理想郷の名を持つミュウたちの船は、白い鯨を思わせた。それでいて、画家が伸びやかに引いた一筋の線のようで、全体の設計図を見せられたとき、ブルーは思わず感嘆のため息をもらしたものだ。シャングリラのフォルムは、すっと素直に引かれたゆるやかな曲線で描かれている。しなやかで伸びやかで、無駄のない美しさだ。それでいて凛と響くような力強さを持ち合わせているのだから素晴らしい。
美しい船、素晴らしい船だとミュウたちは己の居住船をもてはやしたが、ブルーは全くの同感だった。だからこそ、なのだろうか。シャングリラに来て数日も経たないうちに、ブルーは雲海をのびのびと泳いでいく船に愛おしささえ感じるようになっていた。住む場所になれるには、そこを愛するのが一番だともされるから、ブルーはもうすっかり新しい環境に慣れてしまって、お目付け役のリオを驚かせたくらいである。
もっともリオは驚いただけではなく、嬉しそうに目を細めて笑い、ソルジャー・シンもお喜びでしょう、と告げてくれたのだが。今現在のブルーの不満といえば、そのソルジャー・シンに会えないで居ることくらいだった。どうもブルーを迎えに行った疲労が取れないらしく、ミュウたちの長はずっと寝込んでしまっているらしい。心配で申し訳なくてたまらなくなるブルーの気持ちを、しかし癒してくれたのもその人だった。
会えるわけではない。しかしソルジャー・シンの気配は船の隅々にまで細やかに届いていて、どこに居ても優しい気持ちが胸に染み入ってくるのだ。暖かで穏やかで、すこしだけ恥ずかしくなってしまうくらいに愛おしい気持ち。それはソルジャー・シンがこの船を、そこに住まうミュウたちを心から愛しているからだと、誇らしげにリオは言う。そしてなにより、ブルーが船に居ることが嬉しくてたまらないのだろうと。
ジョミーはずっと『誰か』を待っていたのだと言う。すこし前までは待っているのだ、とハッキリそう言っていた。それが具体的に後継者となる者ではなくとも、ただジョミーはずっと『誰か』を待ち望んでいたのだ。いつかめぐり合える誰か。いつか生まれて来る誰か。いつか、この船に迎えることとなる誰かを。ジョミーは幾年、ずっとずっと待っていて、そして十四年前にやっと、ブルーという存在を見つけ出したのだ。
ぼくの月、ぼくの夜。ぼくの夕暮れ。安らぐ者、安らぎをくれるひと、とジョミーはブルーをそう呼び表し、十四年間ずっとはしゃいでいた。それは、ミュウの誰もが知るところだ。言葉はなくとも、心で伝わるのがミュウである。歓喜に弾み、それだけではなく全身で飛び回って喜ぶのがジョミー・マーキス・シン。ミュウたちの最長老であり、長であり、ソルジャーである人の常なのだ。知らない者など存在しないだろう。
ジョミーはブルーが船に住まうこととなり、安らぎを覚えるようになったことを心から喜んでいる。愛おしく、思っている。その暖かな感情が船を包み、そしてミュウたちの心を解きほぐしていくのだ。ミュウたちがブルーに持ってしまったわだかまりを、ジョミーは己の喜びで苦笑へと変えてしまう。仕方がなかったのだと思わせ、受け入れる方向へと無意識に導いている。ブルーはごく自然に、守られているのだ。
今も。リオと話している今も、船の空気はさわさわと喜びに揺れ、暖かく満ちて微笑んでいる。嬉しくも恥ずかしくて、そっと頬を赤く染めるブルーに、リオはくすくすと肩を揺らしながら笑った。
『元々、ジョミーは感情を素直に表す方なのですけれど。これはもう、抑え切れないのでしょうね』
まるで軽やかに歌を奏であげているようだ、と評して、リオはブルーに紅茶を差し出した。勉強の合間の休憩時間、リオの向ける細やかな気遣いはブルーの心を和ませるのだが、くすくすと笑われながらではどうにも恥ずかしい。やめてください、と消え入りそうな声で呟けば、リオは穏やかな笑顔で嬉しいのです、と囁いた。
