傷心につけ込むってどう思う、と明日の天気を聞くのと同じくらいの気軽さで囁かれた言葉に、カリーナは思わず眉を寄せてオレンジジュースを吸い上げていたストローを噛んだ。隣ではパオリンが意外なことを聞いてしまったと驚きを隠さずに目をまあるくしていて、イワンの隣に腰掛けるバーナビーは口元を手で押さえて背を丸めていた。むせたらしい。ああ、ごめんねとバーナビーの背をさすって紙ナプキンを差し出してやりながら、イワンは別に今の僕たちのことじゃないからね、と苦笑する。傷心に付け込まれた自覚が十分あるバーナビーはそれにますます咳き込んで、カリーナとパオリンは困惑を積み重ねていく。四人がいるのはジャスティスタワー付近のファミリーレストランである。ちょうどトレーニング終了の時間が重なったので、すこし早めの夕食を取りにきたのだ。虎徹の姿がないのは、家族で行くのでファミリーレストランなんですよ、と柔和な笑顔でもってイワンが丁重にお引取り願ったからだ。普段ならばそんなこじつけた理由が通じる筈もないのだが、虎徹は苦笑いを浮かべて両手を降参の形にかかげ、バーナビーにまた明日な、と告げて引き下がってくれた。鈍いところもあるが、あれで案外聡い男だ。イワンが『家族』と表現した者たちだけに打ち明け、相談したいことがあると感じ取ったのかも知れなかった。このファミリーレストランはパオリンとイワンとでよく利用する場所だったので、案内されたテーブルは四人で使用するには広い者だったが、店内から訝しげな視線が向けられることがないのは、並べられた料理の数々があるからだろう。
驚きからやや抜け出したパオリンは、十人前はあるであろうそれらの攻略に戻りながら、ぱちんと瞬きをしてイワンを見つめる。僕たちのことじゃないならどういうことなんだろう、と純粋に不思議がる瞳に苦笑しながら、イワンはぜいぜいと肩を上下させているバーナビーの前から飲み物の入ったグラスを遠ざけ、うん、とゆるく首を傾げた。
「ちょっとね、傷心に付け込んじゃったんだよね……悪いかな、とは思ったんだけど。どうしても欲しくなっちゃったっていうか……ああ、僕ってこういう独占欲あったんだなぁっていうか。っていうか……うん。どうしよ」
「どうしよ、じゃないわよ! ちょっと! 誰になにしたの?」
「カリーナ。食事中にテーブルを叩いたらいけません」
落ち着きを取り戻したバーナビーの、第一声がそれである。呼吸を整える途中の苦しげな声で囁かれたので、よっぽど不満であったらしい。カリーナはむっと眉を寄せながらもごめんね、と言ってやり、ため息をつくイワンを改めて睨みつける。
「で? どういうことなのよ」
「んー? ……いや、そのままなんだけどね」
「先輩は、誰の傷心につけこんできちゃったんですか?」
言葉を濁すイワンに、まったく正直な疑問でバーナビーが問いかける。一度目の衝撃から抜け出せばそれなりに柔軟な精神を持つ若者であるから、大前提となるそこが気になったらしい。もう呼吸大丈夫なの、と柔らかな響きで確認してから、イワンは本日二度目の衝撃を、そっとそーっと場に転がした。
「キースさん」
ごくん、と口に含んでいたものを一気に全部飲み込んで、パオリンは耳にした言葉を頭の中で吟味する。少女の知る『キースさん』はこの街にたった一人である。そしてイワンの知り合いの中にも、その呼び名を持って囁かれるのは一人だけだろう。キースさん、とその言葉を始めて聞いたような新鮮な気持ちで繰り返し、パオリンは息を吸い込んだ。思考がやや停止していることは自覚できたが、動かないのでどうすることもできなかった。自分のものではないかのように、言葉が滑りだす。
「……って、どのキースさん?」
「キース・グッドマンさん。僕らの風の魔術師」
「アンタなにしてんのよおおおおおっ!」
