簡単な事件だった、と思ってしまうのは申し訳ないことなのだが、あっけなく終わった事件だった。通勤バスをジャックした犯人を追いつめて確保したのはドラゴンキッドで、スカイハイやブルーローズが現場に到着する頃にはもう、警察に引き渡しが完了しかかっていたというありさまだ。本来はヒーローが出動するまでもない事件に要請がかかったのは、そのバスに病院へ向かう途中の虎徹と楓が乗り合わせていたからだ。いいからワイルドタイガーが素顔を完全に晒したまま能力を発動させる決意を固める前にスピード解決しなさい、というアニエスからの指令に忠実に従ったドラゴンキッドは、遅れて到着してきた仲間たちになんとも言えない苦笑いを送った。万が一のことを考え、TVカメラは映像を録画していない。ポイントにもならなければ視聴者に評価もされない活躍は、ヒーローという言葉の本質に程近く、けれどドラゴンキッドたちにはむず痒いくらい馴染みのないものだった。事件を間近で目撃した重要参考人、という名目でバスに乗り合わせていた一般人から引きはがし、ヒーローたちは虎徹と楓を取り囲み、口々に無事を喜んだ。楓は間近で見る生のヒーローに目を輝かせ、顔を真っ赤にして興奮と喜びを現したのち、あれ、と言って目を瞬かせた。
「折紙サイクロンは?」
そこでようやく、ヒーローたちはイワンの不在に気が付いた。普段の活動中も視界のどこかで見切れているか、あるいはカメラを意識して動きまわっているのが常である折紙サイクロンの居場所を把握することはひどく難しく、事件が解決して着替えが終わってトレーニングルームに顔を出して、ようやくお疲れさま、が言えることもざらなのだ。あれで礼儀正しく心配性なイワンが虎徹の様子を見に来ないでトランスポーターへ向かうということは考えにくいが、また技術部にでも掴まっているのかも知れない。そうバーナビーが推測すれば、ヒーローたちは一様にぬるい笑みを浮かべてなんとなく頷いた。ヘリペリデスファイナンスの技術部に捕まっちゃったなら、仕方がない。これ以上なにかあると困るので病院まで送ります、と言って着替えの為に小走りにトランスポーターへ戻っていくバーナビーを見送り、キースは虎徹と楓に手を振って空へと舞い上がった。ポセイドンラインのトランスポーターに戻るにも、折紙サイクロンの姿を探すにも、その方が早かったからである。私はもうすこししたら戻るから、と言って場に留まったブルーローズは、楓の前にしゃがみこみ、目線を低くして会話に花を咲かせていた。彼女のそう言った優しさや気遣いは本当に自然で、真似が出来ないものだと思う。キースは虎徹の娘である少女が、恐らくは初めて目の当たりにした事件に対しての衝撃を思いやるよりも、折紙サイクロンを探したがる意識に苦笑した。いなくならないで欲しい、と告げたのはつい先程のことなのに、傍から離れられたことが不満なのだ。事件が終わった。スカイハイは空から地上に戻り、キース・グッドマンになる。その繰り返してきた日常の転換のきっかけに、彼の手が欲しかった。
キースは現場の周辺を飛び回り、折紙サイクロンの姿を探す。しかし、その気配を辿ることも出来ず。焦りはじめた頃、スカイハイのフルフェイスマスクに取り付けられた内部通信が帰還を促して来たので、仕方なくキースは、一陣の風と共にポセイドンラインのトランスポーターへ降り立った。その後、着替えて立ち寄ったトレーニングルームでも、イワンの姿を見つけることは出来ずに。避けられてしまったかな、と苦笑して、キースは夜のパトロールに想いを馳せた。会えればいいのだけれど、と願いは通じることなく。ペガサスの翼は欠けたまま、街のどこにも、イワンの姿を見つけ出すことは叶わなかった。
『ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部、技術部主任キリサトより、各関係者の皆さまへ。おつかれさまです、キリサトです。一点、連絡事がありましたので一斉にメール送信させて頂きました。突然の申し出で恐縮ですが、弊社の折紙サイクロンは、明日から一週間の休暇を頂くことになりました。ヒーローTVには一週間、折紙サイクロンの休暇を視聴者の皆様にお知らせ頂くと共に、見切れをお楽しみの方から苦情が届くとも思いますが、対応をよろしくお願い致します。復帰のあかつきにはさらに難易度の高い見切れを提供するべく、折紙サイクロン、ならびにヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部一同、努力していくつもりです。これからも変わらぬ応援をよろしくお願いいたします。なお、休暇中の折紙サイクロンへのご連絡はご遠慮ください。個人的なものについても同様に。なにか緊急のことがありましたら、私へ連絡して頂ければと思います。なお、先日のバーナビー・ブルックスJrについてのメールになんとなく文面似ていますが、CEOの許可つき休暇でジョークとかじゃないので、その辺りもよろしくお願い致します。
以上、ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部、主任技術者キリサトより。皆様へ』
そういえばこんな感じの文面を受け取ったのも、ちょうどこの時間だった筈だ。遅い朝のぼんやりとした時間を過ごしながらキースがPDAの着信履歴を確認すると、件のバーナビーのものと送信時刻が完全に一致している。彼女なりのジョークなのだろう。苦笑しながらソファの上から立ち上がり、キースはリモコンでテレビの電源をオフにした。ニュース番組がぶつりと途切れると、室内には心地良い静寂が戻ってくる。窓の外から天気を眺めれば、ごく穏やかな快晴が広がっていた。太陽が投げかける日差しは強すぎず、弱すぎず、肌をやんわりと温めて撫でていくだけで、ランニングや散歩には最適な朝だろう。それなのに朝の散歩に出そびれてしまったことが申し訳なくて、キースは聞き分けよく足元に丸まっていたジョンの頭を、普段よりやや念入りに撫でた。夕方、早めに帰ってきたら朝の分も散歩をしよう、と約束すると、ジョンはさほど期待していないそぶりで、それでも嬉しげに尻尾をぱたぱたと動かした。賢い愛犬はなんとなくご主人様の職業をテレビのニュースなどから理解していて、ヒーローの正体を知る身内がそうであるように、彼らとの約束を話し半分に受け止めてくれるのだ。散歩の途中でPDAの出動コールがなることもざらである。すまないね、と本当に申し訳なさそうに囁けば、ジョンはしっぽをぱたぱたと振り、気にしてないよ、と言わんばかりキースの手を舐めてくれた。散歩は絶対にするし、もし本当に駄目になってしまっても、コンビニでペット用のビーフジャーキーを買って帰ろう。そう心に決めて立ち上がったキースの手首で、さっそくPDAが鳴り響く。事件発生の朝である。苦笑しながら着信を許可し、はい、と応答したキースの耳に聞こえてきたのは、しかしアニエスのご機嫌な囁きではなく。
『……おはようございます。突然』
そう、悔しげに言葉を詰まらせながら囁く、少女の声だった。思わず目を瞬かせたキースは、映像機能が待機状態になっていることを確認し、慌ててそれをオンにした。すぐさま現れた映像に、映っていたのはやはり予想通りの少女である。シルバークラウンの特徴的なマスクに、黄色人種らしいい肌の色。今日はポニーテールにくくられた黒髪に、くたびれた風な白衣。
『ヘリペリデスファイナンスの、キリサトです』
誰かは即座に分かるのに、なんとなく名前が出てこない相手である。ああ、と頷いて苦笑し、キースは思わず息を吸い込む。
「おはよう。イワンくんのPDAと繋ぎ間違えたかい?」
各社技術部とヒーローの交流はそれなりに盛んだが、キースが知っている中でもこの二人は特によく会話をしている。一度など半泣きの声で通信を繋げてきた少女が『プリン! プリンが食べたいカスタードプリンが食べたいイワンくんコンビニで買ってきて!』と叫び、それをイワンが頭の痛そうな声で対応していたのを見たことがある。すぐにイワンはコンビニに買いに行ってヘリペリデスファイナンスまでそれを届けたあと、トレーニングルームに戻ってきたのだが。キリサトさんはちょっと癖の強い妹っていうか、身内みたいなものなので、と苦笑していたことを思い出し、少女がイワンの休暇中の連絡窓口でもあったことから、キースは誤通信の可能性に思い至ったのだが。その問いにキリサトは、なんだかとても嫌な顔をした。