『こんなにジョミーが嬉しがることなど、近年めったに無かったものですから』
これで無理せず回復に努めてくれればもっと良いのだけれど、と眉を寄せるリオの言葉に、ブルーは深い事情を知らぬまでも頷いた。授業などを通じて会うミュウの長老たちや、遊びをせがんでくるこどもたちから聞く分に、どうもソルジャー・シンという者は己をないがしろにしがちだと察していたからだ。最近も、どうも体調がすぐれないというのに素直に眠っていてくれないらしく、脱走しては掴まっているらしい。
つい昨日など、ハーレイの『いいから縄を持ってきて、ソルジャー・シンを縛り上げろっ』という怒号が船内を貫いた。そんなことからも、安静にしてくれないのは明白だった。本人曰く、決して休みたくないわけではないのだが、どうも動き回っていないと不安で仕方がない、とのことだ。気持ちは分かるんですけどね、とリオはしみじみ呟く。そしてしょんぼりとしてしまったブルーの頭を、慣れた仕草で撫でてやった。
『大丈夫ですよ。本人は不安と言っていますが、あれはきっと、単に落ち着かないだけですから』
「そう、なんですか?」
『ええ。あなたの成績が優秀だと長老たちに聞かされて。もう本当にはしゃいでしまって……嬉しいんでしょう』
先日、ハーレイがソルジャーを縄で縛ってまでベットに寝かせなければいけなかったのも、同じ理由である。本人にはまだ伏せられているが、後継者として教育されているブルーの成績が思いのほか良く、集中力や力のコントロールにまで長けていると聞いて、ジョミーは本当に嬉しかったらしい。ぼくも行く、ぼくもブルーになにか教えるっ、と言って飛び出そうとしたので縛った、とハーレイは真顔で報告していた。
長老たちは、誰もハーレイを責めなかった。フィシスもリオも、報告を聞いてそっと涙をこらえ、ハーレイの肩をぽん、と叩いて苦労を労ったくらいだ。ドクターからは胃薬の差し入れがあったと聞く。ハーレイとしてはありがたくもあるのだろうが、微妙な気持ちだろう。胃炎を心配してくれるのなら、ジョミーを一緒に止めて欲しい、と思うに違いないのだから。しかし今の所、船内でジョミーを止められる者は限られている。
キャプテン・ハーレイそのひとと、ジョミーの傍付きであるリオ、そして影に日向になって細やかに支え続ける占い師フィシスの三人のみである。ブルーが来て数日が経過していた。普段ならジョミーの傍に居るリオがそちらの世話にかかりきりになってしまっている為に、必然的にハーレイが、暴走するジョミーを止める役目を全て引き受けているのだった。フィシスはあくまで最終手段なので、頼りにしてはいけない。
そもそも盲目の占い師は、積極的にジョミーを止めないのが常なのだ。多少のオイタは元気の証拠だから良いではありませんか、と思っているのである。必然的に、ジョミーの体調管理はハーレイの双肩に担われることになってしまったのだ。それなのにジョミーは、知ってか知らずか、日に一度以上はハーレイの手を煩わせるのだった。普段ならリオが未然に防いでいるものもある為、苦労は二倍以上だろう。
今朝も、リオは一応ハーレイの負担を和らげるべく、打てる手は打ってきたのだ。それでは今日もブルーの世話に行ってきます、と挨拶がてらに。いいから体調を回復させてくださいね、さもなければブルーに会わせてあげませんよ、と。ベットの上でしぶるジョミーに、柔和に言い聞かせて来たのだが。効果がどれ程持続するかは神のみぞ知るが、一日は決して持たないとリオは過去の経験から知っていた。