思わず店内に響かせたカリーナの叫びこそ、絶句したバーナビーの本音であり、パオリンの眩暈の原因だった。世の中にキースと呼ばれる存在は何人かいるだろうが、そこまで指定されてしまえばもう間違えようがない。キース・グッドマン。スカイハイ。彼らの同僚である。イワンはカリーナの叫びによって店内がしんと静まり返ったのを十分に理解しつつ、声を潜めることもせずため息をついた。最近、イワンの幸せは逃げっぱなしだが、もう何回逃亡したのかを気にする心の余裕がない。
「そうだねー……なにしてるんだろうねー、僕」
「……あの、先輩。ちょっと衝撃的過ぎてよく分からなかったんですが。なんで、そんなことになってるんですか……?」
「正直に言うと、かっとなってやった」
犯罪の告白のような言葉だが、イワンの心境はまさしくそれに等しい。なんで僕あんなことしちゃったんだろうね、と遠い目で呟くイワンの耳に、復活した店内のざわめきがゆるゆると慰めるように届けられた。慰められると悲しくなるので、言わんは息を吐きだした。今にも頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまいそうなイワンを見つめ、パオリンが恐々と問いかける。
「キース、さんに?」
「うん」
「な、なにをしちゃった、の? 付け込んだって、えっと」
停止した思考は想像の余地すら奪った為、パオリンにはもうなにがなんだか分からないのだろう。もうちょっと具体的に言ってくれないと分かんないよ、と半分泣きそうになりながら問いかけるパオリンに、カリーナはお願いだから聞かないで、と思い、イワンには良いからなにも言うんじゃないわよ、と思ったのだが。女子高生の、なんだか世の中に絶望しそうな表情の意味を理解していてなお、イワンはため息に乗せて言葉を囁く。結局は懺悔を聞いて欲しくて食事に誘ったので、つつましく口を閉じているという選択肢ははじめから存在していない。
「キスしちゃった」
「アンタは! だから! なにしてんのよーっ!」
叫ぶカリーナの声はなんとなく涙混じりだったが、イワンも許されるのならちょっと泣きたい気持ちだ。ヘリペリデスファイナンスの技術部に早急にタイムマシンを開発してください過去に戻って自分を絞め殺してくるので、と依頼はしてあるが、可哀想なものを見る目で休暇を言い渡されたので開発は進まないままに違いない。だってさぁ、とイワンはコーヒーカップを引き寄せ、唇に押し当てながら呟く。
「キースさん、僕のくちびるがきれいとか、キスして欲しいとか言うんだもん。……キースさん、酔ってたけど」
「傷心に付け込んだあげく、相手がよっぱらいとか……やりますね、先輩」
「ありがとう、バーナビーさん。褒められてると思い込むね。なんか死にたくなるから」
純粋に感心して言ったバーナビーにそっと微笑んで告げ、イワンは冷えてしまったコーヒーで喉をうるおした。あまりおいしいとは思えないが、気分には合っているので吐き出す気にもなれない。カップに残っていた分を飲み干して、イワンはぐったりとテーブルに身を投げ出した。
「どうしよう……あれから、会うたびにキスしないのかい? って聞いてくるんだよね……」
「ボクにはなにが問題なのか分からなくなってきたんだけど……同意の上なら問題ないんじゃないかなぁ」
なんか聞いてると両思いっぽいっていうか、キースさんまったく嫌がってないみたいだし、積極的だし、と気を取り直して食事を続行することにしたパオリンの、たくましい声が告げる。カリーナはさじが手元にあったらイワンの顔面めがけて投げつけたいような顔をして、お手上げ、とばかり肩をすくめた。
「私も、同感。それってなにか問題ある?」
「あるよ。キースさんにしてみれば友情の、友人同士の挨拶だもん」
「もうアンタと会話したくなくなってきたんだけど、お願いだから、ちょっと、私に分かるような言語で最初から説明しなおしてくれない? なにがなにで、なんでそんなことになってるのよ。ぜんっぜん! 意味が! わかんない!」
