夜明けが来るのを待って、イワンは格納庫の屋根へ上った。足元からは宴会に突入したまま戻ってくる気配のない技術者たちの絶え間ない笑い声が響き、議論を交わす真剣な声や夢を語り合う柔らかな音、なにかを作っている作業音や機械音、稼働音と混じり合ってひどく混沌としている。それは決して不愉快なものではなかった。幸せすら感じさせるものだ。バーナビーの診断結果が届いたのは、日付が変わる頃だっあ。診断結果は、問題なし。軽度の睡眠障害と精神の疲弊が認められたのは確かなことだったが、心配された脳への影響は確認できず、これからも大丈夫だろう、とのことだった。それを聞いたアポロンメディア技術部一同が、ワイルドタイガー引退の危機を脱したことも重なっての、喜びのおたけびを上げたのが宴会の始まりであったように思う。それまでも、滅多に会うことのできない他社の技術者たちの集いに、テンションが上がりきっている者たちばかりだったのだ。喜びを共有することにためらいはなく、格納庫は瞬く間に祝宴の場と化し、料理とアルコールが運び込まれた。中にはカリーナやパオリンと言った未成年も含まれるので、料理は避けのつまみになるようなものから腹を十分に満たすものまで、多種多様な品ぞろえで用意され、アルコール以外にもソフトドリンクが大量に並べられた。買い出しに活躍したのは各社のトランスポーターだが、出来合いの料理を温めるのか、買いだして来た食材から料理を作るのに力を発揮したのはヘリペリデスファイナンスのトランスポーターである。空腹で戻ってくる折紙サイクロンをもてなす為、また多少は技術者たちの趣味まじりに移動式キッチンの様相を表し始めた改造トランスポーターに、各社からは馬鹿だの意味が分からないだの追加する機能はそこじゃなかった筈だの、忌憚のない意見が飛び交い大盛り上がりでけなしながらもありがたがった。空が白んで来た今も、技術者の半数は徹夜で盛り上がったままである。
けれども、その起きている者の半数がアルコールを言って気も飲んでいないことをイワンは知っていた。徹夜しているのも宴会が盛り上がり過ぎて寝る機会を逃したといった理由ではなく、彼らはこれからヒーローたちが出動する事態が発生した場合にそなえているだけなのだ。誰かが言いだした訳ではなく、彼らはまったく当たり前にそれをした。カリーナがわざわざ家に連絡してまで格納庫に泊まり、帰らなかったのも同じ理由だろう。ここにはヒーローたちが心から信頼を預ける技術者たちが揃っていて、技術者たちの信頼にヒーローは出来る限り向き居たいと思っていて、それは義務ではなく、仕事というくくりが存在しているけれども、決してそれだけではないのだった。そのことをイワンは嬉しい、と思う。幸せな巡り合いがいくつも重なって、ここまで辿りつけたのだと、そう思う。だからこそ、夜明けが見たくなった。ヒーローたちが皆そうであるように、イワンも街が眠りにつく夜よりも、陽が昇る朝の方が落ち着いて受け止めることができるのだった。夜の薄暗さは、時として犯罪を呼びこんでしまう。事件は二十四時間いつでも起きるものだが、それでも体感的には夕方から夜にかけての出動がもっとも多く、陽が暮れるとヒーローたちは一日の終わりを実感すると共に、長い夜明けまでの時間を思って緊張するのが常だった。迎える朝の光は、いつでも希望を思わせて明るく心を照らし出してくれた。今もイワンの視線の先では、太陽が地平線とビルの隙間から世界を薄紫と代々、赤と黄と金に揺らめかせ輝かせて一日の始まりを導いている。はじまる、と思うと共に、平和なシュテルンンビルトの昨日がようやく終わった、とイワンは思う。一日の終わりを、一日の始まりに感じ取る。
