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 2 噛みつく愛の矢

 PDAが受信と共に強制起動したのを感じて、イワンはハッと身を強張らせた。携帯電話と同じでPDAは通常、装着者がなんらかの操作をしない限り、発信者からの通信を繋げられないしくみになっている。ヒーローも人間であるから出にくい場を想定しての機能だが、それを無視して強制的に音声、あるいは通信を接続する機能もPDAにはついている。発信者が一級の緊急事態だと感じた時に使用する、特別な番号を経由した通信がそれだ。七大企業の関係者のみが使用できるその番号を、今回使ったのはポセイドンラインであるらしかった。PDAの数センチ上にポセイドンラインのロゴが浮かび上がり、かき消えると、所属と指名を慌ただしく名乗った青年の声が、市街地で戦闘が起きていると告げた。通信を発して来たのは、ポセイドンラインの運転手らしい。駅から駅へ乗客を運んでいる最中、運転席から遠目に市街戦が確認できたと言うのだ。慌て切った青年の声はイワンにとっては状況の把握がしにくく、もどかしいばかりだったが、状況を裏付ける音声が二つ、混戦する会話の間に飛び込んでくる。同じく、強制着信にてラインが繋がっているのだろう。こちらワイルドタイガー、バーナビー・ブルックスjrです、と同じく慌ただしく何者であるのかを告げた声が、破壊音と身軽な足音、激しい吐息の合間に現在位置を告げてくる。それはポセイドンラインの青年が告げた位置と、そう変わりはない場所だった。バーナビーが告げる。
『市街地にて、戦闘用アンドロイドと遭遇! そのまま戦闘状態に突入しました! 斎藤さん! あと何分ですか!』
『四分半だ! 耐えろよ、タイガー&バーナビー!』
 制限速度を完全に無視して爆走しているであろうアポロンメディアのトランスポーターの為、オデュッセウスコミュニケーションが公安委員会から二十秒で許可をもぎ取り、主要な道路の信号を全て赤にした。ヒーローのトランスポーターは基本的に緊急車両と同じ扱いで道路の移動が可能だが、動いている車が少なければ少ないほど目的地の到着は早くなる。また、市街地での戦闘においては交通を封鎖することで被害を食い止める理由もあるから、今頃は警察官が大慌てで大規模封鎖に乗り出していることだろう。口ぐちに斎藤さん愛してる斎藤さんはやくして、と騒ぐタイガー&バーナビーは普段通りの騒がしさだったが、その声に常にある余裕がない。各社が自社ヒーローの現在位置を問いだ出し、トランスポーターに出動を命じ、あるいは自社まで来るようにと告げるのを聞きながら、イワンはヘリペリデスファイナンスの屋上から一歩も動くことが出来なかった。ネオン煌く夜の街の一角、明らかに電飾ではない青白い輝きを放ちながら、移動していく光点がある。それを追うようにビルの一部が崩れ、道路が陥没し、電燈が折れ曲がって行くのも確認できるので、間違いなく現場はあそこだった。遠く、人の形が確認できる位置ではないが、高みから見下ろす景観の良さに、イワンはそれを目視する。ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部はやや混乱状態にあるのか、通信開始から一分弱、未だイワンへの指示が聞こえてこない。
 各社が自社ヒーローを呼び集めたのはあくまで個々の判断であり、実際の出動には司法局から判断を一任されたアニエスの指示がいる。アポロンメディアの二人は現場に居合わせたことで強制緊急出動状態であるからそれに該当しないが、ヒーローはあくまで会社のもので、そして司法のものである。社の判断で独自に動かすことは法に触れ、ヒーローが己の判断で飛び出して行くことは、時として過度の危険に晒されに行くのと同義である。ヒーローの誰一人、それを知っていてためらいなどしないのだけれど。アニエスさんっ、アニエスさん出動させてっ、と常とは逆にヒーローたちが彼女からの許可を求める中、有能な女性の、常にない悔しげな声がPDAから響き渡って行く。
