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 これこれこういうことがあったので今日はなんの進展もありませんでした、と起きた事件を手短に纏めて報告したイワンに、キリサトは煌くばかりの笑顔ではぁ、と言った。意味が分からなかったのではない。なにそれ、と言わんばかり語尾が跳ねあがった、ただのあいづちだった。ごちゃごちゃとした技術室のデスクに備え付けられた、スチールの椅子にちょこんと腰かけた姿は遠くから見れば愛らしさすら感じさせるようなものなのに、表情と雰囲気と声の質が、それら評価を粉々に砕いている。なんでこの人はこんなに色々残念なんだろう、という同僚から向けられる視線を鮮やかに無視しつつ、キリサトは苦笑するイワンに、本気でそうとしか思っていない声で問いかけた。
「え? その人は空気が読めないんです?」
「僕に怒られても……ええと、そういうことなので。しばらくバーナビーさんは動けそうにないですし、僕もその中で調べたり、動き回るのはちょっと……怪しまれそうで」
 机の上に重ねた書類束を指先で突っつきながら、少女の眉があからさまに寄せられた。そっちの事情は、それはそれで理解できるものではあるんですが、と溜息に乗せられた言葉が、諦めを知らずにじゃあ、と妥協点を探りに来る、
「休暇届け書いてあげるので、なんか虫とかそういうのに擬態してジャスティスタワーの中ちょこまかしません?」
 これくらいの大きさの虫だったら怪しまれない気がするんですよね、と言うキリサトが示したのは一センチくらいだったので、イワンはつぶされたらどうするんですか、と嫌がった。そんな恐ろしい事態に遭遇したことはないのだが、虫に擬態している時に叩きつぶされたら、複雑骨折内臓破裂を起こしてしまいそうな気がするのである。何事も経験ですよ、と力説する技術者を嫌ですとばっさり切り捨て、イワンは技術室に流れるテレビのチャンネルを、ニュースに合わせた。なにか明るいニュースでも聞いて気分転換をしたかったのだが、次に報道官が読み上げた報告に、研究室の誰もが手を止めて画面を見る。
『……繰り返します。長らく病院に収容されていたジェイク・マルチネス事件の最重要参考人、クリーム被告の容体が悪化し、本日息を引き取りました。残された言葉はなにもなく、これで事件の全貌が再び闇に包まれました……』
 イワンはとっさにPDAを起動させ、バーナビーを呼びだした。しかし普段なら数コールで繋がる筈の通信は、一分鳴らし続けても、二分粘っても受け付けられることがない。留守番電話にすら切り替わらなかった。苛立たしく舌打ちをして、イワンは止める声を無視して技術室を飛び出した。嫌な予感がする。とびきり嫌な、なにかが壊れてしまうような、そんな予感がしている。イワンはその日、バーナビーを探して自宅まで行き、トレーニングルームや好みの店まで探したが、ついに後輩に巡り合えることがなく。一日が、終わりを告げた。



『各社ヒーロー、そして関係者の皆様には先の二十四時間、バーナビー・ブルックスJrの所在不明、また一切の連絡が繋がらなかった件について、ご心配をおかけして申し訳ございません。事件に巻き込まれたのではないか、というお問い合わせが相次ぎましたので、私どもはここにバーナビー・ブルックスJrの身の安全をお約束させて頂くと共に、本人の気持ちが落ち着くまでという不確定な期間ではありますが『とりあえず誰にも会いたくない』という意思を尊重させて頂くことを宣言させて頂きます。携帯電話、メール、GPS、その他PDAの位置特定機能に至るまで全て遮断させて頂いておりますが、各社共通の一級事件発生専用緊急回線のみ、強制着信機能を許可しておりますので、それに該当する事件が発生した際はご連絡ください。