忙しい朝のざわめきの中、意識を向けなかった声は聞き取ることができなかった。しかしたとえ聞き取れて言葉を返していたとしても、それよりはやくシロエは席に座っていたことだろう。だからつまり、どちらにしろ同じことだった、ということだ。呆然としながらそれだけ考えて、ブルーは薫り高いゴマドレッシングで和えられたブロッコリーをもぐもぐと噛んで飲み込み、水で口の中をさっぱりと洗ってから口を開いた。
「ええと、シロエ? あの、おはよう」
「うん。おはよう。ここ、空いてたから座っていいよね?」
それは、すでに着席しているのに出して良い問いではないだろう、とブルーは思ったのだが、言葉には出さずにちいさく頷く。するとシロエはブルーが思っていたよりずっと嬉しそうに笑って、一人だと寂しいからね、と言った。それがブルーに向けた言葉なのか、シロエが自身に向けた言葉なのかまたしばらく迷い、ブルーは真っ赤にうれたプチトマトにフォークを突き刺す。なんとなく、ブルーを気遣う言葉だと思った。
ほんわり嬉しい気持ちになりながら、同時にブルーはシロエという青年の不器用さに微笑んだ。勝気で自分勝手な言動が目立つだけで、シロエはきっと、とても優しい。ざわめきに取り残されたブルーを、恐らくは探してくれたのだろう。証明するように、シロエの朝食はどれも湯気を立てていなかったが、本人に気にする様子は全く無かった。ありがとう、とそっと囁くと、シロエの頬が見事なまでに薔薇色に染まる。
技師に見えない、白く色の抜けたようにも見える肌だから、殊更に目立ってしまうのだった。別に、と視線をさ迷わせながらぶっきらぼうに呟き、シロエはそこで初めてブルーの食べているものに目を落とし、思い切り眉を寄せる。言われることは大体分かっていたので、ブルーはすーっと視線を動かして天井を見た。無意味な視線移動だが、そうしていればとりあえず、目はあわせずにすむので睨まれないのだ。
けれどミュウたちは、心でも会話が出来る種族である。結果的に、向けられる怒りと呆れが混じった感情はあまりにまっすぐでけがれなく、ブルーは真正面から見られているのとそう変わらない心地になった。うろうろと往生際悪く視線を動かしてから、そぅっとシロエの元に目を戻すブルーに、青年は呆れた、と呟く。そしてびしっと人差し指でブルーの食べていたサラダを指差し、やけに偉そうな態度で言った。
「なにそれ。サラダだけって、ダイエット中なわけ? 違うでしょ? なに考えてんの」
「えーっと。朝は、その、あんまり食欲無くて」
「なに言ってんの。朝こそね、ちゃんと食べなきゃいけないんだよ。分かってないな。だからそんな細いんだよ」
大きく息を吐くシロエは、十六歳か十七歳くらいの外見をしていた。ジョミーはシロエを紹介する時に先輩、と言っていたので、それから考えるなら外見と年齢がつりあっているのかも知れない。ぼくらは成長期だって言うのに、とブルーと自分をひとくくりにした呟きからも、確信が深まっていく。けれど下手に言葉を話して怒られるのが嫌なブルーは、沈黙という最大の防御を発揮して、なにも語りはしなかった。
自然に、目の前のメニューに目が向いていく。ブルーの朝食は、温野菜のサラダ。色よく茹でられたブロッコリーとニンジン、キャベツとツナとコーンがちりばめられ、プチトマトがちょこんと乗っている。食べ物は、それだけだ。飲み物は水である。それに対してシロエの朝食は、可愛らしい外見に似合わず、量も多くしっかりしたものだった。ライ麦で作られた黒っぽく硬いパンが二つに、焼きたてのハムが同じく二枚。