普段でも駄目なのだから、焦がれたブルーが船内にいる状態では半日も保たないに違いない。本当に仕方がない方だ、と苦笑して、リオは飲み終えて空になったカップを片付けつつ、恥ずかしさで頬を赤く染めるブルーに、ひどく好意的な笑みを向けた。新しい仲間は、ジョミーが待ち望んだ者だからという理由以上に、とても好ましい相手だったからだ。ブルーは素直で真剣で、そしてとても勤勉な努力家だ。
『あなたの努力を、ジョミーはきちんと知っておいでです。会えるまでまだ日はかかりそうですが、どうぞ気をしっかりと持って勉学に励んでくださいね。私も、心からあなたを応援しています』
「はい。ありがとうございます、リオ」
紅茶をごちそうさまでした、と礼儀正しく頭を下げて、ブルーは書きかけのレポートや教科書を抱えながら、小走りに部屋を出て行った。入って来る時はすこし沈んでいた心が晴れやかなものになっているのを感じ取って、リオは思わず微笑みを浮かべる。ブルーは、よほどジョミーの体調が心配だったのだろう。周りに心配ばかりかけて、本当に仕方がない方だ、と呟いて、目を細めて、リオはくるりと振り向いた。
『ご自分でもそう思いませんか? ジョミー』
『う……いや、あの、それはねリオ。思う。思うけどでも、ぼくはブルーが心配で。朝から気持ちが沈みこんでいるようだったから、どうしたのかと思ってっ。心配になるじゃないか。それにずるいや、リオばっかり。ブルーに会って話しもして。ぼくだって会いたいし話したいのに』
ゆらゆらと、薄い紅の輝きをまといながら思念体を出現させたジョミーに、リオはにこりと微笑んだ。思念体でこっそり見てただけなのに、なんで分かるんだろ、とジョミーの横顔に書いてあるのがいっそ腹立たしい。それくらい分からないではソルジャー・シンの側近などやってはいられない。大体、過去に何度同じことを繰り返したと思っているのか。逃げて隠れるジョミーを見つけるのは、いつもリオの役目だった。
薄い気配でもしっかり感知出来るほど、リオの能力が精度を高めて成長したのは、ひとえにソルジャー・シンの脱走癖のせいなのである。リオは薄く微笑みを浮かべ、ジョミーに向かって無言で首を傾げて見せた。その仕草と表情が、言い訳はそれくらいですか、と語っている。青ざめた表情で足を引くジョミーの腕を掴んで引きとめ、リオは即座に、と強い口調で言い放つ。
『お体に戻ってお休みください、ソルジャー・シン。あなたは、体調が、優れないのですよ?』
ご自分のことなのですから、分かってらっしゃるでしょう、と厳しく告げられて、ジョミーは申し訳なさそうに目を細めてみせた。その表情も、まとう雰囲気も、ひどく優しい。相手への思いやりに満ちた思念に、リオは誤魔化されませんからね、と言う。けれどもう真剣には怒れそうにもなくて、リオはため息をついて掴んでいた腕を離した。
『お願いですから、力を使わないでどうぞ安静になさってください。最近のあなたは、そうでなくとも体調が不安定なのです。フィシスさまも、ずっと心配しておいでなのを感じないわけではないでしょう? いいから、お休みしていてください。またキャプテンに怒られますよ?』
『だって……今は元気なんだ。ただ、時々、眩暈がしたり、だるくて動けなくなるだけで』
その他はいたって健康なのだと主張するジョミーに、リオは頭を抱えたい気分になった。他はいたって元気だからこそ、その時々の体調不良が問題になってくるのだと、どうして理解してくれないのだろう。どうせ、ドクターが丁寧に行ったであろう説明も右から左に聞き流して、原因不明というのだけ耳に留めたに違いないのだ。そして原因が分からない限り、この思い切りの良いソルジャーは安静にしてくれない。
また、眩暈とだるさは発作的にジョミーの体を襲うものであるが、周期がつかめないのも安静にしてくれない一因だろう。いつ来るとも分からないのだから、別にずっと寝てなくたっていいじゃないか、と思っているらしい。それに、ジョミーはドクターが原因不明としたのを受け入れながらも、薄々理解してしまっているのだ。眩暈もだるさも、力の喪失の前触れなのだと。己のことだ。分からなければ、おかしいだろう。