また、いかなる理由があろうとも面会は受け付けておりませんが、お申し出があったことは随時本人に報告しておりますので、バーナビー・ブルックスJrから会いたいと告げられた時のみ、こちらから改めてご連絡差し上げます。どうぞよろしくお願いいたします。これは弊社CEO、アルバート・マーベリックについても同様の処置であることから、各社ヒーローにつきましては各々のCEOを通じたご連絡であっても、同じようにさせて頂きますことおご了承ください。このたびの本人の失踪、またそれに加担した件についてのお叱りはいかようにも受けさせて頂きますが、私どもアポロンメディアヒーロー事業部技術者Bチーム、通称バーナビー・サポーター一同は、ここに改めてワイルドタイガー引退について抗議させて頂きますと共に、技術者Tチーム、通称タイガー・サポーター一同も同意見であることをお伝え致します。なお、私どもバーナビー・サポーター一同の不在期間もタイガー・サポーター、ならびに技術部最高責任者斎藤をはじめ、アポロンメディアヒーロー事業部は通常通り運営しております。各社関係者さまには多大なるご迷惑をおかけいたしますが、なにとぞよろしくお願いいたします。あとワイルドタイガーは、自分の払う損賠賠償の残り金額を考えてからものを言うように。一応、経理部が相談を受け付けるとは言っていたので、出社後はロイズ総合部長に挨拶をしたあとで経理部に直行してください。間違ってもバーナビーを探したりしないように。妙な動きを見せたが最後、ワイルドタイガーのヒーロースーツを黄色と黒のしましま虎模様ペインティングに塗り替える用意がタイガー・サポーターにはあるそうです。
 以上、アポロンメディアヒーロー事業部、技術者Bチーム責任者、リタ・パタースンより。皆様へ』
 なにこれ、というのが朝七時きっかりにPDAに届けられたメールに関しての、ヒーローたちの感想だった。ひどい、これはひどい、と爆笑して電話してきたキリサトに同意して頷きながら、イワンは寝ぼけまなこを擦りつつパジャマにジャケットをはおり、空調の温度を二度引きあげた。
「サポートチームが動いてバーナビーさんを保護してたんですね……見つかる訳がない。っていうか……え、これ、各社に向けてタイガーさんが引退したいって言ったの暴露されてますけど、アポロンメディアはそれでいいんでしょうか……?」
『引退とかなに言ってんのさせないよ? って笑うリサちゃんの顔がマジ目に浮かぶんですけどー……! なにこれやだこれちょーうけるー! なんでワイルドタイガーは自社の技術者に反乱起こされてるんですっ?』
「すみませーん! 誰かキリサトさんと電話変わってください! 笑い過ぎてて会話にならないんですけど!」
 あははははは、あはははははははっ、とテンションが上に振り切れた笑い声を響かせ、時々咳き込んでいるキリサトの現在位置は確実に研究室だった。聞きなれた作業音が響いているので他に誰かがいるのは間違いなく、電話口で怒鳴るイワンの求めはすぐに聞き届けられた。映像が繋がっていないので分かりにくいが、恐らく受話器が取り上げられたのだろう。少女の笑い声が遠ざかり、やがて落ち着いた男性の声が響いてくる。
『おはようございます。おつかれさまです』
「おつかれさまです……。すみません、今日は僕、どういう風に動けばいいでしょうか……」
 このメールが少なからず起こすであろう混乱は、ヘリペリデスファイナンスにも影響を及ぼすだろう。イワンも不用意に動いては行けないかもしれない、と考えての問いかけだったが、副主任はやや考えた後、普通で、とあっさりした声で言った。
『トレーニングルームにでも行って頂ければ。なにかあれば連絡が行きますので、携帯電話もPDAも傍に置いておいてくださればそれで結構です。本日はこれから、技術部が混乱することが予想されます。こちらに顔を出すのはおすすめ致しません』
「……なにかできること、とか」
