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「本当にいいこなんですよ、楓ちゃん。僕や、虎徹さんの方が焦ってしまうくらいで、落ち着いてるっていうか。アカデミーの入学がすでに許可されてるっていうのも大きいと思うんですが、そんなに心配しなくても大丈夫。お医者さまも体に害はとりあえず、たぶんないって言ってたし、アカデミーに行けば能力コントロールの方法とかも教えてくれるんでしょう? 今焦ったってどうすることもできないんだし、落ち着いてよって」
「……バーナビーさん、そんなに落ち着けてないの?」
「……怪我でもしたらどうしようって思うじゃないですか」
 だってこんなに可愛い女の子なんですよっ、と一息に叫び、バーナビーは流れるような動作で携帯電話をイワンに向かって突き出した。待ち受け画面には、はにかんだ笑顔の少女が映し出されている。すこし前まではワイルドタイガーのスーツが待ち受け画像だった筈なのに、いつの間に変更されたのだろうか。確かに愛らしい少女ではあったので、イワンは素直にうんと頷き、可愛いね、と呟いた。でしょう、と自分の手柄のように喜んで、バーナビーはカチカチと携帯を操作する。
「もう、あんまり可愛くて、毎日待ち受けの写真入れ替えてるんですよ。虎徹さんに、俺だってそこまではしなかったとか言われたけど、あの人、楓ちゃんに対する愛が足りないんじゃないですか? ふふ、明日はどれにしようかな……!」
「一応聞くけど、恋なの? 父性なの?」
「父性です! 世の親ばかと呼ばれる父親の気持ちがはじめて分かりました。楓ちゃんはお嫁さんになど出しません」
 確か、バーナビーは今も現役で虎徹の恋人であった筈である。すこし前に自然破局しかかっていた気がしなくもないが、楓がシュテルンビルトに週末ごと通うようになってからは正式に紹介され、今は住まいも同じにして暮らしている筈なのだった。ふーん、とどうでもよさそうにあいづちを打って、イワンはさて、と天井を眺める。ロッカールームの安全は確保した。なら、次にするべきことがある。
「バーナビーさん」
「はい、先輩」
「配線チェック、しようか。……見取り図貰って来た?」
 七大企業を襲ったハッキングがこのジャスティスタワーからではない、という証拠はまだ上がっていない。未だ疑いは濃厚なままなのである。だからこその問いかけに、バーナビーは笑顔で頷き、マーベリックさんに適当に理由をつけて頼んで来ました、と囁く。その後で、オデュッセウスコミュニケーションズにも。設計した者と、配線に関わった者。その二つの図面をちゃんと手に入れて来ましたよ、と告げるバーナビーによし、と頷いてイワンは立ち上がった。分かりやすく差異があればいいが、相手がそこまで間抜けだとも思えない。
「ちょっと、頑張って調べなきゃね」
「はい、先輩。……隠し部屋、見つけてしまいましょうね」
 すでにバーナビーは、ここになにかがあるつもりで話を進めている。苦笑いを浮かべて、イワンは後輩に手を差し伸べた。
「バーナビーさん」
「はい」
「……僕は、君の家族だからね。なにがあっても」
 たとえ、君の養父であったひとが、君のことを裏切っていたとしても。家族だから、ずっと傍にいるよ。大丈夫だからね、と囁くイワンに、バーナビーはくしゃくしゃに顔を笑み崩して。はい、と頷いて、差し出された手を強く握った。ぎゅー、と手を繋いで笑いあっていると、トレーニングルームへ続く扉が開く。もういいかい、とひょこりと顔を出したのはキースだった。いいですよ、と微笑んで入室を許可したイワンに対して、しまったとでも言いそうに気配を強張らせたのはバーナビーである。さすがに外見を取り繕うことに慣れ切った青年だからか、顔に出さないから分かりにくいが、それでも手が触れすぐ近くにいるイワンに伝わらない変化ではない。バーナビーさん、キースさんのこと苦手だっけ、そんなことはない筈だけど、と考えていると、繋いだ手の中で青年の指先がもぞりと動く。先輩、せんぱい、とちいさく掠れた声がそっと、イワンのことを呼んだ。
「もう大丈夫ですから……はやく、手、離した方が」
「うん?」
