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 キースが彼女と会えていないらしいということは、本人の口から聞かずとも、イワンの知る所となった。落ち込んだキースの様子を見つめてはそわそわと落ち着かないイワンに、パオリンがそっと耳打ちしてくれた。キースさんね、気になる彼女と会えなくなっちゃったんだって。でも、毎日公園で待ってるみたいなんだ。どうしてあげたらいいかなぁ、と心を痛めるパオリンにイワンはもうすこし様子を見よう、と告げることしか出来なかった。名前を知らない相手だから、ただ出会った場所で待つことしかできないのだろう、と思う。赤いカチューシャの物静かな少女。それ以外に情報があればイワンは探す手伝いをしただろうが、傷心の落ち込むキースから聞きだす訳にはいかず、相談を受けた少女たちとマダムも詳しいことは知らないようだった。毎日、キースは花束を買い、公園に通っている。一度だけそっと遠目に様子を伺いに行ったイワンが見たのは、ベンチに背筋を伸ばして座るキースの姿だった。傍らには、豪華な印象の白い薔薇の花束が置かれている。花言葉に詳しくなさそうなキースだから、純粋に彼女の印象で選んだ花なのだろう。
 美しく、派手であるのに落ち着いて清楚な印象を受けるその花は、キースが彼女に向ける感謝の気持ちと、静かでいて情熱的な想いを感じさせるようだった。会えずに落ち込んでも、感謝を告げることを諦めたり、親しくなりたいと想う気持ちが途絶えることはないのだろう。時折、そわそわと辺りを見回しては、キースは待ち合わせでもしているように、彼女を想って微笑んだ。その足元で丸くなるジョンだけが、いつまでもいつまでも落ち着いた態度を崩さなかった。一週間が過ぎ、十日が終わっても、二週間が巡っても、キースは公園に通い、彼女に会えないまま終わる日が過ぎ去って行く。そして十五日目の今日も、落ち込んだ様子でありながら今日こそ、といそいそトレーニングルームを出て行くキースを見送って、イワンは深々と息を吐き出し、柔軟をしていた床にそのまま寝そべった。正直、ものすごく胃が痛い。そのうち諦めて通わなくなるかも、と思っていた一週間前の自分に対して、キースさんの忍耐力と想いの強さを見誤ってはいけないと言い聞かせたくてたまらない気持ちだ。ことキース・グッドマンに対し、イワンの観察眼と判断力は役に立たないものらしい。僕って駄目だなぁ、と落ち込んだ息を吐きながら床でだらだら転がっていると、すぐ目の前にダンッ、と足が下ろされる。細い、少女の足首だった。
 うじうじと視線を持ち上げ、寝そべったままで問いかける。
「なに、カリーナさん」
「元気出しなさいよ。あと、起き上がれ! 踏むわよっ?」
 言葉の途中、無言で足を床から離したカリーナの踏む発言が本気だと悟り、イワンはもぞもぞとその場で座りなおした。精神的に、立つ元気がない。床にぺたりと座りながら見上げるイワンと、その前に腰に手をあてて立つカリーナの図、というのは客観的に見て叱る相手と叱られる相手そのものだった。
「普通はまず、元気ないけどなにかあったの? って聞く所から始めると思うよ……」
「どうしたのって私に聞かれて、なんでもいいから答える用意がありそうな相手にならちゃんと聞くわよ。言っていいの? 教えてくれるわけ?」
 言っておくけど、大丈夫とかなんでもないって言うにはアンタ顔つきが悩み過ぎてるし、キースのこと気にし過ぎだからね、と指摘されて、イワンは思い切り苦笑した。まったく、カリーナの言うことは正しい。
「心配かけてごめん」
「いいわよ、そんなこと気にしないで。で? 教えてくれるの? くれないの?」
「……キースさんの能力、一時期不安定だったの、知ってる?」
 言葉を選んで問いかけたイワンに、カリーナはあっさりと知ってるけど、と頷いた。この間までなんか能力使い辛そうにしてたしね、とも続けられて、イワンは自嘲気味な笑みを浮かべる。カリーナはキースと同じ自然能力系のNEXTだ。二人とも犯人確保に飛び出して行くタイプだし、能力の系統のこともあるので、感じるものがあったのだろう。
「まあ、今は安定してるみたいだけど。……それが?」
「キースさんの能力が安定したきっかけって、その、彼女に励まされたとか、そういうことだったみたいで」