平和であった昨日を思う。その平和は今日も、繋いでいけるものなのだろうか。街の平和を維持するのは警察の役目で、法を持って平和をもたらすのは司法局の役人の職務である。ヒーローたちはそれが破られた時にのみ必要とされ、力をふるって平和を市民と、常なる守護者たちの手へ戻すのが役目だ。平和を平和のまま維持するためにヒーローができることは、その存在でもって悪を許さないと良くしすることであり、続けて繋げて行く具体的な手段を持つことができないでいるのだった。出来ることがひとつだけあるとすれば、許されることがあるとするならば、それがパトロールである。ヒーローとしてデビューしてすぐその答えに辿りつき、ずっとそのことを続けているスカイハイという存在のことを考えて、イワンは改めて溜息をつく。彼はたったそれだけしか出来ないことに気がついても、きっと絶望することはなく、朝焼けのような笑顔で喜んだだろう。出来ることはあるのだ。すくなくとも。ひとつだけでも。デビューして数年、ようやくそこへ辿りついたイワンは、かなわないなぁと苦笑する。彼ほどヒーローというものの本質を見定めることに長けた者はなく、彼ほどまっすぐにそれを目指す者もない。一番近いとしたらワイルドタイガーなのだろうが、彼がスカイハイより良くも悪くも人間くさく、情というものの存在がまっすぐである筈の道を惑わしてしまっているような印象だ。
イワンは眩く白く目覚めて行く年を遠くに眺めながら、空へ向かって指先を伸ばした。上空では風が吹いている。雲を動かすその一筋の流れに触れることができれば、もうすこしだけ迷いなく進めるような、そんな気がした。
「イワンくん」
声は、指先にからむ風のように響いて来た。ふわりと優美な動きでもって風が舞い、格納庫の屋上へ一人分の重みを追加させる。振り向けばキースが寝起きの、どこかあどけない表情で立っていて、足場の悪い屋根の上をゆっくりとイワンに向かって歩み寄ってくる所だった。転んだり、バランスを崩して怪我をする心配は全くない。彼は風を操るNEXTである以上に大気の流れそのものに愛されているような印象はある男だから、不意の驚きに能力の発動が遅れたとしても、気まぐれな突風がその体を支えるだろう。夜の隙間から吹いてきた名残の、ひんやりとした風がキースの前髪を撫でて行く。目の覚めたような顔つきでぱちぱちと瞬きをして、キースはようやく、座り込むイワンの傍らに辿りついた。浮かび上がって移動してくれたすぐだったのにと、ふと、イワンは思って口元を和ませる。時々、キースは地を踏みしめて歩くことそのものを楽しんでいるようなそぶりを見せる。今も、そうだった。キースはこどものようにあどけなくくすくすと笑い、靴底がでこぼこの感触を伝えてくるのに幸せそうに笑いながら、イワンと同じように目を細めて空を眺めた。ゆっくりと、感情が住み渡って行く。感動を伝えるような、静かで厳かな呼吸の音が響いた。
「ああ……いい朝だね」
「はい。キースさんも、朝焼けを見に?」
「うん。それと……あんまりいい朝だったから、パトロールに行こうかと思ってね」
ジョンの散歩に行こうかと思ったら、パオリンくんが連れていきたいと言うから頼んでしまったよ、と手持ちぶさたに苦笑して、キースはまた大きく息を吸い込んだ。キースが『あんまりいい朝』と告げたそれと、視線の先にあり感動と共に囁かれたそれは同じ言葉だったふぁ、意味するところはまるで違っていて、けれども理解できるものだから、イワンは微笑しながらはいと言って頷いた。昨夜、パトロールを終えてジョンを連れて戻ってきたキースは、その時点でまだ盛り上がりの最高潮ではなかった宴会を嬉しげに見やり、すこしだけ参加して早々にトランスポーターへ眠りに行った組だった。イワンもそれに含まれている。技術者たちはヒーローの徹底された事故体調管理を誇らしげに見送ったものだから、キースはいつものようにhぐっすりと寝て、起きて、イワンと同じように、まだ続いていた宴会の様子を呆れと感動と、不思議な嬉しさで見つめてきたのだろう、クリスマスの朝、もみの木の下にいくつも置かれた宝物を見て来てしまったような表情で、喜びでまったく落ち着くことなどできないという顔つきで、キースはそわそわと空へ飛び立ちたがった。その腕に手をそえるように引き留め、イワンは行ってもいいですけど、と肩を震わせて機嫌良く笑う。