『基本的に他社の騒動ですからね……。ただ、ヒーローの皆さんに精神的な混乱が起きるでしょうから、イワンさんが多少なりとも冷静であるのなら、落ち着かせてあげればいいと思います。混乱に乗じてジャスティスタワーの調査をして頂ければありがたいですが、無理にとは申しませんし……ただ、このメールはちょっとおかしいですね』
 すごくさりげなく書かれているので見落としがちですが、と常に暴走しかける主任を冷静に止めることのできる、ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部、技術部副主任は指摘した。
『アポロンメディアのアルバート・マーベリック氏にすら面会を許可せず、居場所を隠している。成人するまではバーナビーさんの後見人であり、今現在もその強い後ろ盾となっているマーベリック氏は法律上、その関係でなくとも精神的な養父だと思っていたのですが……イワンさんは、メールを送ってきた、このリタ・パタースンをご存知ですか?』
「顔を見たことはありますが……」
『そうですか。彼女は我らが主任よりは大人しいですが、今回のメールの一斉送信や失踪に加担していることを考えれば明白のように、冷静にぶっとんだ行動をすることのある秀才です。しかし、彼女は判断を間違えません。ですから、自社のCEOすら遠ざけたことには必ず意味があります。……ジャスティスタワーの建設に、アポロンメディアが深く関わっているのは、イワンさんも知っていますね?』
 つまり、とごく冷静に面白がっている声が続けた。
『我々の敵が見えてきたかも知れない、ということです。イワンさん、くれぐれもお気をつけて』
「はい。……皆さんも、くれぐれも気をつけて」
 笑い過ぎて背筋がつったんですけどーっ、と半泣きの少女が騒がしい技術室は普段より二割増し平和そうだった。それでもそっと言い添えたイワンに、副主任は柔らかな声ではい、と笑って返事をしてくれた。



 どうしたらいいのか分からない顔つきでトレーニングルームに集まったヒーローたちの中で、最も絶望感溢れた様子なのはやはり虎徹だった。出社して、たっぷり怒られてきた後なのだろう。ぐったりとうなだれてソファに座りこむ傍らには、常にあるバーナビーではなく、ヒーローたちには見覚えの薄い白衣姿の青年が立っていた。アポロンメディアヒーロー事業部の文字が襟に刺繍された白衣と右腕に付けられた技術部Tチームの文字が青年の所属を明らかにし、ああ、あのメールに書かれていたもう一組に所属している者なのか、と誰もの納得を引きだした。やや長めの金髪に青い目の、どこにでもいそうな落ち着いた大学生風の見かけをした青年は、ぐったりする虎徹がバーナビーを探しに行かないか監視する役なのだろう。ポケットに突っ込まれた黒と黄色のスプレー缶がヒーロースーツのペインティング用であることは誰の目にも分かったから、虎徹はなお動けないらしい。やがて、だっ、と叫び声をあげて体を持ち上げた虎徹が、傍らの青年の白衣を両手でつかんだ。
「ほんっとうに知らないのかよ! 奥さんだろっ?」
「何回言われてもリタの居場所は知りません。というか、あなたのせいで俺は奥さんに会えないんですよ? 分かってます? というかあなたが引退したら最悪、俺は失業の危機なんですよ? 分かってます? というかあなた何年社会人してるんですか。ヒーローといえど社会人なんですよ? 分かってます? なんですか急に辞職って。リタも言ってましたけど、あなた自分の発生させた損害賠償の残り金額分かってます? 会社負担から個人負担に切り替わったが最後自己破産を申請するくらいしかできない金額ですよ分かってます? ねえ分かってます?」
「っだ! 俺にだって色々と事情がなぁ……!」
 流れるような文句の嵐が途切れる気配はなく、虎徹が我慢できなくなったような声を上げる。しかしその主張も、青年に鼻で笑い飛ばされた。バーナビーがよくする仕草だった。
