トレーニングルームへ足を踏み入れた瞬間、急に休むだなんて聞いてないっ、と怒り心頭に叫ぶカリーナの声を聞いてしまい、キースは思わずびくりと体を震わせた。同時に風がぶわりと動いたのを確認して、キースはしまったと息を飲む。朝から薄ぼんやりとした兆候は感じていたものの、今のキースの能力は、やはり不安定なものである。ポセイドンラインでの簡単な検査の結果、飛ぶことやヒーロー活動には支障のない程度能力を扱えるだろうが、感情の揺れ幅に敏感に風が動いてしまっているようなので注意するように、と言われたばかりなのだった。注意すると言っても、常に緊張している訳にもいかないので、キースにできることと言えば不意に動いてしまった風を引き留めるように指先を空に伸ばし、他のどこにも影響しないよう強く願うことくらいなのだが。幸い、無意識の発動であるから、風の動きは鋭くもなく、強くもない。キースの髪を乱れさせ、室内の注意をすこし引き付けただけで収まった空気の流れに、ゆるゆると息が漏れていく。緊張しきった様子で、パオリンがじりじりと距離をとって行くのに苦笑した。すまない、と声をかけようとした瞬間、駆け寄ってきたカリーナがキースの服を掴み、聞いてよっ、と訴えてくる。
「イワンのヤツ、メールも返信してこないんだけど!」
「……休暇、らしいからね?」
「そうだけど! 私、なにも聞いてないのに……せっかく、美味しいケーキ屋さん見つけたから皆で一緒に行こうと思って、楽しみにしてたのに! 予定狂ったじゃないの!」
目の前の怒りにやや我を忘れているカリーナは、どうもキースの能力的な不調に気が付いたそぶりもないらしい。まあまあ、と宥めているとそっと近づいてきたバーナビーが、少女の腕を引いて背中に隠してしまう。ちょっと、なによ、と眉を寄せるカリーナをちらりと見てからなにも言わず、バーナビーは呆れた様子でキースを見やった。
「ちょっと! バーナビー、なにっ?」
「この人、能力不調ですよ。気が付かないんですか、カリーナ」
今風が勝手に動いてたでしょう、と背中をぽこぽこ拳で叩いて抗議してくるカリーナを心底嫌そうに振り返ったバーナビーは、ぷーっと頬を膨らませる少女の顔に無造作に手を伸ばした。そのまま、膨らんだ頬を手で押しつぶそうとしてくるので、カリーナの表情が怒りに引きつる。全力で腕を押しのけて抵抗しながら、カリーナはああもうっ、とうっとおしげな声をあげた。
「やだ、アンタと遊んであげる気分じゃないの!」
「残念。僕は遊んで欲しい気分です。カリーナ、かまって?」
「首傾げないでよ可愛いでしょっ? ……これだから、これだから美形はっ……! もう、なにっ? なにして欲しいの?」
バーナビーの捨て身のおねだりに悔しがりながら負けたカリーナは、噛みつくような勢いで問いかけてやる。その腕を引っ張って自然な動きでキースから離しながら、バーナビーはんー、と口ごもって悩む。キースの傍にカリーナを置いておかないのが目的で、実の所言って見ただけなので、やって欲しいことがあるわけではない。考えて考えて、やがてバーナビーはあっと声をあげて満面の笑みを浮かべた。
「この間先輩が教えてくれたんですが、しりとりって遊びが楽しいそうです。カリーナ、しりとりしましょう」
「……三歳児の遊びを三歳児に教えたまま休暇で本人いないとかどういうことなのよ……ちょっと、パオリン! 付き合ってよ! 二人でしりとりとかするの、ヤだ!」
「えー、ボク、これから柔軟しようと思ってたのに……」
二人とも遊んでないでトレーニングしなよ、と窘めながら、パオリンはしりとりかー、と言う。
「でも、しりとりなら柔軟しながらでもできるかな……。バーナビーさん、カリーナ、柔軟しながらしりとりしよう? それならボクも付き合ってあげる」
「ふふ、ありがとうございます。パオリンは優しいですね」
「それ、私は優しくないみたいに聞こえるからやめてくれる?」
大体アンタ、タイガーが中々復帰してこないからって私たちに甘え過ぎなのよ、と怒りながらも、カリーナはバーナビーを連れて体操室へ足を向けてくれている。バーナビーとパオリンは顔を見合わせてくすくすと笑い、カリーナの後をついて行った。優しいですよ、カリーナ優しいよー、と二人分の声と共に少女の悲鳴が上がったのは、急に抱きつかれてバランスを崩したからに違いない。じゃれつかないでよっ、と怒りながらも顔を真っ赤にして照れるカリーナの姿が、目に浮かぶようだった。一連の流れを遠巻きに見守っていたネイサンが、仲良しねえ、と微笑ましく呟きながらキースに歩み寄ってくる。