「そうすると、夜のパトロールができなくなるんじゃなかったんでしたっけ? いいんですか? ……スーツも着てないし」
「スーツはめ、実は時々着ていないんだ。意外とバレないよ」
「そうですね。シュテルンビルト市民の皆さんはとっても優しいですからね……。それじゃあ僕、下に戻って、ポセイドンラインの皆さんに、キースさんが朝のパトロールに行っちゃいましたって言ってきます」
スーツを着ないでそのままの服装で飛んで行っちゃいました、と。見送って留めなかった僕も怒られるでしょうけれど、キースさんはもっと怒られるのが目に見えるようです、と囁いて。立ち上がって屋根の上を歩いていこうとするイワンは笑っていて、言葉は本気ではなく、からかい混じりのそれだった。だからこそ、駄目だよ、と笑いながら浮かび上がって進行方向に先回りしたキースが、悪戯っこを宥めるようにイワンの顔を覗きこんでくる。
「駄目だよ、イワンくん。これは、君と私のひみつだ」
「駄目ですよ。だーめ。スーツを着ないで飛ぶのがどんなに危ないか、入院中にみっちり怒られたんじゃなかったんでしたっけ? どうしてやろうとするんですか、まったく。それに、パトロールは一日一回って制限があった気がしますが」
「それは不安定な時期だけだよ、イワンくん。そろそろね、朝と夜でもいいと言ってくれる気がするんだ!」
つまりは完全にキースの昨日であり、未だポセイドンラインは日に二階のパトロールを許可していないということである。駄目じゃないですか、と笑いながら咎めればキースはうん、と笑ってイワンから空へと視線の先を移動させた。その靴先はすこしだけ屋根から浮いていて、キースの体はすでにこの地のものではなくなっていた。繋ぎとめているのはただ、イワンの言葉と存在だった。風船のように浮かび上がって消えてしまうことはないと分かっていても、イワンはキースのジャケットをそっと掴む。くん、と下に引っ張られる感覚にん、と不思議そうに声を上げてそれを見たキースが、くすりと笑みを深めて囁いた。大丈夫、大丈夫、と笑いさざめく静かな声。
「勝手に行ったりはしないさ」
「ええ、僕もそう思って……信じてはいますよ」
「ありがとう。だから、イワンくん……すこしだけ。ほんのすこしだけ、飛んできてもいいかい? ほんの、すこしだけ」
君の目の届く範囲だけで、すぐに帰ってくることを約束するから。ね、と首を傾げてねだるキースをこれ以上引き留めておくことは悪いような気がして、イワンは溜息をつきながら見える場所までですよ、と行った。見えなくなる所まで飛んで行ったら、すぐポセイドンラインの方に言いつけにいきますからね、と告げる調子はジュニアスクールの教師が危ない場所へ勝手に行ってはいけません、お父さんお母さんにお話して叱って頂きますからねと囁くのと全く同じ言葉の響きを帯びていたが、キースは特に気にならないようだった。分かったよありがとう、と満面の笑みで頷いたキースは、まるでそれが儀式かあるいは必要な一動作であるかのよう、浮いていた靴先を一度屋根の上に乗せて、それからトン、と身軽く重力を蹴飛ばした。密度を持った風が、翼のように広がっていく。キースの体は瞬く間に空の高くへ浮かび上がり、イワンは朝日を直視するよりまぶしい気持ちで、その姿を目を細めて見送った。上空では、風が強いようだ。