バーナビーが帰って来たのは、失踪してから一週間が経過した日のことだった。朝、ごく普通にトレーニングルームの扉を開ければ普通にそこにバーナビーがいたので、このバディは待ち伏せと奇襲が趣味なのかと一瞬疑ったくらいである。イワンは溜息をつきながら後輩にかけより、恐らくはその言葉を、誰よりも早くバーナビーへ告げた。
「おかえり」
「た……ただいま戻りました、先輩。突然のことで、ご迷惑をおかけして……」
「うん。心配した。だから帰ってきてくれて嬉しいよ。……他の皆は、バーナビーさんが帰って来たの知ってる? ここに来たの、誰かに言った? ……体調はどう?」
わざとバディの名を告げずに問いかけたイワンは、バーナビーの顔色が良くないことに気が付いて、腕を引きながら言い添えた。おいで、と告げてソファまで誘導していくとバーナビーは素直にそれに従い、やや疲れた様子で腰かけて告げる。
「今頃、アポロンメディアに他の人たちが帰りついていると思うので、居場所はそろそろ知れる頃だと思いますが……誰にも言わないで、そのままここまで来たので。体調は、正直あまり」
「……眠れてない?」
「はい。気がかりというか、不可解なことがあって……あ、でも食事はちゃんと食べてましたよ。久しぶりのサマンサの手料理で……おいしかったです、とても」
喜びにそっと頬を赤らめるバーナビーの一言から、彼が潜伏していた先を知り、イワンは思わず舌を巻いた。記憶が確かであるならそれはバーナビーの元家政婦であり、彼女が住むのはシュテルンビルトからは車を一時間以上飛ばさなければ辿りつけない、のどかな街である筈だ。あのメールの文面から、バーナビーたちはさぞ技術を駆使してシュテルンビルトのどこかに潜伏しているものとばかり思い込んでいたのだが、完全なる盲点である。アポロンメディアがサマンサに確認くらいはしたかも知れないが、一言知らない、と誤魔化してしまえばそれ以上の追及はされなかったに違いない。近年は親しい交流をせず、誕生日に祝いと通信を交わすくらいだ、と聞いていた。あ、でも泊まったのは僕だけで他の人たちはキャンピンクカーで出かけたので、近くのキャンプ場で自然を満喫していたみたいです。微笑みながら告げるバーナビーの言葉にかすかな違和を感じ取り、イワンはん、と眉を寄せた。なんだろう、その休暇に行って帰って来た、と言わんばかりの雰囲気は。
「バーナビーさん?」
「はい?」
「……確認なんだけど、このメール知ってる?」
PDAを操作して一週間前に受信したメールを呼びだすと、バーナビーはなんですかそれ、と不思議そうに文面を目で追っていく。加速度的に嫌な予感が積み重なっていくイワンの見る間にも、バーナビーの顔つきから表情が抜け落ちて行った。やがて読み終わったバーナビーはありがとうございましたと丁寧にイワンにお礼をいい、きらきらした笑顔のままで携帯電話を取り出し、見もせず番号を打ち込んで行く。コール音は数回だった。はーい、とすでに笑っているような女性が電話口に出た瞬間、バーナビーはなんですあれっ、と声を荒げた。
「有給休暇消化に付き合う旅じゃなかったんですかっ?」
『有給休暇もちゃんと消化したわよ? バーナビーもいい気晴らしになったでしょう? どうせ、シュテルンビルトにいたんじゃ落ち着いて眠れもしなかったでしょうし。山積みになりすぎた問題からは、一回逃げてみるのも手だと思うわ?』
「リサ! 僕が言っているのはそういうことではなく! これではまるで、僕がサポートチームを巻き込んで失踪してたみたいじゃないですか! 僕は確かに調べたいことがあるから誰にも会わないで集中できる時間が欲しいと言いましたし、手掛かりを持つサマンサの所まで誰にも見つからないように辿りつく方法を相談しましたけど! これ違いますよねっ?」
あら、と電話口の声が笑いながら告げる。
『みたい、じゃなくて。あなたは私たちもろとも一週間失踪したことになってるのよ、バーナビー。現実を受け止めなさい』
「失踪させたのは何処の誰ですか!」
『失踪させた方がいいと私が判断するくらい、あなたの状態がおかしかったのは自覚して頂けるかしら?』
怒るバーナビーをものともせず、女性の声がさらりと告げる。ぐっと言葉に詰まったバーナビーにくすりと笑い、そんなに深刻に受け止めることじゃないのよ、と女性は言った。