 ずっと会えてないみたいだから、とイワンはそっと息を吐きだした。気がついていて言わなかったのはイワンだけではなかったのに、あの日の夜、キースに感謝されてしまったのがいたたまれない。アンタって本当に一回落ち込むと、落ち込むことで忙しくなるわよね、とカリーナから呆れの眼差しを受けつつ、イワンはそっと言葉を繋げた。
「また不安定になったら、どうしようと思って……」
「……それって、ちょっと勝手じゃない?」
「え?」
 ぱっと顔を上げてみると、カリーナは複雑そうな顔つきで考え込んでいた。なんか、とややふてくされ気味に告げられる。
「キースが彼女に会えないから、それを心配して一緒に落ち込んでるのかと思ってた。違うんだ?」
「……なんでそれで僕が落ち込むと思ったの」
「なんとなく! ……でも、ちょっと意外かも。アンタもそういう、自分勝手っぽい理由で元気なくしたりするんだ」
 へぇ、と気分を害した様子はなく、関心しているそぶりでイワンを見つめてくるカリーナに、思わず苦笑が浮かぶ。ようやく座っている気分ではなくなったので立ち上がると、カリーナの視線がそのまま、イワンの顔を追ってきた。上目づかいに見つめられて、イワンは本日何度目かの『なに』をカリーナへ向ける。カリーナはイワンの顔をしげしげと見つめながら、可愛らしく首を傾げ、唇をひらく。
「どうすれば元気でるかな、と思って? 落ち込んでるの、うっとおしいんだもの。じめじめして、湿気増えそうで」
「……誰かさんが里帰りしてるから、精神的に暇なんでしょ」
「だ・れ・が! わた、私は別に! タイガーのことなんかっ!」
 誤魔化し切れていない様子が、少女の真実を告げていた。イワンがうっとおしくて心配になってどうにかしたい、というのも紛れもない本当なのだろうが、普段のカリーナであれば、ここまで食い下がっては来ないのである。仕方ないなー、と息を吐きだして、イワンは顔を真っ赤にして慌てるカリーナを見た。
「僕は別に、誰とは言わなかったけど」
「なによ、ばかっ!」
「……あ、ところで、自分勝手っぽいってなに?」
 もういい、と部屋を出て行こうとする背に、イワンはどうしても気になって問いかけた。カリーナはむっとした顔つきで唇を尖らせながら振り返り、どうして分からないのか、と言いたげに首を傾げてみせた。
「だって、キースの能力が不安定になるかもって心配してるだけなんでしょ? 彼女に会えるか、会えないかじゃなくて」
「……うん、まあ」
「それってつまり、キースの能力が上手く使えなくなった時に、自分になにかあったらどうしようってことじゃないの?」
 カリーナの言葉はイワンを責めてはいなかったが、瞳の奥には氷のような、冷たい怒りが見え隠れしていた。その怒りすらイワンに向けられたものではなかったからこそ、自然系能力者としてNEXTに目覚めたばかりのカリーナが、周囲から受け止めてしまった言葉がなんであるのかを物語る。両親が告げた言葉ではないことくらい、イワンにはすぐ分かった。カリーナはなんの屈託もなく、純粋に両親を愛している。彼らはその不安定な時期を、カリーナと一緒に乗り越えたのだろう。慎重に瞳を見つめ返しながら、イワンはすこし違うよ、と言った。
「能力が……僕たちNEXT能力者のちからが、意思に反して上手く動かせなくなることが、どんなにか怖いだろうってこと」
「……アンタにとって?」
「僕も、僕の能力が制御できなくなったらと思うと、それだけで怖いよ。でも、僕が心配してるのはキースさんの能力がコントロールを失った時に僕に来るリスクじゃなくて、その状態をもう一回乗り越えなきゃいけないキースさんの精神状態。……カリーナさんは、なかった? 例えば、そうしたくないのに、なにかを凍らせてしまうこと。絶対に、自分ではやりたくないと思ってるのに、発動が止まらないこと。逆に、今そうしなきゃいけないのに、能力が発動できないこと。なかった? その時……辛くなかった? 僕が言ってるのはそういうことで、心配してるのも……そういうことだよ」
 カリーナは、まだ年若い。それなのに、ポイント上位を常にキープする実力者だ。能力的な適正もあるだろうが、少女の意思を常に正しく反映して生み出される氷があってこそ、その立場は保たれている。アカデミーでNEXTに関しての知識を専門的に学んだイワンにしてみれば、ごく普通の高校に通っているカリーナが、恐らくは己の才能と感覚のみを頼りに恐ろしいほどの精度を保って氷を操るさまは、才能と呼ばれるものの存在を感じずにはいられなかった。それでも、最初から己の能力を上手く操れる能力者などいない。イワンの言葉にカリーナはつよく唇を噛み、不安げに瞳を彷徨わせた。
