パオリンと一緒に食事をしていると、イワンは毎回途中で満腹になって、あとは見ているだけになる。別に小食ではないし、体を動かす職業的な理由もあってイワンはたくさん食べるのだが、パオリンのそれに勝てたことは一度としてなかった。もしかして食糧から自家発電しているから、大量に食べなければ体が保たないのではないかとイワンに思わせるほど、パオリンは一生懸命もぐもぐと口を動かし、また一皿を空にした。食べたいジャンルを考えるのが面倒くさい、ということで意見が一致した今日であるから、二人がいるのはファミリーレストランだった。パオリンはメニューを開いてすこしばかり考えると、勢いよくボタンを押して、やってきたウエイトレスに笑顔で追加注文をした。ウエイトレスは笑顔で承りましたー、と告げ、山を積まれた皿をひょいひょいと持ち上げて回収し、厨房へと戻って行く。ウエイトレスもプロである。あの量の皿を一気に持って行けるってすごいねぇ、としきりに感心するパオリンに、その九割を君が食べたんだけどね、と突っ込みながら、イワンはホットコーヒーをすすった。まだもうちょっと食べるの、と問うイワンにこくりと頷いたパオリンは、音を立てて着信を告げた携帯電話に、あ、と嬉しそうな顔を覗かせる。
「カリーナからだ! ……イワンさん、見て!」
メールを確認した瞬間、画面をそのままイワンに突き付けてくるのにやや仰け反りながら、視線を向ける。
「ミッションコンプリート! だって! これでキース、元気になるかなぁ……?」
「なると思うよ。……それにしても、このメールさぁ、普通は僕のトコに来るんじゃないの? なんでパオリンに来るの」
「一緒にご飯食べてるの、知ってるからじゃないの?」
二人が蹴られるの蹴られないのと大騒ぎしてじゃれているのを止めたのはパオリンである。そろそろ行かないと陽が暮れるよ、とカリーナには言い、イワンにはお腹すいたから夕ご飯食べに行こうよ、と腕を引いたのだ。そうだけど、としぶい顔をして、イワンは納得できないように首を傾げる。
「……まだ怒ってるのかな」
「かもね? まあ、気にしないでいいんじゃないかな。イワンさんより、ボクのがメール送りやすかったのかも知れないし」
「なにそれ」
むっと尖った唇にフォークに刺したからあげを押しこみながら、パオリンは若干面倒くさそうに言った。
「イワンさん、男の子だもん」
「子っていう年齢じゃないんだけど」
「だから、本当にそれだけだと思うよ?」
本当に怒ってたら、この文章なかったと思うし、とメールの文面を最後までスクロールして、パオリンはそれを読みあげた。
「イワンにもよろしく言っといて! だってさ」
「……分かった」
「イワンさん、一回ネガティブになっちゃうと、その後ずーっとネガティブっぽくしか考えられなくなるの、よくないよ?」
ボクはもう慣れたからいいけどさ、と言い、パオリンはウエイトレスが運んで来た追加注文の数々に目を輝かせた。野菜が食べたくなったのだろう。生野菜のサラダに、温野菜のチーズ焼き、透き通ったコンソメのスープには柔らかく煮込んだ数種類の野菜が浮かんでいる。本日数回目のいただきます、を楽しげに告げて、パオリンはサラダに手を伸ばす。もぐもぐもぐ、といかにも幸せそうに口を動かして食べながら、パオリンはそう言えば、とコーヒーを楽しんでいるイワンに目を向けた。
「今日改めて思ったんだけど、カリーナは優しいよね」
「確かに、優しいね……」
「ね。自然能力系のNEXTであれば、能力が安定しない状態を周囲が警戒して当たり前だと、ボクは思うけどさ。カリーナは、それをちゃんと怒るんだよね。びっくりした」