「悪気はないのよ。許してあげなさいな」
「うん。……君は警戒しないね、ネイサンくん」
「そうねぇ、この間よりはキースちゃんの顔色が良いからかしら。精神的には安定してる気がするもの」
一度乗り越えた男って強いものよ、と楽しげに笑ったネイサンは、キースの乱れた髪を整えてやろうとしたのだろう。指先がキースに向かって差し出された途端、青白い光が視界できらめいた。ぶわっと音を立て、足元から風が巻きあがる。発動しているつもりもないのに現れた光と風は、息を飲んだネイサンが手を引くと同時に弱まり、やがてそよそよと穏やかなものに変化し、動かなくなる。なんだか、とても気まずい気持ちで視線を反らし、キースは違うんだ、と呟いた。
「今のは、私の意思では……」
「ええ、分かってるわ。……キースちゃんを守ってるみたいね」
それは、このひとに触れないで、と誇り高く跳ね除ける騎士の守護にすら似ていた。気を悪くしたりしてないわ、大丈夫よ、と告げながらも、ネイサンはじっとキースを見つめて考え込んでいる。妙ね、とネイサンが呟いた時だった。体操室からぱたぱたと足音を立てて戻ってきたバーナビーが、大慌てで室内を見回している。忘れ物でもしてしまった様子だった。
「バーナビーくん? どうしたんだい?」
「どうしたって、言うか……。……あれ、もしかして」
「バーナビーくん……?」
訝しく、それでいてなにか糸口を掴んだ様子で呟いたバーナビーは、キースをまっすぐに見るとつかつかと歩み寄ってくる。こちらに、なにか落し物でもしたのだろうか。きょろきょろと床の辺りを探して視線を彷徨わせるキースに違いますと苦笑して、バーナビーは集中したがるように、静かに息を吸い込んだ。
「ちょっと……失礼します」
動かないで、と言い添えて、バーナビーはキースの頬に手を触れさせようとした。青年の手の動きは確かにそれを成し遂げようと動いたのだが、それより早く巻きあがった風が、バーナビーの体を押しのけるように吹き荒れた。たまらず数歩離れるとすぐ、風はゆるゆると弱まって消えてしまう。驚いた風もなく、バーナビーはなるほど、と頷いた。
「オート発動するんですね。便利そうだ……」
「ちょっと、ハンサムったら。それはないんじゃない?」
「冗談ですよ、マダム。……すみません、キース。確かめただけなので、もういいです。ありがとうございました」
なんかこんなことだろうな、とは朝から思っていたんですよね、と疲れ切った溜息を吐きだして。アカデミーを卒業した経歴を持つイワンの正式な後輩は、ゆるく動く風を見つめるように、そっと穏やかな表情で目を細めた。それきりなにも言わず一礼だけをして体操室へ戻って行ってしまったバーナビーに、ネイサンは若いコのやることはよく分からないわぁ、と悩ましげな息を吐きだした。キースもそれなりに同感ではあるのだが、なにかが引っかかって、僅かに鼓動を早くする。いなくなりませんよ、と囁いたイワンの声が、聞こえたような気がした。
久しぶりに訪れる公園に、花束を持っては行かなかった。すこし前までは毎日辿っていた道の筈なのに、随分久しぶりのように思える。季節がゆっくり、巡って行ったからだろう。噴水の前の空気はひんやりとしていて冷たく、水の流れはどこか弱々しく見えた。キースが目指す場所をすぐ分かっただろうに、ジョンは大人しく足元に丸まって、いつかのようにうとうとと眠ってしまった。すまないね、と手を伸ばして愛犬の頭を撫で、キースはベンチの背もたれに体を預けた。夕方に差し掛かった茜色の空に、じわじわと差し迫る夜の気配を感じる。もう一時間もすれば暗闇に覆われる空に、瞬く星を地上から見ることはできないだろう。眩いネオンが支配するこの街の夜はひどく遠く、冷たい透明な気圏の傍でまどろんで、手元まで降りてくることがないのだ。風の生まれるところで、この街の夜は眠っている。ゆるりと明るさを失っていく世界の色を眺め、キースは静かに息を吐きだした。ここで、会えない彼女を待っていた時の気持ちを思い出す。会いたかった。ただひどく会いたくて、会えないことが寂しくて、なにかあったのだろうかと不安に思った。この街のどこかに彼女がいて、事件に巻き込まれた時、呼んでくれるヒーローの名が己であれば、どこにいても聞き届けてかけつけてやりたいと、そんなことを考えていた。彼女は一度たりともキースの名を呼ばず、隣に座って言葉を交わした男性が、スカイハイだと知ることもないのだけれど。もう一度彼女の声が空気を震わせてくれたらきっと、風がその言葉をキースに届けてくれただろう。どんな言葉であったとしても。