『ちゃんと、ちなみに半分くらいジョークですって、ヒーロー以外には追伸でメール送っておいたから』
「なんでヒーローには送らなかったんですか……」
『ワイルドタイガーが調子に乗ったら困るじゃない?』
あと探されて困るのは本当だったでしょうに、と言い添える女性に、恐らく普段から勝てていないのだろう。まるきり諦めた顔でもういいですと電話を切り、バーナビーはイワンに対して頭を下げた。心から申し訳なさそうな様子だった。
「ご心配おかけしました」
「……うん、でも各社技術部はちゃんと知ってたみたいだから」
どうりで翌日から、彼らの雰囲気が深刻ではなかった筈である。イワンに教えてくれなかったのはヒーローに対しての緘口令でも出ていたに違いない。あるいは他になにか理由があったのかも知れないが、もうよく分からなかった。
「調べたいことって、なんだったの?」
「……先輩は、自分の記憶が信じられなくなったことってありますか。絶対にそうだった筈なのに、そう信じていた筈のことだったのに……分からなくなったことは、ありますか」
苦しげに、迷う声だった。未だ疑いながら、どうすればいいのか分からなくなっている言葉だった。教えてください、と問いかけられて、イワンは背をまっすぐに正してあるよ、と言った。それを何度も疑い、そのたびに何度でも乗り越えてきたイワンだからこそ、己の記憶を疑う恐怖も、苦しさも理解できる。
「自分の記憶が信じられなくなっちゃった? ……なにか、覚えていたことと違うことがあって?」
それを確かめに行ってたの、と問うイワンに、バーナビーはこくりと頷き、一枚の写真を取り出した。見ていいの、と尋ねてから受け取り、覗きこむと、そこに映っていたのは老婦人と幼いバーナビーの姿だった。裏を見ると四歳のクリスマスに、と書かれている。古い写真はセピア色に劣化していたが、きちんと保存されていたのだろう。端が擦り切れることもなく、ピンで止めた穴が一つ空いているだけだった。ありがとう、と言ってバーナビーに写真を返すと、青年はそれを丁寧にしまいなおし、眉を寄せながら僕は、と言った。
「この日、一緒に出かけたのは……ずっと、マーベリックさんだと思っていたんです。そして、マーベリックさんと別れて家に帰って……ジェイクが、両親を撃ち殺した現場を目撃した筈だと思っていて……! でも、ジェイクの手には僕が見た筈のウロボロスのマークがなかった!」
「……え?」
「それに! 僕の両親が殺されたあの日、シュテルンビルトでは一件の誘拐事件が起きてるんです。誘拐された少女の名は、クリーム。それから二人はずっと、ジェイクがレジェンドに逮捕されるその時まで一緒だったと……ジェイクが捕まった時の調書に書いてあると、警察で確認が取れたと、聞いて、僕は」
それじゃあ僕は、誰を、と。苦しげに頭を抱え込んだバーナビーに両腕を伸ばして、イワンは後輩の頭を胸に引き寄せた。
「それを調べに行ってたの?」
「……はい」
「バーナビーさんの記憶は、今どうなってる? 今もまだマーベリックさんと出かけた記憶があって、目撃した犯人はジェイクの顔をしている?」
ごく冷静な鋭い怒りが、すさまじい勢いでイワンの中をかけ巡って行く。こんな症例をいくつも、学んだことがある。イワンが知っているなら、バーナビーもそれを分かっている筈だった。記憶操作、洗脳、あるいは無意識化に潜ませた暗示が混乱を巻き起こす。それは必ず、人為的な意思でなされるものだ。バーナビーは放りだされることを恐れるようにイワンの背に強くしがみつき、いいえ、と確かな声で呟いた。
「一緒に出かけたのはサマンサです。写真を見た瞬間、記憶が……塗り替えられました。これが正しいんだって、直観的に感じて、でも……ジェイクの顔はそのままなんです」
「分かった。……でもジェイク・マルチネスがバーナビーさんの両親を殺害することは、恐らく不可能だったと警察の資料が告げている。そうなんだね?」
一度、迷うような仕草でイワンの腕の中で頷いたバーナビーは、やがて決意を深めるようにもう一度、しっかりと仕草で頷き、はい、と響く声で告げ、伏せていた顔を持ち上げる。
「先輩」
「うん。……いいよ、言って。なに?」
「力を、貸してください」