蹴らせろ蹴らせない、のじゃれあいを即座に止めはしたが、その理由もそつなく聞きだしたからこその疑問であり、感嘆だった。イワンはアカデミー卒であるからこそ、パオリンは故国でエリートとなるべくNEXT能力に関しての基礎を叩きこまれてきたからこそ、そう思うのはごく自然のことなのだ。そして二人は、実体験としてその恐ろしさを知っているのである。NEXT能力者が、己の力を上手く扱えなくなる、ということ。その言い知れない恐怖と焦りは、体験してしまえば決して忘れられるものではない。カリーナも途中で理解はしてくれたので、経験もあるのだろうが、イワンやパオリンとはまた別の考えて育って来たのだろう。カリーナの持つ感覚は、一般人のそれに近い。それなのに才能故か、カリーナの能力コントロールは現ヒーローの中でもっとも高く、群を抜いているのだ。あれじゃきっと分からないね、と苦笑するパオリンは、食べ終えたサラダボウルを遠ざけ、チーズ焼きを引き寄せながら呟く。
「ボクは正直、キースが不安定になったら常に気を張ってなきゃ安心して過ごせないけど、それはボクがそうなっても同じだと思うんだよね……ボクや、キース、ネイサン、カリーナの能力は特にそうなんだよ。自分の意思とは関係なく、人を傷つけやすい能力。自然操作系の……弱点、だよね」
「発現の規模が大きくなりやすいと、どうしてもね」
「……キースが相談してくれた時、ボク、嬉しかったんだ。スカイハイって、なんかそういう……特別な存在がいない気がしない? 作れないっていうか、そういう感情があるのかなって。市民を愛するのと個人を愛するのが一緒っていうかさ、だから、キースが……キースがちゃんと、人を気にすることができるって分かって、嬉しかったんだ。……気が付けばよかったな」
あの中でボクが一番、イワンさんと同じくらい能力の危険について分かってると思うんだよね、と眉を寄せて落ち込むパオリンに、イワンは苦笑しながら手を伸ばした。ぽんぽん、と頭を撫でて、もう大丈夫になったことだから、と言い聞かせる。
「僕も気が付かないで、うっかりアドバイスしちゃったし。おあいこってことで、落ち込むの止めにしない?」
「……分かった。そうする」
よし、と気合を入れ直してチーズ焼きをぱくぱく食べながら、パオリンは恋って怖いね、と呟いた。
「ボクの能力とは絶対相性が悪いと思うんだよね……決めた! ボク、恋には落ちないようにしよっと!」
「ナターシャさんが聞いたら泣くんじゃないかなぁ、それ」
常日頃、ボーイッシュな少女に可愛らしい服を進めては却下されている教育係兼保護者は、能力暴走を恐れてパオリンが恋に落ちたくないと言ったのを知ったら、それこそ本当に顔を覆って泣き伏しそうだった。イワンが簡単に想像できたので、パオリンも目に浮かんだのだろう。食べ終わったチーズ焼きの皿をスープの器の位置を入れ替えながら、パオリンはうーん、と難しそうな顔つきで唸った。
「だって、感電させちゃったら怖いしさぁ……」
「そうだけど。でも、恋って落ちるものだから。そんな風に警戒しても、落ちる時は落ちちゃうんじゃない?」
「えー! ボク、そんなの困るよ! 困る!」
どうにかならないのかな、と本気で思案するパオリンに、スープ冷めるから先に飲んじゃいなよ、と促しつつ、イワンは苦笑して言い添えた。まあ、恋したからって確実に能力暴走しちゃう訳じゃないし、それに、と。
「カリーナさんは能力コントロール、そのままだったでしょ?」
「あ、そっか! ……でも、カリーナだし」
参考にならないよ、と叫ぶパオリンの口にスープをひとさじぶんスプーンで突っ込んで飲ませながら、イワンはまあまあ、と興奮する少女を落ち着かせた。別に恋が悪い訳ではないのだ。関係してくるのは自分の手を離れてしまう感情の動きであり、それでは制御しきれなくなる心の動きの方なのである。NEXT能力は未だ、その仕組みを解明されないままだ。遺伝子なのか、突然変異なのか、あるいは全く別のなにかであるのか。そのものについての答えを人類は未だ持たないままであるし、イワンも擬態という己の能力について、百パーセント理解しているとは言い難い状態だ。てのひらを見つめて、その形を確かめる。きっとイワン自身の他には、誰も分からないに違いない。この手の形が、本当に生まれついて育った自分自身のものなのか、時々分からなくなる、という恐怖。姿も、形も、声も、そっくりそのまま、イワンの能力は映しとってしまう。確かなものは自分の記憶だけで、けれども記憶というのは外部に証明ができるものではないから、それすらどこかで間違えてしまったのではないか、という疑い。泥に足を突っ込んでしまったように、ずぶずぶと胃の辺りから、喉の奥まで迫ってくる得体の知れないそれは、イワンの呼吸を苦しくすることがある。