 もう手遅れだとは思うんですが、とバーナビーが言い添えた瞬間、ふわ、と動いた室内の空気がイワンの体を抱きしめるように吹いて行く。こんな風を、イワンはひとつしか知らない。なに能力発動させているんですかと訝しげに視線を向けてしまったことを、イワンは心底後悔した。バーナビーの勧めに従って繋いだ手をゆっくりと解きながら、ぎこちなく問いかける。
「なんで……拗ねてるんです、か……? キースさん……?」
「バーナビーくんと手を繋いでいる!」
 びしっ、と手を指差して言いつけるように叫ばれても、イワンはそうですね、としか返す言葉を持たなかった。トレーニングルームに続く扉を開けはなち、そこに立ったまま、キースはむくれきったこどものような顔をして二人のことを見ていた。
「イワンくん!」
「はい」
「私とも手を繋ごう! それがいい!」
 自分で提案しておいて、素晴らしい思いつきだと思ったのだろう。それだ、とばかり輝きはじめる笑顔からそれとなく視線を外し、イワンはどうしようと言わんばかり首を振った。
「キースさん。……なんでこの間から、そうやって、バーナビーさんに対抗意識燃やしちゃうんですか。大人げない」
「イワンくんが、私と手を繋いでくれればいいのだよ?」
「やらない僕がいけないみたいな言い方される意味が……!」
 もう、そうやってすぐだだをこねて、と告げるような大人の対応めいた声を出されて、イワンは座っていたベンチから立ち上がることなく、その場で勢いよく頭を抱え込んだ。こんな人だっただろうか、と考えるが、そう言えば以前から心まっすぐに正直に素直に飾り気のない言葉で心に抱く感情をそのまま告げることに長けた人ではあったという事実を思い出し、イワンは床にごろごろ転がって壁に激突して動かなくなりたい気分になった。つまり、心からまっすぐな気持ちで、すごく素直な感情として、キースはイワンと手を繋ぎたがっているのだ。
「イワンくん?」
 そんな柔らかな音で、声で、イワンの名を呼ぶひとはキースだけだった。すぐ傍にいた筈のバーナビーがそーっと体を離して安全圏へ逃げて行くのを感じながら恨めしく視線をあげると、いつの間に傍まで歩み寄っていたのか、不思議そうにキースがイワンの顔を覗き込んでいる。
「どうかしたのかい?」
「全方位的に僕の台詞です、それ。……ねえ、いいですか、キースさん。僕はあなたと手を繋がなくても、挨拶でキスしなくても、あなたにとって良い友人である自信がありますし、ちゃんと傍にいますしキースさんのことが大好きですし、キースさんを尊敬しています……会えなくなってしまった彼女みたいに、あなたの傍から急にいなくなることは、ありませんよ」
 ある程度の覚悟を持って告げたイワンに、キースはにこ、と笑みを深めてみせた。イワンくんは、と柔らかな風に似た印象の声が、そっと名を紡いでくすくすと笑う。
「優しいね、とても」
「……そうでしょうか。僕は、そうは思いませんけれど」
「優しいよ。君は私が望むかぎり、私が望むような友人でいてくれるんだろう? ……イワンくん、だったら、手を繋いでいてくれないか。ね? 君の手が、すごく好きだよ」
 唇も、と言って伸びてきた指先が、イワンの口唇にたどっていく。上唇の形をなぞり、一度は頬の丸みを愛でた手が、離れる仕草で下唇の端にもゆるりと触れた。触れた指先に口付けて笑うキースの笑みは穏やかで、恐らく、本当に特別な意味などないのだろう。好きなものに触れ、それを喜ぶだけの仕草。眩暈が、する。息が苦しくなる程に荒れる感情に、それでもまだ、名前がつけられない。これは恋だろうか。恋と呼べるくらい綺麗なものではないのに、それでも、その言葉を当てはめていいのだろうか。手を伸ばして、差し出された指先に触れる。望まれるままにぎゅっと強く繋ぎ合わせれば、キースはふふ、と嬉しくてたまらないように笑み零し、温かい指でイワンの手の甲を包んだ。イワンくん、と名が呼ばれる。はい、と返す為に息を吸い込み、顔をあげて、そうしてイワンは気が付いた。
「……キースさん」