『いえ、私が通信繋げたのはー、あなたで間違いないんですよー。キース・グッドマンさん。おはようございますー』
「うん、おはよう。二回目だ。……どうかしたのかい?」
『ひっじょーに不本意なんですがー、あとはあなたに聞くしかないかなー、と思ったのでー。……内密にお願いしますけどー、イワンくんを見かけたりしませんでしたかー? 昨日のー……お昼過ぎくらいからー、なんですけれどー』
語尾を一々伸ばしている時って、ものすっごい機嫌が悪いかものすっごい拗ねてるか、さもなくばテンションが上に振り切れて機嫌がいい時なので、最後は分かりやすいですが前二つだと後が大変なのでもしそんなキリサトさんに遭遇したら気を付けてくださいね、と笑って教えてくれたイワンの声が脳内で再生され、キースは思わず口元を引きつらせてしまった。声のトーンが思いっきり不機嫌な少女のそれであるので、間違える訳もない。現在、キリサトは極めついて機嫌が悪いのだ。キースはなるべく相手を刺激しないように、そーっと息を吸い込んだ。
「見ていないんだ……彼は休暇、なんだろう?」
『所在がつかめないんで、そういうことになりましたけど』
一瞬で気持ちを切り替えてきたのだろう。そうですか心当たりもない感じですねその口ぶりだと、と腕を組んで溜息をつき、首を振って、少女はキースにそのことを告げた。
『すこし前から、イワンくんの能力発動が不安定になっていました。だから私は、彼の安全の為にしばらく能力を発動しないようにと言っておいた筈なんですが……まあね、仕方ないですよね。恋って基本的にはそういうものですからね。隠れてこそこそ能力発動して誰を見に行っていようと、そこを咎める気にはならないってゆーかそこもちゃんと予想して私たちが対策取るべきだったのかも知れないですよね、あー……。つまりね、あのですね、キース・グッドマン。繰り返しお願いしますが、内密にしておいてください。イワンくんね、つまりね、行方不明になって連絡が取れなくなっちゃったんです。その……恐らくは制御ができなくなった能力のせいで、なにかに擬態してしまっていると思うんですけれど。この場合は人の言葉が話せず、意思の疎通も難しいであろうもの……小動物とかそんな感じが一番可能性としては高いと思うんですが、その辺りは私にもよく分かりません。イワンくんの擬態できるものリストで確かめましたが、ポスターとか電柱とか無機物にも無節操に擬態できちゃうので、しかも大きさの制限が『本人がその形を正確に認識できるまで』とかいうあやふやなものなので、具体的にどれくらいの大きさまで擬態しちゃえるのか分かりませんし。さすがにビルとかは無理でしたが、イワンくんの能力って質量保存の法則を完全に無視してしまえるので、だからもうホント、なにになってるのか分かんないんですよね……! 無機物に擬態していた場合は、だから判別の方法がむずかしいっていうか、昨日までそこになかったものを探し出して持ってこいシュテルンビルト選手権みたいな形になっちゃうってゆーか。自力で動けるものとかならいいけど、もしもポストとかそんな感じのアレになっちゃってたら戻れない場合は衰弱しちゃうし……! 小動物とか! 動物系になってくれれば自力でご飯食べられたりするのでその望みは繋げるんですが! 一週間っていうのは、そういうことなんです、キース・グッドマン。一週間で見つけてあげられないと、イワンくんの体がもたない……。衰弱死することはないと思うんです、さすがに。NEXT能力の限界発動を迎える前に、脳が体に対して最後のストッパーになってくれる筈で、擬態がとけると思うんですけど……それも、可能性で、確かじゃなくて。その時点で発見が遅れれば同じことなんです。キース・グッドマン。あなたの……空からの視界のよさ、そしてシュテルンビルト中を飛び回れる機動力の高さにかけて、お願いします。ポセイドンラインの許可は頂きました。どうか……どうか、イワンくんを探すのに力を貸してください。パトロールの時間を、ほんのすこし、延長してくれるだけでもいいんです。街中の、記憶と違うものがあったら、私に教えてくれるだけでも十分です。だから、どうか……どうか、イワンくんを探して、見つけてあげてください……!』