ドクターも、それは分かっている。けれどあえて原因不明としたのは、そうであって欲しくない願い故なのだ。誰もが長の力の喪失を恐れ、その時が来るのを怖がっている。無言で睨んでくるリオにため息をついて、ジョミーは分かったよ、と両手を降参の形にあげた。
『じゃあ、寝てる。なにかあったら起こして。……まだその時じゃないって、言ってるのにさ』
『まだも、なにも。ずっと元気で居て頂かなければ、困るのです。ジョミー』
フィシスの予言も、ジョミーの自覚も、認めはしないのだと。強い意志を響かせて告げてくるリオにくすりと笑って、ジョミーは思念体を消してしまった。今頃は寝室で一人、ゆっくりとまばたきをしながら笑っている頃だろう。仕方ないなぁ、と呟きながら。諦めているわけではないのだろう。穏やかに、受け入れてしまっているだけなのだろう。己の運命の先行きをきちんと見定め、受け入れるその強さこそ、悲しい。
やがてジョミーの意識が夢に沈んだのを確認して、リオは休憩室を出て行った。
かすかな音を立てて、紙がめくられていく。一定の速度で読み進められているから、紙の奏でる音も規則正しく、だからこそブルーは緊張に身を硬くした。思念を受けずとも目の動きで、大体どこを読まれているかが分かってしまうからだ。あの表現はもっと柔らかくしたほうが良かったかも知れない、説明が足りなかったかも知れない、と万全の状態まで整えて出したレポートに、いまさらの不安ばかりがこみあげる。
最後の一枚を読み終えて表紙に目を戻し、ヒルマンはふむ、と呟くと穏やかな笑みを浮かべてみせた。ブルーの心が、期待にぱっと輝きを放つ。それに微笑ましく目を上げて、ヒルマンは良いだろう、とレポートに合格点を出してやった。
「誤字もない。誤表現も見当たらない。よくまとめてあるし、分かりやすい言葉で書かれている。なにより、内容を深く理解した上で書かれているのが分かる文章だ。すこし難しいかと思ったが、よく頑張ったね」
「よかった……ありがとうございます、ヒルマン教授」
素直に安堵してお礼を言うブルーに、ヒルマンはさりげなく椅子を進めた。入室してレポートを手渡し、読み終えるまでずっとブルーは立ったままで、空いた椅子がすぐ傍にあるのに座ろうとしなかったからである。遠慮して、というよりは目に入らなかったのだろう。慌てて恥ずかしそうにしながら座る様子に、ヒルマンは好意的な笑みを浮かべた。そして、ごく自然な流れとして比較してしまい、ため息をつく。
「君のような集中力が、ソルジャー・シンにもあれば良いのだが。あの方は戦いにしてもそうだが、日常生活でも落ち着きがないというか、長続きしないというか……力の扱いについては、まあ仕方ないにしろ、勉強に集中できないのは本人の性質だからね」
困ったものだと言っていても、ヒルマンの横顔にはどこか面白そうな色がある。仕方がない方だ、と微笑ましく思っているような表情は『ソルジャー・シン』を語る長老たちの、誰にも共通したもので。怒っているのではなく、愛おしく仕方がないと諦めているような、受け入れているような、不思議な感情をブルーへと伝えてくる。人騒がせで落ち着きがないソルジャー・シンは、よほど長老たちに親しまれているのだろう。
それに羨ましいような、嬉しいような複雑な気持ちを覚えながら、ブルーはそっと口を開いた。
「ヒルマン教授。ソルジャー・シンは、どういう方なのですか? まだ、よく、分からなくて」
