イワンから遅れること二週間、アントニオが退院した。硬質化という能力の性質上、ゆっくりと行われた治療と回復はどのヒーローよりも慎重で、本人は苦笑していたがクロノスフーズヒーロー事業部はヘリペリデスファイナンスに負けず劣らず自社ヒーローに対しての過保護と愛情を見せつけ、本当にもう大丈夫なんでしょうね、と医師に白熱した質問を投げかけて、退院をすこし先延ばしにしていたらしい。本当に、完璧に、どこもかしこも健康でなにひとつ異常がない状態で現場に復帰したアントニオは、おかげで体がなまりっぱなしだと苦笑して、日々、トレーニングに励んでいる。腹筋対決でパオリンに負けたことが地味にショックだったらしく、アントニオは誰よりトレーニングルームに通い詰め、クロノスフーズのヒーロー事業部にオーバーワークを指摘されるくらいだった。数が五人に増えてからは、安心感も違ったのだろう。イワンが復帰した事件以来、ゆっくりと緊張を解いてきたドラゴンキッドは、現場でロックバイソンの姿を見たことで本当に安心しきったのか、ここ何回かの成績は振るわないままだが、気にした様子は見られなかった。ちょっとのんびりしようかな、というのが本人の言葉で、これが気を引き締めて『復帰』したらポイント争いに確実に食い込んでくるな、というのは現役と休養中ヒーローズの共通した意見だった。また、パオリンのように過度に張り詰めて居なくとも、ずっとピリピリしていたのはブルーローズも一緒だったらしい。最近よく眠れる気がするし、肌の調子も良いのよね、と不思議がる日が数日続き、カリーナはその事実に自分で辿りついたらしかった。すっきりした顔つきでマイペースにトレーニングに励む姿はさすがに女王と呼ばれるもので、それでいて精神的にぐっと成長した、大人の女性の面差しをしていた。
まったくアンタたちと来たら急に大人になっちゃうんだから、とぼやいたのはネイサンで、マダムはカリーナとパオリンを遊びに引っ張りだすのに精力的である。いいのよ、若いんだから色々楽しんで、と有言で、そして無言で告げるネイサンの努力が実を結んだのか、カリーナもパオリンも、年相応の笑みをまた見せるようになった。これんばかりはイワンには出来ない芸当であるのに、素直にネイサンに感心すると共に、深く感謝して毎日を過ごしていた。それからまたしばらくして、タイガー&バーナビーの復活がヒーロー界を華々しく盛りあげた。ジェイクを倒した立役者であるバーナビーが復帰したことも市民の感情を高揚させたが、最も喜ばれたのは、そのコンビネーションの巧みさである。彼らは背中合わせの存在であり、また一対として動く意思がひとつのもののようであった。視線の動き、ささいな仕草、短い言葉での打ち合わせに、とっさの機転を利かせた行動。お互いが視線の届く所になくとも、どちらもなにをしているのか分かり切った、信頼しきった動きはそれまでには決して見られなかったもので、シュテルンビルトの市民はもろ手をあげて『バディ』の復活を喜び、そしてイワンは肩の力を抜いた。元より、虎徹はヒーローたちのムードメーカーである一面を持っている。絶好調で復帰した虎徹の機嫌が悪い訳もなく、ヒーローたちはぐいぐい虎徹に引っ張られて、活躍の華を眩く咲かせて行った。イワンも、安心してその背後で見切れては、時々人命救助をしてみたり、時々犯人を確保したりしている。折紙サイクロンを追う熱心なファンの中でも、その変化に気がついた者はおり、最近、またのびのびと見切れて良い仕事している、とインターネットに流された書き込みを見て、イワンは思わず幸福と、己の仕事が正確に報われていることへの笑みを浮かべてしまったものだった。ヒーローの復帰と活躍は、つまり順調に執り行われているように見えた。