 その、良く晴れた空色の瞳。彼が手を伸ばし求め続ける透明な大気の、さらにさらに奥。ありとあらゆるものが透き通り、凍りつく、薄く透明な気圏のような色をした、福音そのもののような瞳が、まっすぐにイワンのことを見つめている。手を、繋いで。地に繋いだ体で、空ではなく、イワンを見ようとして、その瞳に映しだしている。鼻の奥がつんと痛んだ。息を吸って意識を逃がそうとしても、その瞬間に背骨を這いあがる怖気立つ程の喜びに、最後の逃げ場すら奪われたことを、知った。諦めよう。これは、恋だ。このひとを地に繋ぎとめてしまいたいくらい、そのことを喜びだと思ってしまくらい、そのことに吐き気を覚えてしまうくらい、矛盾して混乱した気持ちだけれど。飛び立たせたいと思うことも、本当なのに。差し出す手にそっと降りてくれることが、重力に繋ぎとめてしまうことが、この上なく安心する。飛び立たないで。どこかへ行ってしまわないで。どこかへ行ってしまうとしたら必ず、この手の先へ戻ってきて欲しい。繋いだ手に力を込めて、イワンは問う。
「なら……降りてきてくれますか、どんな時も。空から……あなたの降りる場所になるから。手を出したら、繋いでくれますか? ……離してあげられなくなるかも……しれないけど」
「うん。いいよ」
「……キースさん、考えて返事してくださいね」
 まったくあなたは、と苦笑するイワンに身を傾けて、キースは笑いながらその額に口付けた。驚きに見開かれる目を間近で覗き込み、前髪を触れ合わせる距離で、キースはにこにこと嬉しそうに笑った。手を繋いだままで。離そうとはしないで。
「大丈夫だよ、イワンくん」
「な……にが」
 なにが大丈夫なのか。そして、今なにが起きたのか。両方を理解しない顔つきで瞬きをして身を強張らせるイワンに、キースはそっと目を細めてみせた。ふわり、と風が揺れ動く。
「君が繋ぐ手は、きっと」
 私を空へ飛ばしてくれるものだから、と。囁かれ、告げられて、イワンはゆるく首を振って苦笑した。



 足元には、人工的な星の川が流れている。車のテールランプは右と左に別れそれぞれ一方向へ流れて行くから、まるで星明かりの渦の中心へ向かうものと、満ち足りて出て行くものの列を眺めているようだった。シュテルンビルトは夜も眩く、闇の中でこそなお煌く都市だった。三層に分かれた街の、一番上からきらびやかに、下へ向かうにつれ夜空から切り離された闇がしっとりと人々の眠りを連れて横たわる様子は、この街独特のもので、胸のざわめきと共にどこか落ちつかない気分を連れてやってくる。眠らない都市の足場には、確かに寝息が響き渡っているのだ。スカイハイはその三階層をくるくると飛び回りながら見慣れた景色に目を細め、なにごともないことに喜んで、ごう、と風を切って天空まで上った。ぐんぐん高度を上げていき、息が苦しくなる寸前の高さで止まると、足元に落っこちた大きな王冠のような都市をぼんやりと眺める。メダイユ地区をぐるりと取り囲むようにデザインされた階層都市の、外枠をゆるゆると揺れる光が移動しているのが見えた。車の明り。あるいは、ネオンの光。ぽっかりと黒く闇に沈む中心部分は、それでもちらちらと瞬く光点を目に確認させたが、そびえ立つビルの姿を認識させるには至らなかった。七大企業のどのビルも、中心にそびえ立つジャスティスタワーも、正確な形を分からせない。黒い闇に沈んでいる。根源的な恐怖が胸を落ち着かなくざわめかせるが、そこが今日は平和であることを、スカイハイは確かめてきたばかりだった。大丈夫だ、と言い聞かせ、キースはふと天を見上げた。地上からではネオンの光に遮られてしまって届かない星の輝きが、すぐ近くに存在している。手を伸ばしても届く筈はないのだが、そっと触れるように指先を星に向かって差し出して、キースは響かない声でおやすみ、と言った。さあ、今夜のパトロールは、これで終わりにしよう。