ジャスティスタワーを調べましょう、と静かな声でバーナビーは言った。それは最終的に誰に繋がるのかを分かっていて、それを恐れながらも立ち向かっていく、決意めいた宣言だった。うん、と頷き、イワンはバーナビーを抱きしめる。もしかしたら早朝に、一番に来ることが多いイワンにそう告げたくて、バーナビーはトレーニングルームで待っていてくれたのかも知れない。うん、と何度か頷いて、イワンは貸すよ、と言った。
「君の為なら、何度でも。……頑張るよ」
「先輩」
「よく言えたね、バーナビー。怖かったでしょう。……よく、戻ってきたね。おかえりなさい」
よしよし、と声に出して言いながら髪を撫でてやると、バーナビーはこども扱いだ、とすこしだけ笑った。それは久しぶりに聞いた、くったくのない、心からの笑い声だった。
アポロンメディからバーナビーが帰ってきていることを知らされたのだろう。二時間もすると続々とトレーニングルームに現れた仲間たちの手にバーナビーを渡し、イワンは誰にも気がつかれないよう、そっと部屋を移動した。バーナビーから離れすぎるつもりはないので、談話室の扉を半開きにし、すぐ近くの壁に背を預けてPDAを起動する。耳を澄ませて途切れ途切れに聞こえてくる声と音の連なりを感じ取る分には、バーナビーは安定しているように感じられた。取り繕うことは出来るのだろう。それだけの余力があることにほっと胸を撫で下ろしながら、イワンは自社の技術部を呼び出し、映像が現れるなり思いきり眉を寄せて抗議する。あくまで、穏やかな口調で。
「どこにいてなにをしているか、知っていたんですね?」
『……具体的な場所と目的は知りませんでした』
両手をあげてそっと視線を外しているキリサトに、怒られる覚悟はあるようだった。一週間、ずっとイワンが心配しているのを近くで見ていたので、罪悪感はあるのだろう。ごめんなさい、と言わないのは緘口令に従うべきだと感じた己の判断を優先したが故だろうが、その、むやみやたらに謝らない姿勢は、イワンの好む所だった。キリサトさんが思っているよりはきっと怒っていませんが、と前置きをした後、不愉快な息を吐きだして気持ちを落ち着かせ、イワンはすっと目を細める。
「キリサトさん」
『はい』
「……疑わしきが誰か、情報は掴んでますか」
少女は画面ごし、まっすぐにイワンの目を見つめて一言、はい、と言った。
『アポロンメディアのヒーロー事業部も知っています。……警察からの情報提供があったので、七大企業のヒーロー事業部全てが、その情報を共有しています。けど、その情報を持っているのは事業部止まりで、各社CEOはそれを知りません』
「ヘリペリデスファイナンスのCEOも、ですか」
『それは私が公私混同すると? そういうことですか? ……信じて頂く他ありませんが、言ってません。CEOの仕事は会社の利益を守ることですが、私たちヒーロー事業部の仕事は、あなたたちを守ることです。私たちヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部の仕事は、あなたを守ることです、イワン・カレリン。私たちは、あなたたちを守る覚悟を決めました。だから、大丈夫。例えそれが誰でも、どんな敵であろうとも。私たちは胸を張って万全の状態でスーツを整備して、あなたを送り出してあげますよ。法にひっかからない限度で』
だから証拠をしっかり掴んでくださいね、と言うキリサトに苦笑いをして、イワンはバーナビーに告げられた、記憶混乱の話をした。どう思いますか、と意見を求められ、仮面の奥に隠された瞳がくるりと空に円を描く。沈黙の後、断言はできないことですが、と前置きをした上で少女が告げる。
『記憶操作か洗脳か、暗示。あるいは自身の思いこみによる記憶の上書きの可能性もありますが……一回、調べないと分かりません。イワンくん、バーナビーを連れて病院に連れて行くとかってできますか? 出来れば、NEXT専門の』
「NEXTの仕業ってことですか?」
『いえ、もちろんその可能性もありますが……それがNEXTの仕業による記憶操作、あるいはそれに類するものであった場合、脳の検査をして欲しいんです。NEXTというのは、通常、同じNEXTからの影響を受けにくい存在です。対抗力があるとも言えます。それは発現の仕方は違えども、同じ『青白い光をもって発動する』という共通点からなる、根源が同じものである可能性からくる対抗力です。分かりやすく言うと、免疫の抗体を元々持っているもの、と考えてください。もちろん、逆に影響しやすい場合もありますが、それは相性と体質も関わってくるので全てがこれに当てはまる訳ではありませんが……記憶は脳に保存されたものです。それをいじくられるということが、対抗する力があってなお、そうされてしまう程大きな力を受けたことが、なんの影響を及ぼしているのか、私はそれが怖い。できるだけ早くに、お願いできますか?』
