ああ、マツカの淹れたコーヒーが飲みたい、と眠い頭を動かしながらセルジュは思った。基本的に、一応マツカは軍人でお茶係などではなかったのだが、キースはなにかにつけてはコーヒーを注文していたし、儚げな青年は穏やかに微笑んでそれに応えていた。もしかしたら、キース専用のコーヒー係だったのかも知れない。そんなマツカのコーヒーを、セルジュは時々、多めに用意したからと飲むことがあった。
よっぽど時間の無い時意外は、その場で豆から挽いて丁寧に淹れられたコーヒーは、確かに驚くほどおいしいもので。軍や警察のコーヒーが毒味だ、と囁かれた時代は終って久しいのだが。それでもコーヒーメーカーに頼らず、キースが一々マツカに頼んでいた理由なら、それで十分なのだった。マツカのコーヒーが飲みたい、と思い出を振り返るでもなくぼんやりと思って、セルジュは白いマグカップを持ち上げた。
並々と淹れられたコーヒーは、優しい光の満ちる朝に相応しいようなカフェオレで。セルジュはため息をついたあと、それを一口飲む。おいしい。けれど、一味違う。どうすればマツカの味になるんだろうと考えながら、セルジュはマグカップを机において。そしてため息をつきながら、机越しに正面に座っている赤い物体を、忌々しげに睨みつけた。トォニィはセルジュからの視線に、居心地が悪そうに座りなおす。
しかし、立ち上がって出て行くそぶりは見せなかった。ひそかにそれを期待していたセルジュは、昨日寝るの遅かったのに、今日は休暇だからゆっくり寝ようと思ってたのに、と大人げなくぶつぶつグチを並べ立てたい気持ちをぐっとこらえ、もう一口カフェオレを飲みこんだ。
「それで?」
朝早く、シャングリラからセルジュの自宅へ直通回線で連絡をいれ、その直後に転移してきたトォニィは、一通りの説明を終えてからなにも語ろうとしないのだった。思い悩んでいるのは、説明の口調が不安げに揺れていたことで分かっているので、できるならじっくり考える時間をやりたいとも思うのだが。なにせ、セルジュは眠いのである。カフェオレの、かすかに残る苦味では頭が起きてくれないくらいには。
会話していなければ、椅子に座ったままで寝る危険性もある。あくびをかみ殺して問いかけたセルジュに、トォニィは幼い仕草でうん、と頷いた。それからそろそろと視線を上げ、怒られるのを恐がっているこどもそのものの表情で口を開く。
「シドが言った理由。セルジュなら分からないかな、って」
「誰かから聞いた答えで、相手が納得すると思うのか? トォニィも、自分で納得できるなら」
言ってやらないでもない、と告げるセルジュに、トォニィはしゅんとしてしまった。納得するとは思えないし、自分でも受け入れがたいが、どうしても分からないので聞きに来たのだろう。シャングリラの中に居る者ではなく、セルジュを頼ったのは、まだ良心が痛みにくい相手だからだろうか。新国家元首と、新ミュウの長としての付き合いに加え、友達として交流し始めてからの時間は、決して多いとはいえない。
腹を割って話せる相手として選ばれたのではないことは確かだ、と思いつつ、セルジュはカフェオレをゆっくりと飲み込んだ。そして、トォニィには角砂糖の詰まった瓶を取ってやりながら、冷めないうちに、と勧める。そろそろ湯気の立たなくなったマグカップに、トォニィは角砂糖を二ついれ、スプーンでくるくるかき混ぜながらため息をついた。一緒に、涙もこぼしてしまいそうな様子だった。相当悩んでいるらしい。
その落ち込みに免じて、朝早くからの非常識な訪問を許してやろうと思いつつ、セルジュは時計を見た。七時二十分。トォニィが飛んできたのは七時ちょうどだったから、もうかれこれ二十分はこうしている計算になる。長すぎるとは思わないが、これ以上は同じことだろう。半分ほど中身の消えたマグカップを机に置き、セルジュは椅子から立ち上がった。視線だけで後を追うトォニィに、セルジュは笑いかけてやる。
「朝ごはんは、食べてきたのか?」
「え。……ううん、まだ」