 加速の為のジェットパックのスイッチを切れば、風で浮かせているキースの体にも重力の洗礼はやってくる。下へ、下へ引っ張られて落下していく体を上へと吹かせる風で調節しながら、ゆっくりとキースは高度をさげて行った。暗闇の中に沈み込んでいた都市が、急激に形を取り戻して行く。ある程度の距離になった所で再びジェットパックを起動させ、キースはポセイドンラインのビルを目指した。途中、ヘリペリデスファイナンスのビルを通りがかったのでつい屋上を眺めたが、いつかのようにイワンの姿を見つけることはできなかった。キースがイワンを見つけたのはアンドロイドとの戦闘が終わってすぐのことで、それが一番初めのことだったが、それ以来、彼はパトロールを眺める習慣を終わりにしてしまったようだった。最近、夜はどうしているんだい、と遠回しなキースの質問に柔らかく微笑み、ちょっと調べものを、と告げたイワンのことを思い出す。バーナビーと協力して『あること』を調べているのだと教えてくれたイワンは、それがヒーロー活動にも関わりのあることだと言うのは知らせてくれたが、具体的になんの為にどんなことを、ということまでは説明してくれなかった。もうすこし調べたら皆さんにちゃんとお話できると思います、と言ってくれた言葉はキースを安堵させた半面、よく分からない落ちつかない気分にもさせてくれた。皆さんに、というのは、つまりキースだけに教えてくれるということではないのだ。ヒーローに対して一律に、ということであり、それはイワンとなにか秘密を分かち合っているバーナビーと同じ風になるのではない。
 だから、どうしてバーナビーさんに対抗意識燃やすんですか、と咎めるイワンの声も同時に思い出して、キースはそっと息を吐きだした。どうしてだなんて、その理由はもう告げているのに。まあ、気が付くまでは黙っていようと笑みを深め、キースはトン、と音を立てポセイドンラインの象徴たる、ペガサス像の鼻先に手を触れさせて停止した。ジェットパックのスイッチを切ると、体に体重が戻ってくる独特の感覚があり、ああ、地上が近いな、とキースは思う。足元にも頭の上にも空気が広がるばかりの天空では、落下していく薄ぼんやりとした感覚があるばかりで、なぜだか己の重さを感じることはないのだった。地上の近くでだけ、それを感じる。己が確かに人の身であり、風そのものではないことを、そうしてようやく思い出すのだ。よっ、と声をあげて風で全身を包みこみ、キースはスーツの頭部を脱いで抱えると、ふわふわと浮きあがってポセイドンラインのビルを眺める。さすがにフロアの九割以上が明りを失っていたが、ちらほらと明りのついている部屋があり、忙しく人が動きまわっているのが見えた。シュテルンビルトを走る鉄道とモノレールの管理部門と、そしてヒーロー事業部の者たちだろう。ヒーローを抱える七大企業が例外なくそうであるように、二十四時間のいつでも、彼らは要請に従って動く為の準備を怠らない。ヒーローはビジネスで、彼らを映すTVは娯楽のひとつでしかないのだけれど、ヒーローが救うのは人々で、そして繋いで行くのは形の無い希望なのだ。
 そっと微笑んだキースはふわりと身を空に遊ばせて、ペガサス像の羽根に手を触れさせた。
「……あのね」
 胸に溢れる喜びを、声にもちりばめて。くすくすと笑いながら、キースは傷ひとつない大理石の羽根をじっと見つめた。
「君は知らないと思うんだが、私がまだデビューしたばかりの頃……ジェットパックの調子が急に悪くなったことがあって、制御を失って、この像にぶつかってしまったことがあるんだ。怪我はしなかったけれど、羽根が折れてしまってね。修復はしたんだが、折れた跡は残されたんだよ。CEOと技術部たっての願いで、整備不良を起こさない為の戒めらしい。……だからね、イワンくん。この羽根がすこし欠けているのを、私は知っているんだ。……さあ、姿を見せてくれないかな」
 ふわりと広がる青白い光が、どこか悔しげに瞬いたのは気のせいではないだろう。羽根の一枚、ほんの一欠けらに擬態していたイワンは、珍しくもぶすくれた不機嫌な様子で姿を現し、ペガサスの背に腰かけるようにしてキースを見上げた。
「やあ」
「……こんばんは。なにか御用ですか?」
「うん? あ、イワンくんだ、と思ったから」
 姿を見て声を聞きたいな、と思っただけなんだ、と告げるキースに、イワンはげんなりとした表情で溜息をついた。
「……ねえ、キースさん」
「うん」
「そんなこと、言わないでください。別に明日だって会えたんですから、今くらいなんで我慢できなかったんですか」