一応、アポロンメディアの息がかかってないと思われる病院に連絡しておくので、と言うキリサトに分かりましたと呟いて、イワンはPDAの通信を終わりにしてしまった。少女がイワンやバーナビーと同じ結論に達した以上、記憶になんらかの手が加えられているのは、ほぼ確実なことだろう。ヒーローとして精力的に活動していることや、長期入院の際に全身くまなく検査されている筈なので脳に異常が見つかることはないだろうが、それでも溜息を引きだすような不安が胸にこびりつく。なにもなければいい、と強く思いながら談話室からトレーニングルームへ戻ると、途切れた歓談の響きがそれを示していたように、バーナビーの歓迎には一区切りついたらしかった。それぞれがほっとした顔つきでトレーニングマシンを動かしている中、バーナビーはまだソファにいた。時折、ちらちらと扉を確認しながらも、ソファにぐったりと横になり目を閉じている。張り詰めていたものが、緩んでしまったのだろう。続けさせる体力がなくなったのか、安心したのかは紙一重だが、弱い所を見せているのは良いことのように思えた。虎徹がまだ姿を現さないのは、バーナビーが帰って来たことにより、宙に浮かせていた引退問題が戻ってきたからに他ならない。ロイズや他の人々の説得と説教にあっているのは想像に容易く、トレーニングルームに辿りつくのは、いましばらくの時間が必要だと思われた。
その空白期間が、バーナビーには耐えがたいのだ。記憶が安定しないというのは、精神をすり減らす恐怖をもたらす。本当なら一番傍にいて励まして欲しい相手が虎徹だろうに、一週間前に引退を告げられてから、バーナビーはバディに会ってさえいないのだ。顔を会わせず、声も交わさなかった原因はひとえにバーナビーが行方をくらませていたせいだが、それ以前も虎徹は実家に帰省していた為、体感的な空白時間はもっと長いものだろう。ずっと会えなかったが、このまま会えなくなる、にすり替わりそうになる。そんな筈はないと思っても、虎徹がもし引退してしまえばバーナビーの傍から離れて行くのは、分かっている事実だった。娘の傍にいてやりたい、と虎徹は言った。それはすなわち、シュテルンビルトを離れる、ということなのだ。バーナビーはこの街で、ヒーローを続けて行くというのに。二人がただのバディなら、きっとバーナビーは苦労して苦労して、立ちあがって立ち直っていくことができただろう。イワンが立ち止まる手を引くことも、仲間の励ましも届かせることができただろう。しかし、彼らはただのバディではない。二人が出会い、反発し、分かり合おうとし、距離を近づかせ、そしてだんだんと惹かれあっていくさまを、イワンは見て知っていた。彼らが恋人として結ばれたのがいつなのか、イワンは知らない。気が付けば仕事上のバディより親しい仲になっていた二人は、それでも自然にそこにあり、そしていつまでもそうであると、なんとなく受け入れてしまっていたのだ。バーナビーのショックは、どれくらいのものだったのだろう。
タイガー&バーナビーはバディである。彼が引退するとすればヒーローは片割れを失い、そしてバーナビーは恋人と別れることになる。それを、あっさりと引退を告げた虎徹はいまいち理解していないようにイワンは思うのだが、引退と別れを切り出されたとイコールとして捕らえ、処理してしまっているバーナビーにその認識を届かせるには、もうしばらくの時間が必要だろう。二人の仲に関して、今は見守るしかできないような気がした。寝るならせめてブランケットでも探して来てかけてあげよう、とイワンはロッカールームへ向かう。トレーニングをした後に時々眠くなるので、その時の仮眠用にロッカーへ入れておいたものがあった筈だ。探して戻ってきた時間は五分か、十分に満たない筈だったのだが、トレーニングルームまで戻るとバーナビーの様子が変わっていた。寝ころんでいた姿から起き上がり、前にパオリンを抱きつかせ、カリーナとは背中合わせになるように座り込んでいる。意味の分からなさで思考が停止しかかり、イワンはぎこちない仕草で首を傾げた。ちょっとではなく状況が分からないが、たった五分で、どうして後輩は少女たちを侍らせているのだろう。考え込んでいると手招くキースの姿が目に映ったので、イワンはとりあえず説明してもらうことにした。アントニオとネイサンはなにやら頭を抱えているので、キースに聞くのが一番分かりやすいだろう。