退院から半年が経過しているのに関わらず、未だ復帰の兆しさえ見せないキースの存在さえなければ、イワンも市民の高揚に巻き込まれるように心を浮かびあがらせ、毎日を充実した気持ちでわくわくと過ごしていただろう。それが常に頭にある問題ではなかったが、ふとした瞬間、ちくりと痛むとげのように、イワンの意識に残るものだった。ポセイドンラインは沈黙したまま声明を告げず、スカイハイは未だ、空へ戻らない。いつ頃復帰するか知らないですか、とイワンが聞いたのは、スーツの定期メンテナンスで訪れた自社の技術室でのことで、尋ねた相手は今日もやや寝不足の顔をしているキリサトだった。少女はやや呆れた顔で整備の手を止めて立ち上がると、イワンの座る椅子に歩み寄り、手に持っていた精密作業用ドライバーを机の上に転がした。椅子を引き寄せて腰掛ける一連の仕草は少女の集中が切れたことと、休憩に入ったことを物語っている。休憩はするのに、休日と休暇は取りたがらないのがこの技術者の常だった。なんでそんなに仕事が好きなんですか、と聞いたら、なんでそんなに私に仕事休ませたがるんですか、と噛みあわない返事が帰ってきて以来、イワンはもう色々諦めることにしている。目をしぱしぱ瞬かせながら、少女が口を開く。
「それを、イワンくんはなんで私が知ってると思うんですかー? そんな、ポセイドンラインの機密っぽい情報」
「逆に聞きますが、キリサトさんが知らないことってなんですか? なんか、聞いたら大体分かる気がするんですが」
「ちょっとー! イワンくんの信頼? 信頼なのかよく分からないこの感じがあんまり嬉しくないんですけどー! 私だってねー! 知らないこととかあるんですよ! イワンくんの今日のパンツの色とか形とか、こだわりとかそういうの!」
そんなものを知っていたらただの変態だ、間違いない。というか女の子がパンツとか口に出すのはどうかと思います、と半眼で告げたイワンに、技術者の男性陣が深々と頷いた。
「そうですよ、健全な男子目の前にしてパンツはないですよ、パンツは。可哀想なんでやめてあげてください」
「……でも私、イワンくんの今日のパンツの色知らないですし」
「知らないで! いいんです!」
唇を尖らせて反論するキリサトの物言いに、イワンは全力の叫びをほとばしらせた。キリサトは不服げに椅子をくるくると二回転させたあと、イワンに向き合うようにして止まり、だからですね、といまいち何とも繋がっていない言葉で首を傾げた。
「私はそんな、スカイハイが復帰する時期とか知らないですしー、理由くらいならなんとなく分かりますけどー」
「分かるんですか? 知ってる、とかではなく」
「知らないですけどー、予想くらいならできますよーってことですー! ……うぅ、くるくる回ったら気持ち悪くなってきた」
地下に潜ってると三半規管って弱くなるんでしたっけ、と首を傾げるキリサトに、仲間からここ地下でもないですし弱りもしないので、それはただの寝不足です、という的確な突っ込みは飛ぶ。キリサトは笑顔で耳を両手で塞ぎ、あーあー、あー、と言って聞こえなかったふりをした。
「……っということなので!」
「もうちょっと意味が分からないんで一々突っ込みとかしたくないんですが、キリサトさんはその理由を教えてくれるんですか? 教えてくれないんですか? あと前回寝たのって何時間前なのか覚えてたらでいいんで教えてくれます?」
「えーっと。……えーっと、一日半くらい前かも? ……あ、あー! あー! だ、だめっ! メールしちゃだめえやああああああっ! ひどい! ひどいー! ずーるーいーっ!」