伝えたいのに、と泣きそうな声で言ったカリーナのことを思い出す。伝えられなかった言葉とか、気持ちとか、どこへ行くんだろう、と。泣きそうに告げて、それでも笑って、キースの手を引いて立ち上がらせてくれた、暁の光のような少女。彼女の想いがどうか上手に、空へ還って行きましたように。透明な、なにもかもが生まれて消えていくような、天の高く高く、地上からは遥か遠くの気圏の彼方へ。優しく迎え入れられ、痛みと共に抱きしめられ、ゆっくりと消えていきましたように。愛しいと思った記憶は消えないままで、愛しいと感じた気持ちが眠りについて、愛しさのあまり痛んでしまった傷が癒されて、そして。新しい恋になった時、その痛みを思い出して、怯えてしまいませんように。息を吐き出す。風がゆるく、吹いた。頬を撫で、瞼に、額に口付けて慰めるように風が吹く。目を閉じてその動きを受け入れ、キースはそっと腕を持ち上げた。
「……イワンくん」
ごう、と風が鳴る。耳元で、体のすぐ近くで。優しい響きで風が鳴る。守るように、傷つけぬように。寄り添うように、すぐ傍で風が揺れる。唇に、そっと触れる風のぬくもり。くすくすと笑って、キースはそっと目を開いた。そこには公園の景色があって、誰も立ってはいなかったけれど。
「君に、会いたい」
青白い燐光を宿し、風がゆらゆらとキースの傍で揺れ動く。それを優しい目で見つめ、キースは足元で眠るジョンを起こした。家に帰ってジョンにご飯をあげたら、キースはポセイドンライへ急ぐつもりだった。普段の予定より早いが、夜のパトロールに繰り出そう。技術者たちは訝しむかも知れないが、今のキースには『折紙サイクロンを探す』という目的がある。今日の朝は飛んでいないし、スーツはすんなり貸して貰えるだろう。飛ばなければいけない。地上にいては、きっと彼には出会えない。約束した言葉を思い出す。傍にいてくれるという言葉を、ちゃんと守ってくれた事実があるのなら、それを信じることができた。飛ばなければいけない。空の近くへ、地上より高くへ。いつもの通りに、いつものように、飛ばなければきっと出会えない。鼓動が弾む。思わず、笑顔になった。彼はキースの、降りていく場所だ。その為に差し出される手を、きっと。繋げると。ただ強く、信じられた。
嬉しくて、嬉しくて仕方がない。キースはスカイハイの衣装の裾をたなびかせ、夜の街を飛び回った。ブロンズステージからシルバーステージ、ゴールドステージの隅々までを見て回り、またブロンズへ戻ってくるりくるりと飛び回る。ポセイドンラインのモノレールと並走し、運転手に手を振れば苦笑しながら挨拶をされ、今日はご機嫌だねと外部スピーカーで呼びかけられた。そうなんだよ、と力いっぱい叫びたい気持ちでモノレールと別れ、キースはぐんと高度を引き上げた。足元には街。暗闇にちかちかと光る灯りの美しい、王冠のような形をした街。腕を広げればその中へ、すっぽりと収まってしまうくらい街がちいさくなる高さまで飛んで、キースは吹きすさぶ風と共に、天高くを見上げた。砕けた硝子を吸い込んだような、満天の星空。白、黄、金、赤、藍や、青く見える光もある。濃紺のキャンバスにぶちまけられた、色とりどりの宝石の欠片のように、ちいさく遠くに、美しく星が輝いている。あの場所に、告げられなかった想いが還って行くのだとしたら、なんて素敵なことだろう。手を伸ばしても触れられないくらい、遠く遠くの美しい場所。消えない。失わない。触れられないだけで、想いは燦然と輝いている。呼びかけることのできない、知らない名を、口ずさむ気持ちで息を吸う。あの場所で出会えた君への想いが、どうかどうか、あの星空で輝きますように。美しく、穢れもなく、透明な気圏を透かし見るあの場所で。ありがとう。そう囁いて、キースは意識して身に纏う風を消し去った。