『局のシステムが全ダウンしてるのよ……各社ヒーロー事業部! 大至急、ハッキングに対抗できる人材をTV局までよこしなさい。ヒーローはこれを緊急事態として、所属するヒーロー事業部の指示によって動くこと!』
『スカイハイ! 聞こえましたか、出動できます!』
 するどく放たれる矢のように、ポセイドンラインのヒーロー事業部から許可がくだる。瞬間、ごうっと風を唸らせて駆け抜けて行った一陣の光に、イワンは息をつめて立ちつくした。意思を持った暴風そのもののように現場まで到着した光は、タイガー&バーナビーから戦闘用アンドロイドを引きはがし、空中戦へと突入したらしい。スカイハイは、夜のパトロールの途中だったのだろう。誰より早く現場へ向かう機動力を持ちながら、空へ留まっていたのはポセイドンラインの、通信を繋いできた運転手の元へ向かい、乗客の安全を確認し、確保してから指示を待っていたからに他ならない。誰より広い視野と、誰より早い機動性を持つスカイハイだからこそ可能な広域支援に、イワンは息をつめて遠くの光景を睨みつける。破壊はまだ続けられている。この様子では、街の被害は甚大なものになるだろう。
『っ……お待たせしましたー! イワンくん、イワンくん! 聞こえますかイワンくーん!』
「キリサトさん! 遅いっ!」
『すみませんごめんなさい! 誰ですかこんな非常事態にヘリペリにクライム・ハッキング仕掛けてるのーっ! 社会的に抹殺してやるから首を洗って準備してなさいよばかぁーっ! 各社企業にヘリペリデスファイナンスから通達! 現在、七大企業とTV局、司法局に大規模なクラッキングがかかっています! TV局のはごめんなさい間に合わなかったんですけど、その他についてはこちらでどうにか防いでるので……! あの! 弊社の折紙サイクロンを稼働させてる余裕がないので! 今日はお休み頂いてもいいですかっ!』
 技術部を今呼び戻してるんですけど、全員到着まであと三十分はかかるので長期戦闘になるならなんとか準備して送り出しますけどっ、と叫ぶキリサトに、頭の痛そうな声でアニエスが溜息をつく。仕方がないわね、とでも言いたげな様子だった。
『……ヘリペリデスファイナンスの要求を許可します。それと、キリサト技術主任は緊急事態とはいえ、全社共通のオープン回線でヒーローの個人名を呼ばないように』
『わ、私ちゃんと折紙くんって言いましたからぁーっ!』
 いやああああっ、始末書書くのきらいいいいいっ、と涙声で叫びながらも、回線の奥から聞こえてくるタイピングの音は一時も途切れることがない。本人の意思確認もなしに出動を取り止めにさせられたイワンは深々と息を吐き、遠目に確認できる市街地の戦闘に視線を向けた。戦いは激しさを増して行くばかりで、確かに折紙サイクロンの出番はないのだろうが、好きでもないのに告白前に振られたような、微妙な気分だった。
「……こちら折紙サイクロン。現在位置は、自社の屋上です。遠目に現場が確認できますが……技術室に行きますか?」
『現場が長引きそうだったら教えてください!』
『アポロンメディアです! バーナビー・サポーター、ならびにタイガー・サポーター現場到着! 二人をトランスポーターへ回収しました! 怪我は軽傷、次の発動まで五十六分ですが、あと二分でスーツの装着完了。現場出られます!』
 長期戦突入するかは判断できません、と叫ぶアポロンメディアからの通信は、技術班所属の女性のものである。続いてオデュッセウスコミュニケーションがドラゴンキッドの現場到着まで残り二十五秒を告げ、ヘリオスエナジーはファイヤーエンブレムによる現場付近での一般市民誘導開始、クロノスフーズは同じく現場付近にロックバイソンが到着したことを報告すると、瓦礫の撤去と怪我人の救助へ向かうことを決定した。カリーナは自宅にいた為、他のヒーローに比べて遅れ気味であるらしい。ようやくトランスポーターへ辿りついたことをタイタンインダストリーが告げると同時、現場を見続けるイワンの頬を、彼方から流れてきた風のてのひらが不穏に撫でて過ぎ去って行く。衝撃は予告なく、続けてきた。音を立て、空気を振動させて過ぎ去って行く風の刃が、夜空に花火のような閃光を輝かせる。通信越し、誰もがその音を聞き届けたのだろう。固唾を飲んで報告を待つ気配の中、それを地上から確認したワイルドタイガーが、やや疲れた風な声で告げる。