そこで面倒くさがりながらも相手を理解しようとしてくれるのが、カリーナの優しいところだ。カリーナありがとう結婚して、とうめくイワンの頭を平手ではたき、少女はいいから説明、と睨みつけてくる。バーナビーは会話に耳を傾ける姿勢でありながらも、口を挟むことをしたがらない様子で料理に手を伸ばしていた。後輩にとって扱いにくい話題であることは承知していたので咎めもせず、イワンはことの始まりからを丁寧に説明していく。最大の問題はイワンがバーナビーにキスをしたことで、それをキースに目撃されていたことだが、過去を振り返っても仕方がない。やってしまったことはやってしまったことで、バーナビーについての結果はすでに落ち着いているのである。だからこそ、それを後悔している訳ではないと最初に告げて、イワンは先日の格納庫での会話をまとめてカリーナに告げた。うんうん、うんうん、とやや適当に頷きながらも最後まで聞き終え、カリーナは少女らしかぬ仕草で額にてのひらを押し当て、そのまま動かなくなってしまう。
「……大事なこと聞くけど」
「うん。なに?」
「アンタ、キースのこと好きなの? 好きっていうのはその、つまり……そういう意味で、よ」
その気持ちだけあれば諸々の問題から視線をそらして納得できないこともない、という苦渋の結論がにじむ声だった。しかしまさしく、イワンが悩んでいるのもそこなのである。イワンは困りきった声をあげて、そっとカリーナから視線をそらした。
「好き、だとは思うし、特別だとも思ってるんだけど……そういう意味までかどうかは、僕にもちょっと」
「自分の気持ちでしょ?」
「自分の気持ちだからこそ、だよ。キスしても良いと思うし、独占欲が満たされて気持ちよくなったりするけど、これってもしかしてただの征服欲かなー、とも思うし。だからつまり、恋かどうかって言われると……グレーゾーン」
サイテー、とぐったりした声で告げるカリーナに、イワンも深く同意して頷いた。ちょっと他に言葉が見つからないくらい最低で最悪だとも思うが、現実としてイワンは、己の気持ちに当てはめることのできる言葉を持たないのだ。恋か、と問われればそうかもしれないとは思う。けれども、恋ではないと否定されても、それに対して違うと告げることはきっとできない。イワンは個人的にキースのことを気に入っているが、それは前からのことであり、急激に好意が増したという自覚もない。今であってもキースはイワンにとって友人であり、同僚であり、尊敬するヒーローであり続けているのだ。関係性を定められない不確定な気持ちがひとつ、加わってしまったけれど。ううぅ、と困りきった声を出し、イワンはだから、と無理やりに会話をまとめてしまう。
「えっと……どうしたらいいかなって、ことなんだけど」
「僕たちがどうにかしていいなら、それなりにどうにかしますけど……」
「イワンさん、それで例えばボクたちがなんかしてキースがそういうこと言わなくなったりして、モヤモヤしたりイライラしたり、しない? しないんだったらボクとカリーナでちょっと頑張ってみるよ?」
私を巻き込まないでとカリーナが見てくるのを無視して問いかけてきたパオリンに、イワンは今度こそぐったりと机に突っ伏し、動けなくなった。十秒待っても、二十秒待っても、パオリンの問いの答えは響かない。つまりはそういうことである。苦笑気味に息を吐き出し、バーナビーはイワンの頭を撫でてやった。
「複雑ですね、先輩」
「もう……嫌だ。どうしよう」
「なるようにしかなりませんよ。でもまあ、とりあえず」
ん、と鈍い動きで顔をあげたイワンに、バーナビーはにっこりと微笑みかける。楽しそうな笑顔だった。
「気持ちに答えは、出しましょう?」
「うん、そこは大事だよ! 頑張って! イワンさん」
「ってゆーか、もう好きってことでいいんじゃないの? 好きってことで納得しとくのが一番だと思う。恋愛じゃないにしても、友情ちょっと超え、みたいな感じで」