即座にCEOに告げ口するべくメールを打ち始めたイワンは、立ち上がって携帯電話を思い切り腕を伸ばした先に持つことで、キリサトからの妨害を受け付けなかった。イワンとキリサトの身長差は、元々二十五センチくらいある。その状態で腕を伸ばされたので、弱っている少女がいくらぴょこぴょこ飛ぼうとも、届く筈もなかったのだ。室内からはまばらに賞賛の拍手が飛ぶが、彼らもキリサトを積極的には止めていないので、一応は同罪なのである。この人が休むのサボってたらCEOにメールしなきゃだめですよ、と言い聞かせるヒーローにはぁいと返事を響かせる同僚たちを恨めしげな目で見つめ、キリサトはいじいじと精密用ドライバーを手で転がしている。
「……教えてあげるの、やめにしました」
「業務命令なんですよ? 主任になってから、キリサトさんがあんまり休まないから。CEOも心配していました」
「心配してるなら、自分で私を止めにくればいいんですよーだ。お忙しいので! そんな暇もないみたいですけどー!」
ふーんだ、と足をふらふらさせながら怒るキリサトは親が迎えに来てくれなくて不機嫌になった迷子のこどものように思えたが、CEOとはきっとそんな関係ではないし、そもそも二人の間にあるのがなんなのか、未だイワンはよく分からない。苦笑してはいはい、と宥めていると、苛々した様子でキリサトがドライバーを机の上に置く。硬質な音が、やけに大きく響いた。
「それで、なにが聞きたいんでしたっけ?」
「……教えてくれるんですか?」
「どうせ! 私この後しばらく休まされてイワンくんにお会いできないと思うので! 教えてあげますけど!」
携帯電話なんて文明の利器が存在しなければもうすこし誤魔化しやすいものを、と地の底から響くような声で恨めしくいい、キリサトはぷりぷりと怒りながらもイワンに質問を要求した。じゃあ、と苦笑しながら、イワンは同じ言葉を繰り返す。
「スカイハイが……キースさんが中々復帰しない理由、キリサトさんは分かりますか?」
「たぶんなので、間違っている可能性もありますが。それでよければ。……ポセイドンラインの過保護もあるでしょうが、理由の八割くらいを持っているのは、恐らく本人だと思います」
瞬間、楽しげに瞳を輝かせ始めた少女は、根っからの研究者体質であるらしかった。知らないことを知るのが好きで、分からないことを考えるのが楽しくてならないのだ。みるみるうちに機嫌を回復させながら、少女はイワンくんは、と微笑する。
「これまで、NEXT能力が安定しなかったことはありますか? 目覚めたばかりの頃は、ほぼ確実に不安定なのが通例ですから、その時期を除いて、ということになりますが……イワンくんの場合は、たとえば上手く擬態できなかったり、思った存在とは違う存在に擬態してしまったり、とかですかね?」
「……前に、アカデミーに在籍していた時、一度だけ」
イワンが言葉を濁したその時期のことを、キリサトは分かっているようだった。すこしだけ申し訳なさそうに微笑を深め、背伸びしてイワンの頭をぽん、と撫でてくる。イワンが能力を上手く扱えなくなったのは、エドワードが逮捕された直後のことだった。一月ほどして安定を取り戻しはしたが、その間も、その後も、能力を上手く扱えない不安はイワンにこびりついて残った。能力のコントロール制度をあげることに集中しろ、と根気強く説く教師が傍で支えてくれたからこそ、元に戻ることができたのだ、とイワンは思っている。すくなくとも一人では、あの時の心では、乗り越えられることではなかった。
「彼が戻って来ないのは恐らく、能力コントロールが安定していないせいでしょう」
「キースさんの? ……風が」
「そう。決定的な敗北らしい敗北を、したことなかったでしょう? スカイハイ……というか、ヒーローという存在そのものが。犯人ではなくて、明らかな敵対者と対峙したのも、ほとんど初めての経験だったと思うんですよね。そこで、負けたという事実、しかもその姿を市民に晒されたというのは、心にかなりの傷を追わせます。あなたは、上手く立ち直ってくれて、それを本当に私はよかったと思っていますけど……彼は、期待を背負うことを知るキングでしたからね」