「だから、その事情を説明しろって言ってるじゃないですか? ロイズ総合部長にも言われたでしょう? 洗いざらい説明しなさいって。色々と、の、その色々ってなんです?」
「色々は……その、色々だよ」
「いい加減にしないと訴えて勝ちますよっ?」
 俺がリタと結婚するのにどれくらい努力したと思ってんですかああああっ、と叫ぶ青年の声は涙が滲んでいた。ワイルドタイガーの引退騒動は、思わぬ波紋も呼んでいるらしい。涙ながらに俺とリタの十年の軌跡を語られはじめた所で、虎徹はうんざりとした様子で耳をふさぎ、あー、と困った声を出した。
「悪かったよ……でも、俺だってバニーを心配してんだけどな? それなのに探しに行っちゃいけない、連絡も直には繋げないってどういうことなんだよ」
「ここは素直に、バーナビーがアンタに会いたくないって思ってるって解釈でいいんじゃないですかね。いいから、自分の心配してくれません? 嫌でしょう? しま模様ペインティング」
 俺たちだってあの芸術品に、そんなこどもの悪戯レベルの落書きしたくないんですよ、とポケットに突っ込んだスプレー缶を取り出してかしゃかしゃ振りながら言う青年に首を振った。
「俺がバニー探しに行ったら模様描かれるんじゃねぇの? 違うのか?」
「探しに行ったら油性塗料です。まあ、理由を言わないくらいなら水性塗料に変更してあげようかな? というのが俺たちタイガー・サポーターの最後に残された優しさの現れです」
「……容赦ない方位網張られてますね、タイガーさん」
 言い争う、とするよりはやや一方的にやりこめられている二人を遠目に眺めながら、イワンは苦笑と共にそう呟いた。カリーナとパオリンはうんうん、と頷き、じっと二人を見つめては話しかけるタイミングを伺っているようだった。アポロンメディアの関係者も上手く聞き出せていないようだが、ヒーローたちだって、虎徹が告げた引退の理由に納得していないのである。唯一、精神的にも距離を保ってトレーニングしていたアントニオが、苦笑と共に傍らのネイサンに語りかける。ネイサンはベンチプレスに身を寄りかからせたままで、トレーニングをしようとするでもなく、虎徹とその技術者を眺めていた。
「諦めろよ、ネイサン。虎徹はたぶん話さねぇぞ。昔から、アイツは大事なことほど自分ひとりで決めてから言うんだ。嫁さんにも、よくそれで怒られてたもんだよ」
「……困ったものねぇ」
「そうだ、困ったとも。けれども、バーナビーくんが戻ってくるまでの間は、私たちが頑張らなくてはね! そう思わないかい? ネイサンくん、アントニオくん!」
 ノルマを終えたランニングマシンの速度を緩やかなものに変更してクールダウンを開始しつつ、キースが爽やかな笑みで声をかけてくる。アンタは今日も元気ねえ、と苦笑するネイサンに、キースはうん、と満面の笑みで頷いた。
「悩みがひとつ、解消したからね。私はもう大丈夫だ。ネイサンくんも、アントニオくんも、心配をかけてすまなかった」
「あら、アタシはなーんにも心配なんてしてなかったわよ?」
「お前ならまあ、そのうち立ち直るだろうと思ってたしな」
 でも、よかったと笑うアントニオは心配していたことは否定せず、ベンチプレスから立ち上がると、キースの肩をぽんと手で叩く。ふふ、と嬉しそうに笑ってランニングマシンを止めたキースは、未だ話しかけるきっかけをもやもやして待つ三人に、おおい、と声をかけて手を振った。
「イワンくん、パオリンくん、カリーナくん! こっちへおいで。一緒に体を動かそう!」
「……今、そんな気分になれないんだよ。キース」
 複雑そうな顔つきで近寄って来たパオリンは、ちらちらと虎徹を振り返りながら溜息をつく。視線の先で言い争う二人は未だ他者を寄せ付ける空気ではなく、ここまでくると意図的に話しかけさせないようにしているのではないか、と疑ってしまうくらいだ。カリーナとイワンもキースの傍までは素直に来たものの、やはり気になって振り返ってしまう。その視線を遮るように回り込み、キースはにこっと明るい笑みを浮かべてみせた。