ジャケットをばたばたとはためかせながらも流れに引き寄せられてしまうことはなく、共に手を取って遊ぶように髪をあおらせ、キースは大空に向かって両手を広げていた。ああ、とイワンは溜息をつく。彼はこの明けたばかりの空を、抱きしめに行ったのだ目覚めた瞬間の喜びを、胸に留めておくことができなくなったくらいの、たくさんたくさんの幸福を。花束のように空へと捧げ、風を抱きしめ、囁きに行ったのだ。梢を鳴らして行く、花をくすぐっては過ぎ去っていく、どこまでもどこまでも駆け抜けて行く大気の流れそのものと語り合う言葉を、キースだけが持っている。
宣言の通りに、遠くへ見えるビル群へパトロールしに行くつもりはないのだろう。キースはイワンから見える範囲の空をゆったりと動き回り、街から飛んで来た鳥たちを指先の動きで呼びよせると、口付けじゃれあうように頬を擦りつけて笑っている。同じ空を飛ぶ存在だから、鳥たちには友人とでも思われているのかも知れない。スカイハイである彼ならば、十分ありえることだった。そう思いつつイワンは、ちょうど己の真上に浮かんでいるキースに、そっと手を差し出した。キースが鳥たちのひと時の止まり木となったようには、その手に触れて安らいでくれるなんて、思う訳ではないのだけれど。
「キースさん!」
「ん?」
「降りて来てください! そろそろ朝食にして、出社の準備をしないと間に合いません。遅刻しちゃいますよ?」
イワンもキースも、基本的には会社員である。定時に出社する義務はないが、何事もなければ九時頃に一度顔を出してCEOかその秘書、あるいはヒーロー事業部の誰かに本日の予定を確認したのち、トレーニングルームへ行くか、あるいはキャンペーンの為に外出しなければいけない。彼らはまだ時間の調整が利かないこともないのだが、ヒーローの中でもカリーナは現役の学生なのである。制服や着替えなど、必要なものはあらかじめトランスポーターを出してもらって取りに行っていたようなので物品の心配はないのだが、ここからでは学校へ行くのにすこし時間がかかる。イワンが屋根に登ろうとしていた時にすでに起きてはいたので、朝食だけどうにかして食べさせ、送り出さなければいけないだろう。イワンたちは道行きで適当に済ませればいいが、カリーナは成長途中の学生で、少女だ。しっかりしたものを食べさせなければいけない気が、イワンにはしていた。時刻は六時の少し前だから十分な余裕がある。しかし格納庫の片づけがどれくらいかかるのかが分からないのだ。最悪、技術者たちに後を頼んでヒーローは先に出社なり通学なりしてしまえばいいのだが、それを考えるとやはり、良心が咎めた。言われてはじめて、時間のことを思い出したのだろう。あ、と行ったキースは素直に高度を下げてきて、イワンの差し出すてのひらに指先を伸ばしてくれた。そっと指を絡めるようにして繋ぎ、キースはゆったりとした動きで靴先を屋根の上へと戻した。纏う風が霧散するとようやく、キースに体重と存在感が戻ってくる。ありがとう、と囁いて解かれた手を見つめながら、イワンはいいえ、と微笑して首を振った。靴音が響くのに安堵しながら背を追い掛けていると、格納庫の内側へ降りる出窓のようなちいさな扉が見えてきた。すると、ハッとした様子でキースが立ち止まり、イワンを振り返って手を差し出してくる。先程とは逆に、手を伸ばして掴まって欲しがる仕草だった。意味が分からず首を傾げるイワンに、ここから降りるのは高さがあって危ないだろう、とキースは囁くように言う。
「おいで。一緒に降りよう」
「……一人で、降りられます」
「駄目だよ。怪我をしたら危ない」