痛いということも認めなくてはいけないのに、さぞ焦って、そして苦しいばかりでしょう、と溜息をつきながら語って、能力のコントロールは簡単に失われますよ、と技術者は言った。
「過去のデータからもそれは明らかな事実です。NEXT能力者の力のコントロールというのは、本人の意思、精神力によってかなり左右されます。もちろん、能力的にコントロールしやすい、しにくいというのもありますし、本人の適性も大きく関わって来ますが、一番は精神状態です。こうであれ、と強く願う意思の力。それこそがNEXT能力の発動と、同時にコントロールを支える基盤であり……そうであるからこそ、精神の均衡を欠いた状態であれば、能力はあっけなく暴走します。そしてこの場合、意識という意味での意思と、心という意味での精神はまったく別のものです。どう制御しようと強く意思が思っても、精神が崩れた状態で、力はいうことを聞きません」
「……キースさんの精神が、不安定だって言うんですか?」
「不安定です。不安定に決まってるじゃないですか! 入院してすぐ、体も全然回復していない状態で、あんなに強い痛み止めを飲んで飛ぼうとしたひとが! 安定しているとでも?」
あれはスカイハイですけれど、キースというひとなんですよ。あなたがイワン・カレリンで、そして折紙サイクロンであるのと、全く同じように。言い聞かせる口調に押し黙るイワンを眺め、まあ、と慰めるようにキリサトは言い添えた。
「根拠のない推測ばっかりなんで、ポセイドンラインが視聴者を含めて私たちを焦らしにかかっているというのであれば、的外れすぎて申し訳なくなるくらいなんですけどね?」
「そうだといいんですけどね……あ」
「え?」
ふと近づいてくる気配に気がついて振り返ったイワンと、それに気がついたキリサトの反応には一拍の間があった。その僅かな隙を見逃さずに距離を詰めたヘリペリデスファイナンスCEOは、なんでここに来てるんですかぁっ、という少女の悲鳴をもろともせず、その小柄な体をひょいと抱き上げてしまう。腕の中で離して離してとじたばた抵抗されるのをものともせず、マイケルはにこ、とイワンに向かって微笑んだ。
「こんにちは、イワンくん。通報、どうもありがとう」
「いえ……今日は社におられたんですか?」
「うん。これから明日まで休暇を頂こうと思ってね。……さてキリサトくん? 僕は君に、僕が忙しい間もサボらないでちゃんと休むように、と言い聞かせておいた筈だけど?」
言葉を向けられて、キリサトの抵抗がぴたりとやむ。恐る恐るマイケルを見上げた表情はどことなく怖がっていた。
「お……怒ってます?」
「うん」
「ひっ……わ、私これから休もうとしてました!」
本当に、それはもう今、すぐにっ。一生懸命言い聞かせるキリサトの手やポケットから持っていた工具などを器用に取り出し、机の上にぽいぽい投げ捨てながら、CEOはうん、と笑顔で身を翻した。少女の足を地に付けたら、そのまま走り去って逃げるとでも言わんばかり、その体を抱き上げたままで。
「じゃあ、一緒に休むのに異論はないですね。イワンくん、あとを頼みます。キリサトくんが戻るのは明後日です」
ばたん、といくつもの視線の先で、無情にも扉は閉まった。嵐が瞬く間に通り過ぎて行ったような気持ちで、イワンは深く溜息をつく。しみじみと、CEOはすごい人だな、と思う。あの若さで大企業のCEOという地位にあることもすごいが、あのキリサトに、言うことを聞かせられるのが本当にすごい。ちょっと怯えていた気がするのは、良く分からないので見なかったことにして。いつもCEOはいるとキリサトさんもきっと休みますよね、と言ったイワンに、少女の同僚たちは一人の例外なく、その通りであると頷いた。