「……ごめん。そんなつもりじゃなくて、私」
「うん、分かってる。僕も、分かりにくかったよね、ごめん」
「私……キースと、その彼女が上手く行けばいいなって思ってたから、会えないって聞いて……私も悲しくて、八つ当たりしたっていうのも、ある、かも……やっぱり、ごめんね」
 気が強い恥ずかしがり屋なだけで、カリーナは素直で可愛い少女だった。数日前から実家に里帰り中のあの人の前でもこれくらいしおらしくできれば、あのバディにばかり目を向けている彼も、きっとカリーナを見てくれるようになるだろうに。怒ってないよ、と苦笑して歩み寄り頭を撫でてやれば、カリーナはこくりと素直に頷いた。しかし、少女の負けん気の強さが、それだけでは己を許せなかったのだろう。決めた、と決意をこめた呟きを発して、少女の瞳がきっとイワンを睨むように見た。
「私、キースのこと励ましてくる……!」
「……な、なんで?」
「タイガーが……最近、時々考え込んでたり、落ち込んでるっぽかったの、イワンは気がついてた……?」
 ほんのすこし、前からのことだった。ふと気が付けば口数が少なくなり、考え込む素振りを見せたり、ぼんやりと何処かを眺めて眉を寄せる虎徹の姿をイワンも目撃している。元から、ヒーローたちのムードメーカー的役割を担う存在だから、異変には気が付きやすかった。バーナビーも薄々はなにかおかしいと思いつつ、上手く聞き出せないが為に話してくれるのを待っているのだろう。里帰り中は心配をかけない為、いつもよりずっと精力的にヒーロー活動を行っていた。帰ってきて、気持ちが落ち着けば話してくれると思うんです、と信じた表情で笑ったバーナビーのことを思い出し、イワンはうん、と頷いた。
「知ってるけど、それが?」
「だから、帰ってきて……キースがまだ落ち込んでたら、アイツ、その心配ばっかりして、また自分のこと放っておきそうだから。皆が落ち着いて、おかえりって言ってあげられるようにしてあげたいの! 私の、私も……自分勝手だけど、でも、キースにいつまでも落ち込んでて欲しくないのも本当だし、バーナビーだって、いつまで経ってもそわそわそわそわしてて! なんか大変そうだなって……なんで笑ってんのよ!」
「ん? 優しいなぁ、と思って」
 吹き出しそうな笑いを堪えながら、イワンはいいこいいこ、とカリーナの頭を撫でてやる。
「皆の心配してるから」
「……仲間だし! 普通! 心配するもんなの!」
「そっか。うん、そうだね」
 じゃあ、キースさんの励ましをヒーロー代表で頼んでいいかな、と囁けば、カリーナはふん、と鼻を鳴らしてイワンの手を頭から退かせた。胸を反らして腰に手をあて、口を開く。
「任されてあげても、いいわよ」
 その耳が赤く染まってさえいなければ、恥ずかしさを誤魔化すための言葉だとして、イワンは笑わないであげられたのだが。ぷっ、と吹き出して視線を反らし、堪え切れず笑ってしまったイワンに、カリーナは顔を真っ赤にして片足を振り上げた。



 カリーナが公園に辿りついたのは、夕方のことだった。陽が暮れはじめたせいだろう。道に長く影を落とす木の模様がなんだか怖く感じて、カリーナはただの少女のように眉を寄せ、先を急いで歩いて行く。本当はもうすこし明るいうちに来るつもりだったのに、こんなに遅くなったのは、もう全部イワンのせいだった。笑いながらカリーナの蹴りを避け続け、最後にはなにが楽しいのか爆笑しながら逃げ続けたイワンは、結局一回も当たってはくれなかった。さすがに普段、ちょこまかと動き回って見切れているだけある身体能力である。結構な重量のあるフルアーマータイプのヒーロースーツであるから、それなりの体力があるのは知っていたのだが、まさかあそこまでとは思わなかった。ヒーローの中で一番回避能力が高いのは、折紙サイクロンなのではないだろうか。本人に言えば、それって逃げるのが得意ってことだよね、とネガティブ方向に受け止めそうで褒めた気持ちが台無しになるなるので、口に出して言ってやりなどしないのだが。あのネガティブさは、一体どうしてそうなるのだか、未だもってカリーナには理解できない。逆に、なぜかいつも物事をポジティブに捕らえ続ける傾向にあるキースの思考も、少女には上手く分かってやることができないのだが。