『こちら、ワイルドタイガー。戦闘用アンドロイドの完全破壊を目視で確認。……だよな? スカイハイ』
『その通りだとも! お疲れさま、ワイルドくん! そして、バーナビーくん! ……こんばんは、キッドくん。ファイヤーくんも、バイソンくんも』
 星空近くから地上へ降りて行く青い光が、スカイハイであることは間違いなかった。穏やかな声がスカイハイの状態が良好であるとイワンに教え、通信でしか繋がらないヒーローたちにも安堵を与えたのだろう。あら終わっちゃったのねぇ、と笑いながら告げるファイヤーエンブレムの声に、ボク到着したばっかりだったのにーっ、と悔しげなドラゴンキッドの叫びがかぶる。眠い、帰る、と不機嫌絶頂のカリーナの呻きが響き、タイタンインダストリーからの通信が切れた。事件終結の穏やかな空気と共に、次々と共通回線から音声が少なくなって行く。やがて無音に戻った回線を終了させて、イワンはぐっと腕を上にあげ、緊張を解いた体を伸ばした。結局やることがなかったが、まあ、そういう日もあるだろう。元々、折紙サイクロンの能力は緊急時の戦闘力になるものではないのだし、仕方がない。イワンはPDAを操作して警察からの通達や司法局からの連絡をチェックし、これ以上の異変がないことを確かめると、ほっと安堵の息を吐きだした。なんで戦闘用アンドロイドなんていうものが急に街中に出現し、タイガー&バーナビーが交戦状態であったのか、という疑問は残るが、それは明日にでも分かるだろう。二人の怪我は幸い軽傷であったことだし、トレーニングルームで会えるのは確実なことだった。街が遠目にもかなりの被害を受けたことが確認できたので、その損害賠償がどうなるかがやや心配だったが、今回はヒーローが壊したのではなく単なる戦闘結果なので、ワイルドタイガーの賠償金が記録を更新してしまう事態にならなさそうなのが不幸中の幸いだろうか。
 一般市民にも負傷者は出ているものの、現在確認出来ている分には全員が軽傷である。市街地が直接的な恐怖に晒された後遺症はまたしばらく残るだろうが、それもヒーローTVが払拭していけるに違いない。市街地を舞台に飛び回るヒーローたちの映像は、シュテルンビルトの常の娯楽である。だからこそジェイクのような支配的な恐怖が街全体を覆わない限りは、ちょっとした撮影に巻き込まれてしまったかのような印象を与えるばかりで、後を引く深刻な事態にはなりにくいのだった。すこしばかり洗脳めいていることはイワンにも分かっているが、これがシュテルンビルトのヒーローTVと、そしてそこで活躍するヒーローたちのしくみ、そのひとつである。NEXTと一般市民の、いつの間にか別れてしまった意識、存在の共存というモデルケース。その枠組みを変えて行こうとするのであれば、途方もない苦労と現実的ではない理想が必要となってくる。その理想は夢想と呼ばれ、時として狂気の改革、革命を呼びこみ事件を起こすだろうが、そうすればまたヒーローがその芽を摘み取るだけだった。ヒーローを生んだこの街は、その存在を失って成り立つものではなくなっている。いいことなのか、変えて行くべきなのか、イワンには分からないことだった。
 まとまらない思考を打ち切って息を吐き、イワンはさて、と気を取り直す。とりとめのないことばかり考えてしまうのは、気持ちが疲れている証拠だった。帰って寝ようと思いつつも、技術室の混乱が収まっているのか気になった。クラッキング、という不穏な言葉が聞こえたのも気にかかる。技術室に顔を出して状況を確認しよう、と屋上から社内へ戻ろうとイワンが身を翻した瞬間だった。ふわ、と柔らかな風が前触れのように体を包みこみ、過ぎ去って行く。足を止めた瞬間、通信ごしではなく生身の声が、夜空の静寂をゆるく揺らして届けられた。
「……イワンくん?」
 その衣の白さは、あまりに気高かった。振り返ってスカイハイの姿を見た瞬間、イワンが感じたのは圧倒的なその印象で、思わず足を一歩引いてしまう。高揚感に溢れながらもやや疲れている様子のスカイハイは、そんなイワンに不思議そうに首を傾げた。会話しにくいと思ったのか、スカイハイはふわりと穏やかな空気の層を身に纏いながら、足先から屋上へ着地する。ジェットパックのスイッチは、すでに切られていた。だから接近に気がつかなかったのだろう。頭部のパーツを取って抱えて持ちながら、キースが満面の笑みでイワンを見た。