シーズンも半ばが終わろうとしているその日に、ヒーローインタビューを受けたのはタイガー&バーナビーの二人だった。逃走する強盗の乗る車両を見事なコンビネーションで止め、バーナビーが犯人の確保を、ワイルドタイガーが人質の救出をした動きはヒーローたちの目から見ても鮮やかで、当然、視聴者を大いに喜ばせる結果となった。飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続ける二人は、それなりに慣れた様子でインタビューに答えている。活躍を始めた当初、インタビューに慣れずにややまごついた様子を見せていたワイルドタイガーも、最近の活躍ですっかり慣れたらしい。元々キャリアも、実力もある人なのだ。上手く活躍できない一因となっていたせっかちさがなりを潜めれば、徐々にポイントが加算されていくのは自然なことだった。反面、今日は目立った活躍の出来なかった折紙サイクロンは二人に許可を取った上で、インタビューに応える背後でちょこまかと動きまわり、思う存分広告アピールをして、ふぅと満ち足りた息を吐きだした。さらに数を増やした折紙サイクロンのスポンサーを、均等に映像に映すだけでも一苦労である。そろそろ効率的な動き方とか映し方とか考えないといけませんね、とCEOも笑っていたので、近日中に技術部がなにか案を出して来るに違いなかった。そろそろインタビューも終わりに近づいているようだった。折紙サイクロンは今日もちゃっかりしていますね、と苦笑気味の報道のコメントに、そこが彼の良い所ですよとバーナビーがそつなく答えると、カメラが追いかけてくるのを感じた。決めポーズまで決めて広告を主張していると、PDAが起動し、ヒーロースーツの内部音声がオンになる。
『おつかれさまですー! キリサトです! イワンくん、もうそろそろ戻ってきて大丈夫ですよー。映像見てましたけど、それだけアピールしてくれれば今日はもう十分です!』
「分かりました。これから戻ります……と、今日はどこに?」
内側にしか響かない小声の会話であるから、折紙サイクロンのスーツを着ていても、イワンの口調は素のそれだった。トン、と身軽く地を蹴って、インタビューが行われていた道端の街灯の上に乗り、きょろきょろと辺りを見回す。そこから三つ東に進んだ路地にいますよー、と告げる声にその方角を見れば、その場でぴょこぴょこと飛び跳ね、両手を振る白衣の少女が見えた。今日も変わらずシルバークラウンのマスクをつけている少女は悪目立ちしまくって市民の注目を集めていたが、警備が人を遠ざけているので、その周囲に立つ者はいなかった。
「了解、見つけました。今からそちらに向かいます」
『はーい、お待ちしてます! ごめんなさい、もうすこし静かな場所に移動して待ってたかったんですけど、タイミングを逃しましたー……。ううぅ、人の注目集めるとか! マジ勘弁なんですけど! ちょっともーやだもー!』
「キリサトさんがマスク外せば済む問題だと思うんですけどね……? ああ、でも業務命令なんでしたっけ?」
帰還命令が出たんでお先に失礼します、と告げれば、ワイルドタイガーとバーナビーが笑顔で手を振ってくれる。それにぱたぱたと手を振り返し、イワンは街灯から街灯へ、トントン、と身軽く飛び移り始めた。別に地面を普通に歩いてもよかったのだが、逃走車を追いつめるのにやや破壊された道を修復しようと、すでに業者が忙しく動き回っている。瓦礫の撤去をする彼らにお疲れさまですと頭をさげて、イワンはトン、と街灯へ飛び移った。視界が高くて、なんだか気分がいい。
『そうですよ。業務命令なんですけどー……イワンくんは! どうして今日に限って! そんなぴょんこぴょんこ帰ってくるんですか! 目立つじゃないですかー!』