最後はすすり泣くような声で、やっと告げられた言葉だった。そこが感情の限界だったのだろう。後はしゃくりあげて言葉にならなくなってしまった少女にかける言葉をさがしあぐねていると、通話用モニタの後ろから伸びてきた手がキリサトを立たせて退かし、こちらを覗き込んでくる。すみませんね、と苦笑する副主任の男性は、もうすこしだけ通信繋いでおいてくださいね、とキースに言うと、手元の装置を操作して口を開く。
『こちらは終わりました。CEO、よろしくお願いします』
ぶつん、と音を立てて画面が切り替わる。恐らくはヘリペリデスファイナンスの技術室から、回線が移動したのだろう。現れたのは落ちついた執務室で椅子に座っている、ひとりの若い男だった。やあ、と微笑まれ、さすがにキースの背が伸びる。会う機会はすくないが、さすがにその人を見間違えることはなかった。七大企業の、もっとも年若きCEO。ヘリペリデスファイナンス経営最高責任者、マイケル・グリーンだった。
『おはようございます。ごめんね、キリサトくんが。泣いたら君が困るから、我慢するんだよって言っておいたんだけど』
「いいえ。彼女は……イワンくんを、とても好きだと知っているので。居場所が知れないと聞きました。心配でしょう」
『ありがとう。そう言ってくれると、こちらとしても助かります。……さて。彼女が説明したと思うけれど、改めて。ポセイドンラインのCEOと技術部には、こちらから申し出てすでに許可を頂きました。当人である君に事後報告という形になってしまって、本当に申し訳ないと思うけれど、イワンくんの捜索に力を貸してくれますか? スカイハイ』
ゆったりとした語り口調と柔和な微笑みは、ことの重大さを表しながらも、深刻ぶりすぎない絶妙な効果をキースに与えてくれた。ヒーローにその仕事が回ってくることはないが、行方不明者の探索であり、現場に取り残された者を探しだしてくるのだと考えれば、経験のない行いでもなかった。できる限り力を尽くします、と言ったキースに、CEOは満足げに頷いて。ありがとうございます、と言った後、でもまあ、と付け加えてそっと首を傾げてみせた。
『半分くらいは君のせいだしね?』
「……え?」
『先に言っておくと、君が個人的に誰とどんな関係を築こうと、うちのイワンくんにどういう感情を向けようと、それは個人の自由だと思っているよ、僕はね。……イワンくんが誰をどういう風に想おうと、それでどんな行動に出たとしても、それもまた個人の自由です。契約の時にもそういう風にしたけれど、彼の意思は自由に、最大限尊重されます。ヘリペリデスファイナンスは、ヒーローを守り、個人の尊厳と自由を奪わない。仕事に支障が出なければ。……意味、分かりますね?』
にこにこ笑って、CEOは机に肘をついて手を組み、画面に対してやや身を乗り出すようにして、てのひらに頬を押し合てた。そうしてみると、本当に若い男であることが分かる。年齢としては三十代の半ばくらいであろうと思えるのに、思春期の若者のような、制御を失いかけている獰猛な意思が瞳に灯されているからだろうか。なにをしてでも、想いを成し遂げようとする決意。怒りに似たそれを静かにくゆらせて、CEOはあくまで、にっこりとキースに笑いかけた。
『具体的に君が、イワンくんになにをしたか、なにを言ったかは知らない。推測だけで怒るのはこどもっぽいやり方だ。だから、君に聞いてからにしよう。キース・グッドマン? もちろん、個人的な交友関係だ。君には口を噤む権利がある』
にこ、と笑って。マイケルはキースに問いかけた。
『その上で尋ねよう。キース・グッドマン。……イワンくんになにをして、なにを言ったのか。昨日の、昼前かな。それくらいの時間に、トレーニングルームで顔を合わせていた筈ですね? 能力暴走にはきっかけがあるし、別にそのきっかけが君のあれやこれだったとして、怒るつもりはありません。参考。あくまで、参考にするだけなので、教えてくれますか?』