会いたい。会って話をしたいし、顔が見たい。心が痛むほど望むのをぐっとこらえて、ブルーは問いかける。ソルジャー・シンの体調が優れないのは、ブルーを迎えに行ったあの日から特になのだと聞く。だからこそ望んではいけない気がして、上手く言葉にできないブルーに、ヒルマンは複雑そうな顔つきになる。君のせいではないよ、と言うのは事実で簡単なことだったが、だからこそ心を晴らす言葉にはならない。
結局、ブルーの意思を納得させることが出来るのは本人か、さもなくばジョミーだけなのである。本当に、はやく元気になればいいのだが、と内心ため息をついて、ヒルマンはそうだな、と思い出しながら言う。
「見て分かったと思うが、強い力をもった方だ。現存するミュウの中でもっとも強く、未だかつて、その力を超えた者はいない。これからも、恐らくそうだろう。その力ゆえに、彼はまあ、集中力に欠けるのだが……戦闘時ならともかく、日常生活のそれは、先ほど言ったように性格なのだろうがね。こどもっぽく、すぐに感情を爆発させてしまう。何年経っても、そんな所は変わらない。不変を背負われた、強大な方だ」
ジョミーの身の内にある強大な力は、本人の意思をもってしても制御しにくいものなのだという。もちろん意のままに力を操ることは出来るが、すぐに限界が来てしまうのだ。転移位置や攻撃目標を捕らえる精度が下がり、攻撃の鋭さが落ち、防御の盾は密度を落としてしまう。全身を強い疲労が襲い、貧血に似た症状が出てくるのだ。それでも力を使えなくなるわけではない。無理矢理、使うことはできる。
けれどそれは、暴れ馬を制御することと似たようなものなのだ。力ずくで抑え込んで発動させた攻撃や防御は、すさまじい反動をジョミーの体に強いるのである。それが、『無理』だ。限界が来てからの能力の酷使こそ、リオやハーレイが『無理』だと叫び、ジョミーが無視して飛び越えてしまう境界線そのものだ。その一線を越えた後にどんな反動が来るかなど、ジョミーは身をもってして知っているというのに。
時に仲間の為、時に己の激情に身をまかせて、ジョミーは無理をしてしまうのだった。だから今回の長い体調不良も、その反動なのだと。己をそう納得させて、心に忍び寄ってくる不安を振り払って、ヒルマンは告げる。
「もしソルジャー・シンのことを知りたいと思ってくれたのなら、船内を歩くと良いだろう。この、シャングリラを」
白き、麗しのシャングリラ。奪って逃げた船を改築し、増築しながら完成させたミュウたちの住処。ジョミーが愛したこの船の、隅々を。見ればきっと分かる筈だと、ヒルマンは笑う。
「愛し、愛された場所はその人となりを表すなによりの鏡だ。ソルジャー・シンはミュウたちを愛し、そしてシャングリラを愛してくださっている。ちょうど良い。それを今日の授業にしようか。ブルー、しっかり見ておいで。そして、明日にはその感想を」
レポートでもいいし、口頭でも構わない、と告げるヒルマンに頷いて、ブルーは教授の部屋から廊下へと出る。そして周囲を改めて見回して、困ってしまった。見ておいで、と言われてもシャングリラは広いのである。十分道に迷えるし、また、行き先を決めかねる広さだった。さてどうしょう、と思いながらも足はゆっくりと歩みだし、白亜の廊下を歩いていく。白い光沢と金色の文様が刻まれた、綺麗な廊下だった。
改めてみてみると天井は高く、ブルーの身長では手を伸ばしても届かない。不意にソルジャー・シンのことを思い出し、ブルーはあの人ならば届くかも知れない、と思った。ブルーより頭一つ半分身長の高い人だ。そしてなにより、軽やかに宙を舞う。手を伸ばして届かなければトン、と廊下を蹴って、やすやすと指先を天井に触れさせることだろう。そしてこどもっぽい表情で、本当に楽しそうに笑うのだ。やったぁ、と。