「下を行くと瓦礫撤去の邪魔になる気がして……いいじゃないですか、そう距離がある訳じゃなし、もう着きますよ」
『忍者のまねですとか言われた方が許してあげられる気がしたのにー! なんか理由に正当性があるっぽくていやー!』
だんだんだんだん、と足を踏み鳴らしている技術者を街灯の上から眺め、イワンはそこで初めてキリサトの不機嫌に気がついた。経験上、そーっと放置しておくのが一番なのだが、わざわざ外に出て待ちかまえていたということは、それだけ早くイワンに告げたいことがあったのだろう。普段はトランスポーターの中で待機しているキリサトが外にいるということは、待っていられなかった事情がある時だけだ。トランスポーターが止めてある路地へ続く曲がり角に立つ街灯の上から、折紙サイクロンが己の技術者にそっと、そーっと問いかける。
「……で、今日はなにがあったんですか?」
「そうですよ聞いてください! ちょう! むかつくー!」
私はちょっと新しい武器を開発したかっただけなんですよっ、と叫ぶ少女の言葉を耳にした瞬間、イワンはキリサトの主張を聞いてやる気を完全に無くした。なぜだかここ最近武器開発に対する情熱を燃やす技術主任は、それ自体は決して悪いことではない筈なのに、トリッキーで柔軟過ぎる発想の元、そんな武器は使いたくないとイワンに絶叫させるような案ばかり出して来るのである。大方、同僚かCEOに止められたのだろう。ちょっと幻覚作用とか面白味がありますよねって言っただけなのに、と拗ねるキリサトの主張をはいはいはいと右から左に聞き流しつつ、イワンは街灯から飛び降り、ようやく地に足をつけた。おかえりなさいと言うこともなく、はー、と落ち込み切った溜息が隣から零れて行く。
「……ここは素直に、折紙サイクロンへの愛とリスペクトを全面的に押し出した開発を進めるべきでしょうか」
「キリサトさんはなんで最近、そんな武器開発に目覚めちゃったでござるか……? 拙者、別に戦わないでござるよ」
「だって! だってだって! ポセイドンラインがー!」
アンタたち早くトランスポーターに戻ってください、と迷惑がる警備の視線をものともせず悔しがるキリサトの言葉に、イワンはスーツの中で意外さに瞬きをした。久しく聞かなかった社名である。ポセイドンライン。スカイハイを擁する企業だ。
「ポセイドンラインが……どうかしたんですか?」
「スーツの軽量化に成功したって自慢するんですよー! それでそれで、折紙サイクロンが頑張ってるみたいじゃないですか、最下位脱出できるといいですねとか、上から目線で言ってくるんですー! 会うたびに相変わらずちっちゃいですねとか、飴あげましょうかとか……! 飴! おいしかったけど!」
貰って、しかも食べた上で怒るのがキリサトという少女である。恐らく、個人的にあんまり好きではない技術者がポセイドンラインにいるだけなのだろうが、こんな調子で各所に喧嘩を打ちあるいているんじゃないかとやや心配になり、イワンはそっと息を吐きだした。はいはい、帰りますよー、と促してトランスポーターへ歩いていきながら、問いかける。
「というか、軽量化に成功したっていうことは……?」
「そろそろ復活ってことじゃないんですか? スカイハイ。知らないけど! ……あ! そっか! 折紙くん、スーツの軽量化とかしてもいいですかっ?」
「なんで最初から軽量化で対抗しようとしないのか、本当に意味が分かりませんけど……どうぞ。僕のスーツに関しては、キリサトさんの自由にされると後が漠然と怖いので適度に止めて欲しいですが、軽量化くらいなら、気が済むまでどうぞ」