幼い否定の言葉に、セルジュは微笑を深くした。呆れるよりなにより、トォニィの本来の年齢を思い出したからだ。ミュウの母船ではじめて説明された時は、相手の精神状態を疑ったものだが、こうしてみると納得できる。ちいさいこども、なのだ。ならば大人が出した課題に、悩むのも生きるうえでの仕事の一つだろう。なに、といぶかしげなトォニィに笑いかけることで思考をごまかし、セルジュはよし、と頷いた。
「じゃ、今から作るから、手伝え。多少の注文なら聞いてやる。それで、食べ終わったら出かけよう」
「ど、どこに?」
慌てて立ち上がったトォニィの手首を掴み、半強制的にキッチンへ引きずって行きながら、セルジュは言葉すくなに研究所、と言った。
「地球環境研究……観測所、ともいうか。まあ、そこに」
本当は明日か、明後日くらいに呼び出して連れて行くつもりだったのだけれど。一日早くなったのも、なにかの導きだ、と思うことにして。セルジュはフライパンを熱する片手間に研究所に連絡をいれ、予定が一日早まったことを伝えた。そして、なにをすればいいのか分からないらしく、オロオロと辺りを見回すだけのトォニィに苦笑して。冷蔵庫から卵を二つ出して来い、と言った。
新国家元首と三代目ソルジャーの姿に、警備員はたいそう驚いたようだった。明日ではなかったのですか、とセルジュに問いかける隣で、トォニィは不思議そうな表情になる。問いかけるように視線を送れば、セルジュは笑顔一つで警備員を黙らせているところで、それと同じ表情を保ったままでトォニィを振り返った。相手から反論と質問、言葉の一切を奪ってしまう笑みだった。とりあえず黙れ、と言いたげな。
とんでもなく、恐い。思わず足を一歩引いたトォニィに、セルジュは笑みの種類を温かなものへと変化させる。ちいさいこどもを恐がらせてしまった己に反省しているような、それだけで反応するトォニィを可愛がっているような、どちらとも受け取れる表情だった。思わず唇を尖らせるトォニィに肩を震わせて笑い、セルジュはトォニィの手首を掴んで歩き出す。背はトォニィの方が高いので、そうするとひどく歩きにくい。
むっとしたトォニィは白一色の清潔にして簡素なたたずまいの廊下を歩きながら、セルジュの手を振り払った。苦笑しながら振り返るのを睨み返して、トォニィは全く、と無防備なセルジュの手を手で取った。そして掴むのではなく、きゅっと繋ぎ合わせて。目をぱちぱちと瞬かせるセルジュに、掴むなよ、と拗ねた声を響かせた。
「繋ぐのと掴むのは、違うだろ? 別に連行されてるんじゃなくて、一緒に行ってるんだから……手は掴むじゃなくて、こうやって繋ぐもの。分かった?」
「……可愛いなぁ」
しみじみ、心の底から呟かれてなでられて、トォニィは一瞬硬直した後で真っ赤になってしまう。こども扱いするなーっ、と叫べば、前を歩いていた案内役の女性もが振り返り、好意的な笑いで肩を揺らした。すこしだけ見え隠れしていたミュウへの恐怖が消えていたことは嬉しいのだが、そんな風に笑われて気分がよくなるわけもない。ぶっすーっ、と拗ねきった表情になってしまったトォニィに、セルジュは笑った。
「シャングリラのキャプテン・シドが、君をどうして甘やかさないのか、と思ったのだけれど」
答えが分かったよ、と告げるセルジュに、トォニィはそれはそれは嫌な顔をした。こんな可愛いの、甘やかしたくなって仕方がない筈だもんな、とセルジュの心が告げていたせいだ。トォニィの額を指先で軽く弾き、人の心を読まない、と優しく咎めて。それからセルジュは、くすくすと笑う。軍人や新国家元首というより、こちらもまだ歳若い青年の表情で。それでいて落ち着きある風格を漂わせ、セルジュは言った。
「君なら答えに辿りつけるからだ……ま、大人になんかはゆっくりなればいいさ」
ぼくは大人だ、と告げてくるのに外見だけはな、と頷いて。歩みを再開しながら、セルジュはトォニィを温かな眼差しで見上げた。セルジュは、トォニィの大切なものをいくつも奪ってきた。そしてトォニィも、セルジュの大切なものをいくつも壊してきた。どちらのものも取り返しがつかなくて、これからどれほど時間が経とうと元に戻ることはない。トォニィの中にも、セルジュの中にも、消えぬ痛みと憎悪は存在している。