半熟の目玉焼きには塩コショウがすでに振られていて、シロエの好みに調整されていた。白い器にたっぷり盛られたスープは、半透明の赤が綺麗なミネストローネ。キャベツとトマト、玉ねぎ、人参、セロリ、パスタが具沢山に入り、飾りに乾燥したパセリが乗せられていた。加えて、ブルーの食べているサラダを大盛りにしたものと、ボウルに入ったカフェオレ。デザートには生クリームが絞られたプリンまである。
それ全部食べるの、と視線で恐々問うブルーに、シロエはマジメな顔でこくりと頷いた。今日はこれでも少ないほう、と聞かされて、ブルーかすこしだけ意識が遠くなる。なんだかシロエが、別の生き物のように思えた。わけのわからない恐怖さえ覚えるブルーに、失礼な、と眉を寄せて。まったくさあ、とたいして怒ってはいない声で呟き、シロエはブルーの前にプリンの器とスプーンをおいた。ごく自然な動作だった。
意味が分からず目を瞬かせるブルーに、シロエはわざと怒った声で告げる。
「朝が弱いなら弱いなりに、もっと工夫するとかしたらどうなの。そんな食生活で、よく体もつよね」
実は時々貧血を起こしている、という事実を告げるか告げまいか、ブルーは視線をさ迷わせて迷っていた。決断が下る前に、心を読んだシロエが呆れ果てた息を吐く。ばか、とキッパリした口調で言い切られて、ブルーは身をすくませた。今度こそ怒られる、と思ったのだが。予想に反し、ぽん、と優しい手が頭の上におかれる。そのまま可愛がるようによしよし、と撫でられて、ブルーはそっと目を開いてシロエを見た。
「シロエ……?」
「じゃ、食べやすいものから食べていけば良い。それか、朝すこし早く起きて散歩するとかね」
ぽん、ぽん、と優しい手は軽くブルーの頭を叩き、慈しむように離れていった。プリンなら食べられるでしょ、と告げられて初めて、ブルーはシロエがそれを譲ってくれた事実に気がつく。えっと、でも、と口ごもっていると、食べやすい厚さに切り分けた黒パンにバターを塗りながら、シロエは有無を言わさぬ視線を向けてきた。ぱちんっ、と静電気が弾ける。食べるね、と念押しするように言われ、ブルーは慌てて頷いた。
あとすこしだけだったサラダを慌てて口に詰め込み、飲み込んで、ブルーは銀のスプーンを手に取った。そして卵色のプリンを一口分すくいあげて、口の中に入れる。柔らかい甘さだった。甘すぎることはなく、足りないこともなく。ちょうど良い甘みが口いっぱいに広がり、カスタードの風味が喉を抜けていく。喉越しはつるりとしているものの、ゼリーのようなものではなく、きちんと食べでのある手作りのプリンだ。
思わず美味しい、と呟けば瞬く間にパンを一つ食べ終えたシロエがにっこりと頷く。うん、それ美味しいだろ、と言ってくるのに視線を合わせて、二人は思わず笑いあう。ささいなやり取りなのに、妙に心が弾んだ。くすくすと二人分の笑いが空気を揺らすのに、おや、と不思議そうな思念波が忍び込む。ほとんど同時に二人の視線が向いた先、立っていたのはリオだった。リオは柔和な笑みを浮かべ、近寄ってくる。
『二人とも、おはようございます。珍しいですね、シロエが食堂にいるだなんて。いつもは部屋で食べるのに』
「べ、別にっ、ブルーと一緒に食べたくて食堂に来たんじゃないですからっ。勘違いしないでくださいよっ!?」
『はいはい。分かりました。でもシロエ、急に大声を出してはいけませんよ。ブルーが驚くでしょう』
慌てて振り返ったシロエが見たのは、口と目をまるくして驚くブルーの姿だった。穢れない紅玉の瞳が、シロエを見つめている。シロエは己の叫んだ内容を思い出し、急激に恥ずかしくなって音を立てて椅子に座りなおした。そして無言で食事を再開するものの、耳まで真っ赤に染まってしまっている。おやおや、と肩を震わせて笑い、リオはすげなく振り払われるのを承知で、シロエの頭をそっと撫でた。
『あなたも可愛いですね、シロエ。別に、恥ずかしがることなんてないのに』