トランスポーターの扉を閉めて中に入ると、キリサトはきゃあきゃあとはしゃぎながら奥へと進んで行く。歩きながらスーツを脱ぎつつ後を追うと、少女はモニタリングしていた同僚をさっそく捕まえ、軽量化軽量化っ、とキラキラした目ではしゃいでいる。折紙サイクロンの熱狂的なファンだと言われても信じてしまいそうな姿だが、キリサトがこよなく愛すのはヒーロースーツそのものであり、さらにはそれを構築する為の技術である。ひとしきりはしゃいで落ち着くと、キリサトはようやく、それに気がついたのだろう。ヒーロースーツを脱ぎ終え、アンダースーツ姿でシャワーを浴びに行くイワンの背に、満面の笑みで忘れてました、と声をかけた。
「おかえりなさい、イワンくん! 出動、おつかれさまでしたー! 今日のごはんはマカロニグラタンですー!」
「……ついにオーブンまで付けたんですか?」
「出動見てたら、クッキー食べたいよねって話になって!」
基本的に、ヒーローに事故がない限り、出動中の技術班はモニタリングの他には待機するしかやることがないので、精神的に暇だったのだろう。どうりでマカロニグラタンのわりに甘い香りが漂っていた筈だと溜息をついて、イワンは分かりました、と言ってシャワー室へ足を踏み入れた。電力供給設備がどうなっているのかは謎だが、いよいよ折紙サイクロンのトランスポーターは移動キッチンめいてきた。そういえばタイガー&バーナビーのトランスポーターも住居じみた改造のされかたをしているので、これはこれ、ヒーローの個性の結果なのかも知れない。他のヒーローのトランスポーターが、共通仕様からどんな深化を遂げているのか今度聞いてみようと思いつつ、イワンはゆったりと熱いシャワーを堪能し、服を着替えて居間部分へと戻ってくる。すぐさま、硬い声が名を呼んだ」
「イワンくん」
強張った声だった。視線を向ければキリサトが、眉を寄せてイワンを手招いている。机の上には湯気の立つマカロニグラタンが置かれていて、その和やかさにそぐわない表情だった。なにかあったんですかと言いかけて、イワンはモニターに流されている映像に気が付く。リアルタイムの、ライブ映像だった。モニターの端にはヒーローTVのロゴが映し出されていて、イワンはとっさにPDAを確認するが、呼びだされた履歴はないままだった。意識が映像に引きつけられていく中、画面がリプレイに切り替わる。ほんの、数分前の映像のようだった。インタビューを見る為に集まっていた市民の列に、制御を失ったトラックが突っ込んで行く。気がついたワイルドタイガーとバーナビーが飛び出して行こうとするも、その体に青白い光が生まれることはない。一時間が経過していないからだ。それでも向かおうとする彼らより早く、トラックが人に接触しかけた、その瞬間のできごとだった。ごう、と音を立てて風が逆巻く。
圧倒的な密度の空気の壁が、トラックの凶行から人の命を救いあげた。風はそのままトラック一台を巻き上げ、やや遠ざかった位置にどん、と音を立てて落とす。トラックの形はややひしゃげたが、運転手にも怪我はないだろう。耳が痛いような静寂の後、誰もが息を吸い、その視線を空へと向けた。カメラの映像も、それを映し出す。白いマントの裾が、ばたばたと風に揺れていた。ぴっ、と敬礼をして視線に応えたスカイハイに、人々の歓声が爆発した。奇跡的なタイミングで復活を果たしたスカイハイは、ワイルドタイガーとバーナビーに呼ばれ、インタビューの舞台目指して飛んで行く。着地の瞬間、ふらりと、体が揺れ動いた気がした。そこまでで映像がまた切り変わり、今度はスカイハイのヒーローインタビューがはじまる。その映像を見て、少女と、そしてイワンだけが気がついただろう。彼の能力は未だ不安定だ。それなのにスカイハイを求める声は喜びに溢れ、映像が流れている間中ずっと、止むことはなかった。