けれど、それを乗り越えて。痛みを痛みのまま、憎悪を憎悪のまま、無理に消そうとしないで。受け入れて、受け止めて。その上で手を繋いで、人とミュウはこれからを歩んでいくのだ。不服そうなトォニィの手を強く握って、向けられる視線にセルジュは素直に笑いかける。
「トォニィ?」
「なんだよ」
「泣いたら慰めてやる」
はぁっ、と理解できない叫びが響いたと同時に、案内役の女性が目的としていた部屋の扉を叩く。中からは入室を許可する声が響き、セルジュは女性に下がるように目で命令する。そしてセルジュは一度だけ息を深く吸い込み、戸惑うトォニィに向き直って口を開いた。
「本当は、明日になったらここに連れて来ようと思っていた。明日になれば、今考えていることが可能か不可能か、その結果が出るからだ。可能ならこれが第一歩で、不可能なら、どうすれば可能になるかを君たちと一緒に考えようと思ってた」
「セルジュ。なにを、言ってるのか」
「地球は、蘇るんだ。トォニィ」
なにを、言われているのか。トォニィは、よく分からないようだった。呆けた表情で視線だけが返されるのに、セルジュは根気よく言い聞かせる口調で説明を続ける。
「ぼくたちは、別に地球を見捨てて脱出したわけじゃない。とりあえず、今住めなくなったからアタラクシアやエネルゲイア……他の星の、住むに適した場所に居を構えているだけだ。きみたちも、地球に戻れないわけじゃない。いいか? ミュウと人類は、これから、一緒に、地球を再生させて、蘇らせて、そして一緒に戻る為に生きていこう。その第一歩としてぼくたちは……地球の大地を再生させようと思っている」
「あれ、再生できるの?」
母なる地球の状態といえば、目を背けたくなるほどひどいものだった。機械で制御された町は、動力と住み人を失って完全なる廃墟と化し、干上がった海は亀裂を走らせるばかりで水を抱きしめることがない。大地は吹き上げる溶岩に覆われて、先日やっと冷え固まったばかりだった。かつては青と緑の美しい星だったという地球は、黒と灰色の醜い姿になってしまっていて、とうてい元に戻るなどと思えなかった。
信じられない、と言外ににじませて言うトォニィに、セルジュはぼくも信じてなかった、ときっぱり言い放つ。
「だからこれは、閣下と……君たちの長だった、ジョミー・マーキス・シンからの贈り物だろうな」
「……え?」
「見せよう。その方が早い」
必要な説明は、今たぶん全部した、と言い放って。セルジュはトォニィが止める間もなく、白い扉を内側に開け放った。そして繋いだままの手をぐいと引っ張って、トォニィの体を部屋の中に入れてしまう。トォニィは抗議しようと口を開き、視線をあげて、そして大きく息を吸い込んで硬直した。視線の先で、緑の葉が揺れる。部屋の中は半分が機械が置いてあり、もう半分がガラスで区切られた畑になっていた。
機械のモニターは畑の様子を様々な角度から分析しているようで、トォニィにはよく分からない数字や言葉がずらずらと並んでいる。呆然と畑に揺れる植物を見つめることしかできないトォニィに、セルジュは優しい表情でどうだ、と問いかけた。
「感想は?」
「この花……ナスカの」
室内に吹く人工的な風に揺れ、誇らしげに咲き誇る植物は。
「父さんの、花」
ミュウたちが既存の植物に手を加え、ナスカの荒涼たる大地でも育つようにした植物が。そこに、あった。
まばたきごとに視界が歪んで、頬を涙が伝っていく。息を吸い込もうとすれば喉は引きつるばかりで、肺にまで酸素が届かない。失った故郷と両親に対する愛おしさと悲しさでいっぱいになって、それ以外は考えることさえ出来なかった。視線だけはナスカの花から動かさず、トォニィは声もなく涙を流していた。ため息をついて手を伸ばし、セルジュはトォニィの頭を己の肩へと導いた。そして優しく、頭を撫でてやる。
「話は後だ。泣きたいだけ泣いて、涙が止まったら……説明してやるから」
「泣き、たい、わけじゃ、ない」
「そうか」
それは困ったな、とバカにするでもなく優しく呟いて、セルジュはトォニィの頭をよしよし、と撫で続ける。ふわふわの赤毛は、しっとりと手に馴染んで触れていて気持ちがいい。撫でるのクセになったらどうしよう、と内心でため息をつきながら、セルジュは困惑の視線を投げかけてくる研究員たちに、微笑を向けて唇に指を一本押し当てた。人間は思念波で意志を共有できないが、仕草で意味を伝えることならできる。