当然、一人で屋根に上って一人で降りるつもりだったイワンは、深々と息を吐きだして脱力した。キースの、会話の相手をこどもあつかいしたがる癖には慣れたつもりなのだが、全く、どうやってイワンがここに立っていると思うのだろう。イワンには風を操る能力などないと言うのに。ちいさな扉からすこしだけはみ出している脚立を指差し、あれでちゃんと降りられますから、と繰り返して行ったイワンに、キースはにこにこと笑って手を伸ばした。腕を掴み、イワンを引き寄せてしまう。
「君は、私に頼ろうとしてくれないね」
「そういう訳じゃなくて……え、っと。あの?」
「……バーナビーくんに優しくするのと同じくらい、私にも甘えてはくれないかな。駄目かい?」
ぽつりとつぶやかれた声に顔をあげると、至近距離で笑う空色の瞳がそこにあった。美しい、うつくしい、ひたすらに透明な空の色。ぎく、となんの為にか見を強張らせたイワンにかまうこともなく、キースはごく穏やかに己の能力を発動させた。それは、貴婦人のしなやかに動くてのひら。繊細で、触れるものをうっとりとさせるような風の柔らかさ。あっと思った瞬間にイワンの体は浮かび上がっていて、バランスを崩した背は大きな手で引き寄せられる。人形を抱くようにぎゅうぅ、と抱きしめられて、イワンは息を吸い込んだ。
「な、なにして……!」
「暴れてはいけないよ。大丈夫、すぐに降ろしてあげるから」
くすくすと笑いながら囁くキースはそっとイワンの背を指で撫で、落ち着いて、と優しい声を耳に吹き込んでくる。その声が、木に登って降りられなくなっていた猫を見つけて救助した時の呟きと全く同じものだったから、イワンは深々と息を吐きだして脱力し、体重を全部キースに預けてしまう。キースにとってイワンの存在は、きっと犬とか猫とかそういうものなのだろう。可愛がる存在で、大切にしなければいけない、と思うもの。溜息をついてぐいぐいと体重をかけるのはちょっとした嫌がらせだが、効果はないに違いない。イワンの体を支えているのはあくまでキースの能力で、彼のたくましい筋肉や頼りがいのありそうな大きな手ではないのだ。身長はそこまで変わらない筈なのに、人種のせいだろうか。イワンはキースのような肉付きになったことがないし、手も比べればひと回りくらいちいさいのだった。これでもイワンはカリーナやパオリンと比べればずるいと言われるくらい男らしいてのひらで、バーナビーとは指の長さも手の形も、ちょうど同じくらいの大きさなのに。それとも、能力の差だろうか。徒然と考え込んで無言になってしまったイワンをそっと格納庫の床へ下ろして、キースはひょい、と不思議そうな表情で顔を覗きこんでくる。
「イワンくん?」
「え、ああ……大丈夫です。ちょっと考え事をしていたもので」
「どんな?」
相談してごらん、といわんばかり微笑まれても、イワンは微妙な表情で視線を反らすしかできなかった。まさか本人を目の前に、手が大きくて羨ましいだの、どうやったらそんなに筋肉が付くんですかだの、聞くわけにはいかないだろう。一歩間違えたらセクハラである。そしてセクシャルハラスメントとは同性でも適応されるものであるから、怒ったポセイドンラインに訴えられたら最後、イワンは負けるだけの自信があった。ヘリペリデスファイナンスが対応してくれればなんとかなるだろうが、そんな個人間の争いに動いてもらうのも申し訳ない。できれば言わないで諦めるのを待ちたいのだが、キースに忍耐力がすごくあることなど、イワンは公園の一件で十分知っていた。今もあからさまに視線をそらしているのに、キースはにこにこと答えを待つんばかりで引き下がろうとしていない。よし、訴えられたら諦めて素直に負けよう、とネガティブに前向きな決意をして、イワンはキースの手をみつめた。
「……大きい手だな、と思って」
「うん? ……それだけかい?」
「頼りがいがあるな、とか」