 うん、とキースは笑って言った。でも、今会いたくなってしまったんだよ、と告げれば、きゅっとイワンは唇を結んで眉を寄せる。また困らせているな、と思った。キースの言葉はこうして時々イワンを困らせて、考えさせてしまうのに、分かっていて辞めてあげることができない。イワンくん、とキースは呼ぶ。手を差し出せばそっと、溜息をつかれた。
「キースさん」
「うん」
「……言いましたよね、僕は。離してあげられなくなるかも知れませんよって。……飛びたいでしょう?」
 手を出したら繋いでくれますか、と。その前に問いかけてきたのはイワンなのに、もう忘れてしまっているのだろうか。重ねられた確認の言葉にも、キースはちゃんと答えているのに。苦笑して首を傾げ、キースはそっと囁いた。
「君は私を飛ばせてくれる。……飛んで来たんだ、イワンくん。今、私はここへ飛んで来たんだよ。……だからね、おかえりと言って欲しいんだ」
「……おかえりなさい」
「うん。手を繋いで、もう一回」
 ほら早く、と手をひらつかせれば、イワンは溜息をついてキースにてのひらを差し出してくれた。その手に、触れたら。戻れなくなることを知っていたけれど。キースはそっと笑って、イワンの手を強く握る。ぐん、と体に体重が戻ってきた感覚でふらつきながら、キースはペガサス像の上に着地した。
「キースさん」
 手が繋がれている。指先を絡めて、強く、強く。繋ぎとめられている。ひどく苦しげに、息をひそめて。
「……おかえりなさい」
「うん」
 ふ、と笑うように息が吸い込まれる、きれいな唇。指先でなぞった覚えのあるそれが震えていて、キースはそっと身を傾けた。口付けはかすかに甘く、そしてひどく、乾いていた。



 気が付いたらキスされていたんだけどこの事実をどう受け止めればいいのか分からないんだよね旅に出ていいかな、と死んだ目で告げるイワンをものすごく嫌そうに眺め、カリーナは深々と息を吐きだした。学校ならともかく、休日の朝からどうしてそんなヘビーな相談をされなければいけないのか、それも男に、しかも男に、と思っているのが丸わかりの仕草に、イワンは手を伸ばしてカリーナの服の裾を掴んだ。無言で引っ張って布を取り返したがる少女の仕草に、イワンはお願いだからっ、と心の底から必死な様子で追いすがる。
「見捨てないで、カリーナ!」
「ちょっとやめてよっ! 誤解されるし! 勘違いされるし! 私がアンタのこと捨ててどっか行っちゃうみたいに見られる!」
「だって! どっか行こうとしてたよねっ?」
 もしも女子更衣室に逃げ込まれた場合、イワンに追いかけることは出来ないのである。トイレでも同様だ。間違いなく通報されるし、カリーナは迷わずイワンを通報するに違いない。警察ではなく、この場合はキースに。女子高生は時々えげつない。困ってるんだから相談に乗ってよ、と弱々しくお願いしてくるイワンの手を、とりあえず服から外させて、カリーナはよいしょとその場に座りこんだ。なぜかイワンが床にへたりこんでいるので、こうでもしなければ目線が合わせにくかった。
「友情ちょっと越えってことで納得したんじゃなかったっけ?」
「してないよ……というか、キースさんのって友情? 唇には普通にキスになりますからねって言ったと思うんだけど」
「聞いてくればいいじゃない」
 ほら、あっちにキースいるんだし、とカリーナが指差した先には、確かにキース・グッドマンその人がいた。イワンよりすこし早く来ていたキースはすでにランニングマシンで汗を流していたので、不用意に見たり近づかないようにしていたのだが、指し示されてなお顔を反らしているのはあからさまに不自然である。仕方なく顔を向けたイワンに嬉しげに笑い、キースはおはよう、と手を振ってくる。おはようございますと灰色の声でぼそぼそと言い返し、イワンは立ち上がってカリーナの肩を掴んだ。ちょっと、と嫌そうな顔をされたが、気にせず言う。
「聞けると思う? なんでキスしたんですかとか、普通聞ける? 聞けないよね? 無理だよ……!」
「その前に誤解を招きそうな体勢だから離れてくれない? 見てるから、キースすごいこっち見てるから……!」
「うわ、なにしてるんですか?」
 なんか女子高生みたいな会話聞こえてきたと思ったら片方は本物の女子高生でもう片方が先輩だった事実を上手く受け止められません、という顔つきをしてロッカールームから現れたバーナビーに、二人は同時に抗議の声をあげた。
