覚えてしまうことも、また同じ。気持ちを落ち着かせる為にゆるゆると息を吐き、イワンはキースさん、と男の名を呼んだ。空ばかりを映しだしていた瞳が、ようやくイワンを向く。静かなばかりで揺れることなく、空へひとの感情を置き去りにしてしまったようにぼんやりとする青い瞳をまっすぐに見て、なんだい、と問われるのに微笑しながらイワンは口を開く。
「ちゃんと、療養しなければ駄目ですよ」
「……うん。分かっているよ」
「待ってますけど、焦らないでくださいね。この街の平和はちゃんと、僕たちが守りますから」
 KOHには頼りない相手かもしれませんが、と呟けば、とんでもない、と大きな声でキースは否定した。それが本気なら怒るとでも言わんばかりの必死の様相に、イワンは目を瞬かせた後、笑いながら冗談ですよ、と告げた。
「でも、嬉しいです。ちゃんと仲間だと思ってくれて」
「もちろんだ! 君たちは私の、大切な仲間だとも!」
 君が決意を新たにする前から、私は君をちゃんと仲間だと思っていたよ、と言い添えられて、イワンはそっと首を傾げた。
「……事件があって、心配してくれたんですか?」
 でも、という言葉は付けなかったが、問いにはその意味を含ませていた。頼りない、ということを否定させた後に聞くのは酷だと分かっていたが、それ以外に、キースがあの時間まで場に留まっていた理由が分からなかった。心配して、待っていてくれたのだろう。イワンが無事にインタビューを終え、自分の足でしっかりと、トランスポーターへ戻る姿を見届けばければ安心していられないくらい。それが正しいとするならば、空腹を訴えたイワンの腕を掴んでゆるく引き、離さなかった理由も、心配も、しっくりと納得することができた。キースは誤魔化すことをせず、申し訳なさそうな顔つきで頷いた。
「すこしね……気を悪くしたかい?」
「いえ、ただ申し訳ないな、と思って。キースさん、せっかくのオフなのに、事件のことばかり考えさせたかと思うと」
 イワンの身にも覚えがあるそれは一種の職業病のようなものだが、キースの方が段違いであるのは明白なことだった。きっと、その場に共に立つような感覚で意識を巡らせ、怪我をしないだろうかと不安がってくれたに違いない。空から気を配ることもできず、スーツを着ていないからこそ、的確な言葉をかけてやることも出来ずに。見守ることしか許されない焦燥は、どれくらいキースの心を苛んだだろう。大丈夫ですからね、と母親の怪我を心配して泣き叫ぶこどもに対するように、そっと、そっと、辛抱強く語りかけて。イワンはキースにもう一度、休んでください、と言った。キースはうん、と頷いて切なく、また空を見つめてしまう。
「……体調が良くなったら、ポセイドンラインのCEOも、キースさんに飛んでいいって言ってくれますよ」
「うん。……うん、そうだね」
 本当に、そうだろうね、と。囁く声は不安と希望にまみれ、飛べない現在より、許可が下されずに飛べなくなる未来より、他のなにかを恐れているようだった。違和感を覚えながらも、イワンはそれを問い正せない。ただ、幾度目かの大丈夫、という囁きは、自然に吹いてきた穏やかな風に紛れてしまって。恐らく、キースの耳には届かなかっただろう。

BACK / INDEX / NEXT