なぜそこで追及してくるのかと思いながら、イワンはやや投げやりに言い添えた。一応は本音である。どちらかと言えば指が細くて長いイワンの手は、堀の向こうにいる親友には神経質なピアノ弾きっぽいと評されたくらいで、男らしくごつごつとはしているものの、キースの肉厚でしっかりとした印象のそれとは、まるで見かけからして異なっている。ヒーローとして出動する時は指先までもスーツで覆っていくのでそこまでの差異はないだろうが、その手に掴まれば、触れればきっと、キースの手は温かな安心感を与えてくれるだろう。不思議なことを聞いた、というように楽しげに笑いながら、キースはその手でイワンのてのひらをぎゅっと握る。なぜか慌ててしまって、反射的に振りほどこうとするイワンのことをじっと見つめて落ち着かせながら、キースは君の手は、と低く真剣に囁いた。
「強くつないでくれる手だと、思うよ」
「……そう、ですか?」
「そうだとも。この手はきっと、離さないでいてくれるのだと……不思議なくらい、そう思わせてくれる手だ。君の手は。安心したまえ、イワンくん。君に手を繋がれた人々はきっと、もう大丈夫だと信じて、安心してくれたに違いないよ。……そういうこと、だろう?」
なにも。煩わしく思うことなんて、なにもないのだと。そう言ってくれるキースに、イワンは自然な気持ちで微笑んだ。どうして、たったあれだけの言葉で分かられてしまうのだろう。どうして、もしかしてイワンが一番聞きたがっていたかも知れない言葉を、励ましを送ってくれるのだろう。ありがとうございます、と告げるイワンにキースは目を細めて頷いて、溜息をつくようにそっと、そっと目を細めて言葉を紡いだ。
「……イワンくんの唇は、綺麗だね」
あなたどこ見てなに考えているんですか、と叫んで咳き込んでむせるのを我慢した自分は誰かに褒められていいんじゃないだろうか、とイワンは思った。屋根の上ならばともかく、ここはすでに衆目のある格納庫の中である。幸か不幸か二人に注目する者はいなかったが、それでもまだしつこく続いている宴席から視線を向ける者くらいはいるのだ。そんな場所で、交わしたい種類の言葉ではなかった。それでも礼儀的に仕方なく、ありがとうございます、と言ったイワンに、キースはその口元をじっと見つめながら首を傾げた。
「時々、思ってはいたんだ。きれいな唇をしているな、と。荒れていないし、色や形や、動きが……なんとなく、きれいだ」
「……ありがとうございます」
女子に言ったら確実にセクハラであり、同性であろうとも適応する気がしたのだが、イワンはそれをぐっと堪えてお礼を言った。褒められてはいるのである。そして、他意はない筈だった。純粋にきれいがって、そう思って、キースは言ってくれているのだ。嬉しいか嬉しくないかで考えれば、なまぬるい笑みを浮かべながらよく分からないんで帰って寝ていいですか、と言いたくなる類の褒め言葉ではあるのだが、拒否して相手の気分を害してしまう気になれなかった。キースはイワンの葛藤に気が付くこともなく、ゆるく目を細めて唇の、皮膚の薄い辺りをじっと見つめている。
「キスは」
「はいっ?」
「誰とでも、するのかい?」
声をひっくり返しただけで留めた己の自制心を、今度こそイワンは自分で褒めた。褒めちぎった。僕偉い、頑張った、と思いながらイワンはぎこちなく手を持ち上げ、口元に押し当てて焦げ付くような視線から隠す。頬が熱い。
「な……んですか、それ」
「バーナビーくんとしていただろう? キス」
「あれはキスの中に含まれません。あれは、だって……バーナビーさんが唇を噛んじゃってて、血が出ていたので、手っ取り早く止めただけというか……挨拶ですよ、挨拶。あれは、ただの、ふつうの、挨拶です。キスじゃありません。変なこと言わないでください。それとも、僕が誰とでもキスすると?」