「だって! イワンが!」
「カリーナが!」
「……よく分からないというか全然分かりませんが、誰がらみの問題でなにをしていたのかが分かりました」
 ゆら、と不穏に動きかける室内の空気に、悟れない者は存在しないに違いない。バーナビーとカリーナの決断は、一瞬だった。少女は己の肩を掴んでいたイワンの手を力任せに引きはがし、バーナビーへ受け渡す。受け取ったバーナビーは柔和な微笑みを浮かべ、イワンの体を反転させた。
「駄目でしょう、先輩。僕と手を繋いでいただけで手繋ぎたいとか言ってきたひとなんですよ? カリーナの肩なんか掴んで顔寄せてたら、その先の言葉が予想できるじゃないですか」
「ちょ、ま、バーナビーさん! なんでキースさんに向かって肩押しやってるの、ちょっと、こら……!」
「抵抗しないでください……! 先輩、頑張って!」
 やめて今応援しないでっ、とひきつった声で叫ぶイワンの肩をぐいぐいと前に押し、バーナビーは先輩の身柄をやや不機嫌そうに見えるキースへと受け渡した。近くまで行ったら手を出してイワンの腕を掴んでくれたので、バーナビーとしてはとても助かった気持ちで手を離す。ふう、と一息ついているとキースに笑いかけられたので、バーナビーは完璧な営業スマイルを浮かべ、どうぞ、と言ってやった。
「貸してあげます。……あ、キスするのは相手の承諾を得てからが良いと思いますよ。いきなりするのはマナー違反です」
「うん、貸してもらおう。……それもそうだね。イワンくん、君のくちびるにキスをしても?」
「無断で僕の貸し借りをしないでください! あと! キスは! しませんっ!」
 よし今のうちに着替えてこようっと、と女子更衣室に消えていくカリーナの背を横目でにらみながら、イワンは不満げなキースに全力で主張した。そそくさと離れていくバーナビーを追いかけて背中を踏みにじって反省を促したいのだが、キースが腕を掴んで放してくれないので、後日実行すると心に決める。
「挨拶じゃなくなるから、唇にはしませんって言ったでしょう……。あんまり困らせないでください」
「困らせたい訳ではないよ、イワンくん。ただ、キスはしたい」
「だか……ら……。……ん?」
 今なんて言いましたか、いえ自分で考えるので復唱したりしなくていいんで具体的にお願いすると黙っていてくれませんか、と引きつった顔で早口に告げるイワンに、キースはふふふ、と肩を震わせて嬉しげに、幸せそうに笑った。
「君に、キスしたい。挨拶じゃなくて。……駄目かな?」
「だっ……駄目とか、そういう問題じゃない気が、し……ちょ、ちょっと待ってくださいね? えーっと……。えーっと……あの、キースさん。大事なことを聞きますが、挨拶じゃないキスっていうのは、普通のキスで、つまり……キスなんですが」
「うん。だから、イワンくん。キスしよう?」
 帰って良いですか、家に。それで数日間引きこもりたいです、家に。それが叶わないなら今すぐ意識を失ったりしたいです。ちょっとよく分からないので、と思い、イワンは胸に手をあてて大きく深呼吸をした。会話が今ひとつ通じていないと思うのは、イワンが混乱しすぎているせいなのだろうか。
「し……しませんけど?」
「どうして?」
「どうしてって言われても!」
 あれ、こんな会話すこし前にした覚えがあってそれでその時はなんか逃げきれなかった気がする、と思いつつ、イワンは腕を掴んでいるキースの手を外そうとする。しかし、なぜか力を入れられてしまって繋ぎとめられたまま、にこにこと笑って引き留められてしまった。これはまずい。なにが一番まずいって、あの時とは違い、ここはトレーニングルームである。世間的には休日の朝なのでまだイワンとキース、カリーナとバーナビーしかいないが、もうすこしすれば他のヒーローも姿を現すに違いない。つまり、目撃者が身内で、しかも数が多いという絶体絶命の状況に他ならない。息を吸い込んで、吐きだして、もう一度吸い込んで気合いを入れて、イワンは顔をあげる。
「キースさん」
「うん。キスしてもいいかい?」