「それを一番に聞けるとしたら、私たちではなくてバーナビーくんではないだろうか。だから、無理に聞きだしてはいけないよ。バーナビーくんの帰りを待とう。ね?」
「……どこへ行ったんでしょうね」
 アポロンメディアが開発したスーツ性能から見ても、彼らの技術力は群を抜いて高いものだ。彼らが共謀してバーナビーをかくまっているのであれば探して見つかる訳もなく、手掛かりすら持たないイワンたちは、ただ連絡を待つしかないのである。そうだね、とイワンの呟きに頷きながら、キースはやや唇を尖らせるパオリンに視線を向けた。
「どうしても気になると言うなら、方法がない訳じゃない。パオリンくん、君が頼めば、恐らく君の技術部はバーナビーくんと、彼のサポートチームの居場所を特定できる筈だ」
「……ボク、の?」
「オデュッセウスコミュニケーションはこの街の通信の要だからね。メールを送ってきたことを考えても、彼らはなにかしらの手段で通信を繋げているし、もちろんこちらの様子もうかがっている。そうである以上、オデュッセウスなら辿れるだろう……と、ポセイドンラインの技術部が言っていたんだが」
 同じく、街中に張り巡らせた網のように、タクシー運転手たちの目撃情報を所得する術を持つポセイドンラインでも、ある程度の特定はできるだろう。怒らせたくない相手なので積極的にやりたくはないですが、あなたが望むなら探しだしてみせますよ、と告げたポセイドンラインのチームに告げた答えを思い返しながら待つキースに、やがてパオリンは苦しげに首を横にふり、いい、と言った。
「待ってる。ボク、バーナビーさんが帰ってくるの待ってるよ。待てるよ、大丈夫!」
「そうだね。一緒に待とう、パオリンくん!」
「うん! 待ってる間に、なにかできることがあればいいんだけど……なにかないかな、バーナビーさんが喜ぶこと」
 ヒーローたちの視線が、ごく自然に虎徹を見た。喜ぶこと、と言われて思い浮かぶのが、とりあえず虎徹の引退を諦めさせること以外にとっさに出てこないのは問題なのではないかと思いつつも、現在、最も心を悩ませている事柄であることに間違いはない。引き留めておく役目はワイルドタイガーのサポートチームが十分に担っているのだろうが、数が多くて悪いことはない。ヒーローたちの意思が、ひとつになった瞬間だった。



 薄暗い照明の元、ネイサンとアントニオ、虎徹がビリヤードに興じているのが見えた。先程まではダーツをしていた筈なのだが、若い頃によく遊んだと言うだけあって虎徹の独壇場であり、つまらないとぼやくネイサンの声が離れたカウンターに座るイワンの耳にまでしきりに届いていたので、早々に変更したらしい。遠目なので上手い下手は分からないのだが、全員が楽しみ、かつ実力が拮抗しているという点で中々良いゲームになっているらしかった。ネイサンが応援する声をまんざらではないように受け止め、笑いながらキューを持つアントニオの精悍な顔立ちが、妖しくならない程度絶妙に潜められた照明に映える。ネイサンは本当に、あらゆる意味で己の趣味を忠実に頼める店を知っているものだ。今回だって健全で適度な大人の遊びがあり、ソフトドリンクとアルコールがあり、軽いおつまみも食事も楽しめる駅に向かいやすい交通事情の治安の良い場所にある店、という複雑なリクエストだったにも関わらず、携帯で検索すらすることなく、分かったわ、とだけ言ってヒーローたちを引きつれて来てくれたのだ。場所はゴールドステージの一角である。場所柄の問題で治安は良いし、店を出て数分歩けば、十分で最寄駅まで到着するバス停がある。ソフトドリンクと食事は味や見かけにもうるさい少女たちの目と舌を存分に楽しませるものだったし、イワンが傾けるカクテルも十分好みに合うものだった。