足元にぽつりと見える星の都市に向かって、体が真っ逆さまに落ちていく。重力がぐんぐん体を引っ張るのにすこしだけ目を閉じて、ゆりかごのようにそれを感じながら、キースは全身を青白く発光させた。風は正しく、彼の望みを叶えて動く。ごうっと音を立てて突風が下からキースの体を支え、空中で停止させた時、そこはすでにシュテルンビルトの都市の中だった。さかさまの体を苦もなく支えながら、キースは下へ泳ぐように移動して、ポセイドンラインのビル付近まで来る。遠目に、ペガサス像の羽根の、ひび割れた痕が見えた。わくわくする。疑うこともなく、純粋に、ただ信じられた。両腕を広げる。息を吸い込んだ。
「君に会いたい。……君に、会いたい!」
ためらわず、キースはヘッドマスクを脱ぎ捨てた。機械越しの視界ではなく、生身の目でその姿が見たかった。震えて力の入らない手がヘッドマスクを空へ投げ、屋上に落下させていく。ガラン、と落ちる音が何処か空虚に響いた。
「イワンくん、イワンくん……! 飛んできたんだ。だから、どうか……私の、帰る場所を……帰る、場所に、君が……! 君がいて欲しい。君が、いて欲しいんだ! イワンくん……っ!」
必死に、手を伸ばした。ペガサス像の折れた羽根。その辺りで一度、繋がれたてのひら。強く、しっかりと。重力を体に思い出させてくれる、この身がひとであることを、思い出させてくれる。繋ぎとめてくれる、それは恐らく、たったひとつの。
「イワンくん!」
「……キースさん」
そっと、響く声が笑っていた気がした。きん、と澄んだ音がする。耳元をすり抜け、下へ風が吹いて行く。青白い光を散りばめた風の帯が、ペガサス像の羽根めがけて降り注いで行く。頬に触れて、過ぎ去って行く。それは確かに、イワンの気配だった。風に散りばめられた形が輪郭を形づくる。きん、ともう一度澄んだ音がして、キースは息を吸い込んだ。視線が重なる。そっと笑って、イワンはキースに手を差し出した。嬉しくて、ただただ嬉しくて、キースはイワンに手を伸ばす。指先が、絡んだ。そのまま滑らせててのひらをぎゅっと包みこむ。
「イワンくん。……イワンくん、イワンくん」
「……ご迷惑をおかけしました」
「傍にいてくれたんだね、イワンくん!」
君は私の風になってくれていた、と満面の笑みで告げるキースに、イワンはゆるく笑って繋いだ手に力を込めた。そうなっていた間の意識はなく、おぼろげに傍でまどろんでいたような、感覚だけが残っていた。もう片方の手を持ち上げてキースへ差し出せば、浮かんでいた体は腕の中、穏やかに落ちてくる。いつかも、こうして空から落ちてきたキースを抱きとめたことがあった。その時は転んで心配をかけてしまったけれど、今は柔らかな風がキースを着地させたから、かすかな靴音だけしか響かない。片手を繋がれたまま、もう片方の腕がイワンの背を抱き寄せた。ぐっと、強く抱き寄せられて息が詰まる。
「……イワンくん」
「はい。……キースさん、ごめんなさい。能力の制御が、急にできなくなってしまって……あなたが呼んでくれるまで、意識もたぶん、無い状態で、なにも覚えていないんです」
「会いたかったよ、君に。……君の技術主任が、泣くほど君のことを心配していた。ヘリペリデスファイナンスのCEOも。連絡して、安心させてやって欲しい……私の、話のあとに」
あ、じゃあすぐにでも、とPDAに伸びかけた指先を言葉で制止させて、キースはイワンに顔を寄せた。こつん、と額をくっつける。目を覗きこめば苦しげに、イワンは眉を寄せてしまった。駄目ですよ、とすぐ唇が吐息に乗せて言葉を囁く。
「キス、は、しばらく……いえ、もう、しません。できません。ごめんなさい、キースさん。あなたに触れると……能力の制御が難しくなるんです」
「私が、君へ恋を告げても?」
え、と言ったきり、イワンは言葉もなくキースを見た。呼吸の為に薄く開く唇に指で触れるが、スカイハイの手袋が皮膚ごしの感触を伝えてはくれなかった。それをひどく残念だと思いながら、キースはイワンに好きだよ、と言った。
「君に恋をしたよ、イワンくん。……君が好きだ」
「キースさん……?」
「好きなんだ」