息が苦しい。なんだってこんなことを言わなければ、聞かれなければいけないのか、意味が分からなかった。睨みつけるように視線を向けると、こどもの癇癪を宥めたがる大人の視線で微笑まれて、神経が思い切り逆撫でられるのを感じて全身がぞわりとした。頭がぐらぐらする。なんの感情にか、白く焼き切れそうな意識を意思の力だけで繋ぎ、イワンは息を吸い込んだ。
「と、いうか」
「……言うか、なに?」
「なんで、そんなこと聞くんですか……しかも今!」
あっちで聞いてくれたら答えようだってあったんですよ、と屋根を指差して怒るイワンに、キースはごく朗らかに今思い出したんだよ、と告げる。君が手を褒めてくれたことが嬉しくて、それで唇のことを想っていたのを思い出したからね。そう囁くキースは悪気がない様子で、イワンは怒る気を無くしてしまった。これは天然だ。まごうことなき天然だ。天然すぎて話にならないくらい天然だ。もういいです、とぐったりしながら、イワンはふるふると頭を振った。はぁ、と肺まで息を吸い込む。
「とにかく、誰とでもキスなんてしませんし、あれはただの挨拶です。バーナビーさんは僕の家族になったので、あれは家族間の挨拶です。スキンシップです。含まれる感情は親愛と友情です。分かりましたか? 分かりましたね? 分かったら、もう変なこと聞かないでください」
「家族にはキスするのかい? ……くちびるに」
「じゃあ友人に挨拶のキスしたと思ってください。僕の生まれた文化圏はキスするので」
こんなこと気にする人だったかな、と訝しく思いながらさらに投げやりに言い切ったイワンに、キースはふぅん、と納得していないような声を出した。そこでイワンはなんとなく、嫌な予感が背を駆け抜けて行く。なにか重大なことを見落としている気がした。それは忘れてないけないことだった筈だ。思い出せイワン・カレリンと己の脳に命じながら深呼吸をすると、ふわりと吹いた風が酒精を含まない爽やかな朝の空気を届けてくれた。そのきっかり二秒後、イワンは先日ヘリペリデスファイナンスの技術室で読んだ『NEXT能力発動後のアルコール体勢低下研究レポート』を思い出して、意識を彼方へ飛ばしたいきもちでいっぱいになった、そのレポートによれば、NEXT能力発動後は身体細胞が活性化状態になるのだという。それはどのNEXTでも漏れなく同じであり、発動後、すくなくとも五分はアルコールをふくんだものを口にしないように、とする警告文であった筈だ。悪酔いする可能性がある、というのである。普段よりずっと少なく、場合によっては匂いだけでも酔う可能性がある、と。元の体質も関わってくるのだが、キースはそこまでアルコールに強くないことをイワンは知っていた。すこし前の事を思い出す、キースは自分だけではなく、イワンも風で浮かび上がらせ、屋根から降りてきた。そして、未だ続く祝宴の空気は酒精をたっぷりと含んでいる。それは、つまり。
「……酔ってますねっ? キースさん、酔いましたねっ?」
「お酒は一口も飲んでいないよ、イワンくん」
「アルコール飲まなくても、状況によってNEXTは酔っちゃえるんですよ……! ああもう、よく分かりました! キースさん、はい、こっち来て! ポセイドンの技術者になんとかしてもらいますから! 不可抗力だから怒られないと思います」
これはもう、保護者に引き渡してしまうしかない。そう判断してキースの腕を引いていこうとすれば、逆に手を握られてイワンは立ち止まる。振り返れば、真剣な目がイワンを見ていた。
「イワンくん」
「はい」
「イワンくんは、私にはどうして、挨拶のキスをしてくれないのかな」
そうですね。仕事仲間で尊敬する相手に普通挨拶のキスはしないからですね、ということをイワンは確かに告げたと思ったのだが、途切れた意識がみせた白昼夢であったらしい。きっかり三秒意識を失ってから覚醒して、イワンはキースの胸倉を掴みあげ、ずいっと顔を寄せて思わず絶叫した。