「……キスを」
『したの? してきたの? させたの?』
うんうん、と頷いて、CEOはさらに問いかけた。驚きもしないのは、大体の事情は把握している為なのだろう。画面からそっと視線を外し、キースは呻くように言い添えた。
「してもらいました……」
『同意? 脅迫してるなら、法的手段を検討させてもらうけど』
「同意の……範囲に、含まれるとは、思っています」
自信がないのは、良いやり方だとは思えない方法だったからだ。ふんふんと頷いて、CEOは分かりました、と囁いた。
『……あのこも、溜めこむからねぇ』
どうしたものかな、と悩みながら息を吐いて、CEOは視線を机の上に置いてある書類に向けてしまった。キースからはそれがなんの書類であるかは分からないが、CEOのデスクに乗せられているくらいである。重要なものである事実くらいは分かるので、思わず見てはいけない気がして目を反らしてしまう。
『自業自得……だとは言いたくないし、思いたくないんだけど。そうなると……君の行動範囲を、とりあえず探してもらえるかな? トレーニングルーム、ロッカールーム、ポセイドンラインのトランスポーター、あとは……イワンくんは君の自宅の場所を知っていますか? 連れて行ったことは?』
「ありません。……ジョンの散歩の途中に会ったことはありますが、自宅がどこ、という話をした覚えは」
『じゃ、その散歩コースも探してくれますか? ……君には言うまでもないことかも知れませんが、NEXTの能力暴走というのは、精神的なものが原因であることが大多数です。今回のイワンくんのことに関して言えば……まあ、恋心だね。聞いてしまいますが、イワンくんからなにか言われたりしたよね?』
あえて言葉を濁してくれたCEOには、それでも全てお見通しであるらしい。苦笑しながら、恋を、と告げたキースに、マイケルはそうだろうと思いました、と柔らかく笑った。
『つまりね、イワンくんは君が大好きすぎるあまり、ちょっと能力制御がおろそかになっちゃってるだけだから。君の身近にいる筈だ、と僕は思っています。君がよく行く場所、イワンくんと顔を合わせることが多いところ、あとは生活範囲。申し訳ありませんが、注意して見てやってください。パトロールはそんなにぴりぴりしないで、通常範囲で構わないと思います。シュテルンビルトの街中に関しては、ヘリペリデスファイナンスのヒーロー事業部が、人海戦術でしらみつぶしに探して行くから、君はそういうことをしないで、あくまで近くを探してくださいね。……そして一応、君も能力制御のチェックを』
まあ、君が能力暴走させたとして飛べなくなるとか風害で街がちょっと倒壊するくらいだと思うし、君自身が行方をくらますとか大気圏を突破してどっか行っちゃうとか、そういうことにはならないと思うので、こっちに被害が来ない限りは基本的にどうでもいいんですが、と柔和な笑顔でさらりと言い切り、CEOは手元の書類にサインを書きこんで行く。
『キスしてもらった、ということは好意はあるんでしょう? ……咎めている訳ではないから、そんな顔をするものではないよ。恋にもいろんな想いの形はあるし、関係性も様々です。通じ合わせて傍に置くだけが成就の形ではないですし……とりあえず離すつもりはないというのも、個人的にはすごくよく分かります。……こい、というのはね、キース・グッドマン。大変に大変に強い感情です。君の意思はこの際、置いておくにしても、一人の能力を狂わせてしまうくらいのそれが近くにあったのだとしたら、NEXT能力は影響してしまうものです』