変にちゃんとした感じで決めようとするから訳わかんなくなるのよ、と眉を寄せて囁き、カリーナはオレンジジュースを吸い上げた。氷が溶けて薄まってしまった液体はまずくはないが、おいしくもない。水分の摂取の為だけに飲みきって、カリーナは新しい注文をすべくウエイトレスを呼び、チョコレートパフェを追加した。頭が痛くなるくらい疲れたので、こういう時は甘いものに限るのである。ここ、今日はアンタのおごりだからね、と告げられて、イワンは最初からそのつもりだよとため息をついた。ファミリーレストランに入って、すでに二十回くらい幸せを逃がしている。イワンの元に、まだ逃げる幸せが残っていればの話である。
ロッカールームの扉を開けた瞬間にキースと目が合ったイワンは、反射的に微笑んでから、しまった帰りたいと思った。頭の中で他の男性ヒーローのスケジュールを考えてみるも、タイガー&バーナビーは仲良く病院で定期健診、アントニオは会社のキャンペーンで今日は一日こちらには来ないことになっている。つまりイワンが手早く着替えてロッカールームからトレーニングルームに移動するか、キースが気分的な問題で今日はいいやと思ってくれない限り、朝の挨拶というキスから逃れる手段がないのだった。他に人がいれば、いくらでも誤魔化して逃げてしまえるのだが。目が合った上で扉を閉めて遠ざかれば、キースはとりあえず追いかけてきてイワンを捕まえてしまう、というのはすでに過去に経験していた為、諦めて後ろ手に扉を閉める。おはようございます、と囁いた声はどんよりとしていて自分の耳にでさえ嬉しそうには聞こえなかったので、キースがあどけなく首をかしげるのが見えた。体調でも悪いのかい、と問いかけられ、精神的にだいぶと返しながら折紙サイクロン専用のロッカーを開く。スカイハイのものと隣り合わせに設置されていないことを、ここ数日でどれくらい感謝したか分からない。ロッカーの中に荷物を適当に放りこんでいると、背中にわくわくしているような、どきどきしているような、期待に満ちたきらきらの視線が絶え間なく注がれるのを感じたが、イワンは振り返らなかった。耳をぴんと立て、尻尾をぱたぱた、ぱたぱた振って『まだかな? そしてまだかな?』と良い子で待っている犬のように感じるが、愛らしさに負けて振り返れば後悔するのはイワンである。純粋な存在をたぶらかしている罪悪感はそう消えるものではなく、おそらくは昼食くらいまで延々と落ち込んで、カリーナにうっとおしいと眉を寄せられるのが確実だった。
「……キースさん」
ロッカーの扉を手で掴んだまま、イワンはため息交じりにキースの名を呼ぶ。キースはにこにこと笑って両手を上にあげ、それはそれは嬉しそうになんだい、と言った。イワンくんが話しかけてくれた、嬉しいな、と思っているのが分かりやすすぎる仕草だ。胃の痛みを感じながら、イワンは振り返るな僕、と己に言い聞かせつつ口を開いた。
「僕を待っていてくれなくていいですよ。お先に、トレーニングルームへどうぞ」
「待っていたいんだ。だめかな?」
「……駄目という、ほどのことは、ないんですが」
そんな落ち込んだ声でそっと問いかけられて、イワンは心臓が痛むような気すらしながらぎこちなく言葉を重ねた。うん、と嬉しげな頷き声。じゃあ待っているよ、ゆっくり着替えてくれて構わないからね、と囁かれてしまって、イワンはとうとうキースのことを振り返って見た。ジャケットを脱ぐことすらせず、着替える素振りもないイワンのことを、キースは首を傾げ、ベンチにちょこんと腰を下ろして姿勢正しく見守っていた。
「……あのですね?」
イワンくん、と呼びかけられるより早く、イワンは決意がぐらつかないよう、努めて息を吸い込んだ。
「知っているとは思いますが、シュテルンビルトでは一般的に、家族でもない同性同士で挨拶のキスをしません」
「そうだね。でも私は、イワンくんのキスが好きだよ。朝の挨拶に、キスしてもらいたいと思う。いけないかな?」
「い、いけないという、ほどのことでも……ないんですが」