「駄目です。……恋をしてくれたら、してもいいですが。僕に、恋もしていないんですから、キスしようとしないでください。……僕はあなたが好きです。だから、あなたが望むことは叶えてあげたい。でも、これだけは駄目です。キス……したいなら、どうしてもしたいなら、僕がしてあげますけど、キースさんは動かないでください。絶対。僕は、僕に恋してない相手にキスされたくありません。……分かりました?」
 切羽詰まった、ぎりぎりの妥協点を提示する、色気も雰囲気もなにもない恋の告白だった。更衣室から着替えて戻ってきたカリーナが、これはひどい、という顔をして眺めてくる視線を感じながら、イワンは精一杯の気持ちで息を吸い込む。
「返事は? キースさん」
「……うん。分かったよ、イワンくん」
「そうですか、なら」
 はい、腕掴んでる手を離してくださいね、とイワンは言おうとしたのだが。キースと目が合うとにっこり笑われ、全身がぞわりと嫌な予感に震えてしまう。
「イワンくんがキスしてくれるのは、いいんだね?」
「……あの、僕の話聞いてましたか」
 予感は、違わず的中した。視界の端に、ちょっと意味が分からないんですが今どういう会話をしてるんですか、と首を傾げて顔を見合わせるバーナビーとカリーナの姿が見えたが、心底そちらに混ざりたい。
「あなたが好きって言ったんです。恋を、していると」
「うん。私にもそう聞こえたよ」
「それで! なんでそうなるんですか……! もっと他にあるでしょう! 受け入れがたいとか理解できないとか気持ち悪いとか! ……確認しますがキースさん。キースさんが僕に向けてる好意は友情ですよね? 恋愛じゃないですよね? ね?」
 悩んだカリーナがトレーニングルームと直に外へ繋がる扉へ鍵をかけ、女子更衣室に戻っていくのを見てイワンは胸を撫で下ろした。バーナビーも気が付いたのか、小走りに男子更衣室へ鍵をかけに行ってくれる。二人でも限界なのに、これ以上目撃者がいたら、イワンは精神的に死ぬ。心遣いはありがたいが助けに来てはくれない二人の迅速な行動に、感謝すればいいのか泣けばいいのかよく分からなくなりながら、イワンはキースの答えを待った。キースは苦笑して、うん、と頷く。
「恋をする予定はないね」
「じゃあキスしなくていいじゃないですか」
「どうしてもキスしたい場合は、イワンくんがキスしてくれるんだろう? ……君が私を好きでいてくれることは、嬉しいよ。とても、嬉しい。だから……キスしてくれないか、イワンくん」
 恋という意味の好きには、きっとなれないけれど。君が好きでいてくれることは構わないから、嬉しいから、だから傍にいてくれないか、と。告げるキースに、イワンは呆れで脱力した。
「も……っのすごく、勝手ですよねそれ」
「うん。そうだね。……そうだね、すまない」
「……僕にキスして欲しいんですね?」
 全力で諦めた、色気のないただただ優しい声で囁かれて、キースは笑いながら頷いた。腕を掴んでいた手をようやく放して、イワンの腰に巻きつけて柔らかく体を引き寄せる。イワンは諦めきった仕草で身を寄せて、キースの頬を手で包みこんでくれた。まったくもう、と額を重ねて目を覗き込みながら、イワンは不機嫌にキースを睨みつける。
「キスして欲しい相手がいたら」
「うん?」
「それはもう普通、恋だと思うんですが」
 僕に恋とかしていないんですね、と確認するイワンに、キースは申し訳なさそうに笑って、うん、と言った。
「しないよ。君だけには……しない」
「そう、ですか」
「……好きにならない。だから、君だけは、どうか」
 いなくならないで欲しいんだ、と告げられて、イワンは笑いながらキースの唇を啄んだ。慰めるように何度か口付けて、仕方がないな、と笑ってやる。
「いなくなりませんよ」
「……うん」
「でも、キースさんが好きになったから……だから彼女に会えなくなってしまったと思うのは、違いますからね」
 それだけはちゃんと理解してくださいね、と告げられて、キースは頷いた。溜息をつきながらキースの頭を撫でてやるイワンの手首で、PDAが不意に強制着信を告げる。悲鳴のような声が、事件の発生を慌ただしく告げた。

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