一部始終を見守っていたであろうキースは微笑ましい表情をしていたので、悪いことではなさそうなのが救いだった。
「……なにがあったんですか?」
「うん! 彼らは家族になるそうだ!」
「その結果に至るまでの過程を、すごく詳しくお願いします」
状況を説明してもらうつもりがますます分からなくなった故の頭の痛みを抱えながら、イワンがキースに説明してもらった事実を噛み砕くと、大体状況が読めてきた。つまり、パオリンはバーナビーの精神の破綻に気が付いたのだ。その心の幼さに。砕かれ、壊れてしまったであろう脆さに。一人きりで、痛いと泣いている寂しさに。そして手を伸ばさずにはいられなくなったのだろう。家族になろう、と告げたのは偶然かも知れない。けれど、その言葉は確かにバーナビーの心を救ったのだ。カリーナも一緒になって家族枠に入りこんだのは予想外だったが、それならばイワンにも状況が飲み込めた。ありがとうございます、と告げて三人の元へ向かおうとした瞬間、トレーニングルームの扉が開く。入ってきたのは虎徹だった。瞬間的に緊張する二人の少女とバーナビーの姿を見て、虎徹はバディが現実的にそこにいることによりなにより、体勢に驚いたようだった。
「な……なにしてんだ、お前ら」
「虎徹さん。おはようございます。あの、突然いなくなってすみませんでした……メールのことも、僕、知らなくて」
バーナビーは虎徹の問いに答えず早口でそう言うと、とりあえず少女たちと離れようとしたらしい。パオリンの肩に手を置いてぐっと押しやろうとしたのだが、んーっ、と抗議の声が上がって胸に顔を埋められてしまう。その幼い仕草が、きっとあんまり可愛く思えたのだろう。思わず、といった風にパオリンの頭を撫でるバーナビーの背に、ずしっと体重がかけられた。それまで自分の重みを支えて背中だけをくっつけていたカリーナが、バーナビーにそれを預けてしまったのだ。ちょっとカリーナ、と困ったように呼ぶのに、少女はつんとすました声で駄目よ、と言った。今はまだ、もうすこしだけ、駄目。動かないで、と言わんばかりバーナビーから離れない少女たちに、困惑しながらも虎徹が近づいていく。恐らく、バーナビーと話したいのだろう。彼らは話さなければいけない。引退についても、その関係についても。バーナビーの記憶のことも。そう思うのに、見守る視線の先、バーナビーが言葉そのものを恐れるように唇を噛んだのが見えて、イワンの足は動いていた。イワンの接近に気が付いていない虎徹の肩にぽんと手を乗せ、振り返るより早く足払いをかける。だぁっ、と声をかけて床に転んだ虎徹が怪我をしないように腕を支えてから、イワンはごく冷静にバーナビーの状態を確認した。唇を噛んだまま、後輩はイワンのことを見つめている。
「……先輩」
こぼれる声に、血の香りがした。唇に血が滲んでいる。噛み切ってしまったのだろう。それなのにまた歯を立ててしまおうとするバーナビーに、イワンはそっと身を屈めた。舌を伸ばして血を舐め取り、そのまま唇を重ねる。触れるだけの口付けは、唇からそっと、体温と吐息を移して離れた。
「……唇、噛まないの」
「先輩」
「帰ってくるの待ってるから、ちゃんと話しておいで」
できるね、と幼子に対するように問われて、バーナビーの体からようやく力が抜けた。こくん、と頷いて話してきます、と告げられるのに、パオリンが仕方がなさそうにバーナビーから離れる。カリーナもしぶしぶ背を離してやり、立ち上がるバーナビーを見送った。それぞれに言いたいことが山のようにある顔つきで、立ち上がった虎徹がバーナビーを談話室へ連れて行く。その扉が閉まったのを確認してから、イワンは唇に指を押し当てた。指を離すと、血が付いている。まったく、と溜息をついて、イワンは嘆かわしげに首を振った。そんなイワンに少女たちがなにごとかを問おうとした瞬間、がんっ、と乱暴な音を立てて談話室の扉が開く。見れば怒りの形相で、バーナビーが三人に向かって駆け戻ってくる所だった。おい、と声をかける虎徹を振り返り、バーナビーは信じられない、と絶叫する。