分かっている。全部、原因はイワンにあるのだ。駄目と怒ってやることをしなければ、いけないんですと言い聞かせることもできない。キースは常にイワンに判断を委ねてくるので、決めているのはこちらの意思なのだった。じゃあ問題はないね、と笑って両腕を広げてくるキースに、イワンは心からの自己嫌悪の溜息をつき、ロッカーの前から離れてその腕の中へ歩んで行く。キースはベンチから立ち上がらない。嬉しそうにイワンの腰に手を回して引き寄せるだけで、にこにことキスを待っている。動かないでくださいね、と囁いて、イワンはキースの肩に指先だけを触れさせた。体を傾けて目を細め、そっと額に唇を掠めさせる。くすぐったそうに笑うキースの両頬に、さらに一度ずつ、唇を触れさせて体を離した。
「はい、終わり」
「……唇にはしないのかい?」
「唇にはしないんです。……挨拶じゃなくて、それだと普通にキスになるでしょう? だから、これでおしまい」
聞きわけてくださいね、と腰を抱き寄せている腕を叩くと、キースはしぶしぶと言った風に手を外してくれたので、イワンはまっすぐにロッカーへ歩み寄り、今度こそジャケットを脱ぎ捨てた。そのまま黒のタンクトップも脱ぎ、トレーニングウェアに袖を通したところでPDAが着信を告げる。確認すると、ヘリペリデスファイナンス技術部からの通信だった。
「はい、イワンです」
『キリサトです! あ、着替え終わっちゃってたか……イワンくん、あの、今から戻ってきて欲しいんですけど』
なにがあるので、と目的を明確にしない物言いは、キリサトにしては珍しい。不思議そうに首を傾げ、イワンは頭の中で本日のスケジュールを確認した。折紙サイクロンのスーツチェックは昨日終わっていた筈だし、定期健診の予定日は明後日だ。イワン本人を必要とするような新しい武器の開発が進んでいるようすもなく、スーツに追加機能をつける相談をされた覚えもなければ、書類の出し忘れや始末書が必要なミスにも心当たりはない。急なキャンペーンかとも思うが、それならばキリサトではなくCEOから直に呼び出しがかかる筈である。
「なにがあったんですか? 事故?」
『そうですね、ある意味事故です。で、イワンくん? 戻って来られます? 来られません? できれば今すぐ来て欲しいんですけど、今日中に来てくれるなら我慢して待ってます』
「いえ、戻れます。……すぐ行きますからね」
だから不機嫌なのやめてください、と言外に告げれば、その意をしっかりと読みとったキリサトは苦笑いを浮かべた。
『ごめんなさい、イワンくんが悪いんじゃないのは分かってるんですが……帰ってくるまでに気持ち落ちつけておきます』
「……僕、なにかしました? 事故って」
『や、事故っていうのは言葉のあやで、正確に言うと全然違うんですけどー。うーん、まあ、とにかく帰って来られるなら来てください。大丈夫。別に怒ったり叱ったりするわけじゃなくて、強いて言えば事情聴取ですから。怖くないですよー?』
事情聴取の時点で不穏なものを感じるのだが、イワンは黙って頷いた。従順な様子にキリサトは満足げに頷き、それではあとで、と通信を切ってしまう。
「帰るのかい?」
小声での会話でもなかったので、聞こえていたのだろう。一足先にトレーニングルームへと向かおうとしていたキースが立ち止まり、振り返るようにして尋ねてくる。それにひらりと手を振って頷き、イワンは苦笑気味にまた明日、と言った。今日はもう、戻って来れる気がしなかった。キースは残念そうに頷き、また明日、と言い返してトレーニングルームを出て行く。その背を見送って、イワンはずるずるとその場に座りこんだ。すごく嫌な予感がするのは、きっと気のせいではない筈だ。
「……悪いことしてるの、バレたかも」
技術部の仕事のひとつに、イワンの体調管理がある。彼らは定期的に血液検査も実施しているので、体調の悪化に敏感であるし、精神的な揺らぎも見逃さず把握してくれている。大体の場合、それは信頼の元に見守るという手段で回復を待たれるのだが、キリサトがわざわざ連絡してきたことを考えれば、早急に手を打つ必要があると判断されたのだろう。少女の口ぶりは、まだその事実を己の胸ひとつに留めているようだったが、悪化するようであればイワンの不調は全体に共有される事実として情報に乗せられるだろう。数値は見ていないが、イワンは感覚として己の体調を把握している。NEXT能力との親和性が、徐々に上がってきている。それはエドワードがいなくなってからの不調に最もよく似た感覚であり、能力がコントロールを失う先触れだった。心を落ちつかせなければいけない。