「やあ、こんばんは! ずっとここにいたのかい?」
「はい。出動、おつかれさまでした」
「ありがとう。……行く時には気がつかなかったよ」
 今日は待機だったんだね、と問うキースに、イワンは苦笑して頷いた。ここで見ていただけのイワンは複数音声が飛び交う回線の会話を聞き分ける余裕があったが、現場で動き回っていたキースには恐らく、ポセイドンラインの指示のみが印象に残っていた筈だ。ちょっとヘリペリで混乱があったらしくて、と告げるに留め、イワンはにこにこと笑うキースに問いかけた。
「ご機嫌ですね?」
「そうなんだ! ようやくコントロールが安定してね!」
 おかげで二人を助けに行くのに間に合ったんだ、とうきうきしながら告げたキースは、それからハッとして口を手で押さえた。コントロールが安定していなかった事実は、言ってはいけないことだったのだろう。ポセイドンラインが口止めしていたとしてもイワンは驚かないし、また、キースが誰にも相談した素振りを見せていなかったことからも、秘密にしておくべきことだったのだ。自然操作系のNEXTにおいて、能力の不安定さはそのまま、周囲の危険に直結しかねない。聞かなかったことにしてくれないか、と複雑そうな顔つきのキースに、イワンは無言で肩を震わせて笑った。それが、あまりに気を抜いた笑いだったからだろう。目を瞬かせたキースはあっと声をあげ、その秘密をイワンがとっくに知っていたことに気がついた。
「君は……ずっと、なにも言わずにいてくれたのか」
「キースさんなら……僕の知る、スカイハイなら。いつか必ず、安定に戻せると思っていましたから。でも、よかったです」
 それは胸に巣食う不安や焦燥を、乗り越えて行くことでしか迎えられない安定だ。キースをずっと悩ませていたそれが、ようやく解決したということだろう。ほっと胸を撫で下ろすイワンに嬉しげに笑い、キースは実はね、と声を弾ませる。
「ある人のおかげなんだ。私を……私の心を見つめ返す、考え直すきっかけをくれた人がいてね。彼女のおかげで私は、立ちなおる、というのかな。元気を出すことができたんだ」
「僕の知っている人ですか?」
 意外さに思わず問いかけ、イワンはそっと首を傾げた。すくなくともトレーニングルームや出動の行き帰りで、立ち直るきっかけとなるような存在を、見た覚えがなかったからだ。彼女と表すには女性だろうが、ヒーローとその親しい関係者に絞って考えても、該当する存在に心当たりがない。キースはわずかばかり考えたのち、いや、とイワンの既知を否定する。
「会ったこともないと思う。ジョンの散歩に行く公園で出会った、赤いカチューシャの物静かな女性だからね」
「へぇ……キースさん、女性に声をかけたりするんだ」
「ご、誤解だ! 誤解だとも、イワンくん! 声をかけたというか、散歩中にジョンが吠えかかってしまって、それがきっかけで……! 私は、まだ彼女の名前も知らないし……」
 キースに忠実であり人懐っこいジョンが誰かに向かって吠える、という事態をイワンは中々想像しづらかったが、そういうこともあるのだろう。へぇ、と感心したように頷き、イワンはもじもじと俯いてしまったキースに新鮮な気持ちで笑いかけた。まるで初恋に戸惑う少年のようだったが、相手の名前すら分からない、というのが実にそれらしくて微笑ましい。笑うイワンをやや恨めしげに見やりながら、キースはそっと口を開く。
「彼女に……お礼がしたいんだ。なにをすればいいだろう」
「キースさん」
「ん?」
 からかうのはよしてくれよ、と言いたげな苦笑にさらに笑みを誘われながら、イワンは比較的素直な気持ちで問いかけた。
「その彼女のこと、好きなんですか?」
 イワンにとってのキースはヒーローとしての大先輩で、それでいて同僚で、尊敬する相手だ。ヒーロースーツを身に纏った状態であるから、個人として会話を交わしていてもスカイハイに尋ねる印象が強く、言葉は妙な違和感を持ってイワンの中で響いたが、問われたキースには意外な言葉であったようだ。ややあって、はにかんだ笑みを浮かべながら、キースは頷く。