検査してもらってね、とにこにこ笑うCEOに、キースはぎこちなく頷いた。決して声を荒げたりはしないのに、徹底的に逆らいにくい相手である。CEOはキースの反応に満足げに笑みを深め、それじゃあね、とフランクな挨拶で通信を切ってしまった。思わずぐったりとソファに身を預けて、時計を眺める。一斉送信されたメールを確認してから、三十分程しか経過していなかった。つまりあのメールの『CEOに許可を取った休暇』という記述自体がダミーなのだろう。CEO公認でイワンの行方不明を誤魔化す期限が一週間、というメールなのである。どこかでイワンに届けばいいと、そういう願いも含まれていたに違いない。ふー、と様々な感情を含んだ息を吐き出し、キースは緩慢な動きでポセイドンラインに能力の安定を確かめる検査がしたいとメールを打った。あらかじめ、ヘリペリデスファイナンスから申し出があったのだろう。準備は整っているのでいつでも来てください、という返信がすぐにあって、キースはそっとまぶたを閉じる。疲れ切ってしまって、すぐには動けない気分だった。感情がぐるぐると渦を巻いて、気持ちが落ち着かない。梢を揺らしてやってくる、不穏な風が心に宿っていた。いなくならないと、そう、言ってくれたのに。
「……イワンくん」
ふわん、と。一条の風が、柔らかく吹いた。それはキースを慰めるように瞼や、頬へ触れて穏やかに部屋の空気を温めてくれる。清らかな朝の気配を引きつれて、立ち上がることを促してくれる。ふ、と目を開く。空はうつくしく晴れていた。
ポセイドンライン本社へ向かう前に、キースは人気のない裏路地から空へ飛びあがり、ヘリペリデスファイナンスの屋上へ降り立った。夜にここで会ったことを思い出したからだ。結局、一度きりしかここで会う機会はなかったが、パトロールのルートに含まれる場所である。イワンがなにかに擬態していないとも限らなかった。しかし、他社の屋上である。朱色に塗られた鳥居はエキゾチックで見ごたえはあるものの、普段は朝日の中で見ないせいで迫力があり、妙に気押されてしまって違和を探す所でもない。ポセイドンラインにあるペガサス像のように、象徴的に置かれた狛犬をじっと見つめてみるも、中々に愛嬌がある顔つきをしているくらいで、やはりよく分からなかった。諦めきれずにヘリペリデスファイナンスのビルの周りをくるくると飛び回っていると、執務室から見えたのだろう。PDAにポセイドンラインの技術部から通信が入り、そちらのCEOから早く引き取ってくれるかな、と言っているので至急こちらに向かって頂けますか、と言われてしまう。しょんぼりとしながらポセイドンラインに空路で向かい、キースはタン、と足音を立ててペガサス像に降り立った。昨夜も確認した羽根の傷を、もう一度見つける。指でなぞれば、ざらりとした石の感触が伝わった。ぬくもりも、鼓動も感じない、清らかな石の像。
「……君に会いたい」
囁き願うキースの周囲で、風が吹いている。変わらず傍らにある風に手を伸ばして、キースはふと微笑んだ。コントロールは安定している。イワンに会えないのに、この空を飛べるくらいには。風は変わらず、キースに愛しいと囁きかける。目を閉じてうん、と頷き、キースは改めて屋上に降り立った。
ポセイドンラインに通じる電話を切ったCEOは、さてと、と呟いて執務机の下を覗き込んだ。重厚な造りの木の机は大きな作りで、椅子に腰かけて足を前に向けたままでも、人が入れるくらいの十分なスペースがある。大事な話があるから終わるまで来ないでね、と秘書は部屋の外に出してあるので、CEOはとびきりの甘い笑顔で、白衣に包まってすんすん鼻を鳴らす少女へ、そっと手を差し伸べた。
「すぐ見つかるから。……そんなに泣くんじゃありません」
「うー……イワンくん、イワンくんどこ行ったの……? ど、どうしよう。はやく見つけてあげないと、おなかすいて倒れたりしたら、どうしよう……」
「聞こえてないねぇ……ほら、こっちおいで」
よいしょ、と声をあげて少女を膝の上まで抱き上げてしまったマイケルは、しがみついて泣くキリサトの背を、ごく穏やかな手つきで撫でてやった。まったく、困ったものだ。
「仕事は、終わらせて来たの?」
「おわ、った、もん……。だ、だから私も、イワンくんさがしにいく……あと、キース、殴りに行って来ていい?」
「うん、駄目。諦めようね、身長的に届かないだろうしね」