「あなた……よくその理由隠して引退できると思いましたね!」
「え、なに? なんて言われたの?」
おい、と咎めるような声が飛ぶが、バーナビーはそれを一切気にしなかった。尋ねたカリーナに視線を合わせ、聞いてくださいよ、と言いつけるように虎徹を後ろ手に指差す。
「あのひと! 能力減退してるって!」
「は?」
「え?」
間の抜けた声を出して視線を向けるヒーローたちに、虎徹は頭の後ろをがしがしと手でかきながら、気不味そうな様子で歩いて来る。言わないで悪かったよ、と告げる言葉は弱り切っていたが、視線はまっすぐにバーナビーを見ていた。
「だからな、バニー。俺、もうヒーローできないんだわ」
「はい、質問です。病院に行きましたか?」
「いや? 病気とかじゃないみたいだし」
二人きりの場からバーナビーが逃げ出して全体暴露された時点で、虎徹も腹が決まったらしい。さらりとした口調で告げられるのにイワンは眉を寄せ、ひとつの疑問を重ねて口にする。
「なぜ、体調による変動ではなく、能力減退だって言い切れるんですか? 調べてもいないのに」
「だってよぉ……ベンさんが、時々そういう症例があるっていうから……レジェンドもだんだん能力が消えてったっていうし、俺もそうなんじゃないかと……」
「……ベンさんって、誰?」
聞いたことのない名前だったのだろう。不思議そうに首を傾げるパオリンに、虎徹はトップマグ時代の上司であると告げた。現在はポセイドンラインでタクシーの運転手をしているらしい。眉を寄せて考え、次に手を上げたのはカリーナだった。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「ん? なんだ?」
「そのベンさん、NEXT能力について詳しいの? 専門家とか、それくらいの知識を持ってるのかってことなんだけど」
否定は、比較的早く虎徹の口から放たれた。デビュー当時から世話になっている上司ではあるし、たくさんのヒーローのファンで情報にも詳しいが、専門家って訳ではなかった気がする、と。バーナビーが額に手を押し当てて沈黙するのを横目にしながら、イワンも精神的に頭痛を感じて息を吸い込む。
「タイガーさん」
「お、おお?」
「つまり、能力減退だと思っている根拠はその上司の話と、レジェンドがそうであったという情報だけってことですね? レジェンドについては、都市伝説みたいな形で僕も聞いたことはありますが……。ええと、専門的な検査は受けていないんですか? なにも? アポロンメディアの技術部に身体データをチェックしてもらったりも?」
イワンの問いに、虎徹はふてくされたように唇を尖らせた。そんなことしたらバレるじゃんかよぉ、と告げられて、イワンは頭の片隅でなにかが引きちぎられた音を聞く。ハンドレットパワーを表面的な怪我の治癒に使用したと聞いた時からなんとなくそう思っていたのだが、今ハッキリと分かった。虎徹には恐らく、己の感覚と長年の経験以外のNEXTにまつわる知識がない。今まで必要になることもなかったから、学ぶこともしなかったのだろう。よし、と座った目で顔を上げ、イワンはその時を待つ後輩に対し、ごく無造作に命令した。
「バーナビーさん。捕獲」
「はい!」
「ネイサンさん、車出してください、その人を病院に連れていきます。……ついでだから、バーナビーさんも見てもらおうね? 大丈夫だと思うけど、記憶の件、こっちが怖い」
トン、と頭を指差して脳のことを示せば、バーナビーは虎徹を容赦なく蹴り飛ばし床に転がして両腕を後ろでひとまとめにして動きを拘束しながら、イワンの心配の理由を理解している顔つきで、はい、分かりましたと苦笑した。病院と聞いただけで反射的に嫌なのだろう。じたばたと暴れる虎徹の前にしゃがみこみ、イワンはにこ、と笑みを浮かべた。
「なんでそこまで思いこんでしまったのか、理解できませんが……ハンドレットパワーが極端に安定しているだけで、NEXT能力は精神の状態に引きずられやすい不安定なものです」
「……なにが言いたいんだよ」
「減退しているなら、減退する理由が見つけられるかも知れないってことですよ。理由が分かれば、対処できるかもしれないっていうことです。諦めるのはまだ、早い」
さて病院に行って診てもらいましょうね、と言ったイワンに、バーナビーがはい、と力強く頷いた。