「そうだね。親しくなりたい、と思うよ」
「じゃあ、お花とか」
 イワンもそう、女性に対しての贈り物に詳しい訳ではない。お菓子かお花かな、という安易な想像からの二択だったのだが、イワンが考えたそれが小さなブーケであるのに対し、キースが連想したのが両手に抱える豪華なそれであったのは、単に日頃の問題だろう。優秀なヒーローとして花束を贈られることも多いスカイハイに手渡されるのは、いつも豪華絢爛、両手に抱えて持つような大きなものばかりなのだから。花か、と呟き、キースはそうだね、と納得した声で頷く。
「そうすることにしよう。ありがとう、イワンくん」
「どういたしまして……でも、アドバイスを求めるなら僕より、もっといい相手がいる気がしますけど」
 暗に、女子組三人を指しているのが分かったのだろう。なぜか苦笑いをして、キースは実はね、と声をひそめる。
「すこし前に、それとはまた違うアドバイスを受けているんだ。聞いても良いんだが、また今度にするよ」
「そうだったんですか……」
 質問の中身はともかくとして、三人が三人とも、とてもとても盛りあがったであろうことは想像に容易かった。キースが能力のことではないにしろ誰かにアドバイスを求めていた、という事実はなんとなくイワンの心を静かにさせたが、彼女たちはきっと、単にその場に居合わせたのだろう。それではまた、と浮かび上がる姿を見えなくなるまで見送って、イワンは足早に屋上を立ち去った。もうここで、スカイハイの夜間パトロールを観察する習慣も終わりにしなければ、と考える。元々、彼の能力が不安定であることが心配で始めたのだから、安定した今、それを続ける理由はどこにもない。それにしてもいつの間にキースは気になる女性を作り、それを誰かに相談なんてしていたのだろう。見つめていた筈なのに気がつかなかった事実に、イワンはすこし、落ち込んだ。観察力には自信があったのに、打ち砕かれた気分だった。調子に乗ってたってことで反省するいい機会かも、と溜息をついて、イワンは歩む足を技術室へ向ける。今現在も忙しく動き回っている様子なら、明日の朝に改めて顔を出すつもりでそっと中を覗きこめば、そこには机に突っ伏して呻き声をあげ、ぴくりとも動かなくなった技術者で溢れていた。扉を開ければそこには、動く屍累々でした、という現実から逃避したくなりつつ、イワンはそーっと室内に体を滑り込ませ、なるべく辺りを刺激しないようにキリサトを探す。少女は自分のデスクに突っ伏し、すんすんと鼻を鳴らしてしょげかえっていた。辺りの気配から察するに防衛作業は一区切りついたようだが、なにか失敗でもしたのだろうか。
「……どうしたんですか?」
「始末書……私は泣くほど始末書嫌いなんですけどー、イワンくん、代わりに書いてくれたりしませんか……?」
 心配して損した、と何回でも思わせてくれる相手にいっそ感心しながら、イワンは少女の隣の椅子を引き、そこに腰かけた。室内に増えた気配に他の者もようやく気がついたのか、のろのろと視線をあげ、おつかれさま、と死にそうな声で挨拶をしてくる。それに、心の底からおつかれさまですと言い返し、イワンはそっと眉を寄せた。
「それで、なにがあったんですか?」
「まだよく分からないんですけどー……誰かが七大企業とヒーローTVに攻撃をしかけてきたってことは確かですねー。存在しない筈の『戦闘用アンドロイド』とかいうのの存在も一応確認できたことですし、もしかして、誰かテロでも企んでるのかも知れません。……ううぅ、社会的に抹殺される覚悟を決めて私の報復を待っていればいい……! 始末書の! うらみー!」
 それをひとは逆恨みと呼ぶのだが、指摘してやる気力は本日のイワンには残されていなかった。一方的な混乱に巻き込まれてしまい、精神的に少々疲れている。
「戦闘用アンドロイドって……存在しない筈、なんですか?」