身を屈めて、許可を待つ。指で震える唇を辿れば、すっと息を吸い込む動きすら感じ取ることができた。
「……好きにならないんじゃなかったんですか」
「うん、その筈だった。恋をすれば、失ってしまう気がしたから。でも、君は……傍にいてくれた」
「恋をしてくれなくても、傍にはいますよ?」
すこし時間はかかるかも知れませんが、落ちついてみせますから。大丈夫、と笑うイワンに、キースは首を振った。
「一日だって、我慢できなかった。……離れたくない」
「じゃあ、離れないようにしますから」
「……君はもう、もしかして私が好きではなくなったのかな」
そんなことはない、と。否定しようと吸い込んだ息が、喉の奥でつまる。キースの手がイワンの頬を包みこんで、ひどく愛しげに撫でたからだ。絡みあう視線の、距離が近い。それなら、と微笑んで、キースはそっとイワンに囁いた。
「もう一度、君に恋をしてもらいたい。……私を好きになってくれないかい、イワンくん。君に恋をしたんだ。だから……キスが、したい。君の恋を、どうか……私にくれないだろうか」
「恋なら」
「うん?」
目を細めて、愛しいと、笑って。問い返すキースに、イワンはもうどうしようもない気持ちで、笑いながら言った。
「ずっとしています。……ずっと、あなたに恋を」
「イワンくん」
「あなたが恋しい。きっと無意識に、あなたの風そのものになって、傍にいたいと思ってしまうくらい。好きです」
唇をなぞっていた指が、イワンの顎を持ち上げる。ちゅ、と可愛らしく音を立てて触れた唇が、くすくすと笑いながらイワンの額や頬、鼻先に押し当てられていった。
「くすぐったいですよ」
「ん? うん、もうすこし」
「……あんまりいつもと変わりませんね」
苦笑気味に呟くイワンの唇にそっと触れ、キースは額をくっつけたまま、困ったように首を傾げた。
「駄目だろうか……」
「駄目じゃないですけど。……ちょっと口開けてくれますか、キースさん」
「うん?」
にっこり笑ってよく分からないように首を傾げるキースに、イワンはとても楽しそうに笑みを深めた。
「……恋人のキスしてあげますから。ね?」
「唇に、だろう?」
「うん、そう。唇に」
ああ、でもここだとちょっと危ないかな、と言ってキースの腕の中からするりと抜け出し、イワンは身軽な仕草で屋上のコンクリートの上へと降り立った。そして改めてキースに手を差し出してくる。今度こそ、繋ぎとめられるのだろう。そっと手を繋いで引っ張られながら、キースはお手柔らかに頼むよ、と囁いた。考えておきます、とイワンは笑って、その唇に口付ける。イワンの帰還報告は、翌日の朝、ヘリペリデスファイナンスに送られた。
シャワーを浴びてすっきりして、ほこほこしながら良い気持ちでトレーニングルームに戻ってきたパオリンは、ほわほわの白いタオルで髪を拭いながら、思い切り首を傾げた。
「……ねー、カリーナ?」
「聞かないでよ?」
「これ、なにが起きてるんだと思う?」
聞かないでったらっ、とややヒステリックな叫びがトレーニングルームに木霊する。二人がシャワールームへ消えるまではアントニオとネイサンの姿もあったのだが、いつの間にか消えている所を見ると戦略的に撤退したのだろう。シャワーを浴びる前に見かけた時は、関わりたくないので帰るわ、という表情でネイサンはアントニオの尻を撫でまわしていた記憶があるので。私も髪の毛乾かしたら帰ろうかなぁ、と思いつつ視線を明後日の方角に流し、カリーナはふー、と細く長く息を吐きだした。そして、とりあえず、という風に唇を動かす。
「あんまり見ちゃいけないことは確かね。なんか……感染とかすると、嫌だし」
「うーん。そうなんだけどさー? ……ねー、タイガー! キースもさー! なにしてるのーっ?」
ねえなんで声かけるの、と死にそうな目で見つめてくるカリーナにだって気になると唇を尖らせて、パオリンはトレーニングルームの端をびしっとばかりに指差した。
「だって、壁の方向いてしゃがみこんで動かないんだよ?」
「そうね。男には色々事情があるのよ。ほら、いいから髪の毛乾かしなさい! タオルドライしたら、ドライヤーよ?」
「ボク、ドライヤーきらい。ごーって音するの怖い」