少女たちをバス停まで送って戻ってきたキースの視線が、ダーツの方を彷徨った後、すぐにビリヤード場を見つけ出して苦笑する。おかえり、来いよ、と呼ばれるのに首を横に振って、キースはバーカウンターでぼんやりとしていたイワンの元へ歩いてきた。一人だから、放っておけなかったのかも知れない。気遣い屋だなぁ、とそっと苦笑を噛み殺し、イワンはおかえりなさい、と言ってキースを出迎えた。温かく空調の整えられた空間に滞在し続けたイワンには、外の空気を纏うキースがどこか冷やかに感じられ、それが本人の人柄とあまりに違うものだから、すこしだけ楽しくて口元を和ませる。
 キースにしてみれば、イワンの反応が不思議だったのだろう。うん、と出迎えの言葉に頷きつつも穏やかに微笑み、深く問うことはなく、椅子をひとつ空けた隣に腰かける。冷えた空気でイワンを寒くさせない為の気遣いだから、ぽかりと空いた空間の印象は、どこか温かくイワンの目に映った。バーテンダーにフィッシュ&チップスをオーダーし、キースはレモネードはないのかい、ときらきらした目で問いかけている。ある、との答えにではそれをと弾んだ声でオーダーし、キースはわっと上がった歓声にビリヤード場を振り返った。だー、と呻きながらしゃがみこむ虎徹が、すぐさまアントニオに再戦を挑んでいるのが見える。ネイサンは応援専門を決め込んでいるのか二人をそれぞれに応援するばかりで、イワンとキースの元へは来ないようだった。店内は貸し切りになっているから、ヒーロー以外の人がいない。静まり返った空気を控えめなBGMが揺らし、気づまりになりがちな雰囲気を繋いでいた。再戦に盛り上がる二人を眺めているとレモネードが到着したので、キースは視線をビリヤード場に向けたままでグラスを持ち、喉を湿らせて行く。カラン、と音をたてた氷は季節外れに涼しげで、けれど耳に心地良いものだった。程なくして、フィッシュ&チップスも運ばれてくる。独特のにおいがあるモルドビネガーをためらいなく振りかけ、キースはやあおいしそうだ、と満面の笑みになった。
「さっき、カリーナくんが食べているのがとても美味しそうでね……。イワンくんも、よかったら一緒にどうだい?」
「それじゃあ、すこしだけ」
「うん! たくさんお食べ?」
 細いワイヤーで編まれた籠の中に英文のプリントされた薄い紙が敷かれ、その上に皮つきのフライドポテトと白身魚のフライがごろごろと無造作にいれられている。その籠ごとずい、と差し出してくるキースの手から丁寧に受け取り、イワンはそれを二人の中間地点のテーブルに置くと、男の発言を考えなかったことにして揚げたてのフライドポテトを指先でつまみあげる。自分より年齢が下の相手は、とりあえず全員見境なくこどもあつかいする性格だと思っておけば腹立たしくない筈だ、きっと。ふー、と息を吹きかけて冷ましてから、ポテトを口の中に放り込む。あらかじめ振りかけられていた塩と、ビネガーの風味がホクホクのポテトによくあった。無言で二つ目に手を伸ばすイワンをにこにこと見つめ、キースはレモネードを口にする。
「今日は……このまま、なにも起きなければいいね」
「そうですね……でも、キースさんは夜のパトロールには行くんでしょう? ……行かないんですか?」
 問いかけている途中、なんとも微妙な笑みを浮かべたキースに首を傾げれば、実はね、と笑いながら囁かれる。
「朝、パトロールしてきてしまったんだよ、イワンくん。だから、事件がない限り、今日は私はあのスーツを着られないんだ」
「一日二回って駄目なんですか?」
「駄目ではないと思う。けれどこの間までまたすこし、能力が安定していなかったからね、私は……一日一回まで、さもなければ安心してお帰りを待てません、と言われてしまうと」