「してみたいんですかっ?」
「してみたい! とても!」
きらきらした、わくわくした、とても嬉しくて仕方がない笑顔で言い切られて、イワンは衝動のままに問いかけた二秒前の己を想像の中で殴り倒した。不幸中の幸いが重なり、宴席の騒がしさにかき消される形で、二人の会話は誰に届くものでもなかった。聞こうと思って耳をそばだてていない限り、言葉を交わしているのは分かっても、内容までは理解できないだろう。イワンは力の限り息を吸い込んで、吐きだして、もう一度吸い込んで吐きだして、ぐったりとキースの胸にもたれかかった。上下するそこに額をくっつけて目を閉じると、穏やかな鼓動が聞こえてくるようだった。溜息が零れていく。
「興味本位でキスするのはどうかと思いますよ、キースさん」
「バーナビーくんとはしていた」
「話を聞いてください、唇尖らせないでください、拗ねないでください……。バーナビーさんにしたからって、キースさんにもしなければいけない理由はないでしょう? ないですね? はい、よーく考えてくださいお願いですから……!」
血を吐くようなイワンの呻きにも、キースは笑顔を崩すことがなかった。イワンが好む手が伸びてきて、くしゃりと髪を乱すように撫でられる。イワンくん、と囁く声が耳に触れた。
「友人に、挨拶のキスをしてくれないかい」
「……あなたそういう文化圏のひとじゃないでしょう」
「そうだね。……駄目かい? イワンくん。どうしても、したくない? 君がどうしても嫌なら、私は諦めるよ……」
その声があまりに寂しげに響かなければ、傷ついた色さえなければ、イワンはそれを正しく拒否していることができたのに。視線を上げて出会った瞳の奥底に、薄ぼんやりとした、恐らくキース自身は自覚していないであろう孤独に怯える影を見て、イワンは息を止めて手を持ち上げた。数秒で、胸の中でたくさんの言い訳と罵倒をする。全て、己に対して。首の後ろに手を回し、頭をぐっと下に引き寄せる。触れた唇は乾いていた。
「……どうしても嫌なんてこと、ありませんよ」
ほんとうに、キースは公園で待つ彼女を想っていたのだろう。会えなくて、そのことがとても悲しくて、立ち直ったように見える今でも存在の喪失がこびり付いてしまっている。それまでそこにいてくれた人が、不意に離れてしまうことを、怖がっているだけのワガママ。腕を引いて立ち止まらせれば済むだけの話が、口付けにまで加速したのは全てイワンの行動のせいだった。友愛のキス、なんて、こんな優しい人にするべきではないのだ。一途な恋に傷ついてしまった人に、こんなキスは。
「これで、いいですか?」
「……イワンくん」
「はい」
どうしたんですか、と問う言葉が抱きしめられた体の間に消えてしまう。強く、息が苦しい程に抱き締められて、イワンはキースの背を撫でてやった。指先の震えが誤魔化せない。どうしよう、と考えて、イワンは冷静さを装って息を吸う。
「……いたい、ですよ」
「うん。……うん、すまない。もうすこしだけ」
君は優しいね、と告げられてイワンはキースから見えないからこそ微笑する。優しい相手が、こんなつけ込むような真似をするものか。確かに、特別だった相手が、自分に対して転がり落ちてくる機会を逃さずに。あいまいな気持ちのまま、手を伸ばすようなことをするものか。
「キースさん、キースさん……大丈夫ですよ。僕はちゃんと、いますから。突然会えなくなったり、しませんから」
ゆるく動かされた視線が、確かにイワンを求めてほっと和む。その瞬間、心に走った怖気立つような感覚をなんと呼べばいいのだろう。空ばかり見つめていた、そこへ飛び立つことばかりしていたひとが、地に足をつけてイワンのことを見ている。なんと呼ぼう。震えるような喜びに似た、この感情のことを。