 考えながら公園の中央部へ辿りついたカリーナは、求める姿をすぐに見つけることができた。イワンとは別々に、カリーナも一度だけ、気になってキースの様子を見に来たことがあったからだ。その時と全く同じ位置に、全く同じようにしてキースは座っていた。足元にはジョンが丸くなって眠っていて、主人の気が済むまでは付き合うと決めているようだった、カリーナは息を吸い込み、ゆっくりとした足取りでキースに近づいて行く。途中でカリーナの姿に気がついたキースが、待ち焦がれる女性と少女を見間違えることもなく、歓迎するように微笑んでくれたことが緊張を緩く解きほぐして行く。キースの前に数歩分の距離をあけて立ち止まって、カリーナは両手を体の横で拳に握り、もう一度息を吸い込む。
「こ……こんばんは、キース」
「こんばんは、カリーナくん。どうしたんだい?」
「ちょっと、話があって。……あの、隣に、座ってもいい?」
 キースの隣の空間には、予約席であるかのよう、白い薔薇の花束が置かれている。だからこそ、その言葉を告げるには勇気がいった。もし少しでも困惑されてしまったら、拒絶されてしまったら、怖くなってなにも言えずに帰ってしまうかも知れない。まるで愛の告白でもするようだったが、通りすがる者たちも、キースとカリーナの様子にそう感じたのだろう。応援するような視線を感じて、違うと言いたくなりながらも、カリーナは背を押された気分でキースの顔を見つめた。キースが、無言で薔薇の花束を膝の上に乗せる。それからカリーナに向けられた表情は、思わずほっとしてしまう、普段通りの笑顔だった。
「どうぞ、カリーナくん。……ふふ、そんなに緊張して。どうかしたのかな?」
「どうかしたっていうか……あの、あのね。キース」
「うん」
 にこにこ笑うキースを横からそっと見上げて、不意に、カリーナは相手が年上の男であるということに気がついた。ほとんど初めて、相手の性別をハッキリと自覚する。そうすると、キースの優しさや、名前を呼び捨てて許してくれる器の大きい親しみも改めて感じることとなり、その恋の行く末を思って息が詰まった。十五日は、長い。それまでほとんど毎日会えていた相手だと聞くから、そんなにも長い不在に、カリーナならばもう会えないのだと見切りをつけてしまいそうなのに。キースは、まだ待っている、そしてこれからも、きっと待ち続けるに違いない。諦めさせたい訳ではないのだけれど、とカリーナは息を吸い込んだ。このままでは、きっといけないのだ、と己の直感を信じて言葉を考える。遠目に見つめたキースの姿は、数日前とあまりに変わっていなかった。それはきっと、立ち止まっているということなのだ。あのね、とか細く、カリーナは言う。
「待たないでって、言ってる訳じゃないの……」
「……うん?」
「彼女のこと。キース、ずっと待ってるでしょう? それをね、待たないでって言ってる訳じゃないのよ。でも……毎日、会えなくて、渡せなかった花束はどうしてるの……?」
 捨てる、なんてことは考えられない相手だった。渡す相手のことを強く想って買ったものなら、なおさらそんなことはしないだろう。苦しげに、申し訳なさそうに言葉を告げるカリーナに、キースは一度だけ肩を震わせた。
「……言えなかった言葉があるって、辛いと思う。渡せなかった花が、毎日増えるのも……私なら、苦しいと、思う」
「……ああ」
 自分よりずっと大人の男の人が、泣きそうな気持ちを堪えている時にどうすればいいのか、カリーナにはよく分からない。ましてやキースが、あんなに頼りがいのあるスカイハイがそんな風になることを、カリーナは想像もしたことがなかった。どうしよう、と思いながら手を伸ばして、花束を持つ手に触れる。ぎゅっと握りしめれば向けられた目に、カリーナは精一杯の気持ちで、息を吸い込んだ。泣くものか、と思った。苦しいのはキースだ。悲しいのも、辛いのも。それを感じ取ってカリーナが涙を零せば、絶対にキースは、少女を慰めてくれるだろう。それでは駄目なのだ。強くならなきゃ、とカリーナは思う。もっと強く。せめて、今だけでも。泣く姿など決して見せないであろう、ブルーローズのように。人の希望を繋ぎとめ、救いあげるヒーローのように。今、この人を救いたいと、思う。
「どんな人なのか、聞いていい?」
 光を正面から見つめたように、そっと目を細めて。柔らかく微笑み、キースはああ、と頷いた。