ブルーとジョミーが触れあい、会話をしたのは時間にしてみると短いものだ。成人検査の妨害に現れた時にすこしと、このシャングリラまで連れてこられる時にすこし。プレイランドの破壊中はとても声をかけられる雰囲気ではなく、ブルーはただその横顔に見惚れて、時折かけられるリオの言葉に上の空で答えていた。今考えると、とても恥ずかしく失礼な真似をしてしまった気がして、ブルーはすこし落ち込んだ。
船を取りまく空気が、暖かく揺れ動く。そんなこと気にしなくていいのに、と笑われた気がして、ブルーは胸を高鳴らせる。呼吸することにさえ緊張しながら、ブルーは辺りを見回した。忙しく行き交うミュウたちは、ブルーと視線が合うとにっこりと微笑み、時には手を振りながら過ぎ去っていく。誰もが明るく、そして希望に満ちた笑みを浮かべていた。暗い顔をする者は誰もなく、優しい気配だけがそっと漂っている。
広い船だ、とブルーは漠然と思う。船という限られた空間の中でしかないのに、全く閉鎖感のない広い船。明るさはなにも、照明のせいだけではないのだろう。住む者たちの意識が軽やかに弾んでいるからこその明るさと、広さなのだ。この船は、希望に輝いている。ブルーはやがて、早足で歩き出していた。走り出してしまいたいくらい、心が急いて楽しくて、見るもの全てが輝いている気がした。
天井が硝子張りになっていて、明るく開放的な図書館。むせ返るほどの緑がある家畜飼育部や、植物管理部。こどもたちが駆け回る公園は、小川が水を流していた。清潔で静かな医務室。ざわめきに揺れながら楽しげな船橋。どこもかしこも明るいのに、疲れるものではないから不思議だった。たくさんの気配があっても、たくさんの音が飛び交っていても。それを受け取りすぎて情報過剰になることはなかった。
やがてブルーは、周囲から気配がすぅっと引いていくのを感じて立ち止まる。目の前に広がる廊下に変わりはないのに、どこか穏やかな静けさを感じさせた。真昼から夕暮れに差し掛かる空模様を見つめているような、落ち着きと不安が同居した感覚がある。この先には、なにがあるのだろう。そう思いながら一歩を踏み出すと、ブルーに向かって女性の声が問いかけた。
『あなたは? ……まあ。まあ、あなたがブルー。こんにちは』
アルフレート、と誰かに呼びかける思念がそっと響き、ブルーは目を瞬かせた。廊下の先に目を凝らしてみても、付近を見回してみても、どこにも扉など見当たらないのが不思議だった。困惑するブルーに、女性の声は笑いさざめきながら告げる。
『待って。今、扉を開けてもらいます。アルフレート、アルフレート。ね、早く。彼をここへ』
『承知しました、フィシスさま』
ワガママを仕方なく、笑いながら受け入れる青年の声が響き、そしてブルーの世界が眩暈を起こす。ぐらり、と船全体が揺れ動いたかのようだった。足をもつれさせて壁に手を付ければ、そこはもう、ブルーが立っていた廊下ではなかった。見上げて、首が痛くなるほど高くに天井がある。資料の写真でしか見たことのない、白亜の神殿のような部屋だった。藍色の闇がそっと横たわっている、静かな部屋だ。
笑いながらようこそと告げる思念が、ブルーの心の中に響く。ハッとして目を向ければそこに、女神のような女性が立っていた。一枚の布で出来ているような白いドレスをまとい、金色の髪がゆるく足元まで流れている。まぶたは閉じられたまま開かないが、ブルーは確かに女性に見つめられている感覚を覚えた。言葉もなくすこし身じろげば、女性は口元に手を当ててかすかに笑む。そして、声が響いた。
「私はフィシス。ごらんの通り、盲目の占い師ですわ。そして、こちらがアルフレート。私の、身の回りの世話をしてくださっている一人です。あなたに対しての、リオのような立場のものだと思ってください。突然お招きしてしまって、驚かせましたか?」
「すこし、だけ」
「すみません。船の中でこの部屋とジョミーの部屋だけは、今は隠してあるものですから」