手を見つめたまま無言になるイワンに、パオリンはそっと指先を伸ばした。指先を絡めるようにして繋ぎ、体温を分ければ、相手の気配が熱に緩むのを感じる。もう片方の手でスープをすくって飲み込みながら、パオリンはボクらはさ、と言った。
「これからもいろんなことでこうやって騒いで、大変がって、ひとつひとつ乗り越えて行くんだろうね」
「……うん?」
「大丈夫だよってこと。違った?」
パオリンはイワンの手をぎゅっと握り、首を傾げる。それにイワンは泣きそうに安心した気持ちで、そうだね、と呟く。きっと、不安になるたび、何度でも。こうして仲間が繋いでくれる手の暖かさが、イワンの意識を引きもどすのだろう。
イワンがトレーニングルームに向かうことができたのは、実に四日ぶりのことだった。キースの様子が気にかかっていたので様子を見にくるくらいはしたかったのだが、技術部が離してくれなかったのである。半月ほど前に起きた七大企業とTV局を相手にした大規模なクラッキングが、どうもジャスティスタワー近辺からのアクセスであることが判明し、安全が確認できるまでの間、ヘリペリデスファイナンスがイワンがそこへ近づくことを禁じる命令を出した為だ。他のヒーローは普通に行っているようなんですが、というイワンの文句は、他社は他社、うちはうちです、と微笑んだCEOの一言で却下された。四日で接近禁止が解除されたのは、安全が確保されたからではない。じゃ、とりあえず潜入捜査的な感じで、緊張感を抜かずになんかおかしいこがないか探ってきてください、という方向で指示が切り替わったせいだった。危ないから駄目だったんじゃないんですか、というイワンの文句は、再びCEOの笑顔に阻まれた。経営最高責任者曰く、とりあえず即死するような危険はないとキリサトくんが判断したので警戒レベルを引き下げました、ということだ。即死するような危険『は』ないということが異常にひっかかったが、深く聞くと心から後悔しそうだったので、イワンは溜息をつきながらジャスティスタワーを見上げた。ごく普通の、というよりは、見慣れた高いビルである。ビルの頂上に女神像を抱く雄大な姿は、シュテルンビルトにいる限りは大体どこからでも見ることができる、この街のシンボルだ。
ヒーローのトレーニングルームを抱くこのビルには、司法局も居を構えている。ここから攻撃された可能性があるというのは、なにかの間違いにしか思えなかった。司法局が敵でもあるまいに。あるいは、建設に深く携わったアポロンメディアに疑いを向けるべきなのかも知れないが、ヒーローを二人も抱える企業なのである。攻撃の対象にアポロンメディアが含まれていたことから、なんか事情がある気がするんですよね、とキリサトは言っていた。黒幕の対象として、なんか違う気がするんですよね、と言わなかったことがひたすらイワンの胃を痛くする。ヒーローの敵がもしかしたら七大企業のひとつかも知れないだなんて、物語の読み過ぎで想像力をこじらせたとしか思えない珍事態である。あーもう、なんで僕ばっかり、と涙声で頭を抱えていると、人が避けて通るその後ろ姿に、声がかかる。
「……先輩?」
イワンをそう呼ぶ存在は、シュテルンビルト中探してもバーナビーただ一人である。思わずぎくっと体を硬直させて振り返ったイワンの顔を覗きこみ、バーナビーは首を傾げた。
「こんな所でなにしてるんですか? というか、お久しぶりです、先輩。連絡が取れなかったので心配していたんですが……体調でも崩されてましたか? 熱はないな……」