「赤いカチューシャの似合う、色白の、物静かなひとで……いつもただ、私の話を聞いてくれたように思う。今覚えば、そう多く話した訳ではないんだが……こうして、一緒に座っているだけで、私は幸せで……感謝、しているんだ。とても」
「うん。……うん」
「もう一度会いたくて。会えたら、ありがとうと言いたい。私は彼女に、ありがとうと……そう、言いたいだけなんだ」
 触れた手にぎゅっと力を込めて、カリーナはうん、と呟く。手に触れて、目を覗きこんで、すぐ近くで言葉を聞いていたかった。どんな言葉でも、聞き逃してはいけない気がした。
「言いたい言葉があるのに……言えないの、辛いね」
「……そうだね」
「伝えたいのに、伝えられなかった気持ちとか、言葉って、どこに行くのかな……胸の中でぐるぐるして、苦しくて、でも伝えられなくて。忘れようとしても、忘れられないよね。消えてくれないんだよね。だって、言いたかったんだもんね……!」
 泣くな、とカリーナは己を叱咤する。辛いのは、カリーナであってキースではない。一つの恋が終わってしまうかも知れないのは、今そうなのは、キースであってカリーナではないのに。胸の中で、恋のつぶれた音を聞く。その瞬間のことを、思い出す。好きで。まだ好きで、嫌いになれなくて。それでも、きっともう伝えることのない抱えたままの恋は、苦しくて、それでも恋の形をしたままで。その為に、こんなに誰かを励まそうとしてしまうのは、きっと滑稽なことなのだろう。泣くものか、とカリーナは思う。恋をした。誇らしく、胸を張れる恋だった。
「……あのね!」
 息を吸う。心配そうなキースの顔に胸の中の悲しみを気づかれてしまったと分かっても、だからこそ、カリーナは明るく笑ってみせた。
「彼女は、キースを救ってくれたんでしょ? なら、ここでずっと待ってるのは、違うと思う」
 カリーナは、ベンチからさっと立ち上がった。足元で眠りから覚めて顔を上げるジョンにも笑いかけて、キースの前に背を伸ばして立った。
「立ってよ、キース。……ねえ、渡せなかった花束は、伝えられなかった気持ちとは違うの。彼女の言葉が、キースを立ち上がらせてくれたなら……キースは、また、歩かなきゃ」
「カリーナくん……」
「元気出して?」
 ほら、と差し出された手をとって、キースはベンチから立ち上がった。にっこり笑うカリーナの足元で、ジョンが立ちあがって尻尾を振り、嬉しげに一声鳴く。キースは静かに息を吸い込んで、そろそろ夜になろうとする空を見上げた。薄く透明な紫から藍色に変わって行く空は、これから多くの星を輝かせるのだろう。暗闇があるから、光の眩さに気が付ける。一度だけ目を閉じて、キースはカリーナのことを見た。
「カリーナくん」
「なに?」
「ありがとう。本当に……ありがとう」
 もう大丈夫だ、と告げるキースに、カリーナはしっかりと頷いた。そして身軽な仕草で噴水に走り寄ると、水を背にくるりとキースを振り返り、見ていて、と笑う。少女の指先だけが、青白く輝いた。指が水に触れる。カリーナは意識を集中している真剣さで水を睨みつけ、ぎゅっと唇を噛んで息を止めた。パキン、と音がした。硬質な、透明な、心地良い音だった。噴水からそっと手を引きぬくカリーナの指先に摘まれたものを見て、キースは目を見開く。そこにあったのは、氷で作られた一輪の薔薇だった。瑞々しく透き通った氷の薔薇を手に駆け戻り、カリーナはそれをはい、とキースに差し出す。
「あげるわ。たぶん、三時間くらいで溶けるけど」
「君の能力制御には……正直、心から恐れ入るよ」
「ふふ。……ねえ、だから、よかったら、なんだけど……お花、交換こ、しない? 私の方がきっと、その花、綺麗に飾ってあげられると思うし……駄目、かな」
 あけすけで、それでいてためらいがちな少女の物言いに笑いながら、キースはカリーナの手から氷の薔薇を受け取った。そして、真実そうする為に買ったかのような気持ちで、カリーナの腕の中で白薔薇の花束を受け渡す。嬉しそうに、どこか怖々と花束を受け取り、カリーナは照れたように肩を竦めた。
「大切にするからね」
「ああ……すまないね、カリーナくん」
「こういう時は、ありがとうって言うのよ?」
 そろそろ帰らなきゃ、と後ろ髪を引かれることなく走り去って行く背に、キースは心から笑って、ありがとう、と言った。カリーナはぱっと振り返って、嬉しそうに笑う。暮れゆく夜の世界に、眩しく輝く光のようだった。

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