その日、トレーニングルームで待つイワンの元へ、キースが姿を現すことはなかった。約束をしていた訳ではなく、その予定だったとも聞いていないので、恐らくはポセイドンラインの精密検査が長引いているのだろう。能力が不安定なままだとすれば十分にあり得ることであるので、イワンはつまんないと口にするパオリンを宥め、その不安を誰にも言わないまま、ジャスティスタワーを後にした。それはあくまで推測であり、本人に確認したことではない。だからこそ相談することも、打ち明けることも、してはならない気がした。キリサトも難しい顔をして、見間違いかもしれませんしね、と慎重な姿勢を示したので、それはただの疑惑でしかなかった。辺りを見れば、もうすっかり夕方である。もうすぐ、陽も沈んで夜が来るだろう。今日はもう出動がないことを祈りながら、イワンが足を向けたのは自宅のある方向ではなく、ヘリペリデスファイナンスだった。ヒーロー事業部には行かず、屋上を目指してエレベーターに乗る。時間帯のせいなのか、誰ともすれ違わずに辿りついた屋上は、巨大な狛犬のオブジェと朱塗りの鳥居という間違った日本間溢れる景観で、全く落ち着けない場所だった。わりと日系や日本人が多い企業であるのに、どうしてこんな間違ったエキゾチックジャパン溢れる外観なのかとも思うが、彼らがそれをデザインした訳ではないので、致し方ないことかも知れない。人は時として、イメージで形を作る。抱く希望と憧れで、胸にヒーロー像を描くのもそうだった。視線の先で、陽が暮れて行く。街がしずしずと薄闇に飲み込まれて行くさまを、イワンは無言で見つめていた。けれど、この街が暗闇に沈んでしまうことはない。眩いネオンが街を照らし出し、色とりどりの夜が始まる。光の洪水。天の川よりごちゃごちゃとして眩い、人口の光。
それを、どれ程の時間眺めた頃だっただろうか。イワンの耳に、聞きなれたジェットパックの稼働音が聞こえてくる。それは彼方から現れ、瞬く間にヘリペリデスファイナンスを通り過ぎて、街の明かりの中へと消えて行った。青白い軌跡を目を細めて見送り、イワンはそっと息を吐き出す。
「……キースさん」
ごう、と遅れて風が鳴る。過ぎて行った彼を追うように、それでいて、必死に手を伸ばすように。荒れた響きで風が立つ。それはイワンが知るキースの風とは、まるで別のもののように思えた。それはもっと穏やかで、もっと美しく、もっとたおやかで、もっと喜びに溢れているものであった筈だ。こんなに必死なものでは、なかった筈なのだ。無理矢理に制御された風が、悲鳴をあげている。それでも愛しい、恋しいと彼を追いかけ、その守護を一時も薄れさせはしないのだと、語りかけている。イワンは透明な風に手を差し伸べるよう、そっと目を細め、夜空に指先を伸ばした。いつかキースがそうしていたように、その指はなにを掴むこともできなかったけれど。ふわりと温かく触れた空気が、イワンの疑問の答えであるようだった。シュテルンビルトに風が吹いている。昨日までとは違った風が、長い長い夜の末、異なる朝を連れてくるだろう。
イワンの確信を裏付けるよう、復帰したスカイハイの調子は低迷し、ランキングも大きく入れ替わって行く。徐々に徐々に下がって行くスカイハイのランキングに、市民からは不満と不安の声が響くようになっていた。彼らは前期のKOHの敗北を思い出しては彼をなじり、期待外れだ、結局はこんなものだと口にした。それがさらに、スカイハイの風を迷わせて行く。荒れる風を見送りながら、夜のパトロールを見守ることは、いつしかイワンの日課になっていた。特に隠れてはいないのだが、決まってスカイハイはイワンの姿に気が付くことなく、ヘリペリデスファイナンスを通過していくばかりだった。あの日、空を見つめるキースの横顔を、イワンが強く印象に残しているように。キースは未だイワンを見つけないまま、シーズンが終わる。スカイハイは『風の魔術師』と、そう呼称を変える。ランキング一位に返り咲くことは、ついに一度もできないまま。
季節が巡った。