ぷー、と頬を膨らませて嫌がるパオリンの額を指先で突っつき、カリーナは音くらい我慢しなさい、と言い聞かせた。家電を自由に使いこなすには最適な能力のくせに、その稼働音がどうも苦手であるらしい。嫌だよぉ、と呟きながらがしがしと濡れた髪を拭い、パオリンは小走りに、横長のソファへと走り寄った。ひょこ、と背もたれから顔を覗かせて、伺う。
「わ、まだ寝てる! バーナビーさん、起きないねぇ」
「んー、数日寝てなかったみたいだからね……。メールはしたんだけど、実際に会うのが今日だったから」
「イワン、休暇だったんでしょ? なにが心配だったのかな」
不思議そうに首を傾げて呟くパオリンに、イワンはそうだね、とのんびりとした声で返し、腰に腕を巻きつけて、膝枕で眠りこける後輩の頭をそっと撫でてやった。身だしなみに気をつけているバーナビーの髪は、さらさらで柔らかくて気持ち良くて、なんとなく良い香りがする。よしよし、と飽きずに撫でていると、ぽすん、と音を立ててパオリンが隣に腰かけた。
「ねー、カリーナもおいでよー。久しぶりのイワンだよ? なにか言いたいことあるって言ってなかったっけ?」
「え? ……あ、あー! そうだ、ちょっと! バーナビーにしりとり教えたまま、休暇に入ったりしないでよ! ここ四日……五日間くらい? バーナビー、しりとりしたいって大変だったんだから! 付き合うこっちの身にもなってよね!」
「断ればいいのに、ちゃんと付き合ってあげたんだ?」
カリーナは優しいね、と笑うイワンに、優しいんだよねー、とパオリンが楽しげに口元を押さえて肩を震わせる。少女は顔を真っ赤にしてふるふると身を震わせたあと、ふん、と鼻息も荒く、パオリンと、イワンを挟むようにしてソファに腰掛けてしまった。ちらりと視線を流し、未だ立ち上がれない虎徹とキースを確認する。パオリンとは違い繊細な手つきで髪の水分を拭いつつ、カリーナはねえ、とイワンに声をかけた。
「あれ、いいの?」
「よくはないけど……キースさんだけだったらどうにかできるよ? でも、タイガーさんはバーナビーさんが起きないとどうすることも出来ないし……まだ起きる気配はないし」
「バーナビーさん、イワンさんのこと大好きだよね。入ってきた瞬間、抱きつきに行ったもんね……。でもイワンさんもよろけたりしないで、ちゃんとぎゅって出来るのすごいね? ボクだったらよろけちゃいそう」
虎徹とイワンがトレーニングルームに復帰した日は、全く同じ、本日である。イワンは一週間の休暇を前倒しにして来たのだが、虎徹は元々の予定日であったらしい。能力の減少もストップし、徐々に回復してきていることを仲間たちに報告していた所、キースと連れだってイワンがやってきたのだ。その瞬間のバーナビーは、とても素早かった。思い返して、パオリンがしみじみ感心してしまうくらいぱっと虎徹の傍から離れたバーナビーは、苦笑しながら腕を広げて待っていてくれたイワンの胸に飛び込み、ぎゅぅっと抱きついて先輩、と呼んだのだ。イワンは笑いながらバーナビーさん、と呼び返す。そのまま先輩、はい、バーナビーさん、先輩、バーナビーさん、のやりとりが五回くらい続いて、ようやく安心できたのだろう。イワンの肩にすりすりと擦りつけていた顔をあげて、頬を押しつけ、バーナビーはほんわりと笑って、イワンにおかえりなさい、と言った。そして、それからすぐ急激な眠りに襲われて、なんとかソファまで移動して膝枕をした所で、ことんと意識を落っことしてしまったのである。キースの話によるとバーナビーはイワンの『休暇』初日に、すでに先輩がなにに擬態していたのかを理解していたそぶりがあった為に、逆に、姿を現してくれるまで心配でならなかったのだろう。俺も復帰してちゃんとバニーに会うの今日が初めてなんだけど、と灰色の声で告げた虎徹に詳しい事情を説明する訳にも行かず、なんとか誤魔化していたら壁の方にふらふらと歩いてしゃがみこまれたまま、現在まで至っている。キースがそれにお付き合いしてしゃがみこんで落ち込んでいるのは、たぶん、イワンが膝枕をしてあげたことがない上に、あんまりバーナビーががっちり抱きこんでしまっているので、退かすことも私もと言うこともできず、悲しくなってしまったからだろう。キースは案外めんどうくさい。