「確か。私、あんまりアンドロイド工学に詳しくないので、うまく説明できないんですが。人を攻撃するっていうのは、プログラムに反する行いなんですよ。結果的に攻撃になっちゃったとかならともかく、自主的に人を狙って攻撃する、という行為自体が出来ないんじゃなかったかな……なんらかの事故で暴走しているならともかく、意図的であれば不可能だった筈です」
「……そういうものなんですか?」
 イワン自身も、残念ながら機械工学やアンドロイド方面の知識が豊富な訳ではない。うっすらと、アンドロイドが人に危害を加えることはプログラム上出来ない、という事実を雑学として知るに留まり、キリサトの説明をそのまま受け止めるしか出来なかった。そういうものなんです、と頷き、キリサトは深く息を吐き出し、突っ伏していた体を持ち上げた。
「その辺に一番詳しいのはアポロンメディアなので、すでに解析と調査を進めてくれてるみたいです。クラッキングについても、攻撃は終わったので私たちの仕事は終わり。あとはオデュッセウスコミュニケーションが何処からの攻撃だったのか、特定作業を進めてくれています。……ごめんなさいね、イワンくん。あなたを動かしてあげられる余裕が、本当になくて」
「……動けても、今回は辿りつく前に終わった気がしますけどね。スカイハイの機動力にはどうしたって追いつけないし」
「あ、スカイハイが間に合ったんですね。……調子、良さそうでしたか?」
 キースがそうであったように、集中するあまり、通信から飛び込んでくる音声の聞き訳を放棄していたのだろう。いま一つ自体を把握していないキリサトに、イワンは遠目に確認できた限りの事実を教えてやった。ふんふん、と興味深そうに聞いていたキリサトは屋上での話の下りになると目を輝かせ、しかし次第に複雑そうな顔つきになっていった。
「それは……うん、そうですか」
「……なにか?」
「う、うーん。うーん……ポセイドンラインも可哀想になぁ、と思っちゃっただけです……や、いいんですけどね?」
 好きとかいう気持ちは個人のものですし、恋する権利も本人のものなんでどうしようもないんですけどね、と口を濁すキリサトに、イワンは思わず眉を寄せた。
「なんですか、それ」
 責めるような強い語調に、キリサトはむずがる幼子のようにんー、と声をあげ、溜息をついた。
「その理由で安定したとするなら、またその恋の結果によっては不安定に陥ったりするんじゃないかなぁって。だって、世の中に上手く行く恋ばっかり、落ちている訳じゃないでしょう?」
「……あ」
「まあ、親しくなりたいレベルから始めるのであれば、いきなり付き合って下さいとか口走ったりもしないでしょうし……だ、大丈夫だとは、思いますけどねー?」
 まあ私は馬に蹴られたりするの好きじゃないんで、これ以上これについては首突っ込んだり考えたりしませんが、と言って、キリサトはまたぱったりと机に突っ伏してしまった。
「……イワンくん、自宅帰ります? 一時間したら起こして欲しいんですけど」
「帰りたいと思ってましたが……キリサトさんが自主的に寝ようとするトコはじめて見て、今僕の眠気が吹き飛びました」
「私、いちおう人類なので……時々ちょっとは眠たいです」
 じゃあ、携帯電話で目覚ましかけて寝るので帰って良いですよ、ともそもそアラーム設定をしようとする少女の手からそれを取りあげて、イワンはぽんぽん、と技術者の頭を撫でてやる。
「一時間でいいんですか?」
「……それくらいで、一回連絡くると思うので」
 心配しなくても、明後日になったらいったん落ち着くと思うのでそしたら寝ますよー、と告げるのが明日ではないことがイワンにはもう理解しがたいのだが、キリサトにしてみれば特別なことでもないらしい。おやすみなさい、と言ってぱったりと意識を手放してしまったのを眺め、イワンは苦笑気味に立ち上がり、キリサトの携帯の電源をオフにした。周囲に視線を巡らせて唇に人差し指を押しあてれば、ありがとう、と言わんばかりの苦笑と巡り合う。そっと技術室を出て行くイワンの耳に、また慌ただしく動きはじめるいくつもの足音が聞こえたが、そこに少女のものが加わることはないだろう。すくなくとも、この夜が明けるまで。

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