「……キリサトさんに、なんて言おう」
想いに付ける名すら、未だ分からないままなのに。不安定になる揺らぎの原因は、しっかり分かっているのだった。溜息をついてイワンは立ち上がり、ふらふらとヘリペリデスファイナンスへ向かう。出迎えたキリサトは予想通りの結果をイワンに突き付け、しばらく安静にしていてくださいね、と告げた。
そういうことなので、しばらく能力は使わないことにしました、と宣言されて、バーナビーは思わず首を傾げてしまった。折紙サイクロンは、そもそもヒーロー活動においてNEXT能力を使用していない。人命救助も犯人確保も、陽動や潜伏が必要な時を除けば、NEXT能力なしで行っているのが常である。イワンの能力が、それを発動させたからといって補助になるようなものではないのが使わない理由だが、一番は広告が映像に映らなくなるからだ。折紙サイクロンは見切れヒーローで、広告塔である。その事実を十分に知っているからこそ、バーナビーは言葉を吟味してなお上手く理解できずに、はぁ、と生返事を響かせた。ぱちぱち、と瞬きをして、尋ねる。
「分かりましたが……今、その宣言って必要でした?」
「うん? うん、だから、調査するのに虫とかに擬態して探ってくることできなくなったよっていう、報告。かな?」
まあ不安定になってるって言っても感覚的に全然不安な感じしないし、普通に使えてるから大丈夫なんだけどね、と言い添えたイワンに、やっとバーナビーは納得の頷きをみせた。二人がいるのは、トレーニングルームに通じるロッカールームである。部屋の入口には鍵がかけられており、トレーニングルームに接続している扉も同じく施錠されていた。トレーニング中のアントニオとキースにはあらかじめ断っているので、なにかあればノックがされるだろう。三十分だけの約束で密室にしたロッカールームで、二人は顔を合わせて語り合うでもなく、それぞれ壁や床、天井やロッカーの隙間などを覗き込み、盗聴器とカメラのチェックをしていた。専用の機械を使用して調べても異常なしが分かった為、イワンはほっと胸を撫で下ろす。すくなくともロッカールームは安全で、会話も映像もどこにも漏れていなかった。ほぼ毎朝、もしくは毎日、キースに口付けを迫らせて断りきれない映像やら会話が外部に流出していた場合、イワンは社会的にも精神的にも肉体的にも死ぬところだった。ロッカールームのチェック完了、異常なし、を専用の回線でヘリペリデスファイナンスへ報告し、イワンは扉の鍵を開けた。もう入っても大丈夫ですよ、とトレーニングルームに声をかけてから再び扉を閉め、ソファに座るバーナビーの隣に腰かける。
「本当はトレーニングルームのチェックもしなきゃいけないんだけどね……まだ他のヒーローに情報出さないようにって言われてるから、難しいな。アポロンメディアは、最近はどうですか? なにかおかしいなって思うこと、ありました?」
「リサさんが自宅謹慎になりました」
「……へ?」
思わず気の抜けた声を出してしまったイワンに、バーナビーは唇を尖らせて、ですから、と告げる。
「リサさんです。アポロンメディアヒーロー事業部技術者Bチーム、主任技術者のリサ・パタースン。彼女が、この間の騒ぎの責任を取らされて自宅謹慎処分になりました」
「この間のって……バーナビーさんの、行方不明の?」
「はい。会社にはちゃんと、ちゃんとなのかな……? 説明、というか。僕のその時の状態も合わせて報告をしたらしいんですが、悪質な悪戯めいているということと、立場を悪用した行為だとされて……解雇直前だったんですが、僕からもマーベリックさんにお願いして自宅謹慎ということにしてもらいました」