あとで膝枕して頭撫でてあげればご機嫌取れるかなぁ、と内心で溜息をつきながらさらさらの後輩の髪で指を遊ばせるのを止められず、イワンはパオリンに、バーナビーさんは抱きついてくる時の体重の分散が上手いからね、と言った。
「だから、パオリンでも倒れたりしないと思うよ? 今度やってみれば、えーっと……再会ごっこ」
「なにそれ! やりたい!」
「ちょっとイワン! 手当たりしだい変な遊びふきこむの止めなさいよ! 付き合わされるのは私なんだったら!」
鞄からごそごそとドライヤーを出しながら文句を言うカリーナに、イワンはふう、と溜息をついた。
「変って言われても。ちょっと片方が腕を広げて待っててあげて、もう片方がそっちに飛び込んでいってハグするだけの簡単な遊びだから。カリーナが嫌なら、バーナビーさんとしなければいいでしょ?」
「私が嫌とか言ってみなさいよ。泣くのよ? これ」
「カリーナ、口では文句いっぱい言うけど、バーナビーさんのこと大好きだから。恥ずかしいだけなんだよね?」
訳知り顔で笑うパオリンに微笑みを浮かべて、カリーナはドライヤーのスイッチを入れた。即座に子猫のような動きでぴょんっと飛び上がり、ソファから逃亡しようとしたパオリンを身を乗り出して捕まえて、カリーナは動かないーっ、と叫んで髪にドライヤーを向ける。きゅっと身を固くして目を閉じてしまったパオリンは、ふるふる震えて手で耳を塞いでしまった。きよらかな声で歌を歌いながらパオリンの髪を乾かしているカリーナに、イワンはそーっと口を開く。
「いじめてるみたいに見えるんだけど……あとなんで僕の体の前で、僕を挟んでやるの?」
「偶然に決まってるでしょ? ……てゆーか、バーナビーはなんで床に座ってるのよ。おかげで私が座れたけど、これじゃ体痛くなったり、風邪引いたりしない?」
「カリーナー、まだ? まだ? ねえ、まだ? まだ?」
はいはいまだまだもうすこしー、と言い聞かせつつ、カリーナは慣れた仕草でパオリンの髪を乾かしてやっている。向けられた疑問に風邪は大丈夫だと思うけどと呟き、イワンは上半身だけをソファに乗り上げて眠るバーナビーを見下ろした。まぶたを閉ざした横顔は、この騒ぎにもすうすうと気持ちよさそうな寝息を響かせるばかりで、起きる気配を見せもしない。疲れてたんだね、と撫でてやりながら、イワンはやや狭くなったように感じる空間に眉を寄せ、カリーナの髪に手を伸ばした。
「カリーナも、終わったら髪乾かしなよ? それこそ風邪引く。……床なのはね、ソファまで間に合わなかったんだよ」
「寝ちゃったの?」
「うん、寝ちゃったの。赤ちゃんみたいだよねー。充電切れるとこてんって寝ちゃうの。可愛いなぁ……」
心底後輩を可愛がる溜息をついて撫でるイワンに、カリーナはやや無感動にふぅん、とあいづちを打った。
「イワンって、手間暇かかるめんどくさ系が好きよね」
「なにそれ」
「だって、なんかそんな感じがする。心当たりとかない? たとえば、あの、ほら……技術者さんとか」
瞬間、イワンの脳裏にキリサトの姿が鮮やかに浮かび、思わず返す言葉が出なくなる。確かにキリサトは手間暇かかるめんどくさ系ではあるのだが、嫌いではないが、好みでわざわざ選んでいる訳でもない。考えて言葉を選んで反論しようとしたイワンに、カリーナは壁の方を指差し、さらりと言った。
「キースとか」
「……なんで分かるの」
「アンタね、ひとに散々相談しておいて、それ?」
下手に誤魔化すと後が大変そうなので認めてしまうと、カリーナは呆れ切った顔つきで眉を寄せ、ドライヤーのスイッチを切ってパオリンを開放した。うわあぁあんっ、と半分泣いているような声をあげてカリーナから離れたパオリンは、イワンの背にぴたっと体をくっつけ、さらさらの髪を擦りつけるように甘えてくる。
「イワンさん! カリーナがいじめるよ! ボク、嫌だっていったのに! ドライヤー、嫌だって言ったのに!」
「うんうん。よく頑張ったね、パオリン。飴食べる?」
「食べる!」
ぱぁっと顔を輝かせたパオリンの口に持っていた飴玉をぽんと入れてやると、少女はすぐにご機嫌な様子でバーナビーの寝顔を観察し出した。その手際の良さに白い目を向けながら、カリーナも己の髪を乾かす為、ドライヤーのスイッチを入れる。
「……あ、カリーナも食べる?」
「別に食べたかったんじゃないし……もらうけど」