ぺたりと額に手を押し当てられて、イワンは切ないような気持ちで目を細めて息を吐きだした。こんなに無防備にひとに触れる相手だっただろうか、と思う。元々パーソナルな距離が近い傾向にあった後輩だが、ここまで距離が縮まったのは、ひとえに四日前から里帰りしている虎徹のせいで、おかげなのだろう。ん、と不思議そうにしているバーナビーに体調は大丈夫、と言って、イワンは軽く微笑んでみせた。
「技術部に捕まってました。連絡できなくてごめんね?」
「……ご無事でなによりです」
しみじみと言ってくるバーナビーに苦笑して、イワンはヤスティスタワーの玄関をくぐり、足早にトレーニングルームへ向かう。その後をてこてことついてくるバーナビーを、周囲に人気がなくなったところで手招き、イワンはそっと声を潜めた。
「協力して欲しいことがあります」
「はい。僕に出来ることなら」
「……先日の戦闘用アンドロイドの事件があった時、七大企業とTV局に大規模クラッキングがかけられた件です」
イワンに託された『潜入』は、なるべく目立つ行動をしないことと、本当に危険がないかを確かめること、そして現場がここだったのか、ここでなかったのかを特定することだ。言いふらすなとはもちろん言われたが、誰にも告げるな、とは命令されなかった。バーナビーはイワンの後輩であり、すなわちアカデミー出身である。こと事件に関しての守秘義務については同じ教育を受けている分、誰より信頼できる相手だった。はっと目を見開いたバーナビーは、そのまま無言で頷いた。
「なにか進展が?」
「……オデュッセウスコミュニケーションからの報告で、もしかしたらここからの攻撃かも知れないと」
「パオリンさんは、このことを?」
当然の問いに、しかしイワンは首を横に振った。これはあくまで不確定な情報であり、オデュッセウスコミュニケーションがイワンの能力を頼りに、ヘリペリデスファイナンスにだけ託したことなのである。そうですか、と眉を寄せて呟き、バーナビーは強い意思の灯った瞳でイワンを見つめた。
「僕はなにをすれば?」
「とりあえず、トレーニングルームのチェックを一緒に。盗聴と盗撮が本当にされていないか。それが終わったらPDAの機能チェック。できればヒーロー全員分をしたいですが、当面は僕とバーナビーさんの分だけでも十分だと思います。システムは共通ですから、直にいじくられていないかぎり、僕たちのが大丈夫であれば他に異変がない筈です。それが終わったら……ジャスティスタワーの設計図と、電気配線のチェック」
「例えば、隠し部屋がないかどうかを重点的に?」
二人が習った教本の通りに告げるバーナビーに、イワンは意思の通じる心地よさを感じ、微笑みながら頷いた。なにをしたいか、なにをするべきなのか、詳しく言葉を重ねなくても通じる相手であることが嬉しい。二人は笑いながら手を打ちあわせて、トレーニングルームへ続く扉を開けた。
「……は?」
瞬間、極めついて間の抜いた声を上げたのはバーナビーである。バーナビーはぱちぱちと瞬きをすると幼い仕草で首を傾げ、目にしているものがよく分からない、と言った声音で呟いた。
「虎徹さん?」
「おう! たーだいま、バニー。イワンも、おはようさん」
「う、うわああああああっ!」
里帰りからいつ帰るのかを知らなかったのだろう、極度の混乱状態に陥ったバーナビーの膝蹴りが、バディを受け止める為に広げた虎徹の腕の中、綺麗にきまる。声もなくその場にくずおれた虎徹を息切れしながら見つめ、バーナビーはもう一度、やはり混乱しきった声で叫んだ。
「だ、大丈夫ですか? 虎徹さんっ!」
「うん。とりあえず落ち着こうね、バーナビーさん。ね? 落ち着こうね? ……すみません。さっきまでそういう話してたので、バーナビーさんの挨拶が、ちょっとアカデミー式になってるみたいです」
「そうなんです! アカデミーの親しい挨拶は、とりあえず一発入れるのが伝統っていうか……! 虎徹さん、ごめんなさい! 大丈夫ですか? ごめんなさい! 大丈夫ですか……!」