「『も』ってなんだよ。リオ。『も』って。誰と一緒にしてるわけ」
リオの予想に反して、手は振り払われなどしなかった。シロエは高貴な猟犬のように背筋をぴん、と伸ばし、撫でられてやっている、という態度を貫いている。それがまた可愛らしい、と微笑ましく思いながら手を離し、リオは決まっているでしょう、と胸に抱く優しさを深くした。
『ジョミーですよ。ブルーは、可愛いというよりは綺麗な雰囲気ですからね。……シロエはどちらかと言えば、その中間地点なのかも知れませんが、あなたの言動はとにかく可愛らしいですから。黙って真剣にしていれば綺麗なんですが、動くと可愛くなるんですよね』
「黙れ、黙れよっ……って、リオは食堂でなにしてるんですかっ。あなたこそ」
普段はジョミーの傍で食べている筈じゃ、と言いかけて、シロエは勢いを弱めて口を閉ざした。良くない想像が胸に広がったからだ。また体調が、と苦しそうな顔つきになるシロエに首を横に振り、リオは柔らかく微笑んだ。
『ブルーに、キャプテンから伝言を。本日の授業は、全てお休みになりました、と』
ですのでゆっくり休んでくださっても良いですし、好きに過ごして構いませんよ、とさざめくような笑いを残して、去っていこうとするリオを引き止めたのは、ブルーではなくシロエだった。ぐい、と腕を引っ張られて、リオは思い切り苦笑する。無言で目を向ければ、表面的には怒っているように見える底なしの青い瞳があって。冷えて凍った泉のように、深く眠っているのが『心配』だと、船の何人が気がつけるだろう。
リオには、それが分かる。そしてプリンと格闘していたブルーも、気がついたようだった。無垢な視線を向けられて、すこし居心地悪そうにしながらも、シロエは強い思念波をリオだけに投げつけた。
『あのひと、いないの?』
もしも拾われてしまった時の用心に、固有名詞だけは出さない。けれど相手がリオであり、問いかけを出すのがシロエなのだから、相手となる人物を間違えるわけもなく。ええ、まあ、とにごした返答を返し、リオはやんわりと腕を振りほどく。いつもなら自然に外れるのを待っているので、気が急いているようだった。そういうことですから、と微笑んで去っていく後ろ姿を見つめて、ブルーは目を細め、首をかしげる。
「お休みって言われても……どうしようかな」
たとえ休みが欲しい、欲しいと思っていたとしても、急に手元に転がってこられると困ってしまうものなのである。うーん、と眉を寄せるブルーに視線を戻して、シロエはすっかり冷めてしまった朝食に手を付けながら考えた。そして頭の中だけで計算を終えると、見かけだけは極上に麗しい微笑みを浮かべる。
「だったら、ぼくが船内の案内でもしてあげるよ。まだ、そこまでゆっくり見たことないだろう?」
「この間、すこし歩き回ったけど……シロエ、仕事は?」
「大丈夫。今日はぼくも、休みになったところだ」
どちらにしろ『あのひと』が姿を消してしまったのなら、シロエの仕事の効率はガタ落ちするのである。どんなに自分で注意しても、ミスも多くなってしまう。だから、ね、と上司であるゼル機関長に思念で伺いを立てれば、長老は苦い表情でしぶしぶ休みを出してくれた。ただし、と付け加えるのも忘れずに。『あのひと』を見つけ出してくるように、ね、と下された指令を口の中で転がしながら、シロエはくすっと笑った。
ハーレイとリオを相手に、『あのひと』を一番に探し出すのは普段ならとても難しい。十回トライして、一回出し抜ければ良い方なのだ。それはシロエの感覚が鈍いというわけではなく、付き合いの長いハーレイと、絆の深いリオが一歩先を行くだけのこと。けれど今日のシロエには、ブルーがついているのだ。色々見て回ろうね、とたくらみを隠して笑うシロエに、ブルーはこくりと頷いて、プリンを口に運んだ。