泣きじゃくって人の話を聞かない状況でも、仕事だけは支障がないように終わらせてきた少女の能力に感心すればいいのか、呆れればいいのか、褒めてやればいいのか判断に迷いつつ、CEOは技術者の頭をよしよしと撫でてやった。頑張ってジャンプすれば届くもん、と言うキリサトに飛ばれたら届かないねえと言い聞かせ、マイケルは大丈夫、と子守唄のように繰り返す。
「見つかりますよ、すぐ。ね? ……だから、君は探しに行かないで、ここで待っておいで」
「ちゃんとイワンくん連れて、帰ってくるから……!」
「何回も言わせるんじゃないの。駄目です」
暴走した能力に君が触れるのは許可できない、と告げるマイケルに、キリサトはぎゅっと唇を噛んで俯いた。瞬きのたびに、大粒の涙が零れ落ちていく。すぐ泣く、と苦笑しながら頬に口付けて、CEOは技術者の目を覗き込んだ。唇が、音もなく少女の名を綴る。すん、と鼻をすすってキリサトは口を開いた。
「かほご。……かほご! 過保護!」
「どうとでも。……そういえば、調べ物は順調かな?」
「ん? うん。あとはジャスティスタワーの、上の」
女神像の中を解析して、それで、と続けようとして、キリサトは口の動きを停止させた。上の、と繰り返してにこにこ笑うCEOに、少女は現在なにをどういう理由で調べているかなど、全く言った記憶がないのだが。えっと、と口ごもってそーっと膝の上から降りようとする少女に腕を回して引き寄せて、CEOはごく穏やかな笑顔で諦めようね、と言った。
「君が僕に隠し事を、いつまでもいつまでも出来るとでも思った? ……なにをしているのかな?」
「え、えーっと、えーっと……な、ないしょなのね? 技術部、みーんな、CEOにはないしょにしてるの。だから、私がマイケルに言う訳にもいかないのね……?」
「アルバート・マーベリックにバレてるんだよ、キリサトくん」
それとなく釘を刺された、と告げられて、少女の気配が張り詰める。まだ目元に涙を残したままでぱちぱちと瞬きをして、キリサトはそれって、と息を吸い込んだ。
「なにか言われた? ……なにも、されなかった?」
「今のところは。ただ……能力が不安定なNEXTにヒーローを任せるより、もっと安定した、効率的な存在にヒーローになってもらうのはどうかという考えについて尋ねられたんだよね。例えば、アンドロイドとか」
そんなこと言われちゃうと、どうしても先日の市街戦を思い出してしまうよね、と空とぼけるCEOに、技術者は怯えるように目を見開き、怖々と問いかける。
「……なんて言ってきたの?」
「やってもいいですが、我が社を巻き込まないで頂きたい」
ヒーローを擁する他社にもその考えを受け入れて欲しいと思うのであれば、時期尚早すぎるでしょう百年くらいって言っておきました、と告げられて、少女は思い切り苦笑した。
「……マイケル」
「ん? 言う気になったかな?」
「うん。イワンくんが帰ってきたら教えてあげるから、その間、他のCEOと連絡を取ってアポロンメディアの動きを見ておいてくれる? 私も、イワンくんが戻ってくるまでに、まだやらなきゃいけないことがあったんだった」
落ち込んでる時間とかなかった、とぴょこんと膝の上から飛び降りてしまった少女を苦笑して眺め、CEOはキリサトにひらひらと手を振った。
「頑張るんだよ」
「うん! ……はい、CEO。あの、あのね? 別に、言いたくなかった訳じゃなくて、どっから情報漏れちゃうか分かんなかったから、とりあえず一律でCEOには言わないことにしてたのだけは分かってね?」
「分かってますよ、大丈夫。……で、アポロンメディアはなにをしそうなのかな?」
聞きだそうとする男に笑って、少女はよく分からないけれど、と肩を竦める。
「ろくなことではないと思います。それに私、アンドロイドよりイワンくんのが好きなので!」
「妬けるね」
「私が唇を許す相手は、公私ともにあなただけですけど?」
廊下に出る直前、振り返って告げる少女にならいいよ、と笑って手を振り、CEOは内線で秘書を呼びもどした。もうすこし休憩したかったが、キリサトがさっさと立ち直ってしまったので仕方がない。お呼びですか、と問う秘書にうんと笑いながら頷いて、マイケルはすこし忙しくなりそうだ、と言った。