 彼らが本当に心を砕いて整備してくれるのを知っているから、強くは言えなくてね、と笑うキースの言葉を告げたのは、ポセイドンラインの整備士なのだろう。ヒーロー事業部の内訳は各社ごとに微妙に違っているので詳しくは分からないが、ともかくキースは、パトロールを一日一回までという制限をかけられているらしい。普段は夜飛び回るのを知っているので、イワンは不思議そうに目を瞬かせ、そしてはっと気が付いた。
「メールを見て……バーナビーさんを探しに?」
「見つからなくて帰ってきたら、望むのであればポセイドンは全力を尽くして探しますし、あるいはオデュッセウスなら特定も可能でしょうと言われたんだが。私も、待つことにしたよ」
 だから、パオリンくんが同じことを言ってくれた時、とても嬉しかったんだ、と。はにかんで笑うキースの声を、表情を、バーナビーまで届ける方法があればいいのに、とイワンは思う。風を手繰り、空を自由にかけるスカイハイの姿に、この街の誰もが憧れた。イワンも、そしてバーナビーも例外ではないのだ。その相手にこんなにも優しい気持ちで待たれるという事実が、きっと、バーナビーの心を温めてくれる筈なのに。どこにいるんだろう、とイワンはぼんやりと思う。サポートチームと一緒であるという事実は寒い場所にいないかという不安も、一人きりでいないだろうかという恐怖も遠ざけてくれたが、それでも探し求める気持ちを止めにすることができなかった。彗星のように現れたルーキーは、事実、イワンたちの傍にずっと一緒にいた仲間だったのだから。キースはぼんやりとするイワンに声をかけるより早く、ぽん、と音を立て、二人の間にある一人分空いた椅子を叩いた。
「大丈夫。彼は戻ってくる。……必ず」
 この場所に、きっと、と。そう告げるような仕草に、イワンはそっと目を細めて誰も座らぬ椅子を見た。
「そうですね」
「ああ。……とりあえず、彼が帰ってくるまでは絶対にやめたりしない、と虎徹くんも約束してくれたことだし」
 これで安心して待つことができるじゃないか、とくすくす上機嫌に笑うキースに、イワンはあ、と気が付いた。少女たちのように分かりやすい動揺を見せなかっただけで、キースもちゃんと、虎徹に止めて欲しくなかったのだ、と気が付けたからだ。彼らは仲間だ。確かに、ずっとそうだったのだ。激しい戦いを潜り抜けて行く中で空白を作ってしまったけれど、それでもひとつひとつ、確実にその穴を埋めて元通りになったばかりの。出会わなかった頃のことを思い出せないくらい。将来、もしかしたら道が隔てられてしまうことを想像できないくらい、考えたくもないくらい。しっくりと、ひとつのチームとして存在する仲間なのだ。イワンがそう感じていたように。キースも確かにそう思っていて、そしてそれはきっと、ヒーロー全員の意思だった。虎徹は辞めたくて辞める訳じゃねぇよ、と苦しげに一言呟いた。引き出せた本音はそれだけだったが、それでも、その言葉にカリーナが思わず零した涙をイワンは思い出す。なにか事情があるのだ。どうしようもない、仲間たちを置いて行く決断をしてしまうような、深く怖い秘密が虎徹にはある。それを告げられもしないことは新しい痛みとなって心の中に存在したが、望まぬ別れであるという事実が、衝撃を受けた精神を穏やかに慰める。大丈夫、という気持ちにさせてくれる。ヒーローたちは何度でも、何度でも、一緒に危機を乗り越えてきた。時として噛み合わないことに苛立ち、ポイントの為に争い、ぎくしゃくしながら憤りながら日々を過ごして来たけれど。大丈夫。きっと、乗り越えて行ける。今回も。そして、これからなにが起こっても。待ってるからね、とイワンは場にいないバーナビーに向けて呟く。一人きりで乗り越えられないことならば、諦めないで早く、はやく戻っておいで。一緒にいくよ。手を繋いで乗り越えて行くよ。仲間がここで、ちゃんと君を待ってるよ。おかえりって言って出迎えましょうね、と笑うイワンに、キースはふふ、と嬉しげに笑って。ああ、と確かに頷いた。

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