内側に入るにも、外側に出るにも、招かれなければ出来ないのだ、と笑うフィシスに、ブルーはかすかに眉を寄せた。隠す、とはどういうことなのだろう。アルフレート、と呼ばれた青年に問いかけの目を向ければ、そのことを快く思わない表情で出迎えられた。
「ソルジャー・シン脱走対策です」
「まあ、アルフレート。そんな風に言うものではありません。お出かけ制限装置ですのに」
どちらにしても、事実にさほどの代わりはない。つまりソルジャー・シンをある一定区画から出さず、その中で安静にさせておくための装置が作動しているのだった。そこまでしなければならないのですか、と問うブルーに、フィシスはくすくすと肩を揺らして笑う。
「ええ。そうしなければジョミーは、この船の中を飛び回ってしまうのです。船の中をご覧になりまして?」
「はい。大体は……あの、ジョミーって」
「ジョミー・マーキス・シン。ソルジャー・シンのことですわ、ブルー。こうお呼びしないと、拗ねてしまわれるの」
もっとも、相手が限られてのことですけれど、とフィシスは微笑みを深くした。
「きっと、あなたも含まれるのではないかしら。ねえ、アルフレート」
「フィシスさま。お願いですから、なにも知らない相手に妙な知識を植え付けにならないでください」
後で長老方から怒られるのは私です、と言うアルフレートに、フィシスはにっこりと笑う。そして本当のことではありませんか、と反省の色のない言葉が重ねられて、アルフレートは諦めたようだった。軽いため息をついてフィシスの傍を離れると、続きにおりますので、と言い残してどこぞへと消えてしまう。傍にいると気苦労がかさむので、早々に退散することにしたらしい。フィシスはまた、くすくすと肩を震わせた。
その姿にブルーは、女神の印象ではなく、花の妖精のようだと思い直す。神聖さはもちろんある。けれど女神のように深い静けさを漂わせるのではなく、その印象はもっとふんわりと柔らかい。降り注ぐ陽光に遊び、愛し、抱きしめているような輝きがあった。思わずじっと見つめながら、ブルーはああそうか、と納得する。印象として一番近いのは、船の精霊だ。この船の印象を、人の形にすれば一番近くなるだろう。
負担にならない、柔らかな明るさ。ふわりと包み込む空気と、絶えない笑顔。そっと傍に寄り添えば、心からの安らぎを感じる気配も。軽やかに紡がれる言葉は、心地よいざわめきに似ていた。思わず肩の力を抜くブルーに、フィシスはごく自然な態度で歩み寄った。そしてなにかを確かめるように手を伸ばし、そぅっと頬に触れさせる。その暖かさに、ブルーはゆるりと目を閉じた。どこか、懐かしい熱だった。
「あなたにお会いできることを、この幾年、本当に楽しみにしておりました。ブルー」
「……ぼくも、です」
暖かな思い出を辿るような気持ちで、まぶたの裏の薄闇に安らぎながら。ブルーは心地よく息を吐き出して、それからゆっくりと目を開けた。はじめに女神の印象を覚えた女性は、その視線に優しく笑う。
「ずっと、あなたにお会いしたかったような気がします。フィシス……フィシス、さま?」
「どうぞ、フィシスと。ソルジャー・シンも私をそうお呼びします。ですから、あなたも同じように」
ふわりと、空気を抱いた軽やかなフィシスの動きに、ブルーは奇妙な懐かしさを消し去った。そして嬉しく微笑みながら、改めてフィシス、と呼んでみる。覚えのない筈の名前はすぅと舌になじんで、ごく自然に発音できた。
「あの、フィシス。ここはどこですか? ここは……船の、どの辺りでしょうか」
「ここは天体の間。船橋を中心に、庭園を真上に捉えて考えるならば、ここはシャングリラの尾に近い一室です」