おかげで現在、アポロンメディアヒーロー事業部は不満と混乱で大荒れで、大変なことになっています、と。遠い目をしてバーナビーは呟き、イワンは額に強く手を押し当てた。致し方ない処分であると、思えなくもない。確かに彼女はバーナビーを守る為とはいえど七大企業に混乱を与え、その身を完全に隠し通した。自社のCEOにすら徹底して情報を与えなかった手際は見事の一言であり、しかし通常はありえないことである。それを実行する為に使われたのはヒーロー技術部の機材であることは動かぬ事実で、職権乱用であることも、また間違いはない。それでも不穏なものを感じて眉を寄せるイワンに、バーナビーは深々と溜息をつき、首を振った。
「虎徹さんのことで、技術部には色々ご迷惑をおかけしてるのに……今回のことも、すごく申し訳なくて」
「あれ、そういえば今日、タイガーさんは?」
「病院に、楓ちゃんと一緒に。リサさんがこういう状況なので、先輩のキリサトさんが同行して詳しい説明や補足をしてくれるって聞いてましたが……」
バーナビーがやや心配そうなのは、虎徹と技術者の少女の相性がいまいち良くないせいだろう。少女の遠慮のない率直なものいいはちょくちょく虎徹の怒りを買うし、それを分かっていてキリサトは発言を慎むことがない。ああいうタイプがあんまり好きじゃなくてあんまり得意じゃなくてついでに言うとちょっと怖いんですよー、とキリサトが朝から文句を言っていた理由が判明して、イワンは思わず苦笑いを浮かべた。まあ、こと仕事に関しては完璧以上にやり遂げてくる相手だ。それについての心配はしていないが、怒らせていないかどうかが気にかかった。後でメールでもしてみよう、と思いながらそうですかと頷いて、イワンはそわそわしているバーナビーに問いかける。
「最近の調子は、どうなんですか?」
虎徹の能力発動にドクターストップがかかっているということは、すなわちヒーロー活動休業中を意味していた。イワンとはトレーニングルームでも顔を合わせるが、時間がずれることも多く、現場で会えないとなると会話を交わす機会もぐっと減ってくるのだ。見た感じは元気そうだったと思いますがと囁かれ、バーナビーは考え込みながら口を開く。
「先週の定期検診だと、エヌイー値が一時期と比べて減少していて、安定傾向にあるとは言われていました。ただ、安定したからすぐに能力の持続時間が回復するとも限らないそうで、やっぱりもうすこし様子を見ないと駄目ですね……。あ、でも、発動時間減少はストップしてます。ここ二週間は、一秒の減少もなし。虎徹さんも、なんだか安心していたみたいです」
「そう、よかった。……楓さん? の、様子は?」
「楓ちゃんも、週末にせっせと通ってくれていますし、今日も出てきてくれて……こちらも、能力は一時期に比べれば無差別発動しなくなりましたが……全然、まったく、これっぽっちも安定していませんね。中学からはヒーローアカデミーに入学する、という方向で話し合いも終わっていますし、面接もすでに終わって内定してますから、入学までにせめて自分の意思で能力のオン・オフができるくらいのコントロールは身につけさせてあげたいんですけど……難しいかな」
こっちは虎徹さんと違ってエヌイー値自体は高い数値であっても安定してるんですけどね、と溜息をつくバーナビーに、イワンはふぅん、と頷いた。虎徹の娘、楓に現れたNEXT能力は一言で表すのならコピーである。NEXT能力の、コピー能力。NEXT能力者に触れることにより、その能力をそのまま移し取り、発現させることのできる稀有な力だった。イワンのものと似ているようで、全く違う異質な力である。楓はそれを扱いあぐねているらしく、能力をコピーしてしまうのも自分の意思ではなく能力が勝手に行い、発動時間も、持続時間もばらばらで全く扱えていない状態なのだった。怖いねぇ、とげっそりとイワンは溜息をつき、怖いですよね、とバーナビーは遠い目になる。そして、本人が前向きで頑張りやさんなポジティブ思考なのが本当に救いで奇跡のようです、と言い添えた。