腹から横隔膜を押し上げて肺までまっすぐ衝撃が届く膝蹴りは、蹴り技をメインとして戦うバーナビーが行うからこそ、一撃必殺に近い衝撃があったようだ。ほぼ無防御でそれを受けた虎徹が数分で復活したのは、普段の鍛え方があってのものだろう。すっかりしょげかえって体をちいさくするバーナビーを苦笑気味に撫で、虎徹はまあいきなり驚かせて悪かったけどよぉ、と腹を手でさすりながら問いかける。
「アカデミーって、意外と体育会系? なのな?」
「……ヒーロー特進組だけですけどね」
「なんだそれ? 選抜クラスかなんかか?」
いわゆる、エリートクラスであることは間違いがない。能力的にヒーローになる可能性がある者を集めてつくるクラスなので、所属する人数は年によってまちまちの、仲は良いものの、多少コミュニケーションが荒っぽいことでアカデミーでは有名なクラスである。イワンもバーナビーもそこに所属していたので、気分が盛り上がってつい昔の習慣が出てしまったことは、十分理解できる仕方がないことだった。アカデミーのシステムがよく分からん、とばかりうろんな目でへぇ、と呟く虎徹に、しょんぼりしたバーナビーがもう一度すみません、と呟いた時だった。休憩室に繋がる扉が開かれ、そこからぞろぞろと、姿の見えなかった他のヒーローたちが入ってくる。初めに虎徹に気が付いたのは、パオリンだった。あ、と言って顔を明るくすると、素早く駆けてきて虎徹の腰あたりにぎゅっと抱きつく。
「タイガーだー! おかえりなさい!」
「おう、ただいま。元気そうだなー、パオリン。ネイサンも、キースもアントンも。元気そうでなによりだ」
「アンタもね。スッキリした顔して戻ってきたじゃなぁい?」
ふふ、と意味ありげに笑ったのはネイサンで、虎徹は苦く笑うばかりだった。それにイワンはうっすらと嫌な予感を覚えるのだが、自分の感覚が理解できずに眉を寄せる。なんだろう、と思った。とても嫌な予感がする。なにかが壊れて、終わってしまうような。そんな不穏な前触れを感じる。なんだろう、と考えるイワンをよそに、虎徹は周囲を見回していた。
「カリーナは? いないのか?」
「いるよ? 飲み物買いに行って……きた! カリーナー! はやくー、タイガーが帰ってきてるよ!」
「ひぐっ」
女子高生らしかぬ引きつった声をあげて手に持っていたペプシを落下させ、カリーナは大慌てでそれを拾い上げた。炭酸の勢いが弱まるまでキャップを開けられなくなった危険物を握り締めつつ、カリーナは真っ赤な顔で虎徹を指差した。
「い、い、いつ……いつ! 帰ってたのっ?」
「今だよ、今。驚かせてごめんなー?」
「べっ、別に驚いてなんてないし! ただ、帰ってくるなら連絡くらい……バーナビーだってそう思うわよねっ?」
ほら、心の準備とか出来ないし、と告げるカリーナの言葉は準備が必要という一点で虎徹の心をえぐったが、少女はそれに気が付けなかったようだ。必死の様子で問いかけられて、バーナビーはええまあ、と言葉を濁しつつ口を開いた。
「でも、カリーナさんを見ていたら冷静になれたので」
「どういう意味よ!」
「そのままの」
恥ずかし紛れに噛みつくカリーナとしれっと交わすバーナビーがそのまま口喧嘩に突入しかけた所で、虎徹が間に入って二人を止めた。はいはい仲良くな、と言い聞かされて、二人はそろってふてくされた表情ではぁい、と声を重ねて返事をする。その重なり具合が、また嫌だったのだろう。ぷいっとそっぽを向いてしまったカリーナは、しかしすぐに虎徹を見つめ直し、手をぎゅっと握りながらあの、と叫んだ。
「おかえり!」
「おう、ただいま」
「……ふふ」
よし、言ったぞ、とばかり満足げに笑顔を浮かべたカリーナの頭を、バーナビーが嫌味ない仕草でぽむぽむと撫でて行く。その仕草の意味が、全くもって理解不能だったのだろう。え、なに、とばかり胡乱な視線で見上げられ、バーナビーは純粋にそう思っている笑顔で、いえ、と言った。
「可愛かったので、つい」