要するに一番奥の方だと告げるフィシスに、ブルーはなるほど、と頷いた。どうりで覚えがない筈だ、と思って。シャングリラの最奥。クジラの尾に当たる付近には、今まで出向いたことがなかったからだ。教育はもっぱらシャングリラの中央部で行われていたので、来る用事がなかったのである。また、めったなことがなければ近づかないように、とも言われていた区画だ。緊張するブルーに、フィシスは告げる。
「長老方の注意なら、心配しなくとも大丈夫。あなたに近寄らないようにと言ったのは、なにも立ち入り禁止区域だ、という意味ではないのですから。お出かけしたがる困ったさんが大騒ぎしないように、対策の一つなのです」
「あ、あの。それって」
まさか、と問いかけるブルーに、フィシスは微笑ましげな表情で頷いた。
「あなたの気配が近くにあれば、ジョミーは会いたいと大騒ぎしてしまうでしょうから。だからなるべく、あなたの教育は中央部で行い、居室は先端部にしつらえていたのです。幸い、今ジョミーは深い眠りに入っておりますから、騒ぐ心配もしなくていいのですけれど」
もう本当に困った方、と。肩を震わせるフィシスは、言葉に反して全く困っているようには見えなかった。柔らかな思念波が天体の間を揺らし、ブルーは心地よく息を吸い込む。船全体の雰囲気を一身に集めたようなフィシスは、なにを見るより強く、ソルジャー・シンの人となりを感じさせてくれるようだった。やわらかく、暖かく、しなやかで、のびやかで。自由で、軽やかで。そしてなにより、こんなにも愛おしい。
そぅっと胸に手を当てるブルーに気がつき、フィシスはまあ、と口元に手をあてる。
「好いてくださっているのですね。嬉しい」
「あっ……フィシス、ぼくは」
「隠さないでください、ブルー。なんて、なんて嬉しい……ジョミーが喜びますわ。ありがとう」
そっと両手を包み込むようにとって、フィシスは目を閉じた。ブルーの手を軽く額に押し当てて、ジョミーは、とちいさくひそめた声で囁く。
「ジョミーは、あなたを心配していました。あなたの心の不安や、あなたに嫌われはしていないだろうかと、そんなことを心配していたのです。成人検査から連れ出し、シャングリラへと連れて来たのはぼくなのに、まだちゃんと話しもできていないから、と。あなたがミュウを理解しようと努力し、懸命に学ぶ姿が嬉しいと伝えたいのに、閉じ込められてそれができない、と。あなたに会いたいと、それだけを」
嬉しい、とフィシスは囁いた。恥ずかしがって心をすくませるブルーに、大丈夫だと微笑みかけて。
「嫌われてはいないようだと、ジョミーに伝えてよろしいでしょうか。なによりの薬になります」
「そうすれば……会えますか?」
「ええ。きっと、明日にでも」
あなたの想いはなによりジョミーを癒すでしょう、と微笑まれて、ブルーは恥ずかしさから目をそらしつつ、お願いしますと頷いた。フィシスは、本当に嬉しそうに笑う。すると天体の間の空気や、シャングリラ全体の気配が柔らかく和んだ気がして、ブルーは嬉しく目を細めた。シャングリラ。麗しの白い船。フィシス。その化身であるかのような、美しい人。ソルジャー・シンは船を愛し、フィシスを愛しているのだろう。
愛された者には、愛した者の性質が色濃く出るという。船の印象からフィシスを感じ、女性を通してジョミーを想いながら、ブルーはそぅっと祈りを捧げた。はやく、あなたに、会えますように。思念を受けて笑うフィシスの、周囲で空気がふわりと和む。こらえきれない幸福の笑いが、肩を震わせて流れていく。
『ジョミー。ねえ、ジョミー。聞こえたのでしょう?』
しっかり休んで元気になって、明日になったら会いに行きなさいね、と。ひっそり思念を送られて、ジョミーは寝台の上でころんと寝返りをうった。なんの感情にか真っ赤に染まった頬を、誰にも見られないように隠すために。はずかしい、とちいさな呟きが、空気を揺らした。