「来る時に、アポロンメディアの技術部Tチーム? だっけ、タイガーさんのチームとすれ違って、なんか飴とかチョコとか、ヌガーとかいっぱいポケットに詰め込まれたんだよね……」
最近、バーナビーさんは彼らを見るなりポケットを押さえて逃亡を図るから詰め込めないらしくて、と言うイワンに、カリーナは他社のヒーロー事業部事情に、頭が痛いような気持ちで額に指先を押し当てた。
「なんで……? バーナビーが可愛がられてるってこと?」
「んー。おおきく育てよ、とか言われたから、年下に無差別にお菓子をあげたいだけじゃないかな。ほら、タイガーさんのチームって平均年齢五十代で、単身赴任の人が多いって聞くし」
「タイガー・サポーターってちょっとおちゃめすぎない? こないだだって、タイガーがまだドクター・ストップ解けてないのにバーナビーと一緒にいて出動要請が聞こえたからとか、なんとか言ってさ。スーツ着ようとした時に、お前のスーツをはちみつ好きなクマさんカラーに塗り替えるぞ著作権とか恐れずに! とか叫んだんでしょ?」
というかペインティングが好きなのかしら、と悩むあまり手が止まってしまっているカリーナからドライヤーを受け取り、イワンは深々と溜息をついた。交流が盛んになるにつれ、結局各社事業部の変人具合が五十歩百歩のような気がしてきてしまって、大変憂鬱な気分である。それでも、それなのに、燦然と一位の座を独走する変態事業部が自社のヘリペリデスファイナンスだと、誰よりイワンが確信してしまえるのが物悲しい。それくらいは可愛いものだよ、と呟きながら髪を乾かしてくれるイワンにふぅん、と頷いて、カリーナはそっと首を傾げた。
「……よく寝てるね、バーナビー」
「ね。……はい、乾いたよ」
「ありがと。……ね、膝痛くなる前に、そーっとバーナビーの頭持ち上げてさ。私、交代するよ? 痺れてない?」
眠れてないのは私も知ってたし、ここで起こすのは可哀想じゃない、と苦笑しながら提案するカリーナに、イワンは柔らかな声で大丈夫だよ、と告げた。
「ありがとう、カリーナ」
「どういたしまして。……でも、ねえ、本当に交代しようか? キースだけでもどうにかした方が、よくない?」
アンタまで寝るんじゃないのよ、とイワンの背中にくっついてうとうとするパオリンを突いてむずがらせながら、カリーナは嫌そうな顔つきで壁の方を見る。
「今出動あると困ると思うし……」
「って言うと出動コールかかるからやめ……て欲しかった」
「あーあ……」
ヒーローたちの手首で、PDAが事件を告げる。鳴り響く独特の音に顔をしかめていると、イワンの膝の上でもぞもぞと、バーナビーが身じろぎをした。ぼーっとまぶたを持ち上げたバーナビーは、そのままぼーっとPDAに指先を伸ばし、頭をふらんふらんと落ち着きなく揺らしながら、寝ぼけた声ではい、と言った。
「バーナビーです。……事件ですか?」
『嫌だなぁって声を出さない! 起きなさい! ……ボンジュール、ヒーローズ。ファイアーエンブレムとロックバイソン以外は、一カ所にお揃いのようね?』
手元の位置情報で照合したのだろう。確認してくるアニエスに頷きながら、イワンは画面をひょこりと覗き込んだ。
『あら、おかえりなさい。休暇はもういいの?』
「はい。突然でご迷惑おかけしました……事件ですか?」
『特・ダ・ネ・よ?』
ふ、ふふふふふ、と堪え切れずに笑うアニエスが、ちょっと怖かったのだろう。そーっと手首を体から遠ざけて身を反らすバーナビーを気にした様子もなく、アニエスは輝く瞳で出動よ、と告げる。その、背後で。ひらん、と動いた白衣の裾を、イワンは実の所とても見なかったことにして通信を切ってしまいたかったのだが。それよりも早く、画面の向こうから声が響く。
『準備万端! ととのいましたー! いわ……折紙くん! 折紙くんっ! 出動です! 出動ですよー!』
「キリサトさんはなんでそこにいるんですか……」
呻くイワンに、白衣を画面の端に見切れさせた技術者は、うきうきうきうきした声で告げた。ハッキング対策で呼び出されました、と。もうすこししたら準備終わるので、トランスポータオで会いましょうね、と告げられて、イワンがその時が来たことを悟った。思わず、天井を見上げる。現在位置はジャスティスタワー。もしかしたら今からここが、戦場になる。