「……バーナビーがなに言ってるのかちょっとよく分からない」
「うわ、人が褒めるとすぐそうやって。可愛くないな」
アンタに可愛いって言われてもあんまり嬉しくないしっ、ほらすぐそうやって人の好意を無下にするっ、と仲良く言い争いはじめる二人をはいはいはいはい、と引きはがし、虎徹はバーナビーの肩を掴んで溜息をついた。
「バニー、女の子と喧嘩するんじゃありません」
「考えておきます」
「だー……あのな、バニー。お前に話があんだわ。本当は二人の時に先に話そうと思ってたんだけど、今、いいか?」
べー、と舌を出すカリーナに挑発的に笑いかけるバーナビーを、完全に引きはがすと後がこじれそうだと思ったんだろう。やや諦めた様子で虎徹が言うのに、バーナビーは不思議そうに先を促した。
「はい。どうぞ?」
「……あのな。ヒーロー引退する。それ、決めて来たんだ」
ちょっと今なにを言われたか理解できないですね、という表情で、真顔のままバーナビーが首を傾げた。
「……まさか、僕が膝蹴りを叩きこんだせいで」
「ちょっと! アンタなにしてるのよっ?」
「うっかりです! うっかり! ついうっかり昔の習慣が……! すみません虎徹さん、頭を打ったんですねっ?」
すぐに病院に行きましょう、と引っ張って行こうとするバーナビーの腕を掴み、虎徹は真剣な顔で首を振った。
「違う。聞いてくれ、バーナビー」
「……え」
「俺、鏑木・T・虎徹はワイルドタイガーを引退する」
じわじわと、足元忍び寄る水の冷たさを、ようやく認識したかのように。さっと青ざめたバーナビーは、信じられないと言わんばかり目を見開いた。そのまま、言葉が出ない。動揺は、バーナビー以外にも感染するように広がって行った。声から、表情から、それが紛れもない宣言であると理解したのだろう。なによそれ、と呟いたカリーナの声は平坦で、それでいて悲鳴染みた響きを帯びていた。
「引退って……やめてよ、なに言ってるの?」
「田舎に帰ることにしたんだわ、俺。……正直、楓の傍にいてやりたくてな。それにさ、年齢のせいか、最近出動の後とか疲れちまってよ。ずっと考えてはいたんだわ」
「……なんですか、それ」
ひどく冷静な、感情の無い声でバーナビーは言った。悲しみもなく、怒りもなく、混乱もなく、困惑もなく、ただただ凪いだ声でバーナビーは言った。青ざめた顔つきで。この世のなにもかもが終わってしまうような、そんな表情で。
「本気で言ってるんですか。辞める、って」
「……ああ」
「それって、バディ解消ってことですよね? あなた、それちゃんと分かって言ってます? 僕と、一緒に……一緒じゃ、なくなるってことですよ。分かって……分かってますかっ?」
感情の乱れに、体がついて行かないのだろう。浅く早い呼吸を繰り返しながら叫ぶように問うバーナビーに、虎徹は苦しげに眉を寄せながら、言った。
「お前は、もう一人でもやっていける。……そうだろ?」
「……っ、っ!」
信じられないと言いたげに唇を噛んで、バーナビーは言葉を失った。伸ばしかけた手は中途半端に空を切り、虎徹の元まで届くことはない。すんなり行かない報告は、予想できないものだったのだろう。いたたまれなくなった様子で顔をゆがめ、虎徹はそういうことだから、とトレーニングルームの出入り口へ向かう。その背を、いくつもの視線が追いかけた。バーナビーは、その場に立ちつくして動けない。だからこそ、誰も動くことが出来なかった。これ言いに来ただけだから、今日は帰るな、と言って出て行こうとする虎徹の背に、バーナビーの問いが向けられる、虎徹さん、と呼んだ響きは、弱かった。
「……本気ですか」
「ああ」
振り返って言葉短く虎徹は告げ、そんじゃな、と手を振って出て行ってしまう。後を追いかけることを拒絶するよう閉まった扉を茫然と眺め、バーナビーがその場に力なく座り込む。言葉はなかった。いつまでも、呟く言葉のひとつですら、見つけることができないように。バーナビーは、その場に座りこんだ。