そっとしておけ、あるいは暖かく見守ってくれ、という新国家元首の頼みごとを、断るものなどいなかった。ある者は苦笑しながら仕事に戻り、ある者は温かな目をトォニィに向けてくる。ミュウも泣くんだ、と軽く感心したような、悪意のない呟きがどこかでもれた。それこそが、長い間人類とミュウという種族を分けていた壁であり、そして歩み寄っている証だ。トォニィの頭を撫でながら、セルジュはマツカを思い出す。
気弱な青年だった。どことなく弱い印象の、穏やかな存在だった。けれどセルジュは一度として彼の涙を見たことがなかったし、恐らくは人前で泣けるような性格でもなかったのだろう。対してトォニィは、強い印象の青年だ。中身はまだほんのこどもだが、その姿からは鋼のような強さがうかがえる。共通しているのはミュウという種族である、それだけで、まるで対極の二人だった。だからこそ、分かることがある。
大丈夫。マツカが示してくれた通り、ミュウと人類は手を取り合って先に進んでいける。大丈夫、と己の中の決意を深めて、セルジュはちょうど泣き止んだトォニィの頭から手を引いた。そして幼い仕草で目をこすっているのをやんわり止めさせて、セルジュはくす、と笑う。
「泣き虫」
「そ……んなこと、ないよ」
「目が泳いでるぞ」
嘘をつくならもうすこし上手になれ、とろくでもないアドバイスを響かせて、セルジュはガラスで区切られた花畑へと目を移す。人工的な風が時折吹くその花畑では、ナスカの花が優しく揺れていた。獲物に狙いを定めた猫のように、無心に無邪気に花を見つめるトォニィは、落ち着いたのだろう。もう涙を浮かべる様子もなく、小さく手を握って静かな呼吸を繰り返している。大丈夫かな、と思いセルジュは言った。
「これまで、何度も地球に植物を根付かせようという試みはされてきた。暑さや寒さに強く、病気や害虫に耐え、繁殖力が強く、枯れた砂漠でも、湿地でも、どんな環境にも適応し、繁殖が出来る植物を選んで。原種のままで試してみたり、品種改良や遺伝子改良も重ねた。もう何百年も、人類はそんなことを繰り返しながら地球に緑を根付かせようとしていたんだが。全部、上手くいかない。すぐ枯れてしまうんだ」
その花畑は地球から運んできた土で出来ている、と言われて、トォニィはガラスに近づいた。そして花畑を、まじまじと見下ろす。赤茶けた土だった。特になんの変哲もない『土』に見えた。ふぅん、と無感動な呟きをもらすトォニィにすこし苦笑しながら、セルジュは言葉を重ねる。
「で。すこし前、僕らは君らの……なんだっけ、植物管理部? 生産部? なんだかそんな名前のところに協力を頼んだんだ。今言ったような条件に適応する植物、この際だ、野菜の種だろうと果物の種だろうと、データだろうとなんでもいい。僕らの手元にないものを、持っていたらくれないか、ってね」
「植物生産・管理・開発・維持部じゃない?」
「あ、それそれ。長いんだよ。縮めろ」
今日、船に帰ったらソルジャー命令でも発動して短くして来い、と積極的な職権乱用をなんでもないことのように指示して、セルジュはトォニィの呆れの視線をものともせず、にっこりと笑った。
「という経過を経て、僕らの手に渡ったのがこの花の種だ。ナスカの花だと、聞いた。君の父親が開発した花。僕らが持ちえなかったもの。暑さや寒さに強く、病気や害虫に耐え、繁殖力が強く、枯れた砂漠でも、湿地でも、どんな環境にも適応し、繁殖が出来る植物。そしてなによりこの植物は、汚染された土壌を再生させる特質を持っている。……運んできた時には、ほぼ黒に近い土だった。信じられるか?」
セルジュに向けていた視線を、ゆっくりガラス越しの土に戻して。トォニィはもう一度、その色を見た。赤茶けた土。光の加減もあるのかも知れないが、どう見ても黒には思えない。うそ、と幼く呟くトォニィの反応を、予想していたのだろう。研究員に向かって無造作に手を差し出したセルジュは、灰色の封筒を受け取って、その中から写真を取り出した。写真は全部で五枚あり、どれも裏面に日付が書かれている。