突如として、警報音が鳴り響く。高く低く、不安をあおるように揺れる音とざわめきに、ブルーは身を震わせて立ち止まった。その手をしっかりと握り締めて、シロエは思い切り舌打ちをする。白と金で飾られたシャングリラの廊下が、瞬く間に薄暗く、ほの赤いライトに照らし出された。彼方で爆発音が響き、船が大きく揺れ動く。悲鳴をかみ殺して足を踏ん張るブルーの体を抱き上げ、シロエは浮かび上がった。
ふわりと風を抱くジョミーのものとは違う、空気を鋭く裂くような動きだった。天井近くで制止して、シロエは誰がなにしたんだか、と苛立ち混じりの呟きを響かせる。そして目を瞬かせるブルーに、あのね、と言い聞かせの響きで口を開いた。すこしだけ得意げな様子なのは、年上意識を振りかざせて嬉しいのだろう。また、ブルーは素直にシロエの言うことを聞いてくれるので、話すのも楽しいらしかった。
「攻撃じゃないよ、大丈夫。船内事故は赤ランプ。敵襲は黄色ランプだから、覚えとくといい。赤の場合、そう爆発が連続することもないから、浮かんじゃったほうが怪我もしない。分かった? あと、自分で浮ける?」
「う、うん。集中して、ゆっくりなら、なんとか。でもシロエ、事故って……なに?」
「事故は、事故。爆発の振動から考えると、機関部じゃなくて攻撃セクションの詰め所かなぁ」
なにやってんだか、と額に手を押し当てて息を吐き、シロエはぱっとブルーから手を離した。急に手を離されて、ブルーの体ががくんと揺らぐ。しかしそれだけで、床に落下しないのは、シロエが上手く受け止めているせいだ。不可視の膜でブルーを包んで浮かせながら、シロエはやってみなよ、と勝気に笑う。
「できるんでしょ? じゃ、自分で浮いてみて、ブルー。安定した室内で飛ぶことなんて、訓練以外じゃやらないんだから。実践積まないと意味ないよ。ちなみにぼくは、船に来て三日で飛べるようになったけどね。好きなように」
それは、浮遊も跳躍も正確にこなせるようになるまで三日、ということだった。軽くショックを受けて黙り込むブルーに、シロエはやけに楽しそうに笑う。個人差だけどね、と柔らかな口調で付け加えられた言葉だけが、なぐさめだった。眉を寄せながら集中し始めるブルーに、シロエはそれに、と誇らしげな声で笑う。
「ぼくに訓練つけてくれたのは、お偉い長老さま方じゃなくてジョミーだから。それでかもね」
えっ、と引きつった声さえ出せず、ブルーは青ざめた表情でよろめいた。青白い燐光が指先からこぼれるように宙を舞うが、その事実にブルーもシロエも気がつかない。青白い灯火は消えゆく雪のように、儚く空気へ溶け込んでしまい、長くその姿を留めはしないからだ。ただシロエは、きちんと固定しているのに揺らいだブルーの体が落ちないかどうか、一瞬冷やりと心を振るわせた程度だった。シロエは、言う。
「ぼくを船に連れてきたのは、ジョミーだから。それに、その頃はジョミーも体調良かったからね」
「そ……う、なんだ」
「ブルー?」
歯切れの悪い言葉に、シロエは不審そうに首を傾げた。そして手が伸ばされるのだが、その指先を青白い輝きが包み込む。ふわりと広がる、熱の低い炎のように。ぎくっと体を固くするシロエに、ブルーは気がつかないままで薄く笑う。悲しむような笑みだった。思わず息を止めるシロエに、ブルーはごく自然な態度で目を閉じる。すこし開かれた唇から、息が吸い込まれた。淡く輝く青白い燐光が、急激に数を増す。
ブルーを支えていたシロエの力が、内側から破られる。荒々しいものではなく、お菓子の籠にかけられていたレースを、そっと取り外すような。柔らかで静かな力が、シロエの力を消し去って現れていく。月だ、とシロエは思った。眼前で淡い輝きに包まれ、青白い灯火の中で、ゆるりと浮かび上がる少年は、まさしく夜に咲く月のようだった。それでいて、瞳の輝きはまったく穏やかではない。苛烈にして、鮮麗な光。
ぞく、と背を震わせて駆け抜けていく感覚は、喜びにも見ていた。彼こそ、ジョミーの待ち望んだ月。夕焼けを夜で包み込み、安らがせる絶対者。息をつめて見つめるシロエに、ブルーはゆっくりと口を開く。
「待っていてくれる、とあの人はぼくに、そう言った。だから、ぼくは焦らない。焦らないけど、でも」
超えてみせる、と。強い決意をこめて、ブルーはしっかりと言葉を口にした。睨むのではなく、挑みかかるような表情でシロエを見て。ハッキリと、そう宣言した。船を包む空気が、耐え難い喜びに揺れる。思わず脱力しそうになりながら、シロエは『あのひと』は、と額に手を押し当てた。寝室から消え去って、誰にも行方をつかませないで、それでも『あのひと』はブルーの様子だけはしっかりと見ているらしい。
空気の変化に、ブルーも気がついたのだろう。攻撃的な空気を霧散させ、あれ、と呟いて視線をさ迷わせる。ゆらゆらと揺れる視点が、やがて一箇所で止まった。見つけた、のだ。よし、とシロエが微笑んで、ブルーに声をかけようとした時だった。廊下を走ってきた技師の青年が、浮かぶシロエを見つけてあーっ、と叫ぶ。指差しつきの大音量に、シロエはいかにも嫌そうにめんどくさそうに息を吐き、視線を向ける。
「なんだよ。今日はぼく、休暇だってゼル機関長から聞いてないの? 別にサボってないよ」
「ち、違いますっ。そうじゃなくて、攻撃セクションの皆がシロエを呼んできて欲しいとっ。先程の事故は知っているでしょう? 攻撃セクションの機械が一部壊れたんです。ですから、技師であり、攻撃セクションのトップであるシロエに来て欲しいと、皆大騒ぎで泣きそうでっ」
それなのにどうして遮蔽して思念をひとつも受け取ってくれないんですっ、と焦りのあまり半泣きになっている同僚から視線を外して、シロエは気まずそうに頭をかいた。別に、意図的に無視していたわけではないのだが、目の前のことに集中していて他を切り捨てていたのは確かだった。心配そうなブルーの視線を横顔に受けながら、シロエはすこし考えた後、分かったよ、と言って床へ飛び降りる。
タンっ、と軽やかに降り立った音が響いた。慌てる技師を適当になだめながら、シロエは浮遊するブルーを見上げ、にっこりと笑う。
「ブルー。悪いけど、ぼく、行くから。これでも攻撃セクションの責任者だったりするんでね」
「う、うん。行ってらっしゃ」
「ぼくを超えたいなら」
最後まで言わせずに。シロエは言葉をさえぎって強く微笑み、声を響かせた。
「はやく安定して力を使いこなして、なんらかの責任を任されるか、さっさとジョミーの望みの位置に立つんだね、ブルー。言っとくけど、ぼくはそう簡単にジョミーを譲ったりしてあげないから。たとえ、ジョミーが望んでるのがきみでも。ずっと望んでいたのが、きみであっても。ぼくだって、ジョミーの傍に居たいし、憧れで、大好きなんだ。……じゃ、ね。ライバル。ジョミーによろしく」
勝気な笑みを響かせて、シロエはくるりと背を向けた。そのまま技師の青年の腕を引いて走り出し、口論に近い意見交換をしながら、瞬く間に廊下の先へと消えてしまった。恐らく、攻撃セクションのある場所まで行って、今から修理を行うのだろう。大変そうだと思う反面、責任の生じる役目を持っていることが、今のブルーには眩しく思えた。未だ明確な立場を持たないブルーと違って、シロエには立つ位置がある。
切なかった。ただ、苦しかった。ぎゅっと胸を手で押さえるブルーの意識に、その時忍び込むものがある。それは、暗闇に浮遊する赤い糸のように。細く頼りなく、けれど明確に見えるもの。ハッとして顔を上げて、ブルーは戸惑いながらその名を呟く。ジョミー、と言葉が空気を揺らしたとたん、ブルーの世界が一変した。白と金の落ち着いた廊下から、暗い闇が漂う空間へ。その場所は、天体の間によく似ていた。
広々とした空間や高い天井、透き通る白亜の柱の立ち並ぶ雰囲気の中に、うっすらと暗闇が落ちていた。けれどここは、天体の間ではない。特徴的な天体望遠鏡もなければ、フィシスの向かうターフルもなかった。ただがらんとした空間のみが広がっていて、奥には置き去りにされたようなソファがひとつ、置かれているのみだ。そのソファの上に、赤い布が広がっていた。脱ぎ捨てられた、ジョミーのマントだった。
はっとして視線をさ迷わせると、かすかな物音が場に響く。無音の空間にわざと響いたその足音は、ブルーの来訪を歓迎しているようだった。暖かな陽光のような声が、ブルーの名を紡ぐ。振り返って見えたその姿に、ブルーは思わず視線をせわしなく動かしてしまった。
「こ……こんにちは、ジョミー。今日は、いつもの格好ではないのですね」
「うん。この方が楽だから……似合わない?」
体にぴったりと合う、黒の上下だった。長袖のハイネックになっていて、首元をすこしひっぱって緩める姿が艶かしい。そこにあるだけなのに、壮絶な色気を感じさせる姿だった。目の毒である。似合ってはいるのですけれど、と頬を染めて呟くブルーにクスリと笑って、ジョミーはうん、と頷いた。その頷きがどんな意味を持っていたのかは分からないものの、ジョミーはすぐにマントを羽織り、ソファに腰を下ろす。
「おいでよ、ブルー。せっかく来てくれたんだから、近くで話がしたいな。……転移、できるようになったんだね」
ここへ呼んだのはぼくだけど、それでも来てくれるとは思わなかったから嬉しい、と。透き通るような笑みを浮かべて、ジョミーは歩んでくるブルーに向かって手を差し出した。そっと手を重ねて来たブルーの腕を引っ張り、ジョミーは少年の体をソファの上に上げてしまう。そして腕を伸ばして、ぎゅっと抱きしめた。
「ずっときみを待ってたんだ……もう、離さない。ぼくの傍に居て、ブルー。……いなく、ならないで」
途方もない祈りのように、言葉が落とされる。触れ合ったぬくもりが広がって、鼓動ごと一つに溶けてしまうような感覚に包まれた。胸が熱くて、息が苦しい。けれど、ひどく、安心する。すがりつくようなジョミーの背にそっと腕を回して、ブルーはうん、と頷いた。そっと背を撫でて、あやすような微笑みで、傍に居ます、と囁きを落とす。そうすることが、ごく当然のように思えた。それでいて、深い喜びを感じていた。
二つの体温が一つに重なるまで、二人はじっとして離れなかった。ブルーに離れるつもりはなかった。ジョミーにも、本当ならなかっただろう。それでもジョミーはしばらくすると腕を離し、すこし寂しげな笑みを浮かべてブルーを見つめた。二つの体が、決して一つに溶け合いはしないのだと、知ってしまった笑みだった。沈黙するブルーに、ジョミーは優しく微笑みかける。それからゆっくりと、ソファから立ち上がった。
「こんなに早く、きみが成長してしまうだなんて思わなかった」
喜びが深く踊り、悲しみが眠る声だった。矛盾が綺麗に溶け込んだ声に、ブルーは思わず目を伏せる。シロエの言葉が悔しくて、無理に力を引き出してしまった感覚があるだけに、眠る悲しみに胸が痛んだのだ。ごめんなさい、と呟くブルーに、ジョミーは慌てて首を振る。
「違う、違うっ。ブルーのせいじゃなくて……ああ、もう、もどかしい。こうしたほうが早いかな」
声から感情を受け取れるくらい、きみの力が解放されているのなら、と微笑んで。ジョミーはソファに座るブルーの前に膝をつき、その手を取って己の胸へと導いた。ぴったりと手のひらを胸に押し付けさせられて、ブルーは動揺に言葉が出ない。それは、人を魅了して止まない炎に魅入る感覚に似ていた。胸が躍る。訳の分からない興奮に、指先が甘くしびれる。眩暈が、する。すこし怖いのに、目が離せない。
どうしても、どうしても。目をそらすことだけができない。息苦しいほど、甘美な感覚。なんとか息を吸い込んで、ブルーはジョミーの名を呼んだ。ジョミーはやんわりと微笑して、きみに向けた悲しみじゃないんだよ、と告げる。
「分かる? 感じ取ってくれる、かな。ぼくの心。ブルー、きみに向けるぼくのこころを、受け止めてくれる?」
手のひらから。指先から。布越しに伝わる体温と鼓動から。ひとつの吐息を二つに分け合うような親密さで。心の奥深くに、そっとそっと、目を向けて。輝く小石を拾い上げるように。
「ぼくが、きみをどれだけ待っていたか。きみを、どれだけ好きなのか。ねえ、ブルー」
どうか読み取って、と。繊細な音色のように誘われ、ブルーは目を閉じて意識を集中させた。それは、複雑に編まれたリボンを、傷つけないようにほどく作業によく似ている。丁寧に、慎重にリボンをほどいて、緩めて、箱の中に隠された輝きを取り出して。触れれば、流れ込んでくる想いに涙が溢れた。愛しい、と。心が歌っていた。愛しい、恋しい、嬉しい、と。この喜びを、どう言葉にあらわそう。なんの、言葉で。
あまりに深い優しさだった。あまりに尊い、愛しさだった。それなのに理由を求めてしまった己を、ブルーは深く恥じた。この途方もない感情の前で、そんなものは無意味だ。理由など、いらない。ただ喜びだけが溢れている。涙に喉を引きつらせながら目を開くと、出迎えてくれたのは新緑の翠だった。泣かせるつもりじゃなかったんだよ、と苦笑しながら手を伸ばして距離を寄せ、ジョミーは頬を伝う涙に唇を寄せる。
こく、と喉が動いた。
「……甘い」
そんな筈ないでしょう、と熱に溶けそうになる思考を必死に動かして、ブルーはジョミーを睨みつける。けれどその睨みすら、愛おしさに緩んだ表情に出迎えられて持続することはかなわない。仕方のないひと、とブルーは思う。その想いのまま腕を伸ばせば、ジョミーは笑いながらブルーに抱きしめられてくれた。ブルーが抱きしめてしまうには、すこし大きい体だった。実際年齢でも、外見年齢でも差があるのだ。
仕方のないこととはいえ、それがなんだかブルーには悔しい。はやく大きくなりますから、と憮然とした声で言えば、ジョミーは細かく肩を震わせて笑った。うん、期待して待ってる、と言葉が続けられて、ブルーはジョミーを強く抱きしめた。かすかに慌てた声が響くのが、とても嬉しい。ブルー、と名を呼んで不安げに見つめてくるジョミーの目尻に唇を落として、ブルーはにっこり笑顔を向けた。
「うん。シロエには渡しません、から」
「え。そこでなんでシロエ? ブルー、シロエと仲良しだよね?」
はいライバルです、と素直に頷きながら告げたブルーに、ジョミーは数秒間沈黙した。意味がよく分かっていないようだった。んん、と呟いて首が横に傾くのを、ブルーは微笑みながら見守る。泣いてしまうほど制御できなかった感情が、やけに落ち着いているのを自覚した。好きで、ブルーが好きで大好きで仕方がないジョミーの心を知って、安心したのかも知れない。そして、だからこそ、ブルーは問いかけた。
「理由を……教えてくれますか、ジョミー。それでもある、と言った理由を。どんなものでも、ぼくは」
きっと喜びで心を揺らすから、と告げるブルーに頷いて、ジョミーはすっと立ち上がった。そしてブルーから数歩距離を置くと、くるりと振り返って静かに笑みを浮かべる。柔らかな悲しみが、空気を揺らした。それは先程ブルーが感じ取った、喜びの中に眠る悲しみと同じものだった。空気を吸い込む唇が、言葉を発するために開かれる。神聖な空気をまとって、それでもジョミーは微笑んでいた。
「ぼくは、きみという存在をずっとずっと待っていた。ぼくの世界に夜を与える、月の化身。安らぎをくれる存在。そんなものを、ぼくは、ずっと、ずっと、この幾年……待って、きみを見つけた。きみはぼくの安らぎ。だからぼくは、きみにほとんど無条件の好意を感じてる。理由なんかなくてもって言ったのは、そういうことだよ、ブルー。そして君が知りたがった、それでも在る理由は……きみがぼくの、後継者だから」
「後継者……?」
「そう。後継者。ソルジャーの名を継ぎ、長の座を継ぎ、ミュウたちを守り導く存在が、ぼくにはどうしても欲しかった。……ぼくの力は、あとすこしで消えてなくなる。だからその前に、ぼくの後を継ぐ者が欲しかった。強い意志を持ち、強い力を持ち、ぼくの心を受け継いでくれる者。探していた。そして、見つけた。……きみだよ、ブルー。ぼくの愛しい月にして、新しいソルジャー」
きみを見つけて、どれほど嬉しかっただろう。そしてどれほど、かなしかっただろう。きみという存在がこれ程までに嬉しいのに、理由なく愛せないことが、どれほど悔しかっただろう。きみはきみであるだけでよかったのに。それだけで満足だったのに。強大な力を秘め、意思を持って進んでいけるきみが、なにより嬉しくてかなしい。嬉しくて、悲しい。愛しい。揺れる、揺れる。ジョミーの心が、伝わって。
うっとりと、ブルーは微笑んだ。ジョミーを苦しめる理由が、ブルーにはなにより嬉しかった。綺麗な感情ではない。どろりとしている、それは独占欲だった。長く生きたこの人の、なにより大切な存在でありながら、なにより必要な存在としても求められていることの喜び。それがブルーに笑みを浮かばせ、ジョミーの苦しみを和らげる。大丈夫、とブルーは言った。そして苦しげに顔をゆがめるジョミーに、ささやく。
「嬉しいです、ジョミー。ぼくは、すごく嬉しい……だから、どうか悲しまないで下さい」
「ブルー。ホント?」
「ええ。ぼくはまだまだ力不足で、あなたの後継者を名乗ることも、早いかも知れないけど……あなたの傍で」
いつか、ソルジャー・ブルーと名乗れるように。そう告げるブルーに、ジョミーは太陽のような笑みを浮かべた。その笑顔がなにより、ブルーには嬉しい。綺麗な、綺麗なミュウたちの太陽。ジョミーにはなにより、笑顔が似合うから。その笑顔を守る為なら、どんなことでもしたいと思って。ブルーはああ、と心の中で息を吐く。分かってしまった。すこし前から感じていた不思議な苛立ちや、心の揺れの正体が。
分かるには早すぎる感情だと、ブルーはそう思って息を吐く。力を満足に扱えない状態で、自覚したくない気持ちだった。けれど、分かってしまったのだから仕方がない。受け入れて、せめて振り回されないようにしなければいけないと思った。シロエもきっと、そうなのだろう。ジョミーに対して、ブルーと同じ想いを抱いているのだろう。だからシロエは、ブルーをライバルだと言ったのだ。友達で、けれど、ライバル。
ああ、とブルーは微笑む。揺れる、揺れる、心をそっと抱きしめて。灯る熱を持て余して。ハッキリと、自覚する。不安定に揺れる想い。これは、恋だ。これが、恋だ。これこそが、恋なのだ。綺麗なだけでは終われない感情。綺麗なだけでいたいのに、そうさせてくれない感情。これは、恋だ。恋なのだ。ふと目を伏せるブルーの心は綺麗に遮蔽されていて、ジョミーには読み取ることができない。
「……ブルー?」
「いえ。なんでもありません、ジョミー。大丈夫」
それより、とブルーはやんわり微笑んだ。ここはどこで、なにをしてらしたのですか、と。問いかける前に扉が開いて、怒りに怒ったハーレイが、行方をくらませていた『あのひと』、こと、ジョミーを捕まえに来るまで。ほんの数